本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





藤本東一良

没年月日:1998/09/17

読み:ふじもととういちりょう  日本芸術院会員で日展顧問の洋画家藤本東一良は9月17日午後3時1分、心室細動のため東京都新宿区の朝日生命成人病研究所で死去した。享年85。大正2(1913)年6月27日、静岡県伊豆下田に生まれ、同年8月大阪に移住する。昭和5(1930)年、大阪府立天王寺中学校在学中に京都のアカデミー鹿子木に入り、鹿子木孟郎に石膏デッサンを学ぶ。また、赤松洋画研究所にも学び、赤松麟作の指導を受ける。同6年大阪府立天王寺中学校を卒業して上京。川端画学校に入学する。同8年寺内萬治郎の門下生となる一方、同舟舎絵画研究所で小林萬吾の指導を受ける。同10年東京美術学校油画科に入学。藤島武二教室に学ぶ。同12年夏、サイパン、ヤップなど南洋に旅行。同14年第26回光風会展に「水夫M君像」「機関車の人」で初入選し、F氏賞を受賞する。また同年第3回海洋美術展に「天測」を出品し海軍協会賞を受賞する。同15年東京美術学校を卒業。同年第4回海洋美術展に「ウラカス島を望む」を出品して朝日新聞社賞を受賞。また、同年の紀元2600年奉祝展に「貝殻図譜」を出品する。同16年第28回光風会展に「貝殻をみる女」を出品して同会会友に推挙される。また、同年第4回新文展に「父とゴムの木」で初入選。同17年第29回光風会展に「画室の女」を出品して光風特賞を受賞する。同19年南方従軍を命ぜられ、台湾方面へ赴き、同20年海軍報道部に出向しポスター等の原画を描く。同年8月復員。同21年第1回日展に「赤い服」で入選し、同年秋の第2回日展に「室内」を出品して特選を受賞する。同22年第33回光風会展に「N氏像」を出品して光風特賞を受賞、また同年第3回日展に「刺繍する女」を無鑑査出品して特選を受賞する。その後も日展、光風会展に出品を続け、同28年10月フランスに留学してアカデミー・グラン・ショーミエールに学ぶ。同30年9月帰国するが、その間、ベルギー、オランダ、スイス、イタリア、スペイン等に旅行する。同35年日展会員、同41年日展評議員、同47年光風会理事に就任。翌年よりほとんど毎年、フランスを訪れる。同54年ソビエト旅行。同56年第13回日展に「五月のコート・ダジュール」を出品して、文部大臣賞を受賞。翌57年日動サロンで「藤本東一良展1979-1981」を開催し、以後同63年日動画廊で「藤本東一良展1986-1988」、平成4(1992)年、同画廊で「藤本東一良展1989-1992」を開いた。この間、昭和58年東京銀座松屋で「藤本東一良新作油絵展」を開催。また、同64年小山敬三美術賞を受賞したのを記念して、昭和15年以降の作品を回顧する「藤本東一良展」を日本橋高島屋で開催した。略歴はこれらの展覧会の図録に詳しい。平成5年第25回日展出品作「展望台のユーカリ」で第49回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年日本芸術院会員となった。フランスの水辺の風景を、遠近法的空間表現に基づきながら、リズミカルな筆触、明快な色調で描いた。昭和39年より48年まで東京教育大学講師、昭和46年より61年まで金沢市立美術工芸大学講師として後進の指導にもあたった。 

尾藤豊

没年月日:1998/08/26

読み:びとうゆたか  洋画家の尾藤豊は、心不全のため東京都北区の赤羽病院で死去した。享年72。大正15(1926)年3月、東京に生まれ、昭和18(1943)年、東京美術学校建築科に入学、戦中は学徒動員により江田島にて航空図面作成にあたり、同20年7月赤羽工兵隊に入営、終戦をむかえた。同22年、同美術学校を卒業、この年の前衛美術会の第1回展に参加、また同28年には、青年美術家連合展に参加した。この時期には、「失われた土地A」(同27年、宮城県立美術館)にみられるように、地元でおこった軍事基地問題に触発され、手足など人体の形を大胆に変形した群像を描き、政治、社会の問題を告発する「ルポジュタージュ絵画」の先駆けのひとりとなった。同45年からは、齣展に参加した。「日本のルポジュタージュ・アート」(同63年、板橋区立美術館)、「昭和の絵画 戦後美術―その再生と展開」(平成3年、宮城県立美術館)など、80年代以降、各美術館で戦後美術が回顧される企画展には、時代の証言としてその作品がたびたび出品された。 

小堀四郎

没年月日:1998/08/09

読み:こぼりしろう  洋画家の小堀四郎は8月9日午後6時45分、脳こうそくのため埼玉県新座市の病院で死去した。享年96。明治35(1902)年7月20日、尾張徳川家に仕えた名古屋市内の漢学者の家に生まれる。大正10(1921)年愛知一中を卒業後上京し、藤島武二に師事、川端画学校でデッサンを学ぶ。翌年東京美術学校西洋画科に進学、同期生には猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、小磯良平らがいた。2年生の時には特待生となり、昭和2(1927)年に卒業、全同期生と上杜会を結成し、9月にその第1回展を開催する。同年11月の第8回帝展には「静姿」が初入選する。翌年渡欧、フランスを中心にヨーロッパ各国で西洋絵画、とりわけレンブラントやコロー、ドーミエの模写で表現力を磨いた。同8年に帰国し、藤島武二の奨めで東京上野の松坂屋と名古屋の松坂屋で173点からなる滞欧作品展を開催。同10年、帝展改組の混乱を期に画壇を離れ、以後は上杜会にのみ出品。同20年から30年まで疎開先の長野県蓼科にこもり、農耕生活をしながら画業に専念する。画家を志した際、漢学者の父から「作品を売って生活してはならぬ」と戒められたことを終生守り、孤高の姿勢を貫いた。モティーフを初期の人物から風景画に移しながら古典的色合いを持つ堅実で精神性のこもった作品を描き、戦後は夜景をテーマに宗教性・神秘性を帯びた作風を展開。 同51年には東京大学のイラン・イラク発掘調査行に加わり、翌年その体験を基に「無限静寂」三部作(築地カトリック教会祭壇画)を制作。平成3(1991)年には高潔な画業と優れた人格を対象とする中村彝賞(第2回)を受賞。昭和61年に渋谷区立松濤美術館、平成3年に茅野市美術館、同4年には卒寿を記念して東京ステーションギャラリーで回顧展を開催。同7年には豊田市に油彩53点、ドローイング41点を寄贈した。なお妻は森鴎外の次女で随筆家として知られる小堀杏奴。

進藤蕃

没年月日:1998/04/17

読み:しんどうばん  洋画家の進藤蕃(本名、しげる)は、頸部腫瘍のため東京都港区の病院で死去した。享年65。昭和7(1932)年、東京都に生まれ、同27年、東京芸術大学美術学部油画科に入学、在学中は小磯良平の指導をうけ、同31年に首席で卒業、大橋賞をうけた。同35年、フランス政府給費留学生として渡仏、パリのエコール・ド・ボーザールにて、モーリス・ブリアンションに師事した。帰国後、安井賞展に5回出品するほか、女子美術大学、東京芸術大学、愛知県立芸術大学などで、非常勤講師をつとめた。同42年には、中根寛、小松崎邦雄とともに濤々会を結成、また同49年には井上悟、橋本博英、大沼映夫、山川輝夫などと黎の会を結成、東京セントラル美術館で展覧会を開催した。国内外を取材のため精力的に歩くが、なかでも中国の風景をテーマに、同58年にパリのグランパレ美術館にて、第10回FIAC展(国際現代美術展)において個展を開催した。平成6年には、「両洋の眼」展に出品、また笠井誠一、福本章とともに三申会展を開催した。南ヨーロッパをおもわせる明るい陽光のもとでの風景画、あるいは室内の静物画を得意としたが、ことに中国の桂林などでの取材旅行からうまれた80年代の一連の風景画は、明快な色彩構成のうちに深い情感をたたえるもので、コロリストとしての画家の資質がもっとも発揮され、質の高い具象表現となっていた。

佐竹徳

没年月日:1998/02/03

読み:さたけとく  日本芸術院会員の洋画家佐竹徳は2月3日午前9時3分、肺炎のため、岡山市の岡村一心堂病院で死去した。享年100。明治30(1897)年11月11日、大阪に生まれる。本名徳次郎。関西美術院で鹿子木孟郎に学び、後に上京して川端画学校で藤島武二に学ぶ。安井曽太郎にも師事した。大正6(1917)年、第11回文展に「清き朝」で初入選。同9年第2回帝展に「並樹」「静物」の2点が入選。同10年第3回帝展に「静物」を出品して特選受賞。この年、坂田一男からセザンヌ画集を見せられ感動する。同12年関東大震災の救済のために神戸から上京したキリスト教社会運動家賀川豊彦の講演を聞いて共感し、クリスチャンとなり、自然を神の造化として謙虚に見る姿勢を確立する。昭和4(1929)年第10回目帝展に「ダリア」を出品して再度特選となった。同5年帝展無鑑査となり、また、同年第11回帝展出品作「巌」で3回目の特選を受賞した。戦後も同21年第1回日展に「竹園」を出品して特選となり、その後も日展に出品を続けた。同24年頃から十和田奥入瀬の風景に魅せられ、長期滞在して制作。その後も風景を主なモティーフとした。同34年、セザンヌの作品に触発されて、赤土と青緑色のオリーブが織りなす岡山県牛窓の風景を好んで、同地にアトリエを構える。同42年第10回目新日展に牛窓風景に取材した「オリーブと海」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。翌43年同作品により第24回日本芸術院賞を受賞し、同年日本芸術院会員となった。同44年社団法人日展の改組が行われ、あらたに理事に選出されて同48年まで在任。退任にあたり参与への就任を固辞して会員としてとどまった。同61年4月「リージョンプラザ・上田創造館快感記念小山啓三、佐竹徳二人展」年が開催され、翌年東京の日動サロンおよび大阪日動画廊で「佐竹徳展」が開催された。平成元(1989)年第1回中村彝賞を受賞。同3年には茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開催された。自然の素直な観照を緊密な構図、穏やかな色調で表現した。

星野眞吾

没年月日:1997/12/29

読み:ほしのしんご  日本画家の星野眞吾は12月29日午前2時3分、呼吸不全のため愛知県豊橋市の病院で死去した。享年74。大正12(1923)年8月15日、愛知県豊橋市に生まれる。昭和19(1944)年京都市絵画専門学校図案科を卒業後、同校日本画科に入学。同23年卒業し、研究科に進む。在学中より三上誠と親交し、24年三上、下村良之助、大野秀隆(俶嵩)ら京都市立絵画専門学校卒業生でパンリアル美術協会を結成、伝統的な日本画と決別すべく、敢えて“膠絵”と称し、現代美術としての可能性を摸索する。同24年同協会展第3回「巣」、翌年第五回「割れた甕」などの具象表現から、同35年第18回「厚紙による作品」、同37年第20回「心象」など抽象的表現に移行。同39年、矢野純一・針生一郎が主宰した日本画研究会に参加。同年の父の死を契機に身体を画面に押しつけた“人拓”による作品を多く制作。同49年中村正義らとともに日本画研究会を発展させて先鋭的な作家集団として从会を結成、個性的な展覧会を開催する。この間、同26年中村正義、平川敏夫、高畑郁子らと画塾中日美術教室をはじめ、同37年第5回中部日本画総合展で最優秀賞を受賞。日本国際美術展、現代日本美術展などにも出品し、同46年には東京造形大学非常勤講師となる。同60年福井県立美術館で三上誠・星野眞吾二人展、平成8(1996)年には豊橋市美術博物館、新潟市美術館で星野眞吾展が開催された。

佐多芳郎

没年月日:1997/12/16

読み:さたよしろう  日本画家の佐多芳郎は12月16日午後5時17分、心筋こうそくのため横浜市港北区の病院で死去した。享年75。大正11(1922)年1月26日、東京麹町に医師の長男として生まれる。昭和14(1939)年より日本画家北村明道に基礎を学び、翌15年より安田靫彦に師事、同16年にはその研究会である一土会に参加する。その後チフス等で療養を余儀なくするが、同19年に入営、終戦まで軍隊生活を送る。同25年の第35回日本美術院展覧会に「浪切不動」が初入選。翌年、『読売新聞』連載の大佛次郎『四十八人目の男』の挿絵を担当、その後、山本周五郎の『樅ノ木は残った』、池波正太郎の『鬼平犯科帳』といった数々の時代小説の挿絵を手がけた。同54年より宿願の絵巻物制作の準備に入り、翌年小下絵を制作、同60年に三巻からなる「風と人と」を完成させた。平成元(1989)年に日本美術院を退院。同4年、毎日新聞社より『風霜の中で 私の絵筆日記』を出版。

浦田正夫

没年月日:1997/11/30

読み:うらたまさお  日本芸術院会員で元日展事務局長の日本画家浦田正夫は11月30日午前9時15分、肝臓ガンのため東京都新宿区の病院で死去した。享年87。明治43(1910)年5月1日熊本県山鹿市に生まれる。大正4(1915)年東京市小石川区音羽に転居。昭和3(1928)年松岡映丘に入門、また本郷絵画研究所にも通う。翌年東京美術学校日本画科に入学し、同9年に卒業。この間、津田青楓洋画研究所の夜学に通い一年あまり洋画を学ぶ。同8年第14回帝展に「展望風景」が初入選。同9年映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を、15年には高山辰雄、野島青茲らと一采社を結成、その中心的役割を果たす。同13年には現地嘱託として満蒙地区に赴き、四ヶ月の間巡遊、また同17年には大同雲崗石仏研究のため一か月間滞在する。戦後は同26年より山口蓬春に師事し、同28年第9回日展で「関口台」が白寿賞、同30年第11回日展出品作「湖映」、同32年第13回日展出品作「磯」がともに特選・白寿賞を受賞。さらに同35年第3回新日展で「池」が菊華賞、同45年第2回改組日展で「双樹」が桂花賞、同48年同第5回展で「蔓」が文部大臣賞を受け、同53年には前年の第9回改組日展出品作「松」により日本芸術院賞を受賞。自然景をモチーフに穏やかで温かな、その中に質朴な自然感を滲ませる作調を展開した。昭和47年より日展評議員、同54年より同展理事をつとめ、同63年日本芸術院会員、平成元年には日展事務局長となった。

森芳雄

没年月日:1997/11/10

読み:もりよしお  主体美術協会会員で武蔵野美術大学名誉教授の画家森芳雄は11月10日午前8時20分、老衰のため東京都世田谷区のアトリエで死去した。享年88。明治41(1908)年12月21日、東京麻布区北新門前町に貿易商社社員福與藤九郎の第7子三男として生まれる。幼時に叔母森ふみの養子となるが、渡欧時まで実家で生活した。父の職業柄、幼少時から西洋美術の図録に親しみ、大正14(1925)年、慶應義塾普通部に通学する一方、白瀧幾之助に木炭デッサンを学ぶ。翌年慶應義塾普通部を修了し、東京美術学校を受験するが失敗したため、本郷絵画研究所に入り、デッサンを中心に学ぶ。翌年も東京美術学校を受験するが、再度失敗し、東京近郊の農園に1年あまり勤務した。昭和3(1928)年1930年協会絵画研究所で中山巍に師事し、あらためて油彩画とデッサンを学び、翌年第4回1930年協会展に初入選する。同5年第17回二科展に初入選。同6年第1回独立美術協会展に入選した。同年渡仏し、今泉篤男、山口薫、浜口陽三を知る。同7年サロン・ドートンヌに入選。同9年に帰国して、翌年東京銀座の近代画廊で「渡仏作品展」を開催した。同11年第6回独立美術協会展に「日時計」「晴日」「広告塔」「ローマ郊外」を出品してD賞を受賞、同13年同会第8回展に「母子」「坐像」を出品するが、同14年第9回展の出品を最後に同会を退会する。同年第3回自由美術家協会に出品し、同会会員となる。同18年東宝映画撮影所特殊映画部に入り、同23年まで勤務した。この間、同22年日本美術会主催第1回日本アンデパンダン展に出品。同26年より武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)に勤務し、後進の指導にあたった。同37年ヨーロッパに渡り、パリを中心に5ヶ月滞在。同年同教授となり、同56年に退職するまで長く美術教育にあたった。同37年、神奈川県立近代美術館で麻生三郎との二人展を開催する。同39(1964)年、麻生三郎、糸園和三郎、寺田政明らを含む38名とともに自由美術家協会を退会し、同年主体美術協会を結成してその代表となった。同40年日中文化協会による日本美術家訪中団の一員として中国へ渡る。同44年ヨーロッパ旅行。同46年インドへ、同47年モンゴル・シルクロードへ旅行。同年より東京芸術大学でも非常勤講師として教鞭をとった。同49年、『森芳雄画集』(日本経済新聞社)を出版。同55年、『森芳雄素描集』(朝日新聞社)を刊行。同50年、東京渋谷の東急百貨店、大阪の梅田近代美術館で「森芳雄展」が開催された。同53年、武蔵野美術大学美術資料図書館で「森芳雄教授作品展」が開催される。同54年には東京銀座の松屋および仙台の藤崎で「森芳雄デッサン展」が開催される。同56年には渋谷区立松涛美術館で「森芳雄展」が開催された。同61年、名古屋画廊で「森芳雄展」、平成4(1992)年にも同画廊で「森芳雄近作展」が開催された。平成元(1989)年、東京日本橋高島屋で「森芳雄展」が開催され、また、写真集『画家森芳雄平成元年80歳』(森芳雄写真集刊行会)が刊行された。平成2年には茨城県近代美術館で「森芳雄展」が開催されている。かたちを簡略化した象徴的人体像を画面内に配置することにより、かたち相互の拮抗や調和に、造形上の整合性と論理性を求め、「母子像」を多く描いた。

難波田龍起

没年月日:1997/11/08

読み:なんばたたつおき  洋画家の難波田龍起は、11月8日午後5時49分、肺炎のため東京都世田谷区の関東中央病院で死去した。享年92。明治38(1905)年8月13日、北海道旭川市に生まれ、翌年一家は東京に移った。大正2(1913)年、本郷区駒込林町に転居、ここは高村光太郎のアトリエの裏隣であった。同12年、早稲田第一高等学院に入学、同年9月の関東大震災にあたり、町内の夜警に立ち高村光太郎と知己となった。翌年頃から、自作の詩を携えて、光太郎のアトリエを訪れるようになった。同15年早稲田大学政経学部に入学したが、翌年退学。太平洋画会研究所、ついで本郷絵画研究所で一時学んだ。昭和3(1928)年、光太郎に川島理一郎を紹介され、川島が主宰し、青年画家たちが作品を批評しあう金曜会に参加するようになった。同4年、第4回国画会展に「木立(中野風景)」が初入選した。同8年頃、松本竣介、鶴岡政男らと親しくなる。とくに松本とは、その死(同23年)にいたるまで親交した。一方、同10年には金曜会のメンバーとともに「フォルム展」を結成した。同12年、自由美術家協会結成にあたり、会友として参加、翌年会員とり、同会を同34年に退会するまで毎回出品した。戦中期には、古代ギリシャ、ローマの芸術への憧憬を表現した作品を描いていた。しかし、戦後になると、自律的に抽象化を試みるように、幾何学的な構成による叙情的な抽象絵画を描くように展開した。しかし、次第に無数の鋭く、しなやかな線が交錯する表現へ、さらに60年代にはドロッピングによる表現へと変化し、「コンポジション」(同40年、東京国立近代美術館)などに代表される独特の抽象絵画を生み出すにいたった。70年代からは、再び意志的な線による構成がとられるようになり、青や茶を基調にした画面は静かだが、奥深い情感たたえるようになった。同57年に北海道立近代美術館で「形象の詩人 難波田龍起展」として、初めての本格的な回顧展が開催された。つづいて同62年には、東京国立近代美術館で「今日の作家 難波田龍起展」が開催され、回顧と同時に、新作「原初的風景」のシリーズも出品され、深いい精神性をただよわせた新たな表現が示された。この展覧会によって、翌年第29回毎日芸術賞を受賞した。平成6(1994)年、世田谷美術館でも「難波田龍起展 1954年以降ー抽象の展開・生命の響き」が開催された。同8年には、文化功労者に選ばれた。難波田は、抽象表現への一貫した思考と詩人的な叙情性によってうらづけられた、純度の高い作品を数多く残した。

日原晃

没年月日:1997/10/12

読み:ひはらあきら  洋画家で、日展参与をつとめた日原晃は、10月12日午後10時48分、胸部大動脈りゅう破裂のため死去した。享年87。明治43(1910)年2月19日、岡山県津山市に生まれ、昭和19(1944)年、日本大学芸術科を卒業、翌年の第1回日展に初入選した。28年の第9回日展に「田舎の町」を出品、特選及び朝倉賞を受賞した。また、光風会にも終戦後から出品をつづけ、29年に会員となり、後には評議員、名誉会員となった。日展では、41年に審査員をつとめ、翌年会員となり、評議員、参与を歴任した。45年には、岡山県文化賞、平成元(1989)年には津山市文化賞をそれぞれ受賞した。瀬戸内海や日本海などの港の風景や海景などを、おだやかな色彩と剛胆な筆致で描きつづけた。

間部学

没年月日:1997/09/23

読み:まべまなぶ  ブラジル、サンパウロ在住の画家間部学は9月23日午前1時(現地時間2日午後1時)、ひ臓ガン手術後の合併症により、サンパウロの病院で死去した。享年73。大正13(1924)年9月14日、熊本県宇土郡不知火村高良に生まれる。生家は旅館ののち理髪店を営んでいた。昭和6(1931)年、不知火尋常小学校に入学。翌年当尾尋常小学校に転校し、同校在学中クレヨン画に熱中する。同9年豊川尋常小学校に転校するが、同年8月18日、一家でブラジルサンパウロ州に入植する。日系人が共同で営む私立学校でポルトガル語、日本語の勉強を続け、コーヒー園での父の仕事の手伝いなどをして少年時代を送る。同15年サンパウロ州リンスに移転し、コーヒー園の仕事に従事する。同20年、油絵具を購入し、石油で絵具を解き、独学で油彩画を描き始める。同年中、写真屋を開業していた熊谷悌助に月1回の指導を受ける。同23年父の死去を契機にコーヒー園主として独立。一方で絵画の制作を続ける。同26年国立美術展(リオデジャネイロ国立美術館)に初入選し、以後同展に毎年出品。同28年第2回サンパウロ・ビエンナーレに出品し、同展で展示された抽象画に刺激を受ける。また、同年日系画家による聖美会の行うコロニア展の第2回展に出品し、コロニア賞受賞。この年から、作風が構成主義的抽象へと移行する。翌年第4回サンパウロ近代美術展で小銀賞、翌30年の第5回同展では大銀賞、同31年の第6回同展では再度小銀賞を受賞。同32年第7回同展で大銀賞を受賞し、同年国立美術展(ブラジル・サロン・デ・ナシオナル・ベラス・アルテス)無鑑査となる。同33年第8回サンパウロ近代美術展で州知事賞受賞。同34年ブラジルにおける美術の年間総合最優秀賞であるレイネル賞の第1回目の受賞者に選ばれ、日系画家として注目されるようになる。同年第5回サンパウロ・ビエンナーレ展で国内大賞受賞を受賞。アンドレ・マルローに注目され、第1回パリ青年ビエンナーレ展のブラジル代表として推薦するようにとの要請を受けて、同展に出品し、最高賞(ブラウン賞)を受賞する。同35年、ブラジル代表としての作品発表が多くなったため、ブラジルに帰化する。同年第30回ヴェネツィア・ビエンナーレにブラジル代表として出品し、フィアット賞受賞。同40年代には作風にアンフォルメル的傾向があらわれ、即興的な制作を思わせる点などに東洋的との評もよせられた。同50年サンパウロ美術館で回顧展が開催され、同53年には熊本県立美術館を皮切りに、神奈川県立近代美術館、国立国際美術館を巡回する「マナブ・間部展-ブラジルの巨星=その熱い★(手へんに矛)」が開催されて、初期から近作までの100点が展示された。初期には遠近法などを踏まえた再現描写が試みられたが、1950年代に入ると、具象表現でありながら、自然の形態や色彩から離れ、単純な幾何学的色面に対象を分解したのち再構成する作風へと展開し、1960年代には抽象的作風へと移行した。数を限って明快な色彩を用い、大胆な構図で「生命」「望郷」「雄飛」などの抽象概念を表現した。ニューヨークやパリなどでも個展を開き、国際的に活躍する一方、日本とブラジルの文化的架け橋としても尽くした。平成8(1996)年には郷里熊本で回顧展を開催している。

牛島憲之

没年月日:1997/09/16

読み:うしじまのりゆき  文化勲章受章者の洋画家牛島憲之は9月16日午前0時27分、呼吸不全のため東京都港区の虎ノ門病院で死去した。享年97。明治33(1900)年8月29日、熊本市二本木町に地主牛島米太郎の4男として生まれる。大正2(1913)年古町小学校を卒業して熊本県立熊本中学校に入学。同8年同校を卒業して上京し、東京美術学校を受験するが失敗、白馬会葵橋研究所に入る。同11年東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助教室に在籍する。同級に荻須高徳、小磯良平、猪熊弦一郎、山口長男、岡田謙三らのいる優秀なクラスであったが、在学中はあまり登校せず、歌舞伎に興味を抱き、藤間流舞踊、常磐津などに凝った。昭和2(1927)年同校を卒業。卒業制作は「自画像」「猿芝居」。同年、同研究科に進学する。また、同年東京美術学校西洋画科の同級生全員で親睦・研究団体「上杜会」を結成し、その第1回展から晩年まで同会への出品を続ける。同3年、第9回帝展に「あるサーカス」で初入選。翌年の第10回帝展に「春爛漫」を出品。同5年第2回聖徳太子奉賛美術展に「二人像」を出品するが、同年より同7年まで帝展には落選を続ける。同5年、デッサン力の不足を感じ小林萬吾の主宰する同舟舎洋画研究所に通う。同8年、東光会が結成されるとその第1回展から出品、また、同年第14回帝展に明るい色彩を点描風に用いた「貝焼場の風景」が入選する。同10年第4回東光会展に「貝焼場」「午後(貝焼場)」を出品してK氏奨励賞を受賞。翌11年東光会を退会した高間惣七、橋本八百二らと主線美術協会を結成し、同会会員となるが、同14年同会絵画部が解散。同16年創元会が結成されると第1回展に「元朝」「昼」を出品して受賞し、以後同展に出品を続ける。同21年日展が開催されると第1回展から出品し、第2回日展に「炎昼」を出品して特選となる。「炎昼」は、これ以後の画風の特色となる、写生をもとにデフォルメを加えた独自の形態と淡い色調による静謐な趣をそなえ、新たな展開を示したものであった。同24年、須田寿、山下大五郎らとともに創元会を退会し、日展をはじめ在来の公募展を排して会員だけの研究の場として立軌会を結成。第1回展に「家」「風景」「道」を出品し、以後、没するまで同会を活動の主要な場とした。同27年第1回日本国際美術展に「水辺(水門)」「早春」「午後(タンク)」を出品し、以後第9回展まで同展に出品を続ける。同28年第2回サンパウロ・ビエンナーレに「早春」「午後」「麦を刈る」を出品。同29年、第1回現代日本美術展に「樽のある街」「橋の風景」を出品し、以後同展に出品を続ける。同30年東京芸術大学講師となり、同34年助教授、同40年教授となる。以後、同43年、東京芸術大学を停年退官し、同校名誉教授となるまで、長く美術教育にたずさわり、後進の指導にあたった。同44年、芸術選奨文部大臣賞を受賞。同53年京都国立近代美術館・日本経済新聞社主催で開催された「牛島憲之の芸術-五十年の歩み」展(神奈川県立近代美術館、群馬県立近代美術館に巡回)は、初期からの代表作108点および素描・版画が出品される大規模な回顧展となった。同55年東京銀座松屋で「牛島憲之展-現代洋画家デッサン・シリーズ」(朝日新聞社主催)を開催。同56年、日本芸術院会員、同57年文化功労者に選ばれ、翌58年文化勲章を受章した。1930年代の「貝焼場」などに見られる鮮やかな色面による画面構成から、戦後は抽象絵画運動を傍らに見つつ、「水門」「タンク」といった幾何学的形態を淡い色調で描く具象絵画へと移行し、晩年は初期から貫かれている独特の形態感覚をもとに、写生にもとづきながら構図・色彩などに画家の造形的意図が明快に表出される画面に至った。平成2(1990)年世田谷美術館、熊本県立美術館、山梨県立美術館で「牛島憲之展-静謐なる叙情」が開催されており、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。また、昭和27年の第3回目の個展以後、東京のフジカワ画廊を会場としてたびたび個展を行っており、図録も刊行されている。画集としては、『牛島憲之版画集(第一、二輯)』(加藤版画研究所、同42、43年)、『牛島憲之画集』(同画集刊行会、同44年)、『牛島憲之画集(第二輯)』(同画集刊行会、同47年)、『牛島憲之素描集』(求龍堂、同50年)、『牛島憲之素描集』(平凡社、同50年)、『牛島憲之画集』(日本経済新聞社、同53年)、『牛島憲之素描集』(朝日新聞社、同56年)が刊行されている。

加藤金一郎

没年月日:1997/08/24

読み:かとうきんいちろう  新制作協会会員の洋画家加藤金一郎は8月24日午後10時23分、心不全のため名古屋市昭和区の病院で死去した。享年75。大正10(1921)年10月21日名古屋市に生まれる。昭和10(1935)年尋常小学校を卒業し、同15年頃、鬼頭鍋三郎に師事して緑ケ岡洋画研究所に通う。同15年光風会展に初入選。同23年第12回新制作協会展に「サボテン図」で初入選し、以後同会創立会員である猪熊弦一郎に師事したほか、坂本範一にも学ぶ。同27年第16回新制作展に「白の作品」「白と黒の作品」を出品して新作家賞受賞。同37年同会会員となる。同40年欧米を巡遊し、同45年フランス、イタリア、スペインへ旅行、翌46年スペインを中心に欧州を旅する。同48年エジプト、トルコ、ヨーロッパに旅行。同50年および53年メキシコへ渡り、その成果を同52年の「メキシコ紀行展」(名古屋日動画廊)、同54年の「メキシコ・グアテマラの旅」個展(日動サロン、名古屋日動画廊)などで発表した。ガラス絵も描き、同52年日本ガラス絵協会会員に推挙されている。同63年松坂屋本店で「画業45年記念展」が開催され、平成9(1997)年同じく松坂屋本店で「加藤金一郎新作展」が開かれた。初期から具象画でありながら、描く対象の持つ形と色彩から離れ、自在に画面を構成する作品を描いたが、晩年の「SANKAKUYAMA」のシリーズでは白を基調とし、明快な色彩を用いた抽象的な作風へと展開した。

阪口一草

没年月日:1997/08/19

読み:さかぐちいっそう  日本画家の阪口一草は8月19日午後5時35分、急性肺水腫のため東京都町田市の病院で死去した。享年95。明治35(1902)年2月28日、大阪市港区に生まれる。本名政次郎。初め友人の竹内未明らが絵を描くのに刺激され、大正6(1917)年藤田紫雨に手ほどきを受けた。翌7年上京し、新聞配達などをしながら一年ほど太平洋画会研究所に通う。9年御形塾に入り川端龍子に師事。昭和2(1927)年第14回院展に「静閑」が初入選するが、翌3年龍子の院展脱退に際してこれに随伴、青龍社結成に参加する。 翌年第1回青龍社展に「新粧」「雨煙る」を出品、昭和6年第3回展に「炎風」「爽風」を出品し、社人となる。以後塾頭もつとめ、同16年第13回「大仏寺」、同19年第16回「潮を待つ」、同24年第21回「千手観世音」などの大作を発表。洋画的表現もとりいれながら豪快な作風を展開した。しかし同25年愛娘を失ったことに端を発して龍子と意見を違え、青龍社を脱退。日展出品ののち、32年新興美術院に移り、同34年には同志と青炎会を結成、以後57年に解散するまで毎年展覧会を開催し、また同50年より日本画院の客員となった。なお姓は昭和31年頃まで“坂口”を使用、その後戸籍の記載に従い、“阪口”を用いた。

奥村光正

没年月日:1997/07/11

読み:おくむらみつまさ  新制作協会会員の洋画家奥村光正は7月11日午前0時4分、肝臓がんのためパリの病院で死去した。享年55。昭和17(1942)年6月4日、長野県に生まれる。同42年東京芸術大学油画科を卒業し、同大学大学院油画科に進学。同年第31回新制作協会展に「前段階」で初入選する。同43年第32回同展に「コンポジション」を出品して新作家賞受賞。同44年東京芸術大学大学院油画科を修了して同年より同46年まで小磯良平教室の助手として勤務する。同年第33回新制作展に「カルテ」「カムフラージュの為の講義室」を出品して再度新作家賞受賞。また同45年第13回安井賞展に「カモフラージュのための講義室」を出品する。同45年第34回新制作展、翌46年第35回同展でも連続して新作家賞を受賞する。同47年、渡仏しパリで制作を始める。同年より国際形象展に出品。また同年第15回安井賞展に「一族の挽歌」「部屋の中の使者群」を出品する。同53年第13回昭和会展に「貝殻のある静物」を出品して昭和会賞受賞。同53年一時帰国し東京銀座の日動画廊で個展を開催する。同54年第22回安井賞展に「貝と枯葉」を出品。同59年、新制作協会会員となる。同年および平成元(1989)年、日動画廊(東京銀座、大阪、名古屋)で個展を開催。花、果物などの静物を主要なモティーフとし、簡略化した形態と洗練された中間色を多用する色彩で構成力の強い作風を示した。

田村一男

没年月日:1997/07/10

読み:たむらかずお  洋画家で、文化功労者の田村一男は、7月10日午前5時48分、心不全のため新宿区の病院で死去した。享年92。明治37(1904)年12月4日、東京府豊多摩郡中野町に生まれる。大正13(1924)年、磯谷商店に入店し、額縁作りに従事し、また岡田三郎助が主宰する本郷絵画研究所に入り、絵画を学んだ。昭和3(1928)年、第9回帝展に「赤山の午後」を初出品して、初入選をはたした。同6年、第18回光風会展に、「松の木風景」など3点が入選し、翌年磯谷商店を退き、中野区江古田にアトリエを構え、ここで終生制作をつづけることになる。同15年、光風会会員となり、同21年には同会の事務所を引継ぎ、自宅においた。また、同年の第2回日展に「高原初秋」を出品、特選となった。44年、社団法人日展の改組により、理事となり、後に参事、顧問をつとめた。同38年、第19回日本芸術院賞を受賞。同55年、日本芸術院会員となる。同57年、朝日新聞社より、「田村一男画集」を刊行。同61年には、長野県信濃美術館において「信州の風景画 田村一男・心象画の世界」展が開催された。平成4(1992)年、文化功労者に選ばれた。一貫して、山岳風景画を制作し、それは次第に写実性をはなれ、簡潔な構成と深い色彩による象徴的な風景画へと展開し、独自の恬淡とした画風を形成して評価された。

川口精六

没年月日:1997/07/07

読み:かわぐちせいろく  立軌会同人で幻想的な作風で知られた洋画家の川口精六は7月7日午前9時、脳こうそくのため千葉県柏市の病院で死去した。享年94。明治40(1907)年1月10日、群馬県前橋市文京町に生まれる。昭和6(1931)年川端画学校を修了し、10年第22回光風会展に「ホロホロ鳥」で初入選する。同12年第12回国画会展に「霜枯れの池隅」で初入選する。昭和14年第11回第一美術展で奨励賞受賞するが、同18年第一美術協会を退会する。以後自由美術協会展に出品し、同会会員となるが、同38年同会を退会。日本実在派展にも一時参加する。同46年立軌会会員となり、以後立軌展に出品を続けた。同46年に開かれた「現代の幻想絵画展」(朝日新聞社主催)に出品した「蛾A」「蛾B」などの一連の「蛾」のシリーズで知られ、蟻や蛾などの昆虫の群れをモティーフに想像の世界を絵画化した。

福島秀子

没年月日:1997/07/02

読み:ふくしまひでこ  画家の福島秀子(本名愛子)は、7月2日午前4時、肺ガンのため東京都小金井市の病院で死去した。享年70。東京都の出身、文化学院卒業後の昭和26(1951)年、秋山邦晴、北代省三、山口勝弘、鈴木博義、武満徹、福島和夫とともに、美術と音楽の領域を越えて、新たな芸術表現をめざす前衛集団「実験工房」を結成、これに参加した。この年の11月に開かれた第1回発表会では、前衛バレエ「生きる悦び」を上演、この美術を山口、北代とともに担当した。毎回の発表会では、それぞれがワークショップ的に参加、文字どおり実験的な表現を試み、総合的な芸術がめざされた。29年には、実験工房「シェーンベルグ作品演奏会」が開かれ、「月に憑かれたピエロ」など、全曲日本での初演となった。福島は、その舞台衣裳を担当した。また、戦後から抽象表現を試みていた福島は、画家としても、絵筆をつかわず、円形の型を推して画面を構成する抽象絵画を制作して、注目されていた。

月岡榮貴

没年月日:1997/06/21

読み:つきおかえいき  日本画家で日本美術院同人・評議員の月岡榮貴は6月21日午前9時35分、肺炎のため神奈川県横須賀市の病院で死去した。享年81。大正5(1916)年4月22日、東京の切金砂子師の家に生まれる。本名榮吉。初め太平洋美術学校で油絵を学んだのち、昭和12(1937)年東京美術学校日本画科に入学、とくに人物画いおいてそのデッサン力を発揮する。同17年同校を卒業し、前田青邨に師事。同23年第33回院展に「漁夫」が初入選し、以後院展に出品する。同26年院友となり、同31年第41回院展「幕間」、同32年第42回「和楽」、同43年第53回「竹取」、同47年第57回「鉢かつぎ姫」、同50年第60回「白夢」、同54年第64回「念(耳なし芳一より)」、同55年第65回「愛鳥図」がいずれも奨励賞を受賞。同56年第66回「やまたのおろち(古事記より)」は日本美術院賞を受け、同年同人に推挙。同57年第67回展出品作「風神雷神」にみられるような、古典的な題材ではりのある描線を駆使した力強い作風を展開した。この間、41年法隆寺金堂壁画再現模写事業、同48年高松塚古墳壁画模写事業に参加し、同45年からは愛知県立芸術大学で講師をつとめた。また同53年より東京裕天寺奥書院の襖絵を、平成元年には建長寺妙高院の天井画を制作している。

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