斎藤清

没年月日:1997/11/14
分野:, (版)
読み:さいとうきよし

 郷里会津地方の風景に取材した版画で知られた版画家の斎藤清は11月14日午後8時30分、肺炎のため福島県会津若松市の病院で死去した。享年90。明治40(1907)年4月27日、福島県河沼郡会津坂下街に生まれる。同45年父の事業の失敗により北海道夕張に移る。大正10(1921)年尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出、同13年北海道ガス小樽支店の見習い職工となる。昭和2(1927)年、小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営。同4年、小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習う。同5年に一時上京したのが翌年の東京移住の契機となり、宣伝広告業のかたわら絵画の勉強を続けた。同7年第9回白日会展に「高圓寺風景」で初入選。翌8年、第1回東光会展に入選、同11年第11回国画会展に「樹間雪景」で初入選する。同年第5回日本版画協会展に「少女」で初入選。翌12年第12回国画会版画部門に「郷の人」「子供坐像」で初入選する。同14年第26回二科展に「裸婦と少女」(油彩)で初入選。同17年東京銀座鳩居堂で初めての版画個展を開催し、「会津の冬」などを発表し、叙情的な作風で注目される。同19年朝日新聞者に入社し、文字・カットなどを担当する。また、同年第13回日本版画協会展に「会津の冬 坂下」を出品して同会会員となる。戦後も日本版画協会、国画会版画部に参加。同21年第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品。また第20回国画会版画部に「会津の冬(A)(B)(C)」を出品して同会会友となり、同24年には会員となった。同26年サンパウロ・ビエンナーレに「凝視(花)」を出品して、サンパウロ日本人賞を受賞。同29年朝日新聞社を退社して版画制作に専念することとする。同31年アメリカ国務省アジア文化財団の招きで渡米。同32年第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに「館」を出品して受賞し、同年アジア・アフリカ諸国国際美術展に「ハニワ(婦人」を出品して受賞する。同34年渡仏してパリに滞在。同37年アメリカ・ニューヨークのノードネス画廊での個展のために渡米し、この頃日本版画協会を退会する。同39年ハワイ大学芸術祭に招かれてハワイを訪問し、翌年はオーストラリアに渡り、帰途タヒティに立ち寄った。同42年インド文化省主催の「斎藤清版画展」のためインドへ渡り、同44年にはアメリカ・カリフォルニアのサンディエゴ美術館での個展のために渡米。同45年東京の日本橋三越で「斎藤清墨画・版画展」を開催する。また、同年神奈川県鎌倉市に移住。同52年プラハでの個展のためにチェコスロバキアを訪問。同56年「福島県立美術館収蔵記念斎藤清展」(福島県文化センター)が開催される。同58年神奈川県立近代美術館で大規模な「斎藤清展」が開催され、初期から新作にいたる245点が出品されて制作の歩みが回顧された。同62年鎌倉を離れ、福島県河沼郡柳津町に転居する。翌63年アメリカ・オレゴン州のポートランド美術館で「斎藤清展 会津の冬とそのほかの版画」、平成3年「斎藤清-その人と芸術」展がいわき市美術館で開催され、同4年には福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展が開催された。画集には『斎藤清版画集』(大日本雄弁会講談社 1957年)、『斎藤清版画集』(講談社 1978年)、『斎藤清版画集 会津の冬』(講談社 1982年)、『斎藤清の世界』(あすか書房 1984年)、『斎藤清墨画集』(講談社 1985年)、『斎藤清スケッチ画集』(講談社 1987年)、『斎藤清画業』(阿部出版 1990年)などがあり、単行書に『私の半生』(栗城正義編 角田行夫刊行 1987年)がある。郷里・会津の冬景色を好んで主題としたほか、奈良京都など古都の風景や花鳥を題材に木版画に新境地を開いた。また、欧米に日本の伝統的木版画技法の解説、実技指導を行うなど、国際的な普及活動にも寄与した。年譜、参考文献は福島県立美術館で「斎藤清 会津の冬」展図録に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成10年版(404頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「斎藤清」『日本美術年鑑』平成10年版(404頁)
例)「斎藤清 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10573.html(閲覧日 2024-12-04)

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