本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数2,907 件)





橋本独山

没年月日:1938/08/15

読み:ハシモト, ドクザン*、 Hashimoto, Dokuzan*  臨済宗相国寺派前管長橋本濁山は胃癌の為8月15日相国寺内林光院で遷化した。享年70歳。 明治2年越後に生れ、少年の頃画家を志し、富岡鉄斎に帥事したことがあるが、中年出家して峨山和尚の法を嗣ぎ明治42年相国寺派管長となり、昭和8年迄其の職にあつた。南苑、流芳、対雲等と号し、其の禅余に揮毫せる書画は夙に世の重んずるところとなつてゐた。

福井謙三

没年月日:1938/08/03

 春陽会出品者福井謙三は、昭和13年8月3日房州太海々岸に於て不慮の死を遂げた。 明治37年4月19日、榊戸市に生る。大正13年東京美術学校洋画科に入り、長原孝太郎、小林万吾、岡田三郎助に師事、在学中帝展第9回(昭和3年)に初入選した。同4年卒業と同時に渡仏、同7年帰朝した。同9年銀座資生堂に帰朝第1回個展を、翌年新宿ノーヴにて第2回展を開いた。春陽会には第7、12、13、15回等に出品、「アカデミーにて」「赤い服」「読書」「ボンネツト」等の作品があり、同会に於て将来を期待されて居た作家である。「福井謙三画集」(造形文化協会発行)がある。

後藤泰彦

没年月日:1938/07/29

 構造社会員後藤泰彦は昭和13年5月出征し、中支戦線に於て伍長として奮戦中7月29日敵弾を受け、名誉の戦死を遂げた。明治35年4月3日、熊本県に生る、昭和4年妻子を郷里に残し単身上京、一時彫刻家田島亀彦に師事したが、後彫塑を独修し、昭和5年構造社展に初入選し、同7年会友に、同9年会員に推薦され現在に至った。晩年の作品として「黎明」「李氏騎馬像」「永井柳太郎氏像」等がある。尚構造社第12回展に於て、遺作を陳列した。

浜田耕作

没年月日:1938/07/25

読み:ハマダ, コウサク*、 Hamada, Kosaku*  京都帝国大学総長正3位勲2等浜田耕作は7月25日薨去した。享年58歳。京都帝国大学に於て学葬が行はれた。 明治14年2月22日、大阪府南河内郡に於て、浜田源十郎の長男として生る。明治38年東京帝国大学文科大学史学科を卒業、引続き大学院に入学し、又暫く雑誌「国華」の編輯に従つたが、同42年京都帝国大学文科大学講師を嘱託され、次で大正元年考古学研究の為、英、仏、伊に満3箇年留学を命ぜられた。同2年同文科大学助教授に、同6年教授となり、考古学講座を担当し、翌7年文学博士の学位を授けられた。同14年京大評議員を命ぜられ、昭和2年欧米へ出張、翌年帰国した。同4年東方文化学院理事に就任、また国宝保存会委員を仰せ付けられ、翌5年同大学文学部長に補せられ、同7年辞任した。尚同6年に帝国学士院会員を仰付けらる。同8年重要美術品等調査委員会委員、又朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然記念物保存会委員、同9年法隆寺国宝修理協議会委員、同10年宮内省臨時陵墓調査委員等の任に就いた。同12年6月京都帝国大学総長に任ぜられ、爾来満1ヶ年間全学の輿望を担つて同大学の粛学に尽瘁して現在に及んだものである。博士は本邦考古学界の耆宿であり、斯学を科学的学問として樹立せしめたその功績は大きく、国内は勿論朝鮮満洲等の発掘調査には殆ど悉く関与して居り、尚斯学関係全般に亙る要職にあつた。博学多趣味の人で東西の美術に造詣深く、著書随筆も多数に上り、且つ青陵と号して、書に絵に巧みであつたことは有名であり、人格的に徳望頗る高かつた。(考古学雑誌に依る)編著目録京都帝国大学文科大学考古学研究報告第1冊(梅原末治と共著) 大正6年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第2冊 大正7年希臘紀行 大正7年京都帝国大学文科大学考古学研究報告第3冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 大正8年南欧遊記 大正8年京都帝国大学文学部考古学研究報告第4冊、第5冊(榊原政職と共著) 大正9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第6冊(長谷部言人、島田貞彦と共著) 大正10年「泉屋清賞」?器部 大正11年慶尚北道慶尚南道古墳調査報告(梅原末治と共著) 大正11年通論考古学 大正11年「陳氏旧蔵十鐘」鐘概説及図版解説 大正11年金海貝塚発掘調査報告(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第7冊(新村出、梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部考古学研究報告第8冊(梅原末治と共著) 大正12年京都帝国大学文学部陳列館考古図録 大正12年慶州金冠塚と其遺宝上冊(梅原末治と共著) 大正13年支那古明器泥象図説 大正14年京都帝国大学文学部考古学研究報告第9冊 大正14年有竹斎古玉譜(古玉概説) 大正14年百済観音 大正15年橋と塔 大正15年ミハエリス氏美術考古学発見史 昭和2年京都帝国大学文学部考古学研究報告第10冊(梅原末治、島田貞彦と共著) 昭和2年有喜貝塚調査報告 昭和2年「泉屋清賞」続篇上冊 昭和2年慶州金冠塚と其遺宝図版下冊(梅原末治と共著) 昭和3年博物館 昭和4年貔子窩 昭和4年天正年間遣欧使節関係文書(新村出と共著) 昭和4年考古遊記 昭和4年東亜文明の黎明 昭和5年東亜考古学研究 昭和5年天正遣欧使節記 昭和6年モンテリウス氏考古学研究法 昭和7年慶州の金冠塚 昭和7年南山裡(島田貞彦と共著) 昭和8年刪訂泉屋清賞(梅原末治と共編) 昭和9年京都帝国大学文学部考古学研究報告第13冊(梅原末治と共著) 昭和9年京都帝国大学文学部陳列館考古図録(続篇) 昭和10年楽浪彩篋塚遣物聚英(梅原末治と共編) 昭和11年京都帝国大学文学部考古学研究報告第14冊 昭和12年サンデ帥遣欧日本使節対話録(全訳校閲) 昭和12年仏国寺と石窟庵(藤田亮策、梅原末治と共編) 昭和13年赤峯紅山後(水野清一と共著) 昭和13年

渡辺公観

没年月日:1938/07/20

 日本自由画壇同人渡辺公観は7月20日逝去した。享年61歳。 名耕平、明治11年1月20日滋賀県大津に生る。同27年京都美術工芸学校に入り、翌年退学、森川曽文に師事す。同35年曽文長逝後他門に入らず独自研究を続けた。文展には第1回及び第8回より12回迄出品、大正8年井口華秋、広田百豊と共に日本自由画壇を創立し、爾後毎年同展に出品した。同展第13回出品の「放牧」二曲一双は代表作に推される。

藤井厚二

没年月日:1938/07/17

読み:フジイ, コウジ*、 Fujii, Koji*  京都帝国大学工学部教授工学博士藤井厚二は7月17日逝去した。享年51歳。 明治21年広島県福山市に生る。大正2年東京帝国大学建築学科を卒業、竹中工務店に入り同7年迄勤務、同10年京都帝国大学建築学科に勤務して現在に及んだ。建築学の外に陶器の研究に従つてゐた。雅号聴竹。

稲田吾山

没年月日:1938/07/15

読み:イナダ, ゴザン*、 Inada, Gozan*  日本画家稲田吾山は7月15日鎌倉建長寺境内の寓居で逝去した。享年59歳。 本名伊之助、明治13年米沢市に生れ、東京美術学校を経て、寺崎広業に師事し、旧美術研精会の委員であつた。

一水隩二郎

没年月日:1938/06/05

 洋画家一水隩二郎は6月5日逝去した。享年42歳。 元宮相一木喜徳郎男の二男として明治31年東京に生る。大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、昭和2年より5年迄外遊し、帝展に4回入選してゐた。

水木要太郎

没年月日:1938/06/01

読み:ミズキ, ヨウタロウ*、 Mizuki, Yotaro*  奈良帝室博物館学芸委員水木要太郎は6月1日逝去した。享年70歳。十五堂と号す。 慶応元年愛媛県に生る。明治42年より昭和2年迄奈良女子高等師範学校教授として在職し、大正4年以降奈良帝室博物館に勤務してゐた。

牡鹿頂山

没年月日:1938/05/31

 彫刻家牡鹿頂山は5月31日逝去した。享年39歳。 本名春吉、大正14年上京、羽下修三、関野聖雲、北村西望に師事す。旧帝展第7回より14回迄連年入選してゐた。

合田清

没年月日:1938/05/06

 西洋木版画の先覚合田清は5月6日逝去した。享年77歳。 文久2年5月7日東京赤坂に生る。明治13年兄に随つて渡仏、始め農業学研究を志望したが、当時滞仏中の山本芳翠の勧めで西洋木版の研究に転じ、パリーのサン・ニコラ工業学校の教師で木版の大家なるバルバンの工場に約5年学び、次でチリア教授の下に職工として傭はれ、その間にサロンに入選した。 滞仏中松岡寿、原田直次郎、黒田清輝、五姓田義松、藤雅三等と交遊があり、同20年山本芳翠と共に帰朝し、帰国後、山本芳翠の下絵、合田清の製版で文部省教科書の仕事をした。その頃芝桜田本郷町に山本と共同で生巧館を新築し、2階を山本の画室、階下を製版工場とし、両人共門弟を養成、山本の方は生巧館画学校と称し、之は白馬会の前身となり、合田の方は生巧館木版部と称した。当時の日本橋金港堂、及び博文館出版物の挿絵、東京朝日新聞、東京毎日新聞等の附録木版を彫つた。会津磐梯山の爆発の際は朝日新聞の依頼で、山本が大形な木版台木を携へ、現地に急行写生して持帰り、合田が二日一晩で彫上げ新聞附録としたこともあつた。その後多数の門弟を養成、同22年には印刷局の依頼で、同館より暹羅へ木版講師を派遣した。一方版下に写真を応用する技術を写真師成田常吉に依頼研究の結果写真膜転置法が考案され斯界に大進歩を促した。尚当時朝日新聞の新年附録に応学筆「猛虎図」を新聞一頁大に彫刻印刷し賞讃を博した。其後同館は麻布簟笥町、赤坂溜池、渋谷伊逹跡等に次々に移転された。同29年東京美術学校に洋画科設置されるに及び、合田は仏語の講師に就任、爾後30年間勤続し、静かな余生を送つた。著述に「西洋木版昔話」(アトリエ社版)がある。

津端道彦

没年月日:1938/04/03

読み:ツバタ, ミチヒコ*、 Tsubata, Michihiko*  日本画家津端道彦は予てより神経痛のため加療中のところ4月3日逝去した。享年71歳。 明治元年10月21日新潟県中魚沼郡に生る。同19年上京、福島柳圃に南宗派を家び、同27年山名貫義に就て住吉派を、又29年旧平戸藩絵師片山貫道に土佐派を、又松原佐久に有職故実を学んだ。同35年日本美術協会歴史部の主事を委嘱され、同43年には同会第一部委員に嘱託された。又帝国絵画協会、巽画会の会員、日本画会の客員であつた。明治天皇、大正天皇の御前揮毫の光栄に浴したことがあり、文展では又2等賞1回、3等賞2回、褒状1回を受けた。又日本美術協会其他に於ては銀牌及銅牌を受けること数十回に及び5度宮内省御買上の栄に浴して居る。作品略年表明治35年 「足利忠綱宇治川先登」日本美術協会育英部展明治39年 「富士牧狩図」歴史展覧会明治40年 「嵯峨野の月」東京勧業博覧会明治41年 「勿来関」文展第2回3等賞明治42年 「龍田川図」襖4枚、大阪天満宮明治43年 「紅梅金鳩図」「紅葉白菊図」杉戸4枚、大阪天満宮明治43年 「闘鶏図」朝鮮総督府明治44年 「うたげの装」文展第5回褒状明治45年 「杣山会戦之図」屏風一双、日本美術協会展大正元年 「火牛」文展第6回2等賞大正2年 「真如」文展第7回3等賞其他 大本山総持寺紫雲台襖 大阪豊国神社「八十島祭絵巻」3巻、杉戸4枚

林明善

没年月日:1938/03/28

 洋画家林明善は3月28日逝去した。享年40歳。 明治32年9月18日名古屋市に生る。智山大学卒業後大正14年上京し、川端画学校、同舟舎を経て、片多徳郎に師事した。帝展の第8、9、11、13回及び新文展第1回に入選、又昭和7年に第一美術協会の会員に推薦されて居た。尚昭和13年4月名古屋市鶴舞公園美術館に於て遺作展が開催された。

小林福太郎

没年月日:1938/03/26

読み:コバヤシ, フクタロウ*、 Kobayashi, Fukutaro*  建築学会、日本建築士会の正員で、社寺建築の専門家である小林福太郎は、3月26日逝去した。享年57歳。 明治15年11月東京に生る。同32年工学院造家学科を卒業、内務省社寺局に奉職し、又古社寺保存会に勤務、次で宮内省内匠寮に入り、日本趣味を基調とする建築の設計を担当した。大正8年日光廟修理工事主任として赴任し、主要建造物の大修理に従つた。明治神宮御造営に際しては其事務取扱を嘱託された。後年社寺建築設計事務所を自営し、その設計に係る社寺は全国各地に亙り甚だ多数に上つて居る。尚各県より国宝建造物修理工事監督として嘱託されて居た。

美澄政博

没年月日:1938/03/24

 美術研究所嘱託美澄政博は3月24日逝去した。享年30歳。 山口県の生れで、昭和10年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年美術研究所の嘱託となり、同所の明治大正美術史編纂に従事してゐたものである。

和田不二男

没年月日:1938/03/06

 恩賜京都博物館長正6位勲5等和田不二男は脳溢血の為3月6日逝去した。享年70歳。 明治26年岐阜師範学校卒業後小学校教員、視学を経て大正6年京都府知事官房主事となつた、退職後同15年恩賜京都博物館長に任ぜられ、爾後美術界の為に尽すところが多かつた。

松岡映丘

没年月日:1938/03/02

読み:マツオカ, エイキュウ*、 Matsuoka, Eikyu*  帝国芸術院会員松岡映丘は近年心臓性喘息を病み療養中3月2日小石川雑司ヶ谷の自宅で逝去した。享年58歳。 本名輝夫、明治37年東京美術学校を卒業、同41年同校助教授となり、大正3年文展に「夏立つ浦」を出品、大和絵に新機軸を示して注目され、次で5年吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織した。文展にはその後「室君」、「道成寺」、「山科の宿」を出品して特選を贏ち得た。同7年美校教授、8年帝展審査員に就任、同10年門下を率ゐ新興大和絵を提唱する絵画運動「新興大和絵会」を創立した。昭和4年帝展出品の「平治の重盛」が院賞となり翌5年伊太利展開催に際し渡欧、同年帝国美術院の会員を仰付られた。同7年の帝展には「右大臣実朝」を出品。同10年東京美術学校教授を辞し、国画院を創立して盟主となり、大和絵による新民族絵画の建立を提唱、同12年の第1回展に六曲一双屏風「矢表」を出品したが、之が大作の絶筆となつた。 制作の上では人物画を得意とし、武者絵を最も多く作つたが、常に典雅なる画格を備へ、又「室君」「伊香保の沼」等に於ては優婉な一面を発揮した。大正3年の「夏立つ浦」以来従来の土佐絵を現代的に再生し、普遍化するに大なる指導的役割を果した。 尚古来の絵巻物、武具服飾等の故実の方面に造詣深く、又教育者としても優れた業績を挙げ、更に演劇方面に貢献せる処も少なくなかつた。略年譜年代 年齢明治14年 7月9日兵庫県神崎郡田原村に生る。(松岡操五男)明治32年 19 東京美術学校日本画科に入学、丹青会展「北の屋かげ」出品明治37年 24 東京美術学校日本画科主席卒業明治38年 25 神奈川県立高等女学校教諭兼神奈川県師範学校教諭となる明治40年 27 神奈川県女子師範学校教諭を兼任、明治40年8月右教職を辞す明治41年 28 東京美術学校助教授となる大正元年 32 第6回文展「宇治の宮の姫君達」出品大正2年 33 第7回文展「住吉詣」褒状、宮内省御買上大正3年 34 第8回文展「夏立つ浦」大正4年 35 第9回文展「御堂関白」3等賞、政府買上大正5年 36 吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織、第1回展「いでゆの雨」「若葉の山」「春光春衣」、第10回文展「室君」特選制最初の首席大正6年 37 金鈴社第2回展小品数点、第11回文展「道成寺」特選2席大正7年 38 東京美術学校教授に任ぜらる 金鈴社第3回展「枕草紙絵巻」其他、第12回文展「山科の宿」特選主席大正8年 39 東京女子高等師範学校教授を兼任 金鈴社第4回展「紅玻璃」「燈籠大臣」、第1回帝展「目しひ」 第1回帝展審査員に推挙さる、御神宝桧扇絵の揮毫を嘱託さる大正9年 40 金鈴社第5回展「伊豆の絵巻」 第2回帝展審査員大正10年 41 金鈴社第6回展「銀鞍」其他、第3回帝展「池田の宿」 第3回帝展審査員、新興大和絵会結成さる大正11年 42 金鈴社第7回展「更級日記」其他、第4回帝展「霞立つ春日野」 3月平和記念東京博審査官嘱託、金鈴社解散大正12年 43 日本画会客員となる大正13年 44 第5回帝展審査員大正14年 45 第6回帝展「伊香保の沼」、第6回帝展審査員大正15年 46 第7回帝展「千草の丘」昭和2年 47 明治天皇御神像奉納昭和3年 48 第9回帝展「さ月まつ浜村」、同展審査員、静岡県茶業組合よりの献上画「富嶽茶園」を謹作、朝鮮ポスター展審査官、御大典奉納名古屋博及国際美術審査員昭和4年 49 第10回帝展「平治の重盛」院賞昭和5年 50 2月羅馬開催日本美術展の為渡欧、日本美術展「屋島の義経」「伊衡の少将」「時雨ふる野路」「東海」 第11回帝展「即興詩人」 帝国美術院会員仰付らる、新興大和絵会解散昭和7年 52 第13回帝展「右大臣実朝」昭和8年 53 5月第12回朝鮮美術展審査の為渡鮮 第14回帝展「花のあした」昭和9年 54 第15回帝展「安土山上の信長」昭和10年 55 9月国画院創立、東京美術学校教授を辞す昭和11年 56 明治神宮聖徳記念絵画館壁画「神宮親謁」を完成、文展第1回展審査員昭和12年 57 国画院第1回展「矢表」「後鳥羽院と神崎の遊女達」 帝国芸術院会員仰付らる昭和13年 58 3月2日没

小村大雲

没年月日:1938/02/20

読み:オムラ, タイウン*、 Omura, Taiun*  日本画家小村大雲は2月20日郷里島根県簸川郡平田町に帰省中逝去した。享年56歳。 本名権三郎。明治16年島根県に生る。18歳の時、京都に出で、一時都路華香に師事したが、明治36年山元春挙塾早苗会に転じ、そこで名を成した。大正元年第6回文展出品の「釣日和」が3等賞となり、其後続いて3等賞を3回、特選を2回獲得し、同8年推薦され、その後は2度帝展の委員に就任した。文展、帝展の出品目録は左の通りである。文展第6回 「釣日和」3等賞文展第7回 「放ち飼」3等賞文展第8回 「憩ひ」3等賞文展第9回 「東へ」3等賞文展第10回 「画舫」特選文展第11回 「神風」特選文展第12回 「古代の民」帝展第1回 「佐登」推薦帝展第3回 「美哉蒼窮」帝展第4回 「剛敵」帝展第5回 「往時追懐」帝展第8回 「清風山月」帝展第9回 「梁風子」帝展第12回 「黄金の茶室」帝展第14回 「三蔵渡印」以上

関如来

没年月日:1938/02/20

読み:セキ, ニョライ*、 Seki, Nyorai*  美術評論家関如来は動脈硬化症の為、東京府立大塚病院に於て逝去した。享年73歳。 本名巌二郎、慶応2年11月16日大和櫛羅藩永井信濃守の家臣関祐忠の四男として葛城山下の藩地に生る。明治10年大阪府立大阪英語学校に入学、ついで東京大学予備門に転じ、同18年同校を退き、同27年読売新聞社に入社、文学及美術を担当した。同30年、一時帝国博物館の帝国美術略史編纂を嘱託され、又同年臨時博覧会事務局の事務を嘱託され、同32年には臨時博覧会鑑査官を仰付けられた。同31年日本美術院創立に参画し依つて天心よりその正員たらんことを求められたが受けなかつた。同35年読売を退社、美術史の著作に従事し、傍ら「ステユデイオ」社の日本通信員となつた。同43年読売に復社し美術部主任となつたが、大正3年退社した。昭和4年京都日出新聞社より聘せられてその発行人となり爾後京都に寓居した。読売入社当時訪問記事「当世名家蓄音器」を連載、その後31年の美術学校紛擾の際も美術記者として筆を揮つた。又29年より美術評論の執筆に生涯を終始した。「美術」「書画之研究」「関」等の雑誌を発行したことがあり、著者としては「当世名家蓄音機-文禄堂発行」、「五色の酒-春陽堂発行」があり、其他「日本靖献帖」の解説編輯、「霊華追悼画集」の編纂等がある。

渡辺晨畝

没年月日:1938/02/11

読み:ワタナベ, シンキュウ*、 Watanabe, Shinkyu*  日本画家渡辺晨畝は2月11日逝去した。享年72歳。 慶応3年11月3日福島県安積郡多田野村に生る。荒木寛畝の門に花鳥を学ぶ。日本画会、日本美術協会々員となり、孔雀の絵を得意としてゐた。大正7年支那に漫遊、北京に於て日華聯合絵画研究会を組織し、同10年及び13年に日華聯合展を開催、又昭和9年には新京に日満聯合展を開催した。満洲国皇帝の知遇を辱ふし、日満支三国美術の交驩に貢献せる処大であつた。尚、東方絵画協会幹事の任にあつた。

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