本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





西村五雲

没年月日:1938/09/16

帝国芸術院会員西村五雲は宿病の糖尿病のため京都府立病院に入院加療中のところ9月16日逝去した。享年62。 明治23年岸竹堂に師事し、同26年日本美術協会に初出品入賞した。師の没後、同32年竹内栖鳳の門に入つた。大正2年京都市立美術工芸学校の教諭に就任同3年夏頃より病床に臥し、大正7年頃に至り漸く病臥のまま小品製作に着手し得るやうになつた。同9年帝展委員に推薦せられ、13年京都絵画専門学校教授に任ぜられた、昭利8年帝国芸術院会員を仰付られ、同11年絵専教授を辞した。 主に病気が凶で大作は寡なく、文展出品の「咆哮」「まきばの夕」「秋興」、帝展の「日照雨」「秋茄子」及び新文展の「麦秋」等がその主なもので、概して花鳥、魚貝、菜果を主題とする小品に数多くの製作を残した。 竹堂、栖鳳両師の画風を摂取し、就中栖鳳の筆意を祖述せる点で其の後継者としての地位にあつたが、衷に自らの写実に発する領域を拓きつつ、渾然として穏雅な画格を完成して居た。尚長年画塾晨鳥社を開いて門下の育成に当つた。略年譜年次 年齢明治10年 11月6日京都市に生る。本名源次郎明治23年 14 岸竹堂に学僕して入門す明治26年 17 日本美術協会展「菊花図」出品、褒状明治30年 21 岸竹堂に死別す 全国絵画共進会「梅花双鶴」4等賞。後素青年会「虎」第9席明治32年 23 第2回全国絵画共進会「群鷲争餌」4等賞、竹内栖鳳に師事す明治33年 24 京郡美術協会「柳岸薫風」3等賞明治36年 27 第5回内国勧業博覧会「残雪飢虎」褒状明治40年 31 文展第1回「白熊」3等賞明治43年 34 京都美術学校教諭心得被命明治44年 35 文展第5回「まきばの夕」褒状大正2年 37 文展第7回「秋興」褒状 京都市立美術工芸学校教諭に被任大正3年 38 夏頃より神経衰弱症の為病欧大正7年に及ぶ大正7年 42 此年あたりより病欧のまヽに小品制作始まる大正11年 46 日仏交換展「老猿」大正13年 48 第5回帝展委員被仰付。京都市立絵画専門学校教授被補。大正14年 49 第6回帝展審査員大正15年 50 第7回帝展審査員昭和2年 51 第8回帝展審査員昭和4年 53 巴里日本美術展「冬の渓流」「五月晴」 第10回帝展審査員昭和5年 54 羅馬開催日本美術展「淡光」昭和6年 55 伯林現代日本美術展「閑日」。米国トレド日本画展「午間」。暹羅展「栗鼠図」。帝展第12回「日照雨」文部省買上。同展審査員昭和7年 56 帝展第13回「秋茄子」宮内省御買上昭和8年 57 帝院会員被仰付。大礼記念美術館評議員を依囑さる。京都市美術教育顧問依嘱せらる。昭和9年 58 珊々会第1回展「冬暖」昭和10年 59 珊々会第2回展「砂丘」昭和11年 60 京都市立絵画専門学校教授を辞す。昭和12年 61 帝国芸術院会員被仰付 春虹会展「猿猴」、文展第1回「麦秋」文部省に寄贈、同展審査員三越綜合展「虎」昭和13年 62 第3回京都市展「園裡即興」市質上。本山竹荘依囑の「秋霧」2尺5寸横物絶筆となる。

青柳喜兵衛

没年月日:1938/08/28

元旺亥社同人青柳喜兵衛は8月28日逝去した。享年35歳。福岡に理葬された。 明治37年1月1日筑前博多に生れた。早稲田大学商科に学び、傍ら川端画学校に学ぶ。大正14年吉村芳松に帥事した。同15年以降帝展に毎回入選、昭和6年春槐樹社の無鑑査に推薦され、同11年文展無鑑査に推薦された。代表作品としては「アトリエにて」(200号)、「妊婦」(150号)、「風船を配せる図」(120号)、「千子の壁」(80号)等がある。

橋本独山

没年月日:1938/08/15

臨済宗相国寺派前管長橋本濁山は胃癌の為8月15日相国寺内林光院で遷化した。享年70歳。 明治2年越後に生れ、少年の頃画家を志し、富岡鉄斎に帥事したことがあるが、中年出家して峨山和尚の法を嗣ぎ明治42年相国寺派管長となり、昭和8年迄其の職にあつた。南苑、流芳、対雲等と号し、其の禅余に揮毫せる書画は夙に世の重んずるところとなつてゐた。

福井謙三

没年月日:1938/08/03

春陽会出品者福井謙三は、昭和13年8月3日房州太海々岸に於て不慮の死を遂げた。 明治37年4月19日、榊戸市に生る。大正13年東京美術学校洋画科に入り、長原孝太郎、小林万吾、岡田三郎助に師事、在学中帝展第9回(昭和3年)に初入選した。同4年卒業と同時に渡仏、同7年帰朝した。同9年銀座資生堂に帰朝第1回個展を、翌年新宿ノーヴにて第2回展を開いた。春陽会には第7、12、13、15回等に出品、「アカデミーにて」「赤い服」「読書」「ボンネツト」等の作品があり、同会に於て将来を期待されて居た作家である。「福井謙三画集」(造形文化協会発行)がある。

渡辺公観

没年月日:1938/07/20

日本自由画壇同人渡辺公観は7月20日逝去した。享年61歳。 名耕平、明治11年1月20日滋賀県大津に生る。同27年京都美術工芸学校に入り、翌年退学、森川曽文に師事す。同35年曽文長逝後他門に入らず独自研究を続けた。文展には第1回及び第8回より12回迄出品、大正8年井口華秋、広田百豊と共に日本自由画壇を創立し、爾後毎年同展に出品した。同展第13回出品の「放牧」二曲一双は代表作に推される。

稲田吾山

没年月日:1938/07/15

日本画家稲田吾山は7月15日鎌倉建長寺境内の寓居で逝去した。享年59歳。 本名伊之助、明治13年米沢市に生れ、東京美術学校を経て、寺崎広業に師事し、旧美術研精会の委員であつた。

一水隩二郎

没年月日:1938/06/05

洋画家一水隩二郎は6月5日逝去した。享年42歳。 元宮相一木喜徳郎男の二男として明治31年東京に生る。大正11年東京美術学校西洋画科を卒業、昭和2年より5年迄外遊し、帝展に4回入選してゐた。

津端道彦

没年月日:1938/04/03

日本画家津端道彦は予てより神経痛のため加療中のところ4月3日逝去した。享年71歳。 明治元年10月21日新潟県中魚沼郡に生る。同19年上京、福島柳圃に南宗派を家び、同27年山名貫義に就て住吉派を、又29年旧平戸藩絵師片山貫道に土佐派を、又松原佐久に有職故実を学んだ。同35年日本美術協会歴史部の主事を委嘱され、同43年には同会第一部委員に嘱託された。又帝国絵画協会、巽画会の会員、日本画会の客員であつた。明治天皇、大正天皇の御前揮毫の光栄に浴したことがあり、文展では又2等賞1回、3等賞2回、褒状1回を受けた。又日本美術協会其他に於ては銀牌及銅牌を受けること数十回に及び5度宮内省御買上の栄に浴して居る。作品略年表明治35年 「足利忠綱宇治川先登」日本美術協会育英部展明治39年 「富士牧狩図」歴史展覧会明治40年 「嵯峨野の月」東京勧業博覧会明治41年 「勿来関」文展第2回3等賞明治42年 「龍田川図」襖4枚、大阪天満宮明治43年 「紅梅金鳩図」「紅葉白菊図」杉戸4枚、大阪天満宮明治43年 「闘鶏図」朝鮮総督府明治44年 「うたげの装」文展第5回褒状明治45年 「杣山会戦之図」屏風一双、日本美術協会展大正元年 「火牛」文展第6回2等賞大正2年 「真如」文展第7回3等賞其他 大本山総持寺紫雲台襖 大阪豊国神社「八十島祭絵巻」3巻、杉戸4枚

林明善

没年月日:1938/03/28

洋画家林明善は3月28日逝去した。享年40歳。 明治32年9月18日名古屋市に生る。智山大学卒業後大正14年上京し、川端画学校、同舟舎を経て、片多徳郎に師事した。帝展の第8、9、11、13回及び新文展第1回に入選、又昭和7年に第一美術協会の会員に推薦されて居た。尚昭和13年4月名古屋市鶴舞公園美術館に於て遺作展が開催された。

松岡映丘

没年月日:1938/03/02

帝国芸術院会員松岡映丘は近年心臓性喘息を病み療養中3月2日小石川雑司ヶ谷の自宅で逝去した。享年58歳。 本名輝夫、明治37年東京美術学校を卒業、同41年同校助教授となり、大正3年文展に「夏立つ浦」を出品、大和絵に新機軸を示して注目され、次で5年吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織した。文展にはその後「室君」、「道成寺」、「山科の宿」を出品して特選を贏ち得た。同7年美校教授、8年帝展審査員に就任、同10年門下を率ゐ新興大和絵を提唱する絵画運動「新興大和絵会」を創立した。昭和4年帝展出品の「平治の重盛」が院賞となり翌5年伊太利展開催に際し渡欧、同年帝国美術院の会員を仰付られた。同7年の帝展には「右大臣実朝」を出品。同10年東京美術学校教授を辞し、国画院を創立して盟主となり、大和絵による新民族絵画の建立を提唱、同12年の第1回展に六曲一双屏風「矢表」を出品したが、之が大作の絶筆となつた。 制作の上では人物画を得意とし、武者絵を最も多く作つたが、常に典雅なる画格を備へ、又「室君」「伊香保の沼」等に於ては優婉な一面を発揮した。大正3年の「夏立つ浦」以来従来の土佐絵を現代的に再生し、普遍化するに大なる指導的役割を果した。 尚古来の絵巻物、武具服飾等の故実の方面に造詣深く、又教育者としても優れた業績を挙げ、更に演劇方面に貢献せる処も少なくなかつた。略年譜年代 年齢明治14年 7月9日兵庫県神崎郡田原村に生る。(松岡操五男)明治32年 19 東京美術学校日本画科に入学、丹青会展「北の屋かげ」出品明治37年 24 東京美術学校日本画科主席卒業明治38年 25 神奈川県立高等女学校教諭兼神奈川県師範学校教諭となる明治40年 27 神奈川県女子師範学校教諭を兼任、明治40年8月右教職を辞す明治41年 28 東京美術学校助教授となる大正元年 32 第6回文展「宇治の宮の姫君達」出品大正2年 33 第7回文展「住吉詣」褒状、宮内省御買上大正3年 34 第8回文展「夏立つ浦」大正4年 35 第9回文展「御堂関白」3等賞、政府買上大正5年 36 吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織、第1回展「いでゆの雨」「若葉の山」「春光春衣」、第10回文展「室君」特選制最初の首席大正6年 37 金鈴社第2回展小品数点、第11回文展「道成寺」特選2席大正7年 38 東京美術学校教授に任ぜらる 金鈴社第3回展「枕草紙絵巻」其他、第12回文展「山科の宿」特選主席大正8年 39 東京女子高等師範学校教授を兼任 金鈴社第4回展「紅玻璃」「燈籠大臣」、第1回帝展「目しひ」 第1回帝展審査員に推挙さる、御神宝桧扇絵の揮毫を嘱託さる大正9年 40 金鈴社第5回展「伊豆の絵巻」 第2回帝展審査員大正10年 41 金鈴社第6回展「銀鞍」其他、第3回帝展「池田の宿」 第3回帝展審査員、新興大和絵会結成さる大正11年 42 金鈴社第7回展「更級日記」其他、第4回帝展「霞立つ春日野」 3月平和記念東京博審査官嘱託、金鈴社解散大正12年 43 日本画会客員となる大正13年 44 第5回帝展審査員大正14年 45 第6回帝展「伊香保の沼」、第6回帝展審査員大正15年 46 第7回帝展「千草の丘」昭和2年 47 明治天皇御神像奉納昭和3年 48 第9回帝展「さ月まつ浜村」、同展審査員、静岡県茶業組合よりの献上画「富嶽茶園」を謹作、朝鮮ポスター展審査官、御大典奉納名古屋博及国際美術審査員昭和4年 49 第10回帝展「平治の重盛」院賞昭和5年 50 2月羅馬開催日本美術展の為渡欧、日本美術展「屋島の義経」「伊衡の少将」「時雨ふる野路」「東海」 第11回帝展「即興詩人」 帝国美術院会員仰付らる、新興大和絵会解散昭和7年 52 第13回帝展「右大臣実朝」昭和8年 53 5月第12回朝鮮美術展審査の為渡鮮 第14回帝展「花のあした」昭和9年 54 第15回帝展「安土山上の信長」昭和10年 55 9月国画院創立、東京美術学校教授を辞す昭和11年 56 明治神宮聖徳記念絵画館壁画「神宮親謁」を完成、文展第1回展審査員昭和12年 57 国画院第1回展「矢表」「後鳥羽院と神崎の遊女達」 帝国芸術院会員仰付らる昭和13年 58 3月2日没

小村大雲

没年月日:1938/02/20

日本画家小村大雲は2月20日郷里島根県簸川郡平田町に帰省中逝去した。享年56歳。 本名権三郎。明治16年島根県に生る。18歳の時、京都に出で、一時都路華香に師事したが、明治36年山元春挙塾早苗会に転じ、そこで名を成した。大正元年第6回文展出品の「釣日和」が3等賞となり、其後続いて3等賞を3回、特選を2回獲得し、同8年推薦され、その後は2度帝展の委員に就任した。文展、帝展の出品目録は左の通りである。文展第6回 「釣日和」3等賞文展第7回 「放ち飼」3等賞文展第8回 「憩ひ」3等賞文展第9回 「東へ」3等賞文展第10回 「画舫」特選文展第11回 「神風」特選文展第12回 「古代の民」帝展第1回 「佐登」推薦帝展第3回 「美哉蒼窮」帝展第4回 「剛敵」帝展第5回 「往時追懐」帝展第8回 「清風山月」帝展第9回 「梁風子」帝展第12回 「黄金の茶室」帝展第14回 「三蔵渡印」以上

渡辺晨畝

没年月日:1938/02/11

日本画家渡辺晨畝は2月11日逝去した。享年72歳。 慶応3年11月3日福島県安積郡多田野村に生る。荒木寛畝の門に花鳥を学ぶ。日本画会、日本美術協会々員となり、孔雀の絵を得意としてゐた。大正7年支那に漫遊、北京に於て日華聯合絵画研究会を組織し、同10年及び13年に日華聯合展を開催、又昭和9年には新京に日満聯合展を開催した。満洲国皇帝の知遇を辱ふし、日満支三国美術の交驩に貢献せる処大であつた。尚、東方絵画協会幹事の任にあつた。

八条弥吉

没年月日:1937/11/04

洋画家八条弥吉は11月4日千葉医大附属医院に於て逝去した。明治10年大阪府に生れ、同34年東京美術学校洋画科を卒業、日露戦役に大阪毎日新聞社特派員として従軍した。同43年第4回文展に「茶屋」を出品、3等賞を受領。大正11年渡仏、翌年帰朝。昭和11年度文展招待者に推され「斜陽の庭」を出品、同12年第1回文展に「南総風景」を出品した。

岩倉具方

没年月日:1937/10/14

洋画家岩倉具方は本年9月海軍省嘱託画家並報知新聞特派員として上海戦に従軍したが、10月14日上海呉淞路にて敵弾の為名誉の戦死を遂げた。維新の元勲岩倉具視公の曽孫として明治41年東京に生る。太平洋美術学校に洋画を学び、昭和2年二科に初入選し、同5年渡欧、11年に帰朝した処であつた。

太田義一

没年月日:1937/10/01

日本画家太田義一は10月1日逝去した。明治24年山形県に生る。大正4年東京美術学校を卒業、帝展入選8回に及び、尚帝国女子専門学校の講師の職にあつた。

片山牧羊

没年月日:1937/08/26

日本画家片山牧羊は宿痾の為め広島県の郷里に於て静養中の処8月26日逝去した。明治33年尾道に生る。庄田鶴友、蔦谷龍岬、荒木十畝に師事し、旧帝展特選1回入選3回に及んでゐた。

西井敬岳

没年月日:1937/07/04

自由画壇同人西井敬岳は7月4日逝去した。本名敬次郎。明治13年福井県に生れ、同35年京都に出で山元春挙に師事、師の没後早苗会評議員として今日に至る。旧文展の入選8回に及び、又同志と共に日本自由画壇展覧会を組織し、毎次同会に出品した。尚文展第7回に「怒涛」を出陳、皇后宮御用品として御買上の光栄に浴した。

野沢如洋

没年月日:1937/06/11

日本画家野沢如洋は、6月11日脳溢血の為逝去した。本名三千治。慶応元年弘前に生る。明治25年京都に出て、独力画法を研究、日本美術協会に毎回出陳して屢々受賞し、28年には1等賞を受領宮内省御買上の栄に浴した。37年支那に渡り、各地を巡歴、在留8年に及ぶ。又大正8年欧米美術行脚の途につき、翌年帰朝、昭和5年東京に転住し、爾後数次個展に依り作品を発表した。同11年弘前市に於ける秩父宮殿下御仮邸に伺候、御前揮毫の栄に浴した。

中村春楊

没年月日:1937/05/04

早苗会々員中村春楊は、宿痾の為5月4日京都太泰の自宅に於て逝去した。本名新太郎。明治24年京都に生れ、同40年故山元春挙に師事し、同門下生を以て組織する早苗会の一員として今日に至つた。大正7年文展第12回に初入選してより帝展を通じて入選10回に及んで居た。

高木長葉

没年月日:1937/04/21

日本画家高木長葉は4月21日永眠した。享年50歳。四日市市の出身、大正8年より?々個展に依り作品を発表し、同9年同志と共に蒼空邦画会を結成、日本画の創造運動に従つた。昭和4年銀座資生堂に意匠部長として入社し、翌年同社より広告美術の研究を目的として欧洲へ出張し、同10年に退社してゐたものである。

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