本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





関野凖一郎

没年月日:1988/04/13

日本版画協会理事、国画会会員の版画家関野凖一郎は4月13日午前5時45分、肺ガンのため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した。享年73。大正3(1914)年10月23日青森市に生まれる。青森県立青森中学校在学中に、学友の根市良三の版画に感銘して版画を始める。昭和8(1933)年青森中学を卒業、今純三に銅版画と石版画を学ぶ。11年文展(第二部)にエッチング「河畔」で初入選。13年日本版画協会会員となる。14年に上京し鈴木絵画研究所で油絵を学ぶ一方、恩地孝四郎にも師事。15年日本エッチング協会を設立する。国画会展にも出品し22年同会会員となる。戦後は、32年アジア・アフリカ国際美術展など国際展に多く出品して注目され、33年ロックフェラー財団の招聘により渡米し、一年間アメリカ各地で版画の講義を行なう。35年アメリカ・ノースウエスト国際版画展に「フィレンチェの屋根」を出品してシアトル美術館賞受賞。36年リュブリアナ国際版画展では「花・墓・車」三部作で特別賞を受ける。38年フォード財団の招きで再び渡米しロスアンゼルスのタマリンド石版研究所で石版画を制作する。43年日本美術家連盟常務理事となる。50年、版画集「東海道五十三次」で芸術選奨文部大臣賞受賞。創作版画の創成期にあたって、戦後日本の版画が国際的に評価されるとその代表的作家の一人として活躍した。肖像、裸婦、風景を主な題材とし、木版、銅版、石版など多様な技法を用いた。多作であり、私家本も多く制作したが、一方著作もよくし『版画を築いた人々』『わが版画師たち』『文人画像』『木版画の楽しみ』など、日本近代版画史、版画技法についての著書を刊行している。

高橋信一

没年月日:1986/12/16

佐渡版画村理事長として版画の制作、指導に尽力した版画家高橋信一は、12月16日午前5時15分、気管支ぜんそくによる気道閉そくのため、新潟県両津市の自宅で死去した。享年69。大正6(1917)年7月25日佐渡に生まれる。小学校在学中、図画教師中田吉三に学んで油絵を描き始め、のち、平塚運一の弟子笹井敏雄、斎藤正路に版画を学ぶ。昭和32(1957)年現代版画コンクール佳作賞受賞、34年日本版画協会展賞受賞。35年には日本版画協会展賞および恩地賞を受けて同会会友に推される。38年3ケ月間滞欧して13ケ国を巡遊。39年日本版画協会会員となる。41年フランス、イタリア政府の招きで国立美術大学教育者の講師として東洋絵画、版画の実技の指導に当たる。44年国画会版画部会員となる。クラコウ国際版画ビエンナーレなど国際展への出品も多く、51年スイス・ザイロン国際版画展では受賞している。常に郷里佐渡にあって制作するとともに、昭和23年より51年停年退職するまで、両津高校で教鞭をとり、版画指導に尽力。48年より島民への版画指導も始め、全島に版画制作の輪を広げ、佐渡版画村をおこして57年サントリー地域文化賞を受賞。59年7月には相川町に佐渡版画村美術館が設立された。仏教の二河白道に触発された「白い道」シリーズで知られ、トキをモティーフとして好んで描く。『佐渡名所百選』(51年、新潟日報事業社)、『高橋信一の世界』(58年、教育書籍)、『佐渡版画村作品集』(59年、教育書籍)、『捨てない教育』(59年、渓水社)などを刊行している。

黒木貞雄

没年月日:1984/02/23

日本版画協会審査員の木版画家黒木貞雄は、2月23日午後6時50分、前立せんガンのため宮崎県延岡市の林医院で死去した。享年74。明治41(1908)年12月8日、宮崎県延岡市に生まれる。昭和5(1930)年3月宮崎県師範学校本科を卒業。翌年同校専科を卒業して上京し、川端画学校洋画科で同9年まで学ぶ。同科在学中の同8年より版画家平塚運一に師事。後に恩地孝四郎にも教えを受ける。同10年第4回日本版画協会展に「ふるさとの山」で初入選、翌年第11回国画会展に「むかばきの夕映」(版画)で初入選し、以後両展に出品を続ける。同13年第7回日本版画協会展に「青島」を出品し版画道賞を受賞。同15年同会に「浜木綿の花咲く青島」他2点を出品し2600年記念大賞次賞を受け、同会会員に推挙される。同17年第17回国画会展に「かんな」「浜ゆふ咲く島」を出品し褒状を受ける。同27年国画会会友となる。浦々庵とも号し、郷里宮崎にあってその風景、風俗に取材した木版画を制作しつづけた。国際展にも出品し認められる一方、郷里の文化発展にもつくした。同30年に画集『日向風物版画集』を刊行している。国画会展出品歴 第11回(昭和11年)「むかばきの夕映」、12回「霧島山早春」、13回「水郷の春」、14回「小雨ふるビロー島」、15回(同15年)「港」、16回「むかばき山遠望」、17回「かんな」「濱ゆふ咲く島」、18回「ひまわり」「さぼてん」、19回「風景」、21回「日向風景」、22回「ジャバ人形のある静物(A)」、24回「盆踊」「臼太鼓」、25回(同26年)「都井の馬」、26回「夜神楽」、27回「風神の舞」「雷神の踊」、28回「天主堂」、29回「七面鳥(A)」、30回(同31年)「公園」「草の中の鳥」、31回「城跡」、32回「石仏(青)」、33回「サボテン」「蕗」、34回「干網」「波状岩」、35回(同36年)「回想」「夜精の舞」、36回「はにわ」「鳥」、37回「群」「網」、38回「魚」、39回「作品」「浮遊」、40回(同41年)「解体された家」、41回「高千穂の曇海」、42回「石仏と鳥」、43回「五匹の馬」、44回「凶影」、45回(同46年)「桜島」、46回「聖者」、47回「巌」、48回「祖霊の山」、49回「仙境暁映」、50回(同51年)「米良三山」、51回「けし」「山波」、52回(同53年)退会

荒木哲夫

没年月日:1984/01/10

銅版画を中心に多様な技法を駆使して心象風景を描いた版画家、荒木哲夫は、1月10日午前3時3分、クモ膜下出血のため、東京都港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年46。昭和12(1937)年6月1日、東京府台東区に、皮革加工業を営む生家の三男一女の長男として生まれる。同20年、東京府本所区立業平国民小学校に入学、10歳の時、肋膜からカリエスという宿痾に襲われ、美術鑑賞や読書などを趣味とする内省的生活を送る。同26年東京都台東区立精華小学校を卒業。同30年、同区立福井中学校を卒業し、病気のため通信教育で学び同33年都立上野高校を卒業、同年武蔵野美術大学西洋画科に入学する。同校在学中、版画に興味を持ち、同35年東京国際版画ビエンナーレ展でフランスの版画家ジョニー・フリードランデルの作品に感銘を受ける。同37年武蔵野美術大学西洋画科を卒業。パリ留学をめざして英語、仏語を学び、同40年、パリへ留学、フリードランデル工房に入門。フリードランデルの指導を受けるかたわら、アカデミー・グラン・ショーミエール、パリ市立素描講座クロッキー室に学ぶ。同42年パリで個展。翌年はブリュッセルで個展を開くが、同43年病を得てパリで手術を受け、その後も体力が回復せず同45年に帰国する。帰国後もクラコウ国際版画展、ウィーン国際版画展に出品、受賞する他、国内外の展覧会に出品する。同51年東京芸術大学美術学部材料学研究室に学び、駒井哲郎に師事する。翌52年より日本版画協会展に出品。同53年、東京版画研究所でリトグラフを学び、銅版の他、モノタイプ、エンボーシュ、コラージュなど多彩な技法をとり入れた新たな展開を見せた。代表作に「夜想曲」(昭和42年)、版画集『夜との対話』『昼との対話』(同49年)がある。

山口進

没年月日:1983/11/25

日本版画協会名誉会員で木版画界の長老であった山口進は、11月25日午前2時25分、急性肺炎のため、長野県伊那市の天竜河畔病院で死去した。享年86。明治30(1897)年1月25日、長野県上伊那郡に生まれ、大正5年長野中学を卒業。同9年より15年まで白馬会葵橋洋画研究所に学び、黒田清輝、中川紀元らに師事。日本美術学校にも通うが中退している。同12年日本創作版画展、日本漫画展に初入選。油絵を手がけ、帝展、光風会展、太平洋画会展にも出品する。同14年旧制第一高等学校訓務部事務職員となり、一高画会で絵を教える。昭和2年ロスアンゼルス国際版画展に出品。翌3年には「鯉幡作り」他の油絵で第6回春陽会展に初入選し、同12年まで同会に油絵の出品を続ける。同4年日本創作版画協会々員となり、同6年同会が日本版画協会となるにおよんで同会員となる。同8年『山口進版画集』を出版。同16年仏印巡回日本絵画展、同18年海軍省献納版画展に出品する。同20年、第一高等学校を退職して郷里の伊那谷に帰り、制作に専念する。信州の山岳を題材とした木版画で知られ、彫りぼかしと刷りぼかしを併用して、力強い構成力と柔らかさを合わせ持つ独自の作風を築いた。代表作には「木曾駒ケ岳馬の背」(1970年)などがあり、作品の多くは、町田市立博物館に収蔵されている。

松田義之

没年月日:1981/09/09

東京芸術大学名誉教授の版画家、図画教育家の松田義之は、9月9日老衰のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年90。号芳雪。1891年(明治24)年11月9日愛知県北設楽郡に生まれ、愛知県師範学校第二部を経て、1917(大正6)年東京美術学校師範科を卒業した。卒業の年から青森県立青森高等女学校、ついで20年から三重県神戸中学校で教鞭をとったのち、21年東京美術学校助教授に就任、40年同校教授となる。戦後、51年新制大学設置により東京芸術大学教授となり、59年定年退官、62年同大学名誉教授の称号を受けた。この間、29年以後文部省中等教員検定試験委員、40年以後文部省教科書編集委員をつとめるなど、戦前から図画教育界で大きな功績を果した。また、エッチングの草分け的存在でもあり、新文展、日本版画協会展などに出品した。銅版画の主要作品に「樹蔭」「ベービルの田舎屋」「橋」「詩人の家」「村の工房」「船大工の家」「花と時計」などがあり、著書に『美術の話』(1950年、広島図書)『手と道具』(1955年 河出書房)などがある。

竹腰健造

没年月日:1981/07/28

建築家で日本建築協会名誉会長の竹腰健造は、7月28日午前10時54分、老衰のため大阪市福島区の大阪大学病院で死去した。享年93。1888(明治21)年6月25日、福岡県に生まれ、明治の代表的な美術評論家岩村透は兄にあたる。1912(大正元)年東京大学工学部建築学科を卒業し、兄のすすめでイギリスに留学、アーキテクチュラル・アソシエーション・スクールで建築を学んだ。14年にローヤル・インスティチュート・オブ・ブリティッシュ・アーキテクトの建築士資格試験に合格し、同年オースチン建築事務所に勤務する。また、建築を学ぶ一方で、17年にロンドンテクノロジーでフランク・エマニュエルにエッチングを学び、ロイヤル・アカデミーに入選する。同年帰国し住友総本店に入社したが、エッチングは翌18年のロイヤル・アカデミーにも入選している。同18年、明治天皇聖徳記念絵画館の懸賞設計に3等当選、また19年には第1回創作版画協会に滞欧作のエッチング12点を出品し会員となるなど、この頃、建築、版画両面にわたって活躍した。しかしこれ以後は建築家としての仕事が主となる。22年住友合資会社技師となり、住友ビル(現住友銀行本店)等の建設に従事、33年同社を依願退社し、長谷部竹腰事務所を設立して東京手形交換所の設計監理などにあたる。45年住友本社に入社し、長谷部竹腰建築事務所を住友土地工務(株)と合併、翌45年11月には同工務(株)を改組して住友商事の前身である日本建設産業(株)とし、初代社長に就任した。47年に同社を退任するが、46年には日本建築協会会長となり(58年まで)、48年双星社竹腰建築事務所を開設(77年株式会社双星設計と改称)、その後、関西電力本社、新住友ビル、大阪市新市庁舎などの建築顧問をつとめ、また大阪市立中央図書館、武田薬品工業湘南工場などの建築に携わった。この間、57年に黄綬褒章を受章し60年日本建築学会名誉会員となり、62年日本芸術院賞受賞、64年勲四等瑞宝章受章、また65年には全国建築審査会協議会会長(78年まで)、68年には日本建築協会名誉会長、71年勲三等瑞宝章受章と、数々の要職を歴任し、顕彰を受けた。このほか、日本万国博覧会協会参与(66~70年)、阪神高速道路協会理事長(67~70年)などもつとめた。

長谷川潔

没年月日:1980/12/13

パリ在住の銅版画家長谷川潔は、12月13日パリ市の自宅で老衰のため死去した。享年89。長谷川は、1891(明治24)年12月9日横浜市に生まれ、麻布中学卒業後、1911年頃黒田清輝の葵橋洋画研究所に入り素描を学んだのち、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二に油絵を学ぶ。ついで13年から自画自刻による創作板目木版画や木口木版画、銅版画の制作を始め、同人となった文学雑誌「聖盃」(のち「仮面」と改題)や、短歌雑誌「水甕」の表紙、口絵等の木版画をつくるなど、以後版画の研究、制作に専念、14年には来日中のバーナード・リーチに銅版画法について尋ねる。16年、永瀬義郎、広島晃甫とわが国初の版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、創作版画展を開催。18年、米国経由で渡仏し、以後一度も帰国することなく没年までパリを中心に制作活動を展開する。パリで23年からサロン・ドートンヌに出品、翌年にはデュフィーの勧誘でマチス、ピカソなども所属したソシエテ・デ・パントル・グラヴュール・アンデパンダンに入会。一方、当時フランスでは技法的には消滅に瀕していた特殊銅版画技法マニエール・ノワールの復興を行い、この技法に唐墨の深みをもつ色調による独自の表現を吹き込み注目されるに至る。25年には版画による第1回個展をパリのヌーベル・エソール画廊で開催、翌年サロン・ドートンヌ版画部会員(48年、絵画部会員にも推挙)となる。また、日本の団体では、28年に春陽会会員、31年日本版画協会創立会員となり出品する。34年、広重以後の日本版画を紹介した«L’Estampe Japonais Moderne et ses Origines»展に準備段階から尽力、翌年仏政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を受章する。戦後もサロン・ドートンヌをはじめ、国際現代版画展、フランス現代版画展、東京国際ビエンナーレ展等各種の展覧会及び個展で制作発表を行い声価を高める。64年フランス芸術院コレスポンダンス会員となり、66年にフランス文化勲章を受章、翌年パリ市の金賞牌が授与されるなど、日本よりフランスの方ではやくから評価がなされ、72年には、フランス国立貨幣、賞牌鋳造局の肖像メダルに、日本人では葛飾北斎、藤田嗣治につぐ三人目として刻される。死去の年にあたる80年、京都国立近代美術館で「長谷川潔展」が開催され、版画131点、油彩画22点が出品された。長谷川潔年譜1891年 12月 9日、横浜市に、第一国立銀行の神戸、横浜、さらに大阪の支店長となった長谷川一彦、欣子の長男として生まれる。姉・静江、幸子、弟・純、弘の5人姉弟の第3子であった。1899年 この頃から、父から論語の素読をうけ、中国の拓本を手本に書を習わせられるとともに、書画骨董の鑑賞、日本画の筆法の手ほどきをうける。1902年 父が第一国立銀行大阪支店長となったため一家は大阪に移り住み、愛日小学校に通う。1904年 父・一彦が没したため、母と姉・幸子、弟・弘とともに東京にもどり、麻布に居をもとめ、鞆絵小学校に転校する。1905年 麻布中学校に入学する。1910年 麻布中学校を卒業する。母・欣子没す。1911年 この頃、葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に素描を学び始める。1912年 この頃、さらに本郷洋画研究所に入り岡田三郎助、藤島武二に油絵を学び始める。文学雑誌『聖盃』の同人となる。1913年 我国の伝統的木版画と異る、丸ノミを用いて描く如き方法による自画自刻の創作板目木版画や木口木版画・銅版画を制作し始める。『聖盃』は『仮面』と改題され、永瀬義郎とともに同誌の表紙、口絵等に木版画を作り、また短歌雑誌『水甕』の表紙や文学書の装幀にたずさわる。以後、板目木版画、木口木版画、銅版画の研究・制作に専念する。1914年 この頃、フランスから銅版画用印刷機や付属道具一式をとりよせ、来日中のバーナード・リーチに銅版画技法についてたずねた。1916年 永瀬義郎、広島新太郎(晃甫)とともに我国はじめての版画家グループ「日本版画倶楽部」を結成し、東京・ミカド楼上及び読売新聞社において創作版画展を開催する。1917年 日夏耿之介の第一詩集『転身の頌』に木版挿画及び装幀等をする。また堀口大学詩集及び多くの訳詩集に挿画、装幀をする。1918年 11月、第一次世界大戦終結し、12月30日、春洋丸で横浜港を出帆しアメリカ経由でフランスに向かう。1919年 4月 3日、フランス・アーブル港に入り、翌日パリに安着する。この年10月から1921年まで、健康回復のため南仏カンヌとカーネに滞在、またブルターニュ、アルカッション等に旅行し、油絵の外に木口木版、石版、銅版等あらゆる版画技法を研鑽する。1922年 イタリアに旅行後、パリ18区の7Rue Montc-almに住居を定める。1923年 この年からサロン・ドートンヌ(Salon d’Au-tomne)に出品し、漸次他のサロン及び展覧会へ油絵並びに版画作品を発表する。1924年 第一次世界大戦後のフランス版画壇に大きな影響を与えたソシエテ・デ・パントル・グラヴール・アンデパンダン(Societe des Peintres Graveurs Independants)にデュフィーの勧誘により入会する。マチス、ピカソ、ドラン、スゴンザック、ヴラマンク、シャガール、マリー・ローランサン、デュフィー等、当時の新進画家団体である同協会展には、解散する1935年まで毎年作品を発表する。フランスにおいて当時ほとんど試る者のない、かつて17世紀オランダにおいて創始された特殊銅版画技法マニエール・ノワール(Maniere noire)を苦心研究、かつクラシックな細点刻下地の外に、交叉線による独特の技法を創案し、近代的表現をもって復興、また誰も試みなかった純粋の風景画をマニエール・ノワールで制作し、フランス画壇に認められる。1925年 パリのヌーヴェル・エソール(Nouvel Essor)画廊において版画の第1回個展を開催し、滞仏中の東久迩宮殿下の来観を受け、作品を買上げられる。この年多数の銅版画を制作し、サロン等に出品する。1926年 フランス政府自治減債基金のため、パリ・ミディ新聞社主催のサロン・デュ・フラン(Solon du Franc)がガリエラ美術館(Musee Galliera)で開催され、指名出品により作品献金をする。出品の銅版画大作は当時パリの外国作家美術館であったジュ・ド・ポーム美術館(Musee de Jeu de Paume)の所蔵となり、ジョッフル元帥(Marechal Joffre)から礼状を受ける。また同年フランス政府救済を意味するパトリオティク・プール・ル・ルレーヴマン・デュ・フラン展覧会(Exposition Patriotique pour le Relevement du Franc)にも寄贈出品をする。サロン・ドートンヌの版画部会員に当選する。1927年 東京で開催されたデルスニス招来の第1回仏蘭西現代美術展にフランス美術家作品中に、藤田嗣治とともに加えられ、渡欧後の作品が初めて日本で展観される。スイス・チューリッヒのギャルリー・ヴォルフスベルグ(Galerie Wolfsberg)において在仏日本美術家展が開催され、作品を出品し、展覧会の広告アフィッシュの図案並びにカタログの装幀をする。サロン・ドートンヌ等に出品する。東京での出版の『日夏耿之介定本詩集』(3巻)のため表紙用木口木版画3点、挿絵銅版画9点を制作する。1928年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー(Salon des Tuileries)、サロン・デ・ザンデパンダン(Salon des Independants)、ギャルリー・ズィヴィー(Galerie Zivy)における日本美術家展、イギリスのマンチェスター展等に出品するほか、ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボア・オリジナル(Societe des Graveurs sur Bois Original)展に出品し、同会会員に挙げられ、また春陽会々員となる。1929年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ(Societe des Peintres Graveurs Francais)展及びギャルリー・オドゥベール(Galerie Hodebert)における日本美術家展等に出品する。ビブリス誌31号(Miroir des Arts du livre et del’Estampe,31eFascicule“Byblis”)に銅版画オリジナル2点を挿入する。“Kiyoshi Hasegawa, Graveur Japonais”(P.J.Angoulvent 紹介文執筆)がパリのアルベール・モランセ(Albert Morance)書房から出版される。1930年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ザック(Galerie Zack)の日本美術家展、ジュネーヴにおけるソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル展、春陽会展等に出品する。パリにおける第1回「航空と美術」国際展(Exposition “L’Aeronautique et L’Art”)に銅版画数点を出品、航空大臣1等賞金を獲得し、フランス航空クラブ(Aero Club de France)により「ニューヨーク上空のポアン・ダンテロガッション号)作品20点が買上げられる。パリのリブレリー・ド・フランス(Librairie de France)から出版の豪華限定版、26人短篇集“D’Ariane a Zoe”にデュフィー、スゴンザック、マリー・ローランサン、ブッサンゴウ、イーブアリッキス等とともに石版画挿画を担当する。ヌーヴェル・ルヴュー・フランセーズ(Nouvelle Revue Francaise)書房から出版のThomas Raucat著“L’Honorable Partie de Campagne”の銅版画口絵の制作を依頼される。パリのEdouard Joseph出版の『現代美術家辞典』(“Dictionnaire Biographique des Artistes Contemporains”)1930年版中に作品が掲載される。1931年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及び春陽会展等に出品する。日本において日本創作版画協会が解散し、新たに日本版画協会が創立され会員となる。パリのラ・ジラフ書房(Editions de la girafe)から出版の“Les Colonies Francaises”にフランスの画家20名とともに挿画を担当する。1932年 サロン・ドートンヌ、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ド・ルーヴル・ユニック(Salon de L’CEuvre Unique)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ザックでの展覧会、マドリッド及びシカゴでの展覧会、日本版画協会展、春陽会展等に出品する。ソシエテ・デ・グラヴール・シュル・ボワ・オリジナル出版の『フランス民謡集』(“Chanson Populaires Francaises”)中の第5集「支那の夜」(“Nuit de Chine”)に木口木版画挿画をする。イタリアに旅行する。1933年 パリ・装飾美術館(Musee des Arts Decoratifs)におけるフランス版画30年展(Trente Ans de Gravure Francaise-de 1900 a 1933)、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びワルシャワにおいて開催の第1回国際創作木版画展(1erExposition Internationale de la Gravure sur Bois Originale)等に出品する。パリ・日本大使館に在任中の本野盛一子爵の仏訳『竹取物語』に銅版画(ビュラン刻)で多数の挿画をなし、元駐日フランス大使ロベール・ド・ビリー(Robert de Billy)氏を会長とするリーヴル・ダール協会(Societe du Livre D’Art)から“La Legende de la Demoiselle de Lumiere”の書名で豪華限定出版される。1934年 サロン・デュ・タン・プレザン(Salon du Temps Present)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、及びアンヴェール市(Anvers)における展覧会等に出品する。フランスにおいて浮世絵版画から現代版画に至る日本の版画展を開催したことがなく、広重以後の作家について全く知られていないため、1931年頃から日本近代版画展の開催を立案しフランス当局と交渉してフランスにおける一切の準備を引きうけていたところ、これを機に岡田三郎助を会長として日本版画協会が創立され(1931)、当時パリ滞在中の岡田三郎助とフランスの国立工芸美術館長並びにフランス大使ロベール・ド・ビリーと最終打合せをし、東久迩宮殿下を総裁に戴き、日仏両国政府後援のもとに“L’Estampe Japonaise Moderne et ses Origines”と題する日本近代版画60点に及ぶ大版画展が実現する。パリにおける日本版画協会代表、文部省嘱託として、仏文カタログの作成と序文を執筆するなど大いに尽力し、予期以上の成功を収め、翌年リヨン、ジュネーヴ、ワルシャワ、ベルリン、マドリッドの各都市において開催、それぞれ好評を博し、欧米各国への我国文化紹介に貢献する。また、『アール・エ・メチエ・グラフィック』(“Arts et Metiers Graphique”)第40号に「日本版画展」(L’Exposition d’Estampes Japonaises)と題する紹介文を執筆する。パリのアルベール・レヴィ書房発刊の美術雑誌『アール・エ・デコラシォン』(Arts et D’ecoration)3月号にアンリ・エルツ(Henri Hertz)執筆の長谷川潔論が掲載される。1935年 プチ・パレ美術館で開催の現代美術家展(Exposition des Artistes de ce Temps)、サロン・デュ・タン・プレザン、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。スペインに(7月29日から10月2日まで)旅行する。フランス政府からシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール(Chevalier de laLegion D’Honneur)勲章を授与される。在パリ日本大使公邸におけるフランス大統領アルベール・ルブラン氏並びにルブラン夫人招宴の夜会のために、献立及びプログラム用の銅版画を作成し、同夜佐藤尚武大使から大統領と夫人に紹介され、同版画2点を献呈する。1936年 ジュネーヴ及びマドリッドにおいて日本近代版画展を開催する。ポワチエ市(Poitiers)における展覧会並びにソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品し、フランス文部省に作品を買上げられる。また、北米における版画展に出品する。パリのフォンダッション・ロチルド会場における我国人形使節の日仏協会(Societe France-Japonaise)のレセプションのために招待状銅版画を作成する。1937年 リヨン、ワルシャワ、ベルリンにおいて日本近代版画展を開催する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、セルクル・ド・ラ・リブレリー(Cercle de la Librairie)展、ギャルリー・ド・パリ(Galerie de Paris)での展覧会等に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの会員に挙げられる。パリ・国際大博覧会「美術と技術」展第54部に招待出品し金賞牌を獲得する。パリに開催の国際版画会議に日本側代表者として出席、イエナ公会堂においてスライドを用い現代日本版画について講演をする。国立図書館版画部長ルモワンヌ(P.A.Lemoinne)の序文を付し、1929年から1936年に至る自選銅版画原作15点を収めた銅版画集“Garvures de Kiyoshi Hasegawa”を出版する。大英博物館版画部にアクアチント技法による銅版画「二つのアネモネ」(1934)が買上げられる。パリのデュシャルヌ絹商(Soierie Ducharne)で数種の銅版画草花図を絹裂地に模様化する。1938年 サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ベルフォール市美術館(Musee de Belfort)、ボルドー市美術館(Musee de Bordeaux)や、シカゴでの展覧会、スーヴニール・ド・パリ(Souvenir de Paris)展、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ(Galerie Bernheim Jeune)における日本美術家展、春陽会展、日本版画協会展等に出品する。パリ市に作品が買上げられる。杉村陽太郎大使がパリ公邸にフランス大統領アルベール・ルブランを招宴するにあたり、献立及び夜会プログラム用の銅版画を作成する。パリ市へ「アレキサンドル三世橋とフランス飛行船」(1930)を寄贈する。パリ18区から14区3.Villa Seuratの現住所に移転する。1939年 リル市におけるプログレ・ソシアル展(Exposition du Progres Social)、ギャルリー・ベルネーム・ジュヌ、ギャルリー・シャルパンチエ(Galerie Charpantier)及びシカゴでの展覧会等に出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。第二次世界大戦勃発の風雲急となり、8月24日ついに動員告示、国内が騒然となったため、12月サルト県の斎藤豊作宅(Chateau de Venevelles)に疎開し、ル・マン(Le Mans)市の美術館長を知り、銅版画「ヴェヌヴェル風景」をル・マン市美術館に寄贈する。1940年 3月、ヴェヌヴェルからパリに帰る。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びスイスでの展覧会等に出品する。パリが危険となったため、フランス政府がボルドーへ移ったのに伴い、日本大使館も同行、同胞約10名とともに大使館の自動車に同乗してパリを脱出、ボルドーに安着、続いてビヤリッツ市に移る。フランス政府、日本大使館がさらにヴィッシイへ移転したのち、9月4日パリに帰る。パリは占領地帯となり、食糧不足、生活増々困難となる中で制作を続ける。1941年 パリは石炭欠乏、寒冷のため大いに降雪、市民の生活は更に困難を加え、しばしば病臥、喘息発作に苦しみつつ制作を続け、ギャルリー・シャルパンチエにおけるラ・ファム・エ・レ・パントル・エ・スキュルプトゥール・コンタンポレーン(La Femme et les Peintres et Sculpteurs Contemporains)展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、ギャルリー・ギオー(Galerie Guiot)における在パリ日本美術家10人展及びリエージュ市(Ville de Liege)での展覧会等に出品する。フランス文部省並びに国立図書館版画部に作品が買上げられる。1942年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「水彩画1世紀)(Un siecle d’Aquarelles)展、「コローから今日までのフランス風景」(Le Paysage Francais de Corot a Nos Jours)展、「今日の浪漫的な花と果実」(Les Fleurs etles Fruits du Romantisme a Nos Jours)展、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ドラゴン(Galerie Dragon)、ギャルリー・ド・ベリ(Galerie de Berri)及びオルレアン市美術館(Musee d’Orleans)での展覧会等に出品する。ギャルリー・シャルパンチエにおいて12点の油彩草花図による個展(12Bouquets d’Hasegawa)を開催、好評を博し全作品売約となり、フランス文部省に作品が買上げられる。在仏同胞とともに家族一同日本へ国防献金をなす。1943年 ギャルリー・シャルパンチエに開催の「フランスの庭」展、静物画(草花と果実)展、水彩画展、小品展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展及びオルレアン市に開催の水画展等に出品する。また、パリのオルフェーブルリイ・クリストフル(I’Orfevrerie Christofle)において開催の銀製品展覧会に図案を自ら彫った銀製大皿と銀製煙草入れを出品する。12月9日、パリにおいてミシェリーヌ・ビアンシ(Micheline Bianchi)と結婚する。1944年 ギャルリー・シャルパンチエにおける水彩画展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グランヴール・フランセ展、ブザンソン(Besancon)市に開催の展覧会、ボルドー市のギャルリー・ゴヤ(Galerie Goya)での展覧会等に出品する。また、オルフェーブルリイ・クリストフルにおけるスポーツ展にテニスとフェンシング等の図案を彫った銀製品を出品する。8月15日頃からパリは数日間無警察状態となり、市内各所で流弾による死傷者が出るなどの中で自宅も襲われ、身辺に危険を感じ一時他所に難をさける。まもなくフランス軍先頭部隊がパリに入り、1ヵ月後自宅にもどる。1945年 フランス現代作家5名とともに各自異る技法による銅版画を制作し、国立図書館版画部のアデマル(Jean Adhemar)の紹介文を付した限定版画集『銅版画』(“La Gravure sur Cuivre”)第1巻がアンジェ(Angers)市のジャック・プチ(Jacques Petit)書房から出版されたが、日独伊敗戦の結果同胞とともにパリの中央監獄及びトランシイの収容所(Camp de Drancy)に次々収監され、版画集も収容所で署名する。病弱の身体で苦難を味わうが、フランス知人有力者の尽力により約1ヵ月後無事出所する。7月に帰宅後もある期間警察に出頭、絶えず看視される生活を続け、心身ともに疲労しほとんど制作を停止する。1946年 精神的打撃が徐々に薄らぎ漸次制作を始め、サロン・デ・チュイルリー、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。アシェト(Hachette)書房出版の雑誌『フェミナ』(“Femina”)に挿絵をする。夏期、ラニイ・ル・セック(Lagny le Sec)の村に滞在して多くの油絵を制作する。フランスの内務大臣事務室に掛けるため「瓶に挿したる罌粟」(油絵50号)1点とフランスの各省庁用として銅版画20点が、フランス文部省に買上げられる。1947年 ギャリルー・シャルパンチエにおけるイタリア風景展、サロン・ドートンヌ等に出品する。夏期、ヴィレーヌ・ラ・ジュエル(Villaines la Juhel)及びシブール(Ciboure)に滞留して多数の油絵を制作する。アメリカのニューヨーク図書館版画部に銅版画「コップに挿したる野草」が買上げられる。1948年 オルレアン市において油絵および銅版画の個展を開催する。サロン・ドートンヌに油絵2点、版画4点を出品し、既に版画部会員であったがさらに油絵部会員に当選する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品する。フランスの国立図書館版画部に版画作品が、フランス文部省に油絵静物画1点と銅版画12点が買上げられる。1949年 プチ・パレ美術館に開催の国際現代版画展に、日本からは不出品のためフランス版画部の一員として出品する。サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会(Societe “Le Trait”)展、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「白と黒」(Union des Arts Plastique “Blanc et Noir”)展及びギャルリー・ラスパイユ(Galerie Raspail)での展覧会等に出品する。フランスの国立図書館版画部に作品が買上げられる。1950年 東京と大阪で初めて開催された第1回フランス現代版画展覧会にフランス側から招待され参加出品する。ルーアン市美術館に開催の現代創作版画展、アソシアシオン・アミカル・エ・プロフェッシオネル・ド・グラヴュール・ア・ローフォルト(“Association Amicale et Professionnelle de Gravurs al’EauForte”)銅版画展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギャルリー・ラスパイユでの展覧会等に版画を、ユニオン・デ・ザール・プラスティックの「庭と花と果物」展に油絵3点を出品する。フランス文部省に作品が買上げられる。1951年 アミアン市(Amiens)に開催のル・トレ協会展、サロン・ド・メ(Salon de Mai)、フランス版画展、セルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)におけるパリ展、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・ラスパイユにおけるル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー(Salon du Dessin et de la Peinture al’Eau)等に出品し、フランス文部省に作品3点が買上げられる。ルーヴル美術館版画部銅版彫刻部門(Chalcographie)にビュラン刻銅版画「コップに挿した野花(春)」「コップに挿した種草(秋)」特別刷並びに銅原版2点が買上げられる。1952年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・デ・チュイルリー、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展、カールスルーエ(Karlsruhe)における国際グラフィック美術展、ギャルリー・エリアン・ノルベルグ(Galerie Eliane Norberg)等における諸展並びにパリ市主催のバガテル(Bagatelle)の薔薇展に油絵と版画を出品する。日本における毎日新聞社主催の日本国際美術展に出品し、春陽会展に現代フランス版画陳列のためフランス版画家の選定とその作品発送等に尽力する。パリ市に作品が買上げられる。1953年 サロン・デ・ザルティスト・デコラトゥール(Salon des Artistes Decorateurs)、サロン・ドートンヌ、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ルーアン市開催の展覧会、ル・トレ協会展、ランス市(Reins)における現代版画家12人展及びミラノ市における現代フランス版画展に出品する。ランス市に「窓辺の花瓶」、フランス文部省に作品3点が買上げられる。東京サエグサ画廊及び名古屋において個展を開催する。ミラノのラ・マンドラゴラ・エディトリス(La Mandragora Editrice)書房から出版されたガブリエル・マンデル(Gabriel Mandel)著『現代フランス版画』(“L’Incision Francais Contemporanea”)中に掲載される。1954年 サロン・デ・ザルチスト・デコラトゥール、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー、ル・トレ協会展及びドイツでの展覧会等に出品する。オルレアン市及び大阪・富士川画廊において個展を開催する。ベルネ夫人(madame Paul Bernet)からパリに版画アカデミーの設立依頼を受けるが種々の理由のため承諾せず、のちヘイター(Hayter)版画研究所が開設された。パリのファロス(pharos)出版の『現代フランス人名辞典(1954-1955)』(“Dictionnaire Biographique Francais Contemporain”)に掲載され、また米国の美術館に作品が買上げられる。1555年 プチ・パレ美術館におけるフランス在住外国美術家展に油絵を出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・ドートンヌ、ル・トレ協会展、サロン・デュ・デッサン・エ・ド・ラ・パンチュール・ア・ロー展及びセルクル・ヴォルネ(Cercle Volney)に開催の在パリ日本美術家展に出品し、東京サエグサ画廊で第2回版画個展を開催する。フランス大統領のエリゼ宮における外国貴賓招宴のための献立用小型銅版画を制作する。1956年 パリ市美術館における第1回国際現代造形美術展、フランス並びに諸国美術展に油絵及び版画を出品する。また、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・テール・ラタン(Solon des Terres Latines)、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、リエージュ市(Liege)及びネヴェール市(Nevers)に開催の展覧会等に出品する。また、東京・ブリヂストン美術館、神戸市立美術館で開催の展覧会、朝日新聞社主催第1回日仏具象作家協会展、春陽会展、明治大正昭和名作美術展に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセの晩餐会献立用銅版画作成を委嘱される。東京サエグサ画廊及び大阪富士川画廊において版画個展を開催する。フランス文部省に作品7点が買上げられる。1957年 パリ市美術館におけるサロン・デ・テール・ラタン及び国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン(“La Jeune Gravure Contemporaine”)展に出品し、かつ同展に日本現代版画30点を特別陳列する。また、サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、セルクル・ヴォルネにおける在仏日本美術家展、ランス市立図書館で開催の版画展、東京で開催の日仏具象作家協会展、第1回東京国際版画ビエンナーレ展、日本版画協会展、春陽会展及び神奈川県立近代美術館主催ユーゴスラヴィア版画展等に出品する。フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。パリの美食家協会(Les Compagnons de la Belle Table)のために献立用小品銅版画を制作する。1958年 サロン・ドートンヌ、サロン・ダール・リーブル(Salon d’Art Libre)、サロン・デ・テール・ラタン、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、トゥールーズ市立図書館における出版展(Exposition d’Edition)、ル・トレ協会展、ガリエラ美術館(Musee Galliera)における在仏日本美術家展、コンピエーニュ(Compiegne)における日本美術家展等に出品する。東京・中央公論社画廊において1915年から1957年に至る回顧展を開催する。フランス文部省に6点、パリ市に2点の作品が買上げられる。1959年 パリに開催の第1回国際フロラリイ(Floralies Internationales)展、サロン「ランコントル」(Salon “Rencontres”)に油絵を出品する。ル・トレ協会展、国立近代美術館におけるソシエテ・ラ・ジュヌ・グラヴュール・コンタンポレーン展、国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ディジョン市(Dijon)及びワシントンにおける展覧会、東京における日仏具象作家協会展に出品する。名古屋で個展を開催する。パリ市に作品が買上げられる。1960年 サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品し、会員に当選、版画賞を受ける。サロン・ドートンヌ、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、モントーバン(Montauban)、ストラスブール(Strasbourg)、マルセイユ、パリにおける版画展等に出品し、神戸の藤田画廊において版画個展を開催する。ミュルーズ市(Mulhouse)版画協会の所望により「小鳥と木の根」を制作する。フランス文部省に「玻璃球のある静物」が買上げられパリ近代美術館所蔵となる。また、パリ市に作品が買上げられる。パリ出版の『ル・クーリエ・グラフィック』(“Le Courrier Graphique”)107号にJ.R.トメ(J.R.Thome)執筆の長谷川潔の紹介文が掲載される。1961年 サロン・ドートンヌ1961年度展覧会の鑑査員に推薦される。サロン・ナショナル・デ・ボザール、アミアン市(Amiens)及びナンシイ市に開催の展覧会に出品する。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展に出品し、同協会の委嘱によりオー・フォルト技法による風景銅版画を制作する。ガリエラ美術館に開催の在仏日本美術家展に油絵と版画数点を出品し、パリ市に2点が買上げられる。1962年 ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、サロン・ナショナル・デ・ボザール、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールでの展覧会、東京国際版画ビエンナーレ展、国際具象展、春陽会展等に出品し、東京・大丸画廊で版画個展を開催する。日本の文部省芸術課に昭和37年度秀作として作品2点が、またフランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。1963年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、パリとニューヨークで開催のソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ブタペストで開催の国際版画展、ギャルリー・ダール・ル・パルナス(Galerie d’Art le Parnasse)における8人展、ルーアン市に開催の「ピカソからビュッフェまでのフランス創作版画展」、サルラ市(Sarlat)での展覧会等に出品し、名古屋・横浜・関内ギャラリー及びパリのギャルリー・サゴ・ル・ガレック(Galerie Sagot le Garrec)で個展を開催する。国立図書館版画部、フランス文部省及びベルフォール美術館(Musee de Belfort)に作品が買上げられる。パリのマヌエル・ブルッケール出版社(Edition Manuel Bruker)から「現代版画の巨匠」豪華限定版叢書『長谷川潔の肖像』(銅版画オリジナル10枚挿画入)がトリスタン・クランソール(Tristan Klingsor)序文、ロベール・レイ(Robert Rey)著で出版される。ソルボンヌ大学チェルゴ講堂に開催の「銅版画におけるエステチックとテクニックの関係に就て」の講演にマニエール・ノワール銅版作品「薔薇と時」がスライドで映写される。1964年 フランス芸術院コレスポンダン会員(Member Correspondant de l’Academie des Beaux-Arts)に当選し、学士院会議室において銅版画作品30余点を展覧する。フランス文部省からフランス国立美術学校1964年度版画科卒業制作試験官に任命され、フランス人教授とともに学生の作品を採点する。サロン・ナショナル・デ・ボザールの1964年度展覧会鑑査員に選ばれる。フォンテンブロー美術館(Musee de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画作品を展覧し、デヴィノイ(Devinoy)校長が技法について説明する。ローマ日本文化会館に開催の日本美術家展、ブリュッセルにおける現代フランス版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展等に出品、フランス文部省及びパリ市に作品が買上げられる。また、日本の東京国際版画ビエンナーレ展、現代日本美術展、選抜秀作美術展、日本版画協会展及び春陽会展に出品し、横浜・関内ギャラリーで個展を開催する。1965年 ポワント・エ・ビュラン(Pointe et Burin)版画協会1965年展に「長谷川潔頌」(Hommage a Kiyoshi Hasegawa)特別陳列をする。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ヴァンヌ美術館(Musee le Vannes)における版画展、ル・トレ協会展、ニューヨークにおける版画展、東ドイツでの版画展、第14回パリ市長展(La Mairie des XIVe de Paris)等に出品し、また日本版画協会展、美術出版社「戦後20年日本版画展」、国立近代美術館で開催の在外日本作家展、選抜秀作美術展に出品する。8月18日から10月4日までイタリアに旅行する。1966年 フランス外務省を通じ文化省からフランス文化勲章(L’ordre des Arts et Letrres)授与の通知を受ける。サロン・ナショナル・デ・ボザールに出品しマレ賞金(Prix Marret)を授与され、また現代日本美術展出品の「メキシコの鳩 静物画」が特別賞を受ける。ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、サロン・テール・ラタン、ヴァルレア市(Valreas)での版画展、ジュネーブにおける日本版画展、国立図書館版画部主催の北アフリカとレバノンにおける版画展等に出品する。また東京国際版画ビエンナーレ展、選抜秀作美術展に出品する。シャトー・ド・フォンテンブロー(Chateau de Fontainebleau)における米国の学生夏期講習学校に招かれ、学生のためにマニエール・ノワール銅版画の展覧をする。『長谷川潔の肖像』天覧を賜わる。フランス出版の『ラルース大百科辞典』に姓名と銅版画の仕事について採録される。1967年 サロン・ナショナル・デ・ボザール、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、オルレアン市に開催の国際フロラリイ展、ヴァンクーヴァーとルーマニアに開催の版画展、アソシアシオン・フランセーズ・ダクシオン・アルティスティック(“Association Francaise d’Action Artistique”)展等に出品、また日本国際美術展、春陽会展、日動画廊に開催のパリ展に出品し、東京松屋において銅版画個展を開催する。パリ市長からパリ市の金賞牌(La Medaille de Vermeille de la Ville de Paris)を授与され、日本から勲三等瑞宝章叙勲の報に接する。1968年 1月 25日、パリの松井明大使公邸において瑞宝章授与式が行われる。ピッツバーグのカーネギー・メロン大学における国際20世紀植物画及び挿画展に出品、同大学のハント植物学ライブラリーに版画3点と『長谷川潔の肖像』が買上げられる。ル・トレ協会展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ主催のドイツ・ケルンにおける版画展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴール主催のワシントンにおける版画展、フォンテンブローにおける日本美術展、東京の日動画廊の太陽展等に出品、また東京大丸美術部、プリンスホテル画廊及び京王百貨店において版画個展を開催する。美術出版社から1968年度「長谷川潔版画カレンダー」が出版される。ジャック・ラフィット出版社(Edition Jacques Lafitte)刊行の『フランス人名辞典』(“Who’s who in France”)に採録される。1969年 ル・トレ協会展、カルヴァドス(Calvados)とドイツにおける版画展、ソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ギャルリー・デ・パントル・グラヴールにおける「1000の版画」展及びミュルーズ市役所における「日本の日々1969」(Journees Japonaises 1969)展等に出品し、市立図書館に作品2点が買上げられる。また日本における国際形象展、現代日本美術展、日動画廊の太陽展、春陽会展、日本版画協会展に出品する。1970年 国立図書館におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展、ル・トレ協会展、ギュスターヴ・ルーシー研究所における展覧会等に出品する。また日本における国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において既に葛飾北斎と藤田嗣治の銅牌が作成されたが、日本の画家の3人目として長谷川潔の肖像を浮彫にしたメダルの鋳造が決定する。メモリアル出版社(Editions du Memorial)刊行のエドモン・デュ・サルス著『偉人功績録』(“Livre d’Or des Valeurs Humaines”)及びジャック・ラフィット出版社刊行の『フランス人名辞典(1969-1970)』に採録される。1971年 ヴィロフレ・イヴリーン(Viroflay-Yvelines)における20世紀版画展、ラ・ヴィル・ド・サン-ブリウク(La Ville de Saint-Brieuc)におけるソシエテ・デ・パントル・グラヴール・フランセ展等に出品、またストックホルムに開催の小品版画展、東京の国際形象展に出品する。フランス国立貨幣・賞牌鋳造局において造られるメダル表面の肖像浮彫をチゾン・ミッシェル夫人(Tison Michel)が担当し、裏面の図案浮彫等を作家自身が制作を委嘱され、1972年春に鋳造が確定する。パリのアンパニタン書房(Inpenitent)から出版のマルセル・ベアリュ(Marcel Bealu)短編集“Ville Volante”の口絵を担当する。京都国立近代美術館における回顧展の開催及び版画集出版等の計画実現のための準備にとりかかる。1972年 京都国立近代美術館及び東京国立近代美術館で開催の「ヨーロッパの日本作家」展にマニエール・ノワール作品11点を出品、全作品が京都国立近代美術館に購入される。1973年 河出書房出版の『日夏耿之介全集』に版画挿画を担当する。同全集は造本装幀コンクールにおいて最高賞の文部大臣賞を受ける。1976年 横浜市長から日仏両文の感謝状と黄金の鍵を授与される。1978年 フランス彫刻家ジョルジュ・ゲラール(Georges Guerard)作成の長谷川潔の胸像(ブロンズ)が横浜市民ギャラリーの所蔵となる。1979年 横浜市民ギャラリーにおいて版画個展が開催される。1980年 大阪・フラワーコレクションギャラリー及び大阪フォルム画廊(東京、大阪)、東京松屋において版画個展が開催される。京都国立近代美術館で開催される。(本年譜は目録(1980年6月、京都国立近代美術館)所収の年譜から、主要事項を転載した。)

稲垣知雄

没年月日:1980/05/14

国画会会員、日本版画協会名誉会員の稲垣知雄は、5月14日午後4時50分、脳シュヨウのため東京女子医大病院で死去した。享年77。1902(明治35)年9月4日東京に生まれる。1924年に大倉高等商業学校を卒業した後、恩地孝四郎、平塚運一に版画を学び、日本創作版画協会展に出品、この間「乙女橋」「黄色い花」などを発表し、32年同協会会員となった。30年12月、商業美術家協会研究所に入り、修了後図案社を開業、その後京北商業高校、広告美術学校などで教鞭をとった。戦後47年の第21回展から国画会展にも出品し、東京国際版画展やスイス・ルガーノ国際版画展など国際展への出品も多い。国際版画協会の設立メンバーで、主な作品は「歩く猫」(53年)「猫の化粧」(55年)「尾長猫」(58年)など。猫を好んで描いた

上野誠

没年月日:1980/04/13

日本版画協会理事上野誠は4月13日午後3時15分肝硬変のため千葉県松戸市の東葛クリニックで死去した。享年70。1909(明治42)年6月7日長野県長野市に生まれ、29年長野中学校を卒業、東京美術学校に入学したが、32年に中退、木版画の制作を始めケーテ・コルヴィッツに私淑した。37年国画会第12回展の「石炭を運ぶ人」をはじめ、戦前は国画会版画部に出品した。41年鹿児島の指宿中学教諭となり、以後終戦まで教諭として岐阜県・長野県を移転、その間42年の国展に「戦況ニュース」を出品した。45年新潟県に移り、玩具デザインをするかたわら、48年第2回アンデパンダン展に「自由を求むる労働者」、51年の第4回展に「平和をかたる」等を出品、52年上京して本格的な制作活動に入り、同年第5回アンデパンダン展に「原爆展ポスター画稿」を出品、この頃より戦争や原爆の悲惨さを訴える作品を多く手がけるようになる。57年の第1回展より6回展まで出品した東京国際ビエンナーレ、アンデパンダン展、平和美術展、日本版画協会展などを発表の場として、「ケロイドの脚」(55年)、「焼けた五重塔」(57年)、「ヒロシマ三部作(男・女・鳩)」(59年)、「原子野連作A-H」(68~76年)などを発表、61年には長崎に旅行している。このような作品は海外での評価も高く、59年のライプチヒ国際書籍版画展では金賞を受賞したほか、69年モスクワ、76年ブルガリアで個展を開くなど国際的な活躍をしていた。

星襄一

没年月日:1979/06/17

日本版画協会会員の木版画家星襄一は、6月17日肺ガンのため千葉県八千代市の自宅で死去した。享年65。1913(大正2)年9月27日、新潟県に生まれ、新潟県立六日町中学校を経て、台南師範学校に入学し渡台、卒業後13年間初等教員をつとめ、終戦後郷里へ帰り生業のかたわら版画独習をはじめ、のち上京し武蔵野美術学校西洋画科に入学、56年42歳で卒業する。卒業後再び版画に復し木版に転じる。日本版画協会展に出品し、49年第17回展で日本版画協会賞を受賞、52年同会会員、63年同会委員となる。52年から国画会展にも出品、56年会員となり、59年第38回展で国画賞を受賞する。この他、60、62、64、66年の東京国際版画ビエンナーレ展に出品、66年ジュネーブ日本現代版画展、オクラホマ美術館日本現代版画10人展、台北国立歴史博物館現代日本版画展、67年日本版画展(東京)、サンパウロビエンナーレ展、68年ロンドン現代版画展、69年現代日本版画アメリカ巡回展、71年ブラッセル現代日本版画展、72年イタリー・カルピ国際木版画トリエンナーレ展、74年ジャパン・アート・フェスティバル、76年ジャパン・アート・フェスティバル、ベルギー現代日本版画展などに出品。また76年自選展(和光)を開催する。 主要出品目録日本版画協会展21回 空と水(A) 25回 たまもの 28回 雪の中で(E) 31回 華(C) 33回 星座二番 34回 春のブランコ(星座№26) 35回 星座№42 36回 星座№5237回 星(B) 38回 風景(A) 39回 地平(A) 40回 空と海 42回 樹(B) 43回 老樹 44回 高い梢(A) 45回 夜景(赤) 46回 枝繁る(青)国画会展31回 極地の時計 32回 雪の卓 33回 たまもの 34回 雪の中で(H) 35回 春の槍 36回 漂(B) 37回 花(D)苑 38回 雪の玉(C) 39回 星座5 40回 春ののろし(星座28番) 41回 草(星座№44) 42回 星座№53 44回 風景 45回 地平(D) 46回 赤い地平線 47回 木の風景(E)

中山正実

没年月日:1979/01/07

洋画家で壁画を専門とし、またカラー銅板画の草分けとして知られる中山正実は、1月7日心不全のため東京港区の慈恵医大病院で死去した。享年81。1898(明31)年1月3日神戸市に生れ、1919年神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業した。同年東京商大専攻部に学ぶ傍ら、川端画学校で藤島武二の指導を受けた。1921年第3回帝展に「鉱山の夕」が初入選し、24年に渡欧した。パリでアカデミー・グラン・ショミエールに学び、またルーブル美術館で模写をすすめ、サロン・ドートンヌに入選した。翌年壁画研究のためイタリアに旅行し、サロン・ドートンヌに再入選した。27年帰国し、第8回帝展に「古都礼賛」、以後31年まで毎年帝展出品をつづけた。32年神戸商大の壁画を依嘱され、以来壁画制作に専念し、前後6年を費やして神戸商大附属図書館の大壁画「青春」、及同大学講堂壁画三部作「光明、富士、雄図」を完成した。39年橿原神宮外苑大和国史館の壁画「阿騎野の朝」を制作依嘱され、翌年これを完成、更に41年には神戸裁判所調停会館壁画「正義」「平和」を完成した。そのほか銅板画を制作し、わが国でのカラーエッチングの創始者でもある。年譜1898(明治31年) 1月2日神戸市に生まれる。父は播州赤松氏の一族。青年時代に神戸に移り商人となる。1914 独学で油絵を描き、印象派の研究をする。1915 神戸高等商業学校(後の神戸商大)入学、神戸洋画会会員となる。1919 神戸高等商業学校卒業。同年、東京商科大学専攻部に修学の傍ら、川端画学校洋画科に学び藤島武二に師事。1921 第3回帝展に初入選「鉱山の夕」(50号・神戸大学所蔵)1924 1月渡欧、巴里アカデミー・グラン・ショミエールで、佐伯祐三と同時同教室に画技を習練、ルーヴル美術館の名画模写(レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジオルジオネ、レンブラント、ルノアール等)。前田寛治、中野和高らと帝展同期の親交が続き、共に日仏フェニックス協会の創立メンバーになる。同年、巴里サロン・ドートンヌに入選「セーヌ河畔の人々」新人最高の栄誉、ラ・ロトンド(第1教室、100号・神戸大学所蔵)に飾られ、巴里の諸新聞で報道。1925 壁画研究のため伊太利各地を巡歴。アッシジでヂオットを模写。同年、巴里に帰来後、ポーランド出身巴里派の異才ユージェヌ・ザックに師事。キスリング、パスキン等を画友に、翌年にかけて、フレスコ壁画の実験・カンヴァス壁画貼付技術(マルフラージ)の実習・銅板画法の受講等。1926 巴里サロン・ドートンヌ再入選「猫と子供等」(30号)。同年12月、巴里郊外オーボンヌ・カトリック教会で、洗礼を受ける。霊名 FRANCOIS1927 帰国、第8回帝展入選「古都礼賛」(500号・神戸大学迎賓室壁画)。1928 第9回帝展入選「新秋」(250号・神戸大学図書館所蔵)。1929 第10回帝展入選「農家の夕」(250号・神戸大学所蔵)。1930 第11回帝展入選「母子像」(戦災消失)。同年、聖徳太子奉讃展入選「冬」(250号・神戸大学図書館所蔵)。1931 第12回帝展入選「幼き霊に捧ぐ」(消失)。1932 神戸商業大学(現・神戸大学)図書館壁画「青春」の制作を委嘱されて、一切の展覧会出品を絶ち、美術団体等に関与せず、壁画の制作に没頭。1935 壁画「青春」を完成(2000号)、その後、直ちに同大学講堂壁画三部作の制作に着手(完成までに満3カ年を要す)。壁画制作の傍ら、エッチングの研究を続け、日本最初のカラーエッチング「信仰への道標」その他を制作。1937 東京大森馬込にアトリエを建設。1938 神戸商業大学(現・神戸大学)講堂壁画完成(2000号)。1939 大和国史館万葉室壁画「阿騎野の朝」を制作。1940 同壁画を完成(スプリット・フレスコ800号)。1941 紺綬褒章を受ける。同年、神戸裁判所調停会館会議室壁画「正義と平和」を完成(フレスコ250号)。1944 第2次世界大戦中、江田島海軍兵学校壁画「海ゆかば」を完成。終戦の翌日、同校校庭にて焼却(スピリット・フレスコ1000号)1945 戦災、神戸楠町のアトリエを作品数百と共に焼失。1946 G.H.Q.通信隊の美術顧問を委嘱される。同隊美術教室教官として、米軍将兵に油絵、リノカット、エッチング等を指導。1947 銀座、資生堂画廊で個展、油絵16点を発表。1946 G.H.Q.副司令アレン将軍、米空軍ヴァンデンバーグ将軍、その他十二将星の肖像制作を委嘱される。1950 壁画切支丹三部作のための試作「殉教」(120号)カトリック美術展に出品。この後、毎年宗教画を同展に出品。1954 彦根市カトリック教会壁画「聖ヨゼフとキリストを中心にした群像」(ケイシンフレスコ)完成。1955 和歌山県新宮市カトリック教会壁画「聖家族」(ケイシンフレスコ)完成。同年、和歌山市カトリック教会壁画「聖母被昇天」(ケイシンフレスコ)完成。1957 カトリック美術展に初めてカラーエッチング十余点を発表。1958 銀座、兜屋画廊で「カラーエッチングと壁画」個展。1959 日本橋、高島屋で「カラーエッチング」個展。1960 日本版画協会会員に推挙され、委員に選ばれる。東京国際版画ビエンナーレ展出品。1961 ニューヨーク国際版画協会(IGAS)に選ばれ、銅版作品「無限への飛翔」100点刊行される。大阪、梅田画廊で銅版画個展。1962 東京国際版画ビエンナーレ展に再び出品。ニューヨークIGASに再び選ばれて、銅版作品「宇宙の花園」200点を刊行。オーストラリヤ、国立ニューサウスウェルス美術館(シドニー)に銅版画「エデンの園」買上げられる。1963 フィラデルフィア美術館、ロックフェラーコレクション等に作品買上げられる。同年夏、日本美術家連名版画工房で銅版技法講習指導。同年11月より、1965年8月末日まで日本版画協会事務所運営を担当する。同協会総務、国際版画ビエンナーレ諮問委員。1964 米国ミネソタ大学美術館、エルキンスパーク美術学校、シラキュース大学アートセンター等に作品買上収蔵。1966 スイス、ルガノ国際版画展出品(4月)、墺、ウイーンで萩原英雄と二人展(5、6月)、墺政府買上。同二人展を西独バイロイトで開く(6月)。京王百貨店で回顧展(6月)、ニューヨークで個展(12月)、ニューヨークIGASより作品刊行第3回目。東京凌霜クラブ開設に際し、神戸大学六甲台図書館壁画「青春」の下絵(250号)を寄贈。1967 日米版画展出品(1月)。アメリカ月刊誌“Together”4月号が作品2点を採用(原色刷2頁と解説)。大阪で個展(5月)。1968 1月3日「古稀」を迎える。伊太利ペッシア市、国際版画展に出品3点、いずれも同市立美術館に収蔵。1969 日本万国博、キリスト教館建築委員。1970 カラーエッチング2点、D・ロックフェラーコレクションに買上げられる。同年、現代宗教美術展(東京渋谷、日動画廊)に、作品10点を出品、そのうちの油絵「殉教」120号-1950年作をローマ法王庁に寄贈。1972 「芸術新潮」に論文「幻の名画を追って十年」を発表(ムリリョ作品「帯の聖母」を発見の記録)。973 壁画修復の新技法を発見・開発して、旧作の神戸大学壁画「青春」を完全修復し、学長より表彰を受く。1974 キリスト教美術協会を結成、同士数名と教派を超えて創立委員となる。銀座日動サロンで発表展。1975 第43回版画展審査委員長、日本版画協会名誉会員。1976 大阪凌霜クラブ開設に当たり、神戸大学六甲台講堂壁画「光明」「雄図」の下絵(計250号)を寄贈。同年11~12月、兵庫県立近代美術館に、戦前作品「猫と子供等」及び戦後作品「黙示録の四騎士」を出品。1977 衆議院25年勤続議員、江田三郎の肖像画制作、2月、国会に納入。(30号F)4月、第45回版画展に多色銅版画大作(80号)「最後の審判」を発表。之れによって5カ年に亘る黙示録連作を完成。1978 5月神戸大学に色彩銅版画140点を寄贈、展覧会6月、神戸「そごう」に於て個展。1979 1月7日永眠(81歳)(年譜資料は遺族作成に拠る。)

深沢史朗

没年月日:1978/04/20

版画家深沢史朗は、4月20日脳髄膜炎のため東京豊島区の鬼子母神病院で死去した。享年71。明治40年2月26日栃木県那須郡に生まれ、大正15年から昭和5年まで川端画学校に、また昭和2年から同10年まで梅原龍三郎に師事し、国画創作協会に出品、戦後は同34年新樹会に参加し油彩画を発表した。その後版画に転じ、同40年に最初の創作版画の個展を開催、以後版画家として国際展などを中心に制作発表を行った。同41年第5回東京国際版画ビエンナーレ展に「生命の詩その1」他が入選、同44年第8回リュブリアナ国際版画展に「TimeA」を招待出品、翌45年第3回クラコウ国際版画ビエンナーレ展では、招待出品した「Time Ⅸ」がポズナン市賞を受けた。同47年フレッヘン国際版画ビエンナーレ展で4位賞を受賞、またこの年から「Sharaku」シリーズを始めた。この間、現代日本版画展、英国国際版画ビエンナーレ、ウィーン国際版画ビエンナーレ、ビエラ国際賞展などに作品を発表した。没後深沢史朗追悼展(同54年、栃木県立美術館、和光)が開催された。

永瀬義郎

没年月日:1978/03/08

版画家、洋画家の永瀬義郎は、3月8日直腸ガンのため東京港区の済生会中央病院で死去した。享年87。明治24年1月5日茨城県西茨城郡に生まれ、同42年白馬会原町洋画研究所で長原孝太郎の教えを受けたのち、同44年東京美術学校彫刻科に入学したが程なく中退、のち京都に赴いた。大正2年、文芸雑誌「聖盃」(同年「仮面」と改題)の同人となり、以後表紙絵や挿絵を担当し、また評論を発表した。翌3年には新劇運動に刺激され鍋井克之等と美術劇場を結成し第1回公演を行ったが経営難のため解散した。また独自に版画を研究し、同3年第1回二科展に木版画「愛する少女」等5点が入選、同5年には長谷川潔、広島晃甫と日本版画倶楽部を結成し第1回展を開催した。同7年、国画創作協会第1回展に「潮音」「長閑」を出品、翌8年には日本創作版画協会第1回展に会員として「母と子」(木版)等を出品した。この間、北原白秋、宇野浩二らの童話集等の装幀、挿絵を担当する。昭和2年第8回帝展第二部に版画が受理され「髪」を出品、同4年、第7回春陽会展に「トルコ帽をかぶれる男」(版画)等を出品して春陽会賞を受賞、また同年から同11年まで版画研究のため渡仏した。帰国の後は新樹会展、日展、日本版画協会展等に制作発表同32年には光風会会員となり同展へ出品した他、同年の第1回東京国際版画ビエンナーレに国内委員として「幻想」(木版)、「空飛ぶ童子」(擦版)を出品した。翌34年画業60年記念自選版画展(東京日本橋高島屋)を開き、この年団体を離れて無所属となった。同44年第6回いはらき賞を受賞、同52年には勲四等瑞宝章を受けた。  ◆年譜明治24年(1891) 1月5日、茨城県西茨城郡に永瀬甚五郎、ゑいの五男として生まれる。明治36年(1903) 茨城県立土浦中学校に入学。一級上に石岡出身の洋画家熊岡美彦、後輩に矢口達、高田保等がいた。明治41年(1908) 県立土浦中学校を卒業する。明治42年(1909) この年、白馬会原町洋画研究所に通い長原孝太郎の教えを受ける。明治44年(1911) 東京美術学校彫刻科塑造部予備科に入学。その後退学し、京都に赴き同宿の青木大乗等と親交する。大正2年(1913) 5月頃、文芸雑誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)の同人となる。以後『仮面』の表紙絵、挿絵を描き評論を発表する。6月、『聖盃』6月号の表紙絵と裏表紙絵(ヴァラトン作、リイルアダム肖像の模写)を担当し、評論”ビアズレー?を著わす。11月、仮面主催洋画展覧会を東京京橋畔読売新聞社3階にて開き「曇り日」などを出品する。大正3年(1914) 1月頃、新劇運動に刺激され、鍋井克之等と共に美術劇場を結成、宇野浩二もこれに加わる。10月、1回二科展「愛する少女」「宮殿の悲しみ」「母の愛」「T氏の肖像」「さかえ行く肉に抱かれし滅び行く生命」(以上木版)。大正4年(1915) 2月、『仮面』4巻2号に表紙絵「躍進」、扉絵「肉」、裏表紙絵「マスク」を掲載。(発売禁止)2月頃、府下本郷区台町25、鶴栄館に転居する。5月、『仮面』4巻5号に表紙絵「春」、扉絵「乳房の重さ」、口絵別刷「サロメ」、裏表紙絵「櫛持つ女」を掲載。(発売禁止)10月、2回二科展木版「裸体習作」他。大正5年(1916) 11月、日本版画倶楽部第1回展を長谷川・廣島晃甫と三人で、東京万世橋駅楼上レストラン・ミカドで開催。「貌」「母の愛」「夢魔」等を出品。大正7年(1918) 11月、国画創作協会第1回展に「潮音」「長閑」の2点を出品。義朗の印を用いる。大正8年(1919) 1月、日本創作版画協会(以下日創展)の第1回展が東京日本橋三越呉服店で開かれ、会員として「母と児」「王子」「梳る女」(木版)他を出品。3月、新代邦画第1回展に、「三井寺」等を出品。3月、みづゑ第169創作版画号に“版画製作に就いて”を寄稿。5月、日創会大阪展に、「王子」「愛」等を出品。9月、6回日本美術院展「浅間路」。10月、山本県、日本農民美術研究所を設立、同所職員として勤務する。12月8日、栗山いとと結婚する。大正9年(1920) 3月、瞳子社第2回洋画展覧会に小出楢重らと出品。4月、2回日創展に「少女の顔」(木版)「花園」(モノタイプ)他。大正10年(1921) 9月、3回日創展(大阪展のみ)「愛」「裸体A」(以上木版)「筑波道」「水のほとり」(以上モノタイプ)他。大正11年(1922) 2月13日~2月27日、4回日創展、「裸体A」「沈鐘」「祈り」(以上木版)他。「沈鐘」は、魯迅編集の『芸苑朝華』第1期第3輯の『近代木刻選集(二)』に紹介される。この頃、東京府下大森町新井宿1106に住む。2月26日、神戸弦月会主催の創作版画展覧会最終日に“創作版画に就いて”の講演を行なう。8月、日本創作版画協会発行『詩と版画』(季刊誌『版画』改題)刊行。9月、9回二科展「高原初秋」「花」。9月、中央美術8巻9号に“版画芸術の現代的意識”を寄稿。11月、『版画を作る人へ』を日本美術学院から刊行。6版を重ねる。この年、北原白秋の童謡シリーズ(アルス刊)第6輯『きらきら星』の挿絵を描く。大正12年(1923) 2月、白秋童謡シリーズ(アルス刊)第8輯『夕焼小焼』の挿絵を描く。5月、1回春陽会展「花」。6月、5回日創展に「花(二つの性)」「祈り」(以上木版)他。11月1日、高田保と人形劇団「テアトル・マリオネット」を結成。春、下谷区上野桜木町17に転居する。大正13年(1924) 2月、アトリエ創刊号に“簡易な版画の作り方及びその応用”を寄稿。3月、2回春陽会展「花」。この年、宇野浩二著の童話集『天と地の出来事』の装幀及び挿絵を担当。大正14年(1925) 10月、江口換著、童話集『かみなりの子』の装幀及び挿絵を担当。12月、北原白秋作詞成田為三作曲、の民謡楽譜『磯の燕』、アルス社刊の装幀をする。この頃、日本農民美術研究所員として勤める。大正15年昭和元年(1926) 2月、4回春陽会展に「花」2点。4月、府下大森町不入斗大森幼稚園内に転居する。5月、1回聖徳太子奉讃展「花A」「花B」。昭和2年(1927) 2月、7回日創展「蘆の湖遠望A」他。4月、5回春陽会展に「花A」他。8月27日、妻いと没。10月、8回帝国美術院展覧会二部洋画に版画が受理され、「髪」を出品。12月、高田保著、戯曲集『人魂黄表紙』(原始社刊)の装幀と扉絵を担当。この年、アルス大美術講座上巻の版画科を田辺至(エッチング)、戸張弧雁(木版画)、織田一磨(石版画)、永瀬(合羽版その他)で担当。昭和3年(1928) 1月、8回日創展「濃艶(四季四態の内春)」他。1月、アトリエ5巻号に“私のブラック・エンド・ホワイトと金擢の技法に就て”と“版画雑感”を寄稿。2月、デッサン2巻2号に“創作版画と近代生活”を寄稿。2月、河合卯之助らと工房聯盟と設立、美術工芸品の普及をはかる。4月、6回春陽会展「故後藤飛行士の肖像」「演壇に立てるヨネ・ノグチ」他。10月、9回帝展に「花」(版画)。12月、アトリエ5巻12号に“私の使用している木版画材料”を寄稿。この年、アトリエ5巻5号、同6号、同8号に“押入物語”を連載。昭和4年(1929) 1月、9回日創展に「支那人に扮せる草人」。3月、日本創作版画協会同人作品展「ダイビング」他。4月、7回春陽会展「トルコ帽をかぶれる男」「ある日の草人」(以下版画)「花」(油彩)を出品、春陽会賞を受賞。5月20日、版画研究のためにフランス遊学の途に上る。昭和6年(1931) 2月、春陽会会友となる。9月、1回日本版画協会展「エッフェルの塔」「スエズ運河」。昭和11年(1936) 4月頃、フランスより帰国。5月、帰国第1回洋画展(広島、銀座画廊)、「モンスリー公園」(油彩)「クラマール風景(A)」(デッサン)他。昭和13年(1938) 10月2回文展「ピクニック」(版画、無鑑査)。12月、7回日本版画協会展「南仏行進」「物ほし台」「サーカス」(捺擦版)。昭和14年(1939) この年恩地孝四郎、前川千帆とともに陸軍嘱託として1ヶ月間中国に渡る。12月、8回日本版画協会展「少女像(包頭にて)」(布目摺込)。昭和15年(1940) 12月、9回日本版画協会展「母の愛」「姉妹」他。昭和17年(1942) この頃、広島県賀茂郡安芸津町風早に移り住む。昭和21年(1946) 8月、永瀬が会長の芸南文化同人会々誌『芸南文化』が創刊される。昭和24年(1949) 5月、小川二郎訳、『スティヴァンスン童話集』(日本文化協会刊)の表紙・裏表紙・挿絵を描く。昭和27年(1952) 7月、6回新樹会展「裸女昇天」「赤い星」「巴里追想」(以上ポーショアー)を招待出品。10月、8回日展「夏は踊る」。この年、上京し、渋谷区神山町43に住む。昭和28年(1953) 10月、9回日展に「祭壇の処女」(モノポール)。この年、世田谷区に転居。昭和29年(1954) 4月、22回日本版画協会展に「柘榴」「暁の富士」。8月、8回新樹会展に「サーカス夜」他。10月、10回日展に「花よりも生るるもの」。昭和30年(1955) 8月、9回新樹会展「希望」「失意」「原煽の罪」(以上版画)他。10月、11回日展に「団欒」(版画)。この年、世田谷区北沢に住む。昭和31年(1956) 8月、10回新樹会展「かたぐるま」他。10月、12回日展「裸女相対」。昭和32年(1957) 3月、光風会会員となり、43回光風会展に「母と子」「日月」を出品。6月、1回東京国際版画ビエンナーレ展「幻想」(木版)「空飛ぶ童子」(擦版)。7月、11回新樹会展「馬と童子」「裸女四重奏」。11月、13回日展「空に挑む」。昭和33年(1958) 4月、44回光風会展「三つのパネル」。4月、26回日本版画協会展「初夏」。8月、12回新樹会展「女体に咲く花」「野立観音」。11月、1回日展に「裸女三態」。昭和34年(1959) 4月、45回光風会展「花園」「かげろう」。4月、27回日本版画協会展「春を呼ぶ」「花」「幻想A」他。8月、13回新樹会展に「空中に咲く花」「港」。11月、2回日展「北果ての早春」「マリモの幻想」「去りゆく冬」(三部作)。昭和35年(1960) 4月、28回日本版画協会展「月影」「月花」「月光」。4月、46回光風会展「散華」「壁に宿る影」。4月4日、棟方志功・前川千帆ら10名で辻永を顧問として日版会を結成、8月、1回日版会展に「洞窟の処女」(木版)を出品。8月、14回新樹会展に「海の幻想」「光琳追想」。11月、3回日展「東レの父」。11月、2回東京国際版画ビエンナーレ展「自画像」「教会の有る風景」(以上木版)。昭和36年(1961) 4月、47回光風会展「洞窟」「乱舞」。11月、4回日展「受難」。10月、日中文化経済協会の招待で渡台、台湾国立歴史博物館で個展を開催。昭和37年(1962) 4月、48回光風会展「白夜」「屋根裏」。11月、5回日展「暮色」。昭和38年(1963) 4月、49回光風会展「家族」。11月、6回日展「風化」。昭和39年(1964) 4月、50回光風会展「夜の流れ(朝・夕・夜)」(三部作)。11月、7回日展「肩車」。この年、練馬区に転居。昭和40年(1965) 4月、51回光風会展「春風」。11月、8回日展「空のカルカチュア」。昭和41年(1966) 4月、52回光風会展「早春のコスチューム」。11月、9回日展「バレー三態」。昭和42年(1967) 4月、53回光風会展「土より生るるもの」。昭和43年(1968) 4月、54回光風会展「童話の世界」。昭和44年(1969) 4月、光風会55回記念展「かげろう」。4月、永瀬義郎自選版画展(茨城新聞社主催水戸志摩津)。9月、6回いはらき賞を受賞。昭和45年(1970) 7月、画業60年記念自選版画展(東京日本橋高島屋)。この年、無所属となる。昭和46年(1971) 8月、永瀬義郎版画展(愛宕山画廊)。昭和47年(1972) 4月、永瀬義郎展(新宿小田急百貨店)。10月、永瀬義郎黄金の裸女展(愛宕山画廊)。昭和48年(1973) 7月、MESSODOS(メソドス)第6号に-永瀬義郎生涯を語る-“放浪貴族”の連載が始まる。この年、月刊誌『流動』の1月号から12月号の表紙を担当。この年、合成樹脂による原版を作り、水と油の反発を利用した新技法NAGASEP,73(NP)を創り出す。昭和49年(1974) 11月、永瀬義郎新作版画展(銀座、ギャルリー・アイ)。昭和50年(1975) 6月、日本版画史を生きる・永瀬義郎のすべて展(新宿小田急)。昭和51年(1976) 10月、女・おんな・女永瀬義郎版画展(新宿小田急百貨店)。この年、誌画集『もの想う天使』(風書房刊、松永伍一詩、限定20部)、石版画集『おんな』(森出版刊、限定60部)、版画集『女とこども』(風書房刊)を刊行。昭和52年(1977) 4月、誌画集『火の鳥』(ネオアカシヤ刊、松永伍一詩)出版記念展(新宿小田急百貨店)。5月、日本版画史とともに・永瀬義郎版画展(茨城県立美術博物館)。昭和53年(1978) 3月8日、直腸ガンのため東京港区の済生会中央病院で死去(87)。本年譜は、藤本陽子編「永瀬義郎年譜」(「永瀬義郎版画展」図録所収、昭和52年茨城県立美術博物館)を参照した。

古野由男

没年月日:1978/02/05

版画家、日本版画協会会員、滋賀女子短大教授古野由男は、2月5日呼吸不全のため京都市左京区の京大付属病院で死去した。享年68。明治42年8月18日東京に生まれ、昭和5年1930年協会展に油彩画「雨の上野駅」などが入選、同7年東京美術学校図画師範科を卒業した。卒業の年から同26年まで島根県の旧制中学、新制高等学校に奉職し、同年から同44年までは京都市教育委員会に所属し市立堀川高校、紫野高校で教えたのち教育委員会指導主事を勤めた。この間、京都へ転じた頃から銅版画を始め、同28年浜口陽三、駒井哲郎らと日本銅版画家協会を設立して会員となり、同33年には現代美術家協会会員となる。同35年からは京都銅版画協会を主宰、京都版画家集団の委員長もつとめた。同38年、「SPACE8」で現展委員賞を受賞、同年から同45年まで京都市立美術大学非常勤講師をつとめた。同42年、日本合同版画展(ニューヨーク)に「SPACE11」を出品、翌年の日本人作家展(マドリッド)には「’67 ESPAC 10A」他を出品した。同43年には、京都市文化功労者として表彰され、同45年日本版画協会会員となり、同年から死去まで滋賀女子短期大学教授をつとめた。同49年、パリにおける近代美術展に「和、Peace (a baby)」、「和 Peace (a mother)」を出品。同52年にはアメリカ、カナダ、メキシコを旅行した。また、美術教育への貢献も大きく、同28年から日本美術教育学会会員、同40年から日本美術教育連合会会員であり、同41年にはプラハにおける世界美術教育会議に日本代表として参加した。作品は他に、「SPACE 12」、「W-5希望」など

駒井哲郎

没年月日:1976/11/20

銅版画家、東京芸術大学教授駒井哲郎は、11月20日舌癌肺転移のため東京築地の国立ガンセンターで死去した。享年56。大正9(1920)年6月14日東京都中央区に生まれた。慶応義塾普通部在学中にエッチング研究所に銅版画の技法を学び、昭和13年東京美術学校油画科に入学、在学中の同16年第4回文展に銅版画を出品入選し、翌17年卒業した。同23(1948)年日本版画協会展に銅版画を初出品して受賞、会員に推され、同25年には春陽会展に初出品受賞、翌26年同会会員になるとともに、この年国際展としては日本が戦後はじめて参加した第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」で受賞し、版画家としての地歩を築いた。同27年ルガーノ国際版画展で受賞、パリのサロン・ド・メイに出品、翌28(1953)年浜口陽三らと日本銅版画家協会を設立、同29年3月渡仏しパリ国立美術学校版画科に学び翌年12月帰国した。また同46年には東京芸術大学助教授に就任、翌47年教授となった。鋭い線をもつ独自の技法でわが国銅版画界に新境地をひらいたが、とくに詩画集にすぐれた仕事を残し、安東次男との『人それを呼んで反歌という』などがある。没後その技法を明らかにした『銅版画のマチェール』(美術出版社昭和51年)が刊行された。略年譜大正9年(1920) 6月14日東京都中央区に生まる。大正12年 9月1日関東大震災に会い五反田にあった家へ移る。昭和9年 麹町にあった室内社画廊で、メリオン、ホイッスラー、ムンクなどの銅版画を見る。同所にあったエッチング研究所(西田武雄主宰)で銅版画の技法を習う。昭和13年 慶応義塾普通部卒業。東京美術学校油画科入学。昭和16年 第4回文展に銅版画入選。この頃より麻布桜田町に住む。昭和17年 東京美術学校油画科卒業。昭和18年 東京外国語学校フランス語専修科卒業。昭和19年 平田重雄に建築設計の教えを受ける。応召。昭和20年 復員後、軽井沢の疎開先に落着き、油絵、銅版画を制作。年末から世田谷区駒沢に住む。昭和23年 日本版画協会展に戦中、戦後に製作した銅版画を初出品し受賞、恩地孝四郎らに注目され会員に推挙さる。昭和25年 春陽会展に初出品し受賞。「現代フランス創作版画展」(東京国立博物館)の批評を『みづゑ』に書く。昭和26年 第28回春陽会展に「夜の魚」「人形と小動物」他10点を出品、同会会員になる。第1回サンパウロ・ビエンナーレ展に「束の間の幻影」受賞。第7回サロン・ド・メイ出品。『マルドロールの歌』(ロオトレアモン 青柳瑞穂訳木馬社)の銅版挿絵を制作。昭和27年 第2回ルガーノ国際版画展に出品優秀賞。第8回サロン・ド・メイ「時間の迷路」出品。春陽会「裏庭」他4点出品。実験工房に参加。昭和28年 第2回日本国際美術展、「Radio activity in my room」「エチュード」出品。第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「Poison de la unit」他5点出品。資生堂画廊で銅版画による最初の個展を開催。日本銅版画家協会設立に加わり理事になる。昭和29年 養清堂画廊で個展。3月渡仏、長谷川潔を訪ねる。5月にエドモン・ド・ロチルドコレクションの素描と版画展を見る。パリ国立美術学校のビュラン教室(ロベール・カミ教授)へ入る。昭和30年 レバークーゼン美術館での「パリの日本人画家展」、リュブリアナ国際版画ビエンナーレに出品。12月帰国。昭和31年 第2回現代日本美術展に「作品A、B」を出品。南画廊で個展、久保貞次郎を知る。昭和32年 日本国際美術展に「或る終曲」出品。小山正孝と『愛しあふ男女』(ユリイカ)刊行。昭和33年 現代日本美術展に「夜の森」「樹木」出品。ヨーロッパ巡回日本現代絵画展に「思い出」「束の間の幻影」「樹木」出品。南画廊で個展、安東次男を知る。昭和34年 日本国際美術展に「鳥と果実」を出品しブリヂストン美術館賞を受賞。第5回サンパウロ・ビェンナーレ展に「調理場」他9点出品。渡仏。昭和35年 南画廊で個展。現代日本美術展に「置かれた首」「静物」を出品。安東次男との詩画集『からんどりえ』(ユリイカ)、青柳瑞穂との『睡眠前後』(大雅洞)刊行。昭和36年 日本国際美術展に「二つの円周」、春陽展に、「青い家」出品。昭和37年 東京芸術大学美術学部、多摩美術大学の非常勤講師を委嘱される。フィレンツェ美術アカデミアの名誉会員となる。現代日本美術展に「受難」「晩餐」を出品。昭和38年 10月20日交通事故にあう。日本国際美術展に「版画」を出品。昭和39年 詩画集『距離』(永田茂樹 昭森社)、『断面』(馬場駿吉 昭森社)を刊行。昭和40年 日本国際美術展に「大洪水」出品。昭和41年 詩画集『人それを呼んで反歌という』(安東次男 ギャルリー・エスパース)、『詩集』(福永武彦 麦書房)、『鵜原抄』(中村稔 思潮社)を刊行。現代日本美術展に「食卓にて」「洪水」を出品。昭和42年 日本国際美術展に「孤独」、近代日本の版画展(東京国立近代美術館)に「束の間の幻影」「木ノ葉と飛んでいる鳥」出品。昭和43年 石川淳作『一目見て憎め』(俳優座公演)の舞台装置、衣裳を担当。『エッチング小品集』(版画友の会)を刊行。現代日本美術展に「オーフォルト1、2」を出品。昭和44年 現代日本美術展特別陳列「現代美術20年の代表作」に「森」出品。『季刊芸術』第3号から「銅版画の技法」を書き始める。『野間宏全集』第一巻に銅版画挿絵10点を制作。昭和45年 自由が丘画廊で個展。野間宏『夜のコンポジション』(青地社)、埴谷雄高『九つの夢から』(青地社)、金子光晴『よごれていない一日』(弥生書房)のため銅版画制作。昭和46年 東京芸術大学助教授となる。金子光晴の書画との銅版画展開催(小田急百貨店)。現代日本美術展に「星座A,B,C」出品。昭和47年 東京芸術大学教授となる。昭和48年 自由が丘画廊、渋谷西武百貨店で個展。詩画集『蟻のいる顔』(中央公論社)刊行。『駒井哲郎銅版画作品集』(美術出版社)刊行。昭和50年 7月渡仏、長谷川潔を訪ねる。11月パリのジュンヌ・グラビュール・コンタンポレーヌに招待出品。『恩地孝四郎画集』特製本(形象社)のために銅版画作成。自由が丘画廊で個展開催。昭和51年 11月20日死去。没後『銅版画のマチェール』(美術出版社)刊行。「アトリエC-126プリントショウ-師駒井哲郎に捧ぐ」展が銀座みゆ画廊で開催される。

小野木学

没年月日:1976/08/24

洋画家、版画家のアート・クラブ会員、小野木学は、8月24日午前3時30分、じん臓がんのため東京・千代田区の九段坂病院で死去した。享年52。小野木学は、大正13年(1924)1月13日東京都杉並区に生まれ、戦中から病弱であったため療養生活にあって絵画を独学独習、昭和28年(1953)第17回自由美術展に初めて作品「民話」を出品入選となった。昭和32年自由美術協会会員に推挙されたが、同38年退会し、以後は主として個展で発表活動をつゞけ、また版画でも国際展に出品授賞するなどの活躍をみせた。沈んだ色彩と簡潔なフォルム、独特の幾何学的な抽象絵画で注目され、また、絵本作家としても知られ、絵本挿画の制作も多いが、文・絵ともに作者の自作による『さよならチフロ』(こぐま社刊)、なかでも『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)は昭和45年度(1970)の第19回小学館絵画賞を授賞した。内外のいくつかの美術館にも作品が収蔵され、今後の活躍が期待されていた。略年譜大正13年(1924) 1月13日、東京・杉並区に生まれる。昭和28年 10月、第17回自由美術展に「民話」入選。大村連、加藤一らとグループ金曜会を結成。昭和30年 10月、第19回自由美術展「説得」出品。昭和31年 5月、村松画廊で第1回個展を開催。5月村松画廊で第2回個展。昭和32年 10月、第21回自由美術展「木馬と少年」、佳作賞を受け、会員に推挙される。昭和33年 8月、第2回シェル美術賞展に入選、佳作賞。10月、第22回自由美術展「装馬」「かほ」昭和34年 6月、村松画廊で第3回個展。10月、第23回自由美術展「戦史」。シェル美術展出品、2等賞をうける。昭和35年 秋山画廊で第4回個展。第4回安井賞展に出品。昭和36年 渡欧。10月、第25回自由美術展「ユニコーン」。昭和37年 渡欧。10月、第26回自由美術展「普通の風景」1、2。駿河台画廊企画展に出品。昭和38年 6月、秋山画廊で第5回展個展。自由美術協会を脱会。グループ金曜会を退会。昭和39年 5月、第6回現代日本美術展コンクール部門に「普通の風景」入選。秋山画廊で第6回個展。この年、埼玉県熊谷市駅前の藤間病院に砂岩によるレリーフの壁画装飾「生成」を制作する。昭和40年 4月、椿近代画廊で早川重章との二人展。7月、秋山画廊で第7回個展。昭和41年 9月、秋山画廊タブローによらない作品展に出品。昭和42年 9月、秋山画廊で第8回個展。昭和43年 7月、秋山画廊で版画展。11月、第6回東京国際版画ビエンナーレ展に「風景―RO」「風景―Y」出品。昭和44年 6月、秋山画廊で第9回個展。この年、第8回リュブリアーナ国際版画ビエンナーレ展に出品、ユーゴスラビア買上げ賞。この年、アメリカ、シンシナティ美術館に作品収蔵される。昭和45年 アメリカ、ロックフェラー財団に作品収蔵される。自作絵本『片足駝鳥のエルフ』(ポプラ社刊)により第19回小学館絵画賞をうける。昭和46年 5月、第七画廊で第10回個展。7月、ギャラリー・ムカイで版画による個展。ブリュッセル現代日本画展に出品。昭和47年 東京国立近代美術館に版画「風景(点)―A」「風景―706」「風景―S.H.I」購入収蔵される。ポンベイ現代日本版画展、ワルシャワ現代日本版画展にそれぞれ出品する。雑誌『群像』の装幀を年間担当する。11月、第七画廊で第11回個展。昭和48年 横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。11月、みゆき画廊で版画による個展。昭和49年 1月、第七画廊で第12回個展。同月、くぼた画廊で第13回個展“小野木学の軌跡”開催。11月、横浜市民ギャラリー・今日の作家展に出品。同月、アテネ画廊版画グループ展“伍人”に出品。メキシコ現代日本版画展に出品。第6回日本芸術大賞候補にあげられる。昭和50年 1月、第七画廊で第14回個展。3月、九州サン画廊(久留米市)作品展に出品。7月、ギャラリー・ココ、スルガ台画廊のグループ展に出品。10月、大分O.B.S美術サロン作品展に出品。この年、文化庁、熊本県立美術館に作品収蔵される。昭和51年 7月、スルガ台画廊のグループに出品。ベルギー・ゲント現代日本版画展に出品。イタリア・フェラーラ現代版画展(南天子画廊企画)に出品。8月24日、東京・千代田区九段坂病院において死去。

山口源

没年月日:1976/07/15

版画家、日本版画家協会会員、国画会会員山口源は、7月15日午後11時36分静岡県 沼津市の岩井医院で死去した。享年79。本名源吾。明治29(1896)年10月23日静岡県富士郡(現富士市)田子浦柳島19番地に生まれた。青少年期を台湾で過し、その頃版画家藤森静雄を知ったのが後年版画へ進む機縁となる。大正12年関東大震災後上京し藤森に再会、その後恩地孝四郎の門を叩き、日本創作版画協会展に出品した。戦中から戦後しばらく続いた恩地を中心とする版画家の研究会一木会に加わり、ここで関野準一郎らと知り合った。また、昭和18年日本版会協会会員、同24年には国画会会員となった。同19年10月頃沼津市へ疎開し、晩年に至るまで当地で制作を続け、同31年養清堂画廊での個展以来毎年個展を開催したほか、同33(1958)年3月第5回スイス、ルガノ国際版画展でグランプリ受賞、同年6月スイス、グレンヘンのトリエンナーレで佳作賞を受けるなど、木版による抽象の作風は戦後柔軟な成熟をみせた。代表作に「能役者」(ルガノ、国際版画展、1958)「許容」(グレンヘン国際版画展1958)「熱望」(日本版画協会展、1974)など。

棟方志功

没年月日:1975/09/13

木版画家で文化勲章受賞者、棟方志功は、9月13日午前10時5分、肝臓ガンのため東京都杉並区の自宅で死去した。享年72歳。棟方志功は、明治36年(1903)、青森市の刃物鍛冶屋の15人兄弟のうちの3男に生まれ、青森市立長嶋尋常小学校を卒業後、給仕の職など働きながら画家を志して大正13年(1924)上京、独学で絵を学んだ。白日会展、帝展などに出品、版画制作へむかったのは、大正14年、川上澄生の版画「初夏の風」をみて感動したことにはじまっている。版画家平塚運一、前田政雄らを知り、春陽会展、日本創作版画協会展、国画会展などに出品したが昭和11年(1936)第11回国画会展に出品した「瓔珞譜大和し美し版画巻」が柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らの注目を集め、棟方版画の出発点となった。以後、「釈迦十大弟子」(昭和14年)、「鐘溪頌」(昭和20年)、「湧然する女者達々」(昭和29年)などをつぎつぎと発表し、昭和30年第3回サンパウロ・ビエンナーレ展、同31年第28回展ヴェネチア・ビエンナーレ展でそれぞれ版画部門グラン・プリを受賞し、国際的な名声をうるにいたった。その後も、「群生の柵」(昭和32年)、「飛流の柵」(昭和33年)「円空の柵」(昭和36年)、「恐山の柵」(昭和38年)、「大世界の柵、乾」(昭和44年)などを発表し、昭和45年(1970)第11回毎日美術賞、同年、文化勲章を受章し、文化功労者に指定された。昭和38年ころから極度に視覚が弱くなったが、ときに縄文的とか、青森の祭ねぶたのエネルギーとかと評される奔放な作風と旺盛な制作意欲は変ることなく晩年まで続いた。また、独特の文体をもった随想・随筆でも知られた。著書に『板画の話』(宝文館、昭和29年)、『板極道』(中央公論社、昭和39年)ほかがある。棟方志功年譜明治36年(1903) 9月5日、青森市で生まれる。父鍛冶職棟方幸吉、母さだの三男。大正5年 3月、青森市立長嶋尋常小学校を卒業。家業の鍛冶職を手伝う。このころ、凧絵とネブタに熱中し、武者絵を描く。大正9年 10月25日、母さだ死去、享年41歳。この年、青森地方裁判所弁護士控所の給士となる。大正10年 秋、友人松木満史、古藤正雄、鷹山宇一ら3名と洋画の会「青光社」をつくり、第1回展覧会を日本赤十字社青森支部で開く。このころから、松本、古藤両名と「貉の会」をつくり、文学、演劇を研究、『ドモ又の死』の上演、『その妹』の朗読会などを行う。この会は週1回集まり、約1年半続く。大正13年 9月、絵の修業のため上京し、伯母よねの知り合いに当たる渡辺勝兵衛宅に下宿する。毎月、よねと次兄賢三より10円ずつの送金を受ける。大正14年 4月、5回国画創作協会展で川上澄生の版画「初夏の風」を見て感銘を受ける。10月26日、父幸吉死去。享年56歳。油絵「清水谷風景」白日会に入選する。このころから約1年半、紀尾井町の東京教材出版社に勤める。渡辺勝兵衛の紹介で生涯の後援者島丈夫と相識る。昭和3年 春、同郷の先輩下沢木鉢郎の紹介で版画家平塚運一に会い、版画の道に入る。平塚、前田政雄、深沢索一、畦地梅太郎らと刀画房より刊行の版画誌『版』に同人として参加。8回日本創作版画協会展に初めて7点出品し、4点陳列され、自信を得る。6回春陽会展に版画7点を出品、3点入選。10月、油絵「雑園」で第9回帝展に初入選、5年ぶりに帰郷する。「冬の景色」「ボンネットの花売娘」「貴女たち3人」(のち「聖堂に並ぶ3貴女」と改題)「夏衣松の木」(8回日本創作版画協会展) 「聖堂を帰る人々」(のち「貴女ら聖堂を出る」と改題)「星座の絵」「箒星をみる人々」(のち「貴女ら箒星を見る」と改題)(6回春陽会展)昭和4年 中野区の松木満史のアトリエで2人で共同生活に入る。9回日本創作版画協会展に「貴婦人と蝶々7」など3点出品。「貴婦人と蝶々」「花か蝶々か」「星座に命名する二人の女」(9回日本創作版画協会展)昭和5年 4月9日、赤城チヤと結婚。国画会展にはじめて「群蝶」など4点を出品し、入選する。生活費を得るため、四色摺り版画数枚1組の芝居絵「白野弁十郎」を制作、帝劇で販売する。「群蝶」「ベツレヘムに聖堂を観る」「貴女行路」「貴女裳を引く」(5回国画会展)昭和6年 4月、神田鈴蘭通りの文房堂で第1回個展を開く。白日会より油絵「猫と少女」で白日賞を受け、会友に推される。この年、同会を脱会。4月、これまで各展に出品したものより9点を選び収めた処女版画集『星座の花嫁』を、東京・渋谷区代々木山谷の創作版画倶楽部より刊行。6月、郷里青森で長女けよう生まれる。日本創作版画協会と洋画版画会が合併し、日本版画協会となる。9月、その第1回展を開き、「蟹集まる集まる」など5点を出品する。秋、島丈夫の縁で新潟県南蒲原郡の田下家、同県中蒲原郡の長谷川家に滞在する。「禽虫2題」「十和田奥入瀬」(6回国画会展)「蟹集まる集まる」「犬吠崎2題」「十和田」「里芋ばたけ」(1回日本版画協会展)昭和7年 5月、7回国画会展に4点出品、うち「亀田・長谷川邸の裏庭」で国画会奨励賞を受ける。この年、郷里より上京した家族と中野区に住む。「亀田・長谷川邸の裏庭」はボストン美術館、「青森・合浦の公園」はパリ・リュクサンブール美術館の買い上げとなる。日本版画協会2回展に「鯨群がる」「渦巻く鳴門」(のち「竜飛渦巻く」と改題)を出品。この年、日本版画協会会員となる。「合浦・青森の公園」「越後・加茂にての庭」「亀田・長谷川邸の裏庭」「亀田・長谷川邸の内園」(7回国画会展)「鯨群がる」「竜飛渦巻く」(2回日本版画協会展)昭和8年 7月8~10日の3日間、日本赤十字社青森支部で棟方志功後援会主催による個展を開催。10月、長男巴里爾生まれる。白と黒社より『棟方志功画集』を刊行、同じく白と黒社より棟方志功手摺版画集『北方の花』を出版する。7年から8年にかけて、料治熊太編集の二つの版画誌『白と黒』及び『版芸術』に、毎号のように作品が掲載される。「十和田奥入瀬4題」「季節々々の花籠」(8回国画会展)「桃真盛り」「証々寺の庭」「薬師寺の庭」(3回日本版画協会展)昭和9年 堀口大学の『ヴェニュス生誕別冊画譜』9柵を彫り、裳鳥会より刊行する。「海峡寺・桜の庭」「青森・瀬野村の山」「青森・蛸田村の沼」(9回国画会展)「首の鳥」「昔の鳥」(4回日本版画協会展)昭和10年 10回国画会に出品した「万朶譜 146」(7柵)により国画会会友に推される。9月、次女ちよゑ生まれる。「万朶譜」(10回国画会展)昭和11年 3月、ベルリンオリンピック芸術競技に版画「ラジオ体操」「ウオーミングアップ」の2点を出品。4月、11回国画会展に出品の佐藤一英詩「大和し美し版画巻」(20柵)が契機となり、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、富本憲吉、水谷良一らの知遇を受ける。夏、河井に招かれ、40日間、京都の河井宅に滞在する。その間、昼は京都の神社仏閣を見学し、夜、河井から経典の講義を受けた。12月発行の雑誌『工芸』71号を棟方志功特集号とし、柳宗悦「棟方のこと」、河井寛次郎「棟方志功君のこと」を掲載して、志功を世に紹介する。この年の暮れ、水谷良一の提唱で棟方志功後援会が発足し、柳、河井、浜田、浅野長量、武内潔真らが会員となる。この年、「『古事記』の神々」を制作する。「瓔珞譜大和し美し版画巻」(11回国画会展)「ラジオ体操」(ウオーミングアップ)(ベルリンオリンピック芸術競技)昭和12年 「華厳譜」(23柵、改刻5、計28柵)、佐藤一英の連詩による拓摺板画「空海頌」(54柵)、同じく佐藤一英の詩「鬼門」をモチーフとした「東北経鬼門譜」を発表する。このころより蔵原伸二郎を通じて、保田興重郎、中谷孝雄、前川佐美雄、淀野隆三らの作家、詩人との交際が始まり、単行本の装幀を手がける。春陽堂の「少年文庫」中、山村暮鳥『鉄の靴』、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵を描く。10月、銀座・鳩居堂で日本民芸館主催「第1回新作展」に「東北経鬼門譜」を出品。「曼陀羅譜そらうみのたたへ版画冊」(12回国画会展)「東北経鬼門譜」(日本民芸館主催第1回新作展)昭和13年 10月、第2回文展に「善知鳥板画巻」(31柵)のうち9点を出品、特選となる。12月、河井寛次郎の紹介で倉敷・大原孫三郎邸の襖に「五智如来」を描く。この年、初めて裏彩色によって柔らかい味わいのある棟方板画の第一作「観音経板画巻」(35柵)を制作し、日本民芸館展に出品する。「開闢譜東北経鬼門版画屏風」(13回国画会展)「善知鳥版画巻」(第2回文展)「観音経版画巻」(日本民芸館展)昭和14年 板画「釈迦十大弟子」(12柵)を制作し、翌年この作品を15回国画会展に出品し、佐分賞を受ける。(なお両端に位置する普賢、文殊の板木のみ戦災で焼失し、戦後改刻する)なお、14回国画会のポスターを会より委嘱されて制作する。「菩提譜観音経版画曼荼羅屏風」(14回国画会)昭和15年 保田興重郎の啓示により、上田秋成の小説『雨月物語』中の一挿話、夢応の鯉魚を板画にした「夢応鯉魚板画柵」(20柵、のち「夢応鯉魚版画巻」と改題)および聖徳太子の遺徳をたたえる「上宮太子版画鏡」(25柵、のち「上宮太子板画巻」と改題)を開板する。「呵呍譜二菩薩釈迦十大弟子版画屏風」(15回国画会展)昭和16年 「門舞男女神人像」(のち「門舞頌」「東西南北頌板画柵」と改題)、「般若心経板画柵」(未完現存20柵)などを発表する。11月、次男令昭生まれる。倉敷市大原邸の襖に倭画「群鯉図」を制作。「閻浮檀金頌門舞男女神人像版画屏風」(16回国画会展)昭和17年 親友蔵原伸二郎の詩「崑崙」を16柵に刻みこんだ「繧𦅘頌崑崙板画巻」(のち「崑崙頌」と改題)を17回国画会展に出品する。9月、高島屋日本橋店で「棟方志功油絵展覧会」を開催し、「十和田湖神社」など27点出品。12月、この出品油絵のほとんどを収録した唯一の油彩画集『棟方志功画集』が昭森社より発行される。この年も倉敷市大原邸で襖に倭画「華厳壁図」、六曲一双屏風に「連山々図」を描く。富山県西砺波郡福光町光徳寺の襖に「般若心経」を描く。「繧𦅘頌崑崙板画巻屏風」(17回国画会展)昭和18年 4月、18回国画会展に『コギト』正月号に掲載された保田興重郎の「年頭謹記」をもとに、文字を主体とした「神祭板画巻 167」(18柵)を制作出品したが、不敬を理由に主催者側の手で会期中に撤去される。同月、中野区より渋谷区「雑華山房」(大原孫三郎命名)に転居する。倉敷の大原邸で、六曲一双「群鯉図」「群童図」、六曲一隻「風神雷神図」、二曲一隻「両妃図」を描く。この年、「清浄韻施無畏の柵」「挙身微笑の柵」を制作する。「年頭謹記神祭板画巻屏風」(18回国画会展)昭和19年 「南北頌万朶溟華板画柵」(2柵)を19回国画会展に出品したが、のちに、戦火により焼失したため詳細不明。5月、富山県西砺波郡福光町光徳寺の襖に「華厳松」を描く。このころ宮沢賢治の詩「雨ニモ負ケズ」をもとに13柵の板画を制作したが、現在表紙が見つからないため、作品名は不詳である。河出書房より板画入りの随筆集『板勁』を刊行。「南北頌万朶溟華板画柵」(19回国画会展)昭和20年 4月、富山県西砺波郡に疎開する。5月25日、代々木山谷の雑華山房は空襲のため焼失し、版木のほとんどを失う。年末より、恩師河井寛次郎の仕事を賛美した「鐘渓頌板画巻」(のち「鐘渓頌」と改題)24柵を制作、翌21年秋の第2回日展に出品し、岡田賞を受ける。昭和21年 「愛染品板画巻」(15柵)を戦後第1回日展に出品。5,6月、柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司、外村吉之介らと越中の秘境五箇山などを旅行する。12月、富山県西砺波郡に新居を建て、「愛染苑」と称す。細川書店より『夢応の鯉魚』、大日本板画院より『愛染品』を刊行する。「愛染頌元創炎竜王鏡版画柵」(1回日展)「鐘渓頌公案鯉雨板画経」(2回日展)昭和22年 河井寛次郎の詞による「火の願ひ板画柵」を制作する。福光の光徳寺の依頼により拓摺板画「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘」を開板し、翌年の22回国画会展に出品する。このころ、前田普羅、暁烏敏らと交わる。細川書店より『棟方志功板画集』、西東書店より『火の願ひ』、旺文社より『善知鳥板画巻』英訳本を刊行。「天雲頌音神炎板画柵抜枠六韻」(21回国画会)昭和23年 河童の幻想を物語りにした「瞞着川板画巻」(34柵)、「板経板画柵」(乾・坤2柵、乾巻はいろはのみ30冊、坤巻は34柵、計64柵)を制作する。「釈迦十大弟子」中、板木焼失した文殊・普賢両菩薩を改刻する。10月、天皇の富山ご旅行に際し、新聞「北陸夕刊」の特派記者として随行し、「天皇拝従記」を書く。臼井書房より、『板愛染』、大阪・萌木より『板経板画柵』、北海道・鶴文庫より『鯉雨』を刊行。「越中国躅飛山光徳寺梵鐘銘抜粋拓摺」(22回国画会展)昭和24年 岡本かの子の詩による「女人観世音板両巻」(12柵)「山恩男・海恩女板画柵」などを発表。6月、日本民芸館で「棟方志功特別展」を開き、板画、倭画百余点を展観する。「芸業頌板経右座菩薩」「左弟菩薩」(23回国画会展「女人観世音板画柵」のうち「振向の柵」「仰向の柵」のこと)「万朶譜」外100点余(日本民芸館・棟方志功特別展)昭和25年 前田普羅句集をもとに「栖霞品板画柵」(34柵)「板歎異経・十二芸業仏達板画屏風」(のち浜田庄司を頌して「道祖土頌」と改題)「蒼嚇童女板画柵」(2柵)などを発表する。小品「松河伯」「波乗菩薩」の各柵を制作する。また越中五箇山中の行徳寺の開祖「赤尾道宗臥像の柵」を制作する。「板歎異経十二芸業仏達板画屏風」(24回国画会展)昭和26年 大原総一郎のビニロン開発を讃えた「美尼羅牟頌板壁画」(のち「運命板画柵」と改題)、柳宗悦を讃える「柳仰板画柵」(3柵)、後援者工楽長三郎を頌した「工楽頌両妃散華」(「天妃乾坤韻」ともいう)、石田波郷の句集をもとに「胸形変板画巻」(49柵、昭和32年に『惜命板画柵』と改題して出版)「仔鷹の柵」(のち「鷹持妃の柵」ともいう)などを発表する。フランスのサロン・ド・メイに「鐘渓頌」「運命板画柵」を招待出品する。12月、富山県より東京都杉並区に居を移す。「美尼羅牟頌運命讃板壁画」(25回国画会展)「鐘渓頌」「運命板画柵」(フランス、サロン・ド・メイ)昭和27年 「いろは板画柵」(6曲1双・48柵)「道祖土板画柵」(4柵)、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を板画にした「不来方板画柵」(2柵、のち「不来方の柵」と改題)「御七姫板画柵」などを発表する。2月、河井寛次郎の紹介により五島慶太、高橋禎二郎の知遇を得て、東横渋谷店で「第1回芸業展」を開く。以後、昭和50年まで毎年開催する。(昭和39年より東急日本橋店に移る)4月、スイスの第2回ルガノ国際版画展で、「女人観世音板画柵」が優秀賞を受ける。秋、ニューヨークのウィラード・ギャラリーで、海外での初の個展を開く。5月、日本版画協会を脱会、笹島喜平、下沢木鉢郎らと日本板画院を、また中川紀元、下沢木鉢郎らと日本芸術院を結成する。10月、東横渋谷店で第1回日本板画院展を開催し、ベートーベンの「第九交音曲」をモチーフとした「歓喜頌板画柵」(六曲一双、のち「歓喜頌」と改題)を出品する。毎日新聞社で文化映画「板画の神様」を撮影。「歓喜頌柳仰韻板画柵抜粋屏風」(26回国画会展)(1回板院展)「いろは板画柵」(1回日本国際美術展)「女人観世音板画柵」(スイス、ルガノ第2回国際版画展)昭和28年 「大蔵経板画柵」(2柵、のち「湧然する女者達々」と改題)、愛誦した吉井勇の歌集「流離集」より31首を板画にした「流離抄板画巻抜粋屏風」(のち「流離頌」と改題)を発表する。また敬愛する梅原龍三郎の国画会退会を機に、同会を脱会して、7年ぶり、9回日展に「耶蘇十二使徒板画柵」を出品する。この年から畏友保田興重郎の歌を「炫火頌」として制作し始める。「四神板経天井画柵」(2柵、のち「宇宙頌」と改題)「国想板両柵」(のち「炫火頌」に収録される)「閒風の柵」「太子立の柵」「リラ花の柵」「山路の柵」「秋扇の柵」「四神頌板画柵」「鳥兎頌板画柵」などを発表する。京都の祖国社より文集『板響神』を出版。「流離抄板画巻抜粋屏風」(27回国画会展)「不来方頌大恩世主十二使徒板画鏡柵」(9回日展)「鳥兎頌板画柵」(2回日本国際美術展)昭和29年 100号大の「華狩頌板壁画」(のち「華狩頌」と改題)を制作し、10回日展に発表する。「身沁の柵」「風立の柵」(この2点は「炫火頌」となる「夜橋の柵」「みみずく板画柵」(2柵)などを制作する。5月、1回現代日本美術展に「湧然する女者達々」を出品する。宝文館より『板画の話』、竜星閣より『板歓喜』『板歎異』『流離板画巻』、大阪・萌木より『棟方志功板画小品集』を刊行する。「炫炎頌御華狩舞板画柵」(10回日展)「湧然する女者達々」(1回現代日本美術展)昭和30年 「柳緑花紅頌」「鷹持妃」「鷹と松」、疎開中の自作歌にちなむ「紫袂」をはじめ、「御立仏像」「美業」「炎身」の各柵を制作し、11回日展に「邂逅板画柵」を発表する。7月ブラジルの「第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展」に「釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」などを出品、版画部門最高賞を受ける。8月、東横渋谷店で、日本民芸館主催、サンパウロ・ビエンナーレ受賞記念「棟方志功板業展」を開催し、代表作200余点を展示する。その出品目録の表紙に「板業韻々の柵」を制作。9月、5回日本板画院展に、山川京子の歌による「山川抄板画柵」、原石鼎の句集による「青天板画柵」(35柵)の抜粋を出品する。銀座・資生堂で油絵の個展を催し、約30点出品する。竜星閣より板画集『湧然する女者達々』を刊行。「一遍頌邂逅板画柵」(11回日展)「柳緑花紅頌屏風」(3回日本国際美術展)「釈迦十大弟子」「湧然する女者達々」(第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展)「山川抄板画柵抜粋風炉先屏風」「青天抄板画柵抜粋風炉先屏風」(5回日本版画院展)昭和31年 淡交社の企画で「茶韻十二ヶ月板画柵」(12柵)、谷崎潤一郎の短歌を板画にした「歌々板画柵」(のち「歌々頌」と改題)、『中央公論』連載の小説「鍵」の装幀、挿絵板画「鍵板画柵」(59柵)、草野心平の詩による「山脈板画柵」、江戸川乱歩の小説「犯罪幻想」の挿絵板画「幻想板画柵」(11柵)、12回日展出品作「蒼原板壁画」(のち「蒼原の柵」と改題)、富山県福光町の山河をうたった「竜胆の柵」、そのころの作と思われる「夢殿の柵」「救世観音の柵」などを制作。3月、東横渋谷店で「第5回棟方志功芸業展」を開催。6月、東京国立近代美術館の「世界版画展」に「柳緑花紅頌」を出品。6月、イタリアの「第28回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展」に「柳緑花紅頌」など11点を出品し、国際版画大賞受ける。この年、青森、弘前、八戸、室蘭、京都、徳島等で個展を開催。宝文館より『青天抄板画巻』『板画の道』、河出書房より『板画の肌』、北海道豆本の会より『瞞着川』、講談社より『アートブック棟方志功』を刊行。日展審査員になる。「蒼原板壁画」(12回日展)「釈迦十大弟子」「耶蘇十二使徒」「四神板経天井画柵」「柳緑花紅頌」等11点(第28回ヴェニス・ビエンナーレ国際美術展)「柳緑花紅頌」(東京国立近代美術館世界版画展)「歌々板画柵抜粋屏風」(6回日本板画院展)「十二の仏者達々の柵(「道祖土頌」のこと)「鍵板画抜粋柵」(7回日本板画院展)昭和32年 この年、「鼓笛の柵」、『古事記』をもとに神々の創生をうたった「群生の柵」、柳宗悦の箴言を開板した「心偈頌」(77柵)「追開心経の柵」(16柵、のち「追開心経頌」と改題)を発表する。13回日展に「北脈の柵」を出品。2月から日本民芸館主催の「棟方志功板業展」を大阪、倉敷、松江、福岡、名古屋の各地で開催。同月、三越日本橋店の「現代版画秀作展」に「女人観世音」「鷹持妃の柵」のそれぞれデテールが出陳される。3月、東横渋谷店で「第6回棟方志功芸業展」を開く。4月、佐藤一英らと名古屋紅葉山鉈薬師に案内され、円空作の月光菩薩、十二神将、童子などを見て、感銘を受ける。8月より9月にかけて北海道へ旅行。12月、沖縄タイムスの招きで沖縄旅行、同地で個展を開催する。宝文館より『惜命板画巻』(「胸形変板画巻」の改題したもの)、『歌々板画巻』を刊行。「北脈の柵」(13回日展)「群生の柵」(1回東京国際版画ビエンナーレ展)「歓喜頌」(4回日本国際美術展)「柳緑花紅頌」(8回選抜秀作美術展)「御多福妃・御鷹鼻尊」(8回日本板画院展)「仏誕の柵」「神誕の柵」「鬼誕の柵」(9回日本板画院展)昭和33年 「飛流の柵」(2柵、のち「龍原頌」と改題)「海山の柵」を制作。他に「高館の柵」「雪しんしんの柵」「雲山の柵」、般若心経をバックに彫った「十一面観音の柵」と「聖観音の柵」の二部作、「不動明王の柵」「道神の柵」、江戸川乱歩の挿絵板画「緋薔薇頌」など制作。2月、三越日本橋店での「第2回現代版画秀作展」に「天妃乾坤の柵」(「工楽頌」の別名)が出陳される。3月、ニューヨークの聖ジェームス教会での「現代日本版画展」に「柳緑花紅頌」中の「葦蓮の柵」を出品、1等賞となる。5月、京橋・中央公論画廊でオレンダ人ベン・ヨッペと2人展を開催する。筑摩書房より柳宗悦編『棟方志功板画』、京都・丁字屋より『棟方志功心経柵巻』を刊行。「海山の柵―乾坤なる父母上に捧げる」(1回日展)「飛流の柵」(3回現代日本美術展)「葦蓮の柵」(ニューヨーク・現代日本版画展)「群生の柵」(9回選抜秀作美術展)「湧然する女者達々」「追開心経頌」(日本美術欧州巡回展)「日本の季歌」(「柳緑花紅頌」のこと)(10回日本板画院展)昭和34年 1月、ロックフェラー財団とジャパンソサエティーの招きで、山下汽船山君丸で渡米。ニューヨーク、ボストン、クリーブランド、シカゴ、シアトル、サンフランシスコなど各地の大学で版画の講義と個展を開催し、11月帰国。この間8月中旬からオランダ、フランス、スペイン、イタリア、スイスへ1ヶ月旅行し、パリ郊外オーベルのゴッホの墓を訪れる。6月、ニューヨークにマレー・ジャフ夫妻が「棟方ギャラリー」を設立する。10月、「棟方志功板画欧州主要都府展」の国内展が東京国立近代美術館で開かれ、約2年間ヨーロッパを巡回した。なお、渡米の際、山君丸の船内で後援者水谷良一の病気平癒を祈り、「水谷頌」を開板したほか、多くの作品を制作した。また滞米中、11月より創刊の中央公論社『週刊公論』の表紙(35年4月まで続く)や2回日展出陳の「マンハッタンに立つ」を制作する。他に連作「ホイットマン詩集抜粋の柵」など発表する。青森県第1回文化賞を受賞。えくらん社より「空海頌」を刊行。「摩奈波門多に立ね」(2回日展)「ホイットマン板画の柵」(11回日本板画院展)昭和35年 「狩漁の柵」「鷺畷の柵」「松網の柵」「般若心経板画柵」などを制作。1月より半年にわたってクリーブランド美術館主催の「棟方志功展」がアメリカ各地で開かれる。3月、日展評議員となる。同月、東横渋谷店で帰国記念展を兼ね「第9回芸業展」を開催。この年はじめより眼疾すすみ、秋には左眼ほとんど失明する。大阪・萌木より『妙肌韻板画柵』を刊行。「狩漁の柵」(3回日展)「松網の柵」「鷺畷の柵」(4回日本現代美術展)「丑午の柵」(12回日本板画院展)昭和36年 1月、青森県庁玄関上に板壁画「花矢の柵」を制作。日本国際美術展に「七海の柵」、日展に「円空の柵」などを発表。10月より『中央公論』連載の谷崎潤一郎「瘋癲老人日記」の挿絵板画の制作を始める。3月、「棟方志功芸業展第10回記念展」として障壁画、襖絵を展示。5月、恩師柳宗悦死去。7月、京都・嵯峨の法輪寺より法橋位を受ける。9月、東京・浅草の東本願寺の茶室の襖絵を描く。ブリヂストン美術館で「棟方板画屏風展」をまた神奈川県立鎌倉近代美術館でも屏風展を開催する。この年より『大法輪』誌上に自叙伝「板妙肌」(口述)を連載する。「円空の柵」(4回日展)「七海の柵」(6回日本国際美術展)「鼓妃の柵」(13回日本板画院展)昭和37年 「風舞の柵」(のち「風韻の柵」「渦風の柵」と改題)「巴舞の柵」(のち「巴韻の柵」と改題)「誕生の柵」、日展に「伊我良天神像」(のち「怒天神の柵」と改題)などを発表する。14回日本板画院展に郷土の作家葛西善蔵の歌をもとにした「哀父頌」を、谷崎潤一郎原作の「瘋癲老人日記板画柵」(37柵)を制作する。このころより、小林正一郎の歌による「山懐頌」を制作する。元旦、富山県の真言密宗大本山目石寺より法眼位を受ける。続いて京都嵯峨法輪寺よりも法眼位を再叙位される。5月、東横渋谷店で「第11回棟方志功芸業展」を開催。6月、松江市庁舎市民室に板壁画「鼓笛の柵」(「宇宙頌」と同じもの)を完成、同市公会堂で記念展を開く。7月、外務省の委嘱でローマ日本文化会館へ「華狩頌」「柳緑花紅頌」を送る。大原総一郎がその母寿恵子33回忌追善のため、棟方板画による私家本『大原寿恵子歌集抄』(「大原頌」と改題)を刊行。この年『国際写真情報』に4月より6回にわたり版画の講義を連載する。「伊我良天神像」(5回日展)「風舞の柵」「巴舞の柵」(5回日本現代美術展)「悲しき父」(「哀父頌」のこと)(14回日本板画院展)昭和38年 日展に「貝族の柵」、日本国際美術展に「恐山の柵」を発表する。1月、南米チリで日本大使館主催で「棟方志功展」を開催する。外務省製作の映画「日本美術と工芸」の版画部門を受け持ち、その制作状況を撮影される。つづいて八戸市の郷土芸能えんぶりを見るため帰省する。2月、東京国立近代美術館で現代日本版画名作展が開催され、「天妃乾坤韻」(「工楽頌」の別名)が陳列される。3月、東横渋谷店で第12回棟方志功展開催。このころ、駿河銀行岡野喜一郎頭取より現代の東海道五十三次版画の制作依頼を受け、4月より取材に着手、翌39年3月まで7回の取材旅行を行う。5月、石川県加賀市片山津温泉よしのや旅館の板壁画完成する。11月、倉敷市国際ホテルの大板壁画「乾坤頌―人類より神々へ」(栄航―滋航の2柵、のち「大世界の柵―坤」と改題)が完成する。同月、倉敷市大原美術館に棟方板画館落成する。10月、長野、富山両市で個展を開催。この年、藍綬褒章を受ける。「貝族の柵」(6回日展)「風韻の柵」(14回選抜秀作美術展)「恐山の柵」「巴韻の柵」(7回日本国際美術展)「楽妙の柵」(15回日本板画院展)昭和39年 「道標の柵」「讃々の柵」「天網の柵」「賜顔の柵」などを制作、「東海道棟方板画」62柵を開板する。1月、皇居の御歌会始に招かれる。同月、弘前市民文化会館の緞帳「御鷹を揚げる妃達々」の原板画を作る。2月、伊勢神宮に奉献する倭画「富士山」「不二山」を完成。3月、棟方ギャラリー、東横渋谷店より白木屋日本橋店に移る。同月、虎の門の国立教育会館に「柳緑花紅頌」による板壁画四面完成。4月、「雲をかたどる十二妃達」(横浜新駅用原板画)を作る。首相官邸の貴賓室に「柳緑花紅頌」屏風を制作。10月より翌年3月にかけて朝日新聞社主催の「棟方志功板業代表作展」を東京、名古屋、鹿児島、熊本、広島、大阪、仙台、山形で開催する。中央公論社より自伝『板極道』、朝日新聞社より『東海道棟方板画』を刊行。「賜顔の柵」(7回日展)「道標の柵」(6回日本現代美術展)「湧然する女者達々」(15回選抜秀作美術展)「貝族の柵」(4回東京国際版画ビエンナーレ展)「讃々の柵」(オリンピック協賛展)「釈迦十大弟子」(東京オリンピック芸術展示)「青森の自板像」(16回日本板画院展)昭和40年 「津軽海峡の柵」、草野心平の詩による「富嶽頌」(20柵)、「弁財天妃の柵」などを制作する。他にハワイ、アメリカでの作品「ミキの首飾り」「ミキの耳飾り」「ワイキキ水泳場」「キナ撫子の柵」「胴長妃の柵」などを制作し、東急日本橋店の「滞米展・近作展」に出品する。1月、日本の木版画に尽くした功績により昭和39年度朝日文化賞を受ける。2月、セントルイスのワシントン大学の招きで渡米し、4月まで日本版画を講義する。その間、ダートマス大学より名誉文学博士号を受ける。6月帰国。イタリア芸術院より名誉会員に推される。紺綬重飾褒章を受ける。「津軽海峡の柵」(8回日展)「富嶽頌」(朝日賞受賞記念展)「道標の柵」(16回選抜秀作美術展)「積丹の歌」「揉足の柵」(「キナ撫子の柵」を改題したもの)(17回日本板画院展)昭和41年 日本現代美術展に「乳願の柵」を出品する。倭画「富士十題」などを制作。倉敷・大原美術館「棟方板画館」に出陳するため、「追開東海道棟方板画妙黛屏風」(8曲1双64柵)を完成する。7月14日、脳血栓で倒れる。秋ごろより制作再開。岩崎美術社より草野心平詩、棟方板画による『富士山』を刊行する。11月、河井寛次郎死去。「乳願の柵」(7回日本現代美術展)「追開東海道棟方板画妙薫屏風」(大原美術館棟方板画館陳列)「賜顔の柵」(17回選抜秀作美術展)昭和42年 日本国際美術展に「津軽三味線の柵」(4柵)、日展に「巴礼寿の審判の柵」(のち「審判の柵」と改題)「砂山の柵」「誓刻の柵」などを発表する。日本板画院より名誉会員に推される。10月、アメリカのクリーブランド市のメイ・カンパニー主催による「棟方志功板画屏風形体ワンマンショー」のため渡米。続いてニューヨークのブルックリン美術館、ワシントンのスミソニアン美術館でも展示。翌43年1月末帰国。4月、東京・新宿の紀伊国屋ホールでの劇団民芸公演「ヴィシーでの出来事」(アーサー・ミラー原作)の美術を担当する。「巴礼寿の審判の柵」(10回日展)「津軽三味線の柵」(9回日本国際美術展)昭和43年 日本現代美術展に「手に負う者達々の柵」、日展に「御志羅の柵」(のち「飛神の柵」と改題)を発表。他に「安於母利妃の柵」「立つ者々の柵」「湧く者々の柵」(のち「湧然美神の柵」と改題)「撫生子の柵」「釈迦三尊の柵」「合浦の柵」などを制作。大阪万国博のための大板壁画「大世界の柵」の制作に着手する。7月、大原総一郎死去する。「手に負う者達々の柵」(8回日本現代美術展)「飛神の柵」(11回日展)「ハドソン落日の柵」(18回日本板画院展)昭和44年 日展に「東北風の柵」を出品したほか、「光明の柵」「烏帽子鷹妃の柵」「大世界の柵 乾 」を制作。縦2.4メートル、横13.5メートルの大作で、8月に完成し、翌年3月から開催された大阪万国博の日本民芸館に展示した。2月、青森市名誉市民第1号とその称章を受ける。3月、伏見稲荷大社新儀式殿に七面の倭画大壁画を完成する。6月、アメリカCBC放送の要望により、アポロ11号月着陸宇宙放送のため「月三題」の墨絵半折を描く。10月、青森市文化センターの板壁画「華狩頌」「宇宙頌」の除幕と同館開館記念の「青森名誉市民棟方志功作品展」を開催。同月、朝日新聞社主催による板芸業四十周年記念「棟方志功障壁画展」が東急日本橋店で開かれる。講談社より『棟方志功板画大柵』、弘前・緑の笛豆本の会より『哀しき父と悲しき母の物語』刊行。「東北風の柵」(1回日展)「道標の柵」「海山の柵」(9回日本現代美術展)「円空造仏の柵」(19回日本板画院展)昭和45年 安川電機より委嘱のカレンダー用の「西海道棟方板画」に着手。日展に「第九の祭柵」(「亦楽窓頌板画柵」ともいう)、友人の竹内俊吉のために「竹内俊吉句板頌」などを制作。1月『棟方志功板画大柵』と「板芸業40年記念障壁画展」に対し、第11回毎日芸術大賞を受ける。4月、名古屋・名鉄百貨店で「毎日芸術大賞受賞記念棟方志功展」を開催。6月「西海道棟方板画」(表紙とも13柵)開板。11月3日、文化勲章を受賞、文化功労者に指定される。講談社より『棟方志功芸業大韻』を刊行。「第九の祭柵」(2回日展)「大世界の柵 乾 」(万博日本民芸館展)「釈迦十大弟子」(20回日本板画院展)昭和46年 日展に「八甲田山の柵」「名久井鷹妃の柵」「十三の詩の柵」などを制作する。9月、「続西海道棟方板画」を完成、日比谷公会堂の緞帳原版画「空海頌」、マニラのアジア開発銀行会議室タピストリー壁画の原板画「輝躍の柵」などを制作。2月、沖縄タイムスの招きで沖縄本島、八重山群島に旅行し、沖縄で浜田庄司、芹沢銈介と三人展を開催。5月から朝日新聞社主催の文化勲章受章記念展を東京、大阪、福岡、熊本、青森、名古屋、広島で開催する。8月、陸奥新報社創刊25周年を記念し、「棟方志功ねぶた」(弘前式の扇ねぶた)を作る。10月、東奥日報社制定の第1回佐藤尚武郷土大賞を受ける。10月、九州工業大学明専会館に壁画「安川第五郎翁韻頌図」を制作する。この月から著書『板極道』をもとにしたテレビドラマ「おかしな夫婦」が半年にわたり放映る。「八甲田山の柵」(3回日展)「モウッコ面・大世界の柵」(21回日本板画院展)昭和47年 八曲半双の大作「厖濃の柵」を発表する。2月から3月にかけ、草野心平らとインドを旅行し、この旅行から想を得て、板画「厖濃の柵」、倭画「厖茫濃膿図」、油絵「大印度厖濃図」をはじめ、スケッチを含め百余点を制作する。インド独立25周年を祝して、10月、東急日本橋店で外務省、インド大使館後援で「棟方志功芸業頌厖濃展」を開く。5月、30年ぶりの油絵写生の旅を信州に行い、70余点の作品を得る。6月、四国に取材した「南海道棟方板画」13柵完成。講談社より『大和し美し』を複刻刊行。また、この年同じく講談社より浜田益水の写真集『写真棟方志功』『日本の名画・棟方志功』が刊行された。「厖濃の柵」(棟方志功芸業頌厖濃展)「沙羅苑の柵」「名碑苑の柵」(22回日本板画院展)昭和48年 1月、金沢・三越で「棟方志功芸業展」開催。3月、東急日本橋店で「蘭奢待頌展」開催する。5月、芭蕉の『奥の細道』のあとを東京から北にたどり、青森まで足を伸ばして取材。この旅行での三百余点のスケッチをもとに「奥海道棟方板画」13柵のほか、板画10数点などを制作する。8月、青森に帰り、倭画「八甲田山」連作などを制作、8月末、神戸・湊川神社楠公会館の倭画大壁画を完成する。この年、日展に「華厳経の柵」春夏秋冬4柵を出品、「墨面と板業者の柵」「日本板画碑原校画の柵―地水火空」「殺生石の柵」などを制作する。9月より11月まで文化庁主催の地方巡回美術展(「近代日本の版画展」)に「柳緑華紅頌」と「工楽頌両妃散華」が出陳され、宇都宮、浜松、下館、いわきの各市を巡回。10月、財団法人棟方板画館を設立。東急札幌店開店記念として「宝門加得渡宇頌韻展」を開催。続いて旭川、釧路、阿寒を旅行する。11月、『奥の細道』の後半に当たる羽越地方を取材し、中旬、東急日本橋店で新作による「棟方志功芸業昴展」を開く。春秋社より柳宗悦の偈、棟方板画による『心偈』を刊行。「華厳経の柵」(5回日展)「日本板画碑原校画の柵 327」「千載の柵」「登利加牟渡の柵」(「墨面と板業者の柵」の別名)(日本国際美術展)「柳緑華紅頌」「工楽頌両妃散華」(近代日本の版画展)「佳宵石割桜の柵」(23回日本板画院展)昭和49年 正月全長17メートルの「禰舞多運行連々絵巻」を制作。春、武蔵野を取材し、「むさしのひめかみの柵」「深大寺鐘桜の柵」など20数点を制作、また「『わだはゴッホになる』の柵」を発表。3月、日本放送協会より放送文化賞を受ける。5月、『奥の細道』後半の新潟から大垣まで、芭蕉の足跡を取材。6月、「羽海道棟板画」13柵を制作。東急吉祥寺店開店を記念して「吉祥展」を開催。7月、志功を改め、志昴とする。3月より8月まで毎日映画社制作の記録映画「彫る」の撮影続く。9月、鎌倉市津1182-4(鎌倉山旭ヶ丘)に棟方板画館開館。10月18日渡米。ダラスのサザン・メソジスト大学、ミシガン州のクランブルック美術アカデミー、ニューヨークのジャパンソサエティー、セントルイスのワシントン大学で講演と木版画制作のデモンストレーションを行う。ニューヨークでリトグラフ20数点を制作。この旅の途中、10月末に脳貧血で倒れ、ニューヨークで静養。12月2日帰国し、直ちに慈恵会医科大学付属病院に入院する。12月、志昴を再び志功に改める。この年、日展に「捨身施虎の柵」出品。夏、最後の板画制作品「墓碑銘」を作る。この年、平凡社より『称舞多運行連々絵巻』原寸複刻版を刊行。「捨身施虎の柵」(6回日展)「讃々の柵」(24回日本板画院展)昭和50年 3月、NHK放送開始50周年記念切手「観聞の柵」発行。同月、日展理事、4月、日展常任理事となる。同月、毎日映画社の記録映画「彫る-棟方志功の世界」完成。4月退院、自宅で療養を続ける。5月下旬、旧作「瞞着川板画巻」から13点を選び彩色、51年度安川カレンダーとする。まとまった仕事としては、これが最後の作品となる。9月13日、東京・杉並区の自宅で肝臓癌のため死去。戒名は華厳院慈航真海志功居士。従三位を追贈される。11月16日、青森市市葬。11月17日、青森市に棟方志功記念館が開館。10月31日より6日間、東急日本橋店で昭和42年と49年の2度の滞米中に制作したリトグラフ34点を展示した「棟方志功石版画展」を開催する。この年、集英社より『現代日本の美術・棟方志功』刊行。昭和51年 9月、朝日新聞社より板画の主要作品を網羅した『棟方志功板業集』を刊行。9月10日より年内にかけて棟方板画館、朝日新聞社の主催で「棟方志功展」が東京・名古屋・大阪・京都・横浜・札幌で開催。

中川雄太郎

没年月日:1975/04/10

版画家中川雄太郎は、4月10日死去した。享年65歳。明治43年静岡市に生れ、県立庵原中学校を卒業した。昭和8年第8回國画会展、同年第3回日本版画協会展より出品し、昭和13年日本版画協会々員となった。昭和18年より同20年迄静岡県清水女子商業学校、並に静岡城内高等女学校図画教員をつとめた。昭和19年より同21年迄静岡県庵原郡西奈村助役に就任し、同22年農地調整法に依り不耕地主より文具小売商に転じた。日本版画協会々員、國画会版画部会員、静岡県版画協会々員、静岡市美術展審査員で、そのほかきつつき会、童土社(静岡)、七凡社(静岡)等にも関係をもつ。なお、戦前には版画誌「ゆうかり」を編集し、著書に「版画手帖」(昭和24年)がある。

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