吉井淳二

没年月日:2004/11/23
分野:, (洋)
読み:よしいじゅんじ

 洋画家で長く二科会理事長を務めた吉井淳二は、11月23日午後2時23分、肺炎のため鹿児島市内の病院で死去した。享年100。1904(明治37)年3月6日、鹿児島県曾於郡末吉町に生まれる。県立志布志中学の二年時に画家になることを決意し、三年時には油絵の道具一式を与えられる。1922(大正11)年、中学の卒業式を待たず、同級生で生涯の友となった海老原喜之助と上京、共同生活をしながら川端画学校でデッサンを学ぶ。24年東京美術学校西洋画科に入学、和田英作教室に学んだ三年時には第3回白日会展で白日賞を受賞したほか、第13回二科展には「静物」「花と女」が初入選する。24年第5回展から入選を続けた中央美術展では、1928(昭和3)年第9回展で中央美術賞を受けている。同年には橋本八百二堀田清治と三人展を開催したほか、翌29年東京美術学校を卒業すると、内田巌、新海覚雄らと鉦人社を結成し第1回展を開いた。同年有島生馬を訪ね、以後指導を受ける。同11月フランスに渡り、海老原と再会する。パリを拠点にイギリス、オランダ、イタリアなどに旅をする。32年帰国し、第19回二科展に滞欧作を特別出品する。初入選以降、二科会には、滞欧中の第17、18回展をのぞいて2004(平成16)年まで連続して出品した。同会では35年会友、40年会員になる。45年10月の二科会再興の呼びかけに応え再建に参加、翌年9月の31回展に「菅笠の娘」「菜園にて」を出品。61年二科会に理事制が設けられ、理事のひとりとなる。65年、前年の二科展出品作「水汲」などに対して日本芸術院賞を、二科展では68年東郷青児賞、69年内閣総理大臣賞を受ける。78年4月の二科会会長・東郷青児の死去後、翌79年同会を社団法人化した後に北川民次を継いで理事長に就任、98年まで努めた。二科会のほかには、33年に鉦人社を前身とする新美術家協会の5回展にも出品。40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「人物」を出品。また、百貨店や画廊で個展を開催したほか、太陽展、日動展などにも出品。90年には鹿児島市立美術館でも展覧会を開催した。一方、46年には海老原とともに南日本新聞社主催で南日本美術展を興し、審査員となり後進の育成にも努めている。この間、45年杉並区南荻窪から郷里に疎開、その後杉並の家が焼けたため作品の多くを失う。51年、鹿児島から荻窪へ再び住まいを移している。65年ヨーロッパへ作品制作の旅行をしたほか、75年の日伯美術展を機にブラジルを訪れ、以後たびたび南米に足を運ぶ。頭巾をかぶり頭上に荷をのせた労働する女性をよく題材にし、その取材対象は内外の市場から水汲みの光景まで多岐にわたった。それらを、写実を基にしつつも簡略化した線と明るい色彩で描いた。58年南日本文化賞、76年日本芸術院会員、77年勲三等瑞宝章、85年文化功労者、89年文化勲章を受けている。92年、鹿児島県加世田市に開いた特別養護老人ホームに隣接する吉井淳二美術館を開館。最晩年は自らも加世田に暮らした。

出 典:『日本美術年鑑』平成17年版(359頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「吉井淳二」『日本美術年鑑』平成17年版(359頁)
例)「吉井淳二 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28313.html(閲覧日 2024-03-29)

以下のデータベースにも「吉井淳二」が含まれます。

外部サイトを探す
to page top