石田幹之助

没年月日:1974/05/25
分野:, (学)

日本学士院会員・文学博士石田幹之助は、昭和49年5月25日、急性肺炎のため、東京都港区の自宅で逝去。享年82歳。明治24年12月28日、石田忠三の長男として千葉市に生まれ、私立麻布中学校・第一高等学校を経て、大正5年7月東京帝国大学文科大学史学科(東洋史専攻)を卒業。卒業に際しては銀時計を下賜された。同年9月史学研究室副手を嘱託され、大正13年3月まで在任したが、その間大正6年8月、岩崎久弥の委嘱をうけて北京に赴き、当時中華民国大総統顧問であったオーストラリア人ジョージ・アーネスト・モリソンの合計2万4000点に及ぶ蔵書の引き取りに当った。同年10月よりこのモリソン文庫の主任となり、大正13年11月、岩崎久弥がモリソン文庫と、これを収容する建物・設備・敷地およびその運営に要する基金とを寄贈し、財団法人東洋文庫が設立されると、その主任となり、さらに昭和7年6月からは主事となって、蔵書の整備拡充に挺身し、昭和9年4月に及んだ。中国中心、欧文図書中心であったモリソン文庫の内容をアジア全域に拡大し、漢籍をはじめとする各地域の言語による基本資料を加え、さらに一般参考書と称する部門を新設して、今日見られる東洋文庫の大蒐書の基礎を築いた。
 昭和9年5月、前月設立された国際文化振興会の嘱託となって図書室の創設に当り、日本に関する欧文図書の蒐集に尽力した。昭和17年4月国学院大学教授に任ぜられ、同21年4月には日本大学教授専任、国学院大学教授は兼任となり、同37年3月日本大学定年退職後は国学院大学専任となり逝去の時に及んだ。このほか講師として、京都帝国大学・東北帝国大学・慶応義塾大学・九州大学・東京都立大学・東京教育大学等の教壇に立った。昭和22年6月、財団法人東方学会設立とともに理事となり、同48年7月その会長に就任し、他方昭和25年12月には文化財保護委員会専門審議会専門委員(のち文化財保護審議会専門委員)に任命され、また昭和42年11月日本学士院会員となり、いずれも逝去の日まで在任した。昭和34年12月、日本大学より文学博士の学位を授与され、翌年3月、日仏文化交流に貢献した者として、フランス政府よりOfficier dnas 1’ordre des Palmes Academiquesに叙せられて勲章を授けられ、同39年11月には紫綬褒章を、同41年4月には勲三等瑞宝章を受章した。
 大学生時代より最晩年まで発表した文章約400篇、その研究業績を大別すると、第一類は研究史、第二類は独自の新研究ということになる。第一類は多くの内外学者の追悼録、学界の研究動向、新著の紹介等であって、この方面の単行図書としては、『欧米に於ける支那研究』(昭和17年、創元社刊)、『欧人の支那研究』(昭和21年訂正追補再版、日本図書会社刊)がある。東方学会の機関誌『東方学』に連載された「海外東方学界消息」は、地域を欧米に限らずアジアを含め、取り上げる研究の範囲も中国ばかりでなく、アジアの人文科学的研究の全領域を対象としたものであった。資料の紹介と研究史を兼ねたものとしては、『南海に関する支那史料』(昭和20年、生活社刊)がある。第二類は、年代的に見れば紀元前5世紀から18世末に及び、主題としては文化史、とくに東西文化の交渉と広い意味での中国人の生活文化に関するものが中軸をなしている。そのうち唐代文化についての論考を集めたものに『長安の春』(昭和42年増訂版、平凡社刊)、『唐史叢鈔』(昭和23年、要書房刊)がある。美術史関係の主要論文としては「郎世寧伝改略」(美術研究10)をあげなければならない。単行本に再録されなかった論文は『東亜文化史叢考』(昭和47年、東洋文庫刊)に収められた。

出 典:『日本美術年鑑』昭和49・50年版(257-258頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「石田幹之助」『日本美術年鑑』昭和49・50年版(257-258頁)
例)「石田幹之助 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9466.html(閲覧日 2024-04-20)

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