水澤澄夫

没年月日:1975/02/13
分野:, , (学,評)

町田市立郷土資料館館長水沢澄夫は、2月13日午前1時45分、心不全のため町田市立中央病院で死去した。享年69歳。明治38年8月14日、栃木県に生れた。昭和2年3月第四高等学校文科乙類を卒業。昭和6年3月京都帝国大学文学部哲学科(美術専攻)を卒業した。その年から1年余は柳宗悦の民芸運動に共鳴して参加し、東京京橋に諸国民芸の店をひらいた。また同7年から9年にかけて美術雑誌「宝雲」の編輯に従事、一方同8年から10年までは東京帝大大学院に在籍し日本美術史(特に絵巻物について)を攻究した。同8年から鉄道省国際観光局に勤務、海外に日本文化紹介のため«ツーリスト・ライブラリー»の編集にあったが、同17年5月より財団法人国際文化振興会に勤務を転じた。同20年3月戦況苛烈に伴い山口県宇部市に疎開、8月終戦を迎えた。戦後は主として美術評論をめざし、その一方、森村学園専攻科、実践女子大等の講師を勤めた。昭和33年には、尾形光琳生誕300年にあたり世界平和評議会の顕彰で光琳がえらばれ、中国で光琳展開催につきその準備に努め、日本代表の一人として訪中。光琳画集出版。翌34年には、エジプト美術展を日本で開催の交渉のためエジプトへおもむき、2ヶ月間滞在した。さらに同37年には再度エジプトへ行き、ヨーロッパ各地をまわった。以後約10年気管支拡張症の悪化と胃潰瘍のためたびたび入院をくりかえし殆んど闘病生活をおくった。昭和48年より創設に関与した町田市立町田郷土資料館(現町田博物館)の初代館長に就いていた。主要著書―鉄斎(1939、アトリエ社・東洋美術文庫)、美術覚書(1941、昭森社)、弘仁彫像考(1947、美術出版社・制作3号)、近代画の歩み(1952、美術出版社・みづゑ文庫)、エジプトの美術(1963、社会思想社)、エジプト美術の旅(1963、雪華社)、浄瑠璃寺(1964、中央公論美術出版)、広隆寺(1965、同前)、秋篠寺(1968、同前)、安田靭彦(1974、講談社・日本の名画)。

出 典:『日本美術年鑑』昭和51年版(291頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「水澤澄夫」『日本美術年鑑』昭和51年版(291頁)
例)「水澤澄夫 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9766.html(閲覧日 2024-03-28)

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