本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





小松均

没年月日:1989/08/23

仙境の画人小松均は、8月23日午後4時10分、急性心不全のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年87。明治35年(1902)1月19日、山形県豊田郡に、曹洞宗延命寺住職小松梅男を父に生まれる。本名匀。幼時に父を失い、大正8年上京、川崎市の洋服店で働く。いったく帰京したのち、翌9年再び上京。新聞配達のかたわら、同年川端画学校に入学、岡村葵園に学ぶ。大正12年中央美術展に「嫁して行く村の乙女」が入選し、翌13年第4回国画創作協会展に「晩秋の野に死骸を送る村人たち」が入選、奨学金を受けた。これを機に土田麦僊の知遇を得、同14年京都の東山に転居、麦僊の山南塾に入塾する。また東山洋画研究所でデッサンを学び、宮本三郎らを知る。この頃から内貴清兵衛の援助を受け、15年の第5回国画創作協会展にも「秋林」「夕月」を出品、国画賞を受賞し会友となる。しかし、昭和3年国画創作協会日本画部が解散となり、同部会員が新たに結成した新樹社に参加した。この間、昭和2年大原に転居、翌3年の「八瀬」など、大原に取材した作品を描き始める。同4年第10回帝展に「渓流」が初入選し、この頃より水墨画を描き始めた。翌5年第11回帝展で「櫟林」が特選を受賞。一方、院展には、大正14年の春季展に「倉のある雪の日の子守子」が入選していたが、秋季展では、同じく昭和5年第17回院展に「もや」が初入選。以後、帝展、院展の双方に出品する。9年第21回院展にも「緑蔭」を出品したが、同年福田豊四郎、吉岡堅二らと山樹社を結成、以後公募展出品を暫時中止する。12年には津田青楓らと墨人会を結成。また、11年には、内貴清兵衛の紹介で横山大観、小林古径を知った。14年より再び院展に出品し、16年には新文展にも出品しているが、17年第29回院展に「黒牡丹」を出品。以後院展にのみ出品し、戦後21年第31回院展で「牡丹」が日本美術院賞を受賞、同人に推挙された。大原で自給自足の生活をしながら、大原の自然を題材に制作。40年第50回院展「吾が窓より(夏山)」が文部大臣賞を受賞する。43年山形美術館で個展開催後、翌年から郷里の自然に取材した最上川シリーズを開始。44年第54回院展「最上川(三ケ瀬、渦巻、はやぶさ)」、45年同第55回「最上川源流」、46年第56回「栗の花さく最上川」、48年第58回「最上川難所、三ケ瀬・碁点」、49年第59回「春の最上川」と出品し、このシリーズによって、50年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。54年第64回院展「雪の最上川」は内閣総理大臣賞となる。また52年第62回院展「富士山」以降の富士山シリーズ、58年第68回「岩壁」以降の岩壁シリーズなどを発表。墨を主体に、細かく、しかし綿々と描き込み積み上げていく画風は、素朴さと大地のエネルギーを伝える力強さに溢れ、“大原の画仙”と称された。55年郷里大石田町の名誉町民、61年文化功労者となる。また画塾甲辰会を主宰し、『おのれの子・作品集』(43年)『おのれの子・素描集』(46年)などの著書を残している。 略年譜明治35年 1月19日、山形県豊田郡に小松梅男、フヨの長男として生まれる。父は曹洞宗延命寺の住職であったが、均の生後1年余で死去したため、山形県白鳥村で農業を営む母方の伯父、細谷金四郎宅に母子は身を寄せる。母は均の8歳の時再婚、均はその後も細谷家で養われた。大正3年 白鳥小学校を卒業し、富並尋常高等小学校に入学。往復16キロの山路を学校に通う。大正5年 富並尋常高等小学校を卒業し、伯父の農業を手伝う。大正8年 この頃、川崎市に出、洋服屋の小僧となる。のち東京・神田の書籍店、菊屋に移る。この頃から画学生に憧がれたが一旦帰郷し、下駄屋に丁稚奉公する。大正9年 再び上京し、万玄社に勤め、新聞配達をするかたわら、画家を志して川端画学校に通って岡村葵園に学ぶ。画学校の友、藤井茂樹(無縁寺心澄)の水彩の直感的写生を見て野獣派の描法を日本画に取り入れることによって、新しい日本画を創るヒントを得る。大正13年 6月、第5回中央美術展に、再婚の際の母の姿をテーマに「嫁して行く村の乙女」を出品し、入選する。第5回帝展に「姐妃」を出品したが落選する。11月、第4回国画創作協会展に、父の死を追想して描いた「晩秋の野に死骸を送る村人たち」を出品して入選する。大正14年 京都に移り、土田麦僊の山南塾に入る。東山洋画研究所でデッサンを学ぶ。宮本三郎、橋本徹太郎らを知る。この頃から、土田麦僊の紹介で、京都の実業家で美術に理解の深かった内貴清兵衛の援助を受ける。2月、第11回日本美術院試作展に「倉のある雪の日の子守子」が入選する。大正15年 3月、第5回国画創作協会展に「秋林」「夕月」を出品し、奨学金を受け、会友となる。昭和2年 4月、第6回国画創作協会展に「花(一)」「花(二)」を出品。昭和3年 4月、第7回国画創作協会展に「雪」「八瀬」を出品。7月、国画創作協会日本画部解散。11月、福田豊四郎、吉岡堅二らとともに新樹社を設立する。昭和4年 6月、第1回新樹社展に「秋野」を出品。10月、第10回帝展に「渓流」を出品し入選する。この頃から水墨画を試みる。昭和5年 6月、第2回新樹社展に「薄」を出品。10月、第11回帝展に「櫟林」を出品し、特選となる。昭和6年 9月、第18年院展に「鯰」「牛」を出品。10月、第12回帝展に「山路」を出品し入選する。昭和7年 10月、第13回帝展に「花の森」を出品。昭和8年 10月、第14回帝展に「洛北早春」を出品。昭和9年 9月、第21回院展に「緑蔭」を出品し、この後一時公募展への出品を停止する。昭和10年 満州に渡る。昭和11年 6月、土田麦僊没。内貴清兵衛の紹介で、横山大観、小林古径に会う。昭和12年 津田青楓、中川一政、矢野橋村、菅楯彦らと墨人会を結成し、6月25日~7月4日、第1回展を大阪・朝日会館で開催。昭和13年 傷病兵慰問のため、中国に渡り、上海・鎮江・蘇州・杭州・南京を巡る。福田豊四郎、吉岡堅二と三樹社を結成、のち会名は新美術人協会と改名され、太田聴雨、森田沙伊、横尾深林人らも参加する。昭和14年 ★々人と号す。11月、麦僊の山南塾再興を企て、山南会をおこす。昭和15年 法隆寺金堂壁画模写事業が始まったのに刺激され、仏画の大作制作を志す。昭和17年 9月、第29回院展に「墨牡丹」を出品。昭和18年 9月、第30回院展に「牡丹」(2点)を出品。10月、第6回新文展に「雪後」を出品。昭和19年 「蓮池」「大原女少女」を描く。黙音洞人と号す。昭和20年 仏画の大作を描き続けながら、終戦を迎える。昭和21年 9月、第31回院展に「牡丹」を出品。谷中の日本美術院で描く。日本美術院賞を受け、同人となる。昭和22年 9月、第32回院展に「花菖蒲」を出品。昭和23年 9月、第33回院展に「山三題」を出品。昭和24年 9月、第34回院展に「松」を出品。昭和25年 9月、第35回院展に「神津島の娘」を出品。昭和26年 9月、第36回院展に「蓮」を出品。昭和27年 9月、第37回院展に「大原の春」を出品。昭和28年 9月、第38回院展に「花(一)(二)」を出品。昭和29年 9月、第39回院展に「裸婦素描(一)(二)」を出品。昭和30年 9月、第40回院展に「即現婦女身」を出品。昭和32年 9月、第42回院展に「夏山」を出品。昭和33年 9月、第43回院展に「夏の大原」を出品。他に「東尋坊」を描く。昭和34年 5月、第5回日本国際美術展に「岩山の月」を出品。9月、第44回院展に「鯉」を出品。昭和35年 9月、第45回院展に「雄島岩壁」を出品。「不動尊(青)」を描き始める。昭和36年 9月、第46回院展に「藤間美知踊る幻お七・三態」を出品。昭和37年 9月、第47回院展に「白日夢」を出品。昭和38年 9月、第48回院展に「はぢらひ」を出品。昭和39年 9月、第49回院展に「雪壁」を出品。昭和40年 9月、第50回院展に「吾が窓より(夏山)」を出品。文部大臣賞受賞。昭和41年 9月、第51回院展に「戸隠の春」を出品。昭和42年 9月、第52回院展に「蓬莱峡全図」を出品。昭和43年 9月、第53回院展に「池の朝(鯉)」を出品。昭和44年 9月、第54回院展に「最上川(三ケ瀬、鍋巻、はやぶさ)」を出品。最上川連作を始める。昭和45年 9月、第55回院展に「最上川源流」を出品。昭和46年 9月、第56回院展に「栗の花咲く最上川」を出品。昭和47年 9月、第57回院展に「鯰の池」を出品。他に「三十六童子」を描く。昭和48年 9月、第58回院展に「最上川難所(三ケ瀬・碁点)」を出品。画業50年記念展を大阪阪神百貨店で開催。他に「吾が家への道」を描く。昭和49年 9月、第59回院展に「春の最上川」を出品。他に「白糸の滝」「黒富士」を描く。昭和50年 9月、第60回院展に「吾が窓より(大原春雪)」を出品。最上川シリーズで芸術選奨を受賞。この頃、「舞妓」「牡丹」「鯉図」を描く。昭和51年 9月、第61回院展に「吾が窓より(田園の夕暮)(田園の朝)」を出品。昭和52年 9月、第62回院展に「富士山」を出品。他に「赤富士(一)(二)」を描く。昭和53年 9月、第63回院展に「赤富士」を出品。小松均展を東京、京都大丸で開催。他に「七媛富士」を描く。昭和54年 9月、第64回院展に「雪の最上川」を出品。内閣総理大臣賞受賞。昭和55年 9月、第65回院展に「豊茂富士」を出品。昭和56年 9月、第66回院展に「大原早春」を出品。小松均展を高知県立郷土文化会館で開催。昭和57年 9月、第67回院展に「白富士図」を出品。昭和58年 9月、第68回院展に「岩壁」を出品。昭和59年 画業65年記念、小松均展を神戸大丸、新潟伊勢丹、仙台十字屋で開催。9月、第65回院展に「大原風景」を出品。昭和60年 9月、第70回院展に「岩山雲烟図」を出品。他に「岩山」を描く。昭和61年 6月、自然への感応・15年の足跡 小松均展を東京池袋、西武アート・フォーラムで開催。(小松均展図録 1986年 池袋西武アート・フォーラムより抜粋)

中島清之

没年月日:1989/07/07

日本美術院理事の日本画家中島清之は、7月7日午前8時55分、急性肺炎のため東京都渋谷区の石山病院で死去した。享年90。明治32(1899)年3月8日、京都山科に生まれ、本名清。別号御龍。大正5年横浜に移り、翌6年から昭和2年まで横浜火災保険会社に勤務した。大正5年松本楓湖の安雅堂画塾に入門し、同13年第11回院展に「桃の木」が初入選、昭和3年第15回院展に「秋」が再入選し、日本美術院院友となる。以後院展に出品し、また昭和元年より山村耕花、18年より安田靫彦に師事した。この間、昭和12年第24回院展の「古画」、14年同第26回「黄街(歌手、曲芸、門、露台、床屋、八卦、室内)」、17年第29回「おん祭(春日若宮、献鳥、御間道御神幸、馬長稚児、射手稚児、細男舞、大太鼓)」が、いずれも日本美術院賞を受賞。戦後も連年出品し、25年第35回院展「方広会の夜」が再び日本美術院賞を受賞、27年同人に推挙された。また16年より東京高等工芸学校で教え、27年には東京芸術大学講師となり、31年退官した。37年渡欧し、インド、中近東、エジプト、モロッコなどを巡遊。翌年帰国し、同年の第48回院展にその旅行に取材した「石の町」「チグリス河畔」を出品、同年日本美術院評議員となる。さらに43年第53回院展で「天草灘」が文部大臣賞を受賞し、53年には日本美術院の理事に就任した。また44年横浜市民ギャラリーで回顧記念展を開催し、45年横浜市文化賞、51年神奈川県文化賞を受賞。このほか、現代日本美術展、日本国際美術展などにも出品し、52年から翌年にかけて、横浜の三渓園臨春閣の襖絵31面を制作している。 院展出品歴大正13年 第11回 桃の木昭和3年 第15回 秋昭和5年 第17回 夏畑/庫裏昭和6年 第18回 京の店(其1・其2・其3)昭和7年 第19回 春日野昭和9年 第21回 花に寄るフランス猫昭和12年 第24回 古画(日本美術院賞第2賞)昭和13年 第25回 ゆあみ昭和14年 第26回 黄街(1歌手)(2曲芸)(3門)(4露台)(5床屋)(6八卦)(7室内)(日本美術院賞第3賞)昭和15年 第27回 初夏の花(1菖蒲)(2牡丹)(3芍薬)昭和16年 第28回 演舞昭和17年 第29回 おん祭(1春日若宮)(2献鳥)(3御間道御神幸)(4馬長稚児)(5射手稚児)(6細男舞)(7大太鼓)(日本美術院賞第3賞)昭和18年 第30回 平城宮の或日昭和21年 第31回 晴雪昭和22年 第32回 和春昭和23年 第33回 残照昭和24年 第34回 茶室(1)(2)昭和25年 第35回 方広会の夜(日本美術院賞(白寿賞))昭和26年 第36回 明けの街・暮るゝ里昭和27年 第37回 古代より(1)(2) 同人推挙昭和28年 第38回 雲昭和29年 第39回 内海昭和30年 第40回 流れ(A)(B)昭和31年 第41回 浄瑠璃昭和33年 第43回 賢者昭和34年 第44回 梅川昭和35年 第45回 顔昭和36年 第46回 山湖昭和38年 第48回 石の町/チグリス河畔昭和39年 第49回 川風昭和40年 第50回 当麻寺中之坊昭和41年 第51回 朝のしゞま昭和42年 第52回 奥山三題(A)(B)(C)昭和43年 第53回 天草灘(文部大臣賞)昭和44年 第54回 早苗昭和45年 第55回 椿笑園の主人達昭和46年 第56回 足摺昭和47年 第57回 阿波土産昭和48年 第58回 喝釆昭和49年 第59回 塑像昭和50年 第60回 緑扇昭和51年 第61回 凍夜昭和52年 第62回 雷神昭和53年 第63回 若草昭和54年 第64回 薮昭和55年 第65回 二人(左)(右)昭和56年 第66回 富士

西山英雄

没年月日:1989/01/21

日本芸術院会員の日本画家西山英雄は、脳出血のため1月21日午前5時55分、京都市下京区の武田病院で死去した。享年77。明治44年(1911)5月7日、京都市伏見の袋物問屋の長男として生まれる。14歳の時、伯父西山翠嶂に入門し、その画塾青甲社で学ぶ。京都市立絵画専門学校に入学し、在学中の昭和6年第12回帝展に「静物」が初入選。9年第15回帝展で「港」が特選となるなど、頭角を現わす。11年京都市立絵画専門学校を卒業し、以後も官展に出品、次第に風景画を多く手がけるようになる。14年第3回新文展「雪嶺」、18年同第6回「薄暮」などを出品したのち、戦後、22年第3回日展で「比良薄雪」が再び特選となった。25年第6回日展「桜島」、32年同第13回「岩」などを発表し、33年第1回新日展で「裏磐梯」が文部大臣賞を受賞。力強く壮大な構想力の山岳風景を描く”山の画家”として知られた。35年中国に旅行し、同年の第3回新日展に「天壇」を出品、翌36年これにより日本芸術院賞を受賞する。古城シリーズも発表し、また晩年は活火山をスケッチして巡り、51年第8回改組日展「薩摩」、55年同第12回「阿蘇颪」などを発表した。33年日展評議員、44年同理事、54年参事、60年常務理事となっている。この間、29年から44年まで京都学芸大学(現京都教育大学)教授、47年から52年まで金沢美術工芸大学教授(のち名誉教授)として、後進の育成にあたった。また、青甲社幹部をつとめていたが、33年翠嶂の死去に際してはこれを継がず、青甲社は解散となった。49年京都市文化功労者、55年日本芸術院会員となり、60年京都府特別文化功労賞を受賞する。このほか、48年、読売新聞に連載された司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」の挿画約200点による「挿画原画展」を開催している。画集に『西山英雄画集』(57年)、著書に『日本画入門』がある。 帝展・新文展・日展出品歴 昭和6年 第12回帝展 静物昭和8年 第14回帝展 曇日昭和9年 第15回帝展 港(特選)昭和11年 文展監査展 廃船昭和12年 第1回新文展 内海風景昭和14年 第3回新文展 雪嶺昭和15年 2600年奉祝展 駱駝昭和16年 第4回新文展 火山の夕昭和17年 第5回新文展 征馬昭和18年 第6回新文展 薄暮昭和21年 第2回日展 聖丘昭和22年 第3回日展 比良薄雪(特選)昭和23年 第4回日展 海潮(委嘱)昭和24年 第5回日展 霞澤岳(委嘱)昭和25年 第6回日展 桜島(審査員)昭和26年 第7回日展 室戸(審査員)昭和27年 第8回日展 夕映(委嘱)昭和28年 第9回日展 山湖(委嘱)昭和29年 第10回日展 外海府(審査員)昭和30年 第11回日展 桜島昭和31年 第12回日展 剣岳(委嘱)昭和32年 第13回日展 岩(審査員)昭和33年 第1回新日展 裏磐梯(文部大臣賞、評議員)昭和34年 第2回新日展 桜島(評議員)昭和35年 第3回新日展 天壇(評議員、審査員)昭和36年 第4回新日展 聖堂の月(評議員)昭和37年 第5回新日展 火山島(評議員、審査員)昭和38年 第6回新日展 アクロポリスの丘(評議員)昭和39年 第7回新日展 剣(評議員)昭和40年 第8回新日展 朝映桜島(評議員)昭和41年 第9回新日展 九竜壁(評議員)昭和42年 第10回新日展 磐梯(評議員)昭和43年 第11回新日展 桜島朝暉(評議員、審査員)昭和44年 第1回改組日展 ペンニヤの丘(理事、審査員)昭和45年 第2回改組日展 富士西湖(理事)昭和46年 第3回改組日展 さい果て(審査員)昭和47年 第4回改組日展 樹林富士昭和48年 第5回改組日展 エアーヅ・ロック(理事、審査員)昭和49年 第6回改組日展 グランドキャニオン(理事)昭和50年 第7回改組日展 白夜(理事、審査員)昭和51年 第8回改組日展 薩摩(理事)昭和52年 第9回改組日展 曜(理事、審査員)昭和53年 第10回改組日展 薩摩雪(理事、審査員)昭和54年 第11回改組日展 野火(参事、審査員)昭和55年 第12回改組日展 阿蘇颪(参事)昭和56年 第13回改組日展 火焰山(理事、審査員)昭和57年 第14回改組日展 残照(理事)昭和59年 第16回改組日展 室戸(理事)昭和60年 第17回改組日展 噴炎(理事、審査員)昭和61年 第18回改組日展 あける桜島(理事)昭和62年 第19回改組日展 雷鳴紫禁城(理事、審査員)昭和63年 第20回改組日展 桜島と連絡船(理事)

池田遥邨

没年月日:1988/09/26

旅を愛し漂泊の画人といわれた文化勲章受章者の日本画家池田遥邨は、9月26日午前零時55分、急性心不全のため京都市上京区の相馬病院で死去した。享年92。明治28(1895)年11月1日、池田文四郎、鹿代の長男として岡山県浅口郡に生まれ、本名曻一。45年大阪に出て松原三五郎の天彩画塾に入塾、洋画を学ぶ。大正3年第8回帝展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選、以後も水彩を描き続ける。一方、この間大正2年小野竹喬を識り、同7年より独学で日本画を研究。同7年第12回文展に6曲1双の屏風「草取り」を出品するが落選する。これを機に、翌8年竹喬を頼って京都に出、竹内栖鳳の画塾竹杖会に入塾する。知恩院に仮寓しながら、「遥村」と号し、同8年の第1回帝展に日本画「南郷の八月」が入選した。引続き、9年第2回帝展に「湖畔残春」が入選。翌10年京都市立絵画専門学校に入学し、この頃よりムンク、ゴヤらの影響を受ける。同年「颱風来」を制作し、12年には鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京を写生。翌13年第5回帝展に大震災を生々しく描写した「災禍の跡」、14年第6回帝展に「貧しき漁夫」など、社会派的な作品を出品するが、ともに落選した。また13年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科へ進み、15年修了。13年帝展落選後、1年間の放浪の旅に出、昭和3年には安藤広重の版画に傾倒し東海道を踏破する。同4年にも日本全国を旅行し、それぞれ同7年「東海道五十三次図会」、9年「日本六十余州名所図会」の作品にまとめあげた。この間、昭和3年第9回帝展「雪の大阪」、5年同第11回「鳥城」がともに特選を受賞。次いで7年第13回帝展「大漁」、9年第15回「浜名湖今切」など、独特の鳥瞰図法による明るい色彩の画風へと移行する。戦後、26年第7回日展「戦後の大阪」など一時抽象風の作品を描いたのち、単純化された画面構成の象徴的作風へ移行。34年第2回新日展出品作「波」により、翌年日本芸術院賞を受賞。さらに45年第2回改組日展「寥」、47年同第4回「囁」など、縹渺な作品を制作する。晩年は俳人種田山頭火の世界を好んで題材とし、59年第16回日展「うしろ姿のしぐれてゆくか山頭火」などを発表した。また、昭和11年より24年まで京都市立絵画専門学校(のち京都市立美術専門学校)で教え、11年上村松篁らと水明会、12年浜田観らと葱青社を結成。28年には自ら画塾青塔社を組織し、後進の指導にあたった。27年日展参事、33年同評議員、49年参与、52年顧問に就任。47年初の京都府美術工芸功労者、48年京都市文化功労者となり、58年京都府文化賞特別功労賞を受賞。51年日本芸術院会員、59年文化功労者となり、62年文化勲章を受章した。このほか、48年より奈良教育大学で講師として教え、55年作品、スケッチ489点を倉敷市に寄贈した。著書に53年『池田遥邨随筆』、作品集に48年『池田遥邨画集』などがある。 年譜明治28年 11月1日、鐘ケ淵紡績工務係技手をつとめる池田文四郎と鹿代の長男として岡山県に生まれる。本名、曻一。生まれて間もなく、父の転勤で大阪府北河内郡に一家は移住する。明治31年 この頃、父の転勤に伴い大阪市の天満橋筋あたりに移住する。明治33年 父の転勤に伴い、福岡県大牟田に移住する。明治35年 4月、大牟田尋常小学校に入学する。明治36年 父の転勤に伴い、一家で上海に渡り、本願寺経営の開導小学校2年生に転校する。明治37年 父が鐘ケ淵紡績から福島紡績大阪本社に転じたため日本に帰り、父の姉がいた大阪・堺市に移住、南旅篭尋常小学校3年生に転校する。明治39年 4月、堺市宿院尋常高等小学校に入学する。明治42年 父が福島紡績福山工場長として転勤したため、一家で広島県福山町に移り、福山尋常高等小学校4年生に転校する。明治43年 3月、福山尋常高等小学校を卒業する。4月、広島の中学校を受験の日、スケッチに出かけて試験を放棄する。初夏、忠田嘉一の紹介で、単身大阪に出て松屋町にあった松原三五郎の天彩画塾に入り、洋画の勉強を始める。大正2年 この年、福山で、水彩画約30点による初めての個展を開催する。小野竹喬と出会う。大正3年 10月、第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」が初入選。大正5年 10月、兵役中、第10回文展に水彩画「衛戌病院」を出品したが落選。大正7年 10月、日本画に興味を持って独学で制作した、六曲一双屏風「草取り」を第12回文展に出品したが落選。大正8年 4月、小野竹喬をたよって京都に出て竹内栖鳳の画塾に入り、知恩院崇泰院に仮寓する。と号す。10月、第1回帝展に日本画「南郷の八月」を出品し入選。大正9年 10月、第2回帝展に「湖畔残春」が入選。大正10年 1月、小野竹喬の仲人で真塚品子と結婚する。4月、京都市立絵画専門学校別科に入学し、あわせて京都市立外国語学校仏文科(夜間)にも通う。この頃から、ムンクやゴヤの影響を受ける。10月、第3回帝展に「枯れつつ夏は逝く」を出品したが落選。この年、第1回芸術院展に「颱風来」が入選。京都で初めての個展(京都府図書館)を開催。大正11年 3月、朝鮮・慶州、満州・ハルビンに旅行する。10月、第4回帝展に「風景」が入選。この年、京都市立外国語学校を中退する。大正12年 9月、鹿子木孟郎とともに関東大震災後の東京をスケッチしてまわり、約400枚を描く。この年、四国を旅行。大正13年 3月、京都市立絵画専門学校を卒業し、さらに研究科へ進む。10月、第5回帝展に大震災跡に取材した「災禍の跡」を出品したが落選。大正14年 10月、第6回帝展に「貧しき漁夫」を出品したが落選。大正15年昭和元年 3月、京都在住の岡山県出身の画家、小野竹喬、鹿子木孟郎らとを結成、発会式を挙げる。京都市立絵画専門学校研究科を修了。5月、第1回聖徳太子奉讃美術展に「林丘寺」が入選。この頃から画号をからに改める。10月、第7回帝展に「南禅寺」が入選。昭和2年 10月、第8回帝展に「華厳」が入選。昭和3年 4月、東海道写生旅行を決行。10月、第9回帝展に「雪の大阪」が入選、特選となる。昭和4年 6月、パリ(6/1~7/25)及びブリュッセルで開催の日本美術展に「雪の日」を出品。10月、第10回帝展に「京の春宵」を無鑑査出品。昭和5年 3月、2回目の東海道写生旅行をする。第2回聖徳太子奉讃美術展に「錦小路」を出品。7月、翌年1月からベルリンで開催予定の日本美術展国内展に「鴨川春宵」を出品。10月、第11回帝展に「烏城」が入選し、特選となる。昭和6年 3月、帝展推薦となる。8月、10月から11月にかけてアメリカ・オハイオ州トレドで開催予定の日本画展国内展に「閑居」を出品。10月、第12回帝展に「祇園御社」を出品。この年、「東海道五十三次図絵」を完成。昭和7年 10月、第13回帝展に「大漁」を出品。昭和8年 5月、竹杖会ただ一度の塾展となった竹杖会大研究会が開催され、「鴨川」を出品。10月、第14回帝展に「巨椋沼」を出品。 昭和9年 10月、第15回帝展「浜名湖今切」を出品。この年、「日本六十余州名所」の大半が完成。竹杖会の解散に伴い、葱青社を結成。昭和10年 10月、帝国美術院の松田改組により、無鑑査に指定される。昭和11年 5月、京都市立絵画専門学校助教授となる。11月、文展招待展に「日光山」を出品。を結成、日本画壇の革新を目指す。昭和12年 10月、徳岡神泉らと六人会を組織。第1回文展に「江州日吉神社」を出展。昭和13年 3回目の東海道写生旅行をする。7月、京都でが開催される。10月、第2回文展に「日吉三橋」を出品。『東海道五十三次図絵』を芸艸堂から出版。昭和14年 4月、ニューヨーク万国博覧会に「拾翠池」を出品。7月、朝鮮においてを開催。10月、中国に渡り、杭州、揚州、蘇州などをスケッチ旅行する。昭和15年 11月、紀元二千六百年奉祝展に「肇国之宮居」を出品し、宮内省買い上げとなる。秋、目黒雅叙園襖絵揮毫のため竹杖会会員とともに東上、1カ月にわたって制作、遥邨は「東海総行脚」を描く。昭和16年 1月、伊勢神宮から熊野三山を巡拝する。12月、葱青社解散。昭和17年 1月、九州の諸神社を巡拝し、出雲大社に参詣。10月、第5回文展に審査員として「三尾四季之図」を出品、政府買い上げとなる。昭和18年 9月、神社を描いた作品を集めた『池田遥邨作品集』を刊行。10月、第6回文展に「吉野拾遺」を出品。昭和19年 11月、戦時特別文展に「伊勢神宮」を出品。昭和20年 11月、第1回京展に「金閣・銀閣」を無鑑査出品。昭和22年 10月、第3回日展に審査員として「雪の神戸港」を出品。昭和23年 10月、第4回日展に「白鷺城を想う」を出品。昭和24年 7月、京都市立美術専門学校助教授を退職する。10月、第5回日展に「鳴門」を出品。昭和25年 第6回日展に「金閣追想」を出品。昭和26年 10月、第7回日展に審査員として「戦後の大阪」を出品。昭和27年 10月、日展参事となり、第8回日展に「幻想の明神礁」を出品。昭和28年 3月、画塾を結成、主宰する。10月、日展評議員となり、第9回日展に「灯台」を出品。この年、岡山大学教育学部講師となる。昭和29年 10月、第10回日展に審査員として「瀧」を出品。昭和30年 10月、第11回日展に「銀砂灘」を出品。文部省買い上げとなる。昭和31年 10月、第12回日展に「溪」を出品。昭和32年 11月、第13回日展に審査員として「石」を出品。昭和33年 6月、岡山後楽園延養亭の能舞台鏡板に「松竹」を描く。11月、社団法人となった第1回新日展に審査員として「灯台」を出品。昭和34年 11月、第2回新日展に「波」を出品。昭和35年 3月、前年の日展出品作「波」で昭和34年度日本芸術院賞を受賞。11月、第3回新日展に審査員として「沼」を出品。昭和36年 11月、第4回新日展に「大王崎」を出品。昭和37年 11月、第5回新日展に「古刹庭上」を出品。昭和38年 11月、第6回新日展に審査員として「雪庭」を出品。この年、紺綬褒章を受章。昭和39年 11月、第7回新日展に「雪の神戸」を出品。昭和40年 11月、第8回新日展に「飛石」を出品。昭和41年 5月、岡山で小林和作と二人展(金剛荘)を開催し、日本画のほか模写を出品する。11月、第9回新日展に「叢」を出品。昭和42年 11月、第10回新日展に「明星」を出品。この年、大阪市立美術館運営委員となる。昭和43年 11月、第11回新日展に「海底」を出品。昭和44年 11月、日展が改組され、第1回展に審査員として「堤」を出品。昭和45年 11月、第2回改組日展に「寥」を出品。昭和46年 10月、京都市主催に10点が出品される。11月、第3回改組日展に「閑」を出品。昭和47年 3月、この年制定された京都府美術工芸功労者の表彰を受ける。10月、『池田遥邨画集』をマリア書房から刊行する。11月、第4回改組日展に「囁」を出品。この年、岡山大学構師を退職する。昭和48年 6月、紺綬褒章を受章。11月、第5回改組日展に「谿」を出品。京都市文化功労者に選ばれる。昭和49年 7月、『池田遥邨集』(現代作家デッサンシリーズ)が中外書房から出版。11月、日展参与となり、第6回改組日展に「礎石幻想」を出品。昭和50年 11月、第7回改組日展に「群」を出品。昭和51年 10月、第8回改組日展に「影」を出品。12月、日本芸術院会員に選ばれる。昭和52年 10月、日展顧問となり、第9回改組日展に「海鳴り」を出品。11月、勲三等瑞宝章を受章する。昭和53年 7月、紺綬褒章を受章。11月、第10回改組日展に「川」を出品。昭和54年 10月、第11回改組日展に「堰」を出品。昭和55年 9月、岡山県の文化発展に尽くした功績により、第13回岡山県三木記念賞を受賞。10月、郷里倉敷市に作品、スケッチ489点を寄贈。これを記念して、岡山で開催。11月、第12回改組日展に「錦帯橋」を出品。昭和56年 10月、第13回改組日展に「稲掛け」を出品。昭和57年 3~5月、京都、岡山、大阪、東京で開催。10月、第14回改組日展に「朧夜」を出品。11月、『池田遥邨の履歴書 聞き書き・エッセイ』出版(京都書院)。昭和58年 3月、新しく制定された京都府文化賞特別功労賞を受賞。10月、第15回改組日展に「芒原」を出品。紺綬褒章を受章。11月、倉敷市立展示美術館が開館し、遥邨常設展示室で寄贈作品による池田遥邨展開催。昭和59年 4~5月、東京、大阪、京都、岡山(高島屋)において新作個展開催。『池田遥邨画集』が京都書院から出版される。11月、文化功労者の表彰を受ける。第16回改組日展に「うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火」を出品。昭和60年 11月、第17回改組日展に「鉄鉢の中へも霰山頭火」を出品。昭和61年 1月、(愛媛県立美術館)開催。5月、東京で(渋谷東急)開催。11月、京都、神戸、岡山でが開催 第18回改組日展に「雪へ雪ふるしづけさにをる 山頭火」を出品。12月、倉敷市名誉市民となる。不整脈を訴え入院、翌年4月まで病床に臥す。昭和62年 11月、第19回改組日展に「あすもあたたかう歩かせる星が出ている 山頭火」を出品。姫路で(姫路市立美術館)開催。文化勲章を受章。受章後体調を崩し、心臓疾患のため上京区の京都府立医科大学附属病院に再度入院、翌年5月中旬まで病床に臥す。昭和63年 4月、高島屋美術部創設80年記念が京都、東京、岡山で開催。8月、風邪のため制作を中断する。倉敷市に作品、スケッチ211点を寄贈。9月24日みたび入院するが、9月26日午前0時55分、急性心不全のため、京都市上京区の相馬病院で死去する。(『池田遥邨遺作展』1989年京都国立近代美術館図録より抜粋)

水田硯山

没年月日:1988/09/07

日本南画院顧問の日本画家水田硯山は、9月7日午前7時15分、心不全のため京都市左京区の自宅で死去した。享年85。明治35(1902)年12月14日大阪市に生まれ、本名美朗。南画家水田竹圃は兄にあたる。大正6年竹圃に入塾し南画を学び、また藤沢南岳に漢籍を学ぶ。翌7年京都に移ったのち、10年第1回日本南画院展に「雲去来」が入選。11年「山村暁霧」を出品し、日本南画院同人に推挙された。12年中国に旅行し、同地に取材した「紅葉山館」「寒江渡舟」を同展に出品する。また帝展でも、11年第4回帝展に「秋二題」が初入選し特選を受賞。13年第5回帝展に「一路湿翠」「春江暁潮」を出品したのち、14年同第6回帝展「雲散」「水肥」、昭和2年第8回「朝」が再びともに特選となる。翌3年第9回帝展「幽谷」以後、帝展無鑑査となり、帝展に5年第11回「霜林」、7年第13回「桐江新翠」、8年第14回「秋壑雲封」、9年第15回「飛鳳瀑」などを出品。また新文展、日本南画院展にも出品を続けた。南画に後期印象派の画風を加味した山水を得意とした。16年大東南宗院委員となり、戦後日展に依嘱出品する。33年菁々社を創立する一方、35年日本南画院の再興に参加。同展で、同35年「樹」が日本南画院賞、36年「秋」が文部大臣賞を受賞し、35年同院理事、38年監事となった。50年頃より視力が衰え、近年は制作から遠ざかっていた。

羽石光志

没年月日:1988/05/11

日本美術院理事の日本画家羽石光志は、5月11日午前10時半、肺がんのため東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年85。明治36(1903)年1月1日栃木県芳賀郡に生まれ、本名弘志。大正5年小堀鞆音に師事したのち、同8年川端画学校に入学する。12年卒業し、昭和6年鞆音没後、15年より安田靫彦に師事する。この間、昭和8年第14回帝展に「正岡子規」が初入選、15年紀元2600年奉祝展にも「畑時能」を出品した。靫彦に師してからは、16年第28回院展に「阿部比羅夫」を初出品、以後院展に出品する。翌17年第29回院展「忠度」、21年同第31回「閑日」、22年第32回「片岡山」、23年第33回「古今集撰集の人々」が、いずれも日本美術院賞を受賞。さらに、24年第34回院展「垣野王」、27年第37回「古墳」、29年第39回「黄河」が奨励賞、28年第38回「難波の堀江」が佳作賞を受賞したのち、30年第40回「土師部」が再び日本美術院賞を受賞。31年第41回「正倉院」は日本美術院次賞となり、同年同人に推挙された。この間、昭和19年奥村土牛、村田泥牛とともに東京美術学校講師となり、26年まで後進の指導にあたる。戦後は、新聞、雑誌の挿絵も描き、また時代衣裳の考証のため歴世服飾研究会を組織、世話人をつとめた。43年第53回院展で「いかるがの宮(聖徳太子)」が内閣総理大臣賞を受賞、45年以降日本美術院評議員、理事を歴任する。一方、39年より41年にかけて文化庁の依嘱により「伴大納言絵詞」を模写し、43年の法隆寺金堂壁画再現模写事業でも第2号、第6号壁を模写。46年より翌年にかけては、日光陽明門天井画「双龍図」の復元にあたった。安田靫彦の画風を継ぎながら、歴史や時代、衣裳考証に基づく歴史画を描いた。43年より53年まで名古屋造形短大顧問教授もつとめている。

森村宜永

没年月日:1988/05/04

日本画院顧問の日本画家森村宜永は、5月4日午後4時37分、直腸がんのため名古屋市中村区の鵜飼病院で死去した。享年81。明治39(1906)年6月10日名古屋市に生まれ、本名行雄。東京美術学校在学中より、画才を見込まれて名古屋の画家森村宜稲の娘婿となり、稲門と号す。昭和4年東京美術学校を卒業し、松岡映丘に師事する。同4年第10回帝展に「砂丘」が初入選し、以後5年同第11回「爽空」、6年第12回「志摩の磯わ」、7年第13回「採鮑」、8年第14回「沼」、9年第15回「雨」と連年入選。海辺や水辺の風景に多く取材した大和絵作品を発表する。11年文展鑑査展に「駿牛」、12年第1回新文展に「新樹」を出品。13年義父宜稲が死去したのち、「實と花」を出品した14年第3回新文展以降、宜永の名で出品している。また昭和10年映丘が盟主となって結成した国画院は、13年映丘が死去したのち展覧会活動を休止、国画院研究会として存続したが、同会にも会員として参加している。戦後、能を多く題材とした作品を制作。日展には24年より出品し、同年第5回「秀吉の能」、25年第6回「海のそよ風」、26年第7回「雲影」、27年第8回「熊野」、28年第9回「隅田川」、29年第10回「寂光院」、30年第11回「楊貴妃」、31年第12回「鏡の間」、32年第1回新日展「花」、33年同第2回「鶴」などを出品している。一方、28年日本美術協会展でやはり能を題材とした「黒塚」により日本美術協会総裁賞を受賞。また日本画院にも出品し、29年新同人に推挙された。のち同院顧問もつとめていた。

高橋常雄

没年月日:1988/05/03

日本美術院同人の日本画家高橋常雄は、5月3日午後5時20分、肝蔵がんのため神奈川県南足柄市の大内病院で死去した。享年60。昭和2(1927)年10月27日群馬県前橋市に生まれる。戦後21年、岡部神水の勧めで日本画を始め、25年初め望月春江、次いで同年福王寺法林に師事する。28年第9回日展に津根於の名で「春丘」が初入選、続いて29年同第10回「山」、31年第12回「煙突」などが入選する。33年武蔵野美術学校日本画科に編入学し、奥村土牛、塩出英雄らに学ぶ。34年卒業とともに院展に出品し、35年第45回院展に「嬬恋の山」が初入選した。以後連年入選を重ね、37年院友となる。46年第56回院展「和雅の音」、48年同第58回「修羅」がともに奨励賞を受賞。49年、51年のネパール、ヒマラヤ旅行後は同地に取材した作品を多く発表し、50年第60回院展「聖地巡拝記」、55年同第65回「聖地追想」がいずれも日本美術院賞を受賞した。この間、52年第62回院展「クリシュナ神話より」、54年同第64回「ラト・マチェンドラ祭の灯」、さらに57年第67回「無為」、59年第69回「追想」も、奨励賞を受賞。60年同人に推挙された。このほか、山種美術館賞展にも50年第3回展、58年第7回展「浄境」と出品している。仏教文化の淵源を辿り、、堅固な構図の重厚な作風を展開した。

岩田正巳

没年月日:1988/03/09

日本芸術院会員の日本画家岩田正巳は、3月9日午前5時30分、脳出血のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年94。明治26(1893)年8月11日新潟県三條市の眼科医岩田屯、えつの長男として生まれる。本名同じ。父も愛山と号し日本画を描いた。三条中学校在学中、美術教員秋保親美の影響を受け、44年同校卒業後、翌45年川端画学校で寺崎広業の指導により夜間日本画を学ぶ。大正2年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、松岡映丘らに学び、仏画模写に励む。7年卒業後、同校研究科に進み、映丘に師事、10年同科を修了した。同10年映丘、川路柳虹を顧問に、映丘門下の狩野光雄、遠藤教三、穴山勝堂とともに新興大和絵会を結成、同年の第1回展に「写真」を出品する。以後同会を舞台に大和絵の新しい表現を研究、昭和6年の同会解散まで毎回出品した。この間、大正15年には、映丘一門による夏目漱石作「草枕」の絵巻制作に参加している。一方、大正13年第5回帝展に「手向の花」が初入選し、15年同第7回「十六夜日記」、昭和3年第9回「比叡の峯」など、古典や歴史に取材した作品を発表。昭和5年第11回帝展「高野草創」、9年同第15回「大和路の西行」がともに特選となる。その後、新文展にも出品する一方、昭和10年映丘を盟主として結成された国画院の結成に参加、同人となり、12年の第1回展に「聖僧日蓮」を出品した。13年映丘の死去に伴い、国画院は研究会として存続することとなった。が、一方旧同人を中心に翌14年日本画院を結成、会員となり29年まで同会に出品した。この間、11年映丘、服部有恒、吉村忠夫とともに帝室博物館壁画「藤原時代風俗画」を制作している。戦後は日展を中心に活動し、仏教などにも取材し西域に思いを馳せた作品を制作。35年第3回新日展出品作「石仏」により、翌年日本芸術院賞を受賞、37年にはインドに取材旅行している。27年日展参事となって以後、33年同評議員、47年監事、48年参与、54年顧問を歴任した。また戦後間もない24年頃より2年間東劇、27年頃より2年間歌舞伎座の舞台装置や衣裳の時代考証などもつとめた。52年日本芸術院会員となる。 年譜明治26年 8月11日、三条市の眼科医の家に長男として生まれる。明治33年 三条裏館尋常小学校に入学。明治37年 三条裏館尋常小学校を卒業。三条尋常小学校高等科に入学。明治39年 三条尋常小学校高等科を卒業。三条中学校に入学。明治44年 三条中学校を卒業。明治45年 夜間、川端画学校で日本画を学び、寺崎廣業に指導をうける。大正2年 東京美術学校日本画科に入学する。大正3年 第三教室(大和絵)を選び、主任教授小堀鞆音、助教授松岡映丘の指導をうける。この年頃から多くの仏画を模写する。大正5年 「木蘭往戎図」を描く。大正7年 東京美術学校日本画科を卒業する。双幅の「魏の節乳母」を卒業制作する。東京美術学校日本画研究科に入学し、松岡映丘に師事。松岡映丘の指導のもと、東京美術学校倶楽部で月並研究会が開かれる。大正8年 月並研究会の会場が、松岡映丘宅(常夏荘)に移される。大正10年 映丘塾常夏荘同人の狩野光雅らと、四人で新興大和絵会を結成。東京美術学校日本画研究科を終了。第1回新興大和絵会展に「写真」を出品。大正11年 第2回新興大和絵会展「初夏のさえずり」。大正12年 第3回新興大和絵会展「霧たつころ」。石田ミヨと結婚。関東大震災を機に常夏会は一旦解散。大正13年 第5回帝展に「手向の花」が初入選。大正14年 第5回新興大和絵会展「武蔵野の秋」。大正15年 第6回新興大和絵会展「早春浜辺」。映丘一門で夏目漱石作「草枕」の絵巻を制作し、参加。第7回帝展「十六夜日記」。昭和2年 第7回新興大和絵会展「比叡の峯」「金色夜叉」。第8回帝展「春日垂跡」。昭和3年 第8回新興大和絵会展「かげる比叡」「備後の海」「狭井川のほとり」。第9回帝展「比叡の峯」。昭和5年 第10回新興大和絵会展「尾津の一ッ松」、同展はこの回をもって終了。第11回帝展で「高野草創」が特選受賞。昭和6年 新興大和絵会解散。第12回帝展に「神功皇后」を無鑑査出品。昭和7年 第13回帝展「役小角」。昭和8年 第14回帝展「高野維盛」。昭和9年 第15回帝展に「大和路の西行」で特選となる。昭和10年 松岡映丘を盟主とする国画院の結成に参加し、同人となる。昭和11年 松岡映丘らと帝室博物館壁画の「藤原時代風俗画」(4点)のうち1点を制作。新文展招待展に「浜名を渡る源九郎義経」を出品。昭和12年 国画院第1回展に「聖僧日蓮」を出品。第1回新文展に「富士の聖僧日蓮」を無鑑査出品。昭和13年 第2回新文展に「山に住む公時」を無鑑査出品。昭和14年 川崎小虎らと日本画院を創設し、会員となる。第3回新文展に「木下藤吉郎」を無鑑査出品。昭和15年 第2回日本画院展「忠犬獅子」。この年頃から講談社の雑誌を中心に挿絵を描く。昭和16年 第3回日本画院展「忠盛」。昭和17年 第4回日本画院展「降盛出陣」。第5回新文展に「月に躍る」を無鑑査出品。昭和18年 第5回日本画院展「日蓮」。第6回新文展に「上杉謙信」を招待出品。昭和19年 戦時特別文展「吉田松陰」。新潟県加茂市に疎開。昭和22年 第3回日展に「愛犬」を招待出品。昭和23年 第8回日本画院展「初夏」。第4回日展「第一歩」。東京へ帰る。昭和24年 第5回日展の審査員をつとめ「少女」を出品。この年頃から2年間、東劇の舞台装置、衣装などの考証にあたる。昭和25年 第6回日展に「花さす人」を依嘱出品。昭和26年 第11回日本画院展「あみもの」。第7回日展の審査員をつとめ「鳩」を出品。昭和27年 第12回日本画院展「猫」。第8回日展の運営会参事をつとめ「秋好中宮」を出品。この年頃から2年間位、歌舞伎座の舞台装置、衣装などの考証にあたる。昭和28年 第13回日本画院展「牡丹と光琳」。第9回日展「鏡」。昭和29年 第14回日本画院展「幸若」。第10回日展の審査員をつとめ「夢の姫君」を出品。昭和30年 第11回日展「いかづち」。昭和31年 第12回日展「禽舎」。昭和32年 第13回日展の審査員をつとめ「青夜」を出品。昭和33年 社団法人第1回日展の評議員をつとめ「秋苑石仏」を出品。昭和34年 第2回日展「南風舞曲」。昭和35年 第3回日展の審査員をつとめ「石仏」を出品。昭和36年 日展出品作「石仏」により第17回日本芸術院賞を受ける。第4回日展「仁王」。昭和37年 第5回日展「俑4」。インドに取材旅行。昭和38年 第6回日展の審査員をつとめ「黒い服の李さん」を出品。昭和39年 第7回日展「紅床」。昭和40年 第8回日展「熄む」。昭和41年 第9回日展「李さんと七面鳥」。昭和42年 第10回日展「架」。昭和43年 第11回日展「春昼」。昭和44年 改組第1回日展「緑扇」。昭和45年 第2回日展「浴(印度・ベナレス水浴)」。昭和46年 第3回日展「女神」。勲四等旭日小綬章を受ける。昭和47年 第4回日展の監事をつとめ「神祀」を出品する。昭和48年 第5回日展の参与をつとめ「漢拓(漢画像石拓本)」を出品。昭和49年 第6回日展「群飛」。昭和50年 第7回日展「印度新月」。昭和51年 第8回日展「花と漢拓」。昭和52年 日本芸術院会員に推せんされる。第9回日展「宵」。BSN新潟美術館主催で岩田正巳展が開催される。昭和54年 第11回日展の顧問をつとめ「鴬-一将愛鳥鴬の美聲をよろこぶ」を出品。勲三等瑞宝章を受ける。昭和55年 第12回日展「晨」。昭和57年 第14回日展「夢」。昭和58年 第15回日展「供養の女達」。新潟県美術博物館主催で岩田正巳と三輪晁勢展が開催される。(株)美術出版協会から画集刊行記念としてオリジナル石版画「爽」が刊行される。(『岩田正巳画集』美術出版協会より抜粋)

福田青藤

没年月日:1988/01/28

日本南画院副理事長の日本画家福田青藤は、1月28日午後3時30分、心不全のため大阪府池田市の市立池田病院で死去した。享年91。明治29(1896)年9月29日大阪市福原区に生まれ、本名忠雄。大阪市立西野田尋常高等小学校高等科を卒業後、永松春洋に師事する。大阪美術学校に学び、同校を卒業。春洋門下の矢野橋村に師事し、南画を学ぶ。昭和5年第11回帝展に「秋山夕照」が初入選し、8年第14回帝展に「水濱暮色」が再び入選。11年の文展鑑査展にも「幽翠」を出品し、洋風を加味した繊細な南画作品を制作した。13年第1回日本新興南画院展「幽禽還山」、17年第1回大東南宗院展「秋晨」など、南画をめぐる新たな創作運動にも参加。また南京、揚州、抗州、盧山など2ケ月にわたって中国を遊歴し、風景を探勝した。戦後、35年に再興された日本南画院に参加し、同展で文部大臣賞、桂月賞、南画院賞などを受賞、常務理事、副理事長などを歴任した。また大阪美術協会にも参加し、会長、顧問をつとめている。

梶原緋佐子

没年月日:1988/01/03

美人画で知られる日本画家梶原緋佐子は、1月3日午後8時10分、老衰のため京都市北区の自宅で死去した。享年91。明治29(1896)年12月22日京都祇園の造り酒屋に生まれ、本名久。大正3年京都府立第二高等女学校卒業後、竹内栖鳳門下で同校で教えていた千種掃雲の勧めにより画家を志望し、菊池契月に入門。木谷千種、和気春光らとともに、契月塾の三閨秀と称される。同7年第1回国画創作協会展に「暮れゆく停留所」を出品し、選外佳作となる。次いで、9年第2回帝展に「古着市」が初入選し、以後10年第3回帝展「旅の楽屋」、13年同第5回「お水取りの夜」、14年第6回「娘義太夫」、15年第7回「矢場」など、下層に生きる女性風俗を題材に社会性の強い作品を描く。昭和に入り、5年第11回帝展「山の湯」、6年第12回「いでゆの雨」、8年第14回「機織」など、師契月の画風を受けた明澄な作風へと移行。戦後、22年第3回日展で「晩涼」が特選、27年同第8回「涼」が白寿賞を受賞する。30年頃より舞妓や芸妓を多く題材に、上村松園亡きあとの京都画壇の美人画の伝統を守り続けた。また昭和5年大阪府女子専門学校の日本画講師となり、8年韓国、10年中国、43年欧州を旅行。43年日展評議員となり、49年より同参与をつとめた。また51年京都市文化功労者となり、54年には画業60年記念「梶原緋佐子展」が開催された。早くより吉井勇に師事して和歌も学び、歌集『逢坂越え』(大正13年)なども出版している。

河野秋邨

没年月日:1987/12/03

社団法人日本南画院会長・理事長の日本画家河野秋邨は、12月3日午前6時50分、急性心不全のため京都市上京区の自宅で死去した。享年97。明治23年8月8日愛媛県新居浜市に生まれて本名循。明治40年京都に出て、45年京都の田辺竹邨に師事し、南画を学ぶ。大正4年日本美術協会に出品した「赤壁舟遊図」が伏見宮買上げとなった。同6年第11回文展に「夏雨新霽」が初入選、帝展にも15年第7回展より入選し、昭和2年第8回帝展「月下敲門」、3年第9回「山光欲暮」などを出品する。この間、大正10年水田竹圃らと発起し、富岡鉄斎を顧問として、田辺竹邨、山田介堂、池田桂仙ら京都南画壇の元老とともに日本南画院を結成。同人として出品する一方、その運営にあたる。同院は昭和11年に解散となったが、松林桂月、矢野橋村らとともに35年日本南画院を再興、理事長となった。また大正12年中国を巡遊して以後、たびたび中国、朝鮮半島に渡航。戦後43年にはアメリカ各地で講演と実技指導を行なう。日本南画院再興後は、46年パリ、47年ボストン、53年オーストラリアのシドニー、キャンベラ、58年ブエノスアイレスなどで日本南画院展を開催。このほか、57年日中国交回復10周年記念合同展、58年、60年の日ソ合同美術展、61年日中ソ三国合同展の開催など、国際文化交流にも大いに尽力した。「寒影湛」「寒風嶺」(以上40年)、「富獄騰霊」「幻想★湖」など大作を多く描き、近年は「コーカサス紀行」など、ソ連コーカサス地方の風景を描いている。51年日本学士会名誉会員となり、59年京都府文化功労賞を受賞した。没後の同年5月中国東方美術交流協会より最高栄誉賞を受賞した。

麻田鷹司

没年月日:1987/07/01

創画会会員、武蔵野美術大学教授の日本画家麻田鷹司は、7月1日午後零時6分心不全のため、東京都板橋区の帝京大学附属病院で死去した。享年58。昭和3年8月8日京都市に日本画家麻田弁次の長男として生まれ、本名昂。父に絵を学び、京都市立美術工芸学校絵画科を経て、24年京都市立美術専門学校を卒業。この間、23年第1回創造美術展に「夏山」が入選し、同年より雅号を「鷹司」とした。25年第3回創造美術展で「ボートを造る」が奨励賞を受賞、翌26年創造美術が新制作派協会と合流し、新制作協会日本画部となって以後、同会に出品する。34年第5回日本国際美術展出品作「小太郎落」は文部省買上げとなり、35年第4回現代日本美術展「雲烟那智」は神奈川県立近代美術館賞を受賞した。42年法隆寺金堂壁画再現模写に従事し、第7号壁を担当。49年新制作協会日本画部が同協会を離脱、新たに創画会を結成して以後、同会に出品した。金箔、銀箔、金泥などを多用し、ナイーヴな感性と堅固な画面構成の風景画を制作、47年第36回新制作展「天橋雪後図」、49年第1回創画展「松嶋図」、50年同第2回「厳島図」の日本三景や、佐渡、琵琶湖、沖ノ島など各地に取材した作品を発表する。また、10年がかりの予定の京都シリーズの第1回展として56年「洛中洛外・麻田鷹司展」(洛東編)を京都の何必館・京都現代美術館で開催、洛東風景の新作10点等を発表した。この間、38年ヨーロッパ、54年日中文化交流協会代表団の一員として中国をそれぞれ旅行。54年作「雲崗石窟仏」により第4回長谷川仁賞を受賞している。また、41年武蔵野美術大学講師となって以後、43年同助教授、45年教授となり、後進の指導にあたった。『新潮』の表紙原画(53~54年)や、記念切手(59年「銀閣」、62年「奥の細道シリーズ・華厳」)なども制作。35年以来たびたび個展を開催し、52年日本橋高島屋「麻田鷹司-わが心の京都」、54年銀座松屋「麻田鷹司-今日と明日」を開催。没後63年何必館・京都現代美術館で「追悼・麻田鷹司素描展」が開かれた。画集に『麻田鷹司画集』(50年、講談社)がある。

村山徑

没年月日:1987/01/23

日展理事の日本画家村山徑は、1月23日午後11時38分、肺気腫のため神奈川県足柄下郡の厚生年金病院で死去した。享年70。大正6年1月21日新潟県柏崎市に生まれ、本名勲。昭和10年児玉希望に師事し、18年第6回新文展に「子等」が初入選する。戦後25年、希望門下の国風会と伊東深水門下の青衿会により組織された日月社に出品、3度にわたって受賞し、委員もつとめた。また27年より日展に出品し、30年第11回日展「たそがれ」、31年同第12回「風景」など、知的で堅固な画面構成の風景画を出品。33年第1回新日展「残雪の高原」、翌34年同第2回「白浜」が、ともに特選・白寿賞を受賞する。続いて、36年第4回新日展「溜」が菊華賞、53年第10回改組日展「朝の火山」が総理大臣賞となり、59年同第16回展出品作「冠」により翌60年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。この間、40年日展会員、47年評議員、60年より同理事をつとめた。

向井久万

没年月日:1987/01/20

創画会会員の日本画家向井久万は、1月20日午前2時47分、肺気腫のため東京都文京区の日本医大付属病院で死去した。享年78。明治41(1908)年12月14日大阪府泉佐野市に生まれる。大正15年大阪府立岸和田中学校卒業後、京都高等工芸学校図案科に学び、昭和4年卒業する。同年丸紅に勤務し、9年の退勤まで図案を担当した。11年西山翠嶂に入門、画塾青甲社に学ぶ。14年第3回新文展に舞妓を描いた「妓筵」が初入選し、翌15年の毎日新聞社主催紀元2600年奉祝日本画展で「新春」が佳作となる。続いて、16年長男の誕生を描いた「男児生る」が第4回新文展で特選を受賞、18年同第6回「紙漉き」も再び特選となった。戦後23年、新しい日本画の創造を目指して結成された創造美術に参加、創立会員となり、24年「娘達」などを出品する。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品する。この頃、26年「立像」、30年「堕ちる」など裸婦にとり組む。49年新制作協会日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、会員として同会に出品した。近年は、48年「如意輪観音」、54年第6回創画展「星宿」などのほか、「普賢と文殊」「十二天」「准胝仏母」など、古典に学んだ明快な描線による格調高い仏画に、多くの秀作を生んだ。

樋笠数慶

没年月日:1986/09/23

日本美術院評議員の日本画家樋笠数慶は、9月23日正午、急性心不全のため東京都町田市の自宅で死去した。享年70。大正5(1916)年3月18日、香川県高松市に生まれ、本名数慶。高松第一中学校を卒業後、郷倉千靭に師事する。昭和16年第28回院展に「雨季」が初入選。戦後、日本美術院内部の研究会和泉会で、前衛芸術や抽象芸術なども研究した。31年第41回院展で「夕暉」が奨励賞を受賞し、32年第42回院展「鵜」は日本美術院賞を受賞。続いて、33年同第43回「白映」が日本美術院次賞、35年第45回「華翳」が奨励賞、36年第46回「春雪」は再び日本美術院賞を受賞し、36年日本美術院同人に推挙された。自然の移ろいを静視した風景・花鳥画を描き、37年第47回院展「懼」、38年第48回「神話」などを出品。47年第57回「暉晨」が内閣総理大臣賞、58年第68回「春潮」は文部大臣賞を受賞した。また日本美術院評議員をつとめていた。

上原卓

没年月日:1986/07/27

創画会会員で京都市立芸術大学教授の日本画家上原卓は、7月27日午前5時2分呼吸不全のため京都市北区の京都警察病院で死去した。享年60。大正15年5月6日京都府に生まれる。本名同じ。京都市立美術工芸学校を経て、昭和23年京都市立美術専門学校日本画科を卒業する。24年創造美術展に「幻想」が初入選し、26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後同会に出品。29年第18回新制作展に「麦(A)」「麦(B)」「午後」を出品し、新作家賞を受賞する。続いて、33年同第22回展「風船」「家族」「樹精」、34年第23回「水辺」「木」「丘」、35年第24回「池」「花と栗」「蓮池」により、3年連続して同じく新作家賞を受賞。36年同会会員となるとともに、同年の第25回新制作展出品作「竹林」は文部省買上げとなった。また現代日本美術展、日本国際美術展にも出品し、41年第7回現代日本美術展「草曼荼羅」は優秀賞を受ける。49年新制作協会日本画部が独立して創画会を結成して以後は、同会に出品した。この間、38年京都市立美術大学講師、45年京都市立芸術大学助教授、50年同教授となり、後進の指導にあたった。51年にはイタリアで中世フレスコ画を模写している。身辺な自然を題材に写実的描写の作風を展開した。

山本正年

没年月日:1986/03/14

日展評議員の陶芸家山本正年は、3月14日午前0時58分、胃ガンのため千葉県鴨川市の亀田総合病院で死去した。享年73。大正元(1912)年9月20日北海道後志支庁に生まれる。本名同じ。昭和10年東京高等工芸学校工芸彫刻部を卒業、京都国立陶磁器試験場研究生となる。京都市立工業研究所、京都市立第二工業学校窯業科などに勤務しながら、昭和15年京都山科の辻晋六工房に入り作陶生活を始めた。23年千葉県安房郡富山町に築窯し、28年第9回日展に「花生」が初入選し、31年第12回日展で「花生踊」が特選を受賞する。32年第13回日展に「花器」を無鑑査出品し、33年第1回新日展に「パネル踊り」を委嘱出品。また、国際陶芸展、日本陶芸展にも第1回より招待出品したほか、日本の現代工芸の外国展にもしばしば出品した。71年文化使節として9ケ国を歴遊している。35年日展会員となり、また光風会や千葉県美術協会の理事、評議員などもつとめた。

山本丘人

没年月日:1986/02/10

日本画革新運動の旗手として知られ文化勲章受章者の日本画家山本丘人は、2月10日午後10時50分、急性心不全のため神奈川県平塚市の杏雲堂平塚病院で死去した。享年85。明治33(1900)年4月15日東京市下谷に生まれ、本名正義。父昇は東京音楽学校事務官だった。上野桜木町に育ち、大正4年東京府立第3中学校から東京府立工芸学校に転入する。7年第1回国画創作協会展を見て日本画を志し、8年卒業後、東京美術学校日本画科に入学。松岡映丘に師事して大和絵を学び、2年生より日本画科選科に移った。13年同科を卒業、映丘の木之華社に入り、新興大和絵運動に加わる。昭和2年第7回新興大和絵会展に「画人の像(松岡映丘)」が入選し、4年同第9回展で「五月雨」が新興大和絵賞を受賞。同会会友となった。この間、昭和3年第9回帝展に「公園の初夏」が初入選、以後帝展に入選を続け、11年の文展鑑査展で「海の微風」が選奨となる。また5年より丘人と号し、7年銀座資生堂ギャラリーで初の個展を開催。6年新興大和絵会の解散後、9年杉山寧ら映丘門下の同志と瑠爽画社を結成し、13年の解散まで展覧会を行なった。18年には川崎小虎を中心とする国土会の結成に参加する。19年奥村土牛とともに東京美術学校日本画科助教授となり、同年第4回野間美術賞を受賞。戦後22年には女子美術専門学校教授(26年まで)となった。また日展で審査員をつとめたが、23年上村松篁、吉岡堅二らとともに創造美術を結成、「世界性に立脚する日本絵画の創造」を目指す。24年第2回創造美術展出品作「草上の秋」により、翌25年第1回芸能選奨文部大臣賞を受賞した。26年創造美術が新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となって以後は同会に出品し、さらに49年日本画部が同協会を離脱し創画会を結成して以後、同会に出品した。36年第25回新制作展「夕焼け山水」、38年第27回「異郷落日」、39年第28回「雲のある山河」などダイナミックで骨太な風景画から、次第に、45年第34回「狭霧野」、49年第1回創画展「流転之詩」、51年第2回春季創画展「残夢抄」など、再び大和絵的な優美な感性の作風へと移行した。また、未更会、五山会、椿会、遊星会などへの出品のほか、26年第1回サンパウロ・ビエンナーレ、27年第1回日本国際美術展、第26回ヴェネツィア・ビエンナーレなどの国際展にも出品。34年にはフランス、イタリア等を巡遊している。39年「異郷落日」により日本芸術院賞を受賞し、52年には文化勲章を受章した。32年ブリヂストン美術館、39年日本橋高島屋、47年渋谷東急で個展を開催、没後62年横浜そごう美術館で遺作展が行なわれた。

浜田観

没年月日:1985/10/06

日本芸術院会員、日展顧問の日本画家浜田観は、10月6日午前1時半、肝臓ガンのため京都市右京区の花房病院で死去した。享年87。明治31(1898)年2月20日兵庫県姫路市に生まれ、本名仙太郎。神戸の画家大谷玉翠に絵の手ほどきを受けた後、大正8年頃大阪に移り、洋画も学ぶ。昭和4年金島桂華の紹介で竹内栖鳳に入門。また同8年京都市立絵画専門学校に入学し、16年同校研究科を修了する。この間、同8年第14回帝展に「八仙花」が初入選し、12年より新文展に出品。同12年栖鳳門下で葱青社を結成する。また15年春、紀元2600年奉祝日本画大展覧会(大阪毎日主催)で「南紀梅林」が大毎東日賞、秋の同展で蒼穹賞を受賞した。戦後第2回より日展に出品し、22年第3回日展「芥子」、24年第5回日展「蓮池」が特選となる。翌25年より依嘱出品、買上げとなった31年第12回日展「樹映」を経て、33年第1回新日展より評議員をつとめた。38年同第6回「朝」が文部大臣賞を受賞し、39年第7回出品作「彩池」により翌40年日本芸術院賞を受賞する。46年日展理事、48年同参与、55年参事に就任、その後同顧問となった。一貫して花鳥画の世界を追求し、幽遠な画境を拓いた。49年京都府美術工芸功労者、50年京都市文化功労者、59年日本芸術院会員となった。 出品歴:昭和8年第14回帝展「八仙花」、12年第1回新文展「初夏の花」、13年第2回「花芥子」、14年第3回「牡丹」、15年紀元2600年展「罌粟」、16年第4回「花菖蒲」、17年第5回「芥子」、18年第6回「紅蜀葵」、21年第2回日展「朝」、22年第3回「芥子」(特選)、23年第4回「牡丹」、24年第5回「蓮池」(特選)、25年第6回「白椿」(依嘱)、26年第7回「芥子」(依)、27年第8回「牡丹」(審査員)、28年第9回「黄蜀葵」(依)、29年第10回「牡丹」(依)、30年第11回「菖蒲」(依)、31年第12回「樹映」(審、買上げ)、33年第1回新日展「細雨」(審、評議員)、34年第2回「晨」(評)、35年第3回「朝」(評)、36年第4回「池」(審、評)、37年第5回「蓮池」(評)、38年第6回「朝」(文部大臣賞、評)、39年第7回「彩池」(評)、40年第8回「芙蓉」(評)、41年第9回「蓮池」(評)、42年第10回「双鯉」(評)、43年第11回「朝の庭」(評)、44年第1回改組日展「晨明」(評)、45年第2回「鯉」(評、審)、46年第3回「芥子」(理事)、47年第4回「古壷再び」(理)、48年第5回「午の花」(参与)、49年第6回「湖底」(参)、50年第7回「陽影」(参)、51年第8回「花菖蒲」(参)、52年第9回「鯉」(参)、53年第10回「清晨」(参)、54年第11回「鯉」(参)、55年第12回「花芥子」(参事)、56年第13回「湖底」(参)、57年第14回「初夏」(参)

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