本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





大串純夫

没年月日:1955/07/14

東京国立文化財研究所美術部研究員、文部技官大串純夫は、7月14日急逝した。享年43歳。明治45年7月18日東京に生れ、昭和12年3月東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。14年3月まで大学院に学ぶかたわら国華社編輯員、成蹊高等学校講師の職に在り、14年美術研究所嘱託兼東洋美術国際研究会嘱託に就任、同会のArt Guide of Nipponを編纂した。18年応召、終戦時満州からシベリヤに移されて抑留5年。25年引揚後成蹊大学講師を嘱託され、26年文部技官に任じ美術研究所勤務を命ぜられた。27年12月文化財保護委員会事務局美術工芸課に併任され、翌年7月アメリカに於ける日本古美術展覧会要員として出張、29年3月出陳美術品と同船して帰国した。平安・鎌倉時代の仏教絵画を専攻し、近年は説話を軸とする絵巻物研究に専念していた。主な論文は次の通りである。昭和15年8月-16年7月 来迎芸術論1-5 国華597 599 604 605 608昭和16年11月-12月 十界図考上・下 美術研究119 120昭和28年2月-3月 信貴山縁起絵巻の詞 国華731 732昭和28年9月 信貴山縁起関係説話 美術研究170昭和28年9月-11月 信貴山縁起絵巻画面解釈 国華738-740昭和29年9月 信貴山縁起絵巻の成立をめぐる歴史的諸条件 美術研究177

芝葛盛

没年月日:1955/07/13

文化財専門審議会専門委員、正倉院評議会々員、宮内庁調査員芝葛盛は、7月13日肝臓病のため東京都世田谷区の自宅で逝去した。享年75歳。明治13年4月3日東京都新宿区に生れた。明治36年東京帝国大学文科大学卒業後史料編纂掛となり、大正3年宮内省図書寮編修官を拝命し、編修課長として昭和21年退官するまで、長年月にわたつて歴代天皇の実録編集を担任した。この間、東京帝国大学文学部講師、立教大学、国学院大学、日本女子大学等に国史を講じた。昭和21年帝国学士院帝室制度史編纂室主任、同24年再び宮内庁調査員となつた。同12年国宝保存会委員を仰付けられ、同25年文化財専門審議会専門委員を命ぜられ、第一分科会と第三分科会に所属し、長年月にわたつて文化財保護のためにつくした。また、昭和15年6月、同21年9月、同27年6月両陛下に御進講申上げた。著書に「皇室制度」「平安時代の風俗」等がある。

羽田亨

没年月日:1955/04/13

元京都大学総長、京都大学名誉教授、文学博士羽田亨は、かねて膵臓癌のため京都大学病院井上内科に入院中であつたが、肺炎を併発して4月13日逝去した。72歳。京都府に生れ、明治40年東京帝国大学文科大学を卒業した。同42年京都大学文学部講師となり、大正12年文学博士の学位を得、同13年教授に進んだ。昭和13年から同20年まで第10代京都大学総長に在任、同21年同学名誉教授となつた。28年東洋史の研究の功績によつて文化勲章を受け、29年には京都名誉市民に推された。また支那学研究に対し、27年フランス、アカデミーからジユリアン章、30年1月フランス政府からレジヨン・ド・ヌール勲章を授与された。著書には「西域文明史概論」「西域文化史」などがあり、晩年には開国百年記念会々長として明治文化史、日米文化交渉史の編纂を主宰していた。

柴田常恵

没年月日:1954/12/01

文化財専門審議会考古部会委員柴田常恵は、12月1日脳出血のため東京都練馬区の自宅で没した。享年77歳。明治10年7月18日愛知県名古屋市に生まれ、同32年史学館を卒業した。同35年東京帝国大学理学部人類学教室に入つて助手となり、大正9年内務省嘱託となつて史蹟名勝天然記念物調査会の調査員をつとめ、同10年東京帝国大学文学部標本室の調査嘱託となつた。昭和3年文部省嘱託として史蹟名勝天然記念物の調査に従い、同11年帝室林野局嘱託、同11年重要美術品等調査会委員、同25年文化財専門審議会委員となつた。この間、慶応義塾大学の考古学の講師をつとめた。

持丸一夫

没年月日:1954/03/18

東京国立文化財研究所美術部研究員持丸一夫は、昭和29年3月18日、心臓機能不全症による脳栓塞のため、大田区田園調布の中央病院で死去した。享年34歳。大正8年7月7日横浜に生まれ、静岡高等学校を経て、昭和17年9月東京大学文学部美学美術史学科卒業、同年10月美術研究所内の東洋美術国際研究会に入つて、英文日本古美術案内の編集に従事、兼ねて美術研究所嘱託として目本美術の研究にあたつた。19年3月応召、中支にて終戦を迎え、苦難の俘虜生活を約1年同地に送つた。21年5月帰還し、しばらく、旧職の東洋美術国際研究会の残務整理にあたつていたが、22年6月美術研究所に入つた。研究所に於ては、24年6月文部技官となり、大学の卒業論文(論文は司馬江漢の研究)以来手がけてきた、近世絵画史を専攻し、特に、桃山時代の障壁画の研究に力をそそいだ。その間、組合運動に、また、研究所の事務的な面にも仲々の手腕を振つた。また、研究には、きわめて実証的な方法をとつたが、啓蒙的な著述にも力をそそぎ、小山書店発行の「狩野永徳」や吉川弘文館発行の「日本美術史要説」などがある。論文目録昭和23年 狩野宗秀に就いて 美術研究147号昭和24年 豊臣秀吉画像と筆者狩野光信に就いて 美術研究153号昭和25年 犬追物図攷 国華693号昭和25年 狩野派 世界美術全集、絵画「日本」Ⅲ昭和25年 建仁寺障壁画 美術研究157号昭和26年 宗達と現代美術 三彩53号昭和26年 宗達筆舞楽図屏風解説 美術研究162号昭和26年 金碧障壁画の代表作智積院の襖絵について ミユーゼアム9号昭和27年 名古屋城障壁画筆者考 美術研究164号昭和27年 桃山時代の極彩色障壁画 ミユーゼアム10号昭和27年 洛中洛外図屏風 ミユーゼアム12号昭和28年 名古屋城本丸御殿障壁画 ミユーゼアム22号昭和28年 石山寺縁起と慕帰絵詞に現われた障壁画 美術研究169号昭和28年 法然絵伝に現われた障壁画 美術研究171号昭和29年 桃山時代の絵画 ミユーゼアム34号

矢崎美盛

没年月日:1953/04/07

東京大学文学部教授文学博士矢崎美盛は、4月7日胃癌のため世田谷の国立第二病院で没した。享年58歳。明治28年山梨県東山梨郡に生る。大正5年第一高等学校を、同8年東京帝国大学文学部哲学科を卒業した。同12年ドイツ、フランス、イタリア等に留学し、同14年法政大学教授、同15年東京帝国大学文学部講師となつた。昭和2年九州大学法文学部助教授に任ぜられ、同10年教授に進み、この間、同3年ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ等に留学した。同16年京城帝国大学教授を兼任した。同23年東京大学教授に転じ、九州大学教授を兼ね、美学、美術史を担当した。また皇太子殿下御進講を嘱託され、大正大学、東北大学、法政大学、早稲田大学の講師となり、後進を指導した。著書に「様式の美学」(創元社)、「芸術学」(弘文堂)、「少年美術館」(岩波書店)、「マリアの美術」(岩波書店)、「絵画の見方」(同上)などがある。

山際靖

没年月日:1952/11/08

美学者、日本大学教授、東京国立博物館調査員山際靖は11月8日新宿区で急逝した。享年51歳。明治34年11月5日東京新宿区に生る。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部に入学して美学を専攻、大正14年卒業、のち同大学大学院に在学した。昭和3年東洋大学教授となり、また同5年から12年まで母校美学研究室の副手を勤めた。同19年東京帝室博物館に嘱託として勤め、22年国立博物館文部技官に任ぜられ、翌年同調査員となつた。この間、日本大学をはじめ和洋女子専門学校、日本女子専門学校、東京女子高等師範学校、明治大学、日本女子大学などに美学を講じた。その著書に「新講美学概論」「芸術通論」「美学」「芸術」「きものの話」「趣味の美学」などがある。

田沢金吾

没年月日:1952/09/26

文化財専門審議会工芸品部、考古民俗資料部会専門委員田沢金吾は、9月26日没した。享年59歳。明治25年1月12日兵庫県西宮市に生れ、兵庫県立工業学校を経て早稲田大学理工学科に入学、大正2年まで在学して退いた。同6年頃から考古学の研究に志し、同7年以来、和歌山県、内務省、東京帝国大学、文部省、国立博物館等の嘱託として史蹟名勝、重要美術品の調査に従事した。昭和24年文部技官に任ぜられ、国立博物館調査課に勤務し、同25年文化財保護委員会事務局の保存部美術工芸品課に転じ、27年退官した。25年文化財専門審議会専門委員となつた。著書に「楽浪」「鞍馬山経塚遺宝」「薩摩焼の研究」などがある。

一氏義良

没年月日:1952/02/21

美術史家一氏義良は2月21日世田谷区の自宅で脳溢血のため死去した。享年63歳。明治21年島根県に生れ、大正2年早稲田大学英文科を卒業。大正10年史学研究のため欧洲に留学、同15年古代史料見学のため再び渡欧、一生著述に従事した。昭和3年帝国美術学校、同16年には北京芸術大学教授となる。主たる著書に「立体派、未来派、表現派」、「エジプトの芸術」、「西洋文明史」、「東洋美術史」、等がある。

北原大輔

没年月日:1951/05/22

陶磁史研究家、文化財保護委員会専門審議会専門委員北原大輔は5月22日脳溢血のため北区の自宅で逝去した。享年62歳。明治22年5月17日長野県下伊郡郡に生れ、大正7年3月東京美術学校を卒業、同11年7月帝室博物館に入つて以来昭和13年11月監査官補を退くまで勤務し、引続き学芸委員を仰付かつた。同15年1月重要美術調査委員を依嘱され、戦後25年12月文化財保護委員会専門審議会委員を命ぜられた。戦前東京美術研究所、又日本陶磁協会にも関係した。

正木篤三

没年月日:1950/10/25

元国民精神文化研究所員正木篤三は、10月25日新宿区の自宅に於て逝去した。享年46。正木直彦の二男として東京に生れ、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部国文学科に学び、昭和5年卒業、同年帝国美術院附属美術研究所嘱託となり、同13年美術研究所員に任ぜられた。同16年国民精神文化研究所に転じて所員となつた。終戦後は、繊維貿易公団に勤務したが、病を得て再び立たなかつた。その著書に「本阿弥行状記と光悦」があり、「美術研究」誌上に発表した論文に「弥勒来迎図考」「川合家本聖徳太子伝絵考」などがある。

児島喜久雄

没年月日:1950/07/05

元東京大学教授、国立博物館評議員児島喜久雄は7月5日逝去した。享年64。明治20年10月10日東京市四谷区に於いて児島益謙五男として生れた。同39年7月学習院中等科卒業、同年第一高等学校独文科入学、同42年東京帝国大学文科大学哲学科入学、美学を専攻、翌43年4月から白樺同人となり同誌に寄稿した。大正2年7月、東京帝国大学卒業、引続き大学院に入学し、大塚保治教授指導の許に欧洲美術史研究に従う。同4年4月独逸学協会中学校独逸語教師を、更に翌5年5月学習院講師を嘱託され、又この年矢代幸雄と美術新報の編輯に当つた。同7年4月東京女子大学講師、同9年3月東宮職出仕を嘱託せられ、6月には学習院の教授となつた。同10年8月アメリカ経由欧洲に留学、ヴエルフリン、ボーデ博士等と共に欧洲美術史の研究に従事、留学中、東北帝国大学助教授、文部省留学生となつた、同15年7月帰国東北帝大に赴任した。昭和7年9月、帝国美術院附属美術研究所嘱託となり同9年11月、九州帝国大学法文学部西洋美術史講師を嘱託され同10年3月東京帝国大学文学部助教授兼東北大学助教授となつた。同13年12月ベルリン日本古美術展開催に際し、独、仏、伊、米に出張し翌年5月帰国した。同14年京城帝国大学法文学部西洋美術史講師を嘱託され同15年美術振興会調査会委員となつた。同16年東京帝国大学教授となり、美術史学講座を担当、同21年6月国宝保存会委員となつた。同23年3月東京大学を停年退職、同月、国立博物館評議員、4月早稲田大学文学部講師、5月長尾美術館々長となり24年1月には大学設置委員会委員、東京工業大学講師となつて逝去迄在任した。著作に「レオナルド・ダ・ヴインチ」、「西洋美術館めぐり」「美術概論」「希臘の鋏」などあり、油絵肖像画、装幀などにも筆をとつた。

徳川義恭

没年月日:1949/12/12

東大美術史研究室助手徳川義恭は12月12日、日赤中央病院で逝去した。享年29。大正10年東京に生れ、昭和19年東大文学部美術史学科を卒業した。大学提出の研究論文には「仏教彫刻に於ける半跏思惟像の研究」「牧谿に関する研究」がある。卒業後同研究室の副手、助手を勤め、主として宗達の研究に専心し、関係論文を種々の美術雑誌に発表、著書としては「宗達の水墨画」がある。かたわら日本画を安田靫彦にまなび、昭和23年高島屋で個展を開いた。

笹川臨風

没年月日:1949/04/13

国史学支那学等で知られた笹川臨風は4月13日東京本郷の自宅で死去した。享年80。本名を種郎といい、明治3年東京に生れ、同29年東大国史科を卒業した。明治43年頃より中央公論などで美術批評に活躍し、美術関係の著書としては「日本絵画史」等がある。再興日本美術院には院の幹理として尽力した。

大口理夫

没年月日:1948/11/10

美術史家大口理夫は、11月10日都下桜町病院に於て没した。享年40。明治42年愛知県に生れ、昭和7年東京帝国大学文学部美学及美術史科を卒業した。はじめ日本国宝全集の編輯にたずさわり、のち脇本楽之軒の東京美術研究所或は国際文化振興会に勤務した。更に文部省国宝調査室に嘱託として勤め、機構改正に際し国立博物館に転じたが、この頃から病床に在り、遂に再び立たなかつた。彫刻史専攻の新進学者として又美術評論家として招来の大成を期待されたが、その逝去は惜まれる。その著書に「日本彫刻史研究」がある。

田中豊蔵

没年月日:1948/04/26

美術研究所長兼東京都美術館長田中豊蔵は4月26日肺炎のため世田谷区の自宅に於て没した。享年68。明治14年京都に生れ、第三高等学校を経て、同38年東京帝国大学文科に入り、支那文学を専攻、41年卒業した。同45年国華社に入り、「南画新論」以下30余篇の論文を国華誌上に発表した。大正9年文部省古社寺保存計画調査を嘱託され、翌年慶応義塾大学文学部講師を依嘱され、日本及び支那美術史を講じた。同15年東京美術学校講師となり、西域美術史を講じた。昭和2年在外研究員としてインド及び欧米に留学、翌年帰朝、京城帝国大学教授に任ぜられ、美学美術史第二講座を担当、同17年定年退官まで在職した。その間、昭和4年国宝保存会委員、同5年美術研究所嘱託、同8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会第一部員、同14年李王家美術館評議員に就任した。昭和12年以来画説誌上に多くの論文を発表し、同17年退官の後、重要美術品等調査委員会委員を依嘱され、さらに美術研究所長事務取扱に就任した。以後「美術研究」誌上に数篇の論文を発表した。昭和20年5月以降美術研究所と共に山形県酒田市に疎開、帰京後国立博物館の新設に際し、その附属美術研究所長に任ぜられ、また東京都美術館長を兼ねその逝去まで在任した。著書に「東洋美術談叢」がある。

伊勢専一郎

没年月日:1948/01/13

元東方文化研究所員として支那画論画史を研究した伊勢専一郎は1月13日京都市左京区の自宅で逝去した。明治24年長崎県平戸に生れ、大正8年京都帝国大学文学部美学及美術史科を卒業、支那の画論画史を専攻した。「有竹斎蔵清六大家画譜」「支那の絵画」「芸術の本質」「西洋美術史」「菫?蔵書画譜」「爽籟館欣賞第一輯」「自顧愷之至荊浩支那山水画史(東方文化研究所研究報告)」等の著書があり、東方文化研究所研究員、大阪市美術館嘱託などを勤めたが後年は農業に従事しつつ著述にふけつていた。

天沼俊一

没年月日:1947/09/01

工学博士天沼俊一は、9月1日京都市上京区の自宅にて脳溢血により逝去。明治9年東京市に生れ、同35年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。同39年奈良県技師に任じ、古社寺修理技師を命ぜられ、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員を嘱託された。同7年京都府技師に転じ、同8年工学博士の学位を与えられた。同9年京都帝国大学助教授、兼て京都府技師に任ぜられた。同10年建築史研究のため海外留学を命ぜられ、アメリカ、ヨーロツパ、エジプト及びインドを巡歴して同12年帰朝、同年京都帝国大学教授に任じ、建築学第三講義を担任した。昭和8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会委員 同10年重要美術品等調査委員となつた。同年欧亜各国へ出張、同11年帰朝した。同年退官、京都帝国大学工学部講師となつた。晩年四天王寺の再建に尽力した。その著書、論文は多数にのぼるが、単行図書に「日本建築史図録」「日本の建築」「日本建築」「日本古建築行脚」「坡西土から坡西土へ」「成蟲楼随筆」等がある。

野口米次郎

没年月日:1947/07/13

詩人、慶応義塾大学名誉教授野口米次郎は、7月13日茨城県結城郡の別荘で胃癌のため逝去した。享年73。愛知県に生れ、慶応義塾卒業後アメリカに赴き、ヨネ・ノグチとして米英詩壇に知られた。美術には関心をよせ「歌麿北斎広重論」「春信」「日本美術読本」「正倉院御宝物」「聖武天皇と正倉院」(英文)等の著がある。イサム・ノグチはその息。

中村亮平

没年月日:1947/07/07

「日本美術の知識」「泰西美術の知識」等の著書で知られた中村亮平は7月7日東京阿佐ヶ谷の自宅で死去した。明治20年長野県に生れ、長野県師範学校を卒業した。大正8年武者小路実篤による日向の新しき村に参加したが、大正10年脱退、その後美術関係の著作に専心していた。

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