本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





麻田浩

没年月日:1997/06/20

読み:あさだひろし  洋画家の麻田浩は6月20日午前10時30分頃、自宅アトリエで死んでいるのを家人によって発見された。家族によると遺書があり、自殺とみられる。享年65。昭和6(1931)年10月27日、京都市に生まれる。日本画家の父(麻田辨二)と兄(麻田鷹司)をもつ。同26年、同志社大学に入学し、学内の美術クラブで絵を描き始めるが、まもなく本格的に絵画を学ぶため、新制作派協会に出品していた桑田道夫に師事する。同29年、新制作展に初入選。同30年、同志社大学経済学部卒業後、株式会社大丸に37年まで勤務。同39年、大阪・あの画廊において初個展。同40年より藤川デザイン学院(現京都芸短大)講師となる。同43年、新制作協会の会員に推される。同44年より成安女子短期大学講師、京都市立芸術大学教授を務める。同46年、国際形象展に出品(以後毎回出品)。京都よりパリに居を移し、油彩画制作と各種展覧会に出品のかたわら、フリードランデルについて銅版画を学ぶ。同49年、フランス・カーニュ・シュール・メール国際絵画フェスティバルに招待出品、プリ・ナショナル賞受賞。50年、安井賞展佳作賞受賞。同51年、ベルギー・オステンド・ヨーロッパ絵画展第2位賞受賞。パリ・ギャルリー・ロプシディエンヌにて個展。以後、パリをはじめヨーロッパの幾つかの都市で個展を持つ。同52年、カンヌ国際版画芸術ビエンナーレ銅版画部門第一位賞受賞。サロン・ドートンヌ会員に推挙される。同54年、明日への具賞展に出品(以後、毎回出品)。ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール会員に推挙される。同55年、クラコー国際版画ビエンナーレ展第三位賞受賞。フランス・アールザン・イヴリーヌ展に招待出品、グラン・プリ第二席受賞。同57年、京都に戻り住む。同58年、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール展プリ・アンリ・ファルマン受賞。同60年、ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール展プリ・アルフレッド・シスレー受賞。平成元年、その超現実主義的な作風が評価され第2回京都美術文化賞受賞、翌年に受賞記念展を京都文化博物館で行う。同3年、ニューヨーク・ギャラリー・ためながにて個展。同5年、IMA絵画の今日展に同人として出品。同7年、宮本三郎記念賞を受賞、日本橋三越と京都大丸で受賞記念展が開催された。

大沢昌助

没年月日:1997/05/15

読み:おおさわしょうすけ  明快な色調の抽象画で知られた画家大沢昌助は5月15日午前9時、急性心筋梗塞のため東京都大田区田園調布の自宅で死去した。享年93。明治36(1903)年9月24日、東京三綱町に生まれる。父は東京美術学校図案科の教授となった大沢三之助。御田小学校、御田高等小学校、芝中学校を経に学び、この間、絵に興味を抱いていた父から水彩画を学び、また、父の蔵書によって西欧美術に触れる機会を持った。父の交遊する富本憲吉、バーナード・リーチ、高村光太郎らを幼少から知るなど、美術に親しむ環境のなかで育つ。大正11(1922)年、東京美術学校西洋画科に入学し、長原孝太郎、小林万吾にデッサンを学んだ後、藤島武二教室に入る。昭和3(1928)年同校西洋画科を首席で卒業。同4年第16回二科展に「丘上の少年」「青衣の像」で初入選し、以後同展に出品を続ける。同9年、昭和3年の東京美術学校西洋画科卒業生による「三春会」が設立され同年その第1回展に「松」「梅林」「婦人像」を出品し、以後、同展にも出品を続ける。同11年第8回新美術家協会展に「作品A」「作品B」「作品C」「作品D」「作品E」「作品F」を初出品し、同年同会会員となる。同13年第25回二科展に「河岸」「夏の日」を出品して特待となる。同15年紀元2600年奉祝展に「入江のほとり」を出品。同年第27回二科展に「岩と人」「岩と花」を出品して会友に推挙される。同17年第29回二科展に「波」「運河」を出品して二科賞受賞。翌年同会会員となる。戦後は二科展の再建に会員として参加し、同展に出品を続ける。また、同22年から同26年まで美術団体連合展にも出品する。同27年第1回日本国際美術展に「夕暮」「不安の群像」を出品して以後、同展に出品を続け、また、同29年第1回現代日本美術展に「荒地の人」「化石の森」を出品して以後、同展にも出品を続ける。同年多摩美術大学教授となる。戦前から人物を主要なモティーフとし、堅実な写実を基本とする作品を描いていたが、同30年代に対象の形態、色彩を簡略化してとらえ、画面上で再構成する抽象的な作風に移行。同40年代には簡潔な線、明快な色面、大胆な構図による斬新な作品を描いた。同42年第52回二科展に「曲線風景」「白黒の像」を出品して青児賞を受賞。同45年同大学を退職。同56年池田二十世紀美術館で「大沢昌助の世界展」を開催する。同57年二科会を退会。以後、個展を中心に作品を発表した。平成3(1991)年9月、練馬区立美術館で「大沢昌助展」が開催されており、年譜、文献目録は同展図録に詳しい。

末松正樹

没年月日:1997/04/28

読み:すえまつまさき  画家で、多摩美術大学名誉教授の末松正樹は、4月28日午後5時53分、脳出血のため東京都品川区の病院で死去した。享年88。明治41(1908)年8月28日、新潟県新発田市に生まれた。軍人であり、後に教職についた父四郎に従い、秋田市、朝鮮江原道春川、新潟市、宮崎市で幼少時代をすごした。中学時代から、美術や文学に親しむようになり、昭和2(1927)年に山口高等学校に進学した後も、芸術を愛好する仲間たちと絵画や詩をつくっていた。高等学校卒業後の同8年に上京、逓信省東京中央電話局に就職し、そのかたわら日本に紹介されはじめたノイエ・タンツなどの前衛舞踏に関心をもち、舞踏家とも交友するようになり、また同11年には、滝口修造が中心となって組織された「アヴァンガルド芸術家クラブ」に参加した。同14年、パリに渡る舞踏家に同行して渡欧。翌年、第二次世界大戦がはげしくなり、日本人画家が帰国するなかパリに留まっていたが、ドイツ軍の進駐を逃れて、マルセイユに移り、同地の日本領事館で働いた。同19年、マルセイユも危険となり、スペインに逃れようとするが、捕虜として警察に拘留された。同21年、復員船で帰国。この年の11月、パリ在住時代親しくしていた井上長三郎に再会し、ついで松本竣介、麻生三郎とも親しくなり、その縁から22年自由美術家協会に参加し、会員となった。また、帰国直後には、大戦中のヨーロッパ美術の動向を知る唯一の画家として、新聞、雑誌にヨーロッパ美術に関する記事を寄稿した。同29年再渡欧、フランスのプロヴァンス地方を訪れたことが契機となり、それまでの半抽象的な群像表現から、光を意識した色彩による流動的な抽象表現へと画風が変化した。同39年、自由美術家協会を退会し、主体美術協会結成に参加し、会員となる。同44年、福沢一郎の後任として、多摩美術大学学長代行に就任したが、翌年退任。平成4年、板橋区立美術館で「末松正樹-その抽象と舞踏の時代」展が開催され、初期から近作まで126点によって回顧された。

神原泰

没年月日:1997/03/28

読み:かんばらたい  画家・詩人として大正期の前衛芸術運動の指導者として活躍した神原泰は3月28日午後9時2分、心不全のため横浜市南区の佐藤病院で死去した。享年99。明治31(1898)年東京に生まれる。白樺派の正親町公和、園池公致と従兄弟であり、父親同士が親しかったことから有島生馬と幼少期から親交があり、雑誌「白樺」に紹介された西洋美術の新しい動向に早くから興味を抱いた。大正4(1915)年4月号の「美術新報」に掲載されたウンベルト・ボッチオーニ著・有島生馬訳の「印象派対未来派」に啓発されてマリネッティと直接文通するなど、積極的に未来派の研究を進めた。同6年に雑誌『新潮』や『ワルト』などに強烈な色彩と運動感をうたった未来派的な詩を発表。同年第4回二科展に「麗はしき市街、おゝ複雑ないらだちよ」で初入選。同年石油会社に入社し社員として勤務するかたわら、二科展に出品を続ける。同9年10月に東京丸の内の鉄道協会で「生命の流動、音楽的創造」と題して個展を開催し、同時に「第1回神原泰宣言」を発表。当時の画界を激しく批判して注目をあつめた。同11年中川紀元、矢部友衛らとともに、二科会で未来派的作品を発表していた古賀春江、横山潤之助や未来派美術協会に参加していた浅野孟府らに呼びかけて美術団体「アクション」を結成。同12年4月東京三越呉服店7階で「『アクション』第1回造形美術展覧会」を開催し、その作品目録に「『アクション』同人宣言書」を発表した。同宣言は「アクション」が同じ主義を持つ作家の集団ではなく、「前衛たらんとする熱情と喜び」を共にする団体であることをうたっているが、同13年10月に解散する。同月、神原を含む同会の同人の一部を中心に美術団体「三科」が結成される。また、同年11月に「造型」が結成されるとこれにも参加した。同14年アルス社から『ピカソ』を刊行。同年イデア書院から『未来派研究』を刊行する。昭和2(1927)年、「造型」が「造型美術家協会」に再編成されると同会には参加せず、以後、美術界の最前線からは距離をおいた。その後の作品の発表としては、同8年東京神田三省堂で「鎌倉の最後のハイカラな海辺風景」と題する個展があるが、出品作に海水浴風景などが含まれていたため、時節に不適切であるとして即日閉会となり、作品はすべて警視庁に没収された。同11年東京銀座伊東屋で検挙・拷問ののち難渋する岡本唐貴を援助する趣旨で開かれた「画友展覧会」に油彩画2点、素描1点を出品。戦後の同47年5月に東京銀座の日動サロンで「シンガポール・乳房-神原泰絵画展」が開かれ、同61年東京の南天子画廊で「神原泰 戦後作品自選展」が開催されて、大正期の抽象表現を基盤として継続されてきた画業が紹介された。神原は「人類の美術史上初めて絵画である絵画をつくった」画家として、パブロ・ピカソを高く評価し、生涯その研究・紹介に努め、そうした活動のなかで収集した蔵書のすべてを、昭和50年前後に岡山県倉敷市の大原美術館に寄贈した。平成2(1990)年、大原美術館から「神原泰文庫目録」が刊行されている。前述以外の著書に『ピカソ礼賛』(岩波書店 昭和52年)などがある。一方、石油業界でも活躍し、昭和53年に石油統計の業績により第1回大内賞を受賞したほか、世界石油会議日本国内事務局長などを歴任した。

宮田雅之

没年月日:1997/01/05

読み:みやたまさゆき  切り絵画家の宮田雅之は1月5日午後5時5分、急性脳こうそくのため千葉県成田市の病院で死去した。享年70。大正15(1926)年東京赤坂に生まれる。昭和29(1954)年、チャールズ・E・タトル出版社にブックデザイナーとして入社。同35年、全米ブックジャケットコンテストに入賞。同38年、谷崎潤一郎に見出だされ谷崎文学の挿絵に取り組み、独創的な切り絵の世界を確立。同47年、講談社出版文化賞(挿絵部門)受賞。同56年、バチカン美術館宗教美術コレクションに「日本のピエタ」が収蔵される。同59年、「源氏物語」五十四帖を完成。同63年、鑑真和上生誕1300年を記念して奈良唐招提寺に「鑑真和上像」を献納し、平成2(1990)年には米・ホワイトハウスに「桜花図」を納める。同6年、NHK大河ドラマ「花の乱」のタイトル画を担当し、NHK出版より画集『花の乱』を刊行。同7年、国連創設50周年を記念して、日本人初の国連公認画家に選任され、「赤富士」が国連アートコレクションとして特別限定版画となり世界的に紹介された。

加藤東一

没年月日:1996/12/31

読み:かとうとういち  元日展理事長で文化功労者の日本画家加藤東一は12月31日午後零時2分、肺炎のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年80。大正5(1916)年1月6日、岐阜県岐阜市美殿町1番地に生まれる。6男5女のうちの五男、第9子で生家は漆器商を営み、三男の兄栄三は後に日本画家となった。昭和9(1934)年岐阜県立岐阜中学を卒業し、画家を志しながら家業の手伝いをすることとなる。同12年千葉県在住の叔父宅に寄宿し、柏市の広池学園で道徳科学を学ぶ。同15年12月東京美術学校を受験するため千葉県市川市に住んでいた兄栄三を頼り上京し、翌16年同校日本画科に入学する。結城素明、川崎小虎らに師事。同17年応召し、同20年復員。同21年東京美術学校に復帰し、小林古徑、安田靫彦らに師事する。同22年同校を卒業。同年より高山辰雄を中心とする「一采社」に参加し同第6回展より出品を始める。また、同年第3回日展に「白暮」で初入選。以後同展に出品を続ける。翌23年より山口蓬春に師事。同27年第8回日展に「草原」を出品し特選となる。同30年第11回日展に「砂丘」を出品して特選・白寿賞を受賞し、翌年より日展出品委嘱となった。同32年山口蓬春の勧めにより大山忠作らと研究団体「三珠会」を結成し、展覧会を開催する。同33年日展が社団法人として発足したのちも同展に出品を続ける。同36年日展審査員となる。同38年5月から7月まで大山忠作とともにギリシャ、エジプト、スペイン、フランス、イギリス、アメリカ等を巡遊。同42年12月、日本縦断を主題に1年を費して制作した「津軽風景」等8点の新作を兼素洞で発表する。同43年末から翌年1月中旬にかけて兄栄三、大山忠作らとともにインド、ネパールへ旅行する。同45年第2回改組日展に「残照の浜」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。同50年日展理事に就任。同52年第8回改組日展に「女人」を出品して第33回日本芸術院賞を受賞。同54年同監事となる。同55年日本放送出版協会から現代日本素描集第15巻『長良川流転』が出版される。同59年9月東京銀座松屋で「加藤東一展」(日本経済新聞社主催)が開催され、昭和24年以降の日展出品作を中心に回顧展的な展観が行われた。同展は岐阜県美術館、大丸心斎橋店(大阪)に巡回した。平成元(1989)年日展理事長となる。同3年岐阜市に加藤栄三・東一記念館が開館。同7年文化功労者となった。昭和44年サカモト画廊、同45年彩壷堂、同47年名古屋松坂屋、同54年北辰画廊、同57年日本橋高島屋など、画廊、百貨店での個展を数多く開催し、作品の発表を続けた。一貫して風景、人物等に取材した具象画を描き続けたが、昭和30年代の一時期、抽象表現を試みたのち、色面や形体の構成に緊密の度を増した。日展での受賞作のほか、5年の歳月をかけて平成5年に完成させた金閣寺大書院障壁画などが代表作として挙げられる。この壁画を展示する「加藤東一金閣寺大書院障壁画展」が平成8年1月4日から29日まで東京の伊勢丹美術館で開催された。

藤松博

没年月日:1996/12/01

読み:ふじまつひろし  前衛的な作品で知られた洋画家の藤松博は12月1日午後2時35分、脳こうそくのため東京都新宿区の東京医大病院で死去した。享年74。大正11(1922)年7月12日、長野県に生まれる。昭和20年東京高等師範学校を卒業。瀧口修造と交友し、同27年読売アンデパンダン展に「手相」を出品。翌年同展に「花火」「玉のり」などを出品し、前衛的な作風で注目される。同31年渡米し、36年までニューヨークに滞在して活動する。帰国後、切り紙風のシルエットのような人体像や色斑による人体像を描き、抽象表現に学んだ具象画で注目された。代表作に「月(ひとがた)」や「旅人」の連作などがある。

鈴木良三

没年月日:1996/10/19

読み:すずきりょうぞう  元日展審査員の洋画家鈴木良三は10月19日午後9時3分、肺炎のため東京都中野区の慈生会病院で死去した。享年98。明治31(1898)年3月29日茨城県水戸市東台665に下市病院院長鈴木錬平(とうへい)の三男として生まれる。県立水戸中学校を卒業して大正6(1917)年東京慈恵医大に入学。同年、叔父の幼なじみであった画家中村彝を訪ね、以後彝に師事。慈恵医大に在学しながら同年から川端画学校にも通学し、同11年平和記念東京博覧会に「夕づける陽」を出品する。同年慈恵医大を卒業するが、中村彝周辺の画家たちとともに「金塔社」を結成して活動し同年6月に第1回金塔社展を開催する。また、同年第4回帝展に「秋立つ頃」で初入選。この後も帝展に出品したほか光風会展、太平洋画会展などにも出品。昭和3(1928)年5月に渡仏し、同5年12月に帰国。この間、栗原信、永瀬義郎、中西利雄らと交遊し、また、スペイン、イタリア等を旅行している。滞欧中にパリから第11回帝展に「微睡」を、翌昭和6年の第12回帝展に「グラス風景」を出品。同7年芸術使節団の一員として東南アジアを訪問。同11年12月、有島生馬、石井柏亭、木下義謙、安井曽太郎らによって一水会が創設されると、同展に出品し、以後同展に出品を続ける。同14年第3回一水会展に「手術」「若き母」を出品して、具方賞を受賞。また、同年に行われた第1回聖戦美術展に「鉄道員の活躍」を出品する。同18年陸軍参謀本部と日本赤十字の依頼により従軍画家としてビルマ方面に赴く。戦後の同21年一水会会員となり、同27年同会委員となる。戦後の制作には海をモティーフとした作品が多く、海景の画家として知られた。同49年フランス、スペインなどを写生旅行。同56年茨城県県民文化センターで「画道60年記念鈴木良三展」が開催され、同60年東京セントラル美術館で「米寿記念鈴木良三海姿百景展」が開かれた。また、平成3(1991)年茨城県近代美術館で「鈴木良三・佐竹徳展」が開かれており、年譜は同展図録に詳しい。その作風は中村彝が「鈴木良三君があの素直で平明な観照のもとに、美しき自然の諸相を描き」と評したように、簡略化した形態把握と豊麗な彩色を特色とした。

青山義雄

没年月日:1996/10/09

読み:あおやまよしお  洋画家青山義雄は、10月9日午前9時34分、膀胱がんのため神奈川県茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去した。享年102。明治27(1894)年1月10日、現在の神奈川県横須賀市に生まれ、父の転勤にともない三重県鳥羽、北海道根室で幼年時代をすごし、同39年に根室商業学校に入学した。しかし同41年、画家をこころざして同学校を中退し、講義録をもとに絵を独習しはじめた。同43年に上京、翌年1月に日本水彩画会研究所に入所し、大下藤次郎に師事し、同年10月に大下が没すると、永地秀太に指導をうけた。大正2(1913)年、根室にもどり、水産加工場、牧場、小学校の代用教員など、さまざまな仕事をしながら制作をつづけた。かねてより外国に渡る意志をもっていたが、同10年にフランスに渡った。パリでは、はじめアカデミー・ランソン、ついでグラン・ショーミエールでデッサンを学び、また日本人会の書記として、館に住み込みで働くようになった。また、この年には、はやくもサロン・ドートンヌに初入選し、翌年にも「二人の男」が入選した。この日本人会において、林倭衛、土田麥僊、木下杢太郎、大杉栄、小宮豊隆などパリに滞在する多くの日本人画家や文化人と親交した。同14年、喀血したため、医師のすすめで南仏カーニュに転居した。翌年、ニースの画廊に委託していた自作が、アンリ・マティスの眼にとまり、その色彩表現を賞賛されたことが機縁となり、その後マティスに作品の批評を受けるようになった。また、翌年、マティスを介して福島繁太郎を知り、その後福島からは物心にわたる援助を受けることになった。一方、フランスで制作をつづけるかたわら、昭和3(1928)年の第6回春陽会展から出品し、同9年の第12回展まで出品をつづけ、会員となっていたが、この年に同会を辞した。また、同年には、和田三造の紹介により、商工省の嘱託となり、ヨーロッパ各地の工芸事情を視察した、その結果を報告するために同10年に帰国した。帰国の翌年には、梅原龍三郎の勧誘をうけて国画会会員となった。同12年には、第1回佐分真賞を受賞、翌年には、第2回新文展の審査員として、幼年時代をすごした北海道根室に取材した「北洋落日」を出品した。同27年、フランスに渡り、ニースに住むマティスに再会、カーニュにアトリエをかまえて制作をつづけた。同32年には、63才にして運転免許をとり、ヨーロッパ各地を取材旅行するようになった。その後は、平成元(1989)年に帰国するまで、日仏間を往還しながら、旺盛な制作をつづけ、国内では個展において新作を発表していた。同5年、中村彝賞を受賞、同7年には茨城県近代美術館において中村彝賞受賞記念して初期から近作にいたる約120点からなる回顧展が開催された。南仏特有の明るい陽光からうまれた、その鮮やかな色彩表現は、終生衰えることはなかった。

土屋幸夫

没年月日:1996/09/04

読み:つちやゆきお  洋画家で、武蔵野美術大学名誉教授の土屋幸夫は、9月4日午前8時36分、肺気しゅのため東京都多摩市の日本医大多摩永山病院で死去した。享年85。明治44(1911)広島県尾道市に生まれ、昭和6(1931)年に東京高等工芸学校を卒業、翌年第2回独立美術展に「イゝグラの坂路」が初入選した。以後、独立美術協会には、同8年の第3回展に「尾道風景」、同十年の第5回展に「出帆」、同11年の第6回展に「静物(母性的果実)」、同12年の第7回展に「歪められたる静物の印象」、同13年の第8回展に「飛翔の幻想」が入選した。一方、同8年には、郷里の尾道市商工会議所において最初の個展を開催、同11年には、銀座紀伊国屋画廊でも個展を開いた。同12年には、糸園和三郎、斎藤長三等が同9年に結成した前衛美術グループ「飾絵」の同人として参加、この年の第4回展に出品した。この当時の作品として残されている「仮装」(1936年)では、抽象表現を試みており、また「人形の行進(鬼)」(1937年)では、写実表現ながら、幻想性をつよく感じさせ、シュルレアリスムからの影響をしめしている。しかし、このグループは翌年4月に解散し、同月に結成された創紀美術協会に創立同人として参加した。同年7月の同協会京都前哨展に「果てなき嗜食」、翌年の第1回展に「哺乳の海邊」、「錯覚する者」、「苛める」を出品した。同14年には、美術文化協会創立にあたり同人として参加、翌年の第1回展に「蒐集狂的散点模様」、「睡れる提琴」、「小児季記憶のあらはれ(瀬戸内海の島々)」を出品した。同17年の第4回展まで会員として出品し、応召と戦後の復員までの中断をはさんで、同24年の第9回展まで出品をつづけた。また、戦後の同22年には、日本アヴァンギャルド美術家クラブ結成に参加し、同26年にはタケミヤ画廊で個展を開催した。同32年には、武蔵野美術大学に赴任し、後進の指導にあたるようになり、また同50年から同56年まで、現代芸術研究室を設け、ここを会場に自身の個展を開催するとともに、多くの新人にも作品発表の機会をあたえた。平成7(1995)年には、パルテノン多摩市民ギャラリーを会場に、「土屋幸夫1930ー1995展」を開催、初めての回顧展として初期から近作までを出品した。戦前の前衛画家として出発した土屋は、戦後も、アンフォルメルなど現代美術の潮流から影響をうけつつ、絵画や立体作品に、一貫した独自の造形感覚を示しつづけた。

木下義謙

没年月日:1996/07/16

読み:きのしたよしのり  洋画家で、一水会創立会員、女子美術大学名誉教授の木下義謙は、7月16日午後7時47分、心不全のため東京都世田谷区の吉川内科小児科病院で死去した。享年97。明治31(1898)年、現在の東京都新宿区四谷に生まれた。両親とも和歌山県出身で、父友三郎は、法政局参事官から明治大学の校長、学長を歴任した。大正4(1915)年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校機械科に入学、同7年に卒業、翌年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した同10年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。このとき、やはり油彩画を独学していた兄孝則(1894~1973)も、「富永君の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、同15年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、同12年の第1回展から同14年の第4回展まで出品した。同15年に結成された1930年協会の会員として、昭和2(1927)年の第2回展、翌年の第3回展に出品した。同3年から7年まで渡仏、パリで制作し、サロン・ドートンヌなどにも出品した。帰朝した年の第19回二科展には、滞欧作品36点が特別陳列された。同11年、二科会会員を辞退し、石井柏亭、安井曽太郎、兄孝則とともに一水会を結成した。戦後になると、ひきつづき一水会や日展に出品するとともに、同22年からは女子美術専門学校(現在の女子美術大学)の教授となり、後進の指導にあたった。同25年、前年の第5回日展に出品した「太平街道」により、芸能選奨文部大臣賞を受賞、またこの年より陶芸制作をはじめた。その後、しばしば一水会展に油彩画とともに陶芸作品を出品するようになり、同33年には、硲伊之助とともに同会に陶芸部を創設した。同51年には、平明な自然観照にもとづいた誠実な画風からなる初期作品から近作にいたる油彩画87点と陶芸作品11点から構成されたはじめての回顧展として「木下義謙作品展」が、和歌山県立近代美術館において開催された。同54年に、勲三等瑞宝章を、翌年には和歌山県文化功労賞を受賞した。同57年には、画業50年を記念して油彩画、水彩画65点からなる「木下義謙展」を日動画廊において開催した。

三橋兄弟治

没年月日:1996/06/17

読み:みつはしいとじ  水彩画家で、水彩連盟理事長の三橋兄弟治は、6月17日午前9時40分、結腸がんのため、神奈川県茅ヶ崎市の自宅で死去した。享年85。明治44(1911)年1月22日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれ、大正15(1926)年小学校高等科を卒業し、同年神奈川県師範学校に入学した。在学中の昭和4(1929)年、第6回槐樹社展に「妹の像」が初入選し、また同会同人の金沢重治を知り、以後指導を受けるようになった。翌年、同学校を卒業して小学校教員になるが、画家志望の念が強まり、翌年には教員をやめて上京、独立美術研究所などで学んだ。その間、同10年の第4回旺玄社展に「サナトリウムの一角」等が、また翌年の第23回二科展に「浴衣のルーちゃん」がそれぞれ初入選した。以後、再び教員となりながら、制作をつづけ、同15年の第9回旺玄社展に出品した「港」により第一賞をうけ、翌年には同会同人に推挙され、また紀元二千六百年奉祝展に「芝生に憩う少女」が入選した。戦後になると、創元会、日展、水彩連盟展などに出品をつづけ、同28年には、水彩連盟展の会員となった。しかし同30年には創元会会員を退き、同時に日展への出品も以後とりやめた。また、同27年頃より、水を使わずに絵具を堅い筆で紙にこすりつける描法をとりいれ、静物画や肖像画において点描風の温雅な画面をうみだすことに成功した。しかし、次第に構成的な表現に変化し、同33年頃からは、いわゆる「熱い抽象」の影響をうけて、抽象表現を試みるようになった。茅ヶ崎市の中学校の教員を辞した同39年から翌年にかけて、はじめてヨーロッパ旅行をした。この旅行を契機に、ヨーロッパの景色、風物に惹かれるようになり、同43年からは、ふたたび具象的な表現にかえった。その後は、たびたびスペイン、南仏を中心に取材旅行におもむき、その収穫として静謐な古都市の風景画の多くを水彩連盟展や個展で発表しつづけた。同63年、水彩連盟展の初代理事長に選出され、その翌年には60年におよぶ画業を記念して新宿小田急本店グランドギャラリーで回顧展が開催され、また平成2(1990)年にも、茅ヶ崎市、横浜市において約100点からなる「三橋兄弟治の世界展」が開催された。

塩見仁朗

没年月日:1996/04/06

読み:しおみにろう  創画会会員の日本画家塩見仁朗は4月6日午前6時16分、心不全のため京都市北区の社会保険京都病院で死去した。享年67。昭和4(1929)年宮崎市に生まれる。同26年京都市立美術専門学校日本画科を卒業し、同研究科へ進学する。在学中の、同29年第18回新制作協会展に日本画「青島風景」で初入選。同31年京都市立美術専門学校研究科を卒業する。同36年第25回新制作展に亜熱帯の植物を描いた「林間緋桐A」「林間緋桐B」を出品して新作家賞を受賞。同40年第29回同展に「樹陰青熟」「樹間白花」を出品して新作家賞、同42年第31回同展に「樹叢間隙」「樹陰白光」を出品して新作家賞を受賞し、翌43年第32回同展でも同賞を受賞して、同44年同会会員となった。同49年新制作協会日本画部が同会を連袂退会して創画会を結成するのに参加し、同会設立会員となる。同52年より57年まで京都日本画専門学校副校長をつとめ、平成4年から京都市立芸術大学客員教授となって教鞭を取った。初期には火山に興味を抱き、桜島、霧島などを描いた作品が多いが、昭和30年代後半から奄美、沖縄、南太平洋の島々などを訪れ亜熱帯、熱帯の植物をモティーフに生命の横溢する情景を神秘的雰囲気で描いた。

日下八光

没年月日:1996/03/23

読み:くさかはっこう  東京芸術大学名誉教授で装飾古墳壁画の模写で知られる日本画家日下八光は3月23日午後5時45分、肺機能障害のため東京都清瀬市の国立療養所東京病院で死去した。享年96。明治32(1899)年9月18日徳島県那賀郡羽浦町大字岩脇に生まれる。本名喜一郎。大正13(1924)年東京美術学校日本画科を卒業。昭和3(1928)年から4年にかけて大谷光瑞の請来品で当時、朝鮮総督府博物館所蔵となっていた西域壁画を東京美術学校の委嘱により模写し、同6年より約10年にわたり当時の帝室博物館で古画の模写に励む。この間、同12年東京府豊島師範学校講師、同15年東京府女子師範学校講師をつとめる。同18年より東京美術学校に奉職し、同19年同校助教授、同20年同校教授となった。この間、昭和5(1930)年第11回帝展に「錦の秋」で初入選。この後、同7年第13回帝展に「晩秋」を出品し、後第15回帝展、第5、6回新文展、第2、5回日展に出品し、官展でも活躍した。同28年から30年にかけて文化財保護委員会の委嘱により宇治平等院鳳凰堂装飾画の現状模写および復元を行い、つづいて同30年から同じく文化財保護委員会の委嘱により装飾古墳壁画の模写に従事した。陰湿な古墳内部での模写作業に忍耐強くのぞみ、技法、画法等に関する学究的な姿勢を失わず、模写を手がけた古墳についての研究書として昭和42年に朝日新聞社から『装飾古墳』を刊行。また模写された絵画は同44年2月から3月にかけて東京国立博物館で行われた「装飾古墳模写展」ならびに、平成5年国立歴史民俗博物館で開かれた「装飾古墳の世界」展に展示された。経年変化や表面の凹凸により明瞭に認識できない古墳壁画を、美術材料学、考古学、美術史学などの学識者の研究成果をもとに現状模写、復元模写し、関連学界の調査研究に寄与した。昭和42年東京芸術大学を定年退官し、同学名誉教授となった。著書に『装飾古墳の秘密』(講談社)、『東国の装飾古墳』(近刊)がある。

斎藤三郎

没年月日:1996/03/18

読み:さいとうさぶろう  洋画家の斎藤三郎は、3月18日午前4時50分、多臓器不全のため埼玉県浦和市元町の自宅で死去した。享年78。大正6(1917)年5月10日、埼玉県熊谷に生まれる。父は橋梁技師で日本画もたしなんだ。東京物理学校(現、東京理科大学)在学中の一時期、本郷絵画研究所に通う。昭和15(1940)年物理学校を中退して第二次世界大戦に出征。戦地で画家になることを決意し独学で多くのデッサンを描く。同20年復員。同21年第31回二科展に「向日葵」が初入選し、以来同展に出品を続ける。同23年第33回展に「敗戦の自画像」を出品して特待、同25年に「信仰の女」を出品して二科賞を受け会友に推挙、同29年会員となる。同35年に会員努力賞、同36年にはパリ賞受賞により翌年フランス、スペインに遊学。昭和30年代には抽象画を描いたが、渡欧後はスペインの踊り子や風景をテーマに鮮やかな色彩で情熱的、華麗な世界を描き、大衆的な人気を集め続けた。同47年「セビージャの祭」で内閣総理大臣賞を受ける。平成2(1990)年勲四等瑞宝章受章。

浅野弥衛

没年月日:1996/02/22

読み:あさのやえ  画家浅野弥衛は、2月22日午前6時45分、脳梗塞のため三重県鈴鹿市の自宅で死去した。享年81。大正13(1914)年10月1日、三重県鈴鹿市の参宮街道に面した、江戸時代から煙草の仲買商を営んでいた旧家の長男として生まれた。昭和7(1932)年、中学校を卒業後、職業軍人となり、同年満州に渡り、翌年帰国したとされる。この頃から絵筆を手にするようになり、また戦後詩人として知られるようになる津市在住の野田理一(1907年生まれ)と親交するようになり、野田の所有していたヨーロッパの画集や雑誌から、欧米の新しい芸術運動を知った。しかし、未知の表現も、彼にとって「驚きはなかった。能、カブキはシュールなものだし、床の間の違いダナのアンバランスだってそうだ。日本に昔からあったんや」(「洋画家浅野弥衛氏(訪問)」、『中日新聞』1971年3月13日)と回想しているように、後に独自の抽象絵画にむかう姿勢を、すでにしめしていた。本人の回想によれば、「昭和十三年か、十四年か、」に美術創作家協会に初出品し、「上野の美術館」に自作である「モノクロームの小さい作品」を見るために上京した、としている。(「ふるさと」、『朝日新聞』1961年1月17日)しかしながら、この初出品については、改称する以前の自由美術家協会展の第2回展(同12年)から第4回展(同15年)までの出品目録では確認できず、また改称後に上野で開催された第5回展(同16年)の出品目録は未見のため、確認できていない。戦争中は、三度応召し、戦後の同25年に鈴鹿信用組合理事となり、また美術文化協会会員となった。同28年、鈴鹿信用組合が鈴鹿信用金庫に改組され、その代表理事に就任、同34年まで勤め、その間、昼間は銀行での勤務、帰宅後の夜に制作をする生活がつづいた。同38年、美術文化協会を退会。その後、名古屋、東京、三重県内での個展を毎年開催しながら、制作をつづけた。その独自の抽象表現を築いたのは、1950年代後半からで、乳白色の画面をひっかいた無数の鋭い線によって表現され、ナイーブだが、独特の叙情的な小世界をつくりあげていた。この線を主体にした表現は、その後も一貫して追求され、徐々に評価をたかめていった。同62年から平成2(1990)年まで、愛知県立芸術大学の客員教授をつとめ、翌年には三重県民功労賞を受賞した。歿する直前の同8年1月に、郷里の三重県立美術館において初期から近作にいたる約250点によって構成された回顧展「浅野弥衛展」が開催され、自らの資質に沿いながら制作をつづけてきたこの寡黙な抽象画家の全貌が紹介された。

中村善種

没年月日:1995/12/26

読み:なかむらよしたね  独立美術協会会員の洋画家中村善種は、12月26日正午、肺気しゅのため京都市左京区の自宅で死去した。享年81。大正3 (1914)年2月15日、和歌山市に生まれ、昭和13(1938)年に和歌山師範学校専攻科を卒業、この年の第8回独立美術協会展に「カンナと糸杉」が初入選、同協会会員の森有材に師事した。同17年の第12回展に出品した「竹」、「栗鼠」によって独立賞を受賞。戦後もひきつづき同展に出品し、同24年に会員となった。同41年の第34回展に出品した「作品A」、「作品B」によってG賞受賞。この時代には、一時象形文字や甲骨文字をヒントにした土俗的な抽象表現を試みていた。同49年に京都市立芸術大学教授となり、同56年から平成6年まで大手前女子大学教授として指導にあたった。昭和59年、京都府文化賞、同61年には京都市文化功労賞、さらに翌年には和歌山市文化賞を受賞した。同60年に『中村善種画集』を刊行した。近年、都会の一隅の情景、あるいはそのかたすみに、おきすてられた事物がモチーフとなり、それらをプリズムのなかで交錯させたかのように虚実を織りまぜながら構成し、現代的な心象風景にしたてた作品を毎回出品していた。

黒田久美子

没年月日:1995/12/21

読み:くろだくみこ  光風会会員、女流画家協会設立会員の洋画家黒田久美子は12月21日午前9時10分、心不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年81。大正3(1914)年8月11日父生野源太郎、母初恵の長女として東京都小石川に生まれる。鉄道局員であった父の転任により仙台、名古屋、東京と転居。この間大正末年のころ名古屋第二師範附属小学校在学中に絵画に強い興味を抱くようになる。昭和4(1929)年金城女学校を病気のために休学中に遠山清に油画、パステル画を習う。翌年名古屋市展にパステル画「バラ」で入選。同年病気のため金城女学校を中退する。同6年中村研一に入門し、翌7年中村の紹介により岡田三郎助の女子研究所に入る。同8年第20回光風会展、および春台展に初入選。以後同展に出品を続け、同11年春台展に「鎧戸前」を出品して受賞。また、同年新文展鑑査展に「タイプライターのある静物」で初入選する。同12年洋画家黒田頼綱と結婚。同14年第26回光風会展に「庭」を出品して三星賞を受賞。翌年第27回同展に「しき松葉」を出品してI氏賞を受賞し会友に推挙される。また同年紀元2600年奉祝展に「夏の日」を出品。以後光風展、新文展に出品を続け、同20年敗戦後の光風会復興に参加して同会会員となる。同21年春に開催された日展に「二月の日」、同年秋の第2回日展に「ひがん花咲く頃」を出品し、同24年まで日展に出品を続けるが、翌年より日展を退く。この間同22年三岸節子らとともに女流画家協会を設立し同会会員となる。同35年第14回女流画家展に「タぐれの病院」を出品して船岡賞受賞。花や人形を配した静物画を好んで描き、対象の形態をデッサン風に捉える黒い輪郭線を完成作に生かし、緑、青、空色、赤などの原色で画面を構成して明澄な画風を示した。団体展のほか、同25年を皮切りに資生堂ギャラリーで3度、日本橋丸善画廊で2度個展を開催し、同32年から13固にわたり高島屋で黒田頼綱・久美子二人展を開催した。同56年からは世田谷美術館での世田谷展にも毎年出品している。著書に『静物の描き方』(昭和35年、アトリエ社)、『パステル画風景の描き方』(同46年アトリエ社)などがあり、同60 年「黒田頼綱・黒田久美子画集』(フジアート)を刊行している。

矢野文夫

没年月日:1995/12/16

読み:やのふみお  長谷川利行の評伝を著し、自らも詩、画をよくした矢野文夫は12月16日午前9時33分、肺炎のため川崎市の川崎市立井田病院で死去した。享年94。明治34(1901)年5月16日、神奈川県小田原市に生まれる。同40年一家で上京し、同41年東京市立麻布尋常高等小学校に入学。大正3(1914)年、同校を卒業して麻布中学へ入学する。同5年一家で本籍のある岩手県一関市に移るのに伴い、県立一関中学へ転校する。同8年同校を卒業して早稲田大学文学部予科に入学。同11年ローマ・カトリック教に興味を抱き、一関の天主公教会へ通い、同教会の神父を介してボードレールの生涯を知り、フランス語を学んで原書に接する。同年家庭の事情により大学を中退する。同12年5月仙台の河北新報社記者となるが同年12月に退社。翌年10月読売新聞社に入社し婦人部記者となるが翌14年9月に退社する。この頃より雑誌「詩聖」「詩と音楽」などに寄稿。同15年1月「婦女界」に入社し編集にたずさわる。このころ画家長谷川利行を知る。翌年9月「婦女界」を退社して詩作、評論活動に入る。昭和3(1928)年詩集『鴉片の夜』(香蘭社)を刊行。同9年ボードレール詩集『悪の華』の全訳本を耕進社より、また長谷川欣一との共著『ボオドレエル研究』を叢文社より刊行する。同10年文学、美術、映画を対象とする雑誌「美術手帖」(美術手帖社)を主宰創刊。同11年自ら経営する邦画社より「月刊邦画」「美術及美術人」を創刊する。同16年前年に死去した長谷川利行についての著『夜の歌―長谷川利行とその芸術』を邦画社から刊行。同18年出版界の企業整備により他社数社と合同して株式会社愛宕書房を創立してその取締役となる。この頃社団法人日本文学報国会会員となる。戦後、同24年前後は小説を多数著したが、同25年「芸術新聞」(芸術新聞社)を創刊し、翌年は戦前に5巻まで刊行しながら戦中の雑誌統合で廃刊になった「美術検討」を改題復刻する生活美術誌「色鳥」を創刊するなど、美術評論活動を再開する。また、同28年最初の個展「矢野茫土個展」を東京上野松坂屋で開催し、以後作品の発表もたびたび行う。同35年モデル小説『放水路落日―長谷川利行晩年』(芸術社)を刊行。同37年従来主宰していた「らーる(L’ART)」を改題し「色鳥美術ニュース」として芸術社から主宰創刊。同51年『放水路落日―長谷川利行晩年』に若干のエッセイを加えて改題した『野良犬―放浪画家・長谷川利行』(芸術社)を刊行する。その後もたびたび開催される長谷川利行の展覧会企画に参加、協力するとともに、自らの制作を個展で発表している。平成6(1994)年10月岩手県一関文化センターで「矢野茫土展」が開かれたほか、没後も同センターで同8年7月に「矢野文夫と茫土の世界展」が開かれ、同9年1月には東京ストライプハウス美術館で「茫土・矢野文夫全貌展」が開かれた。年譜、著作などは同展図録に詳しい。

秋元清弘

没年月日:1995/12/15

読み:あきもときよひろ  日展評議員の洋画家秋元清弘は、12月15日午後6時、呼吸不全のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年73。大正11(1922)年10月3目、現在の東京都中野区本町に生まれ、昭和15(1940)年東京府立第六中学校を卒業、東京美術学校油画科に入学、田辺至に師事した。同19年に同学校卒業。戦後は、同23年から高校の美術教師をしながら、創作活動をつづけ、同30年の東光展にて奨励賞をうけ、同32年同会会員となった。また、同31年の第12回日展に「海辺」が初入選、以後毎回出品をつづけ、同40年の第8回日展では「室内」が特選となり、同46年の改組第3回展でも「青い服」が再び特選となった。以後日展には、無鑑査、委嘱出品をつづけ、同55年に会員となった。平成6(1994)年に日展評議員となった。

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