本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





松山省三

没年月日:1970/02/02

洋画家松山省三は、2月2日死去した。享年86歳。明治41年東京美術学校を卒業し、その後、黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、藤島武二らに師事して、白馬会系統に属し、官展にも出品した。大正4年、院展洋画部が出来て以来ここにも出品した。また画業のかたわら、明治44年わが国喫茶店の草分けとして知られるカフェー・プランタンを開店し、当時文人墨客の集合所となった。なお俳優河原崎国太郎は長男にあたる。

高橋辰雄

没年月日:1970/01/25

春陽会々員高橋辰雄は1月27日逝去した。明治37年仙台市に生れ、中学卒後代用教員を暫らく務めたのち昭和の初め上京、山本鼎の研究所、次で春陽会洋画研究所に学び、昭和4年「代々木の一部」、6年「放水路風景」などが同展で入選、殊に戦後は仕事も順調で昭和23年春陽会々友、26年会員に推され、風景、静物・花を主とし、澄んだ色調の、温雅で詩情に富んだ作品をのこしている。

小泉繁

没年月日:1970/01/22

創元会委員小泉繁は、明治31年8月11日東京下谷に生れた。東京美術学校製版科、並びに同校師範科を中途退学、大正14年第6回帝展に出品入選、以後帝展、日展に随時出品、昭和27年第8回日展「画室」は特選となった。翌年無鑑査、更に出品依嘱者待遇をうけ、また創元会にも出品、同会委員であった。主な作品は「画室」のほか「椅子の上の静物」(50号・第12回日展出品)、「静物」(50号・第33回創元会展出品)など。又、日本山岳画協会々員として毎年同展に出品していた。

光安浩行

没年月日:1970/01/19

日展評議員、示現会常任委員、光安浩行(本名、弥市)は、1月19日胃ガンのため逝去した。享年79歳。明治24年1月福岡市に生れた。県立修猷館中学校卒業後太平洋画会研究所に入り、中村不折、岡精一の指導をうけ、大正時代は主に郷里福岡で画業につとめていた。大正13年結婚、翌年上京し、15年の第7回帝展に「静物」が初入選となった。その後は帝展、文展、また太平洋美術画会展に出品、戦後は日展と示現会に作品を発表して、昭和25年第6回日展で「明日」が特選となっている。なお、晩年近く、山林美術協会を結成して同展にも出品をつゞけていた。作風は写生をもととしながら単純化、装飾化に独自の特徴があり、明快でしかも重厚な色調の婦人像、風景を画いている。明治45年 太平洋画会研究所に入る大正9年 郷里福岡で画業に勤む大正13年 結婚、翌年上京、上海旅行、個展開催。大正15年 第7回帝展初入選「静物」(30号)昭和3年 第24回太平洋画会展出品「静物」(50号)昭和4年 太平洋美術学校教授を勤む昭和16年 文展無鑑査待遇をうける昭和20年 福岡市へ疎開昭和22年 示現会を同志と創立昭和25年 第6回日展「明日」(100号)特選昭和27年 日展依嘱作家となる昭和29年 5月、山林美術協会結成、翌年第1回展開く。昭和42年 日展評議員となる。昭和45年 1月19日没

森本健二

没年月日:1970/01/12

第二紀会々員森本健二(旧姓吉沢)は大正2年9月6日奈良県生れ、奈良師範学校卒業ののち東京美術学校(現東京芸大)図画師範科に学び昭和16年卒業した。昭和22年第二紀会創立より同会に参加し鍋井克之に師事、昭和27年受賞、28年同人に推挙され、30年第二紀会委員に推挙された。抽象派の作家。大阪教育大学教授で、昭和32年には沖縄に文部省より美術教育指導者として派遣されている。

池部鈞

没年月日:1969/12/17

洋画家、一水会運営委員池部鈞は、12月17日午後10時25分、心不全のため療養中の東京都八王子市・永生病院で死去した。享年83歳。19日多摩霊園で密葬、告別式が22日台東区の妙情寺で行なわれた。明治19年東京本所に生まれる。旧姓山下。下谷小学校高等科一年頃、同級生に石井鶴三があり、12才の時(明治31年頃)神田の錦城中学に入学、明治32~3年の頃、白馬会展で展観作品の迫真的な表現に感動し、同35年中学3年の頃、石井柏亭の門をたたいたが断られ、渡部審也を紹介される。明治43年東京美術学校西洋画科を卒業、同窓に藤田嗣治、岡本一平、田中良、近藤浩一路、長谷川昇らがいた。同44年朝鮮京城日報社に入社、大正3年国民新聞に入社して政治、社会、議会、相撲などの漫画を描く、先輩に平福百穂がいて議会スケッチで活躍中であった。大正5年には、漫画誌「トバエ」が創刊され参加し、続いて翌6年には「漫画」の創刊にも参加する。その後も「漫画の畑」(大正11年)、「漫画ボーイ」(大正14年、山田みのる、前川千帆らと共に)などの各創刊号に参加執筆してすっかり漫画界での一人者となり活躍したが、本来の油絵では、大正10年帝展に「大道芸人」を出品、昭和3年9回帝展「少女球戯図」や同5年11月帝展「踊」が特選に挙げられ無鑑査となった。以後引続き官展に出品、昭和13年一水会に会員として参加、市井の人物や生活を対象に観察眼鋭く、端的に要約把握された作風で知られ、のち一水会委員、日展評議員をつとめ、昭和41年芸術院恩賜賞を受賞、翌42年には勲四等旭日小綬章をうけた。主な展覧会出品目録。(帝展)第3回 大正10年 大道芸人第4回 大正11年 夜角力第5回 大正13年 先生と生徒第6回 大正14年 仮装第7回 昭和元年 名古屋万歳第9回 昭和3年 少女球戯図第10回 昭和4年 線路工夫第11回 昭和5年 踊第12回 昭和6年 唄ふ女第13回 昭和7年 孫第14回 昭和8年 子供遊戯図第15回 昭和9年 落花(文展)第4回 昭和16年 島の女第5回 昭和17年 対峙(紀元二千六百年奉祝美術展)昭和15年 鰹(日展)第1回 昭和21年 村の子第2回 昭和21年 風神雷神第4回 昭和23年 闘鶏図第5回 昭和24年 切株第6回 昭和25年 温泉客第7回 昭和26年 姉妹第8回 昭和27年 祭礼第9回 昭和28年 湯治客第10回 昭和29年 祭り天国第11回 昭和30年 漁港第12回 昭和31年 熱演第13回 昭和32年 落花酔態(新日展)第1回 昭和33年 盆踊第2回 昭和34年 浜の長老第3回 昭和35年 畳第4回 昭和36年 温泉第5回 昭和37年 だるま第6回 昭和38年 勝鬨第7回 昭和39年 ふぐ提燈第9回 昭和41年 美人一列第10回 昭和42年 鶏と犬(一水会)第2回 昭和13年 村落の娘 山村の娘 漁夫 母と子第3回 昭和14年 眠れる子 港 東北の娘 小妓 煙草第4回 昭和15年 宵祭 鰹第5回 昭和16年 温泉場 伊豆の海 枯野第6回 昭和17年 釣魚 湯町第7回 昭和18年 海 池第8回 昭和21年 軍鶏を飼う人 甘藷の収穫 村の小学生第9回 昭和22年 作品(一) 作品(二)第10回 昭和23年 学校帰り第11回 昭和24年 花見第12回 昭和25年 舞扇 はらみ猫 老巡査 軍鶏を飼う人第13回 昭和26年 村角力見物 縄飛び第14回 昭和27年 勝負師(闘鶏) 潮風第15回 昭和28年 北海道の子供 浜の祭礼第16回 昭和29年 祭礼 漫才泰平第17回 昭和30年 賑やかな連中第18回 昭和31年 雨あがり おもちゃ屋の娘第19回 昭和32年 花 笠第20回 昭和33年 銀座 浅草公園第21回 昭和34年 盆踊の一隅 七夕第22回 昭和35年 車庫 土用浪

油谷達

没年月日:1969/12/06

読み:あぶらやたつ  洋画壇の耆宿、油谷達は12月6日午前7時老衰のため、東京都目黒区の自宅で死去した。享年83歳。明治19年11月22日東京日本橋区の国定教科書出版の元祖であり、またコロタイプ印刷図版の先駆をなした「東洋美術」の出版元であった博文堂、原田庄左衛門の次男に生まれた。のち油谷家を嗣ぎ姓が変った。富士見小学校、商工中学を経て東京美術学校西洋画本科(同期生に明治43年3月卒業の藤田嗣治、田辺至、池部鈞らがいた)に入学したが中退した。大正7年から兵庫県川辺郡に移住し、以来昭和41年東京へ帰住するまで、特に戦前、関西在住の官展系有数の洋画家として知られた。大正10年第3回帝展で「初秋の湖畔」が初入選してより、帝展、文展と官展に作品を発表し続け、昭和6年には帝展無鑑査となった。また大正13年3月には、田辺至、牧野虎雄、斎藤与里、高間惣七、大久保作次郎らとともに槐樹社を起し、その会員となって、昭和6年同社解散までは専ら同展により作品を発表した。解散後は同志会員だった人々が旺玄社や東光会など、それぞれ新たに団体をつくったが、そのいずれの会からの誘いをも断って、専ら官展一途に発表を続けた。戦後の晩年は中央画界に作品を発表せず、ただ個展の開催は主に戦前にさかのぼるが終始20回に及んだ。 代表作には、「大阪駅」(大正11年作、第一貴賓室に寄贈)、「夏の日」(大正13年、第5回帝展)、「花畑」(昭和3年、第9回帝展)、「室内」(第10回帝展)、「郊外の或る日」(第12回帝展)、「モデル人形のある静物」(昭和12年、第1回新文展)等がある。

中村岳陵

没年月日:1969/11/20

日本画家中村岳陵は、11月20日急性肺炎のため逗子市の自宅で死去した。享年79才。本名恒吉。明治23年静岡県下田に生れ、10才で上京し、13才で野沢堤雨について琳派を学んだ。15才のとき土佐派の川辺御楯に就き、伝統的日本画の諸法を修めた。明治41年東京美術学校日本画科選科に入り、また紅児会にも加わって若い作家と新時代の芸術に対しての共鳴を得、大いに情熱を燃やした。同45年美校を卒業したが、在学中飛び越し進級するなど秀才ぶりがうかがえる挿話もある。卒業の年第6回文展に「乳糜供養」が初入選し、大正3年には今村紫江、速水御舟らと赤燿会を創立した。院展には再興第2回展に「薄暮」を出品して日本美術院同人に推され、その後、院展の中心作家として活躍したが、戦後これを脱退し、以後日展に所属し、ここを舞台に没するまで制作活動をつづけた。この間、六潮会を起し、法隆寺壁画模写主任となり、大阪四天王寺全堂壁画を描き朝日文化賞、毎日芸術大賞をうけた。さらに昭和37年には文化勲章を受与されるなど現代日本画壇の重鎮として、華やかな足跡をのこした。作品は近代西欧絵画の理解による日本絵画への移入を試み、常に意欲的姿勢を示した。日本芸術院会員。新日展運営会常務理事。 年譜明治23年 3月10日静岡県下田に生る。明治33年 上京して本所に住す。明治35年 はじめて野沢堤雨に師事、光琳派を学ぶ。明治37年 土佐派の川辺御楯に師事す。この年「名和長年船上山に登る図」を日本美術協会に出品。明治41年 東京美術学校日本画選科に入学。また紅児会にも入る。「水神」明治42年 「天草四郎時貞」紅児会展に出品。明治43年 美校全期合同競技に「山田長政像」を出し甲の部首席となる。その結果、特別進級されて一挙に卒業期に入る。明治44年 内国勧業博「薬草狩」を出品、三等賞受賞。明治45年 東京美術学校卒業制作「仏誕」を出し首席卒業。第六回文展「乳糜供養」入選。大正3年 今村紫紅 速水御舟らと赤耀会を創立。再興院展第一回「緑蔭の饗莚」入選。大正4年 院展第2回「薄暮」出品と同時に同人に推挙さる。大正5年 院展第3回「維盛高野の巻」。大正6年 院展第4回「大月氏行」。大正7年 院展第5回「にしのひかり」。大正8年 院展第6回「潮鳴」。大正9年 院展第7回「千本桜」。大正10年 院展第8回「輪廻物語」。大正11年 院展第9回「緑蔭嬉遊図」。大正12年 院展第10回「昏光経」(鳥獣戯画絵巻)。大正13年 院展第11回「荒天睨鷲」「動相讃頌」。大正14年 院展第12回「童謡」朝鮮経由北部中国に遊ぶ。大正15年 院展第13回「梳髪」。昭和2年 院展第14回「貴妃腸浴」。昭和3年 院展第15回「流泉四趣」日本美術学校日本画主任教授となる。昭和4年 院展第16回「白狗」日光東照宮社務所障壁画制作。昭和5年 院展第17回「雄鹿鳴く」「鉢かつぎ草紙」日本美術学校教授退職。福田平八郎、山口蓬春らと六潮会を創立。昭和6年 院展第18回「婉膩水韻」多摩美術学校日本画主任教授となる。昭和7年 東京より逗子に移転、六潮会第1回「軍鶏」「狗児」。昭和8年 院展第20回「都会女性職譜」多摩美術学校教授退職。六潮会第2回「雪」。昭和9年 院展第21回「砂丘」六潮会第3回「檜」「筍」「霜晨」両陛下献上画帖「筍」。昭和10年 帝国美術院改組により参与に推さる。院展第22回「爽秋」六潮会第4回展「春朝」「寒牡丹」。昭和11年 帝展第1回「豊幡雲」院展第23回「みづかげ」皇后、皇太后陛下御下命の御末広並びに御勅題のもの謹画。昭和12年 帝国芸術院創設第1回文展審査員に任命さる。文展第1回「砂浜」院展第24回「雨五題」。昭和13年 院展第25回「爽風」六潮会第7回「秋霜」「潺淙」。昭和14年 院展第26回「流紋」六潮会第8回「溪澗」三越にて岳陵個人展を開催「青昼」ほか10点出品。昭和15年 法隆寺壁画模写主任となる。紀元2600年大展覧会審査員となる。「肇国絵巻」執筆。昭和16年 文展第4回審査員に任命さる。昭和17年 院展第29回「緑影」文展第5回審査員に任命さる。昭和18年 院展第30回「まひる」海軍館歴史画制作。文部省美術展覧会委員となり文展第6回審査員に任命さる。昭和19年 陸軍美術展「驀進」出品。昭和20年 逓信院郵務局より新切手図案審査員を委嘱さる。昭和21年 全日本画家協会常務理事となる。文部省第2回日本美術展覧会審査員となる。第2回日展「樹陰」。昭和22年 日本芸術院会員に推挙さる。第32回院展「清夜」。昭和23年 福田平八郎、山口蓬春、小野竹喬らと彩交会を興し、第1回「軍鶏」第4回日展審査主任、「少女」出品。昭和24年 日展運営会理事に推挙さる。彩交会第2回「白鷲」。昭和25年 日本美術院を脱退、日展第6回「気球揚る」出品、意気を示す。彩交会第3回「薔薇」。昭和26年 日展第7回審査員「孫」出品。昭和27年 彩交会第5回「けし」。昭和28年 皐月会第1回「蝶夢」。在外公館装飾用として外務省より依嘱「燕子花」日展第9回審査員。彩交会第6回「軍鶏」第9回日展「窓辺」。昭和29年 第10回日展審査員。彩交会第7回「鉄線花」第10回記念日展「花と犬」。昭和30年 神奈川県立近代美術館にて自薦展を開く。燦光会第1回「永日」彩交会第8回「金魚」第11回日展「狭霧霽れゆく」。昭和31年 彩交会第9回「楽器と花」燦光会第2回「緑庭」第12回日展審査員。第4回皐月会「こねこ」東西画壇デッサンシリーズ(朝日新聞社主催)「岳陵素描展」第12回日展「雪晴」。昭和32年 五都展「菖蒲」彩交会10回「山かひの春」丹下健三構成による岳陵と蒼風展「月明」日展運営会常任理事に推さる。第13回日展審査員、皐月会第5回「青葉頃」燦光会第3回「叢」武蔵野に因む展「秋皓」大阪四天王寺金堂壁画の小下図に着手す。昭和33年 社団法人新日展運営会理事。高島屋美術部創設50周年展「嘉例」出品。第7回五都展「牡丹」彩交会第11回「冬柿」弥生画廊10周年展「春さき」新日展運営会常務理事となる。百二会第6回「秋光」「巌」皐月会第6回「煙月」燦光会第4回「陽春」。昭和34年 宮内省外国使節接見の間に「紅白梅」大阪四天王寺金堂壁画制作始まる。この年「仏誕図」「出城図」完成、第2回日展審査員。昭和35年 壁画「降魔図」「初転法輪図」「涅槃図」11月3日に完成。東京高島屋にて四天王寺金堂大壁画展開催、称賛を博す。昭和36年 1月、毎日芸術大賞授賞。朝日文化賞授賞。毎日芸術大賞受賞記念展(三越)開催 五都展「新雪」明治座「花菖蒲」彩交会第14回「清暁」第4回日展「残照」百二会第7回「晴れた海」。昭和37年 宮中吹上御殿床掛「春蘭」五都展「永日」春風会「静林」現代日本画巨匠展「清晨」彩交会第15回「風濤」東京美術青年会展「月明」紺綬褒章受章。文化勲章、功労章受賞。郷里伊豆下田町名誉町民に推挙さる。昭和38年 彩交会第16回「海添いの丘」和光展「荒磯海」第6回日展「郷子刀自像」百二会「清晨」昭和39年 新宮殿豊明殿障壁画雛形小下図完成。白寿会「山湖暁靄」「鹿鳴館頃婦女図」フランス、ポンピドー首相の熱望により日仏文化親善の為贈呈。三越60周年記念展「曙の海」百二会第10回「雨霽」。昭和40年 春風会「春柳」彩交会第18回「春月」和光展「緑韻」 高島屋現代美術展「山湖爽晨」浜奈寿会「山湖雨情」第8回日展「磯」。昭和41年 彩交会第19回「爛漫の春」近代日本画巨匠展「晴れし海」 浜名須会「慶雲」白寿会第18回「静韻」百二会第12回「山湖見ゆ」。昭和42年 第9回日展「那智神滝」彩交会第20回「江頭黎明」百二会「光峰暁月」白寿会「那智御滝」。昭和43年 芸術院受賞者展「光峰名月」弥生画廊「朝霧の那智御山」彩交会第21回「明けゆく厳島」和光美術展「潟湖爽晨」白寿会「麓清秋」燦光会展「秋晴山湖」百二会「甲斐の山」。昭和44年 浜奈寿会第9回「駿河路」日本画巨匠展春光会「天地悠久」 彩壺会「山峡爽晨」 五都展「曙光」 松尾「裾野の朝」 高島屋水墨画展「雲門仙境」 彩交会第22回「峻峯溪声」現代日本画巨匠展「天壇内廓」 和光展「濃雲雨意」(絶作) 白寿会(絶筆)11月20日午後1時逝去 (中村溪男編)

山川清

没年月日:1969/11/09

春陽会会員の洋画家山川清は、11月9日腸ヘイソクのため阪大病院で死去した。享年66才。明治36年6月14日大阪市に生まれた。大阪府立北野中学在学中から赤松麟作に石膏デッサンの指導を受け、同中学先輩の佐伯祐三につれられて初めて油絵の道具を買いそろえたという。 4年生2学期から兵庫県西宮市今津町に新設された私立甲陽中学に転校し、同校を卒業した。まもなく美術学校受験のため上京、川端画学校に学んだが病気になり中断し、以後滝の川に画室を建て独学した。大正12年大震災を機に東京を引き払い京都山科に住み周辺の古美術に接する。続いて同14年奈良に転居、仏教美術に親しむ。昭和3年5月渡仏し、同9年帰国後春陽会展に穏健な写実的作品を出品しつづけ昭和23年春陽会会員となった。訳著に「ゆもりすと咄(フランス小咄)」がある。

田岡春径

没年月日:1969/10/07

日本画家田岡春径(本名時三郎)は、10月17日心臓病のため千葉市、井上病院で死去した。享年81才。明治20年徳島県に生れ、東京府立第三中学校に学んだ。画ははじめ四条派の垣内雲嶙に就き、のち南画家の小室翠雲に師事した。元大東南宗院審査員、南宗院同人で、帝展10回以降官展にも出品をつづけ、戦後は日展に発表していた。主な作品-「勝浦海岸」(奉祝展)、「錦秋」(現代美術展)「羅漢窟」(日展)などがある。

山路真護

没年月日:1969/10/04

一陽会会員の洋画家、山路真護は、10月4日死去した。本名壱太郎、号真護、逃水亭。山路真護は、明治33年(1900)埼玉県所沢市に生まれ、同町工業学校を卒業、京都絵画専門学校に進んだが中退し、昭和4年第一美術展に入選、昭和5年~7年パリに留学し、アカデミー・ジュリアンに学び、ルーヴルで素描を研究、サロン・ドートンヌに出品入選した。昭和7年第19回二科展に出品入選、以後昭和30年退会するまで、ほとんど毎回出品、昭和18年会友となり、戦後二科展再建に参加して昭和23年会員となった。その間、昭和13年には陸軍航空部隊に従軍、同18年には朝日新聞航空朝日特派員、海軍報道班員としてラバウル、ブーゲンビル島に派遣された。昭和30年野間仁根、鈴木信太郎らと二科会を脱退して一陽会を設立した。昭和41年以降毎年日動サロンで個展を開催した。作品略年譜二科展:昭和7年「マルヌの記念」「マリオネット」「MALSON des OISEAUN」、同8年「ノアジルグロンの思い出」「みなと」「シュマン・ド・フェール・ド・サンチュール」、同9年「ブリー村の7月14日祭」「南遊情趣」「サン・マリタン近くの小鳥を売る店」、同10年「ペナン入港」、同11年「夏の地中海岸」、同13年「灰色の闘士」「夏の夜の構想」、同14年「制空の記録」、同18年「ソロモン画稿より」、同21年「巴里1931年」、同22年「或る性の分離」「花」、同23年「山口村風景」「月の前奏」、同24年「野鳥」「魚族」、同25年「青春」、同26年「白昼」、同27年「漂流」「月に唄う」、同28年「受胎告知」「月を売る」、同29年「サンドニへの思慕」。一陽会展:昭和30年「ピカソ恋す」「受胎告知」「天使と貝殻」、同31年「晩鐘」「ジス・イズ・ジャパン」「白昼」、同32年「追想の果て」「水を汲む人」、同33年「二人の天使」「殉教」、同34年「胎生魚」、同35年「継承のエスプリ」「慕情」、同36年「横臥せる」「トルソ」、同37年「古風な神殿」「王様よ歯医者に行こう」、同38年「白い猫」「泣くなピエロ」、同39年「ANIMAL-1」、同40年「異人」「洋裁師」、同41年「テレビタレント」「靴を磨く」、同42年「忘却の祖国」「夜のコーラス」、同43年「VIVE ROI」「消える栄光」、同44年「赤い帽子」。

榊原始更

没年月日:1969/10/02

日本画家榊原始更(本名捨三)は、10月2日心臓マヒのため京都市上京区の自宅で急逝した。享年74才。明治28年画家榊原蘆江の六男として京都に生れた。実兄に日本画家の榊原紫峰がいる。大正5年京都市立絵画専門学校本科を卒業し、同7年創立された国画創作協会第1回展に入選した。同15年第5回展で会員となったが、同展は7回で解散し、新樹社に拠った。この会も間もなく終了し、以後無所属となった。その作品は、画歴にもみられるように、はじめは西欧絵画への憧憬より出発した新しい日本画の創造に専ら力がそそがれたが、晩年は水墨画に新しい境地の展開を示した。略年譜明治28年 4月30日画家榊原蘆江(敬吉郎)の六男として、京都市中京区に生れる。捨三と命名。明治39年 京都市立柳池尋常小学校卒業。明治43年 京都市立第二高等小学校3月卒業 4月京都市立美術工芸学校入学。大正2年 京都市立美術工芸学校3月卒業 京都市立絵画専門学校入学。大正5年 京都市立絵画専門学校本科卒業。大正7年 京都市立絵画専門学校研究科修了 卒業制作、この年創立されたる国画創作協会、第一回展に入選 父蘆江の友人、俳人不識庵より、始更の画号をもらう。大正15年 国展第五回展にて会員に推挙さる。昭和3年 国展七回展出品後、国展日本画部解散、新樹社に拠るその会も数回の展覧会にて潰れる。以後無所属となる。昭和7年 5月、上京区寺ノ内大宮東入妙蓮寺山内玉竜院に居を移す。それまでは、鹿ヶ谷、河原町二条角、上賀茂等、1、2年にて居を変える。昭和9年 6月玉竜院より本光院に移る。9月、植田寿蔵、村上華岳、入江波光、竹内勝太郎、榊原紫峰諸氏の支援のもとに十人の支持者を得て二曲十双の大作に感激を持ってとりくむ。昭和10年 10月、京都市美術会に於ける御大礼記念展に二曲一双(五落の松)出品受賞。昭和14年 二曲十双五年ごしに漸やく完成、12月28日、南禅寺天授庵に於て、屏風の会展覧。昭和15年 6月18日~22日、東京銀座三昧堂にて個展開催、好評。昭和17年 3月1日、気ままな独身時代に終止符、妻敏子娶る。昭和18年 2月10~11日、南禅寺天授庵に於て個展。昭和22年 5月丸物に於ける第三回京展に出品、朝日新聞、現代美術展二曲一双(竹)出品。昭和24年 10月、百万遍、秋田屋にて個展。昭和29年 11月9日~14日、京都大丸に於て個展。昭和30年 7月5日~10日、大阪大丸にて個展。9月、独立美術展入選、10月、日展入選。昭和31年 2月、朝日新聞美術懇話会会員となる。3月、大阪市立美術館に於ける関西美術展に(花静物)を賛助出品。5月京展依嘱となる。昭和32年 3月関西美術展に(風景)賛助出品。昭和33年 12月23日~27日 四条通堺町東入土橋画廊にて個展。昭和35年 12月大阪阪神百貨店丸善画廊に於て個展。昭和36年 京都市美術館に於ける「戦後十六年の歩み」展に(100号丘の道)出品。昭和37年 5月1日~6日 四条烏丸土橋画廊に於て個展開催、京展(爽梢25号)出品。昭和39年 5月京展(白い崖25号)出品、5月四条烏丸東入土橋画廊に於て個展。7月25日 南禅寺天授庵に於て、西陣の有志諸氏に依り榊原始更後援会発足結成さる。昭和40年 5月京展(栂ノ尾100号)出品京都新聞秀作展(白い崖)出品。6月 南禅寺天授庵に於て、始更後援会作品発表会あり和気藹藹に会員諸氏の年中行事の一つになる。昭和41年 5月 京展に(望郷25号)出品、京都新聞秀作展(栂ノ尾100号)出品。昭和42年 5月 京展(山のひととき30号)出品13日~17日 潮画廊にて個展。昭和43年 5月 京展(山裾80号)出品。10月15日~21日 京都大丸に於て個展好評。昭和44年 5月 京展墨画(広沢池畔30号)出品 画境漸く円熟、45年度の東京個展を目標に精進せしところ10月2日午後10時30分急逝した。法名清涼院天真始更居士10月4日南禅寺天授庵墓地に葬られる。昭和45年 5月 京展遺作として(嵯峨野)出品。 9月22日~27日榊原始更遺作展始更後援会により開催。 (榊原始更遺作展カタログより転載)

森田元子

没年月日:1969/08/12

洋画家森田元子は、8月12日結腸ガンのため慶応病院で死去した。明治36年東京青山に生れ、大阪ウヰルミナ女学校を卒業した。大正13年女子美術専門学校洋画科を卒業し、その後、岡田三郎助門下として学び、この年渡仏した。滞在3年に及び昭和2年帰国し森田俊彦と結婚、又第8回帝展に出品した「朝」が初入選した。以後官展を発表の場として活躍し、昭和12年「聴書」、同13年「麗日」で特選となり、又岡田賞も得ている。戦後は、昭和35年日展文部大臣賞を贈られ。また22年夫君に死別後は女子美術大学講師として、永く女子美術教育のため後進の育成にあたった。代表作に「チョッキの女」「或るポーズ」などがあり、省略した線描と、形態により、室内の女性を色彩感豊かに描きつづけた。また挿絵も巧みで、その方面でも知られる。日展評議員。光風会理事。女子美術大学客員教授。

片山公一

没年月日:1969/08/03

独立美術協会会員の洋画家、片山公一は、8月3日午前7時、胆のう炎のため杉並区上荻の駒崎病院で死去した。享年57才。片山公一は、明治43年(1910)、広島県福山市に生まれ、法政大学仏文科予科を中退。昭和6年第1回独立展から出品し、中山巍、小林和作、田中佐一郎に師事する。昭和23年独立賞を受賞し、同25年準会員に推され、同26年会員に推薦された。昭和35~38年ヨーロッパに滞在した。作品略年譜昭和6年「風景」「青年」(1回独立展)、同7年「人物」(2回展)、同8年「みづのとり」、同10年「鱗粉」「くだものなど」(5回展)、同16年「洗濯女」(11回展)、同17年「帽子を持つ女」(12回展)、同18年「張り物する女達」(13回展)、同19年「若き母」(14回展)、同21年「まひる」「風景」(独立自由出品展)、同22年「秋の暮」「縫物する女」、同23年「尾道風景」「浅橋」(16回展、独立賞)、同25年「肱をつく女」「都会風景」(18回展)、同26年「お茶の水風景」「ニコライ堂」「尾道水道」(19回展)、「港町河岸」(5回美術団体連合展)、同27年「横浜風景」「落合風景」(20回展)、同28年「杉と水」「ボート買場」(21回展)、同29年「長崎港」「丘の家」(22回展)、同30年「丘の家」「樹のある風景」(23回展)、同31年「ボート置場」「赤坂附近」「石段のある風景」(24回展)、同32年「家と木と水」(25回展)、同33年「木・海・家」「家」「木のある風景」(26回展)、同37年「フローレンスA」「フローレンスB」「ベニス」「公園」(30回展)、同38年「風景」「人と静物」(31回展)、同39年「家と舟」「海の母子」(32回展)、同40年「風景」「猿を抱く女」(33回展)、同43年「南仏の港」「ルノワールの庭」(36回展)、同44年「ルクサンブルグ公園」「カーニュ風景」(37回展)

坂本繁二郎

没年月日:1969/07/14

洋画家坂本繁二郎は、7月14日午後6時37分、福岡県八女市の自宅で老衰のため死去した。享年87才であった。政府は18日の閣議で、従三位、銀盃一組を贈ることを決定した。葬儀は、18日八女市無量寿院で密葬、21日八女市葬として同市立福島中学校において行われた。坂本繁二郎は、明治15年に福岡県久留米市に生まれ、小学校の同級に青木繁がおり、10才のころ、洋画家森三美について手ほどきをうけた。青木繁との交遊は、青木の死まで、相互に刺激し合いながらすすめられた。明治35年上京して小山正太郎の不同舎、つづいて太平洋画会研究所に学び、青木繁、森田恒友、正宗得三郎らと交わり、明治37年の太平洋画会展に初めて作品を発表した。坂本は、当時の洋画界の旧派に属する堅実な写実派の太平洋画会から出発し、しだいに明るい印象主義的作風へと変化し、大正3年二科会創立に参加して以後、牛を題材とした作品を中心としてようやく個性的な画風を形成してきた。大正10年~13年のヨーロッパ留学も、坂本の芸術には本質的な動揺はなく、帰国後は、郷里久留米近郊の放牧馬に取材した題材の作品を多く発表、昭和6年には、九州、八女市に住居を移し、以降その地にあって、寡作ながら馬、果物、野菜などを題材にした作品を発表してきた。戦後は、美術団体に属さず、芸術院会員推挙を辞退し、静かな創作生活を過してきたが、昭和25年眼を悪くして手術、左眼はほとんど視力を失う不幸にみまわれたが、制作は続けられ、昭和29年、毎日美術賞をうけ、同年八女市名誉市民となり、同31年には文化勲章を受章した。 年譜明治15年(1882) 3月2日、旧筑後久留米有馬藩士坂本金三郎の二男として、久留米市に生まれる。母歌子。坂本家は、代々馬廻役として知行百五十石をうけていたといわれ、父金三郎は、江戸詰めのとき勝海舟に造船術を学んでいた。明治19年 3月21日、父金三郎痘瘡に罹り、39才で死去。明治21年 両替尋常小学校に入学。明治24年 両替尋常小学校を卒業。明治25年 久留米高等小学校に入学、同級生に青木繁がいる。久留米市日吉町の森三美をたずね洋画を学ぶ。明治28年 久留米小学校を卒業。以後、明治33年まで自宅で浪人生活をおくる。明治30年 「立石谷」(絹本墨画)を描く。明治31年 「刈入れ」(水彩)を描く。明治32年 「秋の朝日」(油彩)を描く。明治33年 3月15日、三高在学中の兄麟太郎死去する。森三美の尽力により、久留米高等小学校図画代用教員となる。明治35年 徴兵検査を受け乙種となり、このとき帰郷していた青木繁と再会し、その刺激をうけて上京を決意し、8月、青木繁とともに上京、小山正太郎の不同舎に入舎し、石膏、モデルのデッサンなど本格的な洋画の勉強にはいる。11月、青木、丸野豊と信州に写生旅行し、島崎藤村、丸山晩霞をしる。昭和37年 太平洋画会研究所に通う。本郷曙町、神明町に青木繁と同宿する。7月、青木、福田たね、森田恒友と千葉県布良に写生旅行する。第3回太平洋画会展に、「町うら」(油)、「入日」「月夜」「くもり日」「秋陽」「雨後」(以上水彩)を出品する。明治38年 4月、第4回太平洋画会展に「早春」(油)、「景色」(水彩)を出品する。明治39年 夏、森田恒友と伊豆大島に写生旅行する。明治40年 3月、東京府勧業博覧会に前年の旅行時に取材した「大島の一部」を出品し、三等賞をうける。10月に開かれた第1回文展に「北茂安村の一部」を出品する。雑誌『方寸』創刊され、寄稿する。明治41年 北沢楽天の東京パック社に入社し、人生批評的な漫画をかく、同僚に川端滝子、石井鶴三、山本鼎などがいた。明治43年 1月4日、郷里においていとこにあたる権藤薫と結婚。母とともに護国寺亀原台に居住。10月、第4回文展に薫夫人をモデルにした「張り物」を出品、3等賞をうける。明治44年 東京パック社を退社。10月、第5回文展に「海岸」を出品、3等賞。明治45年 千葉県御宿地方に旅行。10月、第6回文展に「うすれ日」を出品、夏目漱石が朝日新聞紙上で批評する。大正2年 雑司ヶ谷鬼子母神わきに転居、4月24日長女栞生まれる。10月、第7回文展に「魚を持ってきてくれた海女」を出品。このころ、詩人グループ青芝会と接触し、前田夕暮、窪田空穂、河井酔茗。三木露風らと交友する。とくに、三木露風の影響をうける。大正3年 10月、二科会創立に参加し、鑑査員となり、第1回展に「海岸の牛」を出品する。同月、国民美術協会第2回展に「人参畑」を出品する。大正4年 池袋に転居。10月、2回二科展に「牧場」「砂村の家」「暑中休暇の校庭」を出品。大正5年 10月、3回二科展に「国道筋」「柿の若木」「母子」(コンテ)を出品。大正6年 9月、4回二科展に「髪を洗う」「緑」を出品。大正7年 9月、5回二科展に「苗木畑」「栴壇樹」「静物」「那古海岸」を出品。大正8年 11月21日、次女幽子生まれる。二科展に不出品。大正9年 9月、二科展に「牛」を出品、日本風景版画集の「筑紫の部」を制作する。大正10年 中島重太郎の協力により半切の日本画を頒布。東京湾汽船社長渡選偟の援助をもうけて、7月31日、クライスト丸にて渡欧する。9月17日マルセイユに上陸、パリの14区エルネスト・クレッソン通18番のアパートに入る。10月10日アカデミー・コラロッシに通う。大正11年 7月21日バルビゾンに遊ぶ。8月17日里見勝蔵とマダム・ピサロをエラニー・バサンクールに訪ねる。大正12年 1月16日、斎藤豊作、正宗得三郎とオーベル・シュール・オワーズのガッセ訪問。3月4日ブルターニュ・キャンペレに赴く。3月11日キャンペレ再遊。3月19日~4月10日クロアジック滞在。6月6日~7月8日ヴァンヌ滞在。「眠れる少女」「帽子を持てる女」をサロン・ドートンヌに出品。大正13年 7月2日パリを出発して帰国の途につく。7月13日~19日オルナンに滞在。7月27日マルセイユを香取丸にて出帆。8月31日門司港 9月10日神戸に上陸。久留米市に仮寓する。大正14年 秋の第12回二科展に滞欧作品に帰国後の作品2点を加え、「老婆」「馬」「家政婦」ほか14点を出品、特別陳列する。大正15年 友人たちによる東京、奈良などへのさそいをしりぞけ、筑後に住みつき、久留米近郊、阿蘇などをめぐり、馬を描く。5月 聖徳太子奉讃展に「松」を出品。昭和2年 第14回二科展に「家政婦」「郊外」「塾稲」「馬」を出品。12月25日母歌子死去する。昭和3年 第15回二科展に「桃」「春郊」を出品。昭和6年 福岡県八女郡の町営住宅に転居し、同郡にアトリエをたてる。昭和7年 第19回二科展「放牧三馬」を出品。昭和8年 清光会に「馬」を出品。昭和9年 第21回二科展に「繋馬」出品。昭和10年 帝国美術院展参与に推されたが、これを拒否し、第22回二科展に「二仔馬」出品。昭和11年 第23回二科展に「放牧二馬」を出品。昭和12年 第24回二科展に「水より上る馬」を出品。昭和13年 第25回二科展に「松間馬」を出品。昭和14年 身辺所産の柿、栗、馬鈴薯などの静物を描きはじめる。昭和16年 1月、草人社により大阪で初めての個展を開催する。3月、屏風制作のため南紀地方を旅行する。第28回二科展に「甘藍」を出品。昭和17年 還暦記念として第29会二科展で特別陳列、東京展21点、大阪展30点。11月 福岡日日新聞文化賞をうける。昭和18年 第30回二科展に「壁画下図その1」を出品。二科展解散し、以後団体に所属せず。昭和20年 壁画を完成する。昭和21年 秋、日本芸術院会員に推れたが、辞退する。能面を描きはじめる。昭和22年 1月福岡市玉屋百貨店において回顧展を開く。9月大阪・阪急百貨店において梅原龍三郎。安井曽太郎との三巨匠展開催される。昭和23年 1月草人社により福田平八郎との二人展大阪大丸において開催される。昭和24年 九州タイムズ文化賞をうける。昭和25年 2月、眼疾共同性内斜視を手術。6月から東京、大阪、福岡、熊本において自選回顧展開催される。昭和27年 3月草人社により福田平八郎、徳岡神泉との三人展に「馬」の大作を発表する。日本国際美術展に「猩々面」を出品。昭和28年 第2回日本国際美術展に「水より上る馬」を出品。昭和29年 1月、毎日美術賞をうける。4月、八女市名誉市民となる。5月、27回ヴェニス・ビエンナーレ展に岡本太郎とともに出品する。昭和31年 8月久留米石橋美術館において青木繁との二人展開催される。9月「坂本繁二郎文集」(中央公論社)出版される。11月 文化勲章をうける。昭和32年 11月眼疾のため熊本の病院に入院する。昭和33年 1月~3月東京、岡山、福岡、熊本において「馬の素描」展開かれる。昭和35年 5月「坂本繁二郎夜話」出版。昭和36年 11月八女市西公園に銅像建立される。昭和37年 11月東京白木屋において自選回顧展開催される。「坂本繁二郎画集」「坂本繁二郎画談」出版される。昭和38年 1月朝日賞をうける。昭和39年 「月」の制作はじまる。昭和42年 4月~11月西日本新聞に「坂本繁二郎の道」連載される。10月身体の変調をうったえ、前立腺肥大症と診断される。昭和44年 5月~6月日本経済新聞に「私の履歴書」を寄稿。7月14日死去。10月「私の絵私のこころ」出版される。昭和45年 1月~4月 福岡、大阪、名古屋、札幌、東京において追悼展開催される。

酒井三良子

没年月日:1969/06/08

日本画家で、日本美術院監事の酒井三良子(本名三良)は、6月8日慢性腹膜炎のため、大塚の癌研究所付属病院で死去した。享年72才。葬儀は12日日本美術院葬として同院において執り行われた。明治30年福島県に生れ、坂内青嵐に師事した。大正8年第2回国画創作協会に「雪は埋もれつつ正月はゆく」で初出品して入選し、翌年は院展に出して入選した。昭和元年日本美術院同人となり、戦後は日展にも出品し、昭和37年「かまくら」では文部大臣賞となった。おもな作品にこのほか「災神を焼く残雪の夜」(大正8年)があり、昭和43年第53回院展「水辺夏日」が最終出品となった。俳味豊かな水墨画にその特色を示した。

中村真

没年月日:1969/05/14

洋画家、モダンアート協会運営委員の中村真は、5月14日午後10時52分、腹膜細胞肉腫のため大阪市立大学付属病院で死去した。享年54歳。19日阿倍野斎場で、日本美術家連盟小磯良平関西支部長が葬儀委員長となり告別式が営まれた。大正3年5月30日大阪市で生まれる。本名真三郎。昭和3年から赤松鱗作画塾に学び、昭和6年大阪市立工芸学校工芸図案科を卒業、既に在学中の昭和4年春、関西二科系の有力団体である全関西美術展に入選発表しはじめ、同9年全関西美術協会会員に若くして推された。二科展には、同6年17歳の年少で入選し、天才少年画家の出現として衆目を集めた。以後同12年まで発表を続けた。同12年には東京と大阪で抽象画37点による第2回個展を開き、翌13年自由美術家協会展に「秩序について」他4点を出品参加、同14年同展には「描かれたもの」など15点を大量出品して会員に推挙された。同16年~20年兵役に服し、戦後自由美術家協会再建に参加するとともに、いち早く関西美術界の新動向への推進に中心指導者的な活躍を示した。同25年退会してモダンアート協会創立に参加、会の発展に没前まで尽力した。昭和45年4月、第20回記念モダンアート展では、彼の遺作が特別展示されたが、その出品目録で、「彼の芸術への考え方及び作品は常に進歩的で、世に一歩先きんじていた。画面は清潔で色彩は豊富で形態は簡素であり、然もそのデッサンはしっかりしている。それらの画の内には、特殊な現代人の詩情が秘められていた。」と村井正誠が追惜している。展覧会以外の作品に、「キャバレーハリウッド(昭25)」「梅田ビル壁画(昭30)」「各地朝日ビル及びフェスチバルホール、関西電力等建築レタリング」「大阪冨国ビル・ステンレス製壁画(昭39)」「大阪婦人子供服会館壁画(昭39)」「府立勝山高校壁画(昭39)」などがあり、死去前まで万国博日本政府館展示設計者として努力していた。日本美術家連盟関西支部委員長、大阪芸術大学デザイン科主任教授でもあり、関西美術界で幅広い業績を残した。

太田三郎

没年月日:1969/05/01

洋画家太田三郎は、5月1日、心不全に因り、東京都武蔵野市の自宅で死去した。享年84歳、勲5等に叙せられ、雙光旭日章を授けられた。生誕は、明治17年(1884年)12月24日、愛知県西春日井に於て、枇杷嶋は名古屋向け青物の市場の地、三郎の生家も其の問屋の一つであったが、父が富裕にまかせて風雅に流れ、僊艸の雅号で絵(日本画)をかいたりして、産を破った。文雅と貧窮とを相続して、三郎は、17才で東京に奔り、画業を苦学した。黒田清輝に西洋画を学び、白馬会洋画研究所に通ったが、他方、日本画をも寺崎広業に習った。洋画家として地歩を占めた後も、折々日本画をものし、また洋画に日本画の気味・手法を交へることが有った所以である。日本画には、三郎をもじった「沙夢楼」の号を用いたこともある。洋画は、大正2年(1913)、第7回文部省美術展覧会に『カフェの女』を出品して賞を受け、夙にヨーロッパ留学を企てていたが、世界大戦(第一次)に妨げられて遅れたのを遺憾とした。大正9年(1920)に至り同11年(1922)まで滞欧の念願を遂げ、フォービズムとキュビズムとの影響を受けて帰朝、作風の変化を見せ、爾後、裸婦を主とした作品を官展に発表し、昭和8年(1933)、帝展審査員を命ぜられた。属した美術団体としては光風会を挙ぐべく、又、同郷の和洋画家・彫刻家・工芸家等と共に愛知社を組織したことは愛知県の美術振興に大いに寄与したものである。三郎は、大形作品のほかに、雑誌・新聞等の挿絵に軽妙の筆を揮い、川端康成『浅草紅団』・矢田挿雲『太閤記』のそれなどが代表作である。なお、挿絵類執筆には仮名「君島柳三」を使ったことも有る;之を別人と思う人がままいるのは誤解である。挿絵と共に注目するべきは、明治末・大正初の絵はがき流行の頃、『ハガキ文学』に関係して、スケッチ趣味を世に広めたことである。第二次世界大戦後は、思う所あって中央画壇を去り、郷里に帰住し、地方文化の向上を念として、知事桑原幹根の知遇のもとに、愛知県文化会館の設立に参画し、昭和30年(1955)、同館美術館創設と共に美術館長に任ぜられた。長老として展覧会の割当て等をよく裁いたけれども、同35年(1960)、病いを得て辞任した。むかしスケッチブックを手にして好んで散策した武蔵野のおもかげを僅かに残す玉川上水のほとりに戻り来って閑居、余生十年を得たが、小康の春日、写生に出たのが禍いし、病いを重くして死に至った。故人は、また文筆を善くし、著述が少くない。或いは抒情甘美・或いは叙事優雅なる画文兼作の書-『鐘情夜話』・『武蔵野の草と人』の類-は、之を悦ぶ人が少くなかった。作画榻に凭る 大正14年 第6回帝展裸婦 大正15年 第7回帝展コムポジション 昭和2年 第8回帝展群像 昭和3年 第9回帝展三嬌図 昭和4年 第10回帝展ぐるうぷ 昭和5年 第11回帝展蒼穹佼人図 昭和6年 第12回帝展アラベスク 昭和7年 第13回帝展モデルたち 昭和8年 第14回帝展屋上 昭和9年 第15回帝展房州の娘たち 昭和10年 二部展素衣 昭和11年 第11回文展水辺 昭和12年 第2回文展磯 昭和13年 第3回文展鳴弦 昭和15年 紀元2600年奉祝展多産鑽仰 昭和18年 第28回光風会展著述蛇の殻 明治44年 精美堂草花絵物語 明治44年 精美堂ひこばえ 明治44年 精美堂朝霧(妻はま子と共著) 明治45年 精美堂鐘情夜話 大正7年 文陽堂武蔵野の草と人 大正9年 金星堂金髪の影を追うて 大正12年 朝香屋書店世界裸体美術全集 昭和6年 平凡社裸体の習俗とその芸術 昭和9年 平凡社美と善の歓喜 昭和17年 祟文堂爪哇の古代美術 昭和18年 祟文堂東奥紀聞 昭和23年 新紀元社性崇拝 昭和31年 黎明書房風俗おんな往来 昭和35年 新紀元社

鈴木誠

没年月日:1969/04/21

新制作協会会員の洋画家鈴木誠は、4月21日、心不全のため東京中野の国立中野病院で死去した。享年71才。鈴木誠は、明治30年(1897)大阪市に生まれ、大阪階行社附属小学校、大阪府立八尾中学校をへて、大正8年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島教室に学び、大正11年同校を卒業、直に同校研究科に進んだ。在学中の大正10年、第3回帝展に入選、および同年光風会展に出品して受賞した。大正12年、渡仏し、パリでビシェールに師事、アカデミー・コラロッシにて研修し、イタリアを歴遊して昭和2年帰国した。帰国後は、帝展、槐樹社展に出品し、昭和4年10回帝展では特選となった。また、昭和4年帝国美術学校油画科助教授となり、同10年には引続き多摩帝国美術学校教授となって後身を指導した。 昭和11年、帝展改組、二部会を経て、同志と新制作派協会を結成、以後、会員として同展に主要作品を発表してきた。また、昭和22年多摩美術大学評議員、同28年多摩美術大学油画科主任教授となり、昭和43年定年退職するまで指導にあたった。その他、著書として、『人物画の描き方』(昭和38年・アトリエ社)、『構図の考え方と実際』(昭和41年・アトリエ社)がある。作品略年譜昭和4年10回帝展「新春之写」、同5年11回帝展「トロア・グラース」、同6年12回帝展「文五郎の家庭」、同8年14回帝展「裸体」、同9年15回帝展「春」、同12年2回新制作展「花」「三人」「習作」、(以下、新制作展主要出品作)同13年「習作」、同14年「風雨」「きもの」「浴女」「宵」、同15年「絵を見る女」、同16年「隣組の人々」「光箭」「朝」、同18年「機械と女(その1)」「機械と女(その2)」「若人達」「アイロン掛け」、同21年「裁断師」「窓」「木戸」、同22年「ポートレート」「ヴィオロニスト」、同23年「エスパナ好み」「サボイ好み」「爪を切る」「三面鏡」「顔」、同25年「坐せる裸体」「横臥せる裸体」「黒い帽子」「白い帽子」「鏡のある静物」「Y夫人像」、同26年、「裸体」「母と子供」、同27年「和装」「a Notte」、同28年「横臥裸婦」「白衣像」、同30年「縞のキモノ」「T夫人」、昭34年「失楽園」「賢人達」、同年「室内」「踊子達」、同37年「練習曲」「目白夫人」、同39年「あでやか」、同40年「晴着」、同41年「七五三」「たおやか」、同42年「祭の装い」「黒い着物」、同43年「NU」「祭」。

楳崎洙雀

没年月日:1969/03/28

日本画家楳崎洙雀は3月28日腹膜下出血のため京都市左京区の自宅で死去した。享年73才。本名金太郎。明治29年愛媛県宇和島市に生れ、橋本関雪に師事した。第4回帝展に「嘉興の暮雨」が初入選し、以後官展を中心に発表し、戦後は日展委嘱として出品していた。この間、独乙ベルリン展、米国トレード展など海外展にも参加し、大正10年以後数回にわたり中国旅行をして画嚢をこやしている。主な作品に「室内静物」(昭26)、「如来像」(昭28)、「博物館」(昭29)、「海の幻想」(昭30)などがある。

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