本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





青戸精一

没年月日:1944/09/17

文部省科学局調査課長青戸精一は9月17日逝去した。享年43。明治35年島根県に生れ、昭和2年東大法学部政治科を卒業後、東大農学部大学院に入り農政学を修めた。昭和4年文部省に入り、12年文部書記官、宗教局保存課長となり、18年科学局調査課長となつた。在任中法隆寺の保存事業に尽す所が多かつた。

荒木十畝

没年月日:1944/09/11

帝国芸術院会員・旧姓朝長・本名悌二郎、明治5年9月長崎県に生れ、明治25年21歳の時上京して荒木寛畝に師事し、翌年荒木家の嗣子となる。始め琴湖と号したが、この時十畝と改めた。28年日本美術協会に入り、30年には末松謙澄の日本画会創立に参画してこれが牛耳を執り、30歳にして父寛畝の後を襲つて女子高等師範学校講師となり、幾何もなく教授に進んで爾来十数年我が国の絵画教育に多大の貢献をなした。明治37年米国聖路易の万国博覧会に出品して銀牌を受け、明治40年文部省美術展覧会が開かれるや同志と共に正派同志会を組織して之と対抗したが、同展第2回には迎えられてその審査員となり、3回以来引続き審査委員として年々力作を発表、大正8年帝展第1回展に「黄昏」を出品して非常な好評を博し、2回には審査委員に挙げられ、大正11年には日華連合絵画展覧会を開き日華の文化提携に尽瘁した。12年帝国美術員会員に推され、毎回出品、昭和6年には暹羅に於ける日本美術展覧会を計画して成績をあげ、14年には再び日華文化親善の途を拓こうと支那に遊んで功績をあげた。晩年画室を大磯に移し、更に箱根仙石原に移して制作三昧に入ろうとしたが19年9月1日突如心臓麻痺を以て長逝した。行年73歳。法名開悟院十畝日顕居士、新宿区浄輪寺に葬つた。著書に「東洋画論」がある。略年譜明治5年 長崎県に生る、父は平蔵、母は寿賀、兄妹数名あり明治25年(21歳) 上京、荒木寛畝に師事す明治26年(22歳) 荒木寛畝の養嗣子となる明治28年(24歳) 日本美術協会員となる明治30年(26歳) 日本画会の組織に参画す明治34年(30歳) 東京女高師の講師となる明治37年(33歳) 米国聖路易万国博覧会に「秋汀群鴨」を出品し銀牌受領明治38年(34年) 日本美術協会展に銀賞受賞明治40年(36歳) 文部省美術展覧会開設されるや同志と共に正派同志会を組織対抗す明治41年(37歳) 文展第2回に審査員となり「渓流」を出品明治42年(38歳) 第3回文展に審査員「夏景山水」と「雨後」を出品明治43年(39歳) 日英大博覧会に出品金牌受領、第4回文展に「歳寒三友」を出品明治45年(41歳) 第6回文展に「園の秋」「葡萄」大正2年(42歳) 第7回文展に「棕梠と蘇鉄」大正3年(43歳) 第8回文展に「雨後」大正4年(44歳) 第9回に審査委員となり「四季花鳥」を出品大正5年(45歳) 第10回文展に審査委員「清妍」出品大正6年(46歳) 第11回文展に「四季花鳥」出品大正7年(47歳) 第12回に「牡丹」大正8年(48歳) 帝国美術院第1回展に「黄昏」を出品、女高師を辞任大正9年(49歳) 第2回帝展に「深山の秋」、第14回読画会展に「残照」大正10年(50歳) 第3回帝展に「松」六曲一双、某家のため「春苑双美」(孔雀牡丹)の大作を揮毫す大正11年(51歳) 日華連合絵画展覧会を主宰し「春暖」を出品、第4回帝展に「秋夕」、秩父宮御成年式に皇后宮よりの命を奉じて四季花鳥屏風を揮毫大正12年(52歳) 帝国美術院会員にあげられ正5位勲4等に叙せらる、日本画会を改革す大正13年(53歳) 第5回帝展に「朝」出品昭和元年(55歳) 聖徳太子奉讃展に「春寒」第7回帝展に「夜梅」出品、「十畝画選」刊行昭和2年(56歳) 第8回帝展「白鷹」、読画会展に「秋圃」出品昭和3年(57歳) 第9回帝展に「鶴」、読画会展に「春」、名古屋勧業博覧会に「茄子」出品昭和4年(58歳) 国際美術展に「雨霽」、読画会展に「鳳凰」出品、日華連合絵画展の開催につき中国に赴き12月帰朝昭和5年(59歳) 第11回帝展に「軍鶏」、読画会展に「海の幸」「萓草」昭和6年(60歳) 日本画会展に「瑞雪」、読画会展に「葡萄栗鼠」、12回帝展に「五位鷺」10月夫人と共に暹羅に赴き同地に日本美術展を開く昭和7年(61歳) 第13回帝展に「寂光」出品、此の年の春暹羅より帰る昭和8年(62歳) 居を市外に移す、第14回帝展に「玄明」、読画会に「白栗鼠」出品昭和9年(63歳) 第15回帝展に「窈冥」、読画会に「九十九島の夕」、日本画会に「けしの花」、京都市主催綜合展に「泰山木」出品昭和10年(64歳) 第27回読画会展に「麗春」「五月雨」「晩秋」「寒空」の四部作出品、台湾美術審査員として同地に赴く昭和11年(65歳) ラジオにて「日本画を新しく吟味せよ」と放送、文展無鑑査部に「雄風」の大作発表昭和12年(66歳) 帝国芸術院創立され会員となる、日本画会に「渓間」、読画会に「四季花鳥」出品、朝鮮美術展に審査員として赴く昭和13年(67歳) 第3回文展に「怒涛」、読画会展に「浅春」出品、6月東京美術倶楽部に個展を開く昭和14年(68歳) 日華連合展の為中国に赴く、読画会展に「駒ケ嶽遠望」「鯉」出品、中央公論に「文展改革論」を発表す昭和15年(69歳) 読画会展に「鷺」出品、大毎東日の美術展に「煙雨」出品昭和16年(70歳) 読画会に「夏二題」出品昭和17年(71歳) 献納画「浄晨」揮毫、第5回文展に「煙雨」、読画会に「雨後」出品、「東洋画論」を上梓す昭和18年(72歳) 献納画「九官鳥」「朝輝」「霊峰」「鷹」を揮毫昭和19年(73歳) 画室を大磯に移し、献納画「秋」を揮毫す、9月10日画室に門弟を集め美術談を試み、翌11日午前11時心臓麻痺を以て逝く、行年73、牛込浄輪寺に葬る、法名開悟院殿十畝日顕居士

本野精吾

没年月日:1944/08/13

京都工業専門学校講師本野精吾は肝臓硬化症のため13日逝去した。享年63。東大工科出身京都高等工芸創立以来図案科科長の職にあり、昭和18年改組と共に教授を辞し講師となつていたものである。

橋田庫次

没年月日:1944/08/06

洋画家橋田庫次は8月6日、逝去した。享年50。明治28年高知県に生れ、本郷研究所に学び故岡田三郎助に師事、大正15年第7回帝展に「後庭」を出品し入選、第10回には「秋草」第12回には「木洩日」第14回には「霜月」、文展第3回に「木かげ」により入選した。その他春台美術会にも出品していた。

楽吉左衛門

没年月日:1944/07/08

楽焼の宗家として知られている第13代楽吉左衛門は7月8日京都上京区の自宅で逝去した。享年58。

野口謙蔵

没年月日:1944/07/05

文展無鑑査、東光会々員野口謙蔵は7月5日滋賀県蒲原郡の自宅で病没した。享年44。野口小蘋の甥にあたり、明治34年滋賀県に生れた。大正13年美術学校卒業彼は郷里にあつて和田英作、平福百穂などに師事し、昭和4年帝展に「梅干」入選、6年、8年、9年と特選になり、昭和13年無鑑査、18年審査員におされた。もつぱら郷土風光を題材に新鮮な詩情をもり、日本風な一つのスタイルを作つた。歌人米田雄郎と親しく歌もよくした。略年譜明治34年 6月17日蒲原郡野口正寛二男として生る。母屋恵大正8年 彦根中学校卒業、東京美術学校西洋画科入学、上京後は伯母野口小蘋宅に止宿大正13年 美術学校卒業、その後はひき続き郷里にあり、和田英作に師事す、また平福百穂に日本画を学び、歌人米田雄郎と交わる昭和4年 第10回帝展「梅干」昭和5年 第11回帝展「蓮」、この年同郡岡崎喜久子と結婚昭和6年 第12回帝展「獲物」(特選)昭和7年 「放生」不出品昭和8年 第14回帝展「閑庭」(特選)昭和9年 第15回帝展「霜の朝」(特選)、東光会第2回展「蓮と少女」昭和10年 東光会第3回展「五月の風景」「初冬の一隅」昭和11年 東光会第4回展「蓮と朝顔」「夕日の家とひまはり」昭和12年 東光会第5回展「野草」「冬日」昭和13年 文展無鑑査となる、第1回文展「応召風景」、東光会第6回「ヒヨドリ」「雪後水村」「晩秋一隅」昭和14年 第2回文展「豆の花」、東光会第7回「朝かげの庭」「冬田と子供」「がくの花」昭和15年 第3回文展「太陽と村落」、奉祝展「朝」、東光会第8回「白梅」「雪後」「草千里」「朝日」昭和16年 第4回文展「畔木の秋」東光会第9回「夕月」「凍る朝」「冬田」「不動尊」昭和17年 東光会第10回「青田の朝」昭和18年 文展審査員となる、文展第6回「望」、東光会第11回「冬草原」「虹のある雪景」、文展審査より帰後身体衰弱す昭和19年 加多児性黄疸と病名決定 7月5日午後永眠す、44歳、家族喜久子のほか二男あり

木崎好尚

没年月日:1944/06/26

木崎好尚は6月26日逝去した。享年80。本名愛吉。慶応元年大阪に生れ、明治26年大阪朝日新聞社に入社、22年間在勤し、大正3年退社後は専ら金石学研究を続け「摂河泉金石文」「大阪金石史」を著し、最後の「大日本金石史」は帝国学士院賞を送られた。晩年は頼山陽、田能村竹田の研究に没頭「頼山陽全書」外数著がある。

大給近清

没年月日:1944/05/31

美術研究所事務嘱託大給近清は5月31日死去した。享年61。明治17年東京に生れ、学習院を経て29年東京美術学校西洋画科を卒業、久しく黒田清輝に師事し、昭和2年黒田清輝の遺産による美術奨励事業開始とともに美術研究所においてその遺作の管理に当つていた。

森田勝

没年月日:1944/05/28

文展無鑑査、春陽会々員森田勝は5月28日信州の自宅で逝去した。享年41。明治37年東京に生れ、万鉄五郎、小林徳次郎に師事、東京美術学校を修了、昭和4年より昭和10年までフランスに留学した。昭和10年春陽会に滞欧作を出陳、春陽会賞を得、11年「アルゼリアの公園」「裸婦」を出品、この年会友となり昭和17年第20回には「柿」を出品した。

池上秀畝

没年月日:1944/05/26

旧帝展審査員池上秀畝は狭心症の為、5月26日下谷区の自宅で死去した。本名国三郎、享年71。明治7年長野県に生れ、早く荒木寛畝の門に入り南北合派を研究し、花鳥画を能くした。明治40年正派同志会第1回展で2等賞銀牌を受け、明治43年第4回文展に「初冬」を出品3等賞、大正5年第10回文展に「夕月」を出品特選となり、大正6年第11回文展に「峻嶺雨後」を出品ふたたび特選となつた。大正7年同志と共に新結社を発表し、文展審査に対抗の気勢を示し、これが文展改革の原因となつた。帝国美術院が創設されるや、日本画部の推薦となり、大正13年には帝展委員に任命された。その後引続き帝・文展に出品、「沼の雨」「渚の月」「秋雨」「老秋」などを出した。伝神洞画塾を主催して多数の門下を育てたが、18年以降は各神宮への奉献画が多い。

橋本永邦

没年月日:1944/05/06

日本美術院同人・文展無鑑査橋本永邦は腹膜炎のため5月6日逝去した。享年59。本名乾。明治19年橋本雅邦の二男として生れ、雅邦・下村観山に師事、明治40年第1回文展に「諸菩薩問維摩説」を出品して3等賞に入り、第3回文展に「采女の眠」第4回に「薬師」を出品、爾来院展に毎回出品、大正10年に美術院同人となつた。その主な作品をあげれば、大正13年、第11回院展「朝の楼廓」大正15年第13回「山姥」昭和6年18回「湍怒」昭和9年21回「せせらぎ」昭和11年23回「二人静」昭和14年26回「邯鄲」等がある。

松岡寿

没年月日:1944/04/28

洋風画界の長老元東京高等工芸学校校長松岡寿は、4月28日横須賀市の自宅に於て、慢性腸カタルのため逝去した。享年83。文久2年2月5日岡山に生れた。父は岡山藩士松岡隣にして、洋学研究の先駆者であつた。明治5年11歳の時父に従つて東京に移つた。同年川上冬崖の聴香読画楼に入門して初めて西洋画法を問い、又陸軍省偏教師仏蘭西人アベル・ゲリノーに就て図学を学んだ。明治9年工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージに師事した。同11年フオンタネージの後任フェレッチに慊らず、同志と退学して十一字会を組織し研鑚に努めた。同13年羅馬に留学し、羅馬美術学校名誉教授チェザーレ・マッカーリ Cesare Maccari に師事し、同16年国立羅馬美術学校に入学した。明治20年同校を卒業し、同年10月巴里に移り、翌21年11月帰京した。同22年同士と共に明治美術会を組織し、洋風画の啓発に努めた。同会展覧会に「父の像」「売卜者」等を発表した。又同25年には明治美術会に属する明治美術学校の創立に参画し、その経営と指導に尽瘁した。明治23年第3回内国勧業博覧会以来、屡々内外博覧会 鑑審査官となり、明治40年文部省美術審査委員会の設置と共に委員に選ばれ、大正2年第7回文部省美術展覧会に及んだ。又夙く明治30年に農商務省商品陳列館長に任ぜられ特許局審査官を兼ね、大正2年農商務省の図案及応用作品展覧会の創設に尽力してその審査員となり、美術工芸の発達に寄与するところがあつた。又教育家としては、明治25年以来工科大学造家学科の装飾画及び自在画の授業を担当し、明治39年には東京高等工業学校教授に任ぜられ、工芸図案科長となり、大正3年東京美術学校教授を兼ねた。同8年東京高等工芸学校創立委員を嘱託され、同10年同校々長に任ぜられ、多くの後進を誘掖した。その生涯の業績は、美術教育家或は行政家として大きいが、作家としては伊太利亜の官学派を伝え、上述の作品のほか、留学時代の「西班牙闘牛者」「伊太利ベルサリエーレの歩哨」大正7年大阪公会堂の為に描いた天井壁画「伊邪那岐・伊邪那美の二神の図」、昭和3年明治神宮絵画館のために描いた壁画「兌換制度御設定」昭和14年製作の「海老名弾正氏肖像」等がある。略年譜文久2年 2月5日岡山藩山屋敷に生る、父は岡山藩士松岡隣、母は同藩士人見宗元の妹なり明治5年(11歳) 父に従い東京に移る、川上冬崖の聴香読画楼に入門洋画を学ぶ、陸軍省雇教師仏国人アベル・ゲリー氏に図学を学ぶ明治9年(15歳) 工部大学校附属美術学校創設せられ、これに入門しアントニオ・フォンタネージに師事す明治11年(17歳) フォンタネージの後任フェレッチに慊らず同志と退校願書を出す、同志と十一字会なる団体を組織して研鑚に力む明治13年(19歳) 伊太利、羅馬に留学す、羅馬美術学校名誉教授Cesare Maccariに師事す明治16年(22歳) 国立羅馬美術学校に入学す明治20年(26歳) 羅馬美術学校卒業証書を受く、羅馬を去り巴里に移る明治21年(27歳) 10月帰朝す明治22年(28歳) 同志と明治美術会を組織す、10月任陸軍教授叙奏任官5等明治23年(29歳) 第3回内国勧業博覧会審査官被付明治25年(31歳) 明治美術会附属美術学校に於て洋画を指導す、工科大学講師を嘱託さる、臨時博覧会事務局監査官被仰付明治28年(34歳) 第4回内国勧業博覧会審査官被仰付、妙技2等賞を授けらる明治30年(36歳) 農商務省商品陳列館技師に任ぜられ、商品陳列館長を命ぜらる、兼任農商務省特許局審査官明治32年(38歳) 農商務省特許局審査官臨時博覧会鑑査官被仰付明治33年(39歳) 東京高等師範学校洋画講師を嘱託さる明治36年(42歳) 第5回内国勧業博覧会審査官並に臨時博覧会鑑査官被仰付明治39年(45歳) 任東京高等工業学校教授叙高等官4等明治40年(46歳) 東京勧業博覧会審査官を嘱託さる、美術審査委員会委員被仰付明治42年(48歳) 日英博覧会鑑査官被仰付明治43年(49歳) 美術審査員被仰付、伊太利万国博覧会美術品出品鑑査委員を嘱託さる明治44年(50歳) 美術審査委員被仰付明治45年(51歳) 第2回東京勧業展覧会審査員を嘱託さる、美術審査委員被仰付大正2年(52歳) 美術審査委員会委員被仰付、農商務省第1回図案及応用作品展覧会審査委員を嘱託さる大正3年(53歳) 東京大正博覧会第二部出品鑑査員、博覧会審査官を嘱託さる、第2回図案応用作品展覧会鑑査委員を嘱託さる、臨時博覧会鑑査官被仰付、兼任東京美術学校教授、叙高等官3等大正4年(54歳) 第3回図案及応用作品展覧会審査員を嘱託さる大正5年(55歳) 第4回図案及応用作品展覧会審査員を嘱託さる大正6年(56歳) 大阪公会堂壁画の揮毫を完成す、第5回図案及応用作品展覧会審査員を嘱託さる大正7年(57歳) 第6回工芸展覧会審査委員を嘱託さる大正8年(58歳) 工芸審査委員会委員被仰付、東京高等工芸学校創立委員を嘱託さる大正9年(59歳) 工芸審査委員会委員被仰付大正10年(60歳) 工芸審査委員被仰付、任東京高等工芸学校長、叙高等官2等、1級俸下賜大正11年(61歳) 叙勲4等賜瑞宝章、工芸審査委員会委員被仰付大正12年(62歳) 依願免東京高等工芸学校長大正14年(64歳) 任東京高等工芸学校長叙高等官2等、1級俸下賜大正15年(65歳) 工芸審査委員会委員被仰付昭和2年(66歳) 叙勲3等賜瑞宝章、日仏展覧会委員嘱託昭和3年(67歳) 明治神宮聖徳壁画兌換制度御治定の図を完成す、陞叙高等官1等、依願免東京高等工芸学校長、仏蘭西政府よりL. Officier de instruction Publique章を贈らる昭和10年(74歳) 東京府養生館歴史画仁徳天皇の図を描く昭和12年(76歳) 東京府養生館歴史画皇太子殿下御外遊の図を完成す昭和19年(83歳) 4月28日没

外狩素心庵

没年月日:1944/04/22

素心庵外狩顕章は4月22日急性肺炎の為逝去した。享年52。明治26年愛知県に生れ、曹洞宗大学を出て、大正2年二松学舎を卒業、同年中外商業新聞社に勤務、美術記者として独自の境を開いた。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に関する造詣深く、美術骨董界に貢献する所大きかつた。大正13年同社学芸部長、昭和3年参事、昭和18年嘱託となつた。又、多趣味で知られ、書道・絵に達し、詩や句も作つたが、ことに南画は数回展覧会に出品したことがある。遺著も数種ある。

幡恒春

没年月日:1944/04/17

挿絵画家幡恒春は4月17日逝去した。享年62。明治16年生れ、同39年大阪朝日新聞に入り、16年間挿絵を担当した。村上浪六の挿絵に独自の筆致を認められていた。

渡辺一

没年月日:1944/03/23

美術研究所嘱託渡辺一は昭和15年2月応召、中支を経てビルマに転戦、インパール戦線に於て3月23日戦死した。享年41。明治37年新潟県長岡市に生れ、県立長岡中学から第一高等学校を経て、東京帝国大学美術史科を卒業、同時に京城帝国大学法文学部に赴任し、田中豊蔵、上野直昭教授の助手となつたが、同5年辞職し、次いで同6年帝国美術院附属美術研究所の嘱託となつた。その後草創当時の美術研究所のために正確綿密な頭脳と真摯な実行力を駆つて資料の蒐集、索引等の作成及び整備につとめ、又創刊当初の機関誌「美術研究」の編輯に力を注ぎ、昭和10年には九州帝大法文学部の依嘱をうけて「日本上代絵画史」の講義に赴いた。弱冠にして既に稀に見る博識をうたわれたが、特に研究題目は中国絵画史の禅宗系統のもの、引いて我が東山水墨画画ような枯淡な方面を選び、応召2、3年前頃から美術研究所の事業の一つである「東洋美術総目録」の作成に専心、先ずその一端として東山水墨画派の研究を個々の作家に就いて進めつつあつた。その成果は「美術研究」に発表されている。黙庵、如拙、周文、正信等がその主要なものである。用意周到で、明哲な学風は大いに注目すべきものがありその完成は特に学会の期待するところであつたが、その途上で斃れたことは返すがえすも遺憾なことであつた。遺族には養母、夫人二男一女が茨城県下にある。

林重義

没年月日:1944/03/15

文展審査員、国画会会員林重義は胃癌の為3月16日逝去した。享年49。明治29年兵庫県に生れ、京都市市立絵画専門学校に学んだが中途退学し関西美術院に転学した。大正9年鹿子木孟郎に洋画を学び、同12年二科展に入選して以来毎年出品し、大正15年には二科賞を受けた。昭和3年渡仏、翌年フランスより二科展に出品し会友に推挙された。5年帰国し滞欧作品を二科会に出陳し、後同士と共に脱退、独立美術協会を創設、以後独立展に出品を続けたが、独立展に超現実派の流行するに及び、資生堂に個展を開き純写実主義を主張、12年遂に独立を脱退した。翌13年文展に出品してからは主に文展に出品したが14年には同志と共に霜林会を組織し展覧会を開いた。昭和17年国画会々員となり、紀元二千六百年奉祝展、第6回文展には審査員となつた。氏の晩年は写実主義の中に日本的な味を出す事に努めていた。

高橋理一郎

没年月日:1944/02/16

文部省建築課長、文部技師高橋理一郎は2月16日執務中脳溢血で急逝した。享年58。明治20年千葉県に生れ、明治45年東大工科卒業後文部省に入り、28年間余り建築課に勤務、在任中諸高校の拡張、震災復旧、高工新設工事等につくした。

飯田新七

没年月日:1944/02/03

高島屋前社長飯田新七は2月3日京都東山区呉竹庵本邸で逝去した。享年86。安政6年京都に生れ、高島屋四代目の当主として呉服貿易業に専念、今日の隆盛をなし、我国の染織業の指導者として大いなる功績を残した外、社会事業にも貢献する所が多かつた 第4回内国勧業博覧会に審査官となつて以来、しばしば各種博覧会の委員となり、昭和10年から大礼記念京都美術館の評議員でもあつた。

佐藤光華

没年月日:1944/01/30

文展無鑑査、佐藤光華は1月30日急性肺炎の為逝去した。享年48。本名長三郎、明治20年京都に生れ、京都絵画専門学校を卒業、大正9年第2回帝展に「吉祥天」出品以来数度入選し、昭和5年無鑑査となつた。出品作に「赫奕姫」「嬌婉」、「漢織呉織」「菊慈童」「瑞鷹」其他がある。

岡文涛

没年月日:1943/12/28

京都の日本画家岡文涛は12月28日逝去した。享年68。明治9年京都に生れ、絵画専門学校を卒業、山元春挙に師事した。旧文展第5回に「杉垣」を出したほか、8回9回と出陳したが、その後は官展から退いていた。

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