塙賢三

没年月日:1986/07/25
分野:, (洋)

ピエロの画家として知られた二科会理事の洋画家塙賢三は、7月25日午後3時29分持病の気管支ぜんそくのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年70。大正5(1916)年3月31日茨城県新治郡に生まれる。生家は菓子の製造卸し商を営み、父は菓子職人であった。昭和4(1929)年土浦尋常高等小学校を卒業し家業を手伝う。同7年上京して電器店の店員となり東京電機大学の夜学に通って電機工学を学ぶ。同12年帰郷して郷里に塙電業社を興す。同18年藤島武二に師事した洋画家福田義之助を知り、アトリエに出入りして油絵を学ぶ。翌19年第1回日本アンデパンダン展に「日の出る街」「森」で初入選。20年には「初秋の丘」で白日展に初入選。翌21年第31回二科展に「風景」で初入選し以後二科展に出品を続ける。24年第34回二科展に「希望」を出品して岡田賞を受け、家業を廃して画業に専念する。25年同展に「埋葬」ほかを出品して二科会創立35周年記念賞受賞。28年二科会友となる。29年より銀座の数奇屋橋公園の路上で作品を展観するロード展を伊賀勇高らと行ない、33年には北海道から九州への日本縦断路傍展を敢行。同年夏渡米し34年にはニューヨークで個展を開催。ヨーロッパ、エジプト、中近東を経て同年帰国する。昭和30年代後半よりサーカスやピエロを画題とするようになり、37年二科会員となる。49年第53回二科展に「語らい」「球に乗った道化」を出品して会員努力賞受賞。45年春、渡仏しスペイン、モロッコなどを巡遊して制作する。童心を失なうことをおそれ、童画的な夢のある作風の中で喜びや悲しみを表わそうとし、幅広い支持を得る。54年二科会評議員となり、61年5月末同会理事に推挙される。没後の63年東京銀座松屋で塙賢三遺作展が開かれ、画集『道化に生きる』が刊行された。

出 典:『日本美術年鑑』昭和62・63年版(322頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「塙賢三」『日本美術年鑑』昭和62・63年版(322頁)
例)「塙賢三 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10074.html(閲覧日 2024-04-20)

外部サイトを探す
to page top