本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





荻野仲三郎

没年月日:1947/05/21

元国宝保存会委員荻野仲三郎は5月21日脳溢血のため死去した。享年78。明治3年三重県に生れ、同30年東大を卒業した。国宝保存会委員、重要美術品等調査委員会委員、史蹟名勝天然紀念物調査委員会委員等を歴任し、古美術保存事業に尽力した。又陽明文庫の主管として管理の任にあたつた。

杉田益次郎

没年月日:1947/01/22

西洋美術史家杉田益次郎は、1月22日大田区の自宅に於て没した。享年39。明治40年東京に生れ、上智大学に学んだ。美術研究所に勤務、その後ニユーヨーク、メトロポリタン美術館東洋部に暫く在勤、病を得て帰国した。西洋美術史の研究を続け、その訳書に「レオナルド・ダ・ヴインチの絵画論」ヴエルフリンの「イタリヤとドイツ」等がある。

黒板勝美

没年月日:1946/12/21

東京帝国大学名誉教授、文学博士黒板勝美は、12月21日老衰のため渋谷区栄通の自宅で逝去した。享年73。明治7年長野県に生る。東京文科大学史学科を卒業、古文書学の研究によつて文学博士の学位を受く。史料編纂官、東京帝国大学文学部教授(国史学科)となり、昭和10年停年により退官、名誉教授となつた。傍ら国宝保存会、史蹟名勝天然紀念物調査会、重要美術品等調査委員会、法隆寺保存協議会、御陵墓調査委員会等の委員となる。この間欧米、東亜諸国に遊学した。晩年日本古文化研究所を創立、これを主宰し、藤原宮阯の調査に業績を挙げた。主なる著書に「国史の研究」「欧米文明記」「義経記」等があり、著述論文等の全集に「虚心文集」がある。又国史大系を編輯し、国史の古典的記録を校訂出版した。

井上和雄

没年月日:1946/06/20

浮世絵研究家として知られていた井上和雄は6月20日藤沢市の自宅で逝去した。享年58。号を雨石といい、明治22年東京で生れ、浮世絵・明治文化史・古典籍研究等に造詣が深く、「慶長以来書賈集覧」「宝船集」「浮世絵師伝」等の著があり、「歌麿浮世絵集」「浮世絵歌舞伎画集」「国芳版画傑作集」「続浮世絵大家集成」等の画集を編集した。

太田正雄

没年月日:1945/10/15

木下杢太郎のペンネームを以て知られた東京帝国大学医学部教授太田正雄は10月15日胃癌のため東大病院に於て没した。享年61。明治18年静岡県に生れ、同31年上京独乙協会中学校に入学し、傍ら三宅克己に学んだ。第一高等学校を終え、独逸文学科を志望したが、家人の許すところとならず、東京帝国大学医学部に入学した。此頃より黒田清輝に師事し、又与謝野寛の新詩社に入り、或は北原白秋等とパンの会を興し、詩、戯曲等を創作し、又南蛮趣味に感興をひかれるに至つた。明治44年業を終え、東大医学部に勤務しつつ多くの創作、翻訳を遂げた。大正5年満洲に赴任して以来、中国芸術に興味を覚え、雲崗、大同、太原、洛陽等の古蹟を巡歴した。大正10年専門の皮膚科学研究のため渡欧、同13年迄主として巴里に留まつて欧洲芸術を研究し、又吉利支丹関係の文献、遺品を渉猟し、独逸、伊太利、埃及等を巡遊した。大正13年公立愛知医科大学教授次で15年東北帝国大学教授を歴任し、昭和12年東京帝国大学教授となり、逝去に至る迄その職に在つた。その文芸、美術の方面に遺した業績は極めて多方面にわたるが、翻訳による印象派以後の西洋美術の紹介、或は日本初期洋風画への文献的貢献は著しい。この特異の芸術愛好家を失つたことは惜しまれる。略年譜明治18年 8月1日静岡県にて太田惣五郎三男として生る明治31年 上京し独逸協会中学校に入る、三宅克己に絵画を学ぶ。明治36年 第一高等学校第三部に入学明治39年 東京帝国大学医科入学、与謝野寛新詩社に入り新体詩を創りはじむ、独逸文芸及美術関係書を読む、森鴎外の知遇を受け、又黒田清輝に絵を学ぶ明治41年 新詩社脱退、北原白秋、長田秀雄、吉井勇、石井柏亭等とパンの会を起す、「スバル」「方寸」等に寄稿す、「きしのあかしや」のペンネームにて作詩明治42年 「屋上庭園」創刊、白秋と共に頽唐派詩人の双璧をなす、北原、長田、吉井、平野の同志と長崎、島原方面へ旅行、南蛮趣味へ傾倒す、この頃より木下杢太郎のペンネームを用い始む明治44年 東京帝大医科を卒業、同大学衛生学教室研究生となる。明治45年 同大学皮膚科副手を嘱託さる、第一戯曲集「和泉屋染物店」東雲堂より出版大正3年 「南蛮寺門前」(戯曲集)春陽堂より出版大正4年 「唐草草紙」(小説集)正雄堂より出版、「穀倉」(現代名作集16)鈴木三重吉方より出版大正5年 南満洲鉄道会社南満医学堂教授として赴任、「印象派以後」(芸術論集)日本美術院より出版大正6年 建築家河合浩蔵娘正子と結婚大正8年 「食後の唄」(詩集)アララギ発行所より出版、リヒアルト・ムウテル「十九世紀仏国絵画史」(翻訳)を日本美術院より出版大正9年 7月木村荘八と朝鮮、北京の古蹟を廻り、9月雲崗、大同石仏寺に17日間参籠、南満医学堂教授を辞し、10月以後太原、洛陽、漢口、南京に遊ぶ大正10年 皮膚科学研究のためアメリカを経由欧州に赴く、専ら巴里に在つて研究、其間独乙、伊太利、エジプト西欧に遊ぶ、「地下一尺集」(芸術評論集)叢文閣より出版、「支那伝説集」精華書院より出版、「空地裏の殺人」(現代劇叢書4)叢文閣より出版大正11年 「癜風菌の研究」により医学博士となる、「大同石仏寺」木村荘八共著として日本美術院より出版大正13年 9月帰朝、公立愛知医科大学教授となる大正15年 東北帝国大学医学部教授に任ぜらる。「厥後集」(小説集)東光堂より出版、「支那南北記」改造社より出版昭和4年 「えすぱにや・ぽるつがる記」岩波書店より出版昭和5年 「木下杢太郎詩集」第一書房より出版、12月シヤム、バンコツクに開かれた極東熱帯病学会に出席す昭和6年 フイリツピン経由3月帰朝、東北帝大附属病院長、東北帝大評議員となる、「ルイス・フロイス一五九一・一五九二年日本書翰」第一書房より出版昭和9年 「雪櫚集」書物展望社より出版昭和11年 「芸林間歩」岩波書店より出版昭和12年 東京帝国大学医学部教授に任ぜらる昭和13年 「大同石仏寺」座右宝刊行会より出版昭和14年 「其国其俗記」岩波書店より出版、6月北支衛生状況視察を命ぜられ、大同に再遊す昭和16年 第1回交換教授として仏印に出張、安南の文化について多く学ぶ、仏国よりレジヨン・ドヌール オフイシエ勲章を受く昭和17年 「木下杢太郎選集」中央公論社より出版昭和18年 南京の医学会に赴く昭和19年 此年夏以後癌に犯されるを気付かず、空襲中の東京に在つて勤務を続く昭和20年 6月病床に臥す、「葱南雑稿」を書き始む、10月15日朝東大病院柿沼内科に於て逝去

田中喜作

没年月日:1945/07/01

東京美術学校教授、美術研究所嘱託田中喜作は山梨県に疎開中逝去した。享年61。明治18年京都下京に生れ、36年京都市立美術工芸学校に入学、38年同校退学後関西美術院に学んだが、41年同院を退くとともに渡欧、パリでアカデミー・ジユリアンに入学した。42年帰朝後は美術史ことに近世日本絵画の研究に入り、浮世絵の研究で知られた。一方批評家としても活躍し、国画創作協会にはグループの一人として参加している。昭和2年美術研究所創立と同時にその一員となり、その後「美術研究」誌上に種々の研究論文を発表して卓抜の見解をうたわれた。昭和19年には東京美術学校教授として美術史を担当したが、戦時中の無理が因となつて斃れたものである。なお美術研究所長田中豊蔵はその兄にあたる。著書の主なるものに「ルノアール」「マイヨール」「浮世絵概説」があり、後年の研究は主として桃山時代の美術、発祥時代の日本南画に向つていた。

西田幾多郎

没年月日:1945/06/07

「西田哲学」の名によつて知られた、文学博士、帝国学士院会員西田幾多郎は6月7日鎌倉の自宅で逝去した。享年76。明治元年石川県に生れ、明治27年東京帝大哲学科選科を卒業、その後山口高校、四高、学習院等の教授を歴任して明治43年京都帝大助教授となり、以後京都帝大哲学科の指導者として大きい足跡を残した。著書は明治44年に出した「善の研究」をはじめ甚だ多いが、芸術哲学に関するものとしては「芸術と道徳」、「哲学論文集四」中に主要の論文があり、東洋的な独自の深い解釈をあたえている。

関保之助

没年月日:1945/05/25

東京帝室博物館学芸委員、重要美術委員関保之助は5月25日空襲により渋谷区の自宅で家族と共に戦災死を遂げた。享年78。氏は明治26年東京美術学校第1回の卒業生で、有職故実、甲冑武器の考証家として、著名で、現代日本画の歴史画を描く上の師となつていた。

溝口禎次郎

没年月日:1945/05/25

帝室博物館美術課長溝口禎次郎は5月25日夜の爆撃によつて牛込の自邸で焼死した。享年74。号は鳩峯、又は宗文、明治5年7月18日京都府綴喜郡に生れ、22年東京美術学校第一期生として日本画科に入学、27年卒業し、一時大阪府第四尋常中学の教師となつたが、まもなく博物館に入り、29年には臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛を嘱託された。以後最後まで博物館員として国宝保存事業に、鑑識方面に、また蒐集家として活躍した。その間明治42年には日英博覧会のため英国に出張、大正4年以来東京帝室博物館美術課長となり、13年には国宝保存会の委員、昭和8年には重要美術品等調査委員会の委員におされた。昭和11年にはボストンに於ける日本美術展のため米国にゆき、その後も健在であつたが不慮の死を遂げたものである。その蒐集した美術品は前九年合戦絵巻などの名品がふくまれ著名であつた。

瀧精一

没年月日:1945/05/17

帝国学士院会員、東京帝国大学名誉教授、文学博士瀧精一は5月17日心臓麻痺のため東京都品川区の自邸に於て急逝した。享年73。明治6年明治期の著名なる日本画家瀧和亭の長子として生れ、同30年東京帝国大学文科大学を卒業、同大学大学院に入学美学を専攻した。東京美術学校、京都帝国大学、東京帝国大学等の講師を経て大正3年東京帝国大学教授に任ぜられ、美術史学の講座を担当した。翌4年文学博士の学位を得た。東大に於ては概説として日本美術史を講じ、特殊講議として支那絵画史、印度仏教美術等を講述し、美術史学の基礎を確立した。同9年東宮御学問所御用掛を拝命し今上陛下に美術史を御進講申上げた。同14年帝国学士院会員に推された。昭和2年東京帝国大学評議員となり、同年同学文学部長に補せられ。その運営に貢献するところがあつた。同9年停年と共に退官、東京帝国大学名誉教授の名称を授けられた。又夙く古社寺保存会、国宝保存会の委員となり、重要美術品等調査会の創設に尽力し、その委員となつた。法隆寺の保存事業についても企画するところがあり、壁画の模写も実行に移された。その他印度アジャンタ石窟寺院の壁画やブリティッシュ・ミュゼアムの燉煌発掘の壁画の模写を作らしめた。また美術品の科学的研究のために古美術自然科学研究会を起し科学者に委嘱して諸種の研究業績を挙げしめた。又対支文化事業として設立された東方文化学院のために尽瘁し、昭和14年にはその理事長となり又院長に挙げられた。併し、その生涯の業績中最大のものは、雑誌国華の刊行であつて、明治34年その編集に初めて携つて以来、その逝去に至る迄岡倉天心等創刊者の意を継承して、その発展に努力し、自ら編集の主軸となると同時に多くの論文、解説等を発表した。これはわが美術史学の発達に多大の貢献をなしたばかりではなく、美術愛好者を啓発し、又海外諸国へ東洋美術を紹介するに、大きな役割を果したのである。その著書としては、生前自ら選択して編んだ「瀧拙庵美術論集日本篇」(昭和18年座右宝刊行会)があり、その他「文人画概論」(大正11年改造社)Japanese Fin Art(昭和6年富山房)があり、その編集に成るものに「日本古美術案内」(昭和6年大和絵会)がある。略年譜明治6年 12月23日東京に生る明治30年 東京帝国大学文科大学卒業、東京帝国大学大学院入学美学専攻明治32年 東京美術学校の美学授業を嘱託さる明治33年 帝室博物館列品英文解説に関する事務を嘱託さる明治34年 国華社業務担当員となり兼て編集に従事す 依願東京美術学校講師解嘱明治35年 普通教育に於ける図画取調委員を嘱託さる明治35年 依願帝室博物館列品英文解説事務解嘱明治40年 東京勧業博覧会審査員を嘱託さる明治42年 京都帝国大学文科大学講師を嘱託さる 東京美術学校美学授業を嘱託さる 東京帝国大学文科大学講師を嘱託さる。日英博覧会鑑査官被仰付明治44年 東京女子高等師範学校講師を嘱託さる、依願東京美術学校講師解嘱明治45年 東京帝国大学より欧米出張を命ぜらる大正2年 帰朝、任東京帝国大学文科大学教授、叙高等官6等、美学美術史第二講座担任を命ぜらる大正4年 文学博士の学位を受く大正5年 帝室技芸員選択委員被仰付大正9年 東宮御学問所御用掛被仰付大正10年 7月文部省より欧洲へ出張を命ぜらる。12月帰朝大正14年 帝国学士院会員被仰付大正15年 1月文部省より帝国学士院の要務を以て欧洲へ出張を命ぜらる、8月帰朝昭和2年 東京帝国大学評議員となる、東京帝国大学文学部長に補せらる、陞叙高等官1等、叙従4位昭和4年 国宝保存会委員被仰付昭和6年 依願東京帝国大学文学部長を免ぜらる昭和9年 依願本官を免ぜらる、叙従3位、東京帝国大学名誉教授の名称を受く昭和13年 帝室博物館顧問被仰付昭和14年 東方文化学院理事長、同院々長となる昭和15年 国華刊行による東洋美術文化宣揚の功績に対し朝日文化賞を受く昭和20年 叙勲2等授瑞宝章、品川区上大崎の自邸に於て急逝

田辺孝次

没年月日:1945/04/16

元東京美術学校及び東京高等工芸学校教授田辺孝次は4月16日金沢の自邸で逝去した。享年56。明治23年金沢に生れ、大正2年東京美術学校彫刻科を卒業、大正7年同校美術史研究室の助手となり翌年教授となつて工芸史を講じた。13年から2ヵ年工芸史研究の為欧米諸国に留学し、昭和2年東京高等工芸学校講師を兼ねた。昭和12年再び欧洲各国に出張して翌13年帰朝、翌14年には石川県立工業学校長となり17年退職した。著書に「伊太利彫刻史」「東洋美術史」「巴里から葛飾へ」「森」等がある。

金森遵

没年月日:1945/03/20

美術史家金森遵は、昭和20年太平洋戦争中比島戦線において戦死した。享年40歳。明治39年12月3日名古屋市に生まれ、第八高等学校を経て昭和3年4月東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学し、同6年3月卒業、つづいて大学院に入学した。同7年2月幹部侯補生として近衛歩兵第一聯隊に入隊、11月満期退営した。同8年5月東京帝室博物館嘱託となり、同10年6月奈良帝室博物館嘱託となつて奈良に移り、在任中よく古寺を歴訪し、彫刻史の研究につとめた。同12年12月帝室博物館鑑査官補に任ぜられ、再び東京帝室博物館へ転じ、同15年前後研究に専念し多くの論文を発表した。同19年戦況急迫するにつれて感ずるところがあり、4月末帝室博物館を辞して航空工業会機体総部会に入社、6月応召してフィリッピン戦線に参加し、秋からレイテ島に於いて悪戦苦闘した。同20年引きつづきレイテ島に於いて苦闘ののち最後の脱出の船に取り残され、3月20日以後消息を絶つた。同22年第14方面軍残務整理部長から戦死の旨認定された。彼は日本彫刻史を専攻する少壮学者として将来を嘱目され、その鋭い論文は識者の注目するところであつたが、その戦死は惜しまれた。遺著に「日本彫刻史の研究」(河原書房、昭和24年)、「日本彫刻史要」(高桐書院、昭和23年)があり、その主要論文はこれらに収められている。尚その全論文の目録は前者に掲載されている。

松本文三郎

没年月日:1944/12/21

帝国学士院会員、京大名誉教授、東方文化研究所長、文学博士松本文三郎は気管支カタルのため京都銀閣寺の自宅で逝去した。享年76。号亡洋、明治2年金沢に生れ、26年東京文科大学卒業、32年独逸に留学し、一高、京大教授を歴任、初代文学部長を勤めた後現職に推された。印度哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても種々の論文を発表していた。美術関係の主なる著書に「印度の仏教芸術」「東洋の古代芸術」などがある。

青戸精一

没年月日:1944/09/17

文部省科学局調査課長青戸精一は9月17日逝去した。享年43。明治35年島根県に生れ、昭和2年東大法学部政治科を卒業後、東大農学部大学院に入り農政学を修めた。昭和4年文部省に入り、12年文部書記官、宗教局保存課長となり、18年科学局調査課長となつた。在任中法隆寺の保存事業に尽す所が多かつた。

本野精吾

没年月日:1944/08/13

京都工業専門学校講師本野精吾は肝臓硬化症のため13日逝去した。享年63。東大工科出身京都高等工芸創立以来図案科科長の職にあり、昭和18年改組と共に教授を辞し講師となつていたものである。

木崎好尚

没年月日:1944/06/26

木崎好尚は6月26日逝去した。享年80。本名愛吉。慶応元年大阪に生れ、明治26年大阪朝日新聞社に入社、22年間在勤し、大正3年退社後は専ら金石学研究を続け「摂河泉金石文」「大阪金石史」を著し、最後の「大日本金石史」は帝国学士院賞を送られた。晩年は頼山陽、田能村竹田の研究に没頭「頼山陽全書」外数著がある。

渡辺一

没年月日:1944/03/23

美術研究所嘱託渡辺一は昭和15年2月応召、中支を経てビルマに転戦、インパール戦線に於て3月23日戦死した。享年41。明治37年新潟県長岡市に生れ、県立長岡中学から第一高等学校を経て、東京帝国大学美術史科を卒業、同時に京城帝国大学法文学部に赴任し、田中豊蔵、上野直昭教授の助手となつたが、同5年辞職し、次いで同6年帝国美術院附属美術研究所の嘱託となつた。その後草創当時の美術研究所のために正確綿密な頭脳と真摯な実行力を駆つて資料の蒐集、索引等の作成及び整備につとめ、又創刊当初の機関誌「美術研究」の編輯に力を注ぎ、昭和10年には九州帝大法文学部の依嘱をうけて「日本上代絵画史」の講義に赴いた。弱冠にして既に稀に見る博識をうたわれたが、特に研究題目は中国絵画史の禅宗系統のもの、引いて我が東山水墨画画ような枯淡な方面を選び、応召2、3年前頃から美術研究所の事業の一つである「東洋美術総目録」の作成に専心、先ずその一端として東山水墨画派の研究を個々の作家に就いて進めつつあつた。その成果は「美術研究」に発表されている。黙庵、如拙、周文、正信等がその主要なものである。用意周到で、明哲な学風は大いに注目すべきものがありその完成は特に学会の期待するところであつたが、その途上で斃れたことは返すがえすも遺憾なことであつた。遺族には養母、夫人二男一女が茨城県下にある。

松本亦太郎

没年月日:1943/12/24

文学博士、帝国学士院会員松本亦太郎は病気静養中のところ12月24日長逝、享年79。慶応元年高崎に生れ、明治26年東京帝大文科大学を卒業、その後エール、ライプチヒ等の諸大学に心理学を専攻し、京都帝大教授となつた。美術史の造詣も深く、京都日本画壇興隆につくした功績は大きい。その後日本女子大、日本大学などに教鞭をとり、近来は東大航空心理部の嘱託でもあつた。著書も多いが美術方面のものとして、明治末大正初期の日本画壇の問題をあつかつた「現代の日本画」やその他「絵画鑑賞の心理」「山水人物画談」などがある。

中沢岩太

没年月日:1943/10/12

京都帝大および京都高等工芸学校の名誉教授、工学博士中沢岩太は病臥中のところ10月12日京都市上京区の自宅で逝去した。享年86。幼名東重郎、安政5年福井に生れ、明治12年東京理科大学の化学科を卒業、16年独逸に留学、20年帰朝とともに、東京工科大学教授、24年工学博士となつた。この間、内国勧業博覧会の審査官、特許局審査官、御料局技師として活躍、明治30年京都理工科大学創設と同時に学長として京都へ移つた。その後京都市工業顧問、陶磁器試験所顧問として工業の指導にあたり、35年京都高等工芸学校の創立とともに初代校長として久しくその任にあつた。43年には文展委員となり、第一部と第三部の審査主任をつとめ、その他各種の展覧会、博覧会等に審査長を依嘱されている。後年は趣味の生活に入り、日本画を狩野友信、前田玉英、洋画を浅田忠に学んだがことに美術工芸会に残した指導的功績は大きい。明治年間以来遊陶園、京漆園、道楽園、時習園の四園を設立して斯界の発展につとめたことは特記されるべきで、さらに昭和2年昭和工業協会となつて活躍をつづけていた。

奥平武彦

没年月日:1943/05/26

京城帝大教授奥平武彦は5月26日腸チフスの為逝去した。享年44。明治33年生れ、大正13年東大法学部卒業後同学部助手、大正15年京城帝大助教授となり政治学政治史を講じた。昭和3年から5年まで英仏独米諸国に留学、昭和5年同大教授となり、14年以降は朝鮮総督府宝物古蹟名勝紀念物保存委員、朝鮮博物館委員、李王家美術館評議員となり朝鮮美術のために貢献する所が少くなかつた。著書に「李朝」「朝鮮の宋元明板覆刻本」「李朝の壷」「朝鮮古陶」等がある。

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