本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





金子堅太郎

没年月日:1942/05/16

日本美術協会々頭、枢密顧問官従1位大勲位伯爵金子堅太郎は、5月16日相州葉山の恩賜松荘に於て薨去した。享年90。伯は嘉永6年福岡藩士金子清蔵の長男として生れ、明治3年東都に遊学し、同4年選ばれて渡米、ハーバード大学に法律を学び、帰朝後東京大学講師、元老院権大書記官、同17年太政官権大書記を兼ね、憲法草案作成に参与し、総理大臣秘書官、枢密院、貴族院の書記官長、農商務次官等を経て、同31年農商務大臣、同33年司法大臣に歴任した。後枢密顧問官となり、大正8年以降は維新資料編纂会総裁として尽瘁した。美術に理解を有し、明治34年日本美術協会副会頭に就任、大正8年同会々頭に推され今日に至つた。危篤の趣天聴に達するや特旨を以て従1位宣下、並に大勲位菊花大授章を賜つた。

吉田柳外

没年月日:1942/05/15

京都市上京区吉田柳外は京大病院で療養中のところ5月15日逝去した。享年64。岐阜県に生れ、明治27年美術肖像画を専門に創業、同42年京都美術肖像画学校を開設して今日に至つた。

清水真輔

没年月日:1942/05/14

大阪三越美術部長清水真輔は盲腸炎のため5月14日逝去した。享年59。明治17年東京に生れ、同41年早稲田大学商科卒業後三越に入つた。「不断華楼画趣」等の出版物あり、日本画鑑賞会に活躍してゐた。

井上脩

没年月日:1942/05/07

東光会々員井上脩は5月7日死去した。享年42。明治34年10月6日広島県高田郡甲立町に生れ、昭和5年東京美術学校卒業、在学中帝展に初入選、以後帝展、文展、東光会展に作品を発表し昭和13年より東光会会員であつた。

建畠大夢

没年月日:1942/03/22

帝国芸術院会員東京美術学校教授建畠大夢は昨年末より持病の喘息に悩んでいたが、肺気腫を併発し3月22日荒川区の自宅に於て逝去した。享年63。本名弥一郎、明治13年2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生れ、初め医学校に学んだが、間もなく京都美術学校に転じ、つづいて東京美術学校に入学、明治44年卒業した。在学中より文展に出品して存在を明らかにし、連年温和にして多感な優作を発表、次第に名声を挙げた。大正9年美術学校教授、昭和2年帝国美術院会員となり、昭和15年には門下を率ゐて直土会を組総、16年その第1回展を開いて益々精進を重ねていた。昭和17年3月30日特旨を以て位1級を追陞せられ、正4位に叙せられた。なほ俳句、絵画等にも嗜むところがあつた。略年譜明治13年 2月29日和歌山県有田郡建畠喜助四男として生る明治30年 大阪に出て医学校に学ぶ明治36年 京都市美術学校入学明治40年 東京美術学校入学明治41年 文展「閑静」、文部省買上となる明治42年 文展「ゆく秋」(褒状)明治43年 文展「埃」(3等賞)明治44年 3月彫刻選科卒業、文展「ながれ」(3等賞)大正元年 文展「ねむり」「磯の女」(3等賞)大正2年 文展「おゆのつかれ」大正3年 文展「のぞき」(3等賞)、大正博覧会「こだま」(2等賞)大正4年 文展「夜の深み」「まゝごと」(3等賞)大正5年 文展「絶望」(特選)北村西望、国方林三、池田勇八と共に八ツ手会を組織「山の男」「女の首」を同会展に発表大正6年 文展「子供」「激昂の人」(推薦となる)大正7年 文展「山の蔭から」「あやふき歩み」、結婚す大正8年 帝展審査員、以後毎年審査員となる、帝展「雀の子」「浴後の女」、日暮里にアトリエを建つ、下村観山、川端龍子等と南紀美術会を起す、「伊達巻」「虎」を同会展に出品大正9年 2月東京美術学校教授となる、帝展「地上の讃」大正9年 帝展「煩悶の人」「十八の女」、法隆寺舞楽面を作る、12月北村西望と曠原社を結成大正11年 帝展「破局」「悔悟」、竹内栖鳳像を作る大正12年 「ほたる」「柴田正重氏の首」「膝に吻する女」曠原社展に出品大正13年 帝展「幻想」大正14年 帝展「憩ふ女」、勧業銀行建築装飾を作る大正15年 帝展「陽炎」、聖徳太子奉讃展「腰かけた女」「考へる女」昭和2年 帝国美術院会員となる、帝展「生気」、北軽井沢に南紀美術倶楽部を新築、又楢ノ木山荘を建つ、「魔法使ひの女」「めだか」「花野」了了会展に出品昭和3年 帝展「女の胸像」昭和4年 帝展「若い女」昭和5年 帝展「壷」昭和6年 帝展「福原先生」昭和7年 帝展「感に打たれた女」、「木村静彦氏像」「岡米吉氏像」を作る昭和8年 帝展「H博士」昭和9年 帝展「谷愛之助氏像」、姫井繁次氏像を作る昭和10年 東邦彫塑院顧問となる、「牛の記念碑」を作る昭和11年 改組文展審査主任、「十七の女」出品昭和12年 帝国芸術院会員被仰付、文展「若い男」、「伊藤博文氏像」「本間氏像」「浜口吉兵衛氏像」を作る昭和13年 文展「幸ちゃん」昭和14年 文展「夢」、「藤山雷太氏像」を作る、東邦彫塑院展に「恩師の顔」「女の顔」を出品昭和15年 紀元二千六百年奉祝展「頬杖」、「喜田君の首」(後に直土会に発表)「通洲事件慰霊碑」「今井五介氏像」を作る、直土会を組織昭和16年 文展「坐せる女」、直土会1回展「井原氏の体」「井原氏の顔」「睦奥宗光」、「天使」(後に直土会展に発表)を作る昭和17年 3月22日没

岡野栄

没年月日:1942/03/21

女子学習院教授岡野栄は3月21日糖尿病のため赤坂区の自宅で逝去した。享年63。明治13年4月7日東京に生れ、白馬会洋画研究所に学び黒田清輝に師事、つづいて東京美術学校洋画選科に入り35年卒業した。明治41年2月女子学習院に奉職、教授となり、34年の久しきに亘つて勤続、正4位勲4等に叙せられた。この間、明治43年には、中沢、山本等7名と共に光風会を創立、爾後同人として作品を発表し、大正14年には宮内省在外研究生として欧州に遊学したことがあつた。

西村雅之

没年月日:1942/03/16

文展無鑑査、正統木彫家協会々員西村雅之は疽膿炎のため3月16日逝去した。享年58。本名は平蔵、明治18年11月神田に生れ、明治45年木彫を林美雲に学び、その没後は高村光雲に師事した。また松岡映丘について大和絵風の彩色を研究するところがあつた。

丸山晩霞

没年月日:1942/03/04

水彩画家山岳画家として著名な大平洋画会員日本水彩画会理事丸山晩霞は、郷里長野県小県郡羽衣荘で静養中のところ3月4日死去した。享年76。本名は健作、18歳の時上京して神田の勤画学舎に学び、一旦帰郷の後彰技堂に入塾、洋画を修業した。吉田博、三宅克己と親交を結び、明治32年満谷、河合、鹿子木等と共に渡米、欧州を廻つて34年帰朝、翌35年には大平洋画会設立に尽力した。40年大下藤次郎等と日本水彩画研究所を設立、44年より再渡欧してアルプスを尋ね、大正3年大正博覧会には「白馬の神苑」を発表し好評であつた。爾後晩年まで製作を続け、各地風景画を描いて次第に南画的傾向も帯びたが、芸術上の活動は衰へた感がある。昭和15年には三笠宮殿下に末松中将を経て南洋風景画を献上し奉つた。略年譜慶応3年 5月3日長野県小県郡丸山平助次男として生る、名健作明治16年 一時児玉果亭に師事明治17年 上京して神田錦町勤画学舎に洋画を学ぶ明治18年 帰郷明治21年 上京、彰技堂入塾明治24年 自活に窮し帰郷明治29年 吉田博と飛騨へ写生旅行明治30年 定津院嘉部祖導師に参禅、居士号「晩霞天秀」をうく明治31年 明治美術会創立10周年記念展に「冬の日中」等十六点出品明治32年 明治美術会展「花野の朝」外水彩画多数出品、三宅克己と親交を結ぶ、10月渡米明治34年 帰朝明治35年 1月大平洋画会1回展に「初冬の朝」「森のもれ日」「野末の流れ」等出品、画室を作り、三宅克己の後任として小諸義塾に図画を教ふ明治36年 大平洋画会2回展「湯尻」其他出品明治37年 藤村の小説「水彩画家」新小説出づ明治38年 上京、駒込に仮寓明治39年 木下藤次郎と水彩画講習所開設明治40年 3月東京勧業博覧会「麦焼く夕」「夏の光」、5月住宅新築、十月木下藤次郎、河合新蔵、真野紀太郎等と日本水彩画会研究所設立、この年日本橋松声堂より絵葉書集刊行明治41年 1月小笠原島に写生旅行す、太平洋画展「薄日の妙義山」、文展第2回「真夏の夕」明治42年 太平洋画展「崖の上から」「初夏」明治43年 太平洋画展「森」明治44年 3月第2次外遊出立明治45年 7月帰朝、帝国ホテルに滞欧作品展開催(出品258点)大正2年 4月日本水彩画会改組大正3年 大正博覧会「白馬の神苑」大正12年 本籍を本郷に移す、平井武雄と共に日本水彩画会員作品を携へ中支、印度各地に巡回展開催大正14年 水彩画会展に中支、印度における作品を特陳昭和7年 日本水彩画会有志と共に国産水絵用材研究会結成昭和11年 羽衣荘落成昭和15年 10月23日三笠宮殿下に南洋風景画献上昭和17年 3月4日没

山村耕花

没年月日:1942/01/25

日本美術院同人山村耕花は昨年11月以来腎臓炎を病み、聖路加病院に加療中のところ1月25日逝去した。享年58。本名は豊成、明治18年12月品川の名刹不動様の家に生れ、初め尾形月耕に学び、後東京美術学校選科に入つて明治40年卒業した。同年第1回文展に「茶毘」入選、同第4回には「大宮人」を出して褒状をうけた。つづいて「お国と山左衛門」(7回)、「お杉お玉」(8回)、「春」(9回)等を発表して漸く世に知られるに至つた。大正5年第3回院展に「寂光の都」を出品、直に同人となり、以後連年出品を怠らず、「八朔」(4回)、「重陽」(5回)、「江南七趣」(8回)、「洛陽橋」(10回)、「向日葵」(11回)、「婦女愛禽図」(12回)、「軍茶利明王」(13回)、「腑分」(14回)、「菊酒」(16回)、「謡曲幻想-隅田川、田村」(17回)等の知名の作があり、そのほか米国博覧会出品の「梨花黄鳥」聖徳太子奉讃展出品の「ウンスン哥留多」改組第1回文展出品の「大威徳明王」等好評の作であつた。支那事変勃発するや「大地悠々」(13年)等の戦争画を発表、昭和15年には従軍して南支戦線を尋ね、陸軍省より各宮家へ献上した「南支汕頭上空より」「南支虎門動次島」等を描いた。同年紀元二千六百年を奉祝して画いた「皇紀萌芽」が最後の出品作となつた。なほ院展以外に嘗て烏合会、珊瑚会等に入つて作品を発表したこともあり、演劇の舞台装置等に携つたこともあつた。浮世絵、版画、人形、蒔絵、陶器などの蒐集鑑識についても一家をなしてゐた。

吉田白嶺

没年月日:1942/01/21

日本美術院再興第1回以来の彫刻部同人文展無鑑査吉田白嶺は心臓性喘息のため1月21日日暮里の自宅で逝去した。享年72。明治4年12月19日本所区に生れ、本名は利兵衛、最初商業に従事したが、弟芳明が彫刻家として名を成したのに発奮し、明治34年以来志を立てて独学、大いに斯業を研鑽、或は日本彫刻会に入り、又は平櫛田中内藤伸等と研究社を結び、遂に一家をなすに至つた。文展第3回に「念」を出品、同第7回に「寂静」を出して褒状に推され、大正3年再興院展第1回に「楽女」を発表、直に彫刻部同人に推挙された。以後今日まで院展に活躍、「清韻」(第7回)、「土部臣」(第14回)、「異教徒」(第20回)、「西行」(第21回)、「迦羅仙」(第23回)、「蓮月尼」(第25回)等は世に記憶されるところである。又好んで?毛の類を刻み独自の刀法を示した。

神坂雪佳

没年月日:1942/01/04

京都の工芸図案家として知られた神坂雪佳は1月4日嵯峨野の自宅で逝去した。享年77。本名は吉隆、慶応2年1月12日京都粟田の士族として生れた。明治14年鈴木瑞彦について四条派の絵を学んだが、23年岸光景に師事、各種工芸意匠図案及工芸製作の組織を研究し、傍ら光琳派の画風を修学した。32年京都市選任技師、34年にはグラスゴー博覧会に際して渡欧、38年京都市美術工芸学校教諭、40年には佳都美会を創立して工芸図案界に大きい功績を残した。爾後各種の工芸展覧会に審査員として活躍、大正11年には敘従6位、昭和12年には仏国よりオフイシエーカンボジユ勲3等章を贈られ、昭和13年から京都美術館の評議員であつた。この間諸種の工芸図案を製作、著書に「蝶千種」「海路」等がある。

足立康

没年月日:1941/12/29

法隆寺新非再建論者として知られた工学博士足立康は12月29日湘南茅ヶ崎南光院の病舎にて永眠した。享年44、明治31年7月10日神奈川県中郡足立留次郎の三男として生れ、後年家族と共に東京へ移つた。五高を経て東京帝大工学部造兵学科に入学、大正13年同科卒業、翌年同大学文学部美術史科に入り、昭和3年卒業後、工学部大学院に於て建築史を専攻した。昭和8年大学院卒業論文「薬師寺塔婆の研究」によつて工学博士の学位を受け、同年より日本古文化研究所理事として最後まで藤原宮阯の調査に力を竭した。「藤原宮阯伝説地高殿の調査」2巻はその成果である。13年より「建築史」を創刊してその主幹たり、昭和16年には「法隆寺再建非再建論争史」を編纂したところであつた。このほか「薬師寺伽藍の研究」「日本建築史」等の著がある。

宮永東山

没年月日:1941/12/15

文展無鑑査宮永東山は12月15日動脈硬化のため京都東山の自宅において逝去した。享年74。本名は剛太郎、明治元年石川県に生れ、東京独逸語学校ならびに仏語学校にまなび、又独逸人ベンケー、岡倉覚三、林忠正等について得るところがあつた。明治28年には東京美術学校に奉職、30年農商務省に入り、32年千九百年巴里万国博覧会に際し出張を命ぜられて滞欧2年、各国の美術工芸を視察、仏国政府より「オフイシエー・ダカデミー」章を贈られた。34年帰朝後、京都錦光山製陶所の聘に応じ、陶界に投ずるに至つた。36年には浅井忠指導のもとに遊陶園を組織、42年伏見稲荷山麓深草に陶窯を築き研鑽をすすめて次第に名声をあげた。その作品はあらゆるものに及んでゐるが、就中青瓷を得意とし、近くは仁清系の粟田陶器を復興して優麗の作をなし、好評であつた。又京都陶磁器工業組合副理事長として斯業につくすところが大きかつた。

中村七十

没年月日:1941/10/20

文展無鑑査中村七十は10月20日脳溢血のため板橋の自宅で逝去した。享年31。本名永男、明治44年長野県に生れ、昭和9年東京美術学校卒業、在学中より構造社展、文展等に出品し、卒業後も連年文展に発表して早くも無鑑査となつた。没前の航空美術展には「荒鷲」を出品した。

八木岡春山

没年月日:1941/08/27

日本美術協会理事兼審査長文展無鑑査八木岡春山は8月27日杉並区高円寺2ノ92の自宅で、狭心症のため死去した。享年63。本名亮之助、明治12年東京深川に生れ、明治29年下条桂谷に師事、北斎を学び、古画の模写研究に従事した。日本美術協会展覧会、内国勧業博覧会等に出品して屡々受賞し、文展にも2回出品、大正8年には日本美術協会第一部委員となり、昭和10年には高松宮妃殿下に日本画御進講を仰付けられた。その後日本美術協会理事、評議員第一部委員主任、審査長として協会のために尽力、連年協会展其他文展個展等にも出品して、伝統の筆墨を主とする画風を発表し、画壇特異の地歩を占めてゐた。昭和14年の米国ニューヨークにおける万国美術展覧会には破墨の力作「暮靄」を出品し優賞を受けた。主要作には次のやうなものがある。画題   年代   所蔵者竹渓六逸 大正7年 益田男爵家瀟湘八景(襖) 大正8年 鶴見総持寺花鳥杉戸 大正8年 鶴見総持寺薔薇 昭和2年 団男爵家雨後 昭和2年 団男爵家朝霧 昭和2年 団男爵家鷺 昭和5年 三笠宮家蓬来山水 昭和7年 閑院宮家春秋花鳥 昭和8年 藤山愛一郎湖畔小禽 昭和9年 大宮御所奥多摩春景 昭和9年 牧田環樫鳥 昭和9年 川崎八右衛門江山雨後 昭和10年 藤原銀二郎渓山帰樵 昭和11年 帝室博物館芦山 昭和11年 川崎八右衛門薄暮 昭和11年 (文展出品)春冬花鳥 昭和12年 野間左衛子瀟湘八景 昭和12年 野間左衛子烟雨 昭和12年 (文展出品)黎明 昭和13年 (文展出品)朧月 昭和15年 (文展出品)夕月 昭和16年 高松宮家雨後 昭和16年 (仏印巡回展)

高木保之助

没年月日:1941/08/16

文展無鑑査高木保之助は8月16日敗血症のため死去した。享年51。明治24年本郷湯島に生れ、34年より川端玉章に師事、39年には川端画学校に入つた。後感ずるところあつて東京美術学校に入学、大正8年に卒業、その後松岡映丘に師事して木之華社及び新興大和絵会の同人たり、帝展第1回より連年入選した。同9回「はまなすの浜」10回「夏の粧」はいづれも特選、昭和5年には推薦となつた。その後帝展、文展をはじめ、東台邦画院、国画院、日本画院等に連年出品、昭和12年国画院1回展の「燎乱の四季」は努力の大作であつた。昭和16年仏印巡回に本絵画展出品の「鬼罌粟」がその絶作となつた。

安孫子真人

没年月日:1941/08/12

美術文化協会同人安孫子真人は8月12日逝去した。享年29。山形県に生れ大平洋画会研究所に学び、昭和12年渡仏、14年帰朝後右同人となつた。

内藤三郎

没年月日:1941/08/08

奈良帝室博物館長内藤三郎は胃潰瘍のため8月8日急逝した。享年51。山口県出身、皇宮警察部長、滋賀、福島両県経済部長等歴任後、本年3月奈良帝室博物館長に転じたものである。

鳥居清忠

没年月日:1941/08/03

鳥居家七世清忠は脳神経麻痺のため8月3日牛込の自宅において逝去した。享年67。明治8年3月28日清貞の長男として生れ、劇画を父に学び、同22年8月川辺御楯に入門して土佐派を修めた。鳥居家七世を継ぐや家業の芝居絵看板に古様を守り、又劇演出に貢献するところ少からず、斯界に重きをなした。先年業を嗣子清言に譲り悠々自適してゐた。

田崎延次郎

没年月日:1941/07/28

旧工部美術学校出身で囃子の研究家として知られてゐた田崎延次郎は7月28日逝去した。享年80。文久2年の生れで明治16年工部美術学校修業後、東京職工学校、農商務省専売特許局等に奉職し、明治32年には陸軍助教となり43年休職、その他諸種の学校に図画授業を担当、晩年は謡曲に関する著述に没頭してゐた。

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