本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





土肥刀泉

没年月日:1979/02/23

日展参与の陶芸家土肥刀泉は、2月23日急性肺炎のため千葉市の椎名病院で死去した。享年80。本名卓。1899(明32)年3月31日千葉県印旛郡に生まれ、1917年旧制成田中学を卒業、19年頃から陶器の試作を行い、23年千葉市へ移り独学で研究を続ける。27年東陶会創立に参加し会員となる。帝展、文展に出品し、戦後は日展に出品を続けた。50年第6回日展に「牡丹文辰砂花瓶」が入選、52年第8回日展に「釉彩花瓶」を委嘱出品、55年第11回展に審査員をつとめ「仙果文手付花瓶」を出品、58年会員となり、64年評議会員、74年参与となった。また、72年勲四等瑞宝章を受章する。日展への出品作は他に、「釉彩手付花瓶」(62年)、「琅瓷釉際花瓶」(74年)など。

加藤春二

没年月日:1979/02/15

陶芸家、愛知県無形文化財保持者の加藤春二は、2月15日老衰のため愛知県瀬戸市の自宅で死去した。享年87。1892(明治25)年2月11日愛知県瀬戸市の葵窯々元の家に生まれ、幼時から製陶に従事する。1926年二代春二を襲名、31年加藤唐九郎らと瀬戸六作展(東京ほていや)、34年には加藤作助、加藤唐三郎と阪急で三人展を開催する。40年戦没者の慰霊のための観音像を依頼され熱海伊豆山に「興亜観音」を制作する。戦後は67年名古屋松坂屋で個展を開催する。75年古瀬戸、織部焼で愛知県無形文化財保持者に認定される。また、瀬戸陶芸家協会に所属し、参与、顧問をつとめた。古瀬戸釉、織部釉による茶碗、水差し、茶入れなどの茶陶を中心に独自の作品を制作した。

大江文象

没年月日:1979/01/23

陶芸家、愛知県無形文化財保持者の大江文象は、1月23日心不全のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年80。1898(明治31)年7月23日愛知県知多市に生まれ、幼時小寺雲洞に日本画を学んだのち、北大路魯山人に師事し、独自の櫛目技法を完成する。33年第14回帝展に「黄瀬戸麦画投入」が初入選以来、帝展、文展、日展に9回入選する。麦の群生模写や特にウズラの彫絵を得意とし“ウズラの文象”として知られた。77年愛知県無形文化財保持者に指定される。また、瀬戸陶芸協会参与をつとめた。主要作品に「黄瀬戸釉麦絵花瓶」「櫛目花鳥文花瓶」「花鳥文顔血」など。

龍村平蔵〔2代〕

没年月日:1978/11/28

古代裂の研究復原者として知られる龍村平蔵は、11月28日急性心不全のため、京都市左京区の京大付属病院で死去した。享年73。本名謙。明治38年4月28日大阪市に生まれ、京都第三高等学校を卒え(文科乙類)、昭和4年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業した。この年4月より翌年8月まで、欧州各国にゴブラン織など研究のため遊学し、同9年龍村織物美術研究所を創設した。翌10年国宝調査委員会委員嘱託となり、昭和12年には東京帝室博物館の裂類(大宝相華唐草文錦、鴛鴦唐草文飾鹿文錦等)の復元、研究をはかった。昭和23年国宝調査委員となり、同25年には文化財専門審議会専門委員をつとめ、また京都市立美術大学、京都工芸繊維大学の講師となり、後進の育成にもあたった。昭和41年には宮内庁より正倉院宝物の古裂の調査を依嘱された。この年二代目平蔵を襲名し、43年には新急転長和殿「春秋の間壁面(清光)(寂光)」のタペストリーを制作し、この年さらに興善寺所蔵の(光樹対鹿錦)の復元研究及複製を完了し、複製の過程を「幻の錦」と題し、NHKTVにより放映された。46年には古代錦の研究で貞明皇后記念蚕糸学術賞を受賞した。昭和51年株式会社龍村平蔵織物美術研究所を創設し、雅号を光翔として、新作品には旧名謙に由来する象形文字「受益」の落款を織り込むことにした。

福岡縫太郎

没年月日:1978/10/22

漆工家、女子美術大学教授福岡縫太郎は、10月22日食道ガン及び肺しゅようのため東京都中野区の武蔵野遼園病院で死去した。享年78。号萍哉。明治33年9月1日東京日本橋に生まれ、昭和3年東京美術学校漆工科選科を卒業、直ちに同校助手となる。同5年、日本漆工会から派遣されベルギー、フランス、ドイツへ留学、同年助手を辞した。翌年帰国し、同7年大阪府商工技手となり大阪府工業奨励館に同15年まで勤務し、同年から同18年まで商工省工芸指導技師として勤めた。同18年、社団法人大日本工芸会(同年社団法人日本美術及工芸統制協会となる)業務部第一課長(査定課長)に就任、同21年依願退職した。戦後は、同27年通商産業技官となり工業技術院産業工芸試験所に勤務、同34年にはインドへ出張した。同35年退職後、(株)高島屋嘱託(46年まで)となり、翌36年インドへ、38年にはヨーロッパ、アラブ連合へ出張した。また、同36年女子美術短期大学、同39年東京芸術大学の非常勤講師をつとめ、同41年にはJETROからアメリカへ出張しメキシコ工芸の調査にあたり、同年女子美術大学教授となった。この間、日展、ニュークラフト展、日本伝統工芸展などに作品を発表するとともに、蒔絵工芸の指導にあたり、また文化庁文化財保護委員会専門委員、日本漆工協会理事などをつとめた。主要作品に彫漆額皿「海」(同17年)、漆器パネル「幻想」(同26年)、花クルス蒔絵盛器(同51年)などがある。

東端真策

没年月日:1978/08/23

漆工家、日展会員の東端真策は、8月23日腸閉ソクのため京都市北区の鞍馬口病院で死去した。享年65。本名新策。大正2年4月30日三重県北牟婁郡に生まれ、昭和12年京都市立美術工芸学校漆工科を卒業。在学中に同11年の文展鑑査展に「蔓草図手箱」が入選した。同22年京都漆芸創人社同人となり、のち京都漆芸朱弦会同人となる。同35年第3回日展に出品した漆スクリーン「明ける」で特選北斗賞を受賞、同38年日展委嘱となり同40年第8回日展に漆パネル「光棍」を出品し菊華賞を受賞、翌年審査員をつとめ、同42年日展会員となった。また、同38年に日本現代工芸展審査員をつとめたほか、京都府工芸美術作家協会理事、現代工芸美術協会常任委員を歴任、京都漆芸家協会に所属した。日展の出品作に「鳥たちの秋」「産卵期」などがある。

木村一郎

没年月日:1978/08/21

益子焼陶芸家木村一郎は、8月21日骨ガンのため栃木県芳賀郡の自宅で死去した。享年63。大正4年6月29日、栃木県益子町に生まれ、昭和8年栃木県立真岡中学校を卒業。卒業後、祖父の営む郵便局を手伝う旁ら益子の各製陶所で技術習得に努め、同12年京都に出て商工省陶磁器試験所に入所、水町和三郎、沢村滋郎らの指導を受けた。同15年帰郷し、翌年の国画創作協会展に「象嵌陶箱」が入選した。戦後の同21年益子に登窯を築窯、同24年には東京都工芸協会主催第2回工芸綜合展に陶筥3点を出品し一位入賞、同28年日本国陶磁展では「柿釉網目文大皿」で中小企業長官賞を受けた。同30年第4回展台陶芸展に「自釉抜絵文大皿」を出品し特選を受け、同39年には現代日本国際陶芸展に、翌年にはマルセーユ美術館主催国際陶芸展にそれぞれ招待出品をした。初期から多彩な作風を展開したが、晩年は辰砂や鉄絵の作品を専らとした。没後、同54年に宇都宮・上野百貨店で遺作展が開催された。

好川恒方

没年月日:1978/08/16

陶芸家好川恒方は、8月16日老衰のため松山市の自宅で死去した。享年95。明治16年5月6日愛媛県松山市に生まれ、一時大阪へ出たが同35年帰郷し、翌36年水月焼を創始した。大正11年、「羅漢」、「寒山拾得」が宮内省買上げとなり、同年平和記念東京博覧会に愛媛県推奨として出品、昭和3年の御大典記念美術展彫塑部に魚籃観音を、同5年の第1回愛媛県美術工芸展彫刻の部に「髪を結ぶ女」他をそれぞれ出品した。戦後は、同27年発足した愛媛県美術会による第1回県展に出品。以後同展に作品発表し審査員もつとめた。同46年松山三越で米寿記念陶芸展を開催した。青い「天神ガニ」など小動物や風景などの焼きものを70余年間作り続けた。作品は他に「江口の君」「能狸々」など。

川崎プッペ

没年月日:1978/03/30

フランス人形作家として戦後の一時期名をなした人形作家川崎プッペは、3月30日心筋コウソクのため、旅行先の奈良県桜井市長谷寺のホテルで死去した。享年73。本名恒夫。明治38年3月18日福島県白河市に生れ、大正9年東京府立工芸学校に学び、また彫刻を陽威二に指導をうけた。第7回構造社(1933)「踊り」、第8回「ロシナンテ」、第9回「張子による壁面装飾」、第11回「布による胸像」などの作品があるが、フランス人形制作で著名となった。昭和8年伊東屋での第1回フランス人形展ではじめて特選となり、昭和12年この展覧会は「すみれ人形展」と改称されるが、ここに制作の人形を発表した。そのほか舞台芸術にも活躍し、個展も開いた。また昭和15年には人形劇団を組織主宰し、その「劇団国民人形劇」は全国を慰問して廻った。戦後は専ら人形制作の指導に活躍、「のすみれ会」を主宰し、昭和51年10月には「のすみれ会第11回展」会場で、特別陳列「創作人形五十五年川崎プッペ人形展」を開いた。

浜田庄司

没年月日:1978/01/05

陶芸家、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)、文化勲章受章者の浜田庄司は、1月5日急性肺炎のため栃木県芳賀郡の自宅で死去した。享年83。本名象二。明治27年12月9日神奈川県橘樹郡で生まれ、東京府立一中在学時から工芸へ関心を寄せ板谷波山を尊敬し、波山が教鞭をとる東京高等工芸学校窯芸科に入学、大正5年卒業した。同年、在学中識った先輩河井寛次郎が在職する京都陶磁器試験場に入り、河井とともに主に釉法の研究に携わり、またこの年富本憲吉との交遊が始まった。同8年バーナード・リーチを我孫子窯に訪れ、柳宗悦、志賀直哉とも識り、翌年初めて栃木県益子を訪れ、同6年リーチの誘いにより英国まで同行、セント・アイヴスの策窯を手伝い、同11年までリーチ・ポッタリで作陶を続け、翌12年ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を開催、同13年帰国した。帰国後益子に入り(昭和6年登窯築窯)、また柳、河井らと民芸運動を起し、昭和10年代まで沖縄、山陰、東北、九州、朝鮮などに精力的に出向き民芸品調査を行う一方、作陶に励んだ。昭和4年国画会会員となり(同11年退会)、同6年月刊雑誌「工芸」の創刊に同人として参加、翌年大原孫三郎の知遇を得、同12年その寄付による日本民芸館理事に就任した。戦後の同24年第1回栃木県文化功労賞を受け、同27年には毎日新聞社の文化使節として柳、志賀とともに渡欧し各地で講演会、講習会を開いた。同28年、昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受け、同30年には、第1回の重要無形文化財技術保持者に指定され、同32年文化財専門審議会専門委員となる。同37年日本民芸館官庁に就任、同39年紫綬褒章を受け、同43年には文化勲章を受章した。また、同49年日本民芸協会会長に就任し、同年から益子の邸内に益子参考館の設立を準備、同52年開館した。著書に『自選浜田庄司陶器集』(昭和44年)、『無尽蔵』(同49年)、『窯にまかせて』(同51年)などがある。 ◆年譜明治27年 12月9日、神奈川県橘樹郡の母アイの実家で生れる。本名象二。父久三は東京芝明舟町で文房具店を営む。明治33年 溝ノ口小学校へ入学。絵と書を好む。明治37年 東京へ戻り、三田の南海小学校に転校。明治41年 東京府立一中に入学。明治43年 ルノアールの言葉を読み、工芸の道へ進む志を強くする。板谷波山を尊敬し、波山が教鞭をとる蔵前の東京高等工業学校へ進む決心を固める。写生に励み、また、書を丹羽海鶴に学ぶ。明治45年 この頃、銀座の三笠画廊で、バーナード・リーチや富本憲吉の楽焼を見て、心を惹かれる。大正2年 東京高等工業学校窯業科に入学。板谷波山に学び、先輩河井寛次郎を識る。かたわら白馬会研究所へ通いデッサンを習練。この頃、波山邸で山水土瓶を見、益子の名を知る。大正3年 光風会第3回展「風景」「裏の庭」(水彩)。大正4年 夏休みに、美濃・瀬戸・万古・信楽・伊賀・九谷・京都の窯場を巡る。帰途、京都市立陶磁器試験場に河井寛次郎を訪ね、卒業後就職する決心をする。大正5年 東京高等工業学校を卒業、京都市立陶磁器試験場に入り、河井寛次郎と主に釉法の研究に携わる。大和安堵村の富本憲吉を訪ね交遊始る。大正7年 夏、河井寛次郎と初めて沖縄へ行き、壺屋窯を訪れる。12月、神田の流逸荘のリーチ展で、初めてバーナード・リーチと識る。大正8年 5月、バーナード・リーチを千葉県我孫子窯に訪ね、柳宗悦・志賀直哉とも識る。夏、河井寛次郎と朝鮮・満州を旅し、冬は、東京麻布のリーチの東門窯を手伝う。大正9年 初めて栃木県益子を訪れる。6月、帰国するリーチの誘いにより英国へ同行。セント・アイヴスの築窯を手伝い、作陶を行う。大正10年 セント・アイヴスのリーチ・ポッタリーで作陶続く。エリック・ギルやメーレらを識る。大正11年 引続きリーチ・ポッタリーで制作。大正12年 春、ロンドンのパタソン・ギャラリーで最初の個展を催し、約80点を出品好評を得る。12月、第2回の個展(パタソン・ギャラリー)開き、年末ロンドンを発つ。大正13年 フランス、イタリア、クレータ、エジプトを経て、3月末帰国。河井寛次郎と再会して、京都五条坂の同家に2ヶ月滞在。河井寛次郎と柳宗悦を結ぶ。6月、栃木県益子に入る。12月11日、木村和枝と結婚、沖縄へ行く。大正14年 3月まで沖縄に滞在、壺屋窯で制作。12月、日本での最初の個展を銀座の鳩居堂で開く。以後、東京及び大阪で年次展を開く。4月柳・河井とともに伊勢へ旅する。その車中ともに雑器の美を称揚する運動について語り合ううちに「民芸」の造語生れる。年末、柳・河井と木喰上人の日記を追って紀州を旅する。大正15年 1月から4月まで京都五条坂の河井寛次郎方に滞在、彼の窯で制作する。益子での借間住いの制作が続き、秋から翌春にかけては沖縄壺屋窯で作陶。10月鳩居堂で個展。昭和2年 大阪の土佐堀青年会館および東京の鳩居堂で個展。年末から翌年にかけて、御大礼記念産業振興博覧会への出品物蒐集のため、柳・河井とともに、東北・山陰・九州の民芸品調査を行う。昭和3年 3月から5月、大礼博覧会出品の「民芸館」に作品を展示。11月鳩居堂で個展。昭和4年 国画会会員となる。第4回国画展、「絵高麗菓子器」他。以後同展へ出品する。4月、柳と渡欧し、5月、ロンドンのパタソン・ギャラリーで個展。リーチを訪ねたのち、欧州を巡遊し、11月帰国。帰国後、熊谷直之の依頼で買集めた英国の家具その他を東京鳩居堂などで展観する。昭和5年 1月、渡米中の柳の世話で、ハーヴァード現代芸術協会主催の日英現代工芸展に出品。4月、聖徳太子奉賛展に出品。9月益子に近村の農家を移築して住居とする。10月、大阪三越で、11月、東京鳩居堂で個展を開く。昭和6年 月刊雑誌「工芸」創刊。同人となり、しばしば寄稿する。益子の住居に三室の登窯を築く。10月、ロンドンのパタソン・ギャラリーで、11月、東京鳩居堂で個展を開く。「工芸」13号に「李朝陶器の形と絵」を執筆。昭和7年 倉敷で個展。山陰の諸窯を見学指導する。大原孫三郎の知遇を得る。秋、大阪三越と東京鳩居堂で個展。昭和8年 年末、現代日本民芸展準備のため、柳・河井と東北・九州を巡り、苗代川・竜門司などの民窯を見る。「工芸」25号に「滞英雑記」、29号に「リーチ・ポッテリー」を執筆。昭和9年 4月、来日したリーチを迎え、5月、長屋門を移築した仕事場でともに作陶。8月、柳・河井・リーチと各地を旅行する。現代日本民芸展のモデル・ルームの食堂を設計。昭和10年 「工芸」55号に「日田のせいべい壺」を執筆。昭和11年 5月、柳・河井とともに朝鮮満州を旅し、日本民芸館のために多くの蒐集をする。「工芸」68号に「河井のうけ方」70号に「新作展のこと」を執筆。第11回国画会展で棟方志功を見出す。国画会工芸部を退会。昭和12年 5月、再び柳・河井と朝鮮へ蒐集の旅。9月日本民芸館理事に就任。「工芸」75号に「陶枕」を執筆。「工芸」77号浜田庄司特輯を行う。昭和13年 「工芸」93号に「宋胡録など」を執筆。昭和14年 4月、日本民芸協会同人たちと沖縄壺屋窯を訪れ、翌年にかけて制作・蒐集・撮影などを行う。「工芸」99号に「壺屋の仕事」を執筆。「月刊民芸」創刊。昭和15年 5月、鳩居堂で富本・河井と3人展を開く。「富本憲吉・河井寛次郎・浜田庄司作品録」刊行。昭和16年 柳・河井と華北を旅行。6月、第1回現代陶芸美術展に出品。昭和17年 八室の大型登窯を築き、近村より民家を移築し、陶房・住宅・蔵などとする。昭和18年 6月、東京高島屋で河井と2人展を開く。こののち、戦争のため、旅行・展覧会など困難となるが、制作は続く。昭和22年 益子に天皇陛下を迎え、皆川マスの山水土瓶絵付をお見せする。国画会に復帰。昭和24年 第1回栃木県文化功労章を受ける。12月、日本民芸館で「陶器の技法」と題し講演。昭和27年 5月、毎日新聞社の文化使節として、柳宗悦・志賀直哉とともに渡欧。同月、富本、河井と三人展(東京高島屋)。各地巡歴ののち、8月、英国ダーティントンにおける国際工芸家会議に出席。リーチを作品展を開く。柳と北欧をめぐったのち、10月、リーチを加えて渡米。各地で講演会・講習会を催す。昭和28年 2月、柳・リーチとともに帰国。リーチを益子に迎え制作し、各地をともに旅行する。8月は、柳・河井・リーチと信州松本の霞山荘に滞在、共著「陶器の本」のための座談を連日行う。11月、大阪のリーチ・河井・浜田の3人展に出品。昭和27年度芸術選奨文部大臣賞を受ける。昭和29年 2月、柳・リーチ・河井と「陶器の本」のために房州の浜田屋に滞在。日本伝統工芸展(日本橋三越)に出品。6月、大丸神戸店のリーチ・河井・浜田の陶芸3人展に出品。東京高島屋の富本憲吉を加えた陶芸4人展に出品。昭和30年 2月第1回重要無形文化財技術保持者に指定される。昭和31年 1月、札幌・宇都宮で「益子作陶30年記念展」を開く。4月、日本民芸館本館修理のため、抹茶盌50点の領布会を、柳の書幅・河井の茶盌とともに行う。10月、名古屋松坂屋で河井と新作陶芸展を催す。12月、東京三越で作陶展。昭和32年 文化財専門審議会専門委員となる。5月、12月、大阪・東京三越で作陶展。昭和33年 4月、12月、大阪・東京三越で作陶展。昭和34年 春、佐藤惣之助碑建立のため沖縄へ旅行。この後もしばしば沖縄を訪れ、壺屋で制作を行う。7月、北海道で芹沢銈介と2人展を、また柳宗悦書軸・浜田庄司作陶展を催す。12月、東京三越で新作陶展。昭和35年 6月、札幌で柳・河井とともに3人展を行う。11月、東京三越で新作陶器店。8月、「日本人の手・現代の伝統工芸」展(東京国立近代美術館)に出品。昭和36年 10月、東京三越で「浜田庄司作品展」を開き、朝日新聞社より柳宗悦編「浜田庄司作品集」を刊行。バーナード・リーチの来日を迎え、大丸で2人展を開く。11月、大原美術館の陶器館開館式に出席。昭和37年 前年死去した柳のあとを継いで日本民芸館館長となる。昭和38年 6月、次男晉作をともない渡米、各地で講習会・展覧会を開く。ワシントン日米文化教育会議に出席。メキシコ・スペインを旅して民芸品を蒐集する。昭和39年 1月、帰国。東京三越で旅行蒐集品展、日本民芸館で海外将来品展を開く。紫綬褒章を受ける。8月、現代国際陶芸展(朝日新聞社主催、東京国立近代美術館)に出品。昭和40年 2月、三男篤哉とニュージーランドに招かれ、講習会・展覧会を催す。オーストラリアで講習会を行い、香港経由で欧州を巡遊して4月帰国。10月、岡山天満屋の日本民芸館同人展に出品。昭和41年 妻和枝をともない米国旅行。留学卒業した次女比佐子を加えて欧州を巡る。朝日新聞社刊の作品集「バーナード・リーチ」を編輯。3月、ヴェネズエラ・コロンビアでリーチ、フランシーヌ・デル・ピエール、浜田3人展開催。11月18日、河井寛次郎死去。昭和42年 秋、ミシガン大学150年祭に招かれ、展覧会を開き、名誉学位を受ける。昭和43年 春、デンマークのコペンハーゲンで個展。和枝、比佐子を同道して、セント・アイヴスにリーチを訪ねる。7月、沖縄タイムス賞を贈られ、11月、文化勲章を受ける。昭和44年 1月、台湾を訪問。香港にリーチ夫妻を迎え、沖縄各地を旅行。5月、益子名誉町民となる。11月、朝日新聞社より「自選浜田庄司陶器集」を刊行。東京三越で「浜田庄司自選展」を開く。昭和45年 大阪万国博覧会の日本民芸館館長に就任。5月、12月、例年のごとく三越で作陶展。昭和46年 2月、沖縄で芹沢銈介、棟方志功と3人展。昭和47年 5月、朝日新聞社より「世界の民芸」(共著)、12月、日本民芸館より「浜田庄司七十七盌譜」を刊行。琉球電電公社の依頼により「沖縄の陶器」を監修編輯する。5月、大阪、12月、東京三越で作陶展。昭和48年 ロンドン王立美術大学より名誉学位を受ける。4月、来日したリーチとともに輪島を旅行。8月、スコットランドへ旅行。昭和49年 2月、日本民芸協会会長に就任。秋田県角館在の白岩窯復興についての調査を依頼される。4月から5月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載。6月、大阪三越で作陶展。9月、発病し、入院療養。10月、栃木県益子の邸内に益子参考館と陶器伝習所の設立を準備。昭和50年 1月、大阪阪神百貨店、2月、岡山天満屋百貨店で「浜田庄司・目と手」展。講談社より「河井寛次郎・浜田庄司・バーナード=リーチ」刊行。4月、退院し自宅で静養。秋より制作を再会、12月、東京三越で個展。益子参考館の石倉造展示館成る。昭和51年 制作と蒐集、また益子参考館の建設を続ける。9月、日本経済新聞社より「窯にまかせて」を刊行。秋、川崎市文化賞を受く。12月、東京三越で作陶展を開く。昭和52年 4月、益子参考館開館館長、理事長に就任。東京国立近代美術館において「浜田庄司展」が開催される。昭和53年 1月5日、急性肺炎のため益子町の自宅で死去(83歳)。3月、日本民芸館で浜田庄司追悼展。本年譜は、水尾比呂志編「浜田庄司年譜」(「浜田庄司展」図録所収昭和52年、東京近代国立美術館)、並びに「浜田庄司」展図録所収年譜(昭和56年山梨県立美術館他)を参照した。

水谷美三

没年月日:1977/12/29

彫金工芸師水谷美三は、12月29日脳血センのため京都市中京区、大宮病院で死去した。享年75。雅号美興。明治35年4月12日京都市下寺町の彫金師初代水谷源治郎の子として生まれ、二代目としてその業を継いだ。昭和35年京都知事技能最優秀賞、同45年京都市長技能最優秀賞、46年労働大臣技能最優秀賞など受賞。主要作品豊川稲荷御本堂角柱根巻波に亀文彫金 大正13年 源治郎、美三京都東本願寺山門丸柱根巻唐獅子文彫金 昭和初年 源治郎、美三国会議事堂御便殿内装飾金物彫金 昭和6年 源治郎、美三京都祇園祭り山鉾蘭縁並房掛金物彫金 昭和6年~昭和13年 源治郎、美三伊勢神宮御神殿内装飾金物彫金 昭和27年 美三大阪四天王寺金堂内丸柱御旗金具(幡)錺彫金 昭和33年 美三、醒洋(3代)高野山奥院燈籠堂内舎利塔壱基彫金 昭和40年 美三、醒洋中尊寺金色堂須弥壇孔雀金物彫金2点他 昭和43年 美三、醒洋

藤原建

没年月日:1977/11/25

備前焼の作家で岡山県重要無形文化財認定者藤原建は、11月25日急性心不全のため備前市の自宅で死去した。享年53。大正13年岡山県和気郡に生まれる。本名健。昭和21年復員後陶芸を志し、同29年北大路魯山人の下で修業、翌30年築窯した。同35年日本伝統工芸展に初入選、以後連続入選し、同37年には日本陶磁協会賞を受賞、同年デンマーク日本工芸展に出品した。同39年、日本工芸会正会員となり、翌40年には一水会正会員となる。同42年、陶歴20年を記念して「藤原建作陶展」(東京日本橋高島屋)を開催して「緋襷花入」「窯変徳利」などを出品した。同45年自宅に大窯を築き、同48年には岡山県重要無形文化財の指定を受けた。なお、備前焼人間国宝藤原啓の甥にあたる。日本伝統工芸展への出品作に「備前花入」(第10回)、「備前緋襷鉢」(第14回)などがある。

宮入行平

没年月日:1977/11/24

刀匠で重要無形文化財保持者の宮入行平は、11月24日心不全のため長野県上田市小林脳外科病院で死去した。享年64。本名堅一。大正2年、祖父の代からつづく坂城町の鍛冶屋に生まれた。刀匠として出発したのは、昭和12年24歳の時で、東京赤坂の刀匠栗原昭秀の日本刀鍛錬所に入門し、翌13年の処女作が大日本刀匠協会展で名誉賞となった。同15年には同展文部大臣賞を受賞した。戦後は郷里坂城町で作刀を始め、30年の日本刀剣保存協会主催の日本刀作刀の第1回美術審査会から同34年まで連続5回にわたり“日本一”の特賞を独占し、昭和38年3月、刀匠の重要無形文化財(人間国宝)として二人目の指定となった。その作風は豪壮堅実な相州伝といわれ、特に“古刀”の地はだは風格があり、独特なものといわれる。現在では奈良県の月山貞一氏とともに刀剣では二人だけの人間国宝で、戦後を代表する刀鍛治であった。

片岡華江

没年月日:1977/10/22

蒔絵師、国の無形文化財保存技術者(螺鈿)である片岡華江は、10月22日急性心不全のため川崎市の高津中央病院で死去した。享年88。明治22年8月20日東京都台東区に生まれる。本名照三郎。同38年東京美術学校教授川之辺一朝に入門し螺鈿文様の制作をはじめ、大正元年大正天皇並びに皇后御召車内部と食堂車の鏡縁の螺鈿文様を作製、同3年東京美術学校漆工科の螺鈿彫鏤技術の講師を委嘱され、昭和18年までつとめた。この間、昭和3年東京美術学校監造御飾棚螺鈿鳳凰菊文様を作製したのをはじめ、翌4年伊勢神宮式年祭にあたり、御櫛函、轆轤函の銀平文、雲鳥文を神宮司庁の監修によって作製、同年皇太后職の依頼により東京美術学校監造紫檀造果物棚の螺鈿柘榴文様を作成、同6年には東京美術学校監造国会議事堂皇族室扉ならび御帽子台の螺鈿文様を作製した。戦後の同32年、文化財保護委員会の依頼により螺鈿技術記録を作成、同年無形文化財保存技術者に認定された。同34年第6回日本伝統工芸展出品作「螺鈿鷺之図手筋」が文化財保護委員会買上となり、同年宮内庁侍従職の依頼で壺切御剣の鞘の螺鈿を修理。同37年教王護国寺蔵重要文化財刻文脇息一基並びに彩画曲物笥一式を保存修理、同39年には国宝中尊寺金色堂の保存修理に伴う宝相華文様螺鈿を作製した。同41年勲五等瑞宝章を受賞した。

二橋美衡

没年月日:1977/09/09

彫金家二橋美衡は、9月9日脳出血のため、東京都豊島区長崎の敬愛病院で死去した。享年81。本名利平。明治29年2月6日静岡県磐田郡に生れ、同42年上京海野美盛に師事し、師没後大正10年東京美術学校金工科に入学、同14年卒業した。昭和4年第10回帝展「花鳥文様真鍮製手筥」、同11回「赤銅獅子文丸筥」同12回「黒味銅花鳥花瓶」などで連続特選となる。第15回帝展「黒味銅筒形草花文花瓶」が推薦となり、昭和16年第4回文展には「彫金花蝶文花器」を出品審査員となった。戦後は日展に出品し、没する年まで参事、審査員、評議員などを屡々つとめた。日展出品作に「彫金黒味銅毛彫象嵌秋草文香合」(依嘱出品-昭25)、「彫金打出-朝湯-壁面装飾額」(昭35)、「彫金獅子額」(昭41)、「色金皆象嵌之筥」(遺作-昭52)などがある。そのほか献上品制作(大正天皇銀婚式に際し、東京府よりの献上品銀製双鶴実大置物-大14。今上陛下御即位に際し、東京市よりの献上品吉祥置物-昭3。静岡県教育委員会より皇太子殿下御誕生に際し富士置物-昭11。)ほか。大正10年平和博出品手筥(銀賞)、同14年日本美術協会出品額面(協会賞)、などの主要作がある。

宮之原謙

没年月日:1977/08/23

陶芸作家、日展参与、東陶会会長、光風会理事の宮之原謙は、8月23日心不全のため松戸市立病院で死去した。享年79。明治31年2月9日鹿児島市に生まれた。東京麹町小学校、麻布中学を経て早稲田大学理工学部建築科に進んだが、卒業直前に胸を病んで中退し、大正13年前後川端画学校へ通い山之内高門に日本画を学び、ついで宮川香山に師事して陶芸に進み自宅に築窯した。また、板谷波山にも師事、昭和元年には神奈川県戸塚に移り築窯、翌2年には板谷波山、宮川香山らの東陶会創立に参加した。同4年第10回帝展に「鉄砂釉竹又陶製花器」で初入選、この年岡倉由三郎に印度哲学の教えを受けた。同6年第12回帝展に壁面照明「銀河」、翌年の第13回展には釉薬象嵌「十字文花瓶」で連続特選を受賞し、同8年帝展無鑑査となった。同年佐々木象堂とともに新潟陶苑を創設、以後10年間越路焼の指導を行った。昭和12年第1回文展をはじめとして、以後文展、戦後の日展の審査員をしばしばつとめた。また、同15年頃から数年間、九谷の上絵、有田の磁器大皿の研究を進め、戦後は、同21年疎開先の筑波山麓に築窯、同24年には千葉県松戸市に窯を構えた。同25年日展参事となり、早稲田大学附属工芸研究所で陶芸の指導を行い、また東京教育大学窯業科の講師を委嘱された。同31年日本芸術院賞を受賞、同33年日展評議員となり、同40年、中近東諸国に3ヶ月間陶芸研究のため渡航、同42年には欧米諸国に旅行した。同44年改組日展の理事に就任、この年、新宮殿「竹の間」の挿花用花瓶一対を制作した。同47年から49年まで毎年、ソ連、北欧、ネパール、インド、南米を旅行し、同51年には、インド、アフガニスタンを訪れた。また、同48年には日展参与となった。この間、光風会理事 、東陶会会長をつとめ制作発表を行った。代表作は他に「牡丹文窯変花瓶」(昭和13年)、「彩盛上花瓶」(昭和46年)など。なお、同51年象嵌磁「泰山木大皿」など50点の作品を郷里の鹿児島市立美術館に寄贈した。

硲伊之助

没年月日:1977/08/16

洋画家で陶芸家・日本美術会会員の硲伊之助は、8月11日午後10時42分、心臓性ゼンソクのため、石川県加賀市の自宅で死去した。享年81。硲伊之助は、明治28年(1895)東京に生まれ、慶応義塾普通部を中退して、大下藤次郎の日本水彩画研究所に学び、大正元年(1912)のヒュウザン会に参加、会員中最年少者であった。その後、二科会に出品、第1回展で二科賞を受賞。大正10~昭和4年(1921-29)フランス滞在、帰国後は春陽会、ついで二科会に出品、昭和8~10年(1933-35)再渡欧し、マティスに師事した。帰国後は、一水会の創立に参加し、戦後は美術界の民主化を唱えて日本美術会委員長に就任、また、昭和24~25年東京芸術大学助教授をつとめた。昭和28・30年と日展審査員となったが、翌32年には審査方針を批判して日展を脱退した。明るい色彩と知的な構図の近代的な作風で知られたが、昭和26年(1951)ころから陶芸に関心をいだき、三彩亭と号して陶器制作にあたり、とくに晩年は加賀市吸坂に九谷焼の制作に打ちこんでいた。略年譜明治28年(1895) 11月14日、東京市本所区に、硲文七、八重の三男として生まれる。両親は和歌山県出身、父は日本橋木村漆器店に勤務。明治42年 慶応義塾普通部入学。明治44年 慶応義塾普通部を中退する。この年、大下藤次郎の日本水彩画研究所に入所、夜間は暁星学園でフランス語を学ぶ。大正1年 10月、第1回ヒュウザン会展に「雨」(水彩)、「夕暮」「顔」「鈍き太陽」を出品。大正2年 3月、第2回フュウザン会展に「風景」(1~8)、「静物」、「デッサン」2点を出品。大正3年 10月、第1回二科展に「女の習作」を出品、二科賞を受賞。大正4年 第2回二科展「崖」「風景」。大正5年 第3回二科展「水浴」「風景」「男の顔」大正7年 第5回二科展「晴れた日(水彩)」「枯木と家」「冬の竹籔(水彩)」「鵠沼の白い橋」「池袋附近にて」「田舎」「曇り日」「エビス附近」「黄金水仙」「我孫子附近」「男の顔」「冬の田」「春」「湿れる土」「中川堤防附近」「寄りかかれる男の習作」「鵠沼風景」「畔道」「立てる男の前向」「黒い土の畑」「女の背」「竹籔」「林君の横顔(鉛筆)」「男の横顔(コンテ)」「沼に寄れる一本の樹」「冬」の26点を出品、再度二科賞をうける。大正8年 9月、第6回二科展「池袋附近(秋)」「沼の岸」「山路」「目黒にて」、二科会会友に推挙される。大正9年 9月、第7回二科展「大森近く」」「田と畑」「生麦」「肖像」「原釜にて」。大正10年 6月、父文七死去。7月、クライスト丸にて渡欧、坂本繁次郎、小出楢重、林倭衛らと同船。9月、第8回二科展「立って居る男」。パリにてアカデミー・グラン・ド・ショミエールに通う。大正12年 5月、春陽会客員となる。在仏。大正13年 ブザンソンに6カ月滞在、「村の入口(ブザンソン風景)」らを制作。大正15年 春陽会会員となる。昭和2年 4月、第5回春陽会展「ローマ時代の橋」「萎れた薔薇」「村の入口」「キャニュの秋」「マルティギュの煙突と塔」「玉葱の花」「新聞を読む女」出品。昭和3年 1月、第8回創作版画協会展に出品、4月、第6回春陽会展に、「朝着」「小みち」「松と海」「田舎娘」「マルセイユ近郊」「室内」「丘の家」「夜の祭」「巴里の一隅」などを出品。5月、フランス人ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚。昭和4年 4月、第7回春陽会展「アデリア」「フラヴィアン橋(2)」「菲沃斯」「赤い着物」「フラヴィアン橋(1)」「南仏の台所」「青縞の前懸」「黒鴨」「サロン町の時計台」「カタラン水泳場」。この年帰国、東京・本郷区駒込浅嘉町49番地に画室を新築する。昭和5年 4月、第8回春陽会展に滞欧作品を特別陳列、「南佛の農家(1)」「ニース別荘町」「松」「初夏」「アルルの女」「豌豆を剥く」「水車小屋」「南仏の星」「肉屋」「南仏の農家(2)」「少女」「サント・ヴィクトワル山」「曇り日」「露台」「篠懸の蔭」「羅馬時代の橋」「マントンの回教寺(版画)」など。11月、雑誌『セレクト』に「東洋の伝統」を執筆。昭和6年 4月、第9回春陽会展「ヴァンサンヌ公園」「金鳳花」「支那壺の花」「田舎娘」。春陽会委員となり財務を担当する。8月、伊伏鱒二著『仕事部屋』(春陽堂)を装幀。9月第1回日本版画協会展に会員として出品。昭和7年 4月、第10回春陽会展「アヴィニヨン街道」「横たわる少女」。7月、南紀芸術社刊雑誌『南紀芸術』6号の表紙を描く。10月、『コロ画集』(アトリエ社)の解説執筆。昭和8年 春陽会を退会し、8月二科会会員に推挙される。9月、第20回二科展に「金魚」出品。再渡仏し、パリにおける開催に尽力し「かえる」を出品。マティスと接触し、師事する。昭和9年 9月、第12回二科展「花つくりの家」。昭和10年 春、帰国する。9月、第22回二科展に滞欧作を特別陳列、「室より」「港」「海水浴場」「望遠鏡」「尼寺」「荷物船」「鐘樓」「漁船」「ニース海岸通り」「夕暮れ」「伊太利の労働者(石版)」「提防(石版)」「大きなパルミエ(石版)」「尼寺(石版)」「台所(石版)」「ニース海岸通り(石版)」「南佛の村(石版)」昭和11年 5月、木下孝則、木下義謙、浜地青松、川口軌外、園部香邦、硲伊之助の6名によるを和歌山市と新宮市で開催。8月、ベルリン・オリンピック芸術部門部員となる。石版画「船を漕く若者」ヒットラーの買上げとなる。9月、第23回二科展「芍菜」「夏の午後」「薄日さす地中海」「南仏の秋」。10月、二科会を退会し、12月、一水会創立に参加。昭和12年 11月、第1回一水会展「砂丘」「少憩」「鵠沼の想い出」昭和13年 11月、第2回一水会展「清宴舫(昆明湖)」「モデルと壺」「あぢさゐ」。『マチス』(アトリエ社)を出版。昭和14年 11月、第3回一水会展「閨秀画家」「鱒釣り」「磯崎」「なの花」「カーネーション」。この年、日本版画協会を退会。昭和15年 10月、2600年奉祝展「I令嬢」。同月、陸軍省嘱託として中支方面に従軍、「臨安攻略」を制作。11月、第4回一水会展「黒い帽子」「ガーベラ」。昭和16年 4月、文化学院美術部長となる。7月『ギュスタヴ・クールベ』(アトリエ社)刊。9月、第5回一水会展「燈火」。昭和17年 9月、第6回一水会展「六月の庭」。10月第5回文展に審査員として「黒服のI令嬢」。この年銀座資生堂において個展。三彩亭の号を用いはじめる。昭和18年 9月、第7回一水会展「ひまわり」。10月、第6回文展「菜園の隅」。この頃、「PIED DE VEAU」「藤」を制作。昭和19年 6月、東京美術学校油画科講師、8月、助教授となる。12月『硲伊之助近作画集』(十一組出版部)刊。昭和20年 東京大空襲により本郷のアトリエ焼失昭和21年 第1回日展「黄八丈のI令嬢」。9月、第8回一水会展「A LA CAMPAGNE」。10月、第2回日展「P氏とI令嬢」昭和22年 6月、第1回美術団体連合展「Monsieur BONATI」。12月、日本美術会委員長に就任。昭和23年 5月、第2回美術団体連合展「ビアチェンティニ氏」。9月、第10回一水会展「水仙」。第2回日本アンデパンデン展「午後のひととき」。昭和24年 5月、第3回美術団体連合展「アンゴラのセーター」。6月、新制東京芸術大学助教授と認定される。9月、第11回一水会展「O女史之像」昭和25年 7月、東京芸術大学助教授を辞任して渡仏、11月「マチス会見記」(芸術新潮)を発表、マティス展、ピカソ展、ブラック展など開催のため折衝にあたる。昭和26年 帰国、千代田区麹町1番地に移転。5月、第5回美術団体連合展「芝居がえり(春信模写)」。昭和27年 2月、第5回アンデパンダン展「九谷染付上絵羅馬サンタンジェロ城」。9月、第14回一水会展「パウロ君」。同月、『パリの窓』(読売新聞社)刊。昭和28年 10月、第9回日展「湖来」(木版)、文部省買上げとなる。昭和29年 9月、第16回一水会展「釉裏紅瑠璃桃絵皿」「呉須飴釉黍之絵皿」「九谷上絵五位鷺皿」「呉須飴釉白菊皿」「呉須色絵秋景色皿」「九谷上絵雛罌粟皿」「呉須あやめ皿」「九谷上絵双鶴松竹梅皿」「九谷上雛粟皿(黒つぶし)」「九谷上絵鳥之角鉢」「釉裏紅瑠璃絵付飴釉花見皿」「九谷上絵猿猴角鉢」。10月、国慶節出席のため中国訪問。この年三鷹にアトリエを設ける。昭和30年 9月、第17回一水会展「田の草取り」「菜の花」「草花」「箒を持つ女」(以上、陶器)。10月、第11回日展「あやめ」(木版)。『ゴッホの手紙・上』(岩波書店)刊。昭和31年 9月、第18回一水会展「染付中皿みのりの秋」「九谷上絵狗透彫菓子皿」「九谷上絵梅花香炉」「九谷上絵木蓮とふくろ図大皿」「染付飴釉木蓮図九角皿」昭和32年 9月、第19回一水会展「飛青磁角形水滴」「九谷上絵麻の菊」「吸坂手熊」「九谷上絵桜草」「九谷上絵大皿夜」「九谷上絵とくさ」「トルコ青の女」。10月、日展を脱退。昭和33年 9月、第20回一水会展「九谷上絵野草小皿五客」「九谷上絵月見草九角平鉢」「九谷上絵紅梅中皿五客」「青磁熊絵線彫中皿」「九谷染付月見草大皿」、委員回顧室に「燈火」「栗」。この年、港区麻布に移転。昭和34年 9月、第21回一水会展「山吹(九谷染付皿)」。この年、木下義謙、酒井田柿右衛門、今泉今右衛門らと一水会陶芸部を創設。世田谷区岡本町へ移転。昭和35年 9月、第22回一水会展「九谷染付中皿くちなし」「九谷染付皿の桂」「九谷染付中皿南方の島」。この年、「頬杖をつく公子」「箱根」(以上、素描)、「菊」、「レモンとガーベラ」、「黄色のオーバー」「山つつじ」(以上、油絵)などを制作。昭和36年 3月、渋谷東横百貨店にてを開催。5月、岡山天満屋において開催し「緑のマフラー」「スヰトピー(青の背景)」「スヰトピー」「早春の丘」「河口湖夕照」「馬酔木」「渓流(その1)」「渓流(その2)」。9月、第23回一水会展「九谷染付木蓮大皿」。『ゴッホの手紙・中』(岩波書店)刊。昭和37年 9月、第24回一水会展「けしの矢車草」「つばめの魚」「茄子」「菊」「新聞」(以上、陶器)。昭和38年 7月、中国へ旅行。9月、第25回一水会展「九谷上絵牡丹大皿」「九谷本窯月見草大皿」「吸坂手五位鷺皿」「頬杖する公子」(以上、陶器)。昭和39年 9月、第26回一水会展「麦秋」。11月、ヨーロッパ各地を旅行。昭和40年 4月、アルバニアに3カ月滞在、7月帰国。9月、日動画廊でを開催、「メッシ橋」「アルバニアの老人」「ポリクセニ嬢とムカイ氏の会話」「サランダの港」「ジロカステロの古い家」「糸を紡む女」「ドゥルスの眺め」「煙草畑の耕作者たち」「アルバニアの花嫁」「ドゥルスの農家」を出品。第27回一水会展「九谷上絵茄子皿」「九谷染付椿中皿」「九谷染付五位鷺角皿五客」昭和41年 9月、第28回一水会展「九谷上絵大皿農家之内部」「九谷染付大皿渓流之詩人」「九谷上絵大皿麦畑之道」昭和42年 9月、第29回一水会展「吸坂窯大皿砂丘の公子」「九谷染付上絵入大皿アルバニアの老夫人」「吸坂窯台鉢漢代石馬」「吸坂窯台鉢石牛」「吸坂窯瓢形小皿赤いブラウスの公子五客」「吸坂窯瓢形小皿もろこしとえんどう五客」「吸坂窯瓢形小皿夫婦鶴五客」「吸坂窯小判形小皿眠れるチビ公五客」「九谷上絵吸坂釉額皿閨秀画家」「九谷染付絵入額皿備前主窯趾」。11月心臓喘息の発作で入院。昭和43年 9月、第30回一水会展「吸坂窯瓢形空豆之小皿五客」「九谷呉須上絵大皿アルバニアの案山子」「九谷上絵大皿天の橋立之老松」「九谷上絵夜の椿中皿五客」「九谷上絵大皿奇妙な枝ぶりの松」「吸坂窯瓢形白菊之小皿五客」「吸坂窯小判型くちなし皿小客」。昭和44年 9月、第31回一水会展「吸坂焼九谷絵附懐石用銚子」「吸坂焼朝顔手鉢」「九谷上絵大皿長崎港の渡船場」「九谷黒釉花瓶」「九谷上絵紺青夜の月見草大皿」。『浮世絵-春信と歌麿』(日本経済新聞社)刊。昭和45年 9月、第32回一水会展「九谷上絵陶板ドウルスの農家」「九谷染付柿紅葉大皿」。『ゴッホの手紙・下』(岩波書店)刊。昭和46年 9月、第33回一水会展「九谷染付上絵富士と麦畑之陶板」「吸坂象嵌あやめ大鉢」「九谷上絵天橋立老大皿」「九谷瑠璃釉山吹大皿」。『九谷焼』(集英社)刊。昭和47年 10月、第34回一水会展「呉須上絵大皿松の幹(与謝の海を見て)」「吸坂手大皿新緑のなかのひと」「呉須上絵大皿逆光の老松」。この年、外務省主催ヨーロッパ巡回出品。昭和48年 10月、第35回一水会展「九谷上絵呉須男鹿半島ほにょ大皿」「九谷上絵奥入瀬の紅葉大皿」「九谷上絵小皿新聞五客」「吸坂手九谷上絵小菊皿」。この年、中日文化賞を受賞。昭和49年 3月、高岡市立美術館において開催され、陶磁器40点、油彩画19点、版画3点出品される。10月、和歌山県立近代美術館において開催され、陶磁器42点、油彩画45点、水彩画2点、版画17点、素描1点、ほか資料類が展示される。11月、第36回一水会展「吸坂手朝顔八寸皿」。昭和50年 10月、加賀市立図書館において開かれ、陶器29点、油彩画14点、版画3点が出品される。11月、第37回一水会展「九谷上絵鳥越村採石場大皿」「九谷上絵利根之水門角皿五客」「九谷上絵茄子之扇面皿」「九谷上絵朝之北潟扇面皿」「吸坂手栗扇面皿」「吸坂手葉紋瓢形皿五客」。昭和51年 1月、和歌山県文化功労賞を受ける。東京を引きあげて加賀市在住となる。10月、第38回一水会展「九谷上絵月見早黒釉大皿」「九谷呉須上絵老松之大皿」。『硲伊之助画集』(三彩社)刊。昭和52年 10月、第38回一水会展に遺作「室内」(1928)「Monsieur BONATI」(1947)「黄八丈のI令嬢」(1946)が展観される。

野口光彦

没年月日:1977/08/06

御所人形作家野口光彦は、8月6日肺化のう症、心不全のため、東京都文京区の氷川下セツルメント病院で死去した。享年81。本名光太郎。別号光比古。明治29年2月23日東京日本橋に生れ、人形師であった父清雲斎に師事し、三世を継承した。昭和11年2月新帝展に「村童」が初入選し、翌12年 第1回文展で「砂丘に遊ぶ子供」が特選となった。翌第2回文展「弓を持てる子供」、同第5回文展「歓喜童児」は、いづれも宮内省買上げとなった。戦前にはそのほか、サンフランシスコ、ニューヨーク各万国博覧会に商工省よりの依嘱により、「鈴を持てる子供」、紀元2600年奉祝展「八咫島童児」、全日本工芸美術展「麦風」(昭17)、第1回東京工芸綜合展「村童」、同第2回「丘上に起てる子」、興亜造形文化展「歓喜」などがある。戦後は主として日展に出品し、第3回では無鑑査出品、第5回審査員、以後は依嘱出品となった。彼は祖父の代からの人形師を継承したが、昭和初期京都御所人形の伝統の上に写実的な作風を持ち込み、人形づくりを芸術として確立した先駆者であった。幼児の動的姿態を造形化するのが得意だった。日本伝統工芸鑑査員。現代人形美術展審査員歴任。博多人形展審査員歴任。絵本「一寸法師」(共著)の著作がある。

出口尚江

没年月日:1977/07/28

陶芸家、日本伝統工芸会正会員、宗教法人大本教祭教院斎司出口尚江は、7月28日内臓しゅようのため大阪府寝屋川市の藤本病院で死去した。享年62。大正4年3月10日京都府綾部市に大本教祖出口王仁三郎の五女として生まれる。大本教本部婦人会会長、祭教院斎司のかたわら、昭和37年頃から陶芸をはじめ、石黒宗麿、金重陶陽らの指導を受け、同41年東白窯を築窯。同43年第15回日本伝統工芸展に「三彩大皿」「三彩小壺」が初入選し、同46年日本伝統工芸会正会員となった。同展への出品作は他に、「三彩大鉢」(第17回)、「三彩大皿」(第18回)、「三彩水指」(第19回)などがある。

安達直次

没年月日:1977/07/20

染色作家、日本伝統工芸会正会員安達直次は、7月20日心不全のため東京都文京区の日本医大付属病院で死去した。享年79。明治30年11月30日東京神田に生まれる。同45年伯父の伊東平五郎に染織の手ほどきを受けたのち、大正8年には紫藤玉庭、同12年桜井霞洞に師事した。昭和22年商工省主催絹製品展示会手描部門で受賞、同年結成された日本染織美術協会に参加して理事となった。同30年日本伝統工芸展に出品、翌年染織部門正会員となり、同36年には新協美術協会工芸部審査員をつとめた。同42年染芸展で振袖「光琳梅」が東京商業共同組合賞をはじめ同展で度々受賞し、東京友禅界の長老として活躍した。同52年勲五等双光旭日章を受章。主要作品に訪問着「梅林」「夕映え」(ともに日本伝統工芸展出品)など。

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