本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





田村豪湖

没年月日:1940/03/09

日本画家田村豪湖は3月9日逝去した。享年68歳。本名代吉、明治6年2月新潟県に生る。橋本独山、佐竹永湖等に師事し、嘗て日本画会々員、美術研精会々員であつた。日本美術協会或は初期文展に出品した。

田中頼璋

没年月日:1940/02/16

日本画家田中頼璋は腎臓炎のため2月16日広島市の自宅に於て逝去した。享年73歳。本名大治郎、明治元年島根県浜田に生る。16歳の時長州の萩に赴き、森寛斎に師事した。暫く豊文と号したが明治35年上京、川端玉章の門に入る。当時日本美術協会に出品の「楼閣山水」が銅牌を、同37年の「山居水住」が銀牌を授与せられ、出世作となつた。其後、文展第2回に出品の「鳴瀧」が3等賞に入り、爾後文展、帝展に連年入賞し、帝展第5回に於て審査員に就任し、現在に及んでゐたもので、尚屡々御前揮毫の栄に浴した。

邨田丹陵

没年月日:1940/01/27

日本画家邨田丹陵は1月27日逝去した。享年69歳。弱冠吉沢素山に就学、次いで土佐派の川辺御楯に師事し、明治23年内国勧業博覧会に「石橋山合戦図」を出品、褒賞を受け、若くして頭角をあらはした。翌年岡倉天心を盟主とする日本青年絵画協会の創立に与り、同協会共進会の委員、審査員として活動し自らも幾多の力作を発表した。明治30年同会が日本絵画協会と改称し、31年日本美術院と聯合して共進会を開くに至つた後も審査員となり、又自らも出品した。其の後同37年日露役に際して海軍に従軍す。文展第1回に「大宮人図」を出陳、3等賞となつたが、爾後自ら省る所あり、画壇を退き一切の展覧会と交渉を絶つた。昭和10年に明治神宮聖徳記念絵画館の壁画「大政奉還図」を揮毫してゐる。晩年は東京府下北多摩郡に住居し、悠々画作に従ひ、又菊作りの大家として知られてゐた。略年歴明治5年 7月20日東京に生る。本名竧(タダシ)、父は旧田安徳川藩士村田直景明治13年 素山吉沢利喜に就て画技を習ふ。母の生家邨田氏を継ぐ。明治16年 6月、川辺御楯の門に入り丹陵と号す明治17年 第2回内国絵画共進会「藤原光頼諌惟方図」「神南川図」明治19年 東洋絵画共進会「佐藤忠信芳野戦図」褒状明治23年 第3回内国勧業博覧会「石橋山合戦図」褒状明治24年 日本青年絵画協会を創立明治25年 日本青年絵画共進会「豊太閤観花醍醐図」明治26年 同第2回共進会「新田義興」銅牌明治27年 日本美術協会展「小早川隆景破明軍図」銅牌、第3回日本青年絵画協会「両雄会湖畔図」明治28年 第4回内国勧業博覧会「富士牧狩図」妙技3等賞、宮内省御買上明治29年 日本青年絵画協会の組織改組さる、宮内省御下命画「黄海々戦図」(屏風三隻)謹作明治31年 日本絵画協会日本美術院第5回共進会「森蘭丸」銅牌明治32年 同第7回共進会「雪月花」銅牌明治35年 讃岐琴平神社の襖「富士牧狩図」揮毫明治37年 日露役に際し海軍に従軍、寺崎広業と共に記念画帳「二龍宝台」を作る明治40年 東京勧業博覧会「佐野の雪図」2等賞、東宮職御買上 文展第1回「大宮人図」3等賞、宮内省御買上、爾後展覧会に発表せず昭和10年 聖得記念絵画館の壁画を揮毫す昭和15年 1月27日没

石島良則

没年月日:1939/12/14

日本画家石島良則は明治35年、石川県鹿島郡に生る。京都市立絵画専門学校卒業後、西山翠嶂に師事した。昭和7年、帝展に「村童」が入選し、爾後官展に「冬日」「高雄の女」「想ひ」等を出品、又同10年には京都市美術展で「供饌」が入賞した。

村上華岳

没年月日:1939/11/11

日本画家村上華岳は宿痾の喘息のため11月11日逝去した。享年52歳。本名震一、明治21年7月大阪に生れた。京都市立美術工芸学校を経て、同44年京都絵画専門学校を卒業、大正7年同志と共に図画創作協会を創立し、活動を続けたが、同15年同会を離脱し、爾後一切の団体より完全に独立した。 作家として生来特質を強く備へ、既に初期の時代より洋の東西を問はず画風を摂取して、独自の感覚を示した。「夜桜」には就中浮世絵研究の跡が窺はれる。41年文展に「驢馬に夏草」を出して3等賞となつた。其の後第10回文展に特選となつた「阿弥陀」、国展出品の「裸婦」に及んで、独自の勁い線描の発展があり、印度及び西欧壁画の影響が認められる。而して「裸婦」は出品画的大作の最後のものであり、後半生は絶えざる闘病生活となつて比較的小品画のみが作られた。白描の仏画、没骨による花卉及び風景画には此の作者独自の画風が生じ、その仏教的な思想を反映しつつ時には晦渋とも見える主観的な作品を生むに至つた。美術団体に属さぬところから、後年の制作で公表されずに個人の所蔵に帰したものは尠くない由である。略年譜明治21年 7月大阪に生る、武田誠三の長男、武田震一明治28年 神戸小学校に入学、神戸村上家に寄居明治34年 同校卒業、京都美術工芸学校に入学明治37年 村上家を嗣ぐ明治40年 美術工芸学校卒業明治41年 第13回新古美術品展「木枯」4等、文展第2回「驢馬に夏草」3等明治42年 第14回新古美術品展「春の雨」4等。京都絵画専門学校設立、入学明治44年 第16回新古美術品展「早春」3等、文展第5回「二月の頃」褒状、京都絵専第1回卒業、入江波光、榊原紫峰、土田麦僊、小野竹喬等同期生大正4年 文展第9回「春耕図」大正5年 文展第10回「阿弥陀」特選大正6年 文展第11回「白頭翁」、選外大正7年 1月、入江、土田、榊原、小野、野長瀬等と国画創作協会創立、国展第1回「聖者の死」大正8年 国展第2回「日高川」大正9年 国展第3回「裸婦」大正11年 巴里日本美術展「CINTAMANICAKRA」出品大正12年 京都を去り阪神沿線に住む大正13年 国展第4回「説法の図」「八重橋」「瓜茄残暑」大正14年 国展第5回「松山雲煙」大正15年 久迩宮家へ献上画。以後一切の美術団体を離脱昭和10年 帝院改組に際し無鑑査推挙、所蔵家により東京永楽倶楽部にて5月個展昭和11年 中井宗太郎主催で京都美術倶楽部にて個展開催昭和12年 三聖代名作美術展へ「山」(連作)出品昭和14年 11月11日没画集―「華岳画集」(大正12年発行)、「華岳画集」(大正14年発行)「華岳画集」(大正15年発行)「華岳画譜」(昭和6年発行)「華岳画襍」(昭和14年発行)

岡村葵園

没年月日:1939/10/08

川端画学校日本画科主任教授岡村葵園は、病気のため10月8日逝去した。明治12年3月23日鳥取県に生れ、東京共立美術学館を経て同35年東京美術学校を卒業、同42年川端画学校日本画科の主任教授となり、一旦辞職したが、大正7年再び同職に就任、現在に及んだ。日本画の外に書道、漢籍等に造詣深く、後進の誘掖に当つた。

岡田三郎助

没年月日:1939/09/23

帝室技芸員、帝国芸術院会員、東京美術学校教授、従3位勲2等岡田三郎助は、予て療養中のところ9月23日渋谷区の自邸に逝去した。享年71歳。9月25日青山斎場に於て神式を以て葬儀執行、11月11日青山墓地に埋葬した。 明治2年1月12日佐賀県佐賀市に石尾孝基の四男として生る。幼名芳三郎。幼くして上京、旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治20年東京帝国大学工科大学助教授曽山幸彦に就学し、初めて洋風画を学ぶ。此の年岡田正蔵の養嗣子となり岡田姓を称す。同24年明治美術会々員となる。師曽山の夭折後其の家塾を承継せる堀江正章、松室重剛の大幸館に留まり、25年修了す。26年黒田清輝、久米桂一郎と知り、彼等の薫陶を受く。28年第4回内国勧業博覧会に「初冬晩暉」を出品して3等賞を受け、漸く画名を知らる。翌29年東京美術学校に西洋画科の新設さるるや、擢でられて助教授を拝命、又此の年白馬会の創立に参画し、其の第1回展覧会に20余点を出品す。此の時代その初期のアカデミツクな画風より印象派の傾向への転換期に在り。明治30年西洋画研究の為文部省より満4年間仏国に留学を命ぜられ出発す。専らラフアエル・コランに師事し、研鑚を遂げ、同35年1月帰朝す。此の年12月東京美術学校教授となる。翌36年第5回内国勧業博覧会に滞仏作品「読書図」を出品2等賞を受く。又此の時代まで白馬会に出品して活躍す。同40年東京府勧業博覧会審査官となり、自ら「某夫人像」を出品1等賞を受く。此の年文部省美術審査委員会創設さるや、その第二部委員となり、爾後官設展覧会の為に尽瘁するところ大であり、又自らもほとんど毎回力作を出品した。明治45年には藤島武二と図り本郷に洋風画指導機関本郷絵画研究所を創設し、民間に在つても後進の指導に尽力した。大正8年帝国美術院の創設と共に挙げられて会員となつた。同13年東京美術学校西洋画科主任を命ぜられた。昭和5年2月文部省より欧州出張を命ぜられ、各国の美術及び美術工芸の研究を遂げ、同年11月帰朝した。同9年帝室技芸員を拝命し、同10年改組後の帝国美術院会員に挙げられ、又満洲国に出張した。同11年には一時東京美術学校長事務取扱を命ぜられた。翌12年には多年の功労に依り文化勲章を拝受し、又新設の帝国芸術院会員となつた。13年より健康を害したが猶制作を続け、翌14年に至る。此の年3月呉内科に入院、6月には退院し小康を得しも、9月23日遂に立たなかつたものである。其の71年の生涯を顧るに、明治20年以後洋風画に携はつて終始変らず、その伎倆に於て衆に擢でたのみならず、永年東京美術学校及び本郷絵画研究所に於て後進の薫陶に当り、洋風画の発展に貢献するところ極めて大であり、その人格、伎倆に於て稀に見るところであつた。又彼の美術工芸方面に貢献せる点も忘却出来ないのである。略年譜年次 年齢明治2年 1月12日石尾孝基四男として佐賀県佐賀市に生る。明治4年 3 厳父孝基に伴はれ上京す。明治8年 7 旧藩主鍋島直大候邸内に寄寓す。明治13年 12 父と共に京都に移る。次で大阪に移る。明治16年 15 父と共に再び東京に移る。明治20年 19 岡田正蔵の養嗣子となり、東京府芝区に本籍を置く。帝国大学工学部助教授大野幸彦に洋風画を学ぶ。明治24年 23 明治美術会々員となる。明治25年 24 1月11日師大野幸彦病没す(東京帝大工学部保存履歴書)。大幸館(旧曽山塾)に入塾す。「長崎にて」(作品)、「倚る女」(作品)明治26年 25 7月大幸館曽山塾修業、久米桂一郎の紹介にて黒田清輝と知る。後岩村透と知る。「矢調べ」(大幸館修業作品)明治27年 26 10月天真道場に入門して黒田清輝、久米桂一郎の薫陶を受く。「初冬晩暉」(作品)明治28年 27 「初冬晩暉」第4回内国博出品(3等賞) 10月「初冬晩暉」明治美術会秋季展出品。明治29年 28 9月9日、東京美術学校助教授被任。同月、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透等の白馬会創立に参加す。10月、第1回白馬会展に「夕日」以下21点出品。明治30年 29 5月28日西洋画研究の為、文部省留学生として仏国に留学を命ぜられ、7月9日巴里著、8月1日、ラフアエル・コランの門に入り、同邸内に仮寓す。10月13日巴里に帰り、オテル・スフローに寓居を定む。アカデミイ・ビツチに入学してコランの薫陶を受く。10月、白馬会第2回展に「収穫」出品。明治32年 31 10月白馬会第4回展に「自画像」出品、「ムードンの夕暮」(作品)「女肖像」(作品)明治33年 32 「千九百年巴里博覧会」(作品)明治34年 33 「読書」(作品)「伊太利の女」(作品)明治35年 34 1月2日東京に帰著す。2月4日、東京美術学校西洋画授業を1週2日嘱託。白馬会第7回展に「老翁」以下5点を出品、12月5日、任東京美術学校教授、叙高等官6等。明治36年 35 第5回内国博覧会に「読書図」出品、(2等賞)。「舞子」(作品)明治38年 37 10月白馬会10週年記念展に「秋林の幻影」以下30余点出品。明治40年 39 3月5日、東京勧業博覧会審査官を嘱託さる。尚同展に「某夫人像」を出品、1等賞を受領した。8月13日、美術審査委員会委員被仰付、第二部委員を命ぜらる。10月、白馬会11回展覧会「習作」出品。同月、第1回文展に「大沢博士肖像」、肖像(婦人像)外1点出品。作品、「紅衣夫人」「某夫人像」明治41年 40 10月第2回文展「小池博士肖像」外2点出品。作品「萩」明治42年 41 10月第3回文展「大隈伯爵夫人肖像」外2点、出品。明治43年 42 1月東京美術及び美術工芸展評議員嘱託。7月美術審査委員会委員仰付、第二部員拝命。5月白馬会第3回展に「女のあたま」(画稿)「少女」出品。9月伊国万国博覧会出品鑑査委員嘱託。10月第4回文展「ひなた」「くもり」出品。明治44年 43 8月美術審査委員会委員仰付、第二部員被命、10月第5回文展「湯場にて」出品。明治45年(大正元) 44 3月藤島武二と共に本郷絵画研究所を設立す、6月第6回美術審査委員会委員被付、第二部員被命。10月第6回文展「偶感」出品。大正2年 45 10月第7回文展「凝視」「女の顔」出品大正3年 46 10月、光風会第3回展覧会に「ぬいとり」出品。大正4年 47 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。同月、第3回図案及応用美術審査委員。10月第9回文展、「黒き帯」外2点出品。大正5年 48 8月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命、10月第11回文展「ヨネ桃の花」出品。大正6年 49 2月光風会第5回展「桃の花」「白きベエール」出品。9月美術審査委員会委員被仰付、第二部員被命。10月第11回文展「初夏」「花野」出品大正7年 50 9月第6回工芸展覧会審査員嘱託、同月美術審査委員会被命。10月第12回文展「忍路」「北国の雪」出品。大正8年 51 7月工芸審査委員被仰付、8月第一部員兼第二部員被命。9月帝国美術院会員被仰付。10月第1回帝展「ネムの花」出品。大正9年 52 9月工芸審査委員被仰付、10月第2回帝展「支那絹の前」出品。大正10年 53 7月勅任官待遇、9月工芸審査委員被仰付。10月第3回帝展「榕樹の森」出品。大正11年 54 3月平和博覧会審査委員嘱託。5月朝鮮美術審査委員嘱託。9月工芸審査委員会委員被付10月第4回帝展「真野博士の肖像」出品。大正13年 56 10月第5回帝展「水辺」。12月東京美術学校西洋画科主任被命。大正14年 57 2月光風会展「北国の春さき」。同月会長として本郷絵画展覧会を組織、6月第1回展「裸婦」「菊」出品。10月第6回帝展「裸婦」2点出品。大正15年(昭和元) 58 5月第1回聖徳太子奉讃展覧会「掛を着たる女」出品。10月第7回帝展「古き昔を偲びて」出品。昭和2年 59 10月第8回帝展「山川先生の肖像」出品。昭和3年 60 1月第3回本郷絵画展覧会「来信」出品。8月満洲出張。昭和4年 61 第4回本郷絵画展覧会「風景」出品。昭和5年 62 1月春台美術第5回展覧会「麻の着物」出品。2月欧洲各国へ出張被命。昭和6年 63 春台美術第6回展覧会「ヴエルサイユとコローの池」出品。「薔薇」(作品)昭和7年 64 第7回春台美術展覧会「薔薇」「仙石原」出品。昭和8年 65 5月光風会展「イスタンブルにて」、第8回春台展覧会「金時山」出品。3月工芸審査委員被仰付、第一部兼第二部員被命。昭和9年 66 5月、光風会第21回展覧会「慶州仏国寺」「菅ノ平」出品。4月工芸審査委員被仰付。第一、二部員被命、12月帝室技芸員被命。昭和10年 67 1月第14回春台美術展覧会「伊豆の東海岸」出品。4月工芸審査委員被仰付、第1、2部員被命。6月、帝国美術員会院被仰付。12月満洲国出張被命。昭和11年 68 1月第11回春台展覧会「長野の水源地」出品。4月工芸審査委員被仰付、第一、二部員被命。同第26回光風会展覧会「鏡川の夕」出品。6月東京美術学校長事務取扱被命、9月同職被免。文部省美術展覧会委員被仰付。昭和12年 69 2月第12回春台展覧会「岩越国境」出品。「人物」(作品)昭和13年 70 2月光風会第25回展覧会「山中湖」出品。昭和14年 71 第10回春台美術展覧会「河口湖鵜の島」出品。3月東京帝大病院呉内科入院、6月退院、9月23日於自宅永眠、従3位に追陞せらる。

大沼かねよ

没年月日:1939/07/12

洋画家大沼かねよは7月12日肺炎のため逝去した。享年35歳。明治38年宮城県に生れ、女高師図画専修科を出て、帝文展に「家族」「野良」「遊楽」等が入選し、又槐樹社にも「三人」其他を出品、その画風を注目されてゐた。

猪飼嘯谷

没年月日:1939/06/16

文展無鑑査猪飼嘯谷は病気のため6月16日逝去した。本名卯吉、明治14年4月12日京都に生る。同33年京都市立美術工芸学校を卒業、同38年同校の助教諭を拝命、後教諭となり、又絵画専門学校の教諭となつたが、大正14年退職した。故谷口香?の門人で、文展には「烏夜亭」「大燈国師」「画僧」「近江国柞」「拾君」「六昆征伐」等の作を出品した。昭和5年宮内省の命により「大正天皇御大礼絵巻」を謹写し、又同9年には京都市の依頼により明治神宮絵画館の壁画「御即位礼図」を謹作した。

ラグーザ・玉

没年月日:1939/04/06

女流洋風画家ラグーザ・玉は、4月6日芝区の清原家に於て急逝した。享年79歳。同9日芝増上寺に於て葬儀を執行、其後遺骨は麻布長玄寺に埋葬、一部はイタリア、パレルモに送られた。 女史は清原姓、幼名を多代と称し、文久元年6月10日江戸芝に生れた。幼より絵事を好み、若くして日本画を学び、次で永州なる画家に就て西洋画法の指導を受けた。明治10年予て工部美術学校に彫刻学教師として招聘されてゐたヴインチエンツオ・ラグーザと識り、その画才を認められて西洋画法の指導を受け、得るところ多かつた。同15年ラグーザの帰国に際し伴はれてイタリア、パレルモ市に渡行、サルバトーレ・ロ・フオルテに師事した。同17年ラグーザがパレルモ市に工芸学校を開設するやその絵画科の教師となつた。此の工芸学校が市立となり高等工芸学校となるに至つて教授となり、女子部の絵画の指導に当り、其の後女子部の廃止と共に退き、専ら家庭に在つて子女の指導に当つた。此の間パレルモに於ける諸種の美術展覧会の外モンレアレ、ヴエネツイア或は米国市俄古、聖路易等の美術展覧会、博覧会等に出品して最高賞を与へられた。而して、昭和2年ラグーザの没後、パレルモ市に在り、同地よりラグーザの遺作多数を東京美術学校に寄贈し、昭和8年渡伊後50有余年にして帰国した。其の後は芝区の旧家の辺清原家に画室を構へ、専ら画筆に親しんでゐたが、昭和14年4月5日脳溢血に倒れ翌6日遂に長逝したものである。女史は長く故国を離れ、直接わが画壇との交渉を絶つてゐたが、イタリアに於いては夙に著名であり、わが国に於いても再度の展覧会に依て滞伊中の制作及び帰朝後の作品が紹介さるるに際し、其の堅実な画風を確認したのであつた。

伊東紅雲

没年月日:1939/04/02

文展無鑑査、伊東紅雲は4月2日脳溢血のため逝去した。本名は常辰、明治13年7月13日東京に生る。同27年に村田丹陵門に入り、土佐派を学ぶ。同40年文展第1回に「防矢」が入選、大正4年に「船出」が3等賞となつた。同14年帝展委員に任命される迄「生★」「消息」「関の清水」「手向」「護世四天」「さすらひ船」「朝猟」「賭戯」等が入選してをり、昭和2年以降は「防人」「出陣」「戦火の後」「献甲」等を出品してゐる。予て小堀鞆音の門に出入し、革丙会にも関係し、最近は朱弦会に参加してゐた。故実に精しく、専ら歴史画を制作した。尚昭和3年に明治神宮絵画館に「御元服図」を謹作してゐる。

佐藤紫煙

没年月日:1939/03/10

日本画家佐藤紫煙は3月10日逝去した。享年65。本名文治郎、明治6年岩手県に生れ、瀧和亭に就いて花鳥を学び衣笠豪石に山水画の描法を受けた。明治29年明治天皇日本美術協会へ行幸の際、御前揮毫を仰付けられ、大正天皇に献上の揮毫まで凡20回の光栄を担つた。明治30年京都府全国絵画共進会に出品の「秋蘭図」は1等賞、翌31年日本美術協会展には2等賞を受け、40年文展に対抗して開かれた正派同志会第1会展には3等賞を受けている。大正7年秋には文展審査に慊らず南北画系作家と共に建白書を時の文相に提出したことがある。

加藤英舟

没年月日:1939/02/15

故西村五雲と共に竹内栖鳳門下の先輩として知られた加藤英舟は2月15日逝去した。本名栄之助、明治6年名古屋に生る。初め名古屋の奥村石蘭に学び、同23年京都府立画学校に入学、幸野楳嶺の薫陶を受けたが、楳嶺没するに及び岸竹堂に師事し更に竹堂の没後竹内栖鳳の門に入つた。花鳥動物を得意とし、その画風は質朴温雅、伝統的技巧を守り、小品の花鳥画に佳作を遺した。文展第6回出品の「かすみ網」で褒賞を受け、昭和3年帝展委員に推薦された。主なる作品には、文展第2回出品の「野狐の図」、同第4回「秋晴の図」、同第6回「かすみ網」、同第9回「大羽打」、帝展第2回「小さき夢のさまざま」、同7回「花の市」、同8回「秋の園」、同第10回「湖辺の秋」、同第12回「巨椋早涼」、同第14回「秋の脊戸」等が挙げられる外、京都東本願寺黒書院の障壁画を揮亳をしてをり、又大正11年、皇后陛下の関西行啓に際しては川崎家よりの献上画を謹作した。

小林孝行

没年月日:1939/01/13

ニ科会の出品者で、九室会の会員であつた小林孝行は1月13日真鶴の海に投身自殺した。享年25歳。昭和7年ニ科に初入選となり、同11年よりニ科展に毎回超現実主義の作品を発表した。尚12年に銀座、サロン・ルウエに壁画を執筆した。14年3月紀伊国屋に遺作展が開催された。

野田英夫

没年月日:1939/01/12

新制作派協会の会員として近年注目されてゐた野田英夫は1月12日病気のため逝去した。日系米国市民で1910年3月3日北米加州サンノゼ市に生れた。桑港加州美術学校に入学し、当時スタツクポール、マキー、アーナルド・ブランチに師事し、尚デエゴ・リベラに壁画の指導を受けたことがある。31年ブランチの招聘により紐育ウツドスタツクに行き、同地で国吉康雄、ユージン、スパイカー、グローツ、リユーサ等を知り、壁画、テンペラ画の研究製作に従つた。34年日本を訪れ翌年銀座青樹社に個展を開催、又ニ科会に出品した。37年母校の加州ピドモント・ハイスクールの壁画を製作、次で欧州を遍歴し、9月帰朝、新制作派協会の会員となつた。米国に於ける展覧会ではウツドスタツク美協会展、ニユーヨーク・ホイツトニイ全米作家展、シカゴ・アートインステチユート展、桑港美術協会展、ワシントンココランギヤラリー展等に出品、度々授賞せられてゐる。油絵の外に壁画を得意とし、米国に多数の作品を残してゐるが、来朝後は新制作派展に出品し、好んで小市民的な題材に幻想を求めた特異な画風を示してゐた。尚、本年度の新制作派展に遺作の特別陳列が行はれ、11月に春鳥会より「野田英夫作品集」が刊行された。

彭城貞徳

没年月日:1939/01/04

洋風画家彭城貞徳は、1月4日逝去した。享年82。安政5年2月11日長崎市に生る。同市の宏運館に学び、明治5年上京、同8年高橋由一の天絵学舎に入り、洋風画を初めて学ぶ。同9年工部美術学校に入学アントニオ・フオンタネージの薫陶を受く。其後一時石版会社玄々堂の図案部に入り、次で17年長崎に帰郷、長崎商業学校等に教鞭をとる。明治26年米国市俄古万国博覧会に際し渡米、費府美術学校に学ぶ。28年英国に渡り、ウオータールー石版会社に入り図案家として働く。明治30年仏蘭西に至り、滞留5年の後同34年帰朝す。36年長崎に帰郷、東山学院、鎮西学院、活水女子校等に生徒を指導し、傍ら画塾を開く。大正4年上京日本橋芳町に商家を構へ、余暇制作す。終世中央画壇との交渉を有たず知らるるところ尠かつたが、その作品は一種の風格を持つてゐる。又音楽に趣味を持ち、就中尺八は二代目一調として知られてゐた。

小川芋銭

没年月日:1938/12/17

日本美術院同人小川芋銭は1月以来中風のため茨城県牛久沼畔の自宅に於て静臥療養中のところ12月17日逝去した。享年71歳。少年時代本多錦吉郎画塾に洋画を学び、又同時に日本画をも独学し、同40年前後には平民新聞、読売新聞等に主として農民を主題とした漫画を執筆、大正4年迎へられて珊瑚会々員に、同6年日本美術院同人に推薦された。 明治29年以降は概ね郷里牛久に住し、専ら沼畔の風物に取材した。仕事は姶んど水墨及び水墨淡彩に一貫し、東西画の素養に基く独自の南画を創作して後年の構図、筆意の逞しさは宋元画に想到せしむるものがある。晩年は漂渺として明快に向ひ、六曲一双「江村六月」或ひは二曲一双「桃花源」は其の人柄と特色を示すと共にこの作者として珍らしい大作であらう。尚、書及び俳諧にも造詣があり、老荘の学に親しみ、好んで河童を描いたことは有名である。画号は明治20年頃より大正10年頃まで牛里(俳句に多く用ゆ)、草汁庵、芋銭、大正11年頃より晩年まで芋銭子、莒飡子等を用ひ、昭和3年頃稀に字銭子を用ひた。略年譜年次 年齢明治元年 2月18日赤坂溜池、山口筑前守藩邸に、小川伝右衛門賢勝の長男として生る。幼名不動太郎、後茂樹吉と改む明治4年 4 一家山口氏旧領牛久村に帰農明治11年 11 東京に出で京橋区新富町某小間物商の丁稚となる、此頭より余暇を偸みて絵を学ぶ明治13年 13 親戚本多錦吉郎の画塾彰技堂に洋画を学ぶ明治17年 17 濁力洋画の研修に従ひ、又市隠抱朴斎に就て漢画を問ふ明治19年 19 機縁ありて加地為也に画事を問ふといふ明治21年 21 朝野新聞に客員となる明治24年 24 此頃朝野新聞に漫画を掲載、初めて芋銭の号あり明治26年 26 父の命により帰国し農事に従ふ、余暇を愉みて画作す、翌々年妻を迎ふ明治40年前後 同30年頃以降、いばらき新聞、雑誌文芸界、平民新聞、東亜新報、国民新聞、雑誌ホトトギス 読売新聞等に挿絵、漫画等を描く明治41年 41 「草汁漫画」を刊行す明治44年 44 東京三越に小杉未醒と共に芋銭未醒漫画展を開く大正4年 48 平福百穂、川端龍子、森田恒友等の組織する珊瑚会々員となる大正6年 50 珊瑚会第3回展出品「水郷二題」外4点 日本美術院同人となる、同院第4回展出品「沢国五景」大正7年 51 院展第4回試作展出品「雪景」、珊瑚会第4回展出品「百魔絵巻」「虚陵米価」等、院展第5回「峡谷朝雷」「峡谷秋草」「陶土之丘」大正8年 52 珊瑚会第5回展「抱甕痴」、院展第6回「樹下石人談」、同院同人作品展「恍惚郷」大正10年 54 日本美術院米国展出品「水虎と其脊族」「若葉に蒸さるゝ木精」、院展第8回「山彦の谷」大正11年 55 同院第8回試作展「朧夜」、院展第9回「沼四題」(桧原、鰌取り、小鰕漁、家鴨小屋)大正12年 56 同院第9回試作展「白雲想」、院展第14回「水魅戯」、茨城美術展創立会員となり、「樹間如水人如魚」を出品大正13年 57 同院第10回試作展「新緑潤国土」院展第11回「夕風」「芦花浅水」大正14年 58 同院第11回試作展「月輪穿沼」、院展第12回「野干燈」大正15年 59 聖徳太子奉讃展出品「早夏清朝」、院展第13回「丹陰霧海」昭和2年 60 同院第12回試作展「雪姥と黒狐」昭和3年 61 院展第15回「浮動する山岳」「荒園晴秋」、還暦記念として「芋銭子開七画冊」を刊行昭和4年 62 同院第14回試作展「畑のお化け」、院展第16回「止水」「怒涛」昭和5年 63 院展第17回「積雨収」「太古香」、羅馬開催日本美術展出品「河伯安住所」昭和7年 65 同院第16回試作展「十二橋」、院展第19回「海島秋来」昭和9年 67 院展第21回「反照」昭和10年 68 帝院改組に当り参与に推さる、日本美術院第19回試作展「長沙散歩」、8月「雲巒煙水」「江村六月」六曲塀風一双成る、院展第22回「雪巒煙水」昭和11年 69 帝国美術院第1回展「暁烟」、院展第23回「聴秋」昭和12年 70 院展第24回「湖上迷樹」、11月日本橋東美倶楽部に、草汁会主催の名を以て自己発意による古稀記念新作展開催、「新嘗之慈雲」外約60点出品、古稀記念として「芋銭子開八画冊」刊行昭和13年 71 2月東京俳画堂より「河童百図」公刊、12月17日没(主として「故小川芋銭遺作展」目録による)

倉田白羊

没年月日:1938/11/29

春陽会々員、元日本美術院同人倉田白羊は宿病の糖尿病のため11月29日逝去した。享年58歳。 本名重吉。浅井忠の門人で、明治34年東京美術学校を卒業後太平洋画会々員、雑誌「方寸」同人、日本美術院同人を経て大正11年同志と共に春陽会を創立して現在に及んだ。文展の「つゆはれ」、院展の大作「冬」等は青年期の代表作で穏やかな構想に成るが、大正12年以降信州の山村風物を主題として、比較的小品に於て厳格な客観描写を追求した。昭和9年以後、大作の製作へ掛り、「たそがれ行く」「たき火」「冬野」を次々完成、独自の格調を築き上げたものである。略年譜年次 年齢明治14年 12月25日儒者倉田幽谷の末子として埼玉県浦和に生る明治27年 13 中兄の弟次郎没するに及び、其の遣業を継がんことを志して親戚浅井忠の門に入る。弟次郎は浅井に師事し、明治美術会の会員で同年24才を以て夭折した明治31年 17 明治美術会の準通常会員となり、同年東京美術学校に入学、浅井教室に学ぶ明治34年 20 同校洋画科専科を首席卒業。群馬県沼田中学校に奉職明治35年 21 1月太平洋画会創立、その会員となる明治37年 23 沼田中学校を辞職、時事新報社に入社明治40年 27 文展第1回出品「つゆはれ」明治41年 28 文展第2回「牝牛」明治42年 29 時事新報社を退社明治43年 30 文展第4回「小倉山の微雨」同年より翌年にかけて雑誌「方寸」を編輯す大正元年 32 文展第6回「川のふち」大正3年 34 新画材を求めて小笠原島に移住、押川春浪同行す。当時春浪の主筆たりし武侠世界社に関係して居た。同年薯書「洋画の手ほどき」発行。(発行所東京神田、鳥田文盛館)大正4年 35 小笠原島より帰る。帰京後日比谷美術館に於て小笠原島滞留作品40点を発表す。同年再興日本美術院洋画部同人に推挙された。院展第2回出品「葡萄を採る男」大正5年 36 院展第3回「蝦蟇仙人」大正6年 37 院展第4回「投網帰り」外3点 同年東京より房州に移る大正7年 38 院展第5回「もろこし」外2点大正8年 39 院展第6回「防風林」外6点大正9年 40 院展第7回「冬」(大作)。第7回展終了後洋画部同人5名と共に連盟脱退した。大正11年 42 同志6名と共に春陽会を創立した。同年の暮山本鼎の創立にかかる日本農民美術研究所の事業を援くる為房州より信州上田市に移転す大正12年 43 春陽会第1回展「冬の林檎畑」外11点大正13年 44 春陽会第2回展「夏の林檎畑」「信濃の家」外7点大正14年 45 春陽会第3回展「冬の段畑」外3点大正15年 46 春陽会第4回展「雑木の丘」外4点昭和2年 47 上田市の東北に定住、春陽会第5回展「冬の麗日」「雑木の丘」外1点昭和4年 49 春陽会第7回展「崖を負ふ家」「庭の隅」同年2月銀座資生堂で個展開催昭和5年 50 春陽会第8回展「夏蠶の頃」「葡萄棚」「山ふところの小村」「深秋の烏帽子嶽全容」を始め計20点昭和6年 51 春陽会第9回展「雪後の桑園」外4点昭和7年 52 春陽会第10回展「秋の風景」「冬のよき日」外3点昭和8年 53 春陽会第11回展「つゆばれ」「とび色の頃」等昭和9年 54 銀座資生堂に於て個展開催。春陽会第12回展「たそがれ行く」(大作)外2点。「随筆雑草園」を四谷区竹村書房より発行昭和10年 55 春陽会第13回「たき火」(大作)等。尚「たき火」製作に際して、過労のため危く失明に瀕した。晩年視力減じ、仕事も半人前なりとの意にて好んで「半人忘斎」と号す、春、木版彫刷「半人三字文」を上枠(彫刷中西義男)昭和11年 56 春陽会第14回展「白き部落」「朝の葡萄園」等6点、銀座三昧堂にて個展開催、主として房州太海滞在中の小品を発表昭和12年 57 長野県上小教育会に於て講演集「美育談片」を編輯発行。大阪美交社にて個展開催、近作27点発表「初冬果園」「冬の崖」「山居の秋」「村の店」等。春陽会第15回展「冬景色」「冬野」(大作)「朝鮮牛」(大作)等昭和13年 58 春陽会第16回展不出品。9月以降は失明した。11月29日没

木島桜谷

没年月日:1938/11/03

旧帝展審査員木島桜谷は最近神経過労症に悩みつつあつたが11月3日大阪府枚方附近に於て京阪電車に触れ不慮の災禍の為急逝した。享年62歳。 本名文治郎、字文質、別に龍池草堂主人、聾廬迂人の号を用ひた。明治10年3月6日京都の商家に生る。少年の頃より今尾景年の門に入り傍ら儒者山本亡羊に就て経学を修めた。明治32年全国絵画共進会に「瓜生兄弟」を出品して営内省の御買上に浴したが之が出世作となつた。次で文展第1回出品の六曲一双「しぐれ」が2等賞を受領し、その後勢に乗じて毎回赫々たる成績を続け、名声を馳せた。爾後数次に亙り文帝展審査員に選ばれたが、帝展第14回に「峡中の秋」を出品、某の後は展覧会作品を示さなかつた。人となり志操堅固を以て聞え、晩年は筆硯に尊念する外は詩書を友として世交より遠ざかつてゐた、その画風は四条円山の形式を継承しつつ己の工夫を加へ平明な親しみある筆意を示して居た。作品年譜明治32年 金国絵画共進会「瓜生兄弟」3等9席明治33年 美術協会展「野猪」2等1席明治34年 美術協会展「剣の舞」3等5席明治35年 美術協会展「咆哮」2等1席明治36年 内国勧業博「揺落」3等明治37年 美術協会展「桃花源」2等1席明治38年 美術協会展「古来征戦幾人回」4等1席明治39年 美術協会展「奔馬」明治40年 美術協会展「田舎の秋」2等1席明治40年 文展第1回「しぐれ」2等明治41年 文展第2回「勝乎敗乎」2等明治42年 文展第3回「和楽」3等明治43年 文展第4回「かりくら」3等明治44年 文展第5回「若葉の山」2等大正元年 文展第6回「寒月」2等大正2年 文展第7回「駅路の春」審査員大正3年 文展第8回「涼意」無鑑査大正4年 文展第9回「うまや」大正5年 文展第10回「港頭の夕」大正6年 文展第11回「孟宗薮」大正7年 文展第12回「暮雲」大正10年 帝展第3回「松籟」大正11年 帝展第4回「行路難」大正13年 帝展第5回「たけがり」大正14年 帝展第6回「婦女三趣」大正15年 帝展第7回「遅日」昭和2年 文展第8回「灰燼」昭和3年 文展第9回「えもの」昭和5年 文展第11回「望郷」(?奴に於ける蘇武)昭和6年 文展第12回「画三昧」昭和7年 文展第13回「つのとぐ鹿」昭和8年 文展第14回「峡中の秋」

森村宜稲

没年月日:1938/10/04

日本画家、日本美術協会審査員森村宜稲は予て神経痛の為名古屋の自宅に於て加療中の処10月4日急性肺炎のため逝去した。享年68歳。 幼名悌二、雲峰と号し、別に稲香村舎と号した。明治4年12月26日儒者森村宜民の子として名古屋に生る。幼にして木村雲渓の門に入り、後また日比野白圭に就て大和絵を学んだ。古くより日本美術協会に出品し、後同会の審査員となり、又文展に出品して、昭和6年帝展推薦に挙げられた。主として大和絵の手法を継承し、又雪舟、探幽に私淑し、殊に晩年は田中納言、浮田一蕙の研究に従ひ、自らは多く省筆の作に特色を発揮し小品を得意とした。代表作には展覧会出品画の外に聖徳記念絵画館の壁画がある。尚稲香画塾を開いて門下の養成に当つて居た。作品略年譜文展以前「志賀寺花見」 明治24年京郡絵画共楽会出品、2等賞御用品「信長」 名古屋共進会「栄華物語田植」 日本美術協会「万蔵楽」 日本美術協会「春宵」 明治画会「雨中江村」 明治画会「鴬宿梅」 久迩宮殿下御下命画文帝展大正元年 旧文展第6回「尚歯会」褒状大正3年 旧文展第8回「奈良祭」大正4年 旧文展第9回「勅箭」大正15年 帝展第7回「野干」昭和2年 帝展第8回 「六代乞請」昭和7年 帝展第13回「火柱妙供」昭和8年 帝展第14回「小瀬餌飼」昭和9年 帝展第15回「槙立つ山」昭和11年 文展第1回「西行と聖」昭和12年 文展第1回「颶風」其他日本美術協会、東海美術協会毎年出品聖徳記念絵画館壁画「農民収穫御覧」桑港博出品「奈良祭」金牌受領日独展 「鶉」米国展 「鴛鴦」仏国展 「養老行幸」日満展 「芦葉神祖」

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