本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,961 件)





岡不崩

没年月日:1940/07/29

読み:オカ, フホウ*、 Oka, Fuho*  日本画家岡不崩は7月29日逝去した。行年72。本姓名和氏、名吉寿、初め蒼石と号す。明治2年7月福井県に生る。弱冠東京に出で、狩野友信及び狩野芳崖に師事し、明治22年東京美術学校に入学した。翌23年9月東京高等師範学校講師となり、毛筆画の教育に尽瘁す。28年辞し、一時九州に赴いたが、33年東京に帰り、府立第二高等女学校教諭兼女子師範学校教諭に任ぜられた。35年同志と謀り、真美会を創立し、自ら理事となり活躍す。晩年画界を退き、専ら意を古事、古典の研究に注ぎ、就中万葉集に関する貴重なる研究を遂げた。即ち刊行されたるものに「万葉集草木考」「古典草木雑考」があり、外に未定稿本多し。

乾南陽

没年月日:1940/06/29

 日本画家乾南陽は6月29日瀧野川の自宅で逝去した。本名長光、明治3年高知に生る。同30年東京美術学校を卒業、橋本雅邦、山名貫義、下村観山に師事、一時教職にあつた。旧文、帝展に数回出品せるほか、聖徳記念絵画館の「五箇条御誓文之図」及び東京府養正館の壁画等を執筆し、最近は東台邦画会、日本画会の会員であつた。

呉建

没年月日:1940/06/27

読み:クレ, ケン*、 Kure, Ken*  東京帝国大学教授、呉内科の呉建博士は6月27日心臓病のため逝去した。享年58歳。博士は予て油絵を余技とし、忙中数多くの大作を執筆、帝展文展には入選6回に及んでゐた。

喜多川玲明

没年月日:1940/06/19

 日本画家喜多川玲明は6月19日痼疾の喘息の為逝去した。享年41歳。明治33年京都に生れ、京都美工校、同絵画専門学校を卒業、菊地契月に師事し、同塾の中堅作家であり、旧帝展、文展に出品してゐた。

牧俊高

没年月日:1940/06/14

 牧俊高は脳溢血のため滝野川区の自宅で逝去した。享年62歳。本名寛五郎、東京の出身で、能姿の木彫を得意とし、帝展に連年出品、文展の無鑑査に推され、又東邦彫塑院の会員であつた。本年8月三越に遺作展が開かれた。

瀬野覚蔵

没年月日:1940/05/04

 洋画家瀬野覚蔵は5月4日逝去した。明治21年京都に生る。初め松原三五郎の門に入り、後白馬会洋画研究所に於て黒田清輝、岡田三郎助に師事した。大正3年より屡々渡支、「覚蔵滞支記念画集」がある。爾来、帝展文展に出品、今次支那事変の勃発するや昭和13年中支各地に従軍、本年2月には陸軍省囑託として南寧、海南島の各戦線を歴訪した。近年執筆の国防館壁画「突撃」、近衛師団所蔵の静岡県下特別大演習図等はその代表作である。

宮川香山

没年月日:1940/04/20

 陶工二世宮川香山は4月20日老衰の為横浜中区の自邸に於て逝去した。享年82歳。本名半之助、安政6年初代香山の長子として京都に生れ、明治6年父と共に横浜に移り、長年の間陶磁器製作に専心し、真葛焼を完成した。帝国美術院展覧会に第四部が置かるるやその審査員に推され、又日本美術協会委員として斯界に重きをなした。

明珍恒男

没年月日:1940/03/18

読み:ミョウチン, ツネオ*、 Myochin, Tsuneo*  奈良県美術院主事明珍恒男は3月18日急性肺炎のため奈良市の自宅に於て逝去した。享年59歳。明治15年8月19日長野県に生れ、年少にして高村光雲に師事した。17歳にて東京美術学校木彫科に入学、同36年卒業するや直ちに日本美術院二部(後の奈良美術院)に入所し、逝去に至る迄の38年間国宝仏像の修理に従ひ、修理技術者として多大の業績を貽した。昭和10年、新納忠之介の跡を継いで奈良美術院主事に就任した。自身の創作では主なるものとして京都の東寺食堂の十一面観音、大阪四天王寺復興五重塔の扉彫刻8面が挙げられる。保存行政上の方面に於ても予て文部省宗教局囑託、三重県社寺宝物調査囑託、滋賀県社寺宝物修理囑託、奈良県史蹟名勝天然記念物調査委員等の任にあり、尚「仏像彫刻」(スゞカケ出版社刊行)をはじめ古美術に関する研究論文30余稿を残した。

今井貫一

没年月日:1940/03/18

読み:イマイ, カンイチ*、 Imai, Kan’ichi*  大阪市立美術館前館長今井貫一は3月18日逝去した。明治3年徳島県に生れ、東大史学科を卒業後、教職、大阪市立図書館々長を経て、昭和10年予て創設に当りし市立美術館の館長に就任、同14年病の故退き、爾後同館の顧問であつた。

江馬長閑

没年月日:1940/03/12

 京都の漆芸家江馬長閑は3月12日逝去した。享年60歳。小西春斎、山本利兵衛に師事し、旧帝展に出品、京都工芸美術協会評議員、京都工芸院の同人であつた。

田村豪湖

没年月日:1940/03/09

 日本画家田村豪湖は3月9日逝去した。享年68歳。本名代吉、明治6年2月新潟県に生る。橋本独山、佐竹永湖等に師事し、嘗て日本画会々員、美術研精会々員であつた。日本美術協会或は初期文展に出品した。

正木直彦

没年月日:1940/03/02

読み:マサキ, ナオヒコ*、 Masaki, Naohiko*  東京美術学校名誉教授正木直彦は3月2日逝去した。同5日小石川区音羽町護国寺に於て東京美術学校葬を以て葬儀を執行した。文久2年10月26日大阪府に生れ、25年東京帝国大学法律科を卒業した。翌26年奈良県尋常中学校長に任ぜられ、又帝国奈良博物館学芸委員となつて古美術の調査に従ふ。30年文部大臣秘書官となり、次いで視学官、大臣官房秘書課長、文書課長兼美術課長を歴任し、34年8月東京美術学校長に任ぜられた。爾来昭和7年退官に至る迄30有余年の間美術教育に従事した。同年同校名誉教授の名称を授けられた。明治40年文部省美術審査委員会の創設に参画し、永年同委員会主事として文展に寄与し、大正8年帝国美術院の創設と共に同院幹事を仰付けられ、昭和6年同院々長となり、同10年に及んだ。辞職後は同院顧問となり、又同院廃止後は文部省の美術行政顧問となつた。又此の間同院附属美術研究所主事に在職した。以上のほか夙くより内外博覧会審査長或は鑑査官となり、又帝室技芸員詮衡委員、工芸審査員会委員をはじめ、諸種の委員会委員或は会長、理事、顧問として美術の事に関与するところ極めて広汎に亘つた。客臘より寒冒に臥し、肺炎を併発し遂に再び立たなかつたものである。享年79。略年譜文久2年 10月26日和泉国堺ニ於テ生ル明治25年 帝国大学法律科卒業明治26年 任奈良県尋常中学校長明治27年 奈良公園内社寺宝物名所旧蹟取調事務長ヲ囑託ス明治28年 帝国奈良博物館学芸委員被仰付明治30年 任文部大臣秘書官、叙高等官6等、帝国奈良博物館学芸委員被免、任文部省視学官明治31年 兼任文部大臣秘書官、叙高等官6等、大臣官房秘書課長ヲ命ス、大臣官房秘書課長ヲ免シ更ニ文書課長兼美術課長ヲ命ス、仏蘭西万国博覧会出品調査委員ヲ命ス明治32年 御用有之欧米各国ヘ被差遣、大臣官房文書課長ヲ免ス、大臣官房美術課長ヲ免ス、11月欧洲ヘ向ケ出発明治34年 3月帰朝、任東京美術学校長、叙高等官4等、第5回内国勧業博覧会評議員被仰付明治35年 普通教育ニ於ケル図画取調委員長ヲ命ス明治36年 第5回内国勧業博覧会審査官被仰付、図画教科書編纂委員長ヲ囑託ス、臨時博覧会評議員被仰付、臨時博覧会鑑査官被仰付、陞叙高等官3等明治37年 叙従5位、御用有之米国ヘ被差遣、8月米国ヘ向ケ出発、11月帰朝明治40年 東京勧業博覧会審査部長ヲ囑託ス、陞叙高等官2等、文部省美術審査委員会主事ヲ命ス、叙正5位明治41年 叙勲4等授瑞宝章明治42年 東京美術工芸展覧会幹事長ヲ囑託ス、日英博覧会評議員被仰付、御用有之英国ヘ被差遣、日英博覧会鑑査官被仰付明治43年 2月英国ヘ向ケ出発、日英博覧会出品物審査ニ関スル事務ヲ囑託ス、同会美術部審査主任ヲ命ス、11月帰朝明治44年 東京勧業博覧会審査長ヲ囑託ス、授旭日小綬章、美術審査委員被仰付大正元年 叙従4位大正2年 叙勲3等授瑞宝章、第1回図案及応用作品展覧会審査委員ヲ囑託ス(昭和6年ニ至ル)大正3年 東京大正博覧会審査官ヲ囑託ス、臨時博覧会評議員被仰付、臨時博覧会鑑査官被仰付大正7年 臨時議院建築局顧問被仰付、第6回工芸展覧会審査委員ヲ囑託ス大正8年 帝国美術院幹事被仰付大正9年 陞叙高等官1等、叙勲2等授瑞宝章大正11年 平和記念東京博覧会審査官ヲ囑託ス大正12年 叙従3位、仏国美術展覧会準備委員ヲ囑託ス大正13年 万国装飾美術工芸博覧会出品鑑査員ヲ囑託ス昭和2年 明治神宮外苑管理評議委員ヲ囑託ス昭和3年 対支文化事業調査委員被仰付昭和5年 補帝国美術院附属美術研究所主事、国際観光委員会委員被仰付、叙勲1等授瑞宝章昭和6年 中華民国ヘ出張ヲ命ゼラル、国立公園委員会委員被仰付、金杯1箇ヲ賜フ帝国美術院長被仰付昭和7年 叙正3位、依願免本官、東京美術学校名誉教授ノ名称ヲ授ク、明治大正美術史編纂委員会委員長ヲ囑託ス、対支文化事業調査会委員被仰付昭和13年 中華民国ヘ出張ヲ命ス昭和15年 3月2日薨去

田中頼璋

没年月日:1940/02/16

 日本画家田中頼璋は腎臓炎のため2月16日広島市の自宅に於て逝去した。享年73歳。本名大治郎、明治元年島根県浜田に生る。16歳の時長州の萩に赴き、森寛斎に師事した。暫く豊文と号したが明治35年上京、川端玉章の門に入る。当時日本美術協会に出品の「楼閣山水」が銅牌を、同37年の「山居水住」が銀牌を授与せられ、出世作となつた。其後、文展第2回に出品の「鳴瀧」が3等賞に入り、爾後文展、帝展に連年入賞し、帝展第5回に於て審査員に就任し、現在に及んでゐたもので、尚屡々御前揮毫の栄に浴した。

武井直也

没年月日:1940/02/05

 日本美術院の元同人、日本彫刻科協会々員武井直也は、2月5日チブスのため東大病院に於て急逝した。享年48歳。 明治26年6月16日長野県岡谷に生れ、大正3年戸張孤雁に師事、翌年東京美術学校彫刻科に入学した。同7年日本美術院に初入選となり、同9年卒業、同12年日本美術院研究会員となる。翌年渡仏、ブールデルに学び、昭和2年帰朝、同年の院展に滞仏作を発表した。同7年日本美術院同人となつたが、同11年に脱退し、日本彫刻家協会を設立、現在に及んだもので、又文展の無鑑査に推されてゐた。精力的な作家で、多くの作品を残したが、今春の日本彫刻家協会展に於て遺作の一部が陳列された。

邨田丹陵

没年月日:1940/01/27

読み:ムラタ, タンリョウ*、 Murata, Tanryo*  日本画家邨田丹陵は1月27日逝去した。享年69歳。弱冠吉沢素山に就学、次いで土佐派の川辺御楯に師事し、明治23年内国勧業博覧会に「石橋山合戦図」を出品、褒賞を受け、若くして頭角をあらはした。翌年岡倉天心を盟主とする日本青年絵画協会の創立に与り、同協会共進会の委員、審査員として活動し自らも幾多の力作を発表した。明治30年同会が日本絵画協会と改称し、31年日本美術院と聯合して共進会を開くに至つた後も審査員となり、又自らも出品した。其の後同37年日露役に際して海軍に従軍す。文展第1回に「大宮人図」を出陳、3等賞となつたが、爾後自ら省る所あり、画壇を退き一切の展覧会と交渉を絶つた。昭和10年に明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「大政奉還図」を揮毫してゐる。晩年は東京府下北多摩郡に住居し、悠々画作に従ひ、又菊作りの大家として知られてゐた。略年歴明治5年 7月20日東京に生る。本名竧(タダシ)、父は旧田安徳川藩士村田直景明治13年 素山吉沢利喜に就て画技を習ふ。母の生家邨田氏を継ぐ。明治16年 6月、川辺御楯の門に入り丹陵と号す明治17年 第2回内国絵画共進会「藤原光頼諌惟方図」「神南川図」明治19年 東洋絵画共進会「佐藤忠信芳野戦図」褒状明治23年 第3回内国勧業博覧会「石橋山合戦図」褒状明治24年 日本青年絵画協会を創立明治25年 日本青年絵画共進会「豊太閤観花醍醐図」明治26年 同第2回共進会「新田義興」銅牌明治27年 日本美術協会展「小早川隆景破明軍図」銅牌、第3回日本青年絵画協会「両雄会湖畔図」明治28年 第4回内国勧業博覧会「富士牧狩図」妙技3等賞、宮内省御買上明治29年 日本青年絵画協会の組織改組さる、宮内省御下命画「黄海々戦図」(屏風三隻)謹作明治31年 日本絵画協会日本美術院第5回共進会「森蘭丸」銅牌明治32年 同第7回共進会「雪月花」銅牌明治35年 讃岐琴平神社の襖「富士牧狩図」揮毫明治37年 日露役に際し海軍に従軍、寺崎広業と共に記念画帳「二龍宝台」を作る明治40年 東京勧業博覧会「佐野の雪図」2等賞、東宮職御買上 文展第1回「大宮人図」3等賞、宮内省御買上、爾後展覧会に発表せず昭和10年 聖得記念絵画館の壁画を揮毫す昭和15年 1月27日没

久保田鼎

没年月日:1940/01/15

 美術行政及教育の為に多年尽瘁した久保田鼎は1月15日奈良に於て逝去した。行年86、安政2年江戸小石川に生れ、幼名を理三郎と称した。明治7年文部省に写字生として職を奉じ、同10年には同省属に昇進し、同23年帝国博物館主事に任命され、美術界に歩を進める契機となつた。即ち同年東京美術学校幹事、同25年臨時全国宝物取調掛、同28年には同館理事、次いで翌29年古社寺保存会委員を仰付けられた。尚同31年東京美術学校教授を兼任、同33年同校々長心得を命ぜられた。同40年に至り奈良帝室博物館長、大正3年には京都帝室博物館長、同13年には再度奈良帝室博物館長を歴任した。而して大正12年には帝室技芸員選衡委員、昭和5年には宮内事務官として勅任され、同6年帝室博物館評議員仰付られ、それと共に要職を隠退したが、我が黎明期博物館事業に殆んど其生涯を捧げた功績は特記さるべきであらう。

佐藤慶太郎

没年月日:1940/01/13

読み:サトウ, ケイタロウ*、 Sato, Keitaro*  佐藤慶太郎は1月13日別府の自宅に於て逝去した。享年73。佐藤新興生活館の創立者であり、又大正9年東京府美術館建設費として百万円を寄付する等美術界に貢献するところあつた。

大島如雲

没年月日:1940/01/04

 鋳金界の老大家大島如雲は1月4日東京市瀧野川の自宅に於て逝去した。享年83歳。本名勝次郎、安政5年2月2日江戸小石川に生れた。父高次郎に就て蝋型及鋳浚彫刻術を学ぶ。明治14年第2回内国勧業博覧会に「龍神」を出品せるをはじめ、爾後東京彫工会、日本美術協会、東京鋳金会等に出品し、又同33年巴里万国博覧会に出陳せる「稲穂群雀」に依り金賞牌を受けた。之より先同23年東京美術学校に用ひられ、大正7年には同校教授に任じ昭和7年に至る迄後進の指導に当つた。又民間に在つては前記諸会の審査員或は委員として斯界に貢献する所大であつた。

石島良則

没年月日:1939/12/14

 日本画家石島良則は明治35年、石川県鹿島郡に生る。京都市立絵画専門学校卒業後、西山翠嶂に師事した。昭和7年、帝展に「村童」が入選し、爾後官展に「冬日」「高雄の女」「想ひ」等を出品、又同10年には京都市美術展で「供饌」が入賞した。

村上華岳

没年月日:1939/11/11

読み:ムラカミ, カガク*、 Murakami, Kagaku*  日本画家村上華岳は宿痾の喘息のため11月11日逝去した。享年52歳。本名震一、明治21年7月大阪に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、同44年京都絵画専門学校を卒業、大正7年同志と共に図画創作協会を創立し、活動を続けたが、同15年同会を離脱し、爾後一切の団体より完全に独立した。 作家として生来特質を強く備へ、既に初期の時代より洋の東西を問はず画風を摂取して、独自の感覚を示した。「夜桜」には就中浮世絵研究の跡が窺はれる。41年文展に「驢馬に夏草」を出して3等賞となつた。其の後第10回文展に特選となつた「阿弥陀」、国展出品の「裸婦」に及んで、独自の勁い線描の発展があり、印度及び西欧壁画の影響が認められる。而して「裸婦」は出品画的大作の最後のものであり、後半生は絶えざる闘病生活となつて比較的小品画のみが作られた。白描の仏画、没骨による花卉及び風景画には此の作者独自の画風が生じ、その仏教的な思想を反映しつつ時には晦渋とも見える主観的な作品を生むに至つた。美術団体に属さぬところから、後年の制作で公表されずに個人の所蔵に帰したものは尠くない由である。略年譜明治21年 7月大阪に生る、武田誠三の長男、武田震一明治28年 神戸小学校に入学、神戸村上家に寄居明治34年 同校卒業、京都美術工芸学校に入学明治37年 村上家を嗣ぐ明治40年 美術工芸学校卒業明治41年 第13回新古美術品展「木枯」4等、文展第2回「驢馬に夏草」3等明治42年 第14回新古美術品展「春の雨」4等。京都絵画専門学校設立、入学明治44年 第16回新古美術品展「早春」3等、文展第5回「二月の頃」褒状、京都絵専第1回卒業、入江波光、榊原紫峰、土田麦僊、小野竹喬等同期生大正4年 文展第9回「春耕図」大正5年 文展第10回「阿弥陀」特選大正6年 文展第11回「白頭翁」、選外大正7年 1月、入江、土田、榊原、小野、野長瀬等と国画創作協会創立、国展第1回「聖者の死」大正8年 国展第2回「日高川」大正9年 国展第3回「裸婦」大正11年 巴里日本美術展「CINTAMANICAKRA」出品大正12年 京都を去り阪神沿線に住む大正13年 国展第4回「説法の図」「八重橋」「瓜茄残暑」大正14年 国展第5回「松山雲煙」大正15年 久迩宮家へ献上画。以後一切の美術団体を離脱昭和10年 帝院改組に際し無鑑査推挙、所蔵家により東京永楽倶楽部にて5月個展昭和11年 中井宗太郎主催で京都美術倶楽部にて個展開催昭和12年 三聖代名作美術展へ「山」(連作)出品昭和14年 11月11日没画集―「華岳画集」(大正12年発行)、「華岳画集」(大正14年発行)「華岳画集」(大正15年発行)「華岳画譜」(昭和6年発行)「華岳画襍」(昭和14年発行)

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