本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。
(記事総数 3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1969/03/10 洋画家、独立美術協会会員の岡部繁夫は、3月10日午後2時25分、心不全のため東京都目黒区の自宅で死去した。享年57歳。明治45年2月25日広島県呉市で生まれた。高畠達四郎、鈴木保徳に師事、独立美術展に出品、昭和25年独立賞を受け、同30年準会員に推薦され、同34年会員となった。昭和22年銀座・松坂屋で第1回個展を開いたのを皮切りに同31年第2回(銀座・村松画廊)、同38年第3回、同41年第6回(銀座・文芸春秋画廊)と毎年意欲的な個展発表を続行し、しかも晩年は、モノクロームのパートの厚い抽象画態の作品を制作し、殊に“プルシャンブルーの中に自己を求め、自己をみつめ、偶然にたよらず、自己表現を最も明確に自己に忠実でありたい”という作家の言葉通りに独特の作風を創案確立して、しばしば秀作展、国際展に選出された。代表作「春の饗宴」「春の譜」「作品R」「作品US」「作品UZ」など。 略年譜昭和34年 独立美術協会会員に推挙。昭和38年 「芸術新潮」ベストテンに挙げらる。昭和39年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和39年 世界現代美術展招待出品。昭和39年 優秀作品政府買上(国立近代美術館所蔵)。昭和40年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和40年 毎日新聞社主催、日本国際美術展招待出品(優秀賞受賞)。昭和40年 第5回個展(銀座文芸春秋画廊)。昭和40年 現代美術の動向展選抜出品(京都国立近代美術館)。昭和40年 今日の作家’65年選抜出品。昭和40年12月 アメリカ・ヒューストンにて個展。昭和41年 朝日新聞社主催、選抜秀作美術展出品。昭和41年3月 カースル・アタミ壁画制作。ニューヨークにて第1回日本芸術祭招待出品、代表使節団員として渡米、メキシコ、ホノルルを経て帰国。昭和41年5月 毎日新聞社主催、現代展招待出品。昭和41年10月 第6回個展(銀座文芸春秋画廊)アメリカにて個展。昭和42年1月 広島県呉市勤労者文化会館壁画制作。昭和42年2月 拓殖大学壁画制作。昭和42年8月 日本ダイナースクラブ壁画制作。昭和42年10月 第2回日本芸術祭招待出品、ニューオリンズ、ヒューストンにて。昭和43年1月 渡米(ニューヨーク)昭和43年5月 第3回日本芸術祭招待出品、メキシコにて。昭和43年10月 国立近代美術館主催、東西美術交流展招待出品。昭和44年 第4回日本芸術祭出品(国際芸術見本市協会会長賞受賞)。
続きを読む »
没年月日:1969/03/02 太平洋画会委員洋画家大木卓は3月2日死去した。享年70才。明治32年7月4日に都内中央区で大木五臓円本舗の長男として生れ常盤小学校、府立第一中学校を経て、官立千葉医学専門学校を卒業し、薬剤師の免状を受ける。ついで一年志願兵として軍務に服し陸軍三等薬剤官(少尉相当官)に任官して除隊。家業の大木同名会社の副社長時代を経て大木製薬会社取締役会長となったが、かたわら白日会、自主連立展、光風会等へ出品して入選した。とくに太平洋画会では昭和30年(52回)より会員となって出品した。同会出品は昭和27年48回「さつき晴」、49回「凪」「補修船」、50回「湖畔」「外房風景」「照月湖(北軽井沢)」、51回「落之沢二景その一、その二」、52回「越中島橋」、53回「ロンドン郊外セルドンコートホテル」、「チューリッヒ・エンゲチャーチの塔」、「独乙コプレンツ駅前」、「風景」、「モンテカルロにて」、「パリーにて」、「ニースにて」、「香港風景」、54回「二右エ門島」、「五月の伊豆」、55回「海辺(波太)」、56回「蔵のある道」、57回「島の上から」、58回「山湖」、59回「残雪」、60回「清流」、「清潭」、61回「秋色」、62回「寝覚めの床(木曽福島)」、63回「雪の道」、64回「昇仙峡」、65回「静浦風景」、「滝」、「清潭」。
続きを読む »
没年月日:1969/02/03 戦前漫画を描き、戦中より水墨画を主とした画家宍戸左行(本名嘉兵衛)は2月3日悪性腫瘍のため東京都世田谷区の自宅で死去。享年80。福島県伊達郡に生れ、20才ごろアメリカに渡り、自活しながらキャノンなる画家の画熟に通って油絵を学んだ。約8年間の滞米生活中の観察はユーモラスな絵と文で、(平凡社)に「アメリカの横腹」が描かれている。その後毎夕新聞、東京日日新聞(のちの毎日新聞)などに政治漫画を執筆、昭和5年には読売新聞漫画部に入社、15年11月婦人部に属し、18年4月に退社した。この間児童漫画では「スピード太郎」を創作している。第二次世界大戦中に郷里福島に疎開すると水墨による風景を描くことが多く、また晩年は山路閑古著「柳話的釈尊伝」や水野弘元著「経典物語」などの挿絵などの挿絵および雑誌「大法輪」には昭和6-7年来より未完成となった「玄奘三蔵絵伝」を連載して仏教関係の仕事が増加していた。日本漫画家協会名誉会員(参照昭和44年2月14日読売新聞記載、宍戸三沙子「父・宍戸左行のこと」)
続きを読む »
没年月日:1969/01/24 新制作協会会員の宮脇公實は、1月24日午後5時急性心不全のため東京都世田谷区の自宅で急逝した。享年52才。2月8日自宅で新制作協会葬が行なわれた。大正5年10月1日兵庫県小野市に生まれた。昭和11年多摩帝国美術学校に入学、同年春第23回光風会展に入選、また同年11月、新制作派協会の創立第1回展の公募に応じて、「バーの二人」「茶房の女」が入選した。翌12年同美校を中退したが、第2回新制作派展(12月8日~25日)へ出品しながら、召集されて日支事変から大東亜戦争へと、敗戦まで従軍、長期間やむなく製作活動を中断した。戦後、毎年新制作展に出品を重ね、昭和26年同展で受賞し協友となり、同31年会員に推された。戦後まもない22年から自宅で「小さい画家たちの家」を主宰し、児童美術教育に大きな功績を残した。その関係著書として、「絵遊び、作り遊び」(昭和38年、新書館発行)や「造形遊び」などがある。このような実践によって得た糧を自己の画作に活かし、無造作で奔放な子供の落書きを想わせる独自な作風を確立して注目された。朝日秀作美術展、毎日国際展、毎日現代美術展等に度々選抜されたり招待出品した。個展の開催も意欲的で戦後10数回に及んだ。アートクラブ会員(昭和35年入会)でもあった。代表作に、「庭の動物」(昭和31年)、「人間ドラマ」のシリーズ(同33年)、王様シリーズ「ショウチュウは歌う」(同38年)「健康に乾杯」(同39年)などがある。
続きを読む »
没年月日:1969/01/11 二紀会会員の洋画家、鍋井克之は、1月11日午後2時30分、壊死性胆のう炎、セン孔性腹膜炎、腸閉そくのため大阪市北区の大阪中央病院で死去した。享年80才。鍋井克之は、大阪に生まれ、大正4年東京美術学校卒業、その年二科展に出品して直に二科賞をうけ、大正7年にも再度二科賞を受賞、ヨーロッパ留学後、二科会会員となったが、敗戦までの大正・昭和と毎年二科展に出品した。大正13年には小出楢重らと大阪市に信濃橋洋画研究所を設立し、関西洋画界の発展に尽力した。戦後は、同志と二紀会を創立し、委員をつとめ、関西洋画壇の指導的地位にあって、昭和25年には日本芸術院賞を受賞、昭和37年には大阪天王寺の民衆駅に壁画「熊野詣絵巻」を制作した。昭和39年には浪速芸術大学芸術学部長に就任。その間にも国内各地を旅行して制作し、重厚な作風でしられたが、演劇を好み、歌舞伎を愛し、また随筆をよくし、著書も多い。年譜明治21年(1888) 8月18日、大阪市に生まれる。父は土佐藩士、田丸良也(当時勇六郎)、母、房。父は、明治元年2月、堺港に上陸したフランス兵と警備にあたっていた土佐藩士と間に起った衝突事件堺事件に連座し、くじにより切腹をまぬがれた9名のうちのひとりであった。明治28年 大阪市西区堀江小学校に入学する。明治29年 本家の鍋井家を相続する。明治36年 大阪府立天王寺中学校に入学する。上級に伊庭孝、折口信夫らがおり、下級に宇野浩二、寺内万治郎、耳野卯三郎、青木大乗、小出卓二らがいた。松波長年につき日本画を学ぶ。明治41年 天王寺中学校を卒業 東京美術学校の受験に失敗し、白馬会洋画研究所に入り長原孝太郎に学ぶ。明治42年 東京美術学校西洋画科に入学、同期に小出楢重、大久保作次郎らがいる。大正2年 巽画会展に「虎の門赤煉瓦風景」出品。大正3年 宇野浩二を通じて広津和郎、葛西善蔵ら早稲田系の文学者、倉橋仙太郎、沢田正二郎ら演劇人と交友する。倉橋、沢田、秋田雨雀らと美術劇場をおこし、有楽座で第1回公演を行なう。そのため卒業は延期されたが、第1回二科展に出品入選する。大正4年 東京美術学校西洋画科を卒業。2回二科展に「秋の連山」を出品して二科賞をうける。宇野浩二の勧めで雑誌『改造』『中央公論』などに小説を発表する。大正6年 平井澄江と結婚する。大正7年 第5回二科展において再度二科賞をうける。大正11年 2月、大久保作次郎、足立源一郎らと同船してヨーロッパに留学。大正12年 5月帰国する。関東大震災のため大阪にとどまる。大正13年 小出楢重、黒田重太郎、国枝金三らと大阪に信濃橋洋画研究所(のちに中之島洋画研究所)を創設する。第11回二科展に滞欧作を出品する。大正15年 中央美術社より『西洋画の理解』出版。昭和3年 東京文啓社書房より、黒田重太郎との共著『洋画メチェー・技法全科の研究』を出版。昭和5年 大阪府豊能郡北轟木村(現、池田市住吉1-12-4)に転居する。昭和8年 東京紀伊国屋で最初の個展を開催する。昭和9年 随筆書『和服の人』(書物展望社)を出版。昭和14年 満州、中国へ4ヶ月間写生旅行、崇文堂より『風景画の描き方』を出版。昭和15年 『富貴の人』(小出書店)を出版。昭和18年 奈良に疎開する。『絵心』(小川書店)を出版。昭和21年 二科会再建に参加せず、中川紀元、黒田重太郎、宮本三郎らと第二紀会を結成する。昭和22年 『寧楽雅帖』(宝書房)を出版。昭和25年 第3回二紀展の出品作「朝の勝浦港」をはじめとする風景作品によって昭和24年度日本芸術院賞をうける。昭和26年 京阪神在住の画家文人、小磯良平、竹中郁らと風流座を結成し、市川寿海の指導によって大阪三越で第1回公演を行なう。以後昭和33年までに6回公演。昭和28年 朝日新聞社より随筆集『閑中忙人』を出版。昭和33年 大阪市民文化賞、なにわ賞をうける。昭和34年 浪速短期大学教授、デザイン美術科長に就任する。『大阪繁盛記』(布井書房)出版。昭和35年 池田市名誉市民となる。昭和37年 国鉄天王寺駅コンコース壁画「熊野詣絵巻」を完成。『大阪ぎらい物語』(布井書房)出版。昭和38年 浪速短期大学壁画「輝やける学園」完成。白浜三段壁に鍋井克之記念碑建てられる。昭和39年 浪速芸術大学教授、芸術学部長に就任する。昭和44年 1月11日死去。1月25日、市立池田小講堂において池田市葬。 作品年譜二科展:大正3年「赤い校舎」、同4年「秋の連山」、同5年「海近き山」「入江の木かげ」、同6年「河岸の家と木」「蓮池」、同7年「せばまりたる海水」「海に沿う丘」「秋」「雪の山」「池畔早春」、同8年「雪の路」「秋の小流」「海辺の断崖」「六月の田園」、同9年「春」「初冬暖日」「曇りの入江」「雪の風景」「夏の池」、同10年「草の中の路」「熱海の早春」「初夏の虎の門女学校」「海岸風景」「晩春の虎の門女学校」、同11年「晩秋の淡路島にて」「池畔の梅林」「静物」「能登の海」「五月の築地河岸」「北国の海岸」、同14年「滝」「山ふところの早春」「庭より見たる春の海」「牛滝山の滝」「伊豆風景」「静物」、同15年「海辺の村」「山麓の村」「海岸の丘より」「入海の風景」「静物」、昭和2年「水車のあるほとり」「春の中之島公園」「隠れた水車」「冬近き風景」「蜜柑山と海」「雪の小停車場」「静物」、同3年「浄山の水車」「谷川の秋」「梅園」「水ぬるむ湖畔」「チューリップ」、同4年「北国の海岸」「湖畔の朝」「伊豆の街道」「春雪」「豹」「夏の山路」「桃」、同5年「弓削島海岸」「汽車の走る風景」「夢殿(法隆寺)」「籠の桃」「海辺夏景」、同6年「北陸勝景」「水際の静物」「春の浜辺」「奈良の月」「湖畔の梅」、同7年「鴨飛ぶ湖畔」「風の日の湖畔」「海水浴場の燈」「滝」「静物」、同8年「春」「虎」「刈田の雨」「水車小屋の富士」、同9年「田鶴の海岸」「田圃の梅」「涼夏山水」、同10年「雪月花(天の橋立の雪、吉野山の花、三笠山の月)」「溪間の流」「芦の湖」「桃」、同11年「榛名湖」「温泉の流れ」「行水」「鮎壺滝の富士」「静物」、同12年「二筋の川のある村」「梅雨時の東郷湖」「牡丹」、同13年「梅薫る」「戦況ニュース」「露の奥日光」、同14年「吟爾浜埠頭公園」「時計屋のある街角(新京三笠町)」「吉林松花江畔」、同15年「時雨るる琵琶湖」「箱根冬の富士」「朝の海」「夏の夜の中之島公園」、同16年「梅雨晴れの野尻湖」「太陽の昇る海岸」「夏季静物」、同17年「湖国のみのり」「風強き日の湖畔」「苺」、同18年「雨来る海岸(志摩安乗)」。 二紀展:昭和22年「風の日の岩角」、同23年「湖上時雪」「花散る湖畔」「白良浜風景」「港の夕映」、同24年「朝の勝浦港」「三段壁」「海近き梅林」、同25年「黒潮」「春の春日野」「海岸の丘より」「白根浜夜景」「静物」、同26年「臨海植物園」「赤目溪谷」「湖岬灯台」「紫陽花と桃」「勝浦千畳敷」、同27年「ヨットのある海岸」「港の夜の雨」「食器と西瓜」「初秋の窓」「燈火静物」、同28年「秋の静物」「夜の窓」「紀伊・勝浦港」「梅林の丘」「南紀東白浜」、同29年「溶樹の庭」「琵琶湖のヨット」「台風のそれる海岸」「名瀬の夕立(奄美大島)」、同30年「雨の海」「秋果静物」「薬師寺」、同31年「月光と海水」「大浦天主堂(内部)」、同32年「梅林の山」「赤い山」、同33年「十二番館の家」「長崎の家(元英国大使館庭内)」「十二番館庭内」「南山手風景(青)」「南山手風景(赤)」「天草灘」「厨房静物」「熊野灘」、同34年「長崎の家(三菱炭鉱クラブ)」、同35年「ツキサップの林檎園」「函館の古き街B」「函館の古き街A」、同36年「南紀の梅林」「北海道行」、同37年「サポッロ北大校庭」「サッポロのリンゴ園」「南紀漁村風景」、同38年「熊野灘」「大内山清雪」「皇居噴水」、同39年「檻野時燈台」「晴れゆく梅林」、同40年「串本」「兜島の熊野灘」、同41年「伊豆熱川海岸」「東本願寺噴水」。
続きを読む »
没年月日:1969/01/06 日展会員、日本山林美術協会代表の洋画家、鶴田吾郎(号、玄山人)は、1月6日午後0時35分、胃ガンのため東京信濃町・慶応病院で死去した。享年78才であった。鶴田吾郎は、明治23年(1890)東京牛込区に生まれ、早稲田中学校を中退し、倉田白羊について洋画を学び、同38年赤坂溜池の白馬会研究所に入所、翌39年太平洋画会研究所に移り、中村不折に師事した。大正元年から大正5年までの間に、朝鮮、大連、ハルピンなどに滞在、帰国後は、中村彝、中原悌次郎、堀進二らと交友、大正9年第二回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品、以後帝展、文展、日展で活躍した。太平洋戦争中は、戦争記録画を描いて知られ、特に「神兵、パレンバンに降下す」は著名。戦後は国内の各地を旅行して国立公園を描き、日本国立公園30点を完成させた。年譜明治23(1890)年 7月8日、東京市牛込区に生まれる。明治36年 倉田白羊に学ぶ。明治38年 赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入所。明治39年 太平洋画会研究所に移り、中村不折に学ぶ。明治43年 味の素株式会社広告部に入社。大正1年 京城日報社に入社、京城にて絵画部を担当。大正4年 川端童子とスケッチ倶楽部をつくり、通信教育の講義録を担当する。大正6~9年 大連、ハルピン、シベリアに滞在する。大正9年 帰国。第2回帝展に「盲目のエロシェンコ像」を出品する。以後、官展に出品。昭和3年 第11回帝展に「黒潮に生きる男達」を出品する。昭和5年 シベリア経由でヨーロッパ旅行、フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランスなどを約10ヶ月歴遊する。昭和17年 陸海軍の依嘱をうけて従軍。この年、パレンバンの落下傘部隊を描くため、スマトラへ行く。昭和21年 自宅の画室を開放して「アカデミー美術研究所」を開く。昭和27年 日本国立公園30点の制作に着手する。昭和30年 日本山林美術協会を創立する。昭和37年 インドに旅行、仏跡、ヒマラヤなどを描く。昭和40年 中国対外文化協会の招きにより中国に旅行。昭和44年 1月6日、慶応病院において死去。日展出品作品略年譜昭和26年「朝囀」、同27年「下北半島の杭夫達」、同28年「コンストラクション」、同29年「鷹の巣の雪山」、同30年「ダム・コンストラクション(佐久間)」、同31年「熔鉱炉」、同32年「吾道を行く人々」、同33年「練習中の大交響楽団」、同34年「鳴動」、同35年「颱風」、同36年「夜明け」、同37年「凝視」、同38年「ベナレスの聖牛」、同39年「野鶴」、同40年「存在」、同41年「遶行」、同42年「初転法輪」、同43年「雪後快晴」。
続きを読む »
没年月日:1968/12/10 光陽会々長、洋画家多々羅義雄は12月10日、心不全のため東京神田の同和病院で逝去した。享年74歳。多々羅義雄は明治27年9月18日福岡県能古ノ島に生まれた。同44年佐賀に出て青木繁に師事。45年上京、満谷国四郎に学び、また太平洋画会研究所に入った。そのご本郷研究所にも学んだ。大正2年第7回文展に「南の海」が初入選となり、第8回展に「夕陽の村」「伊豆の海辺」が入選、9回展で「海岸の山」が褒状となり、第12回展で「上総の海」が特選となった。文展から帝展へと出品をつづけ第11回帝展から無鑑査待遇となっている。昭和4年から太平洋美術学校教授として約4年間勤め25年太平洋画会代表となった。29年新に光陽会を創立、会長として晩年を送った。41年光陽会第14回展出品作に対し、文部大臣奨励賞、光陽会功労賞をうけている。昭和10年前後、毎年朝鮮、中国、満州、台湾方面に旅行、写生をつづけた。
続きを読む »
没年月日:1968/11/24 独立美術協会会員の洋画家、熊谷登久平は、11月24日、午後4時45分、東京駿河台・日大病院で食道ガンのため死去した。享年67歳。熊谷登久平は、明治34年(1901)10月2日、岩手県東盤井郡に生まれ、大正14年中央大学商学部を卒業、学生時代に川端画学校に入り、大正13年修了、昭和元年、白日会展に入選、このころ長谷川利行を識り、親交を結ぶ。昭和2年、白日会会員に推されたが、昭和4年には「気仙沼風景」「赤松と水車小車」を二科展に出品入選、翌5年には「海」「落日」を出品した。昭和6年、独立美術展第1回展に入選、その後、毎回出品して、昭和8、10年の出品作で海南賞を受賞し、昭和11年独立美術協会会友に推薦され、同16年会員となった。昭和37年以後、41年まで毎年、東京日本橋三越で個展を開催し、同38年にはヨーロッパに旅行した。また、著書に「初等図画練習帳」(5巻)、「熊谷登久平画集(絵と文)」(昭和16年、美術巧芸社)などがある。作品略年譜昭和6年「教会堂」「噴水のある風景(浜町公園)」 同7年「風景」「秋」「夏山」「静物」 同8年「画架と雉子」「鳥離室」「月夜」「風景」 同9年「山百合と娘」「菜園」 同10年「夕月」「五月幟」「朝顔」 同11年「七夕」「風景」「雲雀」 同12年「港」「Ballet Cauhaval」「春の朝」 同13年「古都と噴水」「パラシュート」「美しき海」 同16年「太鼓」「笛」 同17年「母子」「鳩」 同22年「十字架のある風景」「修道女」 同23年「聖書頌歌」 同24年「朝の港」「裸婦」 同27年「寿美子の乳房」「うすれ日」 同29年「ふるさと」 同30年「白い町」 同31年「夏去りし海」 同34年「河口」「古き灯台」 同38年「ナイル河」「サワラ砂漠」 同39年「NICEの宿」「斗牛士」 同40年「ローマの碑」 同41年「愛も武力も十字架も(殉教)」 同42年「裸女」「木の間」
続きを読む »
没年月日:1968/11/20 二科会会員の洋画家、阿部金剛は、11月20日午後10時25分、心筋コウソクのため東京逓信病院で死去した。享年68歳。阿部金剛は、明治33年6月26日、岩手県盛岡市において、元東京府知事阿部浩の長男として生まれた。母は、梅花と号した書家であった。東京府第一中学校を卒業、慶応義塾大学文学部予科に入学したが、岡田三郎助に師事して絵画を学び、大学を中途退学して、大正15年(1926)フランスに留学、アカデミー・ジュリアン、アカデミー・ランソンに入って学び、専らビシェールの指導をうけた。そのほか、藤田嗣治、キスリングなどの影響をうけ、昭和2年(1927)に帰国、昭和4年16回二科展に「Girleen」「Rien」が初入選し、以後二科展に超現実主義風の作品を発表、昭和17年二科会会友に推挙された。その間に、「超現実主義絵画論」(天人社版)「阿部金剛画集」(第一書房)の著書を刊行した。戦後派、再建された二科会に参加、昭和22年会員となり、「Rein」の連作を発表したが、昭和35年(1960)から昭和42年(1967)までメキシコ、アメリカに滞在、帰国して前夫人三宅艶子のもとで病没した。寿延、寿廷散士の号がある。作品略年譜昭和4年「Girleen」「Rien」16回二科展、同5年「Amazonne」「Rien」(二科展)、同6年「P氏の修辞学第二」「スエズの碇泊」(二科展)、同8年「意志と肉体と化学」(二科展)、同9年「貿易風」「バビア・ブランカ」(二科展)、同10年「美しき音の世界」(二科展)、同15年「月夜」(二科展)、同16年「習作」「習作」(二科展)、同22年「イヴ」(二科展)、同24年「オダリスク」「美しき対立」、同25年「ネプチューン」「月」、同26年「Lady」、同27年「レダ」「シジフの神話」、同28年「Rein」2点、同29年「Rein」三部作、同30年「黒猫」、同32年「Rein1・2」、同33年「Rein H.J.G.I」、同34年「Rein A-1、B-1、C-1」、同35年「作品1・2・3」、同36年「作品603」「作品602」
続きを読む »
没年月日:1968/11/19 本名好治、南画家の水田黄牛は、11月19日直腸ガンのため、死去した。享年71歳。水越松南に師事し、竹圃、硯山、要樹平と南画家四兄弟として知られる。
続きを読む »
没年月日:1968/11/18 太平洋美術会会員の川村信雄は、11月18日午前7時50分、横浜市立医大附属病院にて脳軟化症のため死去した。享年76才。川村信雄は、明治25年(1892)9月18日熊本市に生まれ、東京富士町小学校をへて、東京開成中学校に進んだが病気のため中退し、明治41年太平洋画会研究所に入り洋画を学ぶ。この頃、川上涼花ら『紫紅』という廻覧雑誌をつくり、約150号続け、また展覧会を開催した。大正元年、斎藤与里、高村光太郎、岸田劉生らとフュウザン会を結成、第1回展に「女と瓦斯の光」「真夏の日」「肖像」「トマトとバナナと」「静物」「別れ」「ダリヤ」「百合花」を出品、翌2年の第2回展に「伊豆の冬」「冬」「静物」「伊豆山」「自画像」「風景」を出品した。フュウザン会解散後は、大正5年斎藤与里、硲伊之助らと日本美術家協会をつくり展覧会を開催、また大正3年から文展、帝展に出品した。大正8年横浜美術協会創立に参加したが、大正12年大震災の直後、横浜貿易新報社長三宅磐の依頼をうけて、川端童子、石井柏亭、岡田三郎助らを招き、横浜桜木町駅前興産館(現、市民ギャラリー)で展覧会を開催した。大正14年横浜弘明寺に川村画塾を開設。昭和8年満州に旅行し、朝日新聞神奈川版に画報紀行を寄稿、同13年横浜市の使節として北中国地方の傷病兵を慰問旅行する。昭和13年太平洋画会会員となり、戦後も太平洋画会委員、神奈川県美術家協会会員として活躍し、昭和40年には横浜文化賞を受賞した。主要作品:「葡萄棚のある家」(帝展出品)「養蜂園」(帝展)、太平洋画展出品作品:「山村の春」昭和27年、「夏の静物」同28年、「芍薬」同29年、「塔」同32年、「奈良の家根」同35年、「浄瑠璃寺曼荼羅」同36年、「桜島」同38年、「早春の唐松」同40年など。
続きを読む »
没年月日:1968/10/23 日本童画会会員、創造美術教育協会委員の美術教育家の湯川尚文は、10月23日、胆石のため死去した。湯川尚文は、明治37年(1904)5月22日、東京都に生まれ、東京豊島師範学校第二部を卒業、日本美術学校にも在学した。東京都文京区根津小学校に勤務し、20余年間にわたって児童の美術教育を担当して昭和29年退職した。以後、新宿区戸塚第1中学校美術科講師となった。この間に、日本水彩画会展、光風会展、日本童画会展にも出品したが、独立美術展には昭和7年第2回展から出品入選し、「卓上」(2回展)、「ギターその他」(4回展)、「機械を配せる風景」(5回展)、「樹木とオートバイ」(6回展)、「海浜と網」(7回展)、「建物」(8回展)、「廃墟」(12回展)、「画室の一隅」(17回展)などの作品を発表した。また、美術教育に関する評論、解説などを教育雑誌、美術雑誌に寄稿し、図工科教科書の編集にも従事し、国際学童水絵展(朝日新聞社主催)、「母と子」の児童展(森永製菓K.K.主催)、世界学生美術展(日本ユネスコ美術教育連盟)などの審査員をつとめた。著書に「児童と絵画」(綜合美術研究所)、「絵をかく子供」(誠文堂新光社)、「生きている児童画」(大蔵出版)、「図工科」(岩波教育講座・第6巻)などがある。
続きを読む »
没年月日:1968/08/15 元京都美術大学教授の洋画家、高林和作は、8月15日午後9時、脳いっ血のため京都市上京区の自宅で死去した。享年68歳。高林和作は、堺市の出身で、大正12年、早稲田大学文学部英文学科を卒業、昭和2年フランスに渡り、アカデミー・スエドアのワロキエの教室に学び、サロン・デ・チュイレリーに出品。昭和5年帰国して京都絵画専門学校助教授、教授となり、昭和40年退官した。美術団体には所属せず、個展を開催して作品を発表し、すぐれた色彩画家として一部に注目されていた。
続きを読む »
没年月日:1968/07/09 日本画家宮原明良は、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年64歳。線による抽象的水墨画を描いて知られた。41年には山水画が、パリ国立近代美術館に収蔵され、40年には紺綬褒章を受章した。
続きを読む »
没年月日:1968/06/30 独立美術協会会員の洋画家、飯田実雄は、6月3日、千葉県船橋市の自宅でのう胸のため死去した。享年63歳。飯田実雄は明治38年(1905)、福岡市に生まれ、大正14年大阪に出て信濃橋洋画研究所に入所し、小出楢重の指導を受けたが、昭和3年上京して新洋画研究所に入り、中山巍に学ぶ。この研究所は、その後独立淀橋研究所と合体したが、飯田は、その運営に従事した。独立美術展には、昭和6年第1回展から出品したが、昭和14年台湾に渡り、台湾美術研究所を開設した。昭和21年帰国。同28年第21回独立展、「天使」「石仏」によって独立賞を受賞し、同31年準会員に推され、同35年、会員に推挙された。41年ヨーロッパに旅行した。作品略年譜(独立展出品作)昭和6年「工場」 同7年「雪景」「窓と花」 同7年「北国の港」「地球儀のある静物」 同16年「紅頭嶼」「台湾家禽」 同17年「独木舟」「野食」 同21年「たそがれの女」「母子像」「喫食」 同22年「朝」「台湾を去る」 同23年「裸婦」 同27年「聖堂」 同28年「天使」「石仏」 同29年「浦上のマリア」 同30年「受難(原爆シリーズ)」「灰燼(原爆シリーズ)」同31年「マリアとキリスト」 同32年「聖像」 同34年「黒い十字架」 同35年「神々のオブジェA、B」 同36年「シジホスの神話A、B」 同37年「黙示録の騎士」 同38年「ロクロを廻す男」「考える男(升田幸三九段像)」 同39年「ヘラクレスの末裔A、B」「聖火」 同40年「裸婦A、B」 同42年「巴里のフーテンA、B」
続きを読む »
没年月日:1968/06/05 日本画家奥村紅稀は、6月5日脳いっ血のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年71歳。愛知県に生まれ、京都絵画専門学校を卒業、西山翠嶂に師事した。大正11年帝展第4回展に「梅屋」を初出品以来、帝、文展に出品し、主として風景花鳥を描いた。
続きを読む »
没年月日:1968/05/19 モダンアート協会会員、東京芸術大学教授、山口薫は、5月19日午前1時10分、胃ガンのため東京・新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年60歳であった。山口薫は、群馬県榛名山麓の旧家の11人兄弟の末子として生まれ、県立高崎中学卒業後、東京美術学校西洋画科に入学した。中学時代には、絵日記をかき残しており(没後に出版された)、また川端学校でデッサンを勉強した。美術学校在学中の大正15年(1926)には帝展に入選、早くから才能を発揮したが、昭和5年、美術学校を卒業して渡欧し、ヨーロッパ諸国を歴遊、帰国した翌年の昭和9年には、既成の団体から脱会して、村井正誠、矢橋六郎、長谷川三郎らの同志とともに昭和10年代前半に簇生した青年画家グループの先駆けとなった「新時代」社を設立し、近代的な絵画の創作運動を展開した。新時代社は、やがて「フォルム」「黒色」など他の青年画家グループを糾合して自由美術家協会に発展し、戦後は、自由美術協会となり、山口薫はその中心的な作家のひとりとして活躍したが、昭和25年(1950)には、村井正誠、矢橋六郎、長谷川三郎の旧同志とともに自由美術協会を離脱して「モダンアート協会」を設立している。以後、この会に主要な作品発表を続けると同時に、国内で開催された国際美術展や、サンパウロ、ヴェネツィアの各ビエンナーレ展にも出品した。また、文化学院、武蔵野美術学校の講師、昭和28年以降は東京芸術大学において美術教育に従事した。終始、詩情にとんだ清新で造型的な作品を発表し、毎日美術賞(昭和34)、芸術選奨文部大臣賞(昭和35)などを受賞し、高く評価された。なお、詩人集団「歴程」同人でもあった。年譜明治40年(1907)8月13日群馬県群馬郡に生まれる。大正9~14年 群馬県立高崎中学に学ぶ。在学中、何冊かの絵日記をかいており、没後に出版されている。大正14年 東京美術学校西洋画科に入学。大正15年 帝国美術院展に「静物」入選。昭和2年 帝国美術院展に「卓上静物」入選。昭和4年 第4回国画会展に「静物」入選。昭和5年 第17回二科展に「風景」入選。東京美術学校卒業。9月渡欧しフランス、イタリー、スイス、スペイン、エジプトなどを歴訪して美術の研究につとめた。(1933年まで)昭和8年 パリより国画会展に「マルチック風景」「緑衣の女」などを出品し、国画会々友に推薦される。8月、帰国した。昭和9年 4月、矢橋六郎、村井正誠、長谷川三郎、津田正周、大津田正豊と共に新時代展を創立し、5月に第1回展を開始、「巴里近郊の農家」などを出品、以来殆ど毎月紀伊国屋画廊(銀座)で展覧会を開催した(1936年まで継続)。この年、国画会には出品したが、5月に退会した。昭和12年 2月、山口ら新時代展の同人が中心になり「フォルム」「黒色」などの同人をともなって自由美術家協会を結成した。7月、日本美術協会(上野)でその第1回展を開催、「黒耀石」「鏡」「紐」「夢」「森」「花ノ像」「古羅馬の旅」「花」などを出品した。昭和13年 5月、自由美術家協会第2回展へ「山脈」「桃」「夏山(榛名)」「リンゴの曲」「壺A」「壺B」「形体」を出品した。8月、大阪、大和書房において個展を開催した。昭和14年 5月、自由美術家協会第3回展に「蛸壺など」「南風」「泉」「紐」を出品した。昭和15年 5月、自由美術家協会第4回展に「風景」「立像」「新緑」「顔」「人」「壺と鳩」を出品した。7月、自由美術家協会を美術創作家協会に改めた。昭和16年 4月、美術創作家協会第5回展を開催した。昭和17年 1月、資生堂(銀座)において矢橋六郎、森芳雄と3人展を開催し、「流水」「髪」などを出品した。4月、美術創作家協会第6回展に「驟雨」などを出品した。昭和18年 3月、美術創作家協会第7回展に「銃」などを出品した。昭和19年 5月、美術創作家協会第8回展を開催した。11月、戦時特別文部省展に「苔むす巌」を出品した。昭和20年 郷里に帰っていたが、終戦となり上京した。昭和21年 6月、大阪、大丸において自由美術家協会再建の展覧会を開催した。昭和22年 6月、毎日新聞社主催の第1回美術団体連合展に「杉」ほか2点を出品した。7月、自由美術家協会第11回展に「ブルターニュの追憶」などを出品した。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展に「ユーロップとゼウス神牛」を出品した。7月、村井正誠、矢橋六郎と3人展を開催した(日動画廊)。10月、自由美術家協会第12回展に「十和田紀行」「保谷クリスタル」「裸婦と風景」を出品した。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展に「残雪の木々」を出品した。10月、自由美術家協会第13回展に「画室の森」を出品した。北荘画廊(日本橋)で個展を開催した。昭和25年 9月、長谷川三郎、矢橋六郎、村井正誠らとモダンアート協会を設立した。10月、フォルム画廊において植木茂と2人展を開催した。この年、文化学院教官となる。昭和26年 1月、朝日新聞社主催秀作美術展に「少女の像」を出品した。2月、第1回モダンアート協会展に「夜の宿」「幻想」などを出品した。10月、第2回檀会展に「しののめの馬」「母子」「紐と紙箱」を出品、「しののめの馬」はロックフェラー近代美術館の収蔵となった。この年、フォルム画廊で個展を開催、「幻想の行方」などを出品した。武蔵野美術学校講師となる。昭和27年 1月、1952年サロン・ド・メエ出品発表展に「花子誕生」「手」「子供の遊び場」を出品した。第3回秀作美術展に「母子」を出品した。3月、第2回モダンアート展に「子供のための楽曲“田園”」「クレタのユーロップ」「月光の顔」などを出品した。「母子」は文部省買上げに決定した。5月、毎日新聞社主催第1回日本国際美術展に「木と紐」「春の鳥」を出品した。12月、フォルム画廊において山口薫1952年作品展を開催した。国立近代美術館の開館記念、近代日本美術展-近代絵画の回顧と展望-に「母子」「杉」「木と紐」が陳列された。昭和28年 1月、第4回秀作美術展に「クレタのユーロップ」を出品した。2月、第3回モダンアート協会展に「林の幻影」「ボタン雪と騎手」などを出品した。3月、インド国際美術展に「花子誕生」が出品推薦され、国内展示会が催された。5月、第2回日本国際美術展に「季節の哀歓“田甫と鳥”」「エリザベートの戴冠」を出品した。この年、東京、サエグサ画廊及び大阪、梅田画廊で個展を開催した。この年、東京芸術大学講師となる。昭和29年 1月、第5回秀作美術展に「広場の十字架」「季節の哀歓」「水に映った2匹の馬」「林の幻影」「月光の顔」を出品した。2月、第4回モダンアート協会展に「雪と少女」などを出品した。5月、第1回現代日本美術展に「牛の頭」「顔」を出品した。サエグサ画廊で山口薫巴里留学中の作品鑑賞展が開催された。昭和30年 1月、第6回秀作美術展に「銅色の月」を出品した。2月、国立近代美術館の戦後の絵画・彫刻、19人の作家展に「クレタのユーロップ」「季節の哀歓」「ダム・エリザベートの戴冠」「雪と少女」「少女の像」を出品した。第5回モダンアート協会展に「歌う鳥と壺」「季節の鳥」「雪山好日」を出品した。5月、第3回日本国際美術展に「孤独者のすまい」「白痴の愛」を出品した。昭和31年 2月、第6回モダンアート協会展に「水田を拓く」などを出品した。5月、第2回現代日本美術展に「田園詩」「歳月の記録」を出品し、佳作賞を受けた。9月、日本橋画廊の現代作家8人自選展に出品した。昭和32年 1月、第8回秀作美術展に「水田を拓く」を出品した。2月、第7回モダンアート協会展に「森の二重像」「水質の像」を出品した。第4回サンパウロビエンナーレ展出品国内展示が催された、これには「季節の哀歓」「ボタン雪と騎手」「聖母(ノートルダム)」「雪と少女」「孤独者のすまい」「田園詩」「歳月の記録」「広場の十字架」「水田を拓く」が陳列された。5月、第4回国際美術展に「千手像-“黒夫人”」が出品された。7月、現代美術10年の傑作展(東京渋谷、東横)に「花子誕生」が陳列された。11月、東京銀座、松坂屋において橋本明治・山口薫2人展を開催した。昭和33年 1月、ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「千手像-“黒夫人”」「牛頭」「アラブの月」を出品、その国内展示が催された。国立近代美術館(朝日新聞社と共催)の戦後の秀作展に「水田を拓く」が陳列された。2月、モダンアート協会展に「道化の馬」「船のような風景」を出品した。5月、第3回現代日本美術展に「林と動物」を出品した。山口薫・橋本明治2人展を東京銀座、松坂屋で開催した。6月、「林と動物」によりグッゲンハイム日本国内賞を受けた。昭和34年 1月、第10回(昭和33年度)毎日美術賞が「林と動物」その他に対して与えられた。第10回秀作美術展には「林と動物」が選ばれたが、グッゲンハイム国際美術展に出品中のため不出品。4月、第9回モダンアート協会展に「水と小舎」「幻想矢羽根と牛」「牛の親子」を出品した。5月、第5回日本国際美術展に「矢羽根とぶ」を出品した。7月、山口薫・村井正誠展が神奈川県立近代美術館において開催され、70点あまりが陳列された。12月、ピッツバーグ国際絵画彫刻展に招待され「道化の馬」を出品した。昭和35年 1月、第11回秀作美術展に「矢羽根とぶ」を出品した。第30回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展への日本側出品作家に選ばれる。出品作品は「田園詩」「森の二重像」「林と動物」「矢羽根とぶ」「荒寥・焼野のきじ」「霧の沼」「娘の肖像おぼえがき」であった(国内展示は3月)3月、「矢羽根とぶ」その他一連の制作活動に対して昭和34年度芸術選奨文部大臣賞が与えられた。4月、第10回モダンアート協会展に「葬送」「沼面春の雨(乾拓地)」を出品した。5月、第4回現代日本美術展に「サラサラ粉雪ふる」「氷湖の鳥」を出品した。昭和36年 1月、第12回秀作美術展に「沼面春の雨」を出品した。サエグサ画廊で山口薫・牛の主題展が開催された。4月、第11回モダンアート協会展に「しろとちび」「しののめの木」を出品した。5月、第6回日本国際美術展に「白い雨」を出品した。この年、蓼科高原と保田に別荘をつくった。昭和37年 2月、朝日新聞社主催により松屋(東京銀座)において山口薫デッサン展が開催された。4月、第12回モダンアート協会展に「荒れた小さい菱形の沼」「甲斐虎のクマ」を出品した。第4回国際具象派美術展に「牛と娘と猫」「丸沼の火山弾」を出品した。5月、第5回現代日本美術展に「小さい氷湖」「五つの沼」を出品した。昭和38年 1月、第14回秀作美術展に「荒れた小さい菱形の沼」を出品した。4月、第13回モダンアート展に「廃船と菜の花畑」「晴れた日の林」を出品した。5月、第7回日本国際美術展に「竹の園生」を出品した。10月、第2回国際形象展に「ある都」「冠と顔の彫刻」「刀と矢と娘の顔など」を出品した。12月、鎌倉近代美術館の昭和初期洋画展に「古羅馬の旅」「緑衣の女」が出品された。この年、東京芸術大学教授となる。昭和39年 1月、第15回秀作美術展は秀作美術展の回顧展で「銅色の月」を出品した。国立近代美術館の滞欧作とその後展に「クルニー美術館の裏庭」「緑衣の女」「紐」「母の葬送」「残雪の木々」「母子」が陳列された。4月、第14回モダンアート展「矢筒と牛の顔」などを出品した。5月、第6回現代日本美術展に「シンフォニー・ランドスケープー沼の樹」「丸い沼と春の雪」を出品した。9月、第3回国際形象展に「水田を飛ぶカーチス式軽飛行機」を出品した。昭和40年 4月、第15回モダンアート展に「春の滝」「弾けない楽器」を出品した。5月、第8回日本国際美術展に「滝壺とやどりぎ」を出品した。8月、ギャルリ・アルカンシェルで山口薫淡彩展を開催した。12月、国立近代美術館京都分館において開催された、具象絵画の新たなる展開展に「十和田紀行「草原をとぶ翼」「ある都」「雪山好日」「水門の裏と表」が陳列された。昭和41年 4月、第16回モダンアート協会展に「ある春の唄」「牛と幼き娘」を出品した。5月、第7回現代日本美術展に「竹の林と娘の顔」を出品した。10月、第5回国際形象展に「鱒池のほとり」を出品した。昭和42年 1月、群馬県美術ファンデーション・ギャラリーで山口薫展が開催された。4月、第17回モダンアート協会展に「月と道産子」「夜間飛行」を出品した。5月、第9回日本国際美術展に「春駒寄せと楽譜」を出品した。6月、東京銀座、松屋で山口薫画業40年の回顧展を開催、この展観には各期にわたる代表的な作品など60点あまりが陳列された。昭和43年 1月、群馬県美術館ファンデーション・ギャラリーで山口薫展が開催された。4月、第18回モダンアート協会展に「若い月の踊り」を出品した。5月、第8回現代日本美術展に「おぼろ月に輪舞する子供達」を出品した。5月19日死去9月、東京芸術大学陳列館において山口薫教授追悼展が開催された。昭和44年 4月8日~5月11日、京都国立近代美術館において山口薫回顧展が開催され、素描、版画を含めて261点が展観された。
続きを読む »
没年月日:1968/04/19 独立美術協会会員の洋画家鉄指公蔵は、4月19日、逝去した。鉄指公蔵は、明治41年(1908)、横浜市に生まれ、荏原中学に学び、高畠達四郎に師事して洋画を学ぶ。昭和8年3回独立展に「新開地近く」が初入選となり、翌4回展「風景」、5回展「風景」など毎回出品、昭和18年、朝日新聞社より開拓団画信を依頼されて満州各地遍遊した。昭和26年19回独立展に「船」「海辺」を発表して独立賞を受賞し、同28年準会員に推挙され、同29年会員に推薦された。
続きを読む »
没年月日:1968/03/27 日本画家木下二介は、3月27日胃ガンのため港区芝の自宅で死去した。享年71歳。鳥取県出身。東京新聞の前身である「都新聞」に長編小説「人生劇場」などのさし画を描き、戦後では東京新聞連載の山岡荘八「徳川家康」のさし画が代表作となった。
続きを読む »
没年月日:1968/03/23 和泉短大教授、太平洋美術会理事佃武昭は3月23日新宿区若松町の国立第一病院で胃ガンのため逝去した。明治24年7月17日岡山市に生まれ、44年太平洋画会洋画研究所に学び、更に東京美術学校に入学、大正7年卒業、そのご11年迄研究科に在学していた。在学中、大正2年東京勧業博覧会に「樹林」大正3年の大正博覧会に「風景」などが入選している。卒業後は、東京女高師、東京高等学校教諭など、教職に身をおきながら、太平洋画会展、文展等に出品をつづけていた。温健な画風の官展系作家として知られていた。作品略年譜大正2年 「樹木」東京勧業博覧会展大正3年 「風景」大正博覧会出品大正6年 「萩咲く園」第11回文展大正11年 「おばあさまの像」平和博覧会昭和3年 「黄色い窓掛」第9回帝展「眠れる子」「楊さん」大日本勧業博覧会昭和5年 「晩秋」第3回聖徳太子奉讃展昭和8年 「窓に倚る夫妻」第14回帝展昭和11年 「子供3人」文展昭和15年 「群長さん」紀元2600年奉祝展昭和18年 「飾付了えたる進水式場」第7回大日本海洋美術展「船客避難訓練」他、生産美術展昭和21年 「Y氏」第1回日展昭和22年 「人形を楽しむ母」東京都美術館20周年記念現代展その他太平洋美術展、昭美会展(佃武昭代表)に出品、また、個展は、昭和32年(産経画廊)、37年(伊勢丹画廊)39年(名古屋前線ギャラリー)、42年(新橋ギャラリーで中村徳次と二人展) なお44年2月新宿伊勢丹画廊で遺作展を開催。
続きを読む »