本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,907 件)





佐分真

没年月日:1936/04/23

読み:サブリ, シン*、 Saburi, Shin*  佐分真は4月23日未明、滝野川区の自宅画室に於て、遺書3通を遺して縊死を遂げた。享年39。明治31年名古屋市に生れ、大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、同15年白日会員となり、昭和2年1月渡仏、同4年光風会員となり翌年帰朝。同6年帝展第11回に「貧しきキヤフエ」を出品して特選となつた。同年秋再渡仏し、翌年帰朝、同8年帝展第13回に「画室」が、又翌年の第14回に「室内」が特選となつた。同9年東宝劇場に美術部嘱託として入社、翌年同劇場に壁画を執筆した。10年の帝院改組に際しては第二部会に参加せず、白日会及光風会を脱会して独自の立場を守つた。晩年諸雑誌に随筆を多数書いた。彼は親の遺産を受け継いで画家には稀な富豪であつた。11年9月銀座松坂屋に遺作展開催せられ、作品約百点が出陳され、同時に遺作集、遺稿が上梓され、生前の知己に頒たれた。又佐分賞が設立された。

紀淑雄

没年月日:1936/04/15

 早稲田大学教授、日本美術学校長紀淑雄は4月4日卒倒し爾来淀橋区の自邸で加療中同15日午後逝去した。享年65。明治5年東京に生る。同26年元東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業、同29年同校の講師となり、同30年、帝国博物館より帝国美術略史編纂掛を嘱託せられ、同33年同編纂常務委員となつた。 同34年より40年まで国華社発行「国華」の解説起草主任を嘱託され、同44年早稲田大学教授に就任、爾後東洋並西洋美術の講座を担当した。同年並翌年及大正2年には美術審査委員会委員を仰付られ、同45年更めて東京帝室博物館より美術部編輯委員を嘱託され、大正13年迄勤務した。大正6年4月、美術研究所を設立し翌年4月、日本美術学校と改称、校長に就任し現在に至る。彼は我が国美術批評の先覚者として明治大正の美術界に貢献せる所多大であつた。左に著書目録を掲げる。書名 発行所小山田興清伝日本帝国美術略史 帝室博物館 故福地復一郎編日本美術集成 帝室博物館Japanese Art Folio(日本美術帖) 小川一真真美大観 日本真美協会 第3輯ヨリ第12輯迄解説起草日本精華 第1輯より第8輯迄編輯其の他「開国五十年史」(大隈重信侯編輯)中、美術に関する事項を起草。「日本百科大辞典」(三省堂発行)中、東洋美術に関する項目を起草。「文芸百科全書」(早稲田文学社発行)に日本絵画史、支那絵画史を起草す。

尾崎夏彦

没年月日:1936/04/11

読み:オザキ, ナツヒコ*、 Ozaki, Natsuhiko*  元美術研究所嘱託尾崎夏彦は病気の為昭和9年以来職を退き、平塚海岸で療養中であつたが、4月11日逝去した。享年36。尾崎紅葉の長男として明治34年東京に生れ、昭和2年東京帝国大学文学部美術史科を卒へ、国際聨盟協会学芸協力委員会の嘱託となつて英文日本美術年鑑編纂に従事、昭和7年美術研究所に入つて明治大正美術史編纂に着手したが途中病を得て遂に起たなかつたものである。

工藤繁造

没年月日:1936/03/28

 日本美術院々友で、青森県立弘前工業学校の彫刻図画嘱託教師であつた工藤繁造は病気の為37歳で夭折した。農家に生れ自由労働者をしながら彫刻に精進し、前田照雲に約1年間師事した外は独力で勉強し、大正13年院展入選以来「村童」「雪路」「山鳩」「添乳」「俵結ぶ男」「牡鶏」等を殆ど毎年出品、昭和8年院友に推薦された異色ある作家であつた。

石川寒巌

没年月日:1936/03/25

読み:イシカワ, カンガン*、 Ishikawa, Kangan*  日本南画院同人石川寒巌は盲腸炎で赤十字社病院に入院中3月25日逝去した。享年47。名は寅寿、明治23年2月11日栃木県那須郡に生る。同42年大田原中学卒業後、秋上京し、故佐竹永邨に師事、同44年春病気の為帰省し、大正9年秋再度上京、小室翠雲の門下となり、同14年9月日本南画院の同人に列した。作品略年表(年次) (年齢)大正14年 36 日本画会展「麓」1等賞大正14年 36 日本南画院「煙雨」昭和5年 41 日本南画院「一芳四鮮」昭和6年 42 日本南画院「仔牛」「十六賞心事」昭和7年 43 日本南画院「松石不老」「碧岩画冊」昭和8年 44 日本南画院「雪文」「桃花扇伝奇」昭和9年 45 日本南画院「永春」「世説新語冊」

石野龍山

没年月日:1936/03/06

 石川県美術工芸界の元老として知られた金沢市の石野龍山は3月6日午前零時半脳溢血の為急逝した。享年77。文久元年金沢に生れ、陶磁器絵工として其の功績多く、昭和6年帝国美術院で推薦され、加賀九谷陶磁器組合顧問、石川県工芸奨励会名誉会員、石川県下出品人奨励会副会長などの職に在り、其の逝去は九谷焼界を初め県下美術工芸界の大きな損失として惜まれる。

河合新蔵

没年月日:1936/02/15

 我が水絵界の先輩、旧帝展無鑑査、太平洋画会、第二部会々員、河合新蔵は1月以来病気の為京都帝大病院に入院加療中であつたが2月15日逝去した。享年70。無涯と号す。慶応3年5月27日大阪市に生る。明治24年東京に出で初め五姓田芳柳に学び、後小山正太郎家塾不同舎に入学した。同34年10月米国経由にて渡欧、巴里に2年半留学、ラフアエル・コランに師事し、同37年帰朝。爾来京都市に居住し、関西洋画壇の為貢献する所が大きかつた。

赤塚自得

没年月日:1936/02/01

 帝国美術院会員赤塚自得は胃潰瘍を病み、芝区の自宅で加療中のところ2月1日逝去した。享年66。葬儀は同月3日芝教会で行はれた。赤塚家は代々漆芸を以て家業とし、平左衛門を名乗り、彼は七代目に当る。蒔絵を専門とし現代漆芸界の巨匠であつた。明治4年東京市芝区浜松町に生る。同18年狩野久信に就て日本画を、翌年蒔絵を先考に学ぶ。20年勧学義塾の中等科に学んだ。尚明治43年には寺崎広業に就て日本画を、又同45年に白馬会洋画研究会に於て洋画を修めた。明治40年、東京勧業博覧会審査官、東京府美術工芸展の審査員に就任し、大正元年、日本美術協会の審査員に、同12年日本工芸協会の理事となつた。同13年工芸済々会の創立委員となり、昭和2年、日本美術協会展の審査主任、日本工芸美術会の創立委員となり、又帝展及商工省工芸展の審査員を仰付られた。同4年商工省工芸調査会の委員に任命され、翌年帝国美術院会員に任命された。

中条精一郎

没年月日:1936/01/30

読み:チュウジョウ, セイイチロウ*、 Chujo, Seiichiro*  建築家中条精一郎は腎臓結石の為1月11日以来慶応病院に入院加療中であつたが、同30日遂に逝去した。享年69。明治元年4月18日米沢に生る。同31年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、同36年渡欧、英国剣橋大学に学び同40年帰朝。翌年工学博士曾禰達蔵と共に曾禰中条建築事務所を創立し、爾来専ら建築設計監督の事に従ひ、今日に及ぶ。大正7年会計検査院技術顧問員を嘱託され、同8年工芸審査委員会委員仰付らる。建築学会並に日本建築士会に関係し、前者に於ては副会長に、後者に於てはその創立者の一人として?々会長に就任し、建築界に寄与せる所多大であつた。又国民美術協会の会頭に前後2回就任し、海外美術の紹介其の他美術界の為に尽力して貢献する所が多かつた。彼の建築作品は「建築雑誌」(第50輯第612号)掲載の目録によると庁舎学校20、銀行会社ビル33、会館14、病院7、工場倉庫12、博覧会建築6等の多数に上るが、極く主なる作品を挙げれば左の通りである。 慶応大学図書館、同大講堂等、鹿児島県庁舎、海上ビル旧館、同新館、大日本雄弁会講談社、三越新宿支店、日本郵船株式会社、三井銀行大阪支店、同名古屋支店、明治屋ビル、如水会館、華族会館、慶応病院。

坪井九馬三

没年月日:1936/01/21

読み:ツボイ, クメゾウ*、 Tsuboi, Kumezo*  考古学の権威、元東大文学部教授文学博士坪井九馬三は豫て病気療養中であつたが1月21日午後逝去した。享年78。岐阜県の出身。彼の専門は西洋史学にあつたが、凡そ朝鮮史にあれ蒙古史にあれ、史学各分野に於てその啓発せるところ少くなく、又補助学として古文書学、金石学、歴史地理学、言語学、考古学に対しても多大の関心を寄せ、或は本邦銅鐸及支那鏡鑑の研究に、或は東西文化の交渉に関する研究に新機運を促す等、考古学界に対して史学者の立場から多大の示唆と鞭撻を与へた。昭和5年三宅博士の後を承けて考古学会の会長に就任し逝去の日に及んだ。

原田和周

没年月日:1936/01/16

読み:ハラダ, ワシュウ*、 Harada, Washu*  春陽会々友原田和周は豫て肝臓癌のため加療中であつたが1月16日逝去した。享年42。明治28年静岡県磐田郡に生る。大正3年日本美術院洋画部の研究員となり数回院展に出品して同6年同院々友に推薦された。この頃原田恭平と称す。大正11年以降春陽会展第1回より毎回出品し、聚文と号したが、昭和8年和周に改めた。その遺作は11年度春陽会展に油絵10点が陳列され、更に同年7月銀座日動画廊に遺作展が開催された。故人の作風に就ては山本鼎が同遺作展案内状に認めた紹介文の一節を掲げる。 「胸の病をもつた此の人は、田園生活を続けましたから、絵のモテイフは概ね田園の景物です。着実な印象派系統の仕事を以て始終し、前期のものは質朴な筆致と寂のある調色が特色ですし、後年のものは、敢て筆致をころした重厚なマチエールと、鮮麗な陽色が目を惹きます」

岸浪柳渓

没年月日:1935/12/10

読み:キシナミ, リュウケイ*、 Kishinami, Ryukei*  名静司。安政2年江戸に生る。田崎艸雲及福島柳圃に師事した。享年81。

橋本平八

没年月日:1935/11/01

読み:ハシモト, ヘイハチ*、 Hashimoto, Heihachi*  明治30年三重県に生れ、大正8年上京翌年佐藤朝山に師事、大正11年秋日本美術院展に初入選。大正13年日本美術院々友に推挙され、昭和2年同院同人に推された。昭和10年6月新帝国美術院展覧会規則に拠り、指定された。第15回院展の「石に就て」、第19回院展の「アナンガランガのムギリ像」、第1回聖徳太子奉賛展出品の「羅漢」等は其の代表作である。享年39。

陽咸二

没年月日:1935/09/14

 明治31年東京に生る。大正4年小倉右一郎に入門、大正7年文展に「老婆」を出品して初入選、同11年には帝展に「壮者」を出品して25歳にして特選となつた。此の時には既に「老婆」に示された写実主義は一転して、ギリシヤ彫刻クラシツク時代前期の影響を受けた様式化を示して居た。此の様式化は其後益々強調されて氏独自の様式を樹立するに至つた。昭和2年には構造社客員に、同4年には構造社会員となつた。昭和10年6月新帝国美術院の展覧会規則によつて指定された。前記「壮者」の外「降誕の釈迦」「サロメ」「千一夜物語」等が彼の代表作として挙げられる。享年38。

山本匡士

没年月日:1935/09/03

 名正造、明治28年香川県に生る。大正2年香川県立工芸学校卒、後岩村哲斎に就きて漆芸を学んだ。京都工美展に於ては数回入賞し帝展には昭和9年入選した。京漆園なる漆器工場を経営して居た。享年41。

石本暁曠

没年月日:1935/08/23

 名恒介、明治21年島根県に生る。38年京都美術工芸学校卒、後米原雲海に師事昭和6年帝国美術院より推薦せられて帝展無鑑査となり、昭和8年京都市美術工芸学校の教員に任命せられた。享年48。

牧雅雄

没年月日:1935/08/14

 明治21年神奈川県に生る。太平洋画会研究所彫塑部に彫塑を修め、主として藤井浩祐の指導を受けた。昭和2年日本美術院同人に推された。享年48。

木村五郎

没年月日:1935/08/01

読み:キムラ, ゴロウ*、 Kimura, Goro*  明治32年東京に生れ、大正4年東京高工附属徒弟学校卒業後山本端雲に就いて木彫を習つた。後石井鶴三の風を慕つて其の指導を受け、又同氏の推薦で大正8年日本美術院研究会員となつた。翌10年「簸の川上の素盞雄尊」外1点が院展に初入選となり、大正15年には日本美術院の院友に挙げられ、昭和2年9月同院同人に推された。作る所は主として木彫でそれも小品を得意とした。享年37。

関野貞

没年月日:1935/07/29

読み:セキノ, タダシ*、 Sekino, Tadashi*  工学博士、東京帝国大学名誉教授。慶応3年12月15日旧高田藩士の家に生れ明治28年工科大学造家学科を卒業、翌29年東京美術学校講師となり、爾来東洋及び日本建築史を講じて今日に及び、又同年内務省嘱託として古社寺保存計画に参与し、次いで奈良県技師として古社寺の修理を担当し傍大阪に於ける日本生命保険会社本社の設計に従事した。右は博士の設計に掛る唯一の洋式建築である。 明治34年工科大学助教授に任ぜられ内務省文部省並に造神宮技師を兼任し翌明治35年6月韓国へ出張を命ぜられ、初めて同国建築の調査研究に手を染めた。次いで法隆寺金堂塔婆及中門非再建論、平城京及大内裏考等を発表し、41年工学博士の学位を授けらる。同年韓国度支部より古建築調査に関する調査を嘱託せられ、大正4年始めて朝鮮古蹟図譜第1冊を編纂し爾来引続き15冊を公刊した。大正6年の之が功績に対し、仏国学士院金石学及美文学院よりスタニスラスジユリアン賞金を贈らる。大正7年建築史研究の為支那、印度、英、仏、伊の諸国に留学を命ぜられ、同9年帰朝、直ちに教授となり、従前の通り内務、文部両技師を兼任し、古社寺(現今の国宝)保存会委員、史蹟名勝天然紀年物調査会臨時委員、学術研究会議員等被仰付、昭和3年依願本官を免ぜられ、次いで東京帝国大学名誉教授の称号を授けられた。 昭和4年4月東方文化学院東京研究所の設立せらるるや其評議員となり併せて研究員として支那歴代帝王陵の研究に従事し、同8年其の研究を完了し、引続き遼金時代の建築の研究に当り、既に遼金時代の建築と其仏像図版上下2冊を公刊し之と同時に熱河の諸建築の研究を遂げ図版4冊を公表し、更に日満文化協会評議員として幾多の研究問題其他重要なる提案をなし着々其の功を収めつつあつた。 博士の我美術史界の先覚として今日に至る迄の業績は到底一旦にして数ふべからず、今その訃に接して唯茫然たるものがあるが、就中その直前に最も力を注いで居た大陸半島美術に関する研究が凡て半途に終れるの痛嘆に余りあるを思ふのである。享年69。 次に博士の今日迄に公表せられたる最も主要なる著作を挙げてその迹を偲ぶ。一、天平創立の東大寺大仏殿及其仏像 建築雑誌第182、183号(明治35年2、3月)一、韓国建築調査報告、東京帝国大学工科大学学術報告第6号(明治37年8月)一、法隆寺金堂、塔婆及中門非再建論 建築雑誌第218号(明治38年2月)一、平城京及大内裏考 東京帝国大学紀要工科第3冊(明治40年6月)一、朝鮮古蹟図譜 既刊15冊解説第4冊迄 朝鮮総督府(大正4年ヨリ)一、支那山東省に於ける漢代墳墓表飾 図版1冊本文1冊 東京帝国大学紀要工科第8冊第1号(大正5年)一、支那仏教史蹟 常盤大定博士共著、図版5冊解説5冊 仏教史蹟研究会(大正14年ヨリ昭和4年迄)一、楽浪郡時代之遺蹟 図版上下2冊本文1冊朝鮮総督府(大正15年)一、瓦 雄山閣(昭和3年)一、高句麗時代之遺蹟 図版上下2冊本文未完朝鮮総督府(昭和3、4年)一、支那建築 塚本、伊東両博士ト共著 図版2冊解説2冊 建築学会(昭和4年ヨリ7年迄)一、朝鮮美術史 朝鮮史学会(昭和7年)一、支那工芸図鑑 瓦磚編及玉石工雑工編 帝国工芸会(昭和8年)一、熱河 図版4冊本文未刊 座右宝刊行会(昭和9年)一、遼金時代の建築と其仏像 図版上下2冊本文未刊 東方文化学院東京研究所(昭和9、10年)(以上美術研究昭和10年8月号より転載)

本間憲之助

没年月日:1935/07/22

 明治38年山形県に生れ、昭和6年日本美術学校卒業、昭和5年帝展初入選、其の後構造社に出品していた。享年31。

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