本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





北野恒富

没年月日:1947/05/20

美人画家として知られた関西画壇の重鎮北野恒富は5月20日大阪府中河内郡の自宅で心臓麻痺のため急死した。享年68。明治13年金沢に生れ、名は富太郎、都路華香につき、大阪に出て野田九浦らと大正美術会をおこし、大正4年大阪美術会を創立、同7年には水田竹圃らと茶話会を設立した。文展第4回に「すだく虫」、5回に「日照雨」を出して知られ、大正3年再興美術院展が開かれると共にこれに作品を発表、大正6年同人となり、情緒濃厚な美人画によって特異の存在をうたわれた。昭和10年帝国美術院無鑑査に指定された。院展の出品作を列記すれば、「願の糸」(1)、「鏡の前」(2)、「道頓堀」(3)、「湯の宿」(6)、「茶々」(8)、「夕べ」(10)、「浴後」(11)、「むすめ」(12)、「涼み」(13)、「朝」(14)、「宵宮の雨」(15)、「戯れ」(16)、「阿波踊」(17)、「宝恵籠」(18)、「口三味線」(20)、「花」(22)、「大童山」(23)、「お茶室へ」(24)、「五月雨」(25)、「夕空」(26)、「幾松」(28)、「真葛庵の蓮月」(29)、「薊」(30)があり、そのほか聖徳記念絵画館壁画の「御深曽木」新帝展の「いとさん、こいさん」などの注目される作がある。

石川宰三郎

没年月日:1947/03/26

美之国社々長石川宰三郎は3月26日死去した。享年57。明治24年栃木県に生れ、大正2年早稲田大学文学部を卒業した。在学中より美学及美術史を専攻し、大正3年2月より美術雑誌「審美」の編輯主任となつた。同14年3月美之国社を創設、美術雑誌「美之国」を発刊、主幹として編輯の任に当つた。その間報知新聞、都新聞、やまと新聞等の美術記者として批評等を執筆、又早稲田美術学会幹事、東京都美術館評議員、「離騒社」幹事等をつとめた。著書に「明治大正昭和日本絵画史」がある。

石崎光瑤

没年月日:1947/03/25

日本画家石崎光瑤は3月25日死去した。享年64。明治17年富山県に生れ、竹内栖鳳に師事した。大正元年第6回文展に入選以来毎回出品し、文帝展審査員をつとめた。大正5、6年及び昭和8年に印度に旅行し、大正11、12年には欧州を巡つた。昭和10年帝国美術院改組とともに指定となり、昭和11年に京都市立美術専門学校教授におされた。帝国美術院賞をうけた「熱国研春」や「燦雨」「春律」等の代表作があり、写実を生かした華やかな装飾画風を示した。

濱地青松

没年月日:1947/03/18

第一美術協会理事濱地青松は3月18日郷里和歌山で死去した。享年62。明治19年和歌山県に生れ米国ボストン美術学校を卒業、アメリカに13年、フランスに2年滞留したが、帰朝後は帝展にも第9回以来出品し特選を受けるなど、文展の無鑑査として、又第一美術協会理事として活躍した。

木谷千種

没年月日:1947/01/24

閨秀日本画家木谷千種は1月24日大阪府河内郡の自宅で死去した。享年53。名を英といい、吉岡政二郎の女として明治28年大阪に生れた。池田蕉園、北野恒富、菊池契月に師事し、大正4年文展第9回以来官展に出品、女性的な人物画をよくした。近松研究家木谷蓬吟の夫人で私塾「八千草会」を開き後進の指導にも当つていた。

杉田益次郎

没年月日:1947/01/22

西洋美術史家杉田益次郎は、1月22日大田区の自宅に於て没した。享年39。明治40年東京に生れ、上智大学に学んだ。美術研究所に勤務、その後ニユーヨーク、メトロポリタン美術館東洋部に暫く在勤、病を得て帰国した。西洋美術史の研究を続け、その訳書に「レオナルド・ダ・ヴインチの絵画論」ヴエルフリンの「イタリヤとドイツ」等がある。

前田荻邨

没年月日:1947/01/19

京都市立美術専門学校助教授、晨鳥社同人、前田荻邨は1月19日京都市上京区寺町今出川の自宅に於て心臓麻痺で死去した。享年53。本名を八十八といい、明治28年兵庫県に生れた。大正5年京都市立美術工芸学校、同8年京都市立絵画専門学校、同10[※11とあるのを10に修正してある]年同校研究科を卒業した。なおこの間西村五雲画塾に学んだ。第2回展以後引続き帝展に作品を発表し、昭和6年第12回展の「潮」は特選となり、同9年には帝展推薦となつた。新文展以後は無鑑査として活動を続け、西村五雲の門弟により組織されている晨鳥社の総務を勤めていた。他方京都市立美術学校教諭、京都市立絵画専門学校助教授として教育面に力を尽していた。

濱田葆光

没年月日:1947/01/18

二科会員濱田葆光は1月18日奈良市の自宅で脳血栓症のため死去した。享年65才。明治19年高知に生れ、中村不折、満谷国四郎に師事した。はじめフユーザン会や院展洋画部に作品を発表していたが大正5年第3回二科展で樗牛賞を授けられ、以来二科に出品を続け昭和7年第19回展に会員に推された。大正10年から12年にかけ外遊した。住居の関係からか主として鹿を題材とした装飾画風の絵を二科展に出陳、奈良風景と鹿の画家として著名であつた。全関西洋画協会の特別会員でもあつた。

黒板勝美

没年月日:1946/12/21

東京帝国大学名誉教授、文学博士黒板勝美は、12月21日老衰のため渋谷区栄通の自宅で逝去した。享年73。明治7年長野県に生る。東京文科大学史学科を卒業、古文書学の研究によつて文学博士の学位を受く。史料編纂官、東京帝国大学文学部教授(国史学科)となり、昭和10年停年により退官、名誉教授となつた。傍ら国宝保存会、史蹟名勝天然紀念物調査会、重要美術品等調査委員会、法隆寺保存協議会、御陵墓調査委員会等の委員となる。この間欧米、東亜諸国に遊学した。晩年日本古文化研究所を創立、これを主宰し、藤原宮阯の調査に業績を挙げた。主なる著書に「国史の研究」「欧米文明記」「義経記」等があり、著述論文等の全集に「虚心文集」がある。又国史大系を編輯し、国史の古典的記録を校訂出版した。

小山内龍

没年月日:1946/11/01

漫画家、童画家として親しまれていた小山内龍は11月1日疎開先の北海道亀田郡で心臓病のため死去した。享年43。本名を澤田鉄三郎といい、明治37年函館に生れた。上京独学して昭和7年新漫画派集団会員となり。以後漫画、童画にわたつて活躍していた。

牧野虎雄

没年月日:1946/10/18

洋画家牧野虎雄は10月18日四谷区の自宅で死去した。享年57。明治23年12月15日新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生れた。41年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二、黒田清輝の指導を受け同校の特待生となり、在校中第6回文展に「漁村」「朝の磯」の2点が初入選となり早くも頭角を現わした。大正2年に同校を卒業続いて研究科に入つた。以後官展に出品、昭和10年帝展改組以来は審査員も辞し出品も中止した。大正13年槐樹社を起し昭和6年同社解散迄は専ら同展により作品を発表した。又昭和5年に六潮会を起し、これにも毎年出品、昭和6年槐樹社解散後は門下生を率いて旺玄社を創立、後進を指導する傍ら同展により作品を発表した。尚昭和4年帝国美術学校洋画科教授となつたが、同10年に辞し、続いて多摩帝国美術学校の創立に尽力、同校洋画科主任教授を勤めていた。大正初め、初期の作品は重苦しい暗色を多く用いていたが、後、明色による明るい平明な画面となり、晩年は日本画の平面的な表現を取り入れ独自の様式化をみせていた。略年譜明治23年 12月15日、新潟県高田市に牧野藤一郎二男として生る。明治41年 東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝、藤島武二の指導を受けることとなる。大正元年 在学中、第6回文展に「漁村」「朝の磯」初入選。大正2年 東京美術学校を卒業、更に同校研究科に入る。大正3年 第8回文展に「満潮」「汐浴み」入選。大正4年 第9回文展出品の「紅葉の下湯」は3等賞を受く。大正5年 第10回文展出品の「渓流に水浴」は特選となる。大正6年 第11回文展「山間の初夏」出品、無鑑査となる。大正7年 第12回文展に「山懐の秋色」「麦扱く農婦等」を出品後者は特選となり、又巴里日本美術展にも出品した。大正8年 帝国美術院創設と共に洋画部推薦となる。第1回展には「庭」「着船場」を出品す。国民美術協会第5回展に「浮雲」を出品。7月、安宅安五郎 片多徳郎、田邊至等20名と共に新光洋画会を起した。大正9年 第2回帝展に「花苑」「磯」を出品。大正10年 第3回帝展に「中庭」「燈台の朝」出品。大正11年 第4回帝展洋画部審査員となる。「百日紅の下」「園の花」出品。大正13年 槐樹社を起す。第5回帝展に「梧桐」「凧揚」出品。大正14年 第6回帝展に「春去らんとす」出品。大正15年 第7回帝展に「罌粟」「裸婦」を出品。昭和2年 第8回帝展に「晩き夏」「向日葵風景」出品。昭和3年 第9回帝展に「南の部屋」出品。昭和4年 第10回帝展に「向日葵」を出品。帝国美術学校洋画科教授に就任。昭和5年 第11回帝展に「へちま」出品。木村荘八 福田平八郎、山口蓬春等と共に美術に関する諸般の研究、及毎年展覧会開催の目的を以て六潮会を創立す。昭和6年 第12回帝展に「白閑鳥」出品。槐樹社解散す。昭和7年 第13回帝展に「村の娘達」出品。門下生を率いて旺玄会を創立す。昭和8年 第14回帝展に「麦秋」出品。昭和9年 第15回帝展に「秋近き浜」出品。昭和10年 帝展改組以来は審査員の交渉を受けたが応ぜず、出品もしなかつた。帝国美術学校教授を辞し、多摩帝国美術学校設立者の一人として尽力し、同校洋画科主任教授となる。11月、初期から現在に至る迄の代表的作品120余点を陳べ、大阪朝日会館にて個展を催す。昭和13年 12月銀座三昧堂で個展(小品20余点)開催。昭和15年 3月資生堂ギヤラリーにて日本画展開催。昭和21年 8月「朝顔図」に着手、9月5日頃完成。10月18日没。

山本鼎

没年月日:1946/10/08

洋画家山本鼎は長野県の疎開先で腸閉塞のため10月8日没した。享年65。山本鼎は東京美術学校洋画科在学中、級友森田恒友と常に首席を争つた位で、早くから油彩技術には頭角を現し、渡欧後は一そう優れた技術を示し、院展洋画部、春陽会、官展等で活躍したが、画風からいへばアカデミツクな系統に立つ作家であつた。又明治の末、創作版画の運動を起し、のち日本創作版画協会を結成、現代版画発生の端緒を作つた外、欧州留学後は農民美術や自由画運動を起し、多方面に功績を残した。然し、洋画家として最後迄油絵を描きつづけた人で、晩年も尚「時化の朝」などの濶達適確な描写による優れた代表的作品を残している。略年譜明治15年 10月14日愛知県岡崎市に生る。父山本一郎(医師)長男。明治19年 森鴎外の許に入門していた父を尋ねて母と上京。三河島に住む。明治25年 11才。西洋木版家櫻井氏の内弟子となる。明治33年 櫻井氏の許を離れ、独立して報知新聞に入社す。明治39年 東京美術学校西洋画科選科卒業。森田恒友と同期。明治40年 26才。雑誌「方寸」を石井柏亭、森田恒友、小杉未醒等と発行。この頃から又、パンの会等にも関係す。42年頃、油絵「柿日和」の作などあり。大正元年 渡欧。大正5年 ロシアを経て帰朝。大正6年 日本美術院洋画部同人となる。第4回院展に滞欧作10数点を出品。9月、北原白秋の妹、家子と結婚。大正7年 戸張孤雁と共に日本創作版画協会を起す。第5回院展に「ナチユールモルト(一)(二)」「トマト」「夏の山」「温泉路」を出品。大正8年 長野県小県郡に日本農民美術研究所設立。第6回院展に「町長の肖像」「ダリヤの花」大正9年 第7回院展に「ブルトンヌ」を出品。この年日本美術院を脱退。大正10年 自由学園創立と同時に美術部教授となる。大正11年 春陽会の創立に加わり会員となる。大正12年 春陽会第1回展に「唐松の港」出品。大正13年 台湾に旅行。「台湾の女」大正14年 春陽会第4回展に「松林」「梅(一)(二)」「台湾の少女」出品。昭和2年 春陽会第5回展に「独鈷山雪景」「雪の常楽寺」出品。昭和3年 春陽会第6回展に「温泉場即興」出品。昭和4年 春陽会第7回展に「から松山」を出品。昭和5年-昭和7年 春陽会に出品作なし。昭和8年 春陽会第11回展に「ばらの花」「卓上薔薇」「白菜と玉葱」「アルプスの農家」出品。昭和9年 春陽会第12回展に「朝鮮の壺へ活けた花」「朝の白馬山」「菊」「盆栽のつつじ」「メノコのクロツキー」「海」出品。昭和10年 春陽会第13回展に「大瀬即興」「白菜図」「読書」出品。7月日動画廊で近作展を開催。熱海風景など10数点を出品。この年、帝国美術院改組に際し、帝国美術院参与に推され、山崎省三、前川千帆等と春陽会を退会す。9月山崎省三等身辺の人と催青会を設立。昭和11年 5月、日動画廊で個展を開催小品等約30数点を出品。文展招待で「多瓜」出品。昭和12年 第1回文展に「園長の像」三越洋画小品展に「雪ふる海」出品。昭和13年 3月、日動画廊で個展開催、近作サムホールを出品。昭和15年 1月、日本橋三越で新作油絵の個展を開催「カトレヤ」他20数点を出品。紀元二千六百年奉祝展に「時化の朝」出品。昭和16年 第4回文展に「霧の湖畔」、9月仏印巡回展に「雪の日入江」を出品。昭和17年 第5回文展に「たばこ一ぷく」出品。11月、榛名山に写生旅行中脳溢血で倒れ左半身不随となる。昭和18年 第6回文展に「紅富士」出品。春陽会に復帰。昭和19年 春陽会第22回展に「あかときの富士」出品。昭和21年 腸閉塞となり、手術の結果悪く遂に10月8日死去した。昭和22年春陽会展に「Y婦人の像」を出品。翌23年春陽会第25回展に山本鼎の遺作室を設けた。

田中善之助

没年月日:1946/09/18

春陽会々員田中善之助は9月18日京都市上京区の自宅で病を得て死去した。享年58才。明治22年12月京都西陣に生れ、15才の頃、日本画家岩城清★に就て学んだが、一年余にして退門し家業に従つた。更めて洋画を志し明治38年11月聖護院洋画研究所に入つた。翌年家情に依つて研究の中断を余儀なくされようとしたが、師浅井忠の庇護に依りその内弟子となつた。41年第2回文展に南紀湯崎での風景画「紀州海岸」が入選、爾来関西美術院に於ける富贍な諸作を以て一時京都洋画界に特異の存在と目されていた。43年同院第4回展の「女」や44年第1回仮面会展の「芸妓」はこの期の代表作である。44年田中喜作と謀り、洋画家では津田青楓、黒田重太郎等、日本画家では土田麦僊、小野竹喬等と共に黒猫会運動を起して当時の京都画壇に一石を投じた。大正9年渡欧、12年帰朝したが滞欧中春陽会の会員に推挙され、同年5月同会第1回展には滞欧中の諸作を発表した。帰朝後関西美術院の指導に当り、京都市美術展創設以来の審査員に推されていた。豊麗な色彩と重厚な筆触をもつて、屡々台湾に遊んで得た南島熱国の風景や牡丹、舞妓等を多く題材として堅実なる画風に特色をみせた。尚、昭和7年全関西美術協会と共に関西の有力な二大団体の一たる新興美術教会を春陽会系同志と共に創立し、終始関西にあつて後進を導くに貢献するところがあつた。

香田勝太

没年月日:1946/09/13

白日会々員香田勝太は9月13日死去した。享年62。明治18年鳥取県に生れ、同43年東京美術学校を卒業し、大正15年に渡仏、昭和4年帰朝した。第二部会・白日会々員・文展無鑑査として作品を発表する他、女子美術学校教授として教育に力を尽した。

柴田安子

没年月日:1946/07/27

旧新美術人協会々員柴田安子は7月27日世田谷区の自宅で逝去した。明治40年9月秋田県平鹿郡の素封家に生れ、番町、千代田高等女学校卒業後松岡映丘に師事し、木之華社会員となり、次いで青龍社に作品を発表した。昭和13年福田豊四郎、吉岡堅二らにより、新美術人協会が設立されてからは同会々員として毎年新傾向の日本画を発表し、注目された。戦後新日本画の革新を目指して起つた創造美術の結成を前に死去したものである。主な作品昭和10年 牧婦 青龍社7回展昭和11年 めうはど 春の青龍展昭和11年 女仲仕 春の青龍展昭和12年 わかれ 春の青龍展昭和13年 花 新美術人協会1回展昭和14年 叢林 新美術人協会2回展昭和15年 灑衣 新美術人協会3回展(研究会員賞)昭和16年 搗杵 新美術人協会4回展昭和17年 帽、小児 新美術人協会5回展昭和18年 山脈、落下傘工場 新美術人協会6回展昭和19年 木材供出 決戦美術展

吉田秋光

没年月日:1946/06/21

日本画院同人吉田秋光は山梨県中巨摩郡の疎開先で6月21日急性肺炎で死去した。享年60。本名は清二、昭和20年金沢に生れ、同43年東京美術学校日本画科を卒業した。大正6年第11回文展以来、帝展・新文展等に出品、第4回帝展には特選となりその後無監査・審査員等として活躍した。そのほか日本画院同人、巴会々員であつた。

井上和雄

没年月日:1946/06/20

浮世絵研究家として知られていた井上和雄は6月20日藤沢市の自宅で逝去した。享年58。号を雨石といい、明治22年東京で生れ、浮世絵・明治文化史・古典籍研究等に造詣が深く、「慶長以来書賈集覧」「宝船集」「浮世絵師伝」等の著があり、「歌麿浮世絵集」「浮世絵歌舞伎画集」「国芳版画傑作集」「続浮世絵大家集成」等の画集を編集した。

谷脇素文

没年月日:1946/04/28

漫画家谷脇素文は敗血症のため高知県高岡郡の自宅で死去した。享年69・本名を清澄といい、明治11年高知市に生れ、柳本素石に師事、漫画・挿画等を画いたが、特に川柳漫画に独特の画風を持つていた。

今関啓司

没年月日:1946/03/31

春陽会々員今関啓司は胃潰瘍のため千葉県長生郡の疎開先で逝去した。享年54。明治26年3月3日千葉県長生郡に生れ、20才頃上京、日本美術院に学び、院展洋画部に出品していたが、大正11年春陽会発会と共に客員となり、同13年会員となった。以後毎年同会展に多くの作品を発表した。昭和13年春陽会の文展参加以後は文展無監査であつた。

津田信夫

没年月日:1946/02/17

鋳金界に近代的な作風を出して知られた津田信夫(号大寿)は2月17日谷中の自宅で逝去した。年71。明治8年10月23日千葉県佐倉に生れ、同33年7月東京美術学校鋳金科を卒業、34年4月同校雇となり、翌年3月助教授に進んだ。大正8年あげられて教授となり、同12年1月文部省より在外留学の命をうけて出発、14年12月に帰朝した。昭和2年帝展に工芸部が新設されると同時にその委員となり、以後審査員たること数回、昭和10年7月帝国美術院会員、同12年芸術院会員におされた。この間フランスより昭和3年オフイシエダカデミー勲章、昭和8年オフイシエエトアルノアール勲章を贈られ、また昭和16年6月には工芸技術講習所教授となり、昭和19年6月退官した。正4位勲4等にすすんだ。代表作としては、明治43年に作つた日本橋上部鋳造装飾の獅子頭があり、昭和5年作の議事堂貴賓室扉の装飾も知られている。展覧会の出品作としては「夕暗」(帝8)、「引吭長鳴」(帝9)、「ラヂエーターの装飾」(帝10)、「クーラー」(帝11)、「鋳銅新秋誦無置物」(帝14)、「鳳翔薫炉」(新文1)、「鋳銅?波衝天」(新文2)、「鋳銅飛躍」(奉)、「北辺夜猫子鋳金置物」(新文4)、「青銅万法始終」(新文5)などがある。

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