本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





斎藤清

没年月日:1997/11/14

読み:さいとうきよし  郷里会津地方の風景に取材した版画で知られた版画家の斎藤清は11月14日午後8時30分、肺炎のため福島県会津若松市の病院で死去した。享年90。明治40(1907)年4月27日、福島県河沼郡会津坂下街に生まれる。同45年父の事業の失敗により北海道夕張に移る。大正10(1921)年尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出、同13年北海道ガス小樽支店の見習い職工となる。昭和2(1927)年、小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営。同4年、小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習う。同5年に一時上京したのが翌年の東京移住の契機となり、宣伝広告業のかたわら絵画の勉強を続けた。同7年第9回白日会展に「高圓寺風景」で初入選。翌8年、第1回東光会展に入選、同11年第11回国画会展に「樹間雪景」で初入選する。同年第5回日本版画協会展に「少女」で初入選。翌12年第12回国画会版画部門に「郷の人」「子供坐像」で初入選する。同14年第26回二科展に「裸婦と少女」(油彩)で初入選。同17年東京銀座鳩居堂で初めての版画個展を開催し、「会津の冬」などを発表し、叙情的な作風で注目される。同19年朝日新聞者に入社し、文字・カットなどを担当する。また、同年第13回日本版画協会展に「会津の冬 坂下」を出品して同会会員となる。戦後も日本版画協会、国画会版画部に参加。同21年第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品。また第20回国画会版画部に「会津の冬(A)(B)(C)」を出品して同会会友となり、同24年には会員となった。同26年サンパウロ・ビエンナーレに「凝視(花)」を出品して、サンパウロ日本人賞を受賞。同29年朝日新聞社を退社して版画制作に専念することとする。同31年アメリカ国務省アジア文化財団の招きで渡米。同32年第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「館」を出品して受賞し、同年アジア・アフリカ諸国国際美術展に「ハニワ(婦人」を出品して受賞する。同34年渡仏してパリに滞在。同37年アメリカ・ニューヨークのノードネス画廊での個展のために渡米し、この頃日本版画協会を退会する。同39年ハワイ大学芸術祭に招かれてハワイを訪問し、翌年はオーストラリアに渡り、帰途タヒティに立ち寄った。同42年インド文化省主催の「斎藤清版画展」のためインドへ渡り、同44年にはアメリカ・カリフォルニアのサンディエゴ美術館での個展のために渡米。同45年東京の日本橋三越で「斎藤清墨画・版画展」を開催する。また、同年神奈川県鎌倉市に移住。同52年プラハでの個展のためにチェコスロバキアを訪問。同56年「福島県立美術館収蔵記念斎藤清展」(福島県文化センター)が開催される。同58年神奈川県立近代美術館で大規模な「斎藤清展」が開催され、初期から新作にいたる245点が出品されて制作の歩みが回顧された。同62年鎌倉を離れ、福島県河沼郡柳津町に転居する。翌63年アメリカ・オレゴン州のポートランド美術館で「斎藤清展 会津の冬とそのほかの版画」、平成3年「斎藤清-その人と芸術」展がいわき市美術館で開催され、同4年には福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展が開催された。画集には『斎藤清版画集』(大日本雄弁会講談社 1957年)、『斎藤清版画集』(講談社 1978年)、『斎藤清版画集 会津の冬』(講談社 1982年)、『斎藤清の世界』(あすか書房 1984年)、『斎藤清墨画集』(講談社 1985年)、『斎藤清スケッチ画集』(講談社 1987年)、『斎藤清画業』(阿部出版 1990年)などがあり、単行書に『私の半生』(栗城正義編 角田行夫刊行 1987年)がある。郷里・会津の冬景色を好んで主題としたほか、奈良京都など古都の風景や花鳥を題材に木版画に新境地を開いた。また、欧米に日本の伝統的木版画技法の解説、実技指導を行うなど、国際的な普及活動にも寄与した。年譜、参考文献は福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展図録に詳しい。

池田満寿夫

没年月日:1997/03/08

読み:いけだますお  版画家で、小説執筆、映画監督など多分野にわたり多彩な活動をつづけた池田満寿夫は、急性心不全のため死去した。享年63。昭和9(1934)年旧満州国奉天市に生まれ、昭和20年に郷里の長野県長野市に帰り、この地で成長。昭和27年、18歳で上京、東京芸術大学を受験するが、不合格となった。昭和30年、既成の美術団体を否定したグループ「実在者」の結成に参加、この年、同グループの靉嘔の紹介により瑛九を知った。翌年、瑛九主宰のデモクラート美術家協会会員となり、また瑛九の助言により色彩銅版画をはじめた。昭和32年、美術評論家で、コレクターであった久保貞次郎を知り、彼から援助をうけるようになり、この年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門に「太陽と女」が初入選した。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に「女の肖像」、「女 動物たち」、「女」3点を出品、ドライポイントとアクアチントを併用した銅版技法で、繊細だが、奔放な線描による作品がドイツの美術評論家ヴィル・グローマンの推薦をえて、文部大臣賞を受賞、一躍注目されるようになった。同37年の第3回展では東京都知事賞を受賞、ニューヨーク近代美術館版画部長で、同展の国際審査員ヴィリアム・S・リーバーマンにみとめられた。同39年の第4回展では、「夏」、「私は何も食べたくない」、「化粧する女」の3点によって国立近代美術館賞を受賞。この連続の受賞によって、国内外で広くみとめられるようになり、翌年にはニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展「Prints of MASUO IKEDA」を開催した。同41年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門において、28点の出品作品により大賞を受賞した。翌年、第17回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。また、制作の場も、ヨーロッパ各地やニューヨークなどにうつし、精力的に制作をつづけた。この70年代の作品では、雑誌写真などグラッフィックなイメージを画面にとりこみながら、エロチィックなイメージが追求されていた。そして「スフィンクス」、「ヴィーナス」など、銅版画の技法をこらした緻密な表現によるシリーズが生まれた。しかし、帰国後の同51年にはリトグラフ「マンゴ」などにみられるように、一転して奔放でスピード感のある線描があらわれ、さらに琳派への関心から日本回帰を感じさせる平面作品を制作するようになった。また、同52年には小説「エーゲ海に捧ぐ」によって、第77回芥川賞を受賞、翌年には、原作、脚本、監督を担当して、映画「エーゲ海に捧ぐ」を制作した。同58年頃から、作陶をはじめ、翌年からはブロンズ制作もこころみるようになった。同61年には、国立国会図書館新館1階にタペストリー・コラージュ「天の岩戸」を設置。このように創作活動は多岐にわたるようになり、版画制作でも、平成元(1898)年には、コンピューター・グラッフィックによる版画を発表、つねに旺盛な創作活動をつづけた。戦後からの現代版画において、国内外にひろく知られた代表的な作家のひとりであり、その晩年は、マルチ・タレントとしてテレビなどマスコミにも登場し、また作風もピカソを意識していたといわれるように変化しつづけた。没後の同9年4月には、長野県松代町に池田満寿夫美術館が開館、「追悼 池田満寿夫展 初期から絶作まで」が開催された。

吉田穂高

没年月日:1995/11/02

読み:よしだほだか  日本美術家連盟理事、日本版画協会理事の版画家吉田穂高は11月2日午後零時23分、腹部大動脈りゅう破裂のため東京都立川市の国立病院東京災害センターで死去した。享年69。大正15年9月3日東京都北豊島郡滝野川町に洋画家吉田博、ふじをの次男として生まれる。兄は版画家の吉田遠志。東京高等師範学校付属小学校、同中学校を経て昭和19年第一高等学校(旧制)理科甲類に入学する。同20年同校理科乙類に転類。このころから油彩画の制作を始める。同23年日本美術会主催第2回日本アンデパンダン展に油彩画「こむら」「秋」「あくびから」を初出品する。翌年読売新聞社主催第1回日本アンデパンダン展に油彩画を出品。同年第一高等学校を卒業する。この後も日本美術会、読売新聞社主催の二つのアンデパンダン展に出品を続け、この間同27年第20回日本版画協会展に「太陽」「星」「夕陽の街の女の子」「ハッパの子」を出品して日本版画協会会員となる。同30年米国の美術館からの招待により渡米する兄に随行してアメリカに渡り、後、キューパ、メキシコを旅行。メキシコの古代文明、特にマヤ文明の遺跡で受けた感銘が、後の制作に指針を与えた。具象表現から生命感をテーマとした抽象版画へと作風に変化が表れるようになる。同31年第1回シェル美術賞に「石と人」で応募し3等賞を受賞する。同32年母ふじを、妻で版画家の千鶴子とともに世界一周旅行をし、滞在先で大学・美術館における木版画制作の講義、デモンストレーションを行ったほか、ロスアンゼルスのランドウ画廊で個展を開催した。同年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に「ポリネシアン」を出品。同36年1月現代写真展1960年(東京国立近代美術館)に写真「旅情・マドリッドの町はずれ」を出品。このころ写真に興味を抱き、「カメラ毎日」などの写真誌に作品を発表する。同年第1回パリ青年ビエンナーレに出品、この年リトグラフを試みる。同年37年スイス・ルガーノ国際展に「たまものA」などを出品して受賞。同年38年第5回ユーゴスラヴィア国際グラフィック・ビエンナーレ(通称・リュブリアナ国際版画ビエンナーレ)に出品し、以後同展に出品を続ける。同年アメリカ、中南米を旅行。この年、リトグラフと木版の併用技法を試みるとともに、このころアメリカで隆盛していたポップ・アートに触発されて現代にモティーフを得た作品を制作するようになる。同40年、写真製版によるリトグラフ、シルクスクリーンなど多様な技法を試み、翌年3月の銀座養清堂における個展でそれらの作品を発表。同41年コラージュによる「現代の神話」シリーズを始める。同43年を東京都電機健保会館のレリーフ壁画を制作。同44年より52年まですいどーばた美術学院(のち創形美術学校)版画科講師をつとめる。同45年写真製版による亜鉛凸版と木版の併用技法を試み、以後これを主な技法として「LANDSCAPE」シリーズの制作を始める。画面に多くのモティーフがひしめく、喧騒な画面から一転して音や動きの感じられない風景画へと移行した。同47年オーストラリア外務省の「文化賞計画」の招待によりオーストラリアを訪れ、美術学校、美術館を視察するとともに、木版画技法の紹介、作品展示を行う。同年第2回ソウル国際版画ビエンナーレに「沈黙の風景」「水辺の神話」「真昼の神話」を出品して大賞を受賞する。同48年第1回世界版画コンペティションに「NINJAPOINT」を出品して第1部特別エディション賞を受賞。同年より家をモティーフとした「現代の神話」シリーズの制作を始める。同49年ポーランドクラコウ国際版画ビエンナーレ、第2回ノルウェー国際版画ビエンナーレ、第6回イビサ・ビエンナーレ(スペイン)に出品。同51年詩画集『東天の虹』(詩・堀口大学、版画・吉田穂高)が弥生書房から刊行される。同年メキシコを旅行し、ニューヨーク、ロスアンゼルスを経て帰国。また同年第5回リエカ国際オリジナルドローイング展(ユーゴスラヴィア)に「扉のある風景A.B」を出品して国際審査員名誉賞を受賞する。同52年国際交流基金からの派遣によりグアテマラ、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジェラスの中米の国々を訪問して日本の現代版画について講演を行うとともに木版技法のデモンストレーションを行う。同年秋第1回日中友好美術家訪中団として中国を訪問する。同年日本美術家連盟によるアジア現代美術視察・調査の一環としてタイ、インドネシアを訪問。同61年キューバ芸術家連盟の招きでキューバを訪れ、帰途メキシコに立ち寄る。同62年「サンミゲル旧一番通り」により山口源大賞を受賞。同63年町田市立国際版画美術館で「吉田穂高版画展」が開催され、平成7(1995)年4月にはハンガリー美術アカデミーで「吉田穂高大回顧展」が開催された。また、歿後の平成9年1月には居住地であった三鷹の三鷹市美術ギャラリーで「吉田穂高展」が開かれた。伝統技法の紹介により国際交流にも貢献しつつ、古典的木版技法を写真、リトグラフなど多様な技法と併用して新たな表現の可能性を探り、現代の感性に訴える知的な画面構成を行った。著作も多く、主要著書に『たのしい造形』(美術出版社 昭和43年)、『版画 新技法読本』(駒井哲郎らと共箸、美術出版社 昭和38年)、『版画の技法』(駒井哲郎らと共著、美術出版社 昭和39年)などがある。

玉井忠一

没年月日:1995/08/28

読み:たまいちゅういち  日本版画協会会員の版画家玉井忠ーは、8月28日午前10時40分、心不全のため富山県高岡市の光ヶ丘病院で死去した。享年85。明治45(1912)年1月15日、富山県高岡市に生まれ、昭和3(1928)年県立高岡工芸高校を卒業。棟方志功に師事するとともに、創作活動をはじめる。同24(1949)年の第23回国展に「鯉」が初入選、以後同33年の第32回展の「石像」まで、入選をかさねた。一方、日本版画協会展にも出品し、会員となり、同60年の第53回展には、円形を中心に幾何学的なフォルムによって構成した木版画「石障 II」を出品した。また、創作活動のかたわら農業を営み、高岡市にとどまり、市内の小中朝交で木版画教室を開催して、その講師をつとめ、同48年には高岡市民功労賞を贈られた。

吉田遠志

没年月日:1995/07/01

読み:よしだとおし  日本版画協会会員の版画家吉田遠志は、7月1日午前7時20分、前立腺がんのため東京都世田谷区の福原病院で死去した。享年83。明治44(1911)年7月25日、洋画家吉田博、吉田ふじをを両親として東京市本郷動坂町100番地に生まれる。暁星中学校を卒業し、同舟舎デッサン研究所、太平洋美術学校に学ぶ。また、13歳のころから父に木版画を学び、15歳ころから本格的な制作に入る。昭和5(1930)年、父とともにインド、ピルマ、マレーシアなど東南アジアを写生旅行。同11年には中国東北部、朝鮮半島を父とともに訪れる。同13年太平洋画会に初入選し以後同展に出品を続ける。戦後は同22年日展に「浅海の陽光」を出品。またアンデパンダン展にも出品する。同25年太平洋画会を退会してプラス美術家群を創立。翌年日本版画協会会員となる。同27年ニューヨークのジャパン・ソサエティーの協力を得て、アメリカ各地で講演、伝統的木版画の技法紹介、展覧会などを行ったのち、欧州へ渡る。同29年弟で洋画家の穂高を伴い米国各地で講演会、展覧会を開催。のちキューバ、メキシコへ渡る。同41年以後、しばしば渡米して木版画の講演会、展覧会を開催。同48年東アフリカを訪れ、以後動物をモティーフとする版画を主に制作。後にインド、オーストラリア、南極などへも旅行して各地の野生動物を描く。同55年長野県北安曇郡美麻村の小中学校の旧校舎を利用して「美麻文化センター」を創設し、木版画、ガラス細工、陶器などの技術指導の場とする。同57年より絵本「野生動物シリーズ(アフリカ)」の出版を始め、『はじめてのかり』で、同57年イタリア・ボローニア国際児童書フェスティヴァルでエルバ賞、『あしおと』で同63年フランスのアミアン市文化交流賞を受賞。同シリーズにより絵本にっぽん賞を受賞している。

棟方末華

没年月日:1995/05/12

読み:むなかたまつか  日本板画院名誉会長の版画家棟方末華は、5月12日午前9時5分、肺炎のため東京都府中市の都立府中病院で死去した。享年82。大正2(1913)年4月14日、青森県青森市に生まれた。本名末吉。昭和6(1931)年、青森市夜間中学校を卒業、上京後の同14年から戦後の49年まで府中刑務所に事務官として勤務した。その間に創作活動をはじめ、同16年の第4回新文展に、「秋深き山門と石像」(版画)が初入選した。そのほか、国画会、白日会、日本版画協会展にも出品したが、同27年には日本板画院の創立会員として参加した。同40年には、日本浮世絵協会理事に就任、また同49年には、日本板画院会長となった。府中市の文化財専門委員をつとめたほか、同51年には芸術文化に功労があったことから青森県より褒賞を受け、また同61年には美術文化功労者として東京都より表彰された。

堀井英男

没年月日:1994/10/20

日本版画協会会員の銅版画家堀井英男は10月20日午前10時36分、肺がんのため東京都府中市の病院で死去した。享年60。昭和9(1934)年5月13日茨城県行方郡潮来町上町109に生まれる。茨城県行方郡潮来町立小学校、同町立中学校を経て同25年県立潮来高校普通科に入学。在学中に東京美術学校出身者である後藤市三教諭に油絵を学ぶ。同28年同校を卒業し、翌21年文化財保護委員会(現、文化庁)庶務課に勤務する。同萩原英雄に師事し版画に興味をいだく。同30年、勤務のかたわら東京鴬谷・寛永寺坂美術倶楽部に通い絵画を学ぶ。同31年文化財保護委員会を退職して同年4月より東京芸術大学油画科に入学。同35年、同科を卒業して同大学院に進学する。同年既成の画壇に疑問をいだき、グループを結成。翌36年3月、東京芸術大学大学院を中退し、同年4月より東京都中央区月島第三中学校図工科講師となる。同37年私立立正高校美術科教諭となるが同40年3月画業に専念するために退職。同41年より油絵のかたわら独学で銅版画の制作を始める。同42年第35回日本版画協会展に「仮装No.3」「仮装No.1」「仮装No.8」で初入選。「仮装No.8」は日本版画協会賞を受賞。同年同会会友に推され、翌年同会会員となる。同44年第8回ユーゴスラヴィア国際グラフィックアート・ビエンナーレ(リュブリアナ近代美術館)に出品。同年オーストラリアのメルボルンで個展を開催。同45年第3回クラコウ国際版画ビエンナーレに出品するなど国際的に活躍。同47 年詩画集『夢のそとで』 (黒田三郎詩・堀井英男版画)をプリント・コレクターズ・サロンより刊行。同48年版画集『水のさと』(白興出版)刊行。同51年高沢学園・創形美術学校版画科主任となる。同53年12月、詩画集『死の淵より』(高見順詩・堀井英男版画)がプリント・アートセンターから刊行され、同書発行記念「堀井英男新作展」を銀座松屋で開催。同60年11月、私学共催海外派遣研修旅行でパリ、ミュンヘンなどを中心に1ヶ月滞欧。その後、平成元(1989)年パリ国立美術学校・倉形美術学校の交換展のためパリへ、翌2年4月中国へ、同年11月及び同3年6月イタリアへ赴く。同3年4月創形美術学校校長となる。また昭和57年より金沢美術工芸大学で非常勤講師をつとめた。

馬場梼男

没年月日:1994/08/13

読み:ばばかしお  元東京造形大学教授で春陽会会員、日本版画協会理事の版画家馬場梼男は、8月13日午後2時、横浜市保土ヶ谷区の横浜市立横浜市民病院で死去した。享年66。昭和2(1927)年東京に生まれる。春陽会研究所で油絵を学び、同38年第40回春陽会展に「記号化した人一C」「歩む」「記号化した人一B」を出品して同会研究賞受賞、同40年第33回日本版画協会展に「記念写真」を出品して日本版画協会賞受賞。同41年国際ミニアチュール版画コンクール展でDr.s,M rs. Paul A Brodlow賞を受賞する。同41年現代日本美術展に出品、同42年日本版画会員となる。同43年東京国際版画ビエンナーレ展にも出品する。同44年、春陽会版画部会員となる。同46年、第4回国際ミニアチュール版画展に「赤い馬」を出品して受賞する。同47年版画集『標的』を刊行、翌年版画集「Crazy Kids」を刊行する。同53年東京造形大学助教授、同57年同教授となる。遠近法を用いず、画布に人物像をちりばめたユーモラスな作風で知られた。

馬淵聖

没年月日:1994/03/25

日本版画会会長の木版画家馬淵聖は、3月25日心不全のため神奈川県茅ヶ崎市の長岡病院で死去した。享年74。大正9(1920)年1月12日東京市京橋区南鍛冶町12番地(現中央区京橋2丁目6番地)に生まれ、第二東京市立中学校を経て、昭和16年12月東京美術学校工芸科図案部を卒業した。在学中の昭和15年光風会第27回展、造型版画協会展に初入選し、同17年造型版画協会会員となったが戦後の同25年退会する。戦後は同26年の第7回日展に「立秋」で初入選し、以後日展に出品を続けたのをはじめ、翌27年には日本版画協会会員となる。同31年光風会会員(42年評議員)となり、同35年には日版会の創立に参画し、同56年日版会会長となった。埴輪や果実を得意モチーフとして制作した。

橋本興家

没年月日:1993/08/18

木版画家で日本版画協会理事長をつとめた橋本興家は8月18日午前10時14分、脳こうそくのため埼玉県所沢市の病院で死去した。享年93。明治32(1899)年10月4日、鳥取県八頭に生まれる。大正9(1920)年鳥取県師範学校を卒業し、小学校訓導となる。同10年東京美術学校師範科に入学。同13年同校を卒業して富山県立女子師範学校及び併設されていた同県立高女の教論となる。同14年11月、東京府立第一高女(現 都立白鴎高校)教諭となって上京し、昭和31年に退職するまで同校で教鞭をとった。一方で、版画制作を続け、昭和12年第12回国画会展に「名古屋城」「大坂城」で初入選。また、同年第6回日本版画協会展にも出品し、以後両展に出品を続ける。同13年第2回新文展に「古城ろの門」で初入選。同14年第3回新文展に「古城早春」を、同15年紀元2600年奉祝展に「古城清秋」、第15回国画会展に「二の丸附近」を、同16年第4回新文展に「夏景名城」、第16回国画会展に「春の城」、同18年第6回新文展に「古城松山」を出品。同19年画文集『日本の城』(文・岸田日出刀、加藤版画研究所刊)を刊行する。戦後は同21年春の第1回日展に「牡丹」、同年秋の第2回日展に「アルプスと城」を出品するが、以後官展への出品はない。国画会展へは同21年同会が戦後に再開した当初から再び出品を始める。こ間の同21年版画集『古城十景』(加藤版画研究所刊)を刊行。同20年代後半は、東京都教育委員会の公立学校使用教科書採択に関する専門委員、文部省の教材等調査研究委員などで教育関係の委員、調査員を数多くつとめる。同31、33、35、38年に東京・日本橋三越で個展を開いたほか、同32年の第1回東京国際版画ビエンナーレ展に姫路城をモティーフとした「菱の門」を出品し、以後35、37年の同展にも出品。同36年ローマ・日本現代版画展、同37年ルガノ国際版画ビエンナーレ展、同39年ストックホルム日本現代版画展にも出品し、国際的にも知られるところとなった。同49年より54年まで日本版画協会理事長をつとめる。同62年愛媛県立美術館に代表作75点を寄贈し、これを記念して展覧会を開催、同年鳥取県立博物館にも代表作88点を寄贈して記念展を開いた。翌63年には鳥取県堺港市に代表作199点を寄贈している。画業のはじめから日本の古城を好んでモティーフとし、伝統的な木版画の流れに新風を吹き込んだとして注目された。上記以外の画集に『日本の名城版画集』(昭和37年 日本城郭協会刊)、『日本の城』(同53年 講談社)などがある。

鈴木信吾

没年月日:1993/07/04

日本版画協会会員の版画家鈴木信吾は、7月4日午後5時31分、脳しゅようのため東京都品川区の病院で死去した。享年49。昭和19(1944)年5月19日、中国の満州に生まれる。同41年立教大学を卒業後、2年間彫金を学ぶ。同43年、シロタ画廊で、油絵の個展を開催する。同45年、日本美術家連盟の版画工房に入り銅版画の技法を学び、同46年、シロタ画廊で版画の個展を開く。同47年第40回日本版画協会展で同協会賞受賞。同年第3回版画グランプリ展、第6回現代美術展に出品。翌48年より54年まで滞欧し、はじめは油絵を描いたが、後半はアトリエ内で版画を研究する。この間の同49年第1回フランス・ツール市国際展、フランス・リヨン現代日本画展に出品。同51年ベルギー・オスタンド市ヨーロッパ絵画賞展に出品して銅メダル賞を受賞。翌年フランス・ヴィトリ・スウ・セイヌ市絵画展にも出品。帰国後は、東京版画研究所に学んだ。同52、56年および平成元年にはアメリカで開催された国際ミニアチュール展、昭和57年には韓国で行なわれた第2回韓国国際ミニアチュール展、同60年アメリカでの国際メゾチント・コンペティション、同62年イタリア・ビエラ国際版画展、同64年イギリス・ブリストル国際ミニチュール版画展に出品するなど、国際的に活躍した。国内でも平成2年第3回ミヤコ版画賞展ミヤコ賞受賞。昭和50、56、61年および平成2年にガレリア・グラフィカで個展を行なったほか、版画日動展、静岡県立美術館で開催された「フュージョン展」等、多くの展覧会に出品した。銅版画を得意とし、「サンマルタン運河シリーズ」を描いたマニエル・ノワールのほか、銅版にビュランで点を置いていく点描法、ステイプル・エングレーヴィングで高い評価を得た。代表作に「五月の小箱」、「小さな秋」「deja vu」等がある。没後の平成6年名古屋のギャラリー審美で個展が開かれた。

笹島喜平

没年月日:1993/05/31

国画会会員、日本版画協会名誉会員の版画家笹島喜平は5月31日午前9時40分、呼吸不全のため栃木県芳賀郡益子町の西明寺普門院診療所で死去した。享年87。明治39(1906)年4月22日、栃木県芳賀郡に生まれる。昭和2(1927)年4月、東京府立青山師範学校(現東京学芸大学)を卒業して教員生活に入る。独学で洋画を学び同11年、郷里の陶芸家浜田庄司の紹介により棟方志功に師事。平塚運一にも指導を受けた。同15年第15回国画会展に「南豆の海」で初入選。同16年第4回新文展に「山道」が入選し、これによって版画家となることを決意する。同18年第18回国画会展で会友に推される。同20年教職を退いて版画家として独立。同23年第16回日本版画協会展に「新秋古刹」「戦災跡芋畑」を出品して同会会員となる。同24年第23回国画会展に「油地獄板画冊」を出品し、同会会員に推挙される。このころから三越劇場での歌舞伎版画に取り組み、その制作を通じて写楽を知った。同25年日本版画協会を退会し、同27年棟方志功らと日本板画院を創立。同29年より毎年、東京日本橋高島屋で個展を開催。この間、同32年第1回東京国際版画ビエンナーレに「漁村」「山湖B」で入選。以後第5回展まで招待出品。同34年第33回国画会展に拓版画「風ある林」「森」を出品し、拓本を参考に、バレンを用いず版木に紙をあてて上から押す「拓刷り」技法を示して注目された。同40年、畦地梅太郎らと新秋会を結成し同48年まで毎年出品。同年笹島喜平版画展を益子町公民館で開催。同41年スイス、ザイロン市での第4回国際版画展に出品する。同42年第9回サンパウロ・ビエンナーレ展に「吉祥天A」「吉祥天B」「風神・雷神」などを出品。同43年3月笹島喜平版画展を足利市民会館ギャラリーで開く。同47年イタリア・ミラノ現代国際版画展に出品。同49年9月、畦地梅太郎、北岡文雄らと朴林会を結成する。同51年古稀を記念して『笹島喜平画文集』(美術出版社)を刊行。同53年笹島喜平版画展を水戸市文化センターで開催する。同57年喜寿記念笹島喜平展を東京日本橋高島屋で開催した。同展出品作は栃木県立美術館に所蔵されている。作品集に『笹島喜平版画作品集』(美術出版社 昭和39年)、画文集『一座』(美術出版社 昭和42年)。『笹島喜平版画集』(講談社 昭和55年)。『半画人・笹島喜平画文集』(美術出版社 昭和57年)等がある。仏教関係の尊像、社寺を描くことが多く、白黒の明快な対比、版木の彫痕が紙に凹凸としてあらわれる力強い作風を特色とした。

市川禎男

没年月日:1993/02/25

読み:いちかわさだお  童画、版画を制作した市川禎男は2月25日午前8時48分、脳こうそくのため東京都杉並区の前田病院で死去した。享年72。大正10(1921)年1月28日、東京都下谷に生まれる。昭和15年川端画学校洋画科修了。在学中の同14年から16年まで劇団東童の美術部員として舞台美術、装置などを制作。同16年から22年まで新児童劇団美術部長をつとめる。同23年自由美術展に出品。同24年日本童画会に入会し同会会員となる。同26年第5回日本童画会展で日本童画会賞受賞、同27年日本版画協会展で根市賞を受賞し同会員となる。同33年共著『子どもの舞台美術』(さ・え・ら書房)でサンケイ児童出版文化賞受賞。初山滋に師事し、児童図書の挿絵、装丁、版画を制作した。また、日本美術家連盟に所属し同41年著作権法改正にあたり、美術家著作権運動に積極的に参加した。代表作品に『大地の冬の仲間たち』『サムライの子』『雪ぼっこ物語』『いさご虫のよっ子ちゃん』『チョウのいる丘』『赤い貨車』『ぼくのおうち』『空いろのレンズ』『紙すきの村』『天の園』『光と風と雲と樹と』等がある。

伊藤勉黄

没年月日:1992/08/20

国画会、日本版画協会の会員であった版画家伊藤勉黄は8月20日午前2時10分、肺炎のため静岡市の病院で死去した。享年75。大正6(1917)年1月5日、静岡県志太郡に生まれる。本名勉。国学院大学に学ぶ一方、版画を独習し、昭和10(1935)年第6回童士社創作版画展に出品する。同14年上海に渡り、同21年帰国。この間、玄黄展、全上海展に出品を続けた。同21年静岡県版画協会を結成。同24年、第17回日本版画協会展に初出品し根市賞を受賞。同25年第24回国画会展に初出品し褒状を受賞。同26年日本版画協会会員となる。同28年第27回国画会展に「窓」「蝶」を出品して国画奨励賞を受け同30年会友に推される。同31年第30回同展に「積み上げた町」「DIMANCHE」「露天商」を、翌年第31回同展に「圏外の夜」「十代」「祈りの時間」を出品して2年連続して会友優作賞を受賞。同34年同会会員となる。また、同32年アメリカ・シカゴ現代日本版画選抜展、同33年ボストン・プリントメーカーズ展、グレンヘン国際版画トリエンナーレ、同34年ポーランド・クラコウ・ビエンナーレ、同36年アメリカ・プリント・ソサエティ主催全米版画展等、国際展にも数多く出品した。同43年、木版と亜鉛版を併用する新技法により我自の画風を打ち出す。同52年『伊藤勉黄版画集』を出版。同56年池田20世紀美術館で柳沢紀子と版画2人展を開催した。郷里静岡の美術振興に尽力し、同51年同県美術家連盟副会長に選任され、同55年同県芸術文化功労者として知事表彰を、同57年には文部大臣表彰を受けた。

森義利

没年月日:1992/05/29

合羽摺の第一人者として知られた版画界の長老森義利は、5月29日午前2時38分、肝不全のため東京都港区の六本木病院で死去した。享年93。明治31(1898)年10月31日、東京日本橋船町の魚問屋「西源」の六代目として生まれる。同36年家業が倒産。日本橋浜町尋常小学校を経て同43年日本橋高等小学校に入学するが、翌44年に同校を中退して、おもちゃ問屋、質店、洋紙店などで奉公する。洋紙店では過酷な労働の中にも絵を描く楽しみを知り、やがて実母の家へ戻って大正4(1915)年から山川秀峰に入門。秀峰の父霽峰に文様、染色の指導を受けた。翌5年、秀峰に従って鏑木清方門下の新年会に列席し、浮世絵風人物画家を志すようになる。同7年入隊して朝鮮半島に赴任。同9年除隊となり、同10年より桜木油絵具製造工場に勤める一方、中村不折の指導する太平洋画会研究所に学ぶ。また五島耕畝につけたて運筆を学んだ。同12年太平洋画会研究所から川端画学校へ移るが、同年9月の震災によって家計を担わなくてはならなくなり、画業を断念。文様・染織の道に進み、同14年に独立した。昭和13(1938)年、日本民芸館を訪ね、柳宗悦の講義に感銘を受けて、翌14年染色研究団体である「萠黄会」を結成。芹沢銈介にも指導を仰いだ。戦中は奢侈禁止令により友禅文様等が当局の弾圧にあい、文様連盟日本橋・京橋・深川地区理事長として文様制作の保護に尽力した。戦後は、同21年第1回日展工芸部に「藍染 野菜の丸の図」を出品。同年第1回日本美術及工芸交易振興展に「浅草寺風物の図振袖」で3等賞を受賞した。同24年第23回国画会展に「愛染明王染軸」で初入選、同29年日本板画院展に初入選し、両展に出品を続け、同56年国画会工芸部会員、日本板画院会員となった。同32年東京国際版画ビエンナーレ展に「暮の市1、2」を出品して注目されて以後、版画家として国際的にも認められ、アメリカ、オーストリア、スペイン、南米等で作品を展観するようになった。同37年、工芸と美術をめぐっての意見の相違から国画会工芸部を退く。また、同40年には日本板画院をも退いた。その後も同44年第1回国際版画展で受賞するなど国際的に活躍し、同45年初めて渡欧、同47年にはアメリカをも訪れた。江戸時代に浮世絵にも用いられた合羽摺は、薄い和紙を数枚張り合わせた「合羽紙」に図柄を描き、それを彫って型紙をつくり、手摺りを行なう技法で、森は染色文様を生業とした経験を生かして、これを近代版画によみがえらせた。下町の風俗、職人づくし、祭礼が多く題材とされ、晩年には「平家物語」「源氏物語」等の古典文学や歌舞伎の主題もとりあげられた。溌刺たるフォルム、輪郭をなす黒をアクセントとする明快な色彩を用いた生命感ある画風が特色である。没後、作家の遺志により遺族から中央区に遺作200点が寄贈された。

日和崎尊夫

没年月日:1992/04/29

読み:ひわさきたかお  木口木版の第一人者で日本版画協会会員の日和崎尊夫は4月29日午後7時40分、食道ガンのため高知市の図南病院で死去した。享年50。昭和16(1941)年7月31日高知市に生まれる。同38年武蔵野美術大学を卒業。同年畦地梅太郎に板目木版を学び、翌年から木口木版を独学。同41年「星と魚」「星と植物」シリーズで日本版画協会新人賞、翌42年同協会賞を受賞。同44年第2回フィレンツェ国際版画ビエンナーレで金賞を受賞した。同49年文部省芸術家在外研修員として渡欧。同53年スペイン・バルセロナで開かれた「現代日本の10人の版画家」展に出品。同55年バングラディシュで開かれた「現代の東洋美術展」に出品するなど、日本の伝統的木版画技術を現代に生かす作家として注目され、国際的に活躍した。同57年、郷里高知にアトリエ「白椿荘」を建てて制作の拠点とし、平成2年には第1回高知国際版画トリエンナーレ展を提案してその実現に尽力。同3年7月、「KARPA’89 REQIEM」で第5回山口源大賞を受けた。木口木版画家による「鑿の会」に参加。同会の先輩であった城所祥没後、木口木版の第一人者と目され、嘱望されていた。代表作に「KARPA」シリーズ、「海淵の薔薇」「五億の風の詩」等があり、画集には「博物譜」「星と舟の唄」「ピエロの見た夢」「薔薇刑」「フレシマ」「緑の導火線」等がある。

清宮質文

没年月日:1991/05/11

読み:せいみやなおぶみ  詩的な心象世界を版画で謳う元春陽会会員の版画家清宮質文は、5月11日午後4時54分、心筋こうそくのため東京都杉並区の山中病院で死去した。享年73。大正6(1917)年6月26日、洋画家清宮彬の長男として、東京府豊多摩郡に生まれる。四谷区第五小学校を経て、昭和10(1935)年麻布中学校を卒業。同年夏、同舟舎絵画研究所に入り、駒井哲郎と出会う。同12年東京美術学校油画科に入学。藤島武二に師事し、四年からは田辺至教室に学んで、同17年3月同校を卒業。在学中、版画教室で銅版画を試みる。東美校卒業の年の6月、長野県上田中学校の美術教師となるが翌年3月辞任。同年9月に上京し、翌19年慶応義塾工業学校の美術教師となる。同年応召。同20年慶応義塾工業学校に復職し、同24年に同校を辞して商業デザインに従事。同26年より27年まで商業デザイン会社に勤務するが、同28年8月、東美校の同級生による「ゲフ(䲜)の会」の結成に参加し、これをきっかけに制作に専念するとともに、木版画を始める。同29年第31回春陽会展に「巫女」で初入選。以後同展に出品を続け、同31年同会準会員、同32年同会会員となった。同33年11月、東京のサヱグサ画廊で初個展開催。同35年12月、東京の南天子画廊で個展を開いて以降、同画廊を作品発表の場とする。同37年第3回東京国際版画ビエンナーレ展に「枯葉」「蝶(ある空間)」を招待出品。同48年第10回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに木版画10点よりなる画集「暗い夕日」を出品。同49年第51回春陽会展に「告別」を出品したのを最後に同会へは出品せず、同52年同会を退会して無所属となる。同61年南天子画廊より『清宮質文作品集』(現代版画工房編)を刊行。版画の可能性を複製性よりも造形的特色に認めてモノタイプを中心に制作し、深い思索を背景に、静謐で詩的な独自の画風を示した。没後の平成3年7月、南天子画廊で追悼展が行なわれている。なお、年譜は『日本現代版画 清宮質文』(玲風書房 平成4年12月)に詳しい。

小野忠重

没年月日:1990/10/17

版画家で版画史研究、洋風画史研究でも知られた小野忠重は、10月17日肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年81。明治42(1909)年1月19日東京市本所区に生まれる。実家は酒類等の小売商を営み、忠重は一人息子として育った。早稲田実業学校在学中の大正13年、中西利雄、小山良修らの蒼原会に加わり水彩画に親しみ、翌年の白日会第2回展に出品した。同年、永瀬義郎著『木版画を試みる人に』に接し創作版画にめざめ、自ら試作したりした。また、この頃から本郷絵画研究所へ通った。昭和2年、早稲田実業学校を卒業、以後家業に従事する。同4年、第2回プロレタリア美術展に油彩画、木版画(「ビラを見る労働者」)等3点を出品(~第5回展まで毎回)、次第に版画に専心するに至った。プロレタリア美術展への出品作に連作「三代の死」(同6年)などがある。同7年、第2回日本版画協会展に「患者控室」等を出品する一方、新版画集団を創立、これは当時のプロレタリア美術運動に呼応したものであった。同12年、新版画集団を改組し造型版画協会をおこし主宰する。この間、同8年には黒田源次著『西洋の影響を受けたる日本画』に触れ感動し、以後黒田との文通を始めるなど、日本洋風画史への関心を高めていった。後年の著書『江戸の洋画家』(昭和43年、三彩社)は、その研究の集大成といえる。また、同16年には法政大学高等師範部国語漢文科を卒業した。同20年、一時岡山県津山市へ疎開したが翌年東京へ戻り、美術出版社に入り「洋画技法講座」「美術手帳」の編集に携わった。戦後は日本美術会の委員として、同23年の同会アンデパンダン展第2回から毎回出品し、戦前同様庶民の生活に密着した題材を用いて制作を続け、一貫して版画の大衆化をめざした。一方、「木版陰刻」などの手法により独自の作風を確立していった。同31年、東京・銀座養清堂画廊で初の個展を開催。翌32年第1回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、以後出品は第4回展まで及び、第6・7回展には諮問委員を委嘱された。同36年、ソ連で開催された現代日本版画展を機に訪ソし、ヨーロッパも巡遊する。同年、岩波新書として『版画』を発刊。この間、同38年から同52年まで東京芸術大学絵画科版画研究室の講師をつとめた。同54年紫綬褒章を受章。同63年には、東京芸術大学芸術資料館で「小野忠重の版画と素描」展が開催された。版画作品は他に、「工場街」(昭和10年)、「狐市街」(同13年)、「けむり」(同31年)など。作品集に『小野忠重版画集』(同52年)。版画史、版画の技法に関する著書も多く、『日本の銅版画と石版画』(昭和16年 双林社)、『版画技法ハンドブック』(同35年 ダヴィッド社)、『近代日本の版画』(同46年 三彩社)などがある。

前田藤四郎

没年月日:1990/05/19

日本版画協会名誉会員、春陽会会員の版画家前田藤四郎は、5月19日大阪府堺市の市立堺病院で死去した。享年85。関西における創作版画の草分け的存在として知られ、豪放で庶民的な人柄から関西画壇の象徴的存在として慕われていた前田は明治37(1904)年10月18日兵庫県明石市に生まれた。兵庫県伊丹中学校時代から水彩画に親しみ、神戸高等商業学校在学中の大正13年には、妹尾正彦、井上覚造らとグループ青猫社を結成し油彩画を描いた。昭和2年神戸高商を卒業。翌3年、平塚運一著『版画の技法』を参考に版画制作を試み「監的鏡」などを制作、同4年の第7回春陽会展に版画「散髪屋」を初出品、以後、同展へ継続出品するとともに、同6年には第1回日本版画協会展へ出品、また同年大阪に版画グループ羊土社を結成し指導に当たった。同7年日本版画協会会員となり、同年、版画グループ黄楊を結成、大阪の洋画グループ艸園会に加わった。一方、この年の作品「時計」は、版画に写真製版をとり入れたわが国最初の試みとして、また、そのシュール・レアリスム的表現でも注目される。この間、恩地孝四郎らの創作版画運動に共鳴し、木版、石版、銅版の諸技法を独習するなかで、次第に独自ののびやかで華麗な作風をつくりあげ、技法上はリノリウム板に油絵具を用いるリノ・カット技法に特色があった。同14年、第17回春陽会展に「紅型A」「紅型B」などを出品し春陽会賞を受賞、春陽会会友となり、翌年同会員に推挙された。戦前は新文展にも出品する。戦後は、同21年朝日美術展に「竜安寺石庭」で朝日新聞社賞を受賞したのをはじめ、春陽会展、美術団体連合展、日本版画協会展、現代日本美術展、日本国際美術展、東京国際版画ビエンナーレ展などに制作発表を行い、昭和20年代後半からは、廃材の木目のフロッタージュを利用した制作を始めた。同32年、大阪府芸術賞を受賞。同40年にはヨーロッパ各地を取材旅行した。また、同45年開催の大阪万国博覧会に伴い開設された万博美術館を、大阪府立現代美術館として再開するための推進協議会委員(同47年、国立現代美術館推進協議会代表)となり、同52年に国際美術館として開館する間、運動の中心的存在として尽力した。同57年から翌年にかけては、国鉄(現JR)大阪駅の中央コンコース改札口北面壁の陶版レリーフ作成に従事し、「大阪の四季・まつり」として完成した。個展、回顧展をしばしば開催した他、新聞等の挿絵も手がけた。主要出品歴昭和4年春陽会第7回展 「散髪屋」帝展第10回 「都会展望」(水彩)昭和5年春陽会第8回展 「婦人帽子店」昭和6年春陽会第9回展 「華麗なるエスプリ」「屋上運動」日本版画協会第1回展 「登場人物」「貯水池」「聴音」昭和7年春陽会第10回展 「女」日本版画協会第2回展 「香里風景」「花」「婦人像」昭和8年春陽会第11回展 「葡萄の静物」「鹿」「石膏の静物」日本版画協会第3回展 「車輪」「香里風景」「鹿」「葡萄」「時計」「水源地」昭和9年春陽会第12回展 「道化者」昭和10年春陽会第13回展 「鳥」「チューリップ」日本版画協会第4回展 「山」「静物」「きつつき」「花束」「朝顔」「道化役者」昭和11年春陽会第14回展 「ラグビー」日本版画協会第5回展 「牛」「静物」昭和12年春陽会第15回展 「蝶」「静物」昭和13年春陽会第16回展 「飛ぶ鳥」「風景」日本版画協会第7回展 「鳥」「七月の白浜」昭和14年春陽会第17回展 「紅型A」「紅型B」「手」「竜舌蘭と墓」昭和15年春陽会第18回展 「藍型」「花芭蕉」「琉球の魚市場」紀元2600年奉祝美術展 「紅型」日本版画協会第9回展 「ヤップの人形(男)」「ヤップの人形(女)」昭和16年春陽会第19回展 「琉球の魚市場」「琉球の青物市場」「老婆」「市場附近(琉球)」「首里展望」「魔除けのある屋根」文展第4回 「南の国」日本版画協会第10回展 「紅型」昭和17年春陽会第20回展 「紅型」「孔子廊(首里)」「琉球風景」「市場の帰り」「琉球の魚売り」日本版画協会第11回展 「新緑」昭和18年春陽会第21回展 「曽爾秋色」「東福寺の庭」「龍安寺の庭」「静物」文展第6回 「南国勤労」昭和19年春陽会第22回展 「金玉満堂」文部省戦時特別美術展 「愛染明王」昭和21年朝日美術展 「竜安寺石庭」春陽会第23回展 「大和路」昭和22年春陽会第24回展 「三河の春」「東北の街(ハイラル)」第1回美術団体連合展 「苔寺石庭」昭和23年春陽会第25回展 「社頭春色」日本版画協会第16回展 「椿」「石庭」第2回美術団体連合展 「住吉大社」「椿」昭和24年春陽会第26回展 「梅・椿」「桜島」「女優P」第3回美術団体連合展 「カストリ横丁」昭和25年春陽会第27回展 「大原女」「牛」「花」第4回美術団体連合展 「土の家」昭和26年春陽会第28回展 「文楽人形」「大阪風景・桜之宮」「焼跡」日本版画協会第26回展 「つばめ」第5回美術団体連合展 「裏街」昭和27年春陽会第29回展 「建築」「迷路」日本版画協会第20回展 「老婆」昭和28年春陽会第30回展 「岬」「回想の琉球」「壷とさざえ」日本版画協会第21回展 「花」昭和29年川西英・前田藤四郎創作版画展(神戸・元町画廊)春陽会第31回展 「坂道」「鳥篭を持つ少女」日本版画協会第22回展 「花と子供」第1回現代日本美術展 「母子」「裏街」昭和30年春陽会第32回展 「スラム街」「住吉祭」「明石原人の海」第3回日本国際美術展 「平和」「昆虫」前田藤四郎版画展(大阪・梅田画廊)昭和31年春陽会第33回展 「遊ぶ子供達」第2回現代日本美術展 「小魚を喰う蟹」「観世音菩薩」昭和32年春陽会第34回展 「昼の裏街」「夜の裏街」日本版画協会第25回展 「愛鳥週間」「湖畔」第4回日本国際美術展 「顔」第1回東京国際版画ビエンナーレ 「海浜」「追想」昭和33年春陽会第35回展 「母と子」「水の精」「立春」「厨房」日本版画協会第26回展 「あむしる」第3回現代日本美術展 「夜の花」「立春」昭和34年日本版画協会第27回展 「月の出」「石庭」春陽会第36回展 「ハイティーンM」「内海航路(昼)」「内海航路(夜)」「勲章」「ハイティーンW」第5回日本国際美術展 「故郷」昭和35年日本版画協会第28回展 「森の会話」「伝説」春陽会第37回展 「サンドイッチマン」「古代人」「神話」第4回現代日本美術展 「古代」「民話」第2回東京国際版画ビエンナーレ 「春」「冬」昭和36年日本版画協会第29回展 「夜の童話」「昼の童話」春陽会第38回展 「今」「呪」「幻」昭和37年日本版画協会第30回展 「1月」「8月」春陽会第39回展 「薫風」「原始」「奇妙な花」第3回東京国際版画ビエンナーレ 「白亜の海」「白亜の空」昭和38年日本版画協会第31回展 「コバルト」「開」春陽会第40回展 「銀」「狙」「哭」「群」「紅」昭和39年日本版画協会第32回展 「虫」「作品」春陽会第41回展 「気」「虫」「螺」昭和40年春陽会第42回展 「湖畔」「火の鳥」昭和41年春陽会第43回展 「パリの壁」「パリの広告」昭和42年日本版画協会第35回展 「巴里」春陽会第44回展 「イビサにて」「巴里」昭和43年日本版画協会第36回展 「白夜の海」春陽会第45回展 「奇妙な家」「遺跡」昭和44年日本版画協会第37回展 「壷を売る女」「裏窓」春陽会第46回展 「バザール」「船を待つ女」昭和45年昭和版画協会第38回展 「崖」「港近く」春陽会第47回展 「住めば都」「はかなき夢」昭和46年日本版画協会第39回展 「鎧岳」「わらべ歌」春陽会第48回展 「春雪」「まぼろしの港」昭和47年日本版画協会第40回記念展 「グリン・マダム」「上がったり下がったり」春陽会第49回展 「楽しい日曜日」「御食事處」昭和48年日本版画協会第41回展 「P.Q.R.」「今日は,今日は」春陽会第50回展 「首を売る男」「めぐり逢い」昭和49年日本版画協会第42回展 「斗牛」「君の名は?」春陽会第51回展 「カッパドキヤ」「狂乱」昭和50年日本版画協会第43回展 「王家の谷」「祈り」春陽会第52回展 「ペルセポリス」「ウルカップ」昭和51年日本版画協会第44回展 「ペルシャ追想」「一人ぐらいは…」春陽会第53回展 「コーランは流れる」「デート」昭和52年日本版画協会第45回展 「股のぞき」「日本昔話」春陽会第54回展 「神々の休日」「遺跡観光」昭和53年日本版画協会第46回展 「メッカへの道」春陽会第55回展 「屈折の論理」「異邦人」前田藤四郎・版画の50年展(大阪府立現代美術センター 主催=大阪府)昭和54年春陽会第56回展 「病いの国に遊ぶ(窓内)」「病いの国に遊ぶ(窓外)」昭和55年日本版画協会第48回展 「紳士の散歩」「草花の下」春陽会第57回展 「ファッション・ショウ」「デコイ」前田藤四郎版画展(大阪・サントリー文化財団)昭和56年日本版画協会第49回展 「華麗なる腐蝕」「密室」春陽会第58回展 「生殖」「右と左」前田藤四郎近作版画展(京都・朝日画廊)昭和57年日本版画協会第50回記念展 「時計」(1932年)春陽会第59回展 「華麗なる仲間」「黒と白」昭和58年日本版画協会第51回展 「自画像「スカタン」」春陽会第60回展 「高い山から…」前田藤四郎個展-風展(大阪・茶屋町画廊)昭和59年日本版画協会第52回展 「ジャンケン・ハサミと待って」「手と花」春陽会第61回展 「手と花」「ジャンケン・グーとパー」前田藤四郎・遊展-オブジェ(大阪・茶屋町画廊)前田藤四郎版画展(大阪・阪急)昭和60年日本版画協会第53回展 「じゅう」「10」春陽会第62回展 「風船」「TEN」昭和61年春陽会第63回展 「天文学入門」「いき・いき」昭和62年春陽会第64回展 「近」昭和63年春陽会第65回展 「GREEN(A)」「RED(B)」平成元年春陽会第66回展 「野の詩」「テノール」前田藤四郎展(伊丹市立美術館)

城所祥

没年月日:1988/07/22

日本版画協会会員の版画家城所祥は、7月22日午前7時31分、急性心不全のため東京都八王子市の多摩相互病院で死去した。享年53。昭和9(1934)年12月2日、東京都八王子市に生まれる。八王子市立第五中学校、東京都立川高校を経て早稲田大学に入学し、同32年同大学第一商学部を卒業する。34年養精堂画廊で個展を開いて木版画家としてデビューし、36年日本版画協会会員となる。39年東京国際版画ビエンナーレに出品し、以後40年スイス木版画展、パリ青年ビエンナーレ、42年サンパウロ国際版画ビエンナーレなど国際展にも多く出品。42年鑿の会を結成し、木口木版画集「のみ」の制作に参加する。また、同年文化庁在外研究員として渡欧し、パリ、ジュネーヴに滞在する。美術教育にもたずさわり、43年より52年まで武蔵野美術大学講師、47年より63年まで武蔵野美術学園講師、53年より63年まで金沢市立美術工芸大学講師をつとめたほか、日本美術家連盟版画工房の嘱託もつとめた。果物や花を主要なモチーフとする室内静物画を多く制作し、黒をアクセントとする明快な色面によって画面を構成する。代表作に、三好豊一郎の詩による詩画集『黙示』(昭和42年)、版画集『鳥』(46年)、東京八王子市喜福寺襖絵(46年)などがある。

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