本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





伊東万燿

没年月日:1970/11/26

日本画家で日展評議員の伊東万燿は、11月26日食道ガンのため、東京都文京区日本医科大学付属病院で死去した。享年49歳。本名満で、大正10年日本画家伊東深水の次男として東京に生れた。戦前は朗峯画塾展、青衿会展などに出品して受賞し、昭和16年第4回文展に「楽人」を初出品して入選した。戦後は、日展、日月社展等に出品し、日展では昭和25年依嘱となり、同42年には「踊る」で内閣総理大臣賞、翌43年には「女」で、日本芸術院賞となった。作品には上記のほか「落葉する頃」(3回日展)、「高原清秋」(5回日展)、「黎明」(6回日展)、「食卓」(7回日展)などがあげられる。

山岡良文

没年月日:1970/11/17

日本画家山本良文は、17日心筋こうそくのため東京の自宅で死去した。享年59歳。本名良文。明治44年東京に生れ、根岸小学校、巣鴨中学校を卒え、京都絵画専門学校を卒業した。石崎光瑤、川端竜子に師事し、青竜社展に出品した。前期自由美術家協会に所属し、同志と歴程美術協会を昭和13年に創立した。また新日本画研究会に参加するなど終始日本画の前衛画家として知られた。戦後は、永い療養生活を送り、歴程の再建に尽力し、昭和45年之を再建し、第1回歴程美術協会小品屋発表後死去したものである。主もな作品に「ガソリン風景」(4回青竜社)、「消費都市」(昭和10年新日本画研究会)、「山霊の合歓」(3回歴程)などがある。なお同氏は明治の山岡鉄舟の孫にあたる。

我妻碧宇

没年月日:1970/10/28

日本画家我妻碧宇は、10月28日名古屋市千種の愛知県ガンセンターで死去した。享年66歳。本名栄之助。明治37年3月24日山形県米沢市に生れ、大正11年上京した。日本美術学校日本画科に学び、昭和4年同校を卒業し、中村岳陵に師事した。この年、第16回院展に出品した「午后の陽射」が初入選し、翌第17回院展には「夏朝」を出品し、昭和7年第19回院展で「山野根風景」を出品し、院友となった。昭和15年中村岳陵法隆寺壁画模写事業主任となるに及び、その下で模写に従事した。戦後は日展に出品し、昭和27年審査員、同33年評議員となった。この間、作人には、第4回「渓澗」(政府買上)、第7回「秋」特選、白寿賞)、第8回「雲の影」、第11回「暮色」、改組第3回「少女」などがある。昭和36年中村岳陵の門を離れ、7月同門の中村正義、森緑翠らと白土会を結成し、その創立会員となった。なお、昭和11年より名古屋に在住し、昭和29年には第7回中日文化賞を受けている。

柚木久太

没年月日:1970/10/27

日展評議員柚木久太は10月27日老衰のため岡山県倉敷市の自宅で逝去した。享年85歳。柚木久太は明治18年10月22日岡山県倉敷市で生れた。父は玉邨と号し南画家であった。明治39年満谷国四郎の門に入り翌年から太平洋画会研究所に属し、又東京美術学校に聴講。明治44年第5回文展に「鞆津の朝」が入選、同年フランスに留学、アカデミイ・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学び大正4年帰国した。以後文展・帝展に出品をつづけ特選を重ね昭和3年帝展審査員となった。戦後は日展で活動、晩年は日展評議員、参与をつとめた。明治44年 第5回文展 「鞆津の朝」大正4年 第9回文展 「入江」三等賞大正5年 第10回文展 「護書之図」特選大正8年 第1回帝展 「水郷の夕」特選大正11年 第4回帝展 「麦秋」特選平和記念東京博覧会展「暮るる赤城根」銅賞大正14年 帝国美術院展委員昭和3年 第9回帝展審査員となり帝展出品をつづける昭和30年 新世紀美術協会創立に参加し会員となる昭和32年 第1回新日展会員となる昭和39年 日展評議員昭和45年 日展参与となる。10月28日没。主な作品、以上の他湖雲(第6回日展)、椿咲く小路(第8回日展)など

遠藤教三

没年月日:1970/10/18

日本画家遠藤教三は、10月18日病気療養中のところ死去した。明治30年東京麹町に生れ、大正10年東京美術学校を卒業、同年女子美術専門学校講師となった。昭和19年之を辞めた。作品は、大正10年より昭和5年まで毎年新興大和絵会に発表し、6年以降12年まで帝展に出品した。同13年より16年まで狩野光雅、長谷川路可と三人展を開き、17、18年は文展に出品した。戦後は専ら個展により発表した。(昭29年資生堂、同31年日本橋三越、同38年同所)なお、「墨絵入門」「デザインの美」「色の理解」「色彩教養」などの著書がある。

福田豊四郎

没年月日:1970/09/28

新制作協会の日本画家福田豊四郎は、9月27日肝硬変のため世田谷の自宅で死去した。享年65歳。本名豊城。明治37年11月27日秋田県鹿角郡で、薬局を営む豊治、母しのの四男として生れた。大正8年小坂町立小坂高等科をおえ、画家を志して京都に出、鹿子木孟郎の塾に入った。間もなく親の反対で一旦帰京するが、同11年再び上京し、川端竜子に師事した。更らに翌12年京都に戻り、土田麦僊に師事した。この頃から豊四郎の号を用いた。同14年京都絵画専門学校に入学、昭和3年同校選科を卒え、秋、上京して旧師川端竜子に師事した。この間、昭和2年国画創作協会々友になり、同展には「東福寺風景」(4回国展)、「静峡」(5回国展)などの作品がみられる。同4年には、石橋文子と結婚し、青竜社々友となった。同7年同社々人になったが、青竜社が反官展を表明したのを機会に、昭和8年9月同社を脱退した。翌9年日本画革新をはかり吉岡堅二らと6月山樹会を結成、さらに翌7月新日本画研究会を結成した。昭和13年2月同会を拡大し、新美術人協会として発足した。この年から翌年にかけ、陸軍従軍画家として中支・北支を巡歴し、翌14年1月帰国した。さらに、同17年4月4日から9月3日まで、陸軍従軍画家として東南アジアを巡ぐった。昭和20年2月には、秋田県由利郡に疎開し、翌21年2月東京に戻った。戦後昭和23年1月、山本丘人、吉岡堅二らと世界性に立脚する日本絵画の創造をスローガンに、創造美術協会を結成した。同会は昭和26年新制作派協会と「相互連関性」をとなえ、合併して新制作協会となった。昭和31年3月武蔵野美術大学日本画講師となり、4月から約3カ月間アジア連帯文化使節の一員として東西諸国を巡遊した。同38年10月黄疸発病、翌年3月肝硬変のため東京目黒国立第二病院に入院した。8月退院し、翌41年2月再発のため同病院に再入院、翌42年10月退院した。44年10月三度目の入院をし、翌年6月退院したが、9月病気再発し、没した。年齢 作品略年譜大正11 18 「花びわのかげ」院展試作展 「鶏小屋」中央美術展大正12 19 「春の多摩川」大阪毎日展大正13 20 「水泳ぐ児等」第5回帝展 「東福寺風景」第4回国画創作展 「発車後」国画創作春季展大正14 21 「雪の北国」第6回帝展 「静峡」第5回国画創作展大正15昭和元 22 「故山新秋」第7回帝展昭和3 24 「ふるさとの夏」第9回帝展 「雪の一日絵巻」第6回国画創作展昭和4 25 「山みのる秋」第10回帝展 「山湖遊行巻」第1回青龍社展昭和5 26 「早苗曇り」第11回帝展、特選 「山春・待春」双幅 第2回青龍社展昭和6 27 「水辺の夏」第12回帝展 「山の秋」第3回青龍社展昭和7 28 「樹々の山は芽を吹く」第13回帝展 「山菜を売る人達」第4回青龍社展 「闘犬の日」第4回青龍社展昭和8 29 「たこあげる児等」第14回帝展 「熔鉱炉」第5回青龍社展 「草野」第5回青龍社展昭和9 30 「夏郷」第15回帝展 「福田薬局図」山樹社展 「陸中の人」山樹社展 「おそ秋」山樹社展 「きつつきの山」山樹社展 「靴屋」山樹社展 「田園七旺集」7点 山樹社展 「鉱山風景」新日本画研究会展昭和10 31 「樹の根と牛」山樹社展 「樹の根と蝶」山樹社展 「南瓜と少年」山樹社展 「春寒」山樹社展 「爽朝」山樹社展 「開墾地」山樹社展昭和11 32 「海辺」第1回新帝展 「六月の森」新文展鑑査展昭和12 33 「樹氷」第1回新文展昭和13 34 「濤A」新美術人展昭和14 35 「蒙彊」第3回新文展 「松」新美術人展昭和15 36 「鴉」新美術人展昭和16 37 「山脈-からす-」第5回新文展 「八郎湖凍漁」新美術人展昭和17 38 「英領ボルネオを衝く」昭和18 39 「叢林」新美術人協会展 毎日新聞連載小説、石川達三「日常の戦ひ」8月31日~19年1月12日の挿絵をかく。昭和21 42 絵本「笠地蔵様」美術出版社出版、絵・福田豊四郎、文・関敬吾。昭和22 43 「暮沼」第2回日展昭和23 44 「秋田のマリア」第1回創造美術展昭和24 45 「踊る娘たち」第2回創造美術展昭和25 46 「海女」第3回創造美術展 「沼」創造美術春季展 「野の花輪」創造美術春季展昭和26 47 「山河」第15回新制作展 文部省買上。「愛」新制作春季展 絵本「夕鶴」新潮社出版、絵・福田豊四郎、文・木下順二。朝日新聞連載小説、林芙美子「めし」4月1日~7月6日の挿絵をかく。昭和27 48 「八幡平」第16回新制作展 毎日新聞連載小説、今日出海「怒れ三平」10月10日~28年2月2日の挿絵をかく。昭和28 49 サンデー毎日連載小説、吉屋信子「秘色」1月4日号~5月24日号の挿絵をかく。婦人公論連載「物語人物女性史」1月号~12月号挿絵をかく。6月4日、胆石手術。昭和29年 50 「月夜」第18回新制作展 「軍鶏」新制作春季展 朝日新聞連載小説、井上靖「あした来る人」3月27日~11月3日の挿絵をかく。昭和30 51 「滝A」第19回新制作展、毎日美術賞受賞 「流れ」第31回日本国際美術展 佳作賞受賞。 「歯朶」新制作春季展   婦人公論連載小説、石川達三「親しらず」5月号~11月号の挿絵をかく。毎日新聞連載小説、今日出海「チョップ先生」8月16日~31年3月23日の挿絵をかく。昭和31 52 「濤B」第20回新制作展 2月、「美しさはどこにでも」牧書店出版、産経出版文化賞受賞。東京新聞連載小説、火野葦平「コマよまわれ」10月21日~32年10月8日の挿絵をかく。昭和32 53 「滝B」第21回新制作展 「北京の屋根」新制作春季展 中央公論連載小説、井上靖「天平の甍」3月号~10月号の挿絵をかく。昭和33 54 「海ねこ礁」第22回新制作展 「氷原」第3回毎日現代美術展 朝日新聞連載小説、沢野久雄「火口湖」11月19日~34年3月25日の挿絵をかく。昭和34 55 「金華山」第23回新制作展昭和35 56 「流れと鹿」第23回新制作展 「小鳥のくる流れ」毎日美術賞記念展 「福田豊四郎個展」東京・壺中居6月20日~25日昭和36 57 「山海」第25回新制作展 「風樹」第6回毎日国際美術展 東京新聞連載小説、井上靖「崖」1月30日~37年7月8日の挿絵をかく。「福田豊四郎個展-旅の回想」東京壺中居、「福田豊四郎近作展」、名古屋・丸栄デパート、10月7日~12日。昭和37 58 「山脈」第26回新制作展 「梅」第5回現代美術展 「福田豊四郎画伯スケッチ展」秋田市・木内デパート、5月18日~20日「福田豊四郎個展-雪国を描く」東京・壺中居、6月18日~23日「福田豊四郎近作展」秋田市・木内デパート、9月25日~10月3日「福田豊四郎自選回顧展」秋田市立美術館9月25日~10月14日、10月26日昭和38 59 「炎」第27回新制作展 「鯉」新制作春季展 「福田豊四郎個展」大阪・大丸デパート1月22日~27日。「福田豊四郎・上村松篁展」神奈川県立近代美術館9月14日~10月27日。婦人公論連載小説、井上靖「楊貴妃伝」2月号~40年5月号の挿絵をかく。昭和39 60 「ふるさとへ帰る」第28回新制作展 「野火けもの」第6回現代美術展 「福田豊四郎・京洛風趣展」東京プリンスホテル内、フジインターナショナル・アート、11月2日~11月14日。 「福田豊四郎個展-十和田湖十二景-」、東京・上野松坂屋11月17日~22日。朝日新聞連載小説三浦綾子「氷点」12月9日~40年11月14日の挿絵をかく。昭和40 61 主婦の友連載小説、獅子文六「父の乳」1月号~42年12月号の挿絵をかく。「北国へ春が来た」新制作春季展 約2年にわたる月刊誌「潮」の表紙絵終る。昭和41 62 「層雲峡」新制作春季展昭和42 63 3月、『福田豊四郎画集-田園抄12ヶ月-』三彩社。「福田豊四郎展-小さい世界-」東京・南天子画廊3月27日~4月8日昭和43 64 「雪国」第32回新制作展昭和45 朝日新聞連載小説、三浦綾子「続氷点」5月12日~46年5月10日の挿絵を病没までかき続ける。そのあとを新制作協会会員向井久万が引継いでかく。「福田豊四郎展」、東京・南天子画廊9月7日~19日。昭和46 「福田豊四郎画伯遺作展」秋田県角館町公民館4月27日~29日。「福田豊四郎遺作展」秋田市立美術館9月17日~10月13日。武塙林太郎・井上隆明氏制作福田豊四郎年譜参考

宇根元警

没年月日:1970/09/25

独立美術協会々員宇根元警は、9月25日脳出血のため広島県呉市の自宅で逝去した。享年66歳。明治37年8月2日広島県呉市で生まれ、大正13年師範学校卒業、昭和5年独立美術協会第一回展より同展に出品。昭和15年第10回展「葡萄」で独立美術協会賞を受賞、17年に同会々友、23年同会々員となった。

海老原喜之助

没年月日:1970/09/19

独立美術協会々品の洋画家海老原喜之助は、9月19日午前8時30分(日本時間午後4時30分)パリ16区のアパートで消化器系のガンのため死去した。明治37年鹿児島市に生れ、大正11年鹿児島県立志布志中学を卒業して上京、有島生馬に師事し、また川端画学校に学んだ。同12年渡仏し、滞仏12年ののち昭和帰国して独立美術協会々員となった。その後も度々フランスを訪れ、最後は昭和42年10月、師であり親友であった故藤田嗣治看病のため夫人と渡仏し、半年ほど前から健康がすぐれず帰国予定だった。作品は、フォーヴィズムの系統を引くが、独自の画風をもっていて、内外の画壇から注目されその若々しい製作ぶりに期待をもたれていた。略年譜1904(明治37)年 鹿児島市に生まれる。1917(大正6)年 4月鹿児島県立志布志中学校に入学。1921(大正10)年 夏、上京し、有島生馬に師事し、川端画学校に席をおく。1922(大正11)年 3月志布志中学校卒業。再度上京し川端画学校、アテネ・フランセに学ぶ。1923(大正12)年 7月渡仏、藤田嗣治の許に出入りする。9月二科美術展に入選、以後数回出品する。1924(大正13)年 サロン・ドオトンヌに入選。滞仏中は主としてサロン・ドオトンヌ、アンデパンダンに作品を発表する。1927(昭和2)年 7月サロン・ド・レスカリエ第10回展に、カンピリ、ジャコメッティと3人展をもち、「姉妹ねむる」などを出品。この展覧会が機縁となって、アンリ・ピエール・ロッシュと交わり、やがて契約を結ぶ。この頃からパリ画壇で存在を注目されはじめ、エコール・ド・パリの次期の担い手として嘱目される。1928(昭和3)年 ニューヨークでロッシェの企画による個展。翌年にも個展を開く。1934(昭和9)年 1月帰国。6月日動画廊で第1回個展開催。以後、継続的に個展を開く。1935(昭和10)年 2月独立美術協会会員となる。3月第5回独立美術展に「曲馬」を出品。これ以後、毎回独立展に出品する。1942(昭和17)年 11月より、44年1月まで大連に旅行、この間旅宿にて発病する。1945(昭和20)年 熊本県湯之児温泉で終戦を迎え、8月人吉市に移る。1946(昭和21)年 3月第1回新興日本美術展覧会審査員となる。1947(昭和22)年 11月第2回熊日綜合美術展審査員となり「蹄鉄」を特別出品。以後毎回審査を担当するかたわら特別出品する。1950(昭和25)年 11月第1回南日本文化賞を受ける。11月熊本市に転居。1951(昭和26)年 2月第3回日本アンデパンダン展に「スタートへ」「殉教者(サン・セバスチァン)」(文部省買上げ)を出品。4月海老原美術研究所を創立。53年に一度閉鎖するが、57年再び開設する。1952(昭和27)年 3月神奈川県立近代美術館において福沢一郎・海老原喜之助展覧会を開催する。5月サロン・ド・メに招待出品。1953(昭和28)年 1月第4回秀作美術展に「ボンサマルタン」を出品。以後54年「大華山」55年「船を造る人」56年「靴屋」57年「燃える」59年「大道の物売り」60年「蝶」62年「群馬出動」を出品する。5月第3回熊日社会賞を受ける。1954(昭和29)年 9月海老原喜之助自選回顧展を熊本で開催。11月第3回西日本文化賞受賞。1955(昭和30)年 3月熊本市郊外小峰墓地の忠霊塔を飾る「殉教者」のブロンズ・レリーフを完成。5月第3回日本国際美術展に「靴屋」を出品、佳作賞を受賞。1956(昭和31)年 11月第1回グッゲンハイム国際美術賞展に「船を造る人」を出品。1957(昭和32)年 5月第4回日本国際美術展に「燃える」を出品し、国立近代美術館賞を受賞。6月第4回サンパウロ・ビエンナーレ展にデッサン7点を出品。8月第2回現代ふらんすクリチック賞絵画展に賛助出品する。1959(昭和34)年 5月第5回日本国際美術展に「蝶」を出品し、最優秀賞を受賞する。10月西部秀作展に「大道の物売り」を出品し、最優秀賞を受賞する。11月1951~1959・代表作品展を開催し、戦後の代表作10点を出品する。1960(昭和35)年 1月第5回日本国際美術展出品作「蝶」により第1回毎日芸術賞を受ける。4月第6回ルガーノ国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ5点を出品。11月戦後から15年におよぶ熊本の生活をきりあげ、神奈川県逗子に転居。1962(昭和37)年 10月国際形象展に同人として参加「夜の彫刻」「走馬燈」「海浜の蝶」を出品。1963(昭和38)年 5月第7回日本国際美術展「走馬燈」。7月海老原喜之助選自展東京・日本橋・三越で開催。出品は第一次滞欧時代の作品から近業まで108点。この回顧展のため「出城」出品。2回国際形象展「ある日」出品。31回独立展「雨の日」出品。1964(昭和39年) 15回記念選抜秀作美術展「雨の日」招待出品。国立近代美術館において「滞欧作とその後」展「姉妹ねむる」「ゲレンデ」「曲馬」「群がる雀」「殉教者(サン・セバスチャン)」出品。3月、前年の自選展ならびに第31回独立展に出品の「雨の日」の業績によって芸術選奨文部大臣賞を受ける。6回現代日本美術展「夏の夕べ」出品。「スケッチ展シリーズ完結記念」展(銀座・松屋)「厩」「春の日」「夏の夕べ」(素描淡彩)出品。3回国際形象展「扉」「楽園」出品。オリンピック東京大会芸術展示「近代日本の名作」展「雨の日」出品。32回独立展に「夏の夕べ」を出品。1965(昭和40年) 8回日本国際美術展「花ぬす人」出品。5月14日、横浜モスクワ経由渡仏。8月27日帰国。33回独立展「男の顔」出品。東京日蓮宗寺院・乗泉寺本堂ガラス・モザイク壁画「合掌」完成。画集「海老原喜之助」出版。1966(昭和41年) 4月13日羽田発渡仏。藤田嗣治のモンバルナスのアトリエに住む。絵を描くことよりヨーロッパ各国の寺院、美術館をめぐる。10月8日、帰国。(11月、海老原美術研究所閉鎖)1967(昭和42年) 7月、日動画廊で陶彫、油絵、素描を展示する海老原喜之助新作展開催。8月、熊本で海老原喜之助展開催。35国独立展「南の国」(神奈川県立近代美術館蔵)出品。10月25日、渡欧。1968(昭和43年) 1月、スイス・チューリッヒの病院に入院中の恩師藤田嗣治に付添う。1月29日、藤田嗣治死去。このあとの10カ月間は藤田家の後始末に忙殺される。7回国際形象展「聖像」出品。11月、サンリスへ旅行、このころ「聖堂」など風景を描く。1969(昭和44年) 1月、ニース旅行。5月ブルターニュ、ロワール地方旅行。車で南下途中、遺跡の町シノンで発熱、疲労がひどく、食べたものを吐く。ブールジュに至る。6回太陽展「調教師の家族」出品。7月、東京・銀座弥生画廊、フジキ画廊で海老原喜之助滞欧小品展開催。ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグへ旅行。1970(昭和45年) 3-4月、「サーカス」「サーカス=白馬」「白い木馬」などを描く。このころ、疲れがひどくなる。5月、夫妻でスイス、イタリアを旅行。7回太陽展に「サーカス」出品。ブルターニュ地方を旅行中、エトルタで吐血する。衰弱がひどくなる。9月19日、午前8時30分(日本時間午後4時30分)死去。肺ガンと診定。9月25日、仮葬儀がペール・ラ・セーズの聖堂で行われる。日本政府から勲三等旭日中綬章が贈られる。10月15日、青山葬儀所で独立美術協会葬が行われる。1971(昭和46年) 4月、東京・日本橋・高島屋で海老原喜之助展開催。8月、神奈川県立近代美術館で海老原喜之助デッサン・水彩・版画展開催。

田沢八甲

没年月日:1970/09/02

田沢八甲は明治32年8月2日青森市に生れた。大正9年上京、郵政省簡易保険局外務課に勤務、赤坂溜池の葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に油絵を学び、黒田の没後は牧野虎雄に師事した。昭和4年帝展に初入選となり、その後帝展に入選をつづけ二部会で朝日新聞社賞を受けた。戦後は日展に出品、昭和27年、29年に入選している。官展の他は旺玄会、新世紀(旧槐樹社)、新協美術会に出品していた。主な作品は「東北のこども」「庭の姉妹」など。

中島多茂都

没年月日:1970/07/30

日本美術院評議員、日本美術家連盟委員の中島多茂都は、7月30日死去した。享年70歳。本名保。明治33年静岡県沼津市に生れ、大正9年前田清邨に師事した。昭和4年第16回院展に初入選し、以後毎年日本美術院に出品、昭和20年「球岳」では日本美術院賞となり、同27年同人、38年「長崎三題」では文部大臣賞となった。主な作品に「金時山」「仙石原村」「瀞」「長崎三題」などがある。

黒田重太郎

没年月日:1970/06/24

洋画家黒田重太郎は、6月24日老衰のため京都市北区の自宅で逝去した。享年82歳。黒田重太郎は明治20年9月20日滋賀県大津市で生れたが、幼、少年期を大阪で過し、明治37年京都で鹿子木孟郎に洋画を学び、、翌38年浅井忠の門に入った。大正元年第6回文展に「尾之道」が初入選となり、同7年9月渡仏、帰国後大正8年第6回二科展にピサロの影響をみせる滞欧作「ケルグロエの夏」以下14点を特陳し二科賞を得、会員となった。大正10年再び渡仏しアンドレ・ロートの影響をうけ「港の女」「レスカール」「水浴の女」などキュビックな作品を帰国後の大正12年第10回二科会展に発表し二科会々員となった。第1回渡仏では画作の傍ら西洋美術史を学び、第2回渡仏では画論、技法史等を学び「セザンヌ以後」(大正8年)、「構図の研究」(大正14年)の著書がある。昭和18年二科会を脱会し、22年4月、同志9人と第二紀会を創立、以来同会に出品していた。また大正13年以来、鍋井克之、小出楢重等と信濃橋洋画研究所を開設、又昭和12年全関西洋画研究所を設立するなど関西を中心に後進の育成に尽していた。22年京都市立美術専門学校教授となり、京都市立美術大学洋画科主任教授を経て38年4月退官。同大名誉教授。44年芸術院恩賜賞受賞。二紀会名誉会員であり関西洋画界の最長老であった。なお著書に前記の他「小出楢重の生涯と芸術」(昭和30年、美術出版社)、「画房随筆」(昭和17年)その他10余種がある。二科会展における主な出品画は「三部作・閑庭惜春」(昭和8年)、「晩桜」(昭和9年)、「肇暑」(昭和11年)、「湖雨欲晴」(昭和18年)。なお、二紀会展における主な出品は「枯山水石組」(昭和28年)、「風の湖」(昭和29年)、「冬澗」(昭和30年)など。

田中案山子

没年月日:1970/05/14

日本画家田中案山子は、5月14日肺気腫のため世田谷区の自宅で死去した。享年64歳。本名格男。明治39年東京都青梅市に生れ、田中以知庵に師事し、はじめ院展に出品した。同展に入選すること8回に及び、院友となった。また帝展にも出品している。昭和12年日本美術院を脱退し、元院友12名で改らたに新興美術院を結成、その創立同人となった。昭和16年小室翠雲らの南画人によって大東南宗院が設立されてからは第1回展委員となり、第2回からは審査員となった。同18年新興美術院の同人を辞し、大東南宗院、海洋美術展等に出品した。戦後、再興新興美術院同人となったが、三越本店における個展を主な発表の場とし、開催18回に及ぶ。主要作品に「神代村」「立場茶屋」「伊豆下田街道」「奥瀬」などがある。

鳥居忠雅

没年月日:1970/05/13

歌舞伎絵師鳥居忠雅は、5月13日心筋こうそくのため東京都杉並区の自宅で死去した。享年65歳。本名上野克己。明治37年東京本郷の薬舗尾沢蒼生堂の長男として生れた。大正10年第七世鳥居清忠に入門、鳥居派の芝居絵を学んだ。昭和18年より歌舞伎座の絵看板を描き、戦後歌舞伎座、国立劇場、御園座などの絵看板、番付、筋書などを描いた。最後の作は、国立劇場昭和45年5月興行、宇野信夫作「柳影沢蛍火」となった。なお、作品は日本劇画院展に出品し、次のような出版物がある。「隈取十八番」(昭16木版画)「同上続巻」(昭18)「歌舞伎隈取図説」(昭18)木版画集「歌舞伎十八番」全三巻(昭27)

永田春水

没年月日:1970/05/01

日本画家永田春水は、5月1日東京虎の門病院で心不全のため死去した。享年81歳。本名良亮。明治22年2月18日茨城県に生れ、はじめ、荒木寛畒、寺崎広業、結城素明に師事し、大正2年東京美術学校日本画科を卒業した。大正2年より6年間国華社に入り古画研究に従事した。同9年渡欧し、燉煌発掘仏画模写などに約1年間たずさわった。文帝展に入選すること8回で、昭和6年帝展無鑑査となり、同11年には文展審査員となった。そのほか、海外展示の出品も多く、昭和15年には東京女子高等師範学校講師となった。なお官展のほか読画会幹部で、如春会を主宰した。「戦後は郷里藤代に移り、茨城県美術界の指導にあたり、茨城県南美術協会長となった。主要作に「雪晴れ」(1回帝展特選)「董苑麗日」(10回帝展特選)、がある。

岩崎又二郎

没年月日:1970/04/03

春陽会会員岩崎又二郎(本名又次郎)は4月3日急性心不全のため逝去した。享年72歳。岩崎又二郎は、明治31年3月22日京都市西陣に生れ、日本画塾に学んだのち京都市立絵画専門学校に入学、大正12年3月同校を卒業した。その頃、大正11年には帝国美術院第4回展に「本阿弥庵の秋」(日本画)、13年には帝国美術院第6回展に「金魚池」(日本画)が入選しているがその後洋画に転向し、大正15年春陽会第4回選に出品入選して以来、同会に洋画を出品しつづけ、昭和23年春陽会々友、28年春陽会々員となった。又、その間京都市美術展にも出品し、昭和12年「静物」、14年「竜門の雪」で受賞。さらに16年「冬の海」も受賞し、梨本宮買上げとなった。21年には「海」が大阪毎日新聞社賞となった。京都市美術展審査員で、京都平安女学院短期大学に勤務していた。友人、中村徳三郎、川端弥之助など。

武田晶

没年月日:1970/03/31

二紀会同人武田晶(号、クガ・マリフ)は昭和6年7月31日山口県玖珂郡に生れた。武蔵野美術学校西洋画科を中退、33年~35年の間、読売アンデパンダン展に出品、その間二紀展にも出品をしていた。38年二紀会展で「拒否と挑戦」「青のビジョン」か同会奨励賞となり、同人に推挙された。40年、椿近代画廊で個展開催、又同年二紀会展「メディア679」で同人賞をうけた。43年12月~44年1月渡欧45年3月31日38才で逝去した。共同石油宣伝課に勤務していた。

伊谷賢蔵

没年月日:1970/03/27

行動美術協会々員伊谷賢蔵は3月27日胆管炎のため逝去した。享年68歳。伊谷賢蔵は、明治35年2月23日鳥取市に生れた。鳥取第一中学校卒業後、京都高等工芸学校に入学、大正13年卒業後。更に洋画研究を志し、関西美術院に学んだ。二科会出品、同会々員となったが戦後行動美術協会を設立し、晩年迄同会で活動をつづけていた。大正9年 鳥取第一中学校卒大正13年 京都高等工芸学校卒、関西美術院に入所大正14年 春陽会展に出品、入選大正15年 二科会展に入選、以後昭和19年迄毎年二科会展に出品、全関西展にも入選し受賞、この年から昭和21年全関西美術協会解散まで例年出品する。昭和5年 全関西美術協会々員となる昭和6年 二科賞を受ける昭和7年 二科会々友となる昭和16年 二科会々員となる昭和19年 二科会解散昭和20年 終戦直後行動美術協会設立昭和21年 行動美術京都研究所、京都地方展の開設に尽力し、翌22年第1回行動美術全関西展を開いた。なお、昭和14年~18年の間、大同石仏を初め、古美術、風物・祝祭を研究、制作のため毎年華北に旅行した。昭和27年より40年まで京都学芸大(現教育大)西洋画科主任教授をつとめ、更に新設の精華短大の美術科主任教授となった。〔主要作品〕「C・M嬢」、「一椀親善」、「陸の港」(張家口)、「大同石仏」、(以上二科会)、「薄暮」、「琉璃渓」「由布岳残照」「阿蘇」「柘榴などの静物」「アンデス高原の女達」など。

島成園

没年月日:1970/03/05

日本画家島成園は、3月5日心筋こうそくのため死去した。本名成栄。明治25年大阪に生れ、同37年堺高等小学校卒業後、北野恒富、野田九浦に師事した。大正元年第6回文展に「宗右衛門町の夕」を初出品して入選し、褒状となった。同10年森本豊次郎と結婚し、昭和2年満州に移住した。同20年に帰国したが、この間画業は休止して居り、戦後は大阪高島屋で毎年個展を開いて作品を発表していた。作品の主なものに「祭りのよそほひ」(7回文展褒状)、「稽古のひま」(9回文展褒状)、などがある。

後藤貞二

没年月日:1970/02/28

後藤貞二は、2月28日逝去した。明治36年5月22日東京京橋に生れた。大正10年東京美術学校に入学、昭和元年同校卒業、その間岡田三郎助に師事していた。兵役を終えたのち昭和3年から5年迄フランスに留学、シャルダンの静物小品などに惹かれた。帰国後結婚、同7年春陽会に静物2点を出品、同会には9年にも2点静物画を出品した。13年新古典派のメンバーとなったが意見合わず退会、13年以後日本美術会アンデペンダン展に3年間出品したが、その後は一切の公募展に参加せず個展による発表を主とした。静物、人物が主で、いづれも対象に対する深い観照と愛情から生れた写実の作品であった。個展は、昭和16年第1回(銀座菊屋)、17年第2回(右同)、30年第3回(銀座資生堂)、36年第4回(銀座松屋)、38年第5回(右同)、41年第6回(東京プリンスホテル)又46年フジ・アートギャラリーで回顧展を開いた。

仁戸田秀吉

没年月日:1970/02/20

読み:にえだひできち  二科会々員、水彩連盟会員仁戸田秀吉は、2月20日、胃ガンのため逝去した。享年60。仁戸田秀吉は明治42年11月25日福岡県大牟田市に生れた。昭和2年大牟田市三井工業学校卒業。本郷絵画研究所に学んだ。昭和14年より18年迄、日本水彩画会展、東光会展、旺玄社展、大潮会展に出品。また昭和21年より44年まで二科会展及び水彩連盟会展に出品、各々の会員であった。昭和22年 水彩連盟会友推挙、24年奨励賞受賞昭和25年 水彩連盟会会員となる。大牟田市松屋デパートで個展開催昭和29年 二科会展で特待賞受賞昭和31年 二科会々友推挙昭和32年 8月、東京大丸デパートで第2回個展開催昭和38年 二科会々員となる。4月、東京大丸デパートで第3回個展開催。9月、水彩連盟と中華民国連合水彩画会との交換展のため代表として台湾に渡る。昭和41年 東京銀座壱番館画廊で第4回個展開催〔主要作品〕「春光」(毎日新聞社主催第5回美術団体連合展)、「十字架」(第25回水彩連盟展)、「仏花」(同28回展)、「パンジイA」(二科会第39回展)、「蝶とパンジイ」(同41回展)、「工場の見える風景」(同48回展)など。

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