本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





前田政雄

没年月日:1974/03/27

日本版画協会、国画会版画部の会員であった木版画家前田政雄は、明治37年12月4日、北海道函館市に生れた。大正13年川端画学校洋画科を修了し、油絵を梅原龍三郎に、版技術を平塚運一に学んだ。日本版画協会、国画会版画部に作品を発表、昭和5年国際美術協会展で「支笏湖」が受賞、又国画会展では昭和14年「房總海辺」で褒状、翌15年には「黒猫」「大海」で奨学金を受賞している。その他、聖徳太子奉賛展、大調和展、日本水彩画展にも作品を発表していた。自宅は東京都世田谷区。

木和村創爾郎

没年月日:1973/11/06

木版画家、木和村創爾郎は、明治33年1月松山市に生れた。本名正次郎。大正13年京都市立絵画専門学校を卒業、昭和17年東京に居を移し、翌年から版画に転向し、21年第1回日展に「霊廟好日」、第14回版画協会展に「浅草観音」また20回国画会展に「浅草観音内陣」の版画を出品、版画家として活動をはじめた。以後、毎年日展に出品、また、25年からは光風会展に作品を毎年出品している。33年からは、日展、光風会、日本版画協会の各展覧会が出品の場となっている。44年には2月から11月迄渡欧、巴里に滞在し、ル・サロンに出品し「帝釈峡」が同展で受賞した。45年再び渡仏、ル・サロンで「蝶々夫人の家」で受賞、46年4月3回目の渡欧で、各地を写生し、ル・サロンで「Lopera」が受賞した。47年4回目の渡欧、ル・サロンで「Cast’s Angero」が金賞となり、同展の無鑑査待遇となった。48年、30年に亘る全作品集製作を企画、作製に当り8月刊行となったが惜しくも11月逝去した。自宅は東京都葛飾区。主要作品は、「霊廟好日」(21年)「海辺麦秋」(25年)、「野ばらの園」(26年)、「ステンド・グラス」(31年)、「連峰妙義」(33年)、「帝釈峡」(39年)、「蝶々夫人の家」(41年)「Cast’s Angero」(47年)等。

初山滋

没年月日:1973/02/12

日本童画家協会会員・日本版画協会名誉会員の初山滋は、2月12日午後0時5分、肺炎のため東京・板橋区の日大板橋病院で死去した。享年75歳。明治30年7月10日東京浅草に生れた。本名繁蔵。浅草田原町田島小学校を卒業、まもなく染物屋に奉公、染物下絵で才能を示し、明治44年井川浩崖に弟子入りして風俗画や挿絵の指導をうけた。大正8年以後、北原白秋、浜田広介、小川未明らの児童文学興隆期に、その童謡・童話集の装釘、挿絵に幻想的抽象的な画風で名声を確立した。また、昭和5年頃から木版画の制作もはじめ、個展や日本版画協会展で作品を発表した。昭和35年には、スイス、ルガノ国際版画展に出品した。42年6月、童画「もず」(至光社絵本)で国際アンデルセン賞の国内賞を受けた。41年には紫綬褒章、45年には勲四等旭日小綬章を受けた。

深水正策

没年月日:1972/10/14

享年72才。版画家深水正策は1900年9月28日長野県木曽福島の母の郷里で生れた。上智大学中退後アメリカに渡ってコロンビア大学とハーバード大学に学び、またヨーロッパにも渡って6年を過した。太平洋美術会に属する。1957年ごろから10年間余にわたって銀座・渡辺木版画店のサロンで毎月一回版画懇話会を上野誠と主催して版画研究に尽力した。太平洋画会でも版画を指導。主要作品「ピノキオ」(ドライポイント)、「真夏の夜の夢」(エッチング)、「死の灰」「黒い雨」(木版)。他に翻訳および青少年向伝記小説集の著作がある。1967年現在で北多摩郡狛江町狛幼稚園、代々木東京高等服装女学院に勤務。親友には故人となった荻島安二、中村義男がいた。なお、雑誌「全線」第5巻7月号(1964年)に自筆略歴の記載がある。

川上澄生

没年月日:1972/09/02

国画会会員、日本版画協会会員の木版画家川上澄生は9月1日午後零時40分、心筋こうそくのため宇都宮市の自宅で死去した。享年77才。川上澄生は本名を澄雄、明治28年(1895)4月10日に横浜市に生まれ、青山学院高等科を卒業、同級生に木口木版画家合田清の長男弘一がいた関係で木版画に興味をいだき、中等科卒業のころ木下杢太郎(大田正雄)の戯曲集「和泉屋染物店」の木版12絵(絵・杢太郎、彫、伊上凡骨)に接して木版を試みようと意図し、また同時期には竹久夢二の作品に深く魅了された。大正6年から7年(1917-18)、父のすすめで渡米したカナダのビクトリアからシャトル、アラスカを放浪したが、大正10年、栃木県立宇都宮中学校の英語教師となり、大正13年(1924)第4回国画創作協会に素描を出品、昭和2年(1927)には日本創作版画協会会員となった。また昭和5年(1930)から国画会展に出品を続け、昭和17年(1942)同会同人に推挙されている。昭和2年に発表した作品「青髯」は棟方志功をして版画に志ざさせたとつたえられているが、初期には19世紀西洋風俗を題材としたものが多く、昭和10年代になると新村出著「南蛮広記」などの影響をうけて南蛮紅毛を主題とした作品が現われる。明治開化の情趣、南蛮紅毛の異図趣味をもつ詩的な作風はその自作の詩とともに多くの愛好家に親まれていた。年譜明治28年(1895) 4月10日、神奈川県横浜市に父川上英一郎、母小繁の長男として生まれる。明治34年 東京市牛込区富士見小学校尋常科に入学。明治35年 東京府立青山師範学校附属小学校に転入学。明治40年 青山学院中学科に入学。明治45年 中等科を修了、青山学院高等科に入学、このころ渋谷の合田清の木口木版アトリエをしり版画に興味をいだく。大正5年 青山学院高等科を卒業。友人4人とコーラスグループをつくり、芸術座の舞台裏の合唱、新国劇の手伝いなどをする。大正6年 父の所用もかねてカナダのビクトリアへいき滞在する。大正7年 3月、シアトルへ行き日本人経営のペンキ店に傭われる。アラスカの鮭罐詰工場の製造人夫に契約する。10月、スケッチブック数冊を持ち、帰国する。大正8年 日本看板塗装株式会社に入社、3月退職。日本橋の羅紗問屋暮日商店直輸部に入り、英文手紙などの仕事をする。大正10年 栃木県立宇都宮中学校英語教師に就職、教諭心得。野球部副部長(のち退職するまで野球部長をつとめのちに栃木県中学野球の功労者として表彰された)。大正12年 12月、宇都宮市郊外姿川村鶴田に家屋を新築し、「朴花居」と名付ける。大正13年 11月、第4回国画創作協会展に素描「春の伏兵」を出品。大正15年 3月、第5回国画創作協会展に木版「初夏の風」「月の出」出品。昭和2年(1927) 自画自刻自摺の木版詩画集『青髯』(限定33部、詩4篇を含む)を出版。第6回国画創作協会展に木版画「風船乗り」「秋の野の草」「煙管五本」「蛇苺」を出品。日本創作版画協会会員となる。昭和3年 3月、英語教員の免許を取得、栃木県立宇都宮中学校教諭となる。昭和4年 『春日小品』『夏日小品』(限定50部)、『ゑげれすいろは』(限定50部)。昭和5年 『ゑげれすいろは』(詩、版画二冊、やぽな書房)。昭和6年 『伊曽保絵物語』(未製本)。恩地考四郎、前川千帆らと卓上版画展を開催。この年、日本創作版画協会は日本版画協会と改称。昭和8年 第8回国画会展(以下、国展)に「静物」「陸海軍」出品。版画雑誌『版芸術』第17号川上澄生特集。昭和9年 国展:「本と時計と畑管」。『変なリードル』(版画荘)。昭和10年 国展:「静物A」「静物B」。アルファベット順英単語によせた詩と絵『のゑげれすいろは人物』(版画荘)昭和11年 国展:「人力車二台」「人力車三台」。『少々昔噺』『りいどる絵本』(版画荘)、『ゑげれすいろは静物』(不明)。昭和12年 国展:「裏表」「静物」「和洋風俗着せ替へ人形」。昭和13年 国展:「風景」「風景」。小坂千代と結婚。昭和14年 国展:「とらむぷ絵に寄せて」。『とらんぷ絵』(民芸協会)。2月長男不尽生まれる。昭和15年 国展:「黄道十二宮」「士官一人兵士十八人」。『伊曽保の譬ばなし』『らんぷ』(アオイ書房)。昭和16年 国展:「じゃがたらぶみ」。『じゃがたらぶみ』(民芸協会)、『文明国化従来』(アオイ書房)。昭和17年 国展:「御朱印船」、国画会同人に推挙される。『安土の信長』、『横浜懐古』(民芸協会)、『御朱印船』(日本愛書協会)、『南蛮船記』。2月長女ふみ生まれる。3月栃木県立宇都宮中学校を退職する。木活字の制作をはじめ800字余をつくる。昭和18年 国展:「南蛮船記」「安土の信長」。『しんでれら出世絵噺』(日本愛書会)、『黒船館蔵書票集』(黒船館)、『南蛮好み天正風俗』『いろは絵本』を制作。『幻灯』『南蛮竹枝』『いんへるの』(るしへる版)、『明治少年懐古』(明治美術研究所)、『時計』(日本愛書会)、栃木県警特高係より出頭を命ぜられる。昭和19年 国展:「南蛮国人物図絵」「たばこ渡来記」。『へっぴりよめご』『とらんぷ絵』『山姥と牛方』『黄道十二宮』『蛮船入津』昭和20年 3月、北海道胆振国勇振郡安宅村追分の妻の実家へ疎開、4月次女さやか誕生。6月白老郡に転居。8月、北海道庁立苫小牧中学校嘱託となる。『明治調』(はがき版5葉)。昭和21年 第20回図展:「いんへるの」「西洋骨牌」。『ゑげれすいろは』(富岳本社)、『兔と山猫の話』(柏書店)昭和22年 国展:「にかるの王伝」。『あいのもしり』(憲法記念展出品)、『えぞかしま』『にかるの王伝』、『瓜姫』、『長崎大寿楼』、『横浜どんたく』(日本愛書会)、『二人連』。昭和23年 国展:「ぱんとにんふ」。12月、教え子たちの招請により宇都宮へ帰る。栃木県立宇都宮女子高等学校講師となる。昭和24年 国展:「南蛮人図」。11月、第1回栃木県文化功労章を受賞。昭和25年 『平戸幻想』、『銀めんこ』、『川上澄生作蔵書票作品集』昭和26年 国展:「蛮船三艘」。『はらいそ』。3月アマチュア版画家による純刀会を結成、これを主宰する。昭和25年 国展:「静物」「鶏」。『少年少女』(手彩色木版画と文)。昭和28年 国展:「悪魔も居る」。詩画集『洋灯の歌』、『ゑげれすいろは人物』『新的列子』『ランプ』(竜星閣)。昭和29年  国展:「静物」。『少々昔噺』(竜星閣)。昭和30年  国展:「さまよえるゆだや人」「洋灯と女」。『あだんとえわ』、『あびら川』、『あいのもしり』(札幌青盤舎)。昭和31年 国展:「蛮船入津」。『遊園地廃墟』、『我が詩篇』(竜星閣)。昭和32年 国展:「静物」。昭和33年 国展:「着物だけ」。『えぞがしま』(青盤舎)、『大寿楼』『二人連』(吾八)。昭和34年 国展:「静物」。『伊曽保の譬絵噺』(改版)、『版画』(東峰書院)。2月、出版記念会を開き、白木屋にて川上澄生版画展を開催する。昭和35年 国展:「アマゾン女人図」。『スタンダード第一読本巻一抄訳』(亜艶館)。昭和36年 国展:「美人国」「蘭館散策図」。『雪のさんたまりあ』、『長崎』。昭和37年 国展:「風景的静物」。『ぱんとにんふ』(吾八)、『蛮船入津』。昭和38年 国展:「東印度会社之図」。『瑪利亜十五主義』昭和39年 国展:「南蛮諸国」。昭和40年 国展:「南蛮諸国」。『南蛮諸国、上・下』(吾八)、『青髯』(吾八)、『洋灯と女』(亜艶館)、『アラスカ物語』(日本愛書会)。昭和41年 国展:「偽版えぞ古地図」。『蛮船入津』(中央公論社)、『北風と太陽』(吾八)、『平戸竹枝』。昭和42年 国展:「蛮船」。『新版明治少年懐古』(栃木新聞出版局)、『いまはむかし』(青園荘)、『横浜』(吾八)。11月、勲四等瑞宝章を受ける。昭和43年 国展:「横浜海岸通り」。『明治調十題』(栃木新聞社)。昭和44年 国展:「箱庭道具」。『履歴書』(吾八)。昭和45年 国展:「偽版古地図」、『南蛮調十題』(栃木新聞社)。昭和46年 国展:「泰西人物」。『あだんとえわ』(栃拓)、『澄生全詩』(大雅洞)、『女と洋灯』(栃拓)、『澄生硝子絵集』(吾八)。昭和47年 国展:「絵の上静物」。『街頭人物図絵』(吾八)。4月、妻千代死去する。9月1日死去。美達院光誉彩澄居士。(出品作品:「」、出版:『』)

吉田政次

没年月日:1971/09/19

日本版画協会会員の木版画家吉田政次は、9月19日午後6時7分、胃ガンのため東京新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年54才。大正6年(1917)3月5日、和歌山県有田郡に生まれ、昭和9年(1934)に和歌山県立耐久中学校を卒業し、翌年上京、川端画学校に学び、昭和11年(1936)東京美術学校西洋画科に入学し、昭和16年(1941)に同校を卒業した。翌17年現役兵として中支に派遣され、昭和21年(1946)帰還し、同年東京美術学校研究科に入り、翌22年同科を修了した。昭和24年(1949)日本版画協会第17回展に木版画「働く父子」を出品、以後、毎年出品し、昭和27年同会会員となった。また、昭和25年(1950)、モダンアート協会が創立された第1回展に招待出品、同28年にモダンアート協会会友、翌29年会員に推挙されたが、昭和37年(1962)同会を退会した。両展に作品「静」シリーズ、「空間」シリーズを発表して注目され、昭和30年(1955)スイス・ルガーノ国際版画ビエンナーレ展に出品、31年(1956)スイス・チュリッヒ国際版画展に出品など国際展でも活躍し、昭和32年(1957)東京国際版画ビエンナーレ展において新人賞を受賞、昭和44年(1969)には、スペイン、バルセロナ市で開催された第8回ホアン・ミロ賞国際素描展に「門」を出品して大賞をうけた。作品略年譜昭和24年 「働く父子」昭和24年 「生の果て A、B」昭和26年 「若き交り A~D」「争い」「二人」「バレリーナの夢 A、B」昭和27年 「静 1~6」昭和28年 「静 19~32」昭和29年 「静・残されたもの 51~61」昭和30年 「静・残されたもの 66~68」「清楚(女優S・H嬢の映像)」「清楚(バレリーナM・T嬢の映像)」「団結・友愛・出発・建設」昭和31年 「森の精」「地の泉 1~4」昭和32年 「作品、新しき出発」昭和33年 「雷」昭和34年 「相対性絵画NO.5」「無限NO.2-3」「空間2~8」昭和35年 「静寂」「空間」昭和36年 「空間NO.5」「昔NO.6」昭和38-39年 「空間NO.21~39」昭和40年 「壁の中の白NO.4~5」「空間 50」昭和41年 「壁の中白NO.6」「空間 52」昭和42年 「除夜の鐘NO.1~2」「余韻NO.2」昭和43年 「躍動する心NO.1~5」

勝平得之

没年月日:1971/01/04

木版画家で、もと日本版画協会会員であった勝平得之(本名・徳治)は、1月4日、胃ガンのため秋田市立総合病院で死去した。享年66才。勝平得之は、明治37年(1904)4月6日、秋田市で代々紙漉と左官を職とする家に生まれた。少年時代は家業を手伝い、後年、その紙に版画を摺ることとなったが、大正10年(1921)に浮世絵版画をみて、版画にひかれ、独習して同年末に墨摺りの木版画をつくり、秋田魁新聞に投稿、発表した。しだいに独学で多色摺り木版技術を習得し、秋田十二景の連作に着手、昭和3年(1928)、第8回日本創作版画協会展に「外濠夜景」「八橋街道」二点が入選した。 このころ木村五郎について木彫技術を学び、秋田風俗人形、秋田犬などを製作して生計をたてながら木版画をつくり、以後、卓上社版画展(昭和4~5)、日本版画協会展(昭和6年以後)、国画会展(昭和6~18)、光風会展(昭和9~31)、帝展・文展(昭和6年以後)にそれぞれ出品した。終始、郷土秋田の風物・風俗を題材として地方色豊かな作品をつくり、昭和26年秋田市第1回文化賞、昭和29年秋田魁新聞社文化賞、昭和37年河北文化賞をうけた。代表作に、つぎのようなものがある。「秋田十二景」(12枚、昭和3~13)、「千秋公園八景」(8枚、昭和8~12)、「秋田風俗十態」(10枚、昭和10~13)、「秋田風俗十題」(10枚、昭和14~18)、「花四題・春夏秋冬」(昭和13~14」、「農民風俗十二ケ月」(12枚、昭和24~26)、「米作四題」(昭和24~27)、「舞楽図八部作」(8枚、昭和18~24)、「祭四題」(昭和30~31)、「花売風俗十二題」(12枚、昭和35~34)、出版物に、「秋田風俗版画集」「秋田郷土玩具版画集」「雪橇」、「花の歳時記」「秋田歳時記」などがある。

河野薫

没年月日:1965/12/07

国画会会員、日本版画協会会員河野薫は12月7日肺ガンのため逝去した。享年49才。大正5年8月12日小樽市に生まれる。油彩、版画ともに殆ど独修で、日本版画協会、国展に版画を出品し、29年に日本版画協会会員に、また国画会では33年会友に、36年会員に推挙された。略年譜大正5年(1916) 8月12日小樽市に生まれる。昭和19年 日本版画協会展初入選(木版画)。昭和27年 国画会展に初入選。昭和29年 日本版画協会会員に推挙される。昭和30年 国画会第29回展で木版画「郷愁」「海の幻想」が国画会賞受賞。昭和31年 現代日本版画展出品(木版画・セリグラフ)。昭和32~33年 オレゴン東西展、ニューヨーク、シカゴ、コロンボ、ユーゴスラビア各地の展覧会、スイス、グレンヘン・トリエンナーレ展等に出品。33年国画会会友となる。昭和34年 東京養清堂画廊の他シァトル、シカゴで個展をひらく。日本版画協会展「白と黒」「突進」。昭和36年 国画会会員に推される。昭和37年 国画会36回展「椿(F)」、オーストラリヤ、ニューサウズウェールズ美術館主催の同国内巡回日本現代版画展に出品。昭和38年 国画会37回展「おとずれ」。昭和39~40年 外務省によるデンマーク、スエーデン、イタリーにおける現代日本版画展出品、又40年にはクアラルムプールの現代日本版画展出品。12月7日逝去。

川西英

没年月日:1965/02/20

国画会版画部会員川西英は、明治27年7月9日神戸市に生れた。商業学校を卒業、版画は独修ののち大正12年の創作版画協会第5回展出品から初入選となり、以後版画家としての道を歩むことになった。昭和3年には国画創作協会に版画を初出品し、7年には日本版画協会会員、10年に国画会会員となった。日本版画協会と国画会版画部の展覧会に毎年出品を続けていた。昭和24年兵庫県文化賞をうけ、晩年は「神戸百景」、「兵庫百景」の画集を刊行、関西版画界の主要作家として活動していたが、腹不通症に肺炎を併発2月20日神戸市の自宅で逝去した。享年70才。国画会版画部会友川西祐三郎は二男にあたる。なお没後版画界につくした功績に対し勲五等瑞宝章を授けられた。作品は、花が多く、室内、時に風景を描き独自な様式をみせていた、ことに、全画面を埋める、強く、明るい色彩の多用は華かな飾装的効果をつよめていた。略年譜明治27年(1894) 7月9日神戸市に生れる。大正12年 第5回日本創作版画協会展に初入選。昭和3年 第7回国画会展「曲馬」初入選。昭和7年 日本版画協会会員となる。ロスアンゼルス・オリンピック芸術展出品。昭和8年 「カルメン」(四枚組)。「サーカス」パリー・ルーヴル附属図書館買上。昭和8年~11年 版画「神戸百景」(小品100枚)。昭和10年 第10回国画会展「朝顔」「室内静物」「室内洋燈」等6点出品、国画会会員となる。昭和12年 第12回国画会展「室内の静物」「温室」「新緑」「浴衣」。昭和13年 第2回文部省美術展「軍艦進水」(無鑑査出品)昭和14年 第14回国画会展「秋雑木」「栂尾紅葉」他3点。昭和16年 第15回国画会展「古道具屋」「牡丹」。昭和17年 第17回国画会展「池畔雪景」「静物」。昭和24年 11月3日兵庫県文化賞を受く。昭和26年 第25回国画会展「オーケストラ」「ダリア」サロン・ド・プランタン展「カトレア」。昭和26~36年 シカゴ、サンパウロ、ルガルノ、パリ、セイロン、チリー、アルゼンチン、ポーランド、サルバドル、モスコー等の国際美術展に出品。昭和29年 「池」(アメリカ国際版画協会の手で頒布する)。昭和33年 第32回国画会展「小春日和」「アネモネ」昭和36年 国画会35周年記念展「ノクターン」マルセーユ及シアトルでの”神戸現代美術”展「みなと」。昭和37年 2月「神戸百景」画集発行(神戸百景刊行会)。5月神戸新聞社平和賞を受ける。昭和38年 第37回国画会展「幕間」。日本中国版画交歓展「ネオン」。昭和39年 第38回国画会展「春の楽譜」。2月「兵庫百景」(神戸新聞社)画集発行。昭和40年 2月20日逝去、同日従五位、勲五等瑞宝章をうける。4月、生前自選した56点の版画を収めた「川西自選版画集」(神戸新聞社)発行。

川面義雄

没年月日:1963/08/10

版画複刻の技術者、川面義雄は、明治13年4月17日大分県宇佐郡に生れた。家は代々醸造業を営んでいたが、明治24年日本画の修業を志して上京し、東京美術学校に入学、38年卒業した。41年、審美書院に複刻模写の技術者として入社し、同年8月発行の「東洋美術大観」(大正7年7月全巻完成)を初め、同書院発行の古美術書16種の着色木版の製作に従事した。大正12年頃、原三溪所蔵の名宝の複刻模写を行い、昭和16年まで大和絵同好会、大塚工芸社、東京美術社、聚楽社大阪山中商会等の発行する美術書の着色木版の製作にたずさわっていた。更に昭和17年徳川黎明会の委嘱により同会所蔵の国宝源氏物語の複製に着手、24年中巻を完成。28年には文化財保護委員会の技術保存事業の一つとして、東京国立博物館保管の単庵「鷺」、大阪四天王寺蔵の扇面古写経の着彩木版の複製を行った。続いて29年から東京芸術大学の依頼により、再び徳川黎明会本の源氏物語の着彩木版複製に着手し33年に上・下二巻を完成した。現代における複製木版技術の第一人者で、精妙細緻な技術を大成し、昭和34年10月紫綬褒賞を授与されている。38年8月10日心臓ぜんそくの為逝去した。享年83才。

西田武雄

没年月日:1961/07/26

戦前、東京麹町に室内社画堂を経営し、夙くエッチング技法の推進普及につとめ、日本近代美術史の在野研究家として知られた西田武雄は、7月26日、昭和20年疎開したままの郷里、三重県一志郡で脳溢血のため死去した。号、半峰。享年67歳。明治27年7月11日三重県一志郡で、西田清蔵の5男として生れた。7歳の時横浜市大川福松家の養子となる。同42年横浜商業学校に入学、大正3年同校在学中、第8回文展に水彩画「倉入れ」が入選した。同7年東京本郷洋画研究所に入り岡田三郎助の指導を受けた。同10年支那旅行に出向き、上海にて天然痘にかかり2ヶ月入院、その間日本倶楽部で個展を開き、12月漢口へ出発、北京、天津、大連を経由して、翌11年8月帰国した。同14年日米ビルに画堂室内社を開き、芝川照吉、石井鶴三、木村荘八、小杉未醒、石井柏亭、田辺至、岡田三郎助、中沢弘光らの個展を催した。同15年6月丸善と共同主催にて燕巣会第1回展を開いた。昭和2年燕巣会第2回展を開く。同年日米ビルより麹町に移転した。同5年木星書院より「エッチングの描き方」を発行した。同6年「西田武雄デッサン集」を出版。「アサヒグラフ」へ正木不如丘作「第二診察簿」にエッチング挿絵を描く。同7年雑誌「エッチング」を創刊。同8年「画工志願」を出版、同10年「アサヒグラフ」(25巻10号)へ「回顧70年明治初期洋画」を執筆する。同13年4月麹町室内社画堂にて旧草土舎展を開く。また5月には銀座資生堂画廊にて岸田劉生展を開催し、7月には広山インキ株式会社を設立した。同14年一ツ橋高商図書館の蔵書票をエッチングで作製した。「みづゑ」419号に「岡田三郎助」を書く。同20年室内社画堂戦災に遭い郷里三重県一志郡に疎開、農家に居住した。妻女と別居し、以来郷里の新聞雑誌に寄稿、孤独を紛す為各地の知友にハガキ絵或いは狂歌を書き送った。同27年「アトリエ」9月号に「日本美書考」を執筆。この年1月1日よりハガキ絵と狂歌の普及を志して精励し、同36年7月26日没するまで、その発送のハガキ(7月23日発送の分が絶筆)が26,744通に達したという

前川千帆

没年月日:1960/11/17

日展会員、日本版画協会相談役前川千帆は、11月幽門狭窄の手術ののち心臓衰弱のため17日逝去した。享年72才。本名重三郎。明治21年10月5日京都市に、石田政七の三男として生れた。同37年、父が死亡し、母方の親戚前川の姓をつぎ、関西美術院に学び浅井忠、次で鹿子木孟郎に3年間師事した。明治45年春上京、北沢楽天の東京パック社に入社、この頃から漫画に筆をとりはじめる。大正4年京城に渡り京城日報に勤め、更に6年東京に帰えり読売新聞、国民新聞社に勤務し、しばらくジャアナリズムの仕事に従っていた。大正8年第1回日本創作版画協会展に出品の頃から木版画の創作活動に入ったが、同時に新聞雑誌の挿絵、連続漫画も盛んに描き、「あわてものの熊さん」などで漫画家としても知られてもいた。版画は、版画協会展のほか、帝展、春陽会に出品する他、多くの版画と同じく、頒布会、或は小部数の出版による発表が非常に多い。各地を旅行したが特に中部から東北地方を愛したようで、東北地方の素朴な娘たちや温泉風浴、静かな風景を好んで描いている、其他、工場や、近代都会風俗を扱ったもの、草花図の類も少くないが、いずれも、木版の軽快な味を生かし、のどかで屈託のない画面をみせている。戦後は日展と日本版画協会展に出品していたが、35年「日版会」の創立に加わり、日本版画協会を退会し、相談役となったばかりであった。作品略年譜大正8年 第1回創作版画協会展に「病める猫」出品大正9年 第2回創作版画協会展に「雪の木場」出品昭和11年第4回創作版画協会展に「温泉(別所)」「郊外風景」その他出品、会員となる。以後同会には毎回出品する。昭和12年 関東大震火災にあい、再び読売新聞社に入社、連続漫画「あわてものの熊さん」を執筆、以後晩年まで、新聞、雑誌に漫画、挿絵、などをかいている。昭和2年 第8回帝展で初めて版画が受理されることになり「国境の停車場」を出品。昭和6年 第12回帝展に「屋上展望」第9回春陽会展「登山軌道」など出品。また新に、日本版画協会創立され、会員として加わり以後毎年出品。昭和16年 「浴泉譜」20回完成。「雑草」50回完成。その他「鰊場の女」「赤い手袋」等多数制作昭和17年 第7回文展「紙漉場」、新版画展に「庄内の女」「かくまきの女」その他出品。昭和19年 第9回文展に「訓練」出品、「続浴泉譜」20回完成昭和20年 4月、岡山県久米郡に疎開する昭和25年 第4回日展に「浴泉(第二)」出品。「花うり女」「梅林」その他。4月疎開先から上京、杉並区に居住昭和28年 第7回日展「温泉宿の二階」出品。他に「浴泉裸女」「踊り子」など昭和35年 日展会員となる。又日版会を創立したため日本版画協会を退会し、以後同会の相談役となる。10月4日幽門狭窄のため新宿の女子医大病院に入院、10月28日手術、11月6日再手術を行うも心臓衰弱のため17日逝去した。

瑛九

没年月日:1960/03/10

油絵・版画・写真の各部門で早くから前衛的な活動の軌跡を残してきた瑛九(本名杉田秀夫)は3月10日心臓障碍のため没した。1930年代の初期スュルレアリスム運動の一端としてフォトグラム、フォトデッサンに新鮮なヴィジョンを展開し、後エッチング、ついでリトグラフおよび油絵制作にもたずさわった。略年譜明治44年 4月28日宮崎市、眼科医杉田直の次男として生れる。大正14年 日本美術学校入学、1年で退学。昭和2~3年 美術雑誌「アトリエ」「みずゑ」等に美術批評を寄稿。昭和5~8年 写真雑誌「フォトタイムス」に写真および写真批評を発表。昭和9~10年 油絵制作に専念。昭和11年 新時代洋画展同人となる。この時から瑛九の名を用いる。外山卯三郎氏の手によりフォトデッサン作品集「眠りの理由」を出版。昭和12年 自由美術家協会創立参加、第1回展にフォトモンタージュ5点発表。第2回展をブリュツケ画廊で開催。昭和14年 宮崎市で個展開催。昭和15年 この頃から作品を制作しても発表しない。昭和24年 美術団体連合展、自由美術家協会展に出品。自由美術家協会展出品油絵作品「正午」「街」「コレスボンド」「出発」。昭和25年 10月上野松坂屋で第1回フォト・デッサン展を開く。第14回自由美術家協会展出品作品「海」「小さき生活」「キッサ店にて」。昭和26年 1月宮崎市商工会議所でフォト・デッサン展を開く、この時「瑛九後援会」がつくられ、パンフレット「芸術家瑛九」が出版される。2月宮崎県教育会館で個展開催。8月宮崎より上京。浦和市に住む。新樹会に出品。第2回フォト・デッサン集「真昼の夢」出版。油絵「妻の像」「雲と水」等製作。昭和27年 3月神田タケミヤ画廊でフォト・デッサン展。11月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。3月エッチング集「小さな悪魔」「不安な街」を出版。デモクラート美術家協会第1回展出品。昭和28年 8月神田タケミヤ画廊でエッチング展開催。「鳥夫人」「道のプロフィル」などエッチング多数制作。昭和29年 8月神田文房堂で油絵展開催。油絵「赤い輪」「駄々つ子」フォト・デッサン、エッチングを多数制作。昭和30年 1月高島屋でフォト・デッサン展、4月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。昭和32年 4月タケミヤ画廊でリトグラフ展、6月宮崎市図書館ギャラリーで個展開催。第1回国際版画ビエンナーレ展にリトグラフ作品「旅人」「日曜日」出品。他にエッチング多数制作。昭和33年 5月武生市公会堂でリトグラフ展、8月大阪白鳳画廊で泉茂とリトグラフ展開催。油絵「丸1」「丸2」「午後」等制作。昭和34年 10月発病入院。11日埼玉県大宮小学校での現代日本洋画展にリトグラフ出品。油絵「黄」「翼」等制作。昭和35年 2月銀座兜屋画廊で個展開催。3月10日心臓機能不全のため神田淡路町同和病院で逝去。参考文献 久保貞次郎「淡九のフォト・デッサン」(みずゑ542 昭和25年12月)、長谷川三郎「手紙」(みづゑ552昭和26年8月)、滝口修造「瑛九のエッチング」(美術手帖74 昭和28年10月)針生一郎「瑛九-われを異色作家とよぶ」(芸術新潮11-3 昭和35年3月)滝口修造「ひとつの軌跡―瑛九をいたむ―」(美術手帖173 昭和35年5月)、オノサト・トシノブ「瑛九の芸術」(現代の眼66 昭和35年5月)。以上主として国立近代美術館「4人の作家」展(4月28日―6月5日)目録によった。

川瀬巴水

没年月日:1957/11/07

木版画家川瀬巴水、本名文治郎は、大田区の自宅に於て胃癌のため逝去した。享年75歳。明治16年5月18日東京市芝区に生れた。14歳の折、川端玉章門下の青柳墨川に、のち更に荒木寛友について日本画を学んだが、両親の反対で一両年で中絶、家業の組糸業に従事していた。その後家業衰微し、26歳のとき鏑木清方のすすめで葵橋の旧白馬会研究所に通い、洋画の基礎を学び、約2年後、清方の許に入門した。この間岡田三郎助を知りその指導をうけている。巽画会、烏合会の展覧会に出品受賞したこともあるが、大正7年、伊東深水の木版画「近江八景」をみて版画に興味をおぼえた。たまたま、渡辺版画店の知遇を得て、新版画創作の情熱を抱いていた両者は協力して新作に努めることとなつた。大正7年「塩原おかね路」「塩原畑下り」「塩原塩釜」3点の木版画を同店から初めて出版した。当時、主として洋画家系の唱える自画、自刻、自摺の創作版画運動に対し、浮世絵以来の伝統的木版技術を現代に生かそうとして、橋口五葉、伊東深水、巴水等の新様式の版画が生れたのであつた。この年以来巴水は版画作成をめざし、しかも風景画一途の制作に入つていつた。全国を旅行し、作画し、処女作以来木版画出版467点に及んでいる。昭和28年、文化財保護委員会により、木版技術保存のため制作記録を作成、永久保存することとなり、巴水は「増上寺の雪景」を制作、その間の記録がとどめられた。なお版画出版は殆ど渡辺版画店であつたが、「伊せ辰」「川口酒井合版」など他の版元からの出版もある。没後の33年、全作品、日記、制作日誌を含む「川瀬巴水」(楢崎宗重著 渡辺版画店発行)が出版される。作品略年譜大正7年 「塩原おかね路」「塩原畑下り」「塩原塩釜」の3点を初めて渡辺木版画店より出版。大正8年 「塩原あら湯路」「伊香保の夏」等仙台、十和田湖方面に旅行。大正9年 房州、金沢、塩原へ旅行、「旅みやげ」第1輯完成、「松島桂島」「石積む船」「井頭残雪」等、版画家としての地位を確立する。大正10年 関西、北越地方旅行、「旅みやげ」第2輯完結。「谷中の夕映」「宮嶋晴天の雪」等。第1回新作版画展ひらき39点出品。大正11年 九州へ旅行。「日本風景選集」36枚の大作にかかる。「雪の増上寺」等。白木屋で第2回新作版画展。大正12年 関東大震災で写真帖188冊すべて焼失 関西以西へ長期写生旅行に出る。大正14年 雑誌「日本及び日本人」の東京復興百景に20図をかく。唯一の美人画「ゆく春」を描く。大正15年 東北地方旅行。「日本風景選集」完成。昭和3年 四国、九州へ旅行。「池上本門寺」「星月夜(宮島)」等。昭和5年 郷土会15回展で巴水版画展を行い、127点出品。「馬込の月」等。昭和6年 「日光華巌の滝」「中禅寺歌ヶ浜」。昭和7年 東北、北海道に旅行。第3回現代創作版画展に97点出品。近代浮世絵版画展に74点出品。米国トレード博物館日本版画展に出品。昭和8年 「日本風景集東北篇」24図完成。日本美術協会第93回展「冨士川の夕」(銅賞)。「松島材木島」「奥入瀬の秋」。この年から翌年にかけ、肖像画を思いたち、多くのスケッチをする。昭和10年 「平泉中尊寺」「薩捶峠の冨士」この頃から数年間不調の時代つづく。昭和14年 朝鮮に旅行「扶余落花巌」「平壌の春」。昭和19年 塩原に疎開「吉田の冨士」(大判)。昭和23年 帰京、池上に居住、日本橋三越で巴水肉筆展開く。昭和25年 気分転換のため2、3役者絵を制作。昭和28年 記録の措置を講ずべき無形文化として木版技術の記録保存が計画され、制作者に選ばれる。昭和30年 銀座松屋の現代版画五人展に加わる。昭和32年 「平泉金色堂」(絶筆)。楢崎宗重「川瀬巴水」(渡辺版画店出版)により作成。

旭正秀

没年月日:1956/11/24

旭正秀(号泰弘(やすひろ))は明治33年5月6日京都で生れた。大正7年京都府立第二中学校卒業後、東京朝日新聞社に入社し、昭和5年迄在勤した。その間、川端画学校に学び、版画家を志し、日本創作版画協会に出品をつづけ、大正11年同会々員となつた。昭和6年以後は同会の後身である日本版画協会の会員であつた。大正10年9月、小泉癸巳男等と雑誌「版画」を創刊、(後に「詩と版画」と改題)大正14年迄継続した。15年、素描社を創立。のちに「デッサン社」と改名したが、版画と素描の展観、雑誌「デッサン」の刊行など、啓蒙、普及、指導に力をそそいでいた。なお、昭和5-7年、9年-10年、11年-12年と3度外遊し、外務省、文部省後援による現代日本版画展の開催委員として活躍した。作品発表は日本版画協会のほか、春陽会、文展などであるが、むしろ版画の普及、紹介に尽力していた。著書も多く「大津絵」「日本の版画」「日本版画の技法」「開化の横浜絵」などがある。

織田一磨

没年月日:1956/03/08

石版画家織田一磨は、3月8日心臓麻痺のため東京都武蔵野市の自宅で逝去した。享年75歳。明治15年11月11日東京に生れ、洋画を川村清雄、石版を金子政次郎に学んだ。明治31年大阪の実兄織田東禹のもとに同居、翌32年京都新古美術展に初めて作品を発表し、「観桜の図」が1等褒賞となつた。その後、36年に上京する迄、毎回同展に出品、受賞している。上京後は川村清雄等のトモエ会に作品を発表し、また複製石版をはじめた。42年、山本鼎、石井柏亭等の雑誌「方寸」の同人に加わり、創作版画の運動をおこし、石版による創作版画を確立した。明治44年から再び東京をはなれ、大阪で帝国新聞社などに勤務していた。大正4年帰京、代表作の一つである「東京風景」「大阪風景」など情緒豊かな連作石版を発表した。また、大正7年には山本鼎、戸張孤雁等と我国最初の綜合的な版画団体、「日本創作版画協会」を組織し同展で活躍するほか、文展にも作品を送つていた。官展では、はじめ水彩、テンペラ画を出していたが、昭和以後は石版画を専門とした。昭和5年、さらに銅版、石版画家の結集を促し、洋風版画協会を設立するなど、新版画発達のためにつくした功績は大きい。昭和8年頃から登山を好み、山の作品が目立つて多くなつた。戦後は、日展出品依嘱者として第7回展から出品、晩年は仏画風の石版を同展に発表していた。題材は風景から花鳥、仏画に及んでいるが、堅実な写実をもとに、時代の雰囲気をつたえた、抒情豊かな風景石版にすぐれた作品が多い。また、浮世絵版画を好み、「北斎」「浮世絵十八考」「浮世絵と挿絵芸術」等著書も数冊に及んでいる。略年譜明治15年 11月11日東京芝に生れた。明治31年 大阪東区の実兄織田東禹と同居。明治32年 京都新古美術展に「観桜の図」出品、1等褒賞。以後34年迄毎年入選受賞する。明治36年 東京に移る。「水彩画法」「水彩画手本」刊行。明治37年 トモエ会に「停車場」「温室」等出品。明治38年 諸方の依頼により複製石版を作る。明治40年 第1回文展に「日光山の奥」出品明治42年 第3回文展に「憂鬱の谷」出品。「方寸」同人、「パンの会」会員となる。明治44年 大阪帝国新聞社に、森田恒友とともに入社。6月、中山太陽堂広告部に入社。大正2年 この頃から浮世絵の研究に着手。大正3年 第1回二科展に「河岸」出品。大正4年 第2回二科展に「竹林遠望」出品。日本水彩画会審査員となる。大正7年 山本鼎等と日本創作版画協会を組織する。「東京風景」石版連作20枚完成、「大阪風景」の制作に着手。大正8年 第1回帝展「近郊秋景」出品。大正13年 山陰旅行の途にのぼる。大正14年 松江赤山に版画研究所開設。石版画「松江大橋雪夜」。大正15年 第7回帝展に「彼女等の生活」(テンペラ)出品。「北斎」「浮世絵十八考」刊行。昭和3年 第9回帝展に「たそがれ」(石版)出品。画集「銀座」刊行。昭和5年 銅版、石版作家に呼びかけ洋風版画協会を設立。第11回定展「セメント工場」(石版)出品。画集「新宿風景」「浮世絵の知識」刊行。昭和6年 吉祥寺に現在のアトリエを新築。「浮世絵と挿絵芸術」出版。昭和7年 「東京近郊八景」(石版)。昭和8年 武蔵野雑草会をつくり、又登山に興味をもち、山の作品多くなる。昭和11年 文展招待展に「山頂雨後」出品。この年から文展無鑑査となる、以後毎年出品。昭和12年 第1回新文展に「横笛」出品。昭和13年 第2回文展に「山小屋の暁」出品。昭和14年 第3回文展に「蔵王の精華」出品。昭和20年 3月富山県に疎開。昭和24年 2月帰京、吉祥寺のアトリエへ戻る。米国ボストン美術館に自画石版216点寄贈。昭和25年 画集「舞妓」「花と鳥」刊行。昭和26年 日展出品依嘱者となり没年迄毎年出品。昭和28年 日展に「諸行無情初転法輪流転無窮」出品。昭和29年 2月、織田石版術研究所展を東京銀座資生堂で開く。10月、東京丸ビル内中央公論社画廊で個展開催。昭和30年 高尾山仏舎利塔扉原画を描く。昭和31年 3月8日、心臓麻痺のため逝去。

恩地孝四郎

没年月日:1955/06/03

版画家恩地孝四郎は6月3日心臓衰弱のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年63歳。品川区の高福院で告別式が行われた。明治24年、当時裁判官の職にあつた恩地轍の四男として東京に生れた。東京美術学校に入学、洋画、彫刻を学んだが間もなく中途退学した。その頃から詩と版画の雑誌「月映」を創刊し抽象的な作品を発表、更に萩原朔太郎を中心とする「感情」の同人にも加わり、詩や版画、或は装幀にも活躍した。作品は帝展及び日本創作版画協会(後の日本版画協会)に出品していたが、まもなく帝展を離れ、版画協会で作品を発表、同会の発展には終始尽力した。また国画会版画部の会員でもあつた。大正初期以来、創作版画の振興に尽力し、また版画に於て抽象作品を描きつづけた最も早い一人であつた。木版画家であるが、フロッタージュの技法をとり入れたモノタイプの作品も多く、また製本装幀を得意として、すぐれた才能をみせた。晩年は好調で、ブラジル・サンパウロやスイスのルガルノ、或は米国に於ける展覧会に招かれて出品、大変好評であつた。略年譜明治24年 7月2日、東京府淀橋に生れた。明治42年 独乙協会中学校卒業、白馬会洋画研究所に学ぶ。明治44年 東京美術学校洋画科予科に入学。翌年彫刻部に移る。大正2年 再び洋画部に戻る。田中恭吉等と詩と版画の雑誌「月映」を創刊、既に抽象的な作品を発表する。大正3年 東京美術学校中途退学。大正4年 4月、小林のぶと結婚。6月、室生犀星萩原朔太郎を中心に同人雑誌「感情」を創刊、同誌の装幀もする。大正5年 「卓上社」展その他で版画作品を発表。画集「幸福」出版。この頃より盛んに装本の仕事を初める。大正8年 日本創作版画協会の会員となり、毎年出品する。昭和4年 昭和2年よりこの年まで帝展に出品、以後帝展を離れる。昭和6年 日本創作版画協会は発展解消して日本版画協会となり、同会々員となる。昭和11年 国画会版画部に会員として参加。昭和14年 自宅に、研究会「一木会」を作る。昭和17年 「工房雑記」「博物誌」を発行。昭和18年 エッセイ集「草・虫・旅」、版画と詩集「虫・魚・介」を発行。昭和26年 ブラジル・サンパウロ国際展に招待出品「リリック11」、スイス、ルガルノ展出品「リリック12」ほか。昭和27年 日本橋三越で個展開催。アブストラクト・アートクラブ会員となる。「日本の現代版画」「本の美術」発行。昭和28年 アメリカ、リバーサイド美術館に於ける日米アブストラクト展に「リリック29」を出品。昭和30年 サンパウロ国際展に「フォルム7」ほか5点を出品。6月3日午後自宅で没。作品は「ポエム」「フォルム」「リリック」「オブジェ」等各々数年に亘る連作のほか「山田耕筰像」(昭和15年)「氷島の著者像」(昭和18年)「或るバイオリニストの印象」(昭和22年)等木版肖像作品も多い。

上阪雅人

没年月日:1953/09/18

読み:こうさかがじん  木版画家上阪雅人は、明治10年5月12日御所書林、上阪庄次郎の三男として京都で生れた。山元春挙に師事し、19歳の折、第2回内国勧業博覧会に初めて花鳥画が入選受賞した。その後、図画教員をつとめていたが、30歳で上京し、白馬会洋画研究所で改めて洋画を学んだ。大正10年頃からは、木版による創作版画をはじめ、日本版画協会展に出品していた。また、図画教育についての関心もつよく、昭和5年の頃、文部省嘱託となり、啓明会から図画教育に関する研究の助成をえて、数冊の著述も遺している。作品は、春陽会、国画会、日本版画協会の展覧会に発表していたが、第二次大戦で罹災、全作品を焼失し仙台に疎開した。24年米国第9軍師団、ライダー司令官夫人の紹介で、ロスアンジェルスで個展を開き海外で注目される端緒となつた。25年1月上京し、26年にU・S・A・エデュケーションセンター、27年には仙台市、及びパリのチェルヌスキイ美術館で個展を開いている。晩年は抽象的傾向にうつり、墨刷の力強い作品をのこしているが、国内ではまとまつた展観の機会に乏しく、むしろ海外で好評、注目をうけていた。なお没後、31年にパリ、ニューヨーク、ウイーン、ローマ、等に於て遺作展が開かれた。

漆原木虫

没年月日:1953/06/06

版画家漆原木虫は6月6日肺臓癌のため国立東京第二病院で死去した。享年64歳。告別式は世田谷区の自宅で行われた。名由次郎、明治21年東京に生れた。早くから木版彫刻の技術に習熟しており、19歳の時渡英、1910年の日英博覧会の折にはロンドンにいて、展覧会場において木版技術の実演を行つた。その後30年間ロンドンとパリに滞在して多くの版画を作り、日本の伝統的な木版技術による作品はイギリス、フランスの愛好家に好まれた。イギリスの画家フランク・ブランギンに認められ、彼の画を木版にした。自画、自刻、自摺の作品はヨーロッパでは暖く迎えられ、鑑賞された。大英博物館の嘱託にもなつた。昭和9年日本に帰り、帰朝後も版画を作つている。日本での作品には西洋の愛好家に特に評判であつた風景にも匹敵する馬や花の静物が含まれている。それらは白から灰色を通して深い黒い列なる階調に独自の美しさをみせている。しかし赤、緑、青と色彩を効果的に用いた「椿」のような作品もある。外人に木版を教え、また戦後は米国に作品を送つて、日本よりもむしろ外国で著名な作家であつた。

合田清

没年月日:1938/05/06

西洋木版画の先覚合田清は5月6日逝去した。享年77歳。 文久2年5月7日東京赤坂に生る。明治13年兄に随つて渡仏、始め農業学研究を志望したが、当時滞仏中の山本芳翠の勧めで西洋木版の研究に転じ、パリーのサン・ニコラ工業学校の教師で木版の大家なるバルバンの工場に約5年学び、次でチリア教授の下に職工として傭はれ、その間にサロンに入選した。 滞仏中松岡寿、原田直次郎、黒田清輝、五姓田義松、藤雅三等と交遊があり、同20年山本芳翠と共に帰朝し、帰国後、山本芳翠の下絵、合田清の製版で文部省教科書の仕事をした。その頃芝桜田本郷町に山本と共同で生巧館を新築し、2階を山本の画室、階下を製版工場とし、両人共門弟を養成、山本の方は生巧館画学校と称し、之は白馬会の前身となり、合田の方は生巧館木版部と称した。当時の日本橋金港堂、及び博文館出版物の挿絵、東京朝日新聞、東京毎日新聞等の附録木版を彫つた。会津磐梯山の爆発の際は朝日新聞の依頼で、山本が大形な木版台木を携へ、現地に急行写生して持帰り、合田が二日一晩で彫上げ新聞附録としたこともあつた。その後多数の門弟を養成、同22年には印刷局の依頼で、同館より暹羅へ木版講師を派遣した。一方版下に写真を応用する技術を写真師成田常吉に依頼研究の結果写真膜転置法が考案され斯界に大進歩を促した。尚当時朝日新聞の新年附録に応学筆「猛虎図」を新聞一頁大に彫刻印刷し賞讃を博した。其後同館は麻布簟笥町、赤坂溜池、渋谷伊逹跡等に次々に移転された。同29年東京美術学校に洋画科設置されるに及び、合田は仏語の講師に就任、爾後30年間勤続し、静かな余生を送つた。著述に「西洋木版昔話」(アトリエ社版)がある。

to page top