本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大野俶嵩

没年月日:2002/09/05

読み:おおのひでたか  日本画家で京都市立芸術大学名誉教授の大野俶嵩は9月5日、多臓器不全のため死去した。享年80。 1922(大正11)年1月20日、京都市に生まれる。本名秀隆。1941(昭和16)年京都市立美術工芸学校日本画科を、43年京都市立絵画専門学校日本画科を卒業。美工在学中より須田国太郎の指導を受け、美工卒業制作の「椎の森」や絵専卒業制作の「黒土」にその影響が色濃く認められる。戦後、47年の第3回京展に「城南の春」を初出品し、京都市長賞・新聞社賞を受賞。また47年第3回日展に「海」が初入選するが、48年星野眞吾の推薦により革新的な日本画運動であるパンリアルに参加。翌49年に「パンリアル宣言」を発表しパンリアル美術協会を公に結成、第1回展を開催し、58年に退会するまでの間、「霊性の立像」(53年第10回展)、「消えた虹」(54年第11回展)等を出品、日本画がもつ膠彩表現の可能性を追求した。協会退会後も国内外にわたって個展を行なうとともに、58年、61年のピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、59年の中南米巡回日本現代絵画展といった国際展に出品する。58年からは麻袋を画面に貼り付けた「ドンゴロス」の連作を開始、異質のメディアを日本画に持ち込んで既存の概念を問い返す制作を行い、60年には「創生」がグッゲンハイム美術館買い上げとなるなど、アメリカをはじめ海外での評価を得る。61年に俶嵩と改号。71年頃からは主に花をモティーフに極めて精緻な南宋院体画風へと大きく転回、「鶏頭(おとずれ)」(72年)、「華厳」(89年)など静謐のうちにも生気、さらには仏性をたたえた世界を展開する。70年京都市立芸術大学助教授、73年教授に就任。83年京都市文化功労者として表彰。87年京都市立芸術大学を退官、同大学名誉教授となる。1989(平成元)年には京都府文化賞功労賞を受賞、同年O美術館で「大野俶嵩展―「物質」から華へ」が開催されている。

吉田善彦

没年月日:2001/11/29

読み:よしだよしひこ  日本画家で日本美術院理事の吉田善彦は11月29日午前10時17分、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年89。1912(大正元)年10月21日、東京府荏原郡大崎町(現東京都品川区)に老舗の呉服屋の次男として生まれる。本名誠二郎。現在の世田谷区岡本に育ち、小学校在学中に南画家中田雲暉に絵の手ほどきを受ける。1929(昭和4)年いとこの吉田幸三郎の義弟でその後援も受けていた速水御舟に師事、その感化は生涯にわたる影響を及ぼし、とりわけ東洋古典の重要性を認識するに至る。33年の御舟急逝後、吉田幸三郎の計らいで御舟の旧画室を使用して描いた「もくれんの花」が37年第24回院展に初入選、以後院展に出品を続け、また同年より小林古径の指導を受けることになる。40年より法隆寺金堂壁画模写事業に加わり、橋本明治の助手として第九号大壁と第十一号小壁を担当、春秋は奈良で模写に従事する。翌41年高橋周桑ら御舟遺門の同志九名と圜丘会を結成、また同年日本美術院院友に推挙される。44年応召し、46年台湾より復員、再び法隆寺金堂壁画の模写に従事するが、49年法隆寺金堂の火災により壁画は焼失。54年奈良より東京世田谷にもどり、安田靫彦門下生による火曜会に参加する。57年第42回院展「臼杵石仏」、61年第46回「高原」、63年第48回「袋田滝」がいずれも奨励賞、62年第47回「滝」が日本美術院次賞を受賞、64年同人に推挙される。法隆寺での模写事業を通じて第二の故郷ともいうべき大和地方をはじめ、四季折々の日本の風景を描き続けるが、その技法は一度彩色で描いた上に金箔でヴェールを被せ、その上にもう一度色を置き再度描き起こすという独自のもので、吉田様式と呼ばれた。73年第58回院展「藤咲く高原」が文部大臣賞、81年第66回「飛鳥日月屏風」が内閣総理大臣賞を受賞。82年には同作および前年開催した「吉田善彦展」(日本橋高島屋)により第23回毎日芸術賞、また第63回院展出品作「春雪妙技」(78年)により日本芸術院恩賜賞を受賞した。この間、67年法隆寺金堂壁画再現模写に従事し、安田靫彦班で第六号大壁を担当。また64年東京芸術大学講師、68年助教授、69年教授(80年まで)に就任。70年には東京芸術大学第三次中世オリエント遺跡学術調査団の模写班に参加し、トルコ・カッパドキアへ赴く。73年には主にイタリア(ローマ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ)の壁画研究に出かけ、75年には日本美術家代表団の一員として、中国(北京、大同、西安、無錫、上海)を訪れる。78年より日本美術院評議員、87年より同院理事。86年には東京芸術大学名誉教授となる。なお82年に朝日新聞社より『吉田善彦画集』が出版され、また1990(平成2)年に山種美術館、94年にメナード美術館、98年に世田谷美術館で回顧展が開催された。

秋野不矩

没年月日:2001/10/11

読み:あきのふく  インドの大地と人物を描き続けた日本画家で文化勲章受章者の秋野不矩は10月11日午前11時27分、心不全のため京都府美山町の自宅で死去した。享年93。1908(明治41)年7月25日、静岡県磐田郡二俣町(現天竜市二俣町)の神主の家に生まれる。本名ふく。静岡県女子師範学校卒業後小学校の教師をしていたが、1927(昭和2)年19歳で画家を志し、父親の知人の紹介により帝展の日本画家で、千葉県大網町に住む石井林響に入門、住み込みの弟子となる。29年林響が脳溢血症で倒れると京都に移り、西山翠嶂の画塾青甲社に入る。30年第11回帝展に「野を帰る」が初入選、その翌年は落選するも32年から34年にかけて連続入選を果たす。32年には塾の先輩である沢宏靭と結婚、その後もうけた六人の子供を育てる傍ら身辺のモティーフを題材に制作を続け、そこで育まれたヒューマニズムは生涯貫かれることになる。36年新文展鑑査展で天竜川岸の白砂に寝そべる女と子供を描いた「砂上」が選奨、38年第2回新文展では紅の着物をまとう五人の女性を円形に構成した「紅裳」が特選を受賞し、無鑑査となるなど官展で着実に地歩を築いていく。40年には大毎東日奉祝(大阪毎日・東京日日新聞主催)日本画展覧会で夫をモデルにした「陽」が特選一席となり、43年京都市展では「兄弟」が京都市展賞を受賞。戦後48年には日展を離脱、日本画の革新を目指して創造美術の結成に参加。51年同第3回展に自分の子供をモデルとした「少年群像」を出品、同作により第1回上村松園賞を受賞する。51年創造美術は新制作派協会と合併、新制作協会日本画部となり、同会会員として同展に出品する。一方、49年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)助教授となる。62年ビスババーラティ大学(現タゴール国際大学)の客員教授として一年間インドに滞在。これを契機にそれまでの人物画からインドの自然風物、宗教に主題を求めた浄福感あふれる作品へと移行する。その後も度々インドに渡り、中近東へも足を伸ばした。74年京都市立芸術大学を退官し、同大学名誉教授となる。また同年新制作協会より独立結成された創画会の会員となる。この時期二度にわたり火災によりアトリエを失うが、80年に京都市内から同府北部の山間にある美山町に画室を移し、制作を続ける。78年京都市文化功労者、81年京都府美術工芸功労者、83年天竜市名誉市民となり、85年「秋野不矩自選展」(京都ほか)を開催、86年には毎日芸術賞を受賞した。88年第1回京都美術文化賞を受賞。1991(平成3)年に文化功労者となる。92年には画文集『バウルの歌』(筑摩書房)を出版。93年第25回日本芸術大賞受賞。98年には生地である天竜市二俣町に天竜市立秋野不矩美術館が開館。99年には文化勲章を受章。2000年のアフリカ行きが最後の海外旅行、翌年の第28回創画会出品作「アフリカの民家」が最後の出品となったが、個展準備のためインドへの取材旅行を計画していた矢先の逝去であり、最晩年に至るまでその創作意欲は衰えることがなかった。没後の03年には兵庫県立美術館ほかで大規模な回顧展「秋野不矩展―創造の軌跡」が開催されている。

真野満

没年月日:2001/07/01

読み:まのみつる  日本画家で日本美術院評議員の真野満は7月1日、老衰のため死去した。享年99。1901(明治34)年9月27日、東京浅草に生まれる。父は河鍋暁斎門下の日本画家真野暁亭で、兄松司も日本画家の道を歩んでいる。15、6歳の頃一時、尾竹竹坡に絵の手ほどきを受ける。1918(大正7)年太田聴雨、小林三季の結成した青樹会に参加し、第1回青樹社展に「凝視」を出品。その後22年第一作家同盟に青樹社の一員として参加し、第一回展に歴史画を出品したが、この同盟は数年にして解散となる。その後父の勧めで京都市立絵画専門学校に進み1927(昭和2)年卒業。再び上京して37年安田靫彦に師事、翌38年第25回院展に「貴人愛猫」が初入選した。41年第28回院展「七おとめ」が日本美術院賞第三賞を受賞、また40年より法隆寺金堂壁画の模写に文部省嘱託として従事し、中村岳陵の班で五号壁を担当した。戦後、『源氏物語』や『伊勢物語』などの平安文学に材をとり、52年第37回院展「小墾田宮」、54年第39回「伊勢物語」、55年第40回「泉(伊勢物語)」が奨励賞を受賞。57年第42回「羽衣」が再び日本美術院賞となり、同年日本美術院同人に推挙された。71年第56回院展「伊勢物語」が文部大臣賞、80年第65回「後白河院と遊女乙前」は内閣総理大臣賞を受賞する。一貫して神話や文学、歴史画にモティーフを求め、師靫彦の伝統を継ぐ流麗にして明快な筆線の美しさを基調とした作品を発表。78年より日本美術院評議員をつとめる。1991(平成3)年には「大和絵六十年の歩み 真野満展」が日本橋三越で開催された。

塩出英雄

没年月日:2001/03/20

読み:しおでひでお  日本画家で日本美術院常務理事の塩出英雄は3月20日午後2時29分、脳しゅようのため東京都杉並区の病院で死去した。享年88。1912(明治45)年4月6日、広島県福山市の菓子舗に生まれる。中学時代には福山の古刹明王院で龍池密雄僧正より真言宗の教義について教えを受け、深く感化される。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年帝国美術学校日本画科に入学、主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事。37年第24回院展に「静坐」が初入選し、以後入選を重ね39年院友となった。戦後49年第34回院展で「賀寿」が奨励賞、翌50年第35回「泉庭」が日本美術院賞・大観賞を受賞。その後も51年第36回「茗讌」、60年第45回「清韻」が奨励賞となり、61年第46回「渡殿」が日本美術院賞・大観賞を受賞、同人に推挙される。この間59年には同じく院展の小谷津任牛らと藜会を結成。69年第54回院展に出品した「春山」が内閣総理大臣賞を受賞。日本画顔料の純粋な発色を生かした平明清澄な風景画の世界を繰り広げた。70年日本美術院評議員、73年理事となる。制作に傾注する一方で、36年帝国美術学校卒業と同時に同校助手となり、41年講師、51年武蔵野美術学校助教授を経て、43年武蔵野美術大学教授、84年同校名誉教授となり、69年より80年まで愛知県立芸術大学講師を務めるなど、長年にわたり後進の指導育成にも尽力。また宗教や哲学に造詣が深く、短歌や能、茶道もたしなみ、59年に歌集『山草集』(古今書院)、1989(平成元)年喜寿記念歌集『清明集』を出版、86年には宮中歌会始の儀に参列した。91年には日本橋三越他で、99年には練馬区立美術館・ふくやま美術館で回顧展が開催されている。

上村松篁

没年月日:2001/03/11

読み:うえむらしょうこう  花鳥画の第一人者として活躍した日本画家で文化勲章受章者の上村松篁は3月11日午前0時3分、心不全のため京都市内の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年11月4日、京都市中京区四条御幸町西入ルに、美人画で知られた女流日本画家、上村松園の長男として生まれる。本名信太郎。画家の母のもとで幼少より画に親しむ。動物好きで花や虫、鳥を好んで描き、その後も花鳥画への道を歩むことになるが、終生貫き通す格調の高さは母譲りのものであった。1915(大正4)年京都市立美術工芸学校絵画科に入学、都路華香、西村五雲らに学び、特待生となる。21年卒業後、京都市立絵画専門学校に入学し、国画創作協会の会員で同校の助教授だった入江波光よりリアリズムの洗礼を受ける。また入学と同時に西山翠嶂の画塾に入った。21年第3回帝展に「閑庭迎秋」が初入選、以後帝展、および青甲社と名乗るようになった翠嶂画塾の塾展である青甲社展に出品し、24年第5回帝展に克明なリアリズムの描写による「椿の図」を出品する。24年京都市立絵画専門学校を卒業後、同校研究科に進み、1928(昭和3)年第9回帝展で、古典的な画題をアレンジした「蓮池群鴦図」が特選を受賞した。30年研究科を修了し、京都市立美術工芸学校講師、36年には京都市立絵画専門学校助教授となる。この間33年帝展無鑑査となり、43年第6回新文展で委員をつとめ、また36年池田遥邨、徳岡神泉、山口華楊らと水明会を結成した。この時期、アルタミラの洞窟壁画や古代エジプトの浮彫など、美術史上の古典をふまえた動物画や人物画を試みている。戦後47年第3回日展に再び出品、審査員も務めるが、翌48年日本画の革新を目指して東京の山本丘人、吉岡堅二、京都の向井久万、奥村厚一らとともに日展を離れて創造美術を結成、世界性に立脚する日本画の創造を標榜する同団体において、抒情性よりも構成的な美を志向する花鳥画を生み出していく。49年京都市立美術専門学校教授となり、翌年より京都市立美術大学助教授を兼任、53年同大学教授となった。創造美術は51年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、以後同会に出品。56年第20回展「草月八月」、57年第21回展「桃実」などを出品し、58年第22回展出品作「星五位」により翌年芸術選奨文部大臣賞を受賞した。その後もインドや東南アジアでの熱帯花鳥写生で画嚢を肥やし、59年第23回「鷭」、60年第24回「熱帯睡蓮」、62年第26回「鳩の庭」、64年春季展「ハイビスカスとカーデナル」、65年第29回「鴛鴦」など、明るい色彩を用いた品格ある花鳥画を発表。66年第30回「樹下幽禽」により、翌67年日本芸術院賞を受賞した。68年京都市立美術大学を退官、同大名誉教授となる。同年皇居新宮殿に屏風「日本の花・日本の鳥」を描く。またこの年から翌年にかけて『サンデー毎日』に連載された井上靖の小説「額田女王」の挿絵を担当、70年近鉄奈良駅の歴史教室壁画「万葉の春」では大画面の歴史人物画に取り組んでいる。72年京都市文化功労者、73年京都府美術工芸功労者となる。74年新制作協会日本画部は同協会を離脱し創画会を結成、以後同会に出品する。81年日本芸術院会員、83年文化功労者となり、84年文化勲章を受章、同年には京都市名誉市民の称号も受けている。没後の2002(平成14)年には京都市美術館にて回顧展が開催された。作品集に『上村松篁写生集(花篇・鳥篇)』(中央公論美術出版 1973年)、素描集『上村松篁―わが身辺の鳥たち』(日本放送出版協会 1979年)、『上村松篁画集』(講談社 1981年)、現代日本画全集『上村松篁』(集英社 1982年)、『上村松篁画集』(求龍堂 1990年)、著書に『鳥語抄』(講談社 1985年)、『春花秋鳥』(日本経済新聞社 1986年)がある。長男の淳之も日本画家。

山岸純

没年月日:2000/12/17

読み:やまぎしじゅん  日本画家で日展常務理事の山岸純は12月17日午後11時48分、脳溢血のため京都市上京区の病院で死去した。享年70。1930(昭和5)年9月14日、京都市に生まれる。53年京都市立美術大学日本画科を卒業し、55年同校専攻科を修了、徳岡神泉に師事した。56年第8回京展「池」、57年第9回京展「村」がともに京都市長賞、58年第10回京展「河」は記念賞を受賞する。また55年第11回日展に「室戸」が初入選し、以後新日展で61年第4回「樹」、65年第8回「石段」がいずれも特選・白寿賞を受賞、66年第9回「晨」は菊華賞を受けた。68年以降たびたび審査員をつとめ、翌69年日展会員、74年評議員となる。75年第7回改組日展で「風聲」が文部大臣賞を受賞。77年朝日会館で個展を開催、また昭和世代日本画展(79年)、日本秀作美術展(80年)等のほか、遊星展をはじめとする各種のグループ展に出品、穏やかで静謐な風景作品を発表する。そのいっぽうで68年より京都市立芸術大学教授の講師をつとめ、助教授を経て75年教授となり、後進の指導に力を尽くした。1990(平成2)年に京都府文化賞功労賞に表彰され、92年に第23回日展出品作「樹歌」で第48回日本芸術院賞を受賞。93年日展理事、96年京都市文化功労者となり、同年京都市立芸術大学を定年退職して同校の名誉教授となる。翌年には名古屋芸術大学教授に就任。99年日本芸術院会員、2000年日展常務理事となる。

石川響

没年月日:2000/12/05

読み:いしかわきょう  日本画家で日展評議員を務めた石川響は12月5日午後3時31分、くも膜下出血のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年79。1921(大正10)年12月3日、千葉県長生郡長柄町に生まれる。本名宣俶(のりよし)。狩野芳崖筆「悲母観音図」(東京芸術大学美術館蔵)に感動して画家を志したという。1942(昭和17)年、東京美術学校図画師範科を卒業し、岩手県立黒沢尻中学校にて教鞭を執りながら日本画を描き、47年「悠遠」にて第3回日展に入選。50年には千葉県立長生高等学校を退職して画業に専念し、54年からは結城素明の紹介で加藤栄三に師事。66年「昼の月」にて第9回新日展特選・白寿賞を受賞し、67年の中央公論新人展、71年の第1回山種美術館賞展に推薦出品した。73年「原野」にて再び第5回改組日展特選を受賞。76年からはたびたび日展審査員を務め、77年から日展会員、1990(平成2)年から日展評議員を務めた。98年の第30回改組日展では「夕山河」で内閣総理大臣賞を受賞、2000年には千葉県芸術文化功労賞および勲四等瑞宝章が授与された。この間、安房小湊誕生寺に88年、94年、96年の三度にわたって仏伝壁画・天井画を奉納する一方、数度にわたって、インド・東南アジア・韓国・中国等へ仏教遺跡・宗教文化の源流を訪ねる旅行をし、90年に日本橋高島屋にて個展「生生の旅」を開催、95年には「素晴らしき地球の旅-人間仏陀の生涯-」(NHK衛生第2放送)にインド各地をスケッチする旅人として出演、また『ニルバーナ・ロードの風景-釈尊最後の旅-』(中村元編著、東京書籍 88年)や『インド四季暦春・夏そして雨季-』・『インド四季暦-秋・冬そして寒季-』(ともに阿部慈園共著、東京書籍 92・93年)、『インド花巡礼-ブッダの道をたどって-』(中村元・三友量順共著、春秋社 96年)、『心のともしびを求めて-仏教文化へのいざない-』(阿部慈園共著、春秋社 98年)といった画文集を出版した。90年には東方研究会・インド大使館より東方学術賞を授与されている。

歌川豊國

没年月日:2000/11/13

読み:うたがわとよくに  日本画家の歌川豊國は11月13日午後、大阪府東大阪市の自宅で死亡しているのを知人によって発見された。享年97、急性心疾患とみられる。1903(明治36)年2月3日、東京都麻布区笄町で浮世絵師二代歌川国鶴の次男として生まれ、国春と名付けられる。母向山ゆた(号玉峯)も四条派の画家。幼いころより父から浮世絵・美人画の手ほどきを受け、親に従って東京から大阪、堺、京都と転居を重ねる。尋常高等小学校時代を過ごした京都では、二条柳馬場に住み、中井汲泉からも絵を学んだという。1920(大正9)年に父が没すると叔父の歌川国松に引き取られて大阪に移るが、やがて叔父の弟子に連れられて東京に出、そこで写真背景画を描くようになる。23年の関東大震災を期に大阪に転居し、写真背景画で独立自営をはじめる。終戦直前直後は物資不足もあって画業を中断し、写真機材製造輸出会社を経営したりした。1967(昭和42)年ころに画業復帰を決意し、72年ころから石切神社に勤務しながら日本画家中村貞以のもとで修行を積み、父や叔父の遺志を継いで六代豊国を名乗るようになる(76年、戸籍上でも「国春」から「豊国」へと改名し、91年には「豊國」と改めた)。「最後の浮世絵師」と呼ばれて東京日本橋三越をはじめ数多くの百貨店で個展を開催、76年文化功労部門で大阪市より市民表彰を受けた。画業に専念させるという父親の意向で尋常高等小学校しか卒業しなかったが、晩年になって自身の経験と浮世絵の歴史を書きのこすため一念発起、1996(平成8)年に93歳で大阪府立桃谷高等学校定時制夜間部に入学、99年には近畿大学法学部法律学科二部に合格し、「現役最高齢の大学生」として話題になった。没後、次男の博三が七代豊國を継いだ。

渡辺学

没年月日:2000/11/11

読み:わたなべがく  日本画家で創画会会員の渡辺学は11月11日午前0時、急性虚血性心疾患のため千葉県銚子市の自宅で死去した。享年84。1916(大正5)年1月26日銚子に生まれる。本名冨雄。1936(昭和11)年東京美術学校日本画科に入学、結城素明、川崎小虎らに学び、41年卒業する。49年第2回創造美術展に「枝庭」が初入選、同会が51年新制作派協会に合流して新制作協会日本画部となったのち、57年第21回新制作展「網」「廃船」、59年第23回展「海苔とる浜」がともに新作家賞を受賞、60年第24回展に「加工場の午後」等を出品し新制作協会会員となる。また日本国際美術展(61年より67年まで)、現代日本美術展(62年より68年まで)にも連続出品、62年第5回現代日本美術展に「魚・人」で優秀賞を受賞する。65年マヤ遺跡研究のためメキシコに滞在。68年松屋で「朝倉摂・渡辺学二人展」を開催。71年新鋭選抜展で優秀賞受賞、同年東京造形大学講師となる。74年新制作協会日本画部が同会を離脱し結成した創画会にも出品、最後まで生地の銚子に腰を据え、そこに生きる漁師やその家族を題材に骨太な作風を貫いた。85年には創画会が次第に初期の目標を見失っていくことの危機感から結成された地の会に参加。87年に横浜高島屋で個展を行い、没後の2001(平成13)年には佐倉市立美術館で「上野泰郎・渡辺学展」が開催されている。

関主税

没年月日:2000/11/01

読み:せきちから  日本画家で日展理事長の関主税は11月1日午前5時14分、肺がんのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年81。1919(大正8)年1月4日、千葉県長生郡に生まれる。1941(昭和16)年東京美術学校日本画科を卒業後、応召。45年復員し、48年結城素明、のち素明の紹介で中村岳陵に師事した。48年第33回院展に「植生の風景」が初入選するが、翌年第34回展に「南總の夕べ」を出品後、師岳陵に従い院展を脱退し日展に移籍。同年の第5回日展に「道廟の朝」が入選したのち、54年同第10回「粟生野」、翌55年第11回「訪春」がともに特選となった。次いで58年新日展委員、68年同評議員となり、68年第11回新日展「山路」は内閣総理大臣賞を受賞する。潤んだ大気に包まれた詩情豊かな風景画に秀作を生み、その後も71年第3回改組日展「鳥」、73年第5回「蒼」、77年第9回「潤声」、80年第12回「星辰」、81年第13回「信濃残雪」等を発表。82年には毎日新聞社よりリトグラフ集『信濃春秋』を刊行する。85年第17回日展「野」により、翌86年日本芸術院賞を受賞した。1992(平成4)年日本芸術院会員となる。94年勲三等瑞宝章を受章。99年より日展理事長を務める。日展を主な活躍の場とする一方で、54年加山又造、濱田台兒、松尾敏男らと不同社を結成、56年まで銀座松坂屋で展覧会を開催した。

小倉遊亀

没年月日:2000/07/23

読み:おぐらゆき  日本画家で院展同人の小倉遊亀は7月23日午後10時11分、急性呼吸不全のため東京都中央区の病院で死去した。享年105。1895(明治28)年3月1日、滋賀県大津市丸屋町(現 大津市中央1丁目)に、溝上巳之助、朝枝の長女として生まれる。本名同じ。奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)国語漢文部に学びながら、図画の科目を履修。そこで横山常五郎に絵を学び、また歴史研究者の水木要太郎により古美術への関心を啓発される。1917(大正6)年同校を総代で卒業。その後京都市立第三高等小学校、19年名古屋市の椙山高等女学校、20年横浜のミッションスクール、捜真女学校(36年まで)等で教鞭をとりながら絵を独学する。20年大磯に住む安田靫彦に入門し、22年日本美術院第8回試作展に「静物」が入選。25年第12回院展に出品するも落選した「童女入浴」を、26年靫彦のすすめで小堀鞆音社中の革丙会第1回展に出品、小林古径、速水御舟らの注目を受ける。26年第13回院展に「胡瓜」が初入選。この頃一時、“游亀”の号を用いている。作風としては、細密描写による写実的な姿勢がうかがえるものが多い。1928(昭和3)年第15回院展に草花を写生する少女たちを描いた「首花」を出品、院友となった。次いで29年第16回「故郷の人達」等を経て、32年女性として初の日本美術院同人となり、第19回展に「苺」を出品。一方、35年より熱海長畑山の修養道場、報恩会主宰の小林法運のもとへ通い始め、38年法運没後、その衣鉢を継いだ武田法得に師事する。また38年山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚し、神奈川県大船町の鉄樹庵に住んだ。44年鉄樹没後は京都大徳寺管長・太田晦厳に師事したが、禅の修養は作画にも大きな影響を与えた。47年には報恩会理事、50年同監事となっている。この間35年より39年まで東京府女子師範学校で教え、36年第1回改組帝展「静思」、38年第25回院展「浴女 その一」、39年第26回「浴女 その二」、42年第29回「夏の客」等を発表。日常生活のなかの女性を題材に、知的で爽快な印象を与える画面を生み出す。戦後は47年第32回院展に故郷近江の民話を題材とした「磨針峠」を出品したのち、51年第36回「娘」、52年第37回「美しき朝」と、現代的女性を明るい色彩と自由で力強いフォルムの中に描き出した。54年前年の第38回院展出品作「O夫人坐像」により第4回上村松園賞を受賞、55年には前年の第39回院展「裸婦」により芸能選奨美術部門文部大臣賞を受賞。次いで56年第41回院展「小女」により翌年第8回毎日美術賞、61年第46回院展「母子」により62年日本芸術院賞を受賞した。裸婦のシリーズとともに子供や孫といった家族を描いた作品は多くの人々に親しまれたが、他にも67年第52回「菩薩」、73年第68回「天武天皇」などの仏像・神像や、静物画・風景画にも取り組んでいる。58年日本美術院評議員、78年同理事、また76年日本芸術院会員、78年文化功労者となり、75年神奈川文化賞、79年滋賀県文化賞、80年文化勲章を受ける。1990(平成2)年日本美術院理事長に就任、96年より名誉理事長となる。92年頃より糖尿病のためしばらく絵を描くのを控え、書を試みるが、97年から年に数点のペースで再び作画活動を開始、100歳を越えてもなお制作にたずさわる姿は話題となった。回顧展は滋賀県立近代美術館をはじめとする美術館・デパートで度々開かれ、海外でも99年にパリの三越エトワールを会場に行われた。没後も2002年に「小倉遊亀展」が東京国立近代美術館・滋賀県立近代美術館で開催されている。著書に『画室の中から』(中央公論美術出版 79年)、『画室のうちそと』(読売新聞社 84年)がある。

徳力富吉郎

没年月日:2000/07/01

読み:とくりきとみきちろう  版画家で西本願寺絵所12代目の徳力富吉郎は7月1日午後7時50分、老衰のため京都市左京区の病院で死去した。享年98。1902(明治35)年3月22日、京都市の西本願寺絵所を代々務める徳力家に生まれる。父が森寛斎の門弟であった関係で、幼少時より父の兄弟子にあたる山元春挙に絵の手ほどきを受ける。1920(大正9)年より京都市立絵画専門学校に日本画を学び、入江波光の指導を受けた。在学中の22年、第4回帝展に「花鳥」が入選。翌年の卒業後は土田麦僊の山南塾に入る。その一方、鹿子木孟郎の下鴨画塾にも通いデッサンを学んでいる。1927(昭和2)年第6回国画創作協会展に洋画的写実を取り入れた「人形」「人形とレモン」が初入選し、後者で樗牛賞を受賞。第7回展には日本画的な装飾性を生かした「初冬」「茄子」が入選し、国画奨学金を受ける。28年に国画創作協会が解散すると新樹社の創立に参加。また平塚運一の版画講習会に参加したのをきっかけに京都の麻田辨自、浅野竹二、東京の棟方志功、下山木鉢郎らとグループ「版」を結成し、同人誌『版』を創刊する。新樹社でも日本画とともに版画を出品。29年の第10回帝展に版画「月の出」が入選し、30年から33年まで春陽会にも版画を出品する。31年には麻田辨自、浅野竹二らと版画の大衆化を目指す版画誌『大衆版画』を発刊、二号で終刊となるが、その姿勢は以後も貫かれることになる。戦後は46年に版画製作所を興し、徒弟を養成して産業的版画の量産を始める。51年、京都版画協会を結成。版画工房を主宰。72年に薬師寺吉祥天像の複製版画、また85年に西本願寺西山別院の襖絵を制作している。80年には京都市文化功労者、1992(平成4)年に京都府文化賞特別功労賞を、96年日本浮世絵協会より浮世絵奨励賞を受賞。91年には版画普及のため京都版画館を設立。主著・画集に『版画随筆』(三彩社 67年)、『日本の版画』(河原書店 68年)、『徳力富吉郎画集』(安部出版 84年)、『花竹庵の窓から』(京都新聞社 88年)、『もくはん 徳力富吉郎自選版画集』(求龍堂 93年)がある。

小野具定

没年月日:2000/05/17

読み:おのぐてい  日本画家で創画会会員の小野具定は5月17日、心不全のため千葉県柏市の病院で死去した。享年87。1914(大正3)年2月16日山口県熊毛郡田布施村に生まれる。本名具定(ともさだ)。旧制中学時代には個人指導により油絵を学ぶ。1931(昭和6)年上京し、川端画学校で初め洋画を学んだのち、33年日本画に転向する。34年東京美術学校日本画科に入学、39年卒業した。この間、38年大日美術院第2回展に「小春」が入選している。卒業後は白木屋百貨店の美術部に勤めるが、徴兵検査を機に退社。40年東京青山の近衛歩兵第4連隊に入隊し、3年間そこへ勤務したのち除隊となって、43年海外報道班員としてラバウル航空隊司令部に配属、南方基地をまわって報道用スケッチを描いた。帰国後の44年、海軍報道部の要請により作戦記録画「第二ブーゲンビル島沖航空戦」を描き、第8回海洋美術展に出品。終戦後は東京や野田、柏で美術の教師を勤めながら創作活動を続ける。47年児玉希望に入門し、同年第3回日展に「木枯の頃」が入選、49年第5回日展に「蚊帳」が再入選。しかしその後は3年続けて落選する。54年新制作協会展に「沼」が入選するが、これを機に希望門下を離れ、以降は新制作協会展に出品するようになる。59年教員を辞め、画業に専念する。61年第25回新制作展より64年第28回展まで4年連続新作家賞を受賞、65年同協会会員となった。67年第31回新制作展「北辺Ⅰ」は文部省買上げとなる。74年創画会結成以後は会員として同会に出品、79年第6回展「海と霧」、80年第7回展「冬ざれ」、83年第10回展「涸れた海」等を発表する。また日本国際美術展、現代日本美術展にも出品している。房総半島沿岸の廃船や廃屋といったモティーフにはじまり、東北、北海道、山陰と北辺の漁村を題材に、白と黒のコントラストを基調とした原風景的イメージの世界を展開。晩年には「記憶の風景」シリーズを手がけ、1999(平成11)年にはそのうちの一つである「2・26の午後」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。95年に練馬区立美術館・下関市立美術館で「刻まれた記憶 小野具定展」、没した翌年の2001年には柏市民ギャラリーで「辺境を描く 小野具定展」が開かれた。

三井淳生

没年月日:2000/02/16

読み:みついあつお  日本画家で仏教版画研究家の三井淳生は2月16日午前8時47分、急性心不全のため栃木県塩原町の病院で死去した。享年70。1929(昭和4)年12月18日、洋画家三井文二の長男として京都市に生まれる。はじめ篆刻をやっていたが、50年より河北倫明の指導を受け、伝統的創作版画の制作と日本版画の研究に励む。61年の歌舞伎訪ソに際し中村歌右衛門の舞台姿を捉えた木版画「八つ橋」を制作。76年、東京湯島の霊雲寺に日本仏教版画館を設立し、その館長に就任した。79年の白圭会展(日本橋三越本店)より、日本画を発表しはじめ、1992(平成4)年、初の回顧展を池袋西武アートフォーラムで開催した。簡素な背景に身近な植物などを厳格な線で描く、清潔で気品に満ちた画風で知られた。著作・画集等の出版物に『中村歌右衛門舞台姿』(京都書院 81年)、『奥村土牛筆版画』(講談社 80年)、「彫版雑稿」(『文学』49-12号 81年)、『一字一仏般若心経』(講談社 82年)、「日本の仏教版画」(『季刊仏画』1〜3号 83年)、「仏教版画の摺りと彫り」(『仏教版画』84年)、『日本の佛教版畫-祈りと護りの世界-』(岩崎美術社 86年)、『東寺の仏教版画』(東寺派出版 91年)、『芙蓉』(リトグラフ、NHKサービスセンター 92年)、『三井淳生日本画作品集-佛と花と-』(駸々堂 94年)、『聖観音』(木版手彩色、NHKサービスセンター 95年)、『ナリヤラン』(リトグラフ、NHKサービスセンター 97年)などがある。

西村昭二郎

没年月日:1999/11/25

読み:にしむらしょうじろう  日本画家の西村昭二郎は11月25日、肝臓がんのため千葉県市川市の病院で死去した。享年72。1927(昭和2)年8月23日京都市で生まれる。44年京都市立美術工芸学校絵画科を修了し東京美術学校日本画科に入学。同校を卒業した49年に第2回創造美術展に初入選、以後新制作展、創画展と出品を続ける。53年第17回新制作展を皮切りに57、59、60年と新作家賞を受賞して61年新制作協会日本画部会員となる。67年法隆寺金堂壁画模写に従事。82年から91年まで筑波大学芸術学系(日本画)教授をつとめる。花鳥画を得意とし、繊細な描写力を基礎に清冽な色彩感あふれる画風に特色があり、安定した制作ぶりを示すと同時に、個展においては77年屏風作品展(銀座松屋)、80年花鳥12ヶ月展(銀座・内山画廊)など意欲的な発表を行った。77年画集『西村昭二郎集』(ふたば書房)刊行、83年には「雪はな鴛鴦」(前年第9回創画展出品)が文化庁買上げとなっている。 

岩橋英遠

没年月日:1999/07/12

読み:いわはしえいえん  日本画家で、東京芸術大学名誉教授・日本美術院常務理事の岩橋英遠は7月12日午前7時31分、肺炎のため神奈川県相模原市の病院で死去した。享年96。1903 (明治36)年1月12日、北海道空知郡江部乙村(現滝川市)の屯田兵の家に生まれる。本名英遠(ひでとお)。初め農業に従事しながら油絵を描くが、24(大正13)年上京し、山内多門に師事する。塾展の若葉会に毎回出品し、32 (昭和7)年多門没後は、青龍展や34年吉岡堅二、福田豊四郎らの結成になる新日本画研究会に出品する。34年第21回院展に「新宿うら」が初入選、36年再び入選し、37年日本美術院院友となる。36年日本美術院も参加しておこなわれた改組帝展にも「店頭囀声」を出品している。38年新日本画研究会が新美術人協会として発展的解消をとげたのを機に同会を離れ、馬場和夫、船田玉樹らと歴程美術協会を結成、抽象的傾向を示して新たな日本画の可能性を模索した。一方37年安田靫彦を訪ねて以後しばしばその指導を受け、45年終戦後、正式に入門する。49年第34回院展で「砂丘」が奨励賞を受賞し、続いて50年第35回「明治」、51年第36回「眠」が連続して日本美術院賞を受賞、53年に同人に推挙された。また53年第38回院展に、それぞれ異なる石に雪と雨、月、水を配した四部作「庭石」を出品、機知的な着想で称賛を集め、翌年同作品により芸術選奨文部大臣賞を受賞する。59年第44回院展「蝕」は文部大臣賞を受賞、61年日本美術院評議員となった。この間、58年東京芸術大学講師、65年同助教授、68年教授となり、70年の退官まで後進の指導にあたる。一方、67年法隆寺金堂壁画再現模写事業に参加し、72年には前年の第56回院展出品作「鳴門」により日本芸術院賞を受賞した。79年には前年の「岩橋英遠展」(北海道立近代美術館)により毎日芸術賞を受賞、また78年日本美術院理事、81年日本芸術院会員となる。北海道の四季を描いた絵巻「道産子追憶之巻」(78年)や79年第64回院展「彩雲」、80年第65回院展「北の海(陽)(氷)」など、大自然に正面から取り組んだ雄大かつ神秘的な作風を展開した。86年に東京芸術大学名誉教授、89(平成元)年に文化功労者となり、94年に文化勲章を受章。回顧展は90年「岩橋英遠展J(Bunkamuraザ・ミュージアム)、93年「画業70年岩橋英遠」(日本橋三越)等が開催されている。

正井和行

没年月日:1999/05/12

読み:まさいかずゆき  日本画家の正井和行は5月12日、脳こうそくのため京都市上京区の病院で死去した。享年88。1910 (明治43)年11月29日兵庫県明石市の商家に生まれる。本名幸蔵。隣家が美人画家、寺島紫明の実家だったこともあり、小学生の頃から絵に関心を寄せる。関西学院中学部を経て28(昭和3)年京都市立絵画専門学校に入学、同校では福田平八郎に師事する。33年研究科に進み、翌年第15回帝展に「淡路島餞暑」が初入選となるが、37年胸を患い療養のため大分に転居、翌年京都市立専門学校研究科を病臥のまま修了。大分では同地出身で生家にア卜リエを構えた師、福田平八郎のもとへ通う。戦後しばらくは大分県美術協会で活躍。50年より再び京都で本格的に活動を再開、52年第8回日展に「陶瓷」で入選を果たす。翌年福田平八郎の勧めもあり池田遥郎の主宰する青塔社に入塾、遥邨に師事。56年、第6回関西総合展で「エトルスクの土器」が南海賞を受賞。60年代後半より船の残骸や漂着物といった朽ちゆく造形をモティーフに展開、沈んだ色調のなかにうかぶ内省的風景画の世界を確立。72年改組第4回日展で「沢渡」、82年改組第14回日展で「補陀落の海」が特選となり、85年日展会員となる。87年京都府立文化芸術会館で京都府企画展シリーズによる回顧展開催。89(平成元)年京都市芸術功労賞、翌年京都府文化賞功労賞を受賞。95年大分県立芸術会館において回顧展「正井和行―静誼のなかの心象の世界」が開催された。 

東山魁夷

没年月日:1999/05/06

読み:ひがしやまかいい  日本芸術院会員、文化勲章受章者日本画家東山魁夷は、5月6日午後8時、老衰のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年90。1908(明治41)年7月8日、横浜に生まれる。本名新吉。11年父が船具商鈴木商店横浜支店長を退職し、神戸に移住したのに伴い転居。兵庫県立第二神戸中学校を経て26(大正15)年東京美術学校日本画科に入学。小堀鞆音、川合玉堂、結城素明らに師事する。同級生には橋本明治、加藤栄三、山田申吾らがある。在学中の29(昭和4)年第10回帝展に「山国の秋」で初入選。翌年第11回帝展に「夏日」で入選し、以後、官展に出品を続ける。在学中、実家のあった神戸に隠棲していた村上華岳の人と作品に惹かれる。31年、東京美術学校日本画科を卒業して同研究科に進学。この頃からドイツ留学を志し、翌年からドイツ語を学ぶ。33年東京美術学校研究科を修了し、同年秋よりベルリンに滞在。34年ベルリン大学哲学科美術史部に入学し、ドイツ・イタリア中世からルネサンスの美術史およびキュンメル博士による日本美術史の講座を聴講する。35年、父危篤の報を受け、1年間残っている留学を断念して帰国。36年、帝展に出品するが落選。同年の第1回新文展に「高原秋色」で入選し、以後同展に出品を続ける。39年第1回日本画院展に「冬日(三部作)」を出品して日本画院賞第一席を受賞。40、41年と同展で3年連続同賞を受賞する。この間の40年11月日本画家川崎小虎の長女すみと結婚。43年北京にいる友人の勧めにより奉天、承徳を経て北京へ旅行し、京城を経由して帰国する。44年から45年まで山梨県、岐阜県、長野県などに疎開。45年末から千葉県市川市に居を定め、46年の第1回日展に出品するが落選し、同年の第2回日展に「水辺放牧」で入選を果たす。47年第2回日展に「残照」を出品して特選となる。この作品の制作を契機として風景画に専念することを決意。50年第6回日展に出品した「道」により、画壇における地位を確立するとともに、社会的知名度も高まった。55年第11回日展に「光昏」を出品し、この作品により翌年第12回日本芸術院賞を受賞。59年宮内庁から東宮御所の壁画制作を依頼され翌年「日月四季図」を完成。62年4月から7月にかけてデンマーク、スウェーデン、ノルウェ一、フィンランドを写生旅行し、北欧の風景に自己の根源に響き合うものを見出す。63年、杉山寧、高山辰雄、西山英雄、山本丘人とともに五山会を設立する。65年日本芸術院会員となる。68年皇居新宮殿の大壁画「朝明けの潮」を完成。翌年この制作と東山魁夷展の業績により第10回毎日芸術大賞を受賞し、この受賞を記念して「東山魁夷展」(毎日新聞社主催、大丸神戸店、大丸大阪店)が開催される。同年春から秋にかけてドイツ、オース卜リアを旅行。同年11月文化勲章を受章し、また、文化功労者として顕彰される。71年に唐招提寺障壁画制作を受諾し、唐招提寺と鑑真についての研究を始め、山と海を主題に選んで「山雲」「涛声」を75年に完成。同年、唐招提寺障壁画習作展をパリ吉井画廊、ドイツ・ケルン日本文化開館で開催のため渡欧。76年中国を訪れ、北京、西安、南京、桂州などを歴訪する。この旅以降、水墨表現が試みられ、その成果が青を基調とする彩色画にも認められるようになる。70年代後半からは、大規模な展覧会が相次ぎ、78年千葉県立美術館で「東山魁夷展」、79年東ベルリン国立美術館およびライプチヒ造形美術館で東山魁夷展、81年東京国立近代美術館で「東山魁夷展」、83年西ドイツのミュンヘン・フェルカークンデ美術館、デュッセルドルフ・クンストハレ美術館、ブレーメン・ユーバーゼー美術館を東山魁夷展が巡回、88年代表作80点による「東山魁夷展」が京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立近代美術館を巡回、89(平成元)年西ベルリン、ハンブルグ、ウィーンで東山魁夷展が開催されている。93年「東山魁夷―青の世界―展」が北海道立近代美術館、名古屋松坂屋美術館、姫路市立美術館で開催され、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。その画業は、初期から人のいない風景画を中心に展開され、対象の再現描写を離れて、画面を独立した平面として形や色彩で構成し、心象を表現する姿勢に貫かれていた。学生時代から写生に訪れた長野県に自作、画集など約650点を寄贈し、これを受けて、90年、長野市城山公園に長野県信濃美術館東山魁夷館が開館した。文章もよくし、著書に『東山魁夷画文集』全10巻(新潮社1978―79年)などがある。  

安西啓明

没年月日:1999/01/11

読み:あんざいけいめい  日本画家の安西啓明は1月11日、老衰のため東京都大田区の病院で死去した。享年93。1905 (明治38)年4月15日、東京府八王子に生まれる。本名正男。1920(大正9)年荒木寛畝門下の広瀬東畝に師事したのち、21年川端龍子に入門。26年第13回再興院展に「学校」が初入選するが、29(昭和4)年龍子が青龍社を結成するに及んでこれに参加、同年の第1回展に「アパート」「本門寺風景」を出品した。以後同展で36年第8回「集鹿」がY氏賞、39年第11回「埴輪」が奨励賞、40年第12回「游亀」が蒼穹賞を受賞し、30年青龍社社子、翌年社友、42年社人となる。また龍子の画塾御形塾の塾頭もつとめた。45年6月満州(中国東北部)に開校した新京芸術院の教授として同地に渡るが、終戦とともに帰国。48年より全国の建築をテーマにした風景連作を青龍展に発表、60年からは急速な勢いで変貌していく東京の街や建物に思いを寄せ、連作「東京シリーズ」に着手する。またその一方で坂口安吾「信長」(52年)、室生犀星「杏っ子」(56年)、庄野潤三「夕べの雲」(64年)といった新関連載小説の挿絵を描く。57年以後毎年個展を開き、61年には自ら主宰する青明会の第一回展を開催。同66年龍子死去に伴い青龍社は解散、以後、無所属で活動する。日本美術家連盟理事もつとめる。98(平成10)年3月大田区ほかの主催で「安西啓明日本画展」(於太聞区民プラザ)を開催。

to page top