衛藤駿
慶應義塾大学名誉教授で、茨城県立歴史館長、川崎市民ミュージアム館長をつとめた美術史家の衛藤駿は8月1日午前0時24分、いん頭ガンのため東京都目黒区中根1-3-15-301の自宅で死去した。享年66。昭和5(1930)年12月3日、東京千駄ヶ谷に生まれる。番長小学校卒業後、慶應義塾大学附属普通部に入学するが、戦災にあい、戦後、父の郷里であった大分県に移る。同24年大分県日出高等学校を卒業し、同年慶應大学医学部に入学。在学中、医学部から文学部へ移り、同28年同大学文学部を卒業する。同31年大和文華館研究員となり、同39年同館学芸課長となった。同40年9月米国ロックフェラー三世財団による在欧米東洋美術調査・研究のため欧米に留学し翌41年3月に帰国する。同46年3月、大和文華館を退職して、同年4月に母校慶應大学工学部助教授となり、同52年同大学理工学部教授となる。この間、同37年奈良女子大学非常勤講師として東洋美術史を、同43年には京都市立芸術大学非常勤講師として中国絵画論を講じ、同47年には武蔵工業大学非常勤講師として美術を講じた。同53年成城大学文芸学部大学院非常勤講師、同54年東京大学非常勤講師としてアジアの美術を講じた。同57年から同63年9月まで慶應大学日吉情報センター所長を、同63年からは慶應義塾大学中等部長を兼務、平成2年(1990)10月より慶應義塾大学高等学校長を兼務した。同8年慶應大学を停年退職し、同大学名誉教授の称号を与えられた。同年茨城県歴史館館長となり、翌9年に川崎市民ミュージアム館長となった。主要著書として『相阿弥・祥啓』(集英社 1979年)、『禅と水墨』(共著、講談社、1982年)、『雪村周継全画集』(編著、講談社、1982年)、『解釈の冒険』(共著、NTT出版、1988年)、『美術における右と左』(共著、中央大学出版部、1992年)などがある。
出 典:『日本美術年鑑』平成10年版(398頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)
例)「衛藤駿」『日本美術年鑑』平成10年版(398頁)
例)「衛藤駿 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10697.html(閲覧日 2024-12-05)
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