本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





和田誠

没年月日:2019/10/07

読み:わだまこと  グラフィックデザイナー・イラストレーターの和田誠は10月7日、肺炎のため死去した。享年83。 1936(昭和11)年4月10日、大阪府、大阪生まれ。幼少期より虚弱体質で家の中で絵を描くことを好んでいた。小学4年生の頃、担任を通じて政治漫画家の清水崑の作品を知り、似顔絵を描くようになる。53年、高校2年の時に国立近代美術館(現、東京国立近代美術館)で開催された「世界のポスター」展に強く感銘を受け、それをきっかけでデザイナーを志す。55年、多摩美術大学図案科に入学。同年に応募した興和新薬が行った蛙のイラストの公募で一等賞を獲得。同年に宇野亜喜良も同賞を受賞している。57年には、ポスター「夜のマルグリット」で日宣美賞を受賞。59年に大学を卒業後、ライトパブリシティに入社。その直後に煙草ハイライトのパッケージコンペで勝利し、一躍脚光を浴びる。キャノンや煙草ピースといったメーカーの広告デザインを手がける一方で、自身の絵を用いた装丁やポスター制作を積極的に行った。装丁を初めて手掛けたのは寺山修司、湯川れいこ共編『ジャズを楽しむ本』(久保書店、1961年)である。翌年には、谷川俊太郎著『アダムとイブの対話』(実業之日本社、1962年)の装丁を担当した。文章と絵を手がけた初めての絵本は『ぬすまれた月』(岩崎書店、1963年)である。ポスターでは、草月会館で開催されていた「草月ミュージック・イン」の告知ポスターを手掛けていたほか、大学生の頃から付き合いのあった印刷会社サイトウプロセスで刷っていた新日活名画座のポスターのためのイラスト制作を無償で行っていた。限られた色数ながらも、単純明快に描かれた映画の登場人物を大胆に配置し、インパクトのある画面作りを行った。この時の経験が、その後も続く、特徴をうまく捉えた肖像画の制作で脈々と受け継がれている。65年には、松屋銀座で開かれたグラフィックデザインの展覧会「ペルソナ」展に参加。68年に独立。72年に関わった遠藤周作著『ぐうたら人間学』(講談社)以降、装丁の仕事が増え、77年より『週刊文春』の表紙を40年以上手掛け、2008(平成20)年には、雑誌創刊50周年記念として、これまでの表紙を収録した『表紙はうたう』(文藝春秋、2008年)が出版された。星新一や丸谷才一、つかこうへいら数多くの作家、劇作家の本で装丁や挿絵を担当したことでも知られる。装丁や挿絵には、線画を基調としたシンプルなイラストレーションを多く用いているが、独特のゆるいタッチで描かれたコミカルな人物やキャラクターは、軽やかでありながら人目を引く。 日本で「イラストレーション」という言葉を広めたのも和田の大きな功績である。1960年代中頃から、時代にあった新しい挿絵を「イラストレーション」と呼び、それを描く「イラストレーター」と呼ばれる職能の認知を高めるための活動に尽力した。64年に宇野亜喜良、横尾忠則、灘本唯人、山下勇三らと共に東京イラストレーターズ・クラブを設立。65年に、雑誌『話の特集』のアートディレクターを務め、編集にも関わり、原稿に応じて絵の指示等も行った。ここで、作家クレジットを明記し、「イラストレーション」という言葉を意識的に使うようにした。95 年に東京イラストレーターズ・ソサエティに参加、2001年から05年まで理事長を務めた。 デザイナー、イラストレーターの仕事の傍ら、ジャズに関する記事や書籍の執筆や編集に関わり『映画とジャズ』(ビクター音楽産業、1992年)『ジャズと映画と仲間たち』(猪腰弘之と共著、講談社、2001年)等を出版している。96年6月号から97年5月号の『芸術新潮』誌面で『ポートレイト・イン・ジャズ』を連載。和田が描いたジャズミュージシャンの肖像に、作家の村上春樹が文章を寄せるというものだった。 また映画愛好家としても知られ、『キネマ旬報』等で映画に関する記事を発表する一方で、『お楽しみはこれからだ:映画の名セリフ』シリーズ(文藝春秋、1975~97年)、『ブラウン管の映画館』(ダイヤモンド社、1991年)、『忘れられそうで忘れられない映画』(ワイズ出版、2018年)等著作も多く持つ。84年には映画『麻雀放浪記』を初監督。『怪盗ジゴマ 音楽篇』(1988年) 『快盗ルビイ』(1988年) 『怖がる人々』(1994年)、『しずかなあやしい午後に』(椎名誠、太田和彦と共同監督、1997年)、『真夜中まで』(1999年)とこれまで6本の監督作品がある。 出版に関する受賞歴は61年毎日出版文化賞、69年文藝春秋漫画賞、74年講談社出版文化賞(ブックデザイン部門)、2015年日本漫画家協会賞特別賞等。ほかにも89年ブルーリボン賞、94年菊池寛賞、98年毎日デザイン賞等多数。 なお没後、作品や資料は母校である多摩美術大学のアートアーカイヴセンターに寄贈された。2021(令和3)年10月、東京オペラシティ アートギャラリーにて「和田誠展」が開催された。

勝井三雄

没年月日:2019/08/12

読み:かついみつお  グラフィックデザイナーの勝井三雄は8月12日、膵がんのため、死去した。享年87。 1931(昭和6)年9月6日東京生まれ。東京都立小石川工業高等学校建築科に在学中、哲学者、九鬼周造著『「いき」の構造』(岩波書店、1930年)を読み、デザインを志す。九鬼は、「粋」を論理的に解説するために、書籍の中でダイアグラムを用いているが、それを見た勝井は情報の視覚化の可能性を強く感じたという。51年に東京教育大学(現、筑波大学)に入学。バウハウスの造形教育を取り入れていた〓橋正人のもとで構成理論を学び、当時はまだ目新しかった写真を用いたデザインの実践のため、大学を経て専攻科に入り、デザインと写真について1年間研究をした。56年に卒業し、味の素株式会社に入社。社の広告やPR誌のデザインを手がけた。雑誌『VOU』のメンバーとも交流を持ち、それをきっかけに『ATTACK』誌面やモダンフォト等の展示で写真の発表を行なっている。58年にポスター「ニューヨークの人々」で写真とグラフィックを併用した表現を試み、日宣美賞を受賞。また59年、初期の代表作として挙げられる味の素の料理冊子『奥様手帖』を福田繁雄から引き継ぐ。この冊子制作を通じて、写真に用いるポジやネガを用いたコラージュや実験的な印刷方法を取り入れる独自のグラフィック表現を確立。61年に味の素を退社後、勝井デザイン事務所を設立。63年には、東京オリンピックのデザインプロジェクトに参加。64年からエディトリアルの原点的な体験となるエッソ・スタンダード石油のPR誌『エナジー』の総合デザインを担当する。編集者、作家である高田宏と協働で制作した。また、それがきっかけで依頼された『現代世界百科大事典』(講談社、1971年)では、アートディレクションを担当。編集に大型コンピューターに取り込み、プログラミングを用いるなど実験的な取り組みを行っている。また、限られた色だけで効果的に表現するための網点の掛け方を指定するなど、それまでに培った印刷知識とエディトリアルの経験が活かされることとなった。独自の編集的な視点は以後手掛けた全集や事典等、情報が多い書籍で十分に発揮されている。65年に、松屋銀座で開かれたグラフィックデザインの展覧会「ペルソナ」展に参加。翌年66年には、同じく松屋銀座で開かれた「空間から環境へ」展に参加した。 70年に開催された大阪万博では、日本館内での展示「統計の森オルゴラマ」、85年のつくば科学博覧会では展示「ブレインハウス」を手掛けており、ここでも万人に対する視覚伝達を空間から追及した。姫路文学館(1991年)、大分マリンカルチャー(1992年)等の色彩や展示、サインの計画に関わっているほか、自身の個展や奈良原一高「華麗なる闇 漆黒の時間」(2017年)の展示計画も行っている。 初期より最新技術から生まれるグラフィック表現に強い関心を向けた。60年代には紙幣の特殊印刷に用いる彩紋彫刻機を用いて、円や三角、四角といった単純な図形を緩やかに変形させて作る形態群「ギョームパターン」を生み出した。70年代後半にはデジタル・レイアウト・スキャナーを用いて色光「デジタルテクスチャー」を生み出した。新しい試みから生まれた表現は、数々のデザインワークで用いられている。それらは幾何学、色、光、デジタル、メデイア、ヴァリエーションといった勝井の関心が強く反映されており、そこには一貫したデザイン的趣向を見ることができる。 ブックデザインも多く手がけた。なかでも美術家の池田満寿夫の作品集は63年以降、作家が亡くなるまで継続して取り組んだ。『スペイン 偉大なる午後 奈良原一高写真集』(求龍堂、1969年) は、初期の代表的な仕事に位置付けられる。 制作で関わった代表的なシンボルマークは、東京造形大学(1966年)、国立民族学博物館(1973年)、国際花と緑の博覧会(1987年)、武蔵野美術大学(1996年)、宇都宮美術館(1997年)、文部科学省(2007年)など。 早くからデザイン教育にも関心を抱いており、61年東京教育大学に非常勤講師として勤務(~1978年)。66年に東京造形大学助教授に就任(~1971年)。1993(平成5)年に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科主任教授に就任(~2002年)、同大学名誉教授。2004年、名古屋学芸大学造形学部教育顧問就任(~2008年)。 受賞歴は72年講談社出版文化賞(ブックデザイン賞)、93年芸術選奨文部大臣賞、95年毎日デザイン賞、NY ADC賞金賞、96年紫綬褒章、98年通産大臣デザイン功労賞、04年旭日小綬章、05年亀倉雄策賞等多数。JAGDA会員、09年から12年まで会長を務める。東京ADC会員、AGI会員、NY ADC会員。 なお19年に宇都宮美術館で開催された「視覚の共振―勝井三雄」展は、勝井が生前関わった最後の個展となった。

杉本貴志

没年月日:2018/04/05

読み:すぎもとたかし  インテリアデザイナーの杉本貴志は4月5日、心不全のため死去した。享年73。 1945(昭和20)年3月31日、東京、中野生まれ。軍事関係の仕事をしていた父、母、姉二人の5人家族であった。戦時中、一度高知に疎開するが、戦後に帰京、68年に東京芸術大学美術学部工芸科を卒業。幼少期から剣道を習っており大学卒業後、一時期は調布警察署で剣道を教えていた。72年にファッションデザイナー、山本耀司による初めてのアパレルショップ「ワイズ」の内装、バー「ラジオ」の内装を手掛けた。「ラジオ」は、杉本が大学在学中に通っていたジャズ喫茶の店員だった尾崎浩司が独立して開いた店である。82年に改装後、円弧の連なりを描くように設置された照明が印象的な内装となった。重厚感のあるカウンターは彫刻家、若林奮によるもの。以後もパシュラボ(1983年)やビーイン(1984年)で同作家と協働で内装を手がけている。73年に設計会社「スーパーポテト」を設立。75年にはグラフィックデザイナー、田中一光と共に西武百貨店の環境計画に参加し、西武セゾングループのデザインディレクターとして、国内の店舗の立ち上げを行った。80年には代表的な仕事のひとつである無印良品の創立にも参加し、ブランドの思想構築から店舗の内装設計まで関わった。このプロジェクトで杉本が大事にしたのが「空間の感性」である。時代の持つ空気感を反映しながら、店舗空間自体がある種のイメージを発信できるような店づくりを試みた。そこで鍵となったのが素材選びである。人間のコントロールが及ばない素材の経年変化に面白みを見出し、1店舗目の青山店では、古民家の廃材を再利用した木、錆びた鉄板、古い工場にあった劣化したレンガなどを用いた。後に自著のタイトルにも採用した「無作為の作為」という考えをここに見ることができ、自身の創作にとって重要な言葉であったことが分かる。86年には自身が内装を手掛けた飲食店「春秋」の経営を始める。2店舗目としてオープンした春秋赤坂展(現在、閉店)では、陶芸作家、辻清明に店で使う器の作陶を依頼するなど、空間だけでなく、総合的な食体験を提供するレストランを目指した。90年代にグランドハイアットシンガポールのレストラン「Mezza9」の内装を手掛けたことがきっかけで海外での仕事が増加。その後、パークハイアット・ソウル、ハイアットリージェンシー・京都など、国内外のハイアットホテルの内装に加え、シャングリラ、ザ・リッツ・カールトンなど世界展開をしているホテルのインテリアも手がけた。そのほかの代表作に銀座グラフィックギャラリー(1986年)や成田ゴルフクラブ(1989年)、レストラン「響」(1998―2002年)、妙見石原荘(2007年)などのインテリアがある。 裏千家の伊住政和を中心にデザイナーやアーティストたちが集って茶の湯を楽しむ会「茶美会」のメンバーとして原宿クエストホールで開催された1992(平成4)年「茶美会・然」に茶室「立礼」、93年「茶美会・素」に茶室「素」を出展。2003年にはミラノサローネで行われた「MUJI Exhibition」に参加。08年にギャラリー間で個展「杉本貴志」展を開催し、水の茶室と鉄の茶室を展示した。 85年から09年までTOTOが運営するギャラリー間の運営委員として、展覧会の企画に携わった。92年から11年まで武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科の教授として後身の教育に従事。 受賞歴 1985年 ‘84年毎日デザイン賞 受賞 1985年 ‘85年インテリア設計協会 受賞 1986年 ‘85年毎日デザイン賞 受賞 2001年 Restaurant Design of the Year 受賞 2001年 国土交通大臣賞 受賞 2007年 第1回 KU/KAN賞 受賞 2008年 Interior Design Magazine Hall of Fame Awards 2008 著書は以下のとおり 『交感スルデザイン』(共著、六耀社、1985年) 『春秋』(TUTTLE PUBLISHING、2004年) 『杉本貴志のデザイン発想・発酵』(TOTO出版、2010年) 『無為のデザイン』(TOTO出版、2011年) 『Super Potato Design:The Complete Works of Takashi Sugimoto』(TUTTLE PUBLISHING、2015年) 『A life with MUJI』(無印良品、2018年)

新井淳一

没年月日:2017/09/25

読み:あらいじゅんいち  テキスタイルデザイナーの新井淳一は9月25日、心筋梗塞のため死去した。享年85。 1932(昭和7)年、3月13日、群馬県山田郡境野村(現、桐生市境野町)字関根に生まれる。祖父は撚糸業、父・金三は帯地を中心に織物業を営み、母・ナカ(仲)の生家は、当時織物業を営んでいた。 38年、境野小学校に入学する。43年、11歳の時に学徒動員が開始され、鉄製力織機の供出が行われる。44年、桐生中学校(現、群馬県立桐生高等学校)に入学。47年の夏、高校の校長として赴任してきた野村吉之助の家で、初めてインドネシアなどの民族染織に触れる。同年、台風9号(通称カスリーン台風)により、境野町が甚大な被害を受け、終戦後に父が購入した織機は損傷し、戦前期に20台ほどあった鉄製の織機はすでに供出していて、付帯設備をすべて失い、大学進学の道が断たれる。 50年、伯父の工場に入る。その後、佐々木元吉、野口勇三の元に通い、オパール加工を習得する。絹、綿、ウールなどの天然繊維による制作の傍ら、金銀糸織物の開発に励み、多くの新技法を開発し、特許権および実用新案種を取得。60年、第1回化学繊維グランドフェアで、61年度春夏用として開発した「ビーズ織」で通商産業大臣賞を受賞。60年代は、群馬大学教授・石井美治の研究所に約8年通い、オパール加工、バーンアウト(炭化除去)、メルトオフ(溶解)などの技法について研究する。66年、テキスタイルプランナーとして独立。72~87年にかけては山本寛斎、三宅一生等、国内外のデザイナーのコレクションのための素材制作を行う。83年、第1回毎日ファッション大賞特別賞、84年、第8回上毛芸術文化賞(上毛新聞社)を受賞。同年、日本民藝館の館展審査委員長に就任し、2006(平成18)年までつとめる。 80年代以降は精力的に国内外への展覧会への出品し、個展を開催する。83年、初の個展「新井淳一織物展」(ギャラリー玄/東京)を開催。特に海外への出品が続き、「Junichi Arai Textile Exhibition」(1992年、テキスタイル美術館/トロント)等数々の展覧会へ出品する。2000年以降も、「新井淳一 進化する布」(2005年、群馬県立近代美術館)等が開催され、国内外での評価が高まる。12年には、これまでの活躍をまとめた『新井淳一―布・万華鏡』(森山明子著/美学出版)が刊行される。 13年、81歳の時には国内において「新井淳一の布 伝統と創生」(東京オペラシティアートギャラリー)が開催され、足利市立美術館、町立久万美術館に巡回する。 後進の育成にも尽力し、大塚テキスタイルデザイン専門学校、多摩美術大学、宝仙学園短期大学等や、国外でもロードアイランド造形学校、パーソンズ美術大学(ニューヨーク)、中国人民大学除悲鴻芸術学院(北京)、建国大学校(韓国)、東亜大学(釜山)などで講義を行っている。また、伝統工芸の分野にも尽力しており、結城紬技術アドバイザー、群馬県桐生織の技術アドバイザーも歴任。同氏は文筆家としても活動しており、「天衣無縫」(『WWD for Japan』/全148回)等が著名である。また、染織品コレクターとしても知られている。 これらの活動が認められ、英国王室芸術協会(British Royal Society of Arts)から名誉会員に推挙され、Hon.R.D.Iの称号、またHonorary Doctoratesを03年にロンドン・インスティテュート(現、ロンドン芸術大学)、11年には英国王立芸術大学院(Royal College of Art)より授与される。 作品は地元の大川美術館をはじめ、FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館(ニューヨーク)、ロードアイランド造形大学、ニューヨーク近代美術館、フィラデルフィア美術館、V&A・ミュージアム(ロンドン)等多くの国内外の博物館・美術館に収蔵されている。

長友啓典

没年月日:2017/03/04

読み:ながともけいすけ  アートディレクター、グラフィックデザイナーの長友啓典は3月4日、膵臓がんのため死去した。享年77。 1939(昭和14)年4月8日、大阪府大阪市生まれ。58年、大阪府立天王寺高等学校卒業後、浜松の鉄工所勤務を経て上京。日東機械株式会社に入社し、バルブ検査員として働く。勤務先の社長の家に下宿中、『美術手帖』や『みづえ』等の美術雑誌や書籍を目にし、美大への進学を考えるようになる。お茶の水美術学院の夜間部で学んだ後、61年、桑沢デザイン研究所に入学。グラフィックデザイナー、田中一光に師事した。田中を通じて、早川良雄を紹介され、学校の長期休暇中、実習を行なう。ここでのちにK2を設立することになる黒田征太郎と出会う。在学中であった63年には、日本宣伝美術協会(日宣美)で入選を果たす。卒業後の半年間ほど田中のもとで働いていたところ、日本デザインセンターを紹介され、入社。山城隆一や永井一正について仕事を行なった。67年に、写真家の加納典明と制作したファッションブランド、ジャンセンのポスターで第17回日宣美賞を受賞。その作品とは蛍光赤の紙に、グレーのインクを用いて水着を着た女性の写真をシルクスクリーン印刷したものだった。粟津潔によれば、それまで協会で主流であった理論を盾に表現の適切さを説くモダニズムの系譜に乗っ取ったグラフィックとは異なり、見る者の感覚に訴える点が評価されたそうだ。しかし、亀倉雄策からは、作品が軽すぎるという指摘があった。69年には独立し、黒田とK2設立。主に黒田がイラストレーションを担当し、それをレイアウトにまとめあげるのが長友という分担であった。自身でイラストレーションを手がけた仕事も数多くある。また、この頃から商業的なグラフィックデザインの制作とは別に、実験的な表現の場を求めた活動を行い、当時の日宣美の若手メンバー、青葉益輝、上條喬久、小西啓介、桜井郁男、高橋稔で、メールギャラリーを開始。箱に作品をつめ、一方的にデザインの有識者や財界人に送りつけるという手法をとり、注目される。同名義で大日本インキ化学工業株式会社(現、DIC株式会社)の本社ビルに設けられたデザインギャラリー、プラザ・ディックでの展覧会を提案された際には、メールギャラリーのメンバーを中心に、グラフィックデザイナーの浅葉克己、インテリアデザイナーの倉俣史朗、写真家の沢渡朔、造形作家の戸村浩といった面々を加えた15名でサイレンサーを結成。同会場で69年と70年に「サイレンサー・オン・セール」と題した展示を行なった。同人の集まりのようなもので一緒に旅行をしたり、六本木に「バーサイレンサー」を開いたりなど、多彩な活動を行った。雑誌のアートディレクションやエディトリアルにも数多く携わり、『GORO』や『写楽』では、写真家の篠山紀信と組んで雑誌作りを行なった。感覚に訴える画面作りは、その時代の雰囲気を象徴する媒体ともいえる週刊誌に発揮され、『平凡』や『週刊宝石』では、表紙のアートディレクションを担当した。その他に、広告、装丁、CIと活動は多岐にわたる。自由な画面構成や手描きのタイポグラフィーは、長友のシグネチャースタイルである。アナログ感を持たせたグラフィックは、遊び心があり、親しみやすい。大阪のラジオステーションFM802のCI(1988年)やアパレルブランド、組曲のロゴタイプ(1992年)などがよく知られている仕事で挙げられ、どちらも手描き文字を基調としている。『成功する名刺デザイン』(講談社、2008年)、『死なない練習』(講談社、2011年)など、著書多数。絵本『青のない国』(小さい書房、2014年)を風木一人、松昭教共著で出版している。73年東京アートディレクターズクラブ賞受賞、74年ワルシャワポスタービエンナーレ銅賞、84年講談社出版文化賞さしえ賞などを受賞。日本工学院専門学校グラフィックデザイン科顧問、東京造形大学客員教授を務めた。

内田繁

没年月日:2016/11/21

読み:うちだしげる  インテリアデザイナーの内田繁は11月21日、膵臓がんのため死去した。享年73。 1943(昭和18)年2月27日、神奈川県横浜市に生まれる。66年桑沢デザイン研究所を卒業。69年に座り方によって椅子の形が自由に変化する「フリーフォームチェア」を制作、家具や室内空間の既成概念を問い直す姿勢を打ち出す。70年内田デザイン事務所を設立、大テーブルを採用して知らない者同士のコミュニケーションが生まれるようにした六本木のバー「バルコン」の設計(1973年)をはじめ、74年の「Uアトリエ」、77年のアパレルショールーム「吉野藤」、79年のバー「ジャレット」のインテリアを発表。「ジャレット」では、横尾忠則が描いたジャズミュージシャンのイラストレーションをタイル画にして床と腰壁に使用した。81年にパートナーの三橋いく代、西岡徹とスタジオ80を設立し、レストラン「ア タント」(1981年)、「操上スタジオ」(1983年)、バー「ル クラブ」(1985年)、季寄料理「ゆず亭」(1986年)、ショールーム「青山見本帖」(1989年)等を手がける。とくに70年代から80年代にかけて、世界的に注目を集める日本のファッションデザイナーとインテリアデザイナーが組む仕事が増える中で、内田は山本耀司のブティックを手がけ、雑多なものを排除したミニマルな空間を実現、その後の商業空間のデザインに多大な影響を与える。88年、抽象的なデザインによる椅子「セプテンバー」(1977年)がニューヨーク、メトロポリタン美術館の永久コレクションに収められる。同年毎日デザイン賞を受賞。1989(平成元)年には内田がアートディレクションを務めた博多のホテル「イル・パラッツォ」が完成、イタリアの建築家アルド・ロッシをはじめ世界各国のクリエイターが集結したことで話題を集める。またロッシとの出会いから、あらためて日本の固有文化を研究する必要性を感じ、その成果として89年に「閾 三つの二畳台目」、93年に「受庵、想庵、行庵」と題した茶室を発表、後者は95年のイタリアを皮切りに世界各地を巡回し、日本の“もてなし文化”の精神を引き継ぎながら現代の茶室をデザインしたとして高く評価された。2000年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。07年に紫綬褒章を受ける。著作も多く、主要なものとして以下の図書が挙げられる。『住まいのインテリア』(新潮社、1986年)『インテリア・ワークス 内田繁・三橋いく代とスタジオ80』(三橋いく代、スタジオ80と共著、六耀社、1987年)『椅子の時代』(光文社、1988年)『日本のインテリア』全4巻(沖健次と共著、六耀社、1994-95年)『門司港ホテル』(アルド・ロッシと共著、六耀社、1998年)『インテリアと日本人』(晶文社、2000年)『家具の本』(晶文社、2001年)『内田繁with 三橋いく代』(三橋いく代と共著、六耀社、2003年)『茶室とインテリア』(工作舎、2005年)『普通のデザイン』(工作舎、2007年)『デザインスケープ』(工作舎、2009年)『戦後日本デザイン史』(みすず書房、2011年)

佐藤晃一

没年月日:2016/05/24

読み:さとうこういち  グラフィックデザイナーで多摩美術大学名誉教授の佐藤晃一は5月24日、肺炎のため死去した。享年71。 1944(昭和19)年8月9日、群馬県高崎市に生まれる。高校在学中にグラフィックデザイナーになることを決意し、65年東京藝術大学工芸科に入学。69年同大学工芸科ビジュアルデザイン専攻を卒業し、資生堂宣伝部に入社。劇団青年座のポスターを手がけるようになり、横尾忠則の影響を受けたサイケデリックな表現が注目される。71年に資生堂を退社し、佐藤晃一デザイン室を設立。当時流行のポップアートの影響を受けながらも、その日本的な表現の可能性を探り、73年にギャラリーフジエにて初個展「アブラアゲからアツアゲまで」を開催、克明に描いた油揚げの連作を発表する。74年には蛍光色を用いてグラデーションの効果を取り入れ、箱の中の光に浮かぶ鯉をあらわした「ニュー・ミュージック・メディア」のポスターで独自の境地を開拓。その後も日本的な形態を巧みに用いながら、画面全体が光り輝くような印象を与える作品を発表する。77年第1回日米グラフィックデザイン大賞のポスター部門とエディトリアル部門で金賞受賞。翌年、劇団青年座「死のう団」等のポスター3点がニューヨーク近代美術館の永久保存となる。82年より母校の東京藝術大学デザイン科で87年まで非常勤講師を務める。88年にはニューヨーク近代美術館での「THE MODERN POSTER」展のために依頼されて制作したポスターが国際指名コンペ1席となる。1990(平成2)年には六耀社より作品集『KOICHI SATO』刊行。91年に毎日デザイン賞、98年には「武満徹―響きの海へ」告知ポスター等で平成9年度芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。一方で95年多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィックデザイン専攻(現、グラフィックデザイン学科)教授に就任し、2015年に定年退職、同大学名誉教授となるまで、主に日本的な表現の分析を柱に学生を指導する。この間、99年には高崎市美術館で「超東洋・佐藤晃一ポスターの世界展」が開催。08年にはイラストレーターの安西水丸、若尾真一郎とクリエイションギャラリーG8で「絵とコトバ 三人展」を開催、自ら詠んだ俳句とグラフィックを融合させた“俳グラ”を発表する。没後の17年に高崎市美術館で「グラフィックデザイナー 佐藤晃一展」が開催された。アメリカ文学研究者で東京大学名誉教授の佐藤良明は実弟。

榮久庵憲司

没年月日:2015/02/08

読み:えくあんけんじ  インダストリアル・デザイナーの榮久庵憲司は、2月8日洞不全症候群のため死去した。享年85。 1929(昭和4)年9月11日、東京に生まれる。父・鉄念は広島の永久寺の僧侶で、その関係で幼少期をハワイで過ごす。37年帰国。広島の海軍兵学校を出て応召、復員した後に仏教専門学校に入るが中退し、50年東京藝術大学工芸科図案部に入学する。その頃、広島に民間情報教育局のCIE(アメリカ文化センター)図書館が設置され、借り出したウォルター・ドーウィン・ティーグの『デザイン宣言』やレイモンド・ローウィの『口紅から機関車まで』などを翻訳しながら読み込み、インダストリアル・デザインを学んだ。52年同大学工芸科助教授の小池岩太郎(インダストリアル・デザイナー)のもとで、岩崎信治、柴田献一、逆井宏らとGK(Group of Koike)インダストリアル研究室を結成し、毎日新聞社が主催し初めて公募した第1回新日本工業デザインコンペティションに応募するなど、デザイン活動を始める。54年第3回同コンペで特選3席入賞、翌年第4回同コンペでは特選1席、2席、3席を受賞して注目を集めた。55年東京藝術大学を卒業してGK事務所を新宿区下落合に構える。同年ヤマハ発動機が設立され、オートバイ1号機である「YA-1」をデザインし、以降、「VMAX」等のオートバイのデザインを手がける。56年海外貿易振興会(現・ジェトロ)のデザイン留学派遣募集に合格し、ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで1年間自動車デザインを学んだ。1957年有限会社GKインダストリアルデザイン研究所を創立して代表取締役所長となり、以降、プロダクトから万博や市街地のサイン計画、「成田エクスプレスN’EX」(2009年)等、実に広域のデザイン分野で活躍するGKデザイングループを世界最大規模へと発展させた。そして、戦後の社会・生活の復興のなかで誰もが美しいデザインを享受できる「モノの民主化」「美の民主化」を原点に唱えて、野田醤油株式会社(現、キッコーマン)「しょうゆ卓上びん」(1961年)をはじめ、多数の一般家庭用の生活用具のデザインに携わる。59年建築家や都市計画家の川添登、菊竹清訓、黒川紀章らが結成したメタボリズム・グループに参加。60年東京で世界デザイン会議のテーマ実行委員長を務め、62年には日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)理事、70年理事長就任、70年大阪の日本万国博覧会でストリート・ファニチュアの統括責任を担当、1989(平成元)年名古屋の世界デザイン博覧会でも総合プロデューサーを務めるなど、戦後日本の工業デザインの牽引役となりその発展の重要な役割を担った。98年世界デザイン機構を設立し初代会長に就任。著作『道具考』(鹿島研究所出版会、1969年)や『インダストリアル・デザイン』(日本放送出版協会、1971年)を刊行するなど、こころとこと、ものとを三位一体に融合させるデザイン学や道具学といったデザインの領域を押し広げその理論の体系化や推進に尽力した。『デザイン』(日本経済新聞社、1972年)、『日本的発想の原点 幕の内弁当の美学』(ごま書房、1980年)、『道具の思想―ものに心を、人に世界を』(PHP研究所、同)、『モノと日本人』(東京書籍、1994年)等の多数の著作を発表した。人間と道具の関わりへの思いを深めて、2000年に『道具論』(鹿島出版会)を刊行し、未来へ向けたものづくり日本の精神の復権を念じた道具寺道具村建立を掲げて自らのデザイン思考を明らかにした。06年東京新宿・リビングデザインセンターOZONEで「道具寺道具村建立縁起展」開催。13年世田谷美術館「榮久庵憲司とGKの世界――鳳が翔く」展、14年広島県立美術館「広島が生んだデザイン界の巨匠 榮久庵憲司の世界展」を開催。79年国際インダストリアルデザイン団体協議会のコーリン・キング賞や93年JIDA大賞を受賞、97年フランスの芸術文化勲章、00年勲四等旭日小綬章を受章、14年イタリアからデザイン界のノーベル賞といわれるコンパッソ・ドーロ(黄金のコンパス賞)国際功労賞を受賞するなど、戦後日本のデザイン界の発展及びその国際化とともに国際的なデザイン界の振興に尽力した功績が高く評価された。

中村誠

没年月日:2013/06/02

読み:なかむらまこと  グラフィックデザイナー、アートディレクターの中村誠は6月2日、肺炎のため死去した。享年87。 1926(大正15)年5月9日、岩手県盛岡市に生まれる、生家はゴム長靴などを扱う中村ゴム店を営んでいた。幼少期に近所の薬局の店頭に飾られた資生堂化粧品のポスターに強く魅せられ、同社広報誌『花椿』の山名文夫による表紙画を模写した。33年岩手県立盛岡商業学校(現、岩手県立盛岡商業高等学校)に入学。美術部に所属、写真に興味を持ち、フォトグラムも制作する。同年秋には全国商業学校ポスター展で入選。同校在学中に生家の中村ゴム店が閉店。43年12月、同校を繰上げ卒業。44年4月東京美術学校(現、東京芸術大学)工芸科図案部に入学。主任は和田三造、担任は小池岩太郎で、2年生のときに軍の教育用図面を描く作業に動員される。46年「ニッポンルネッサンス・広告展」(日本橋・三越、主催は日本広告会)に出品。47年10月から資生堂宣伝部嘱託となり、翌年11月まで勤める。48年3月同校工芸科図案部を卒業。49年9月、資生堂に入社、宣伝部に配属。52年第37回二科展の商業美術部に出品。53年第3回日本宣伝美術会展に出品、特選を受賞、会員となる。以後68年の同会解散まで毎年出品。57年「資生堂香水」で第10回広告電通賞雑誌広告電通賞を受賞。60年ころ、写真家横須賀功光やデザイナー村瀬秀明と知り合い、新しい写真表現と印刷技術を駆使する広告制作に取り組む。63年「資生堂海外向け企業ポスター」(コスチュームは三宅一生、写真は横須賀功光)で日宣美会員賞受賞。また同年、ADC金賞、朝日広告賞、毎日広告賞など受賞して、新時代のアートディレクターとして一躍注目を浴びる。66年同社の夏用化粧品「ビューティケイク」のキャンペーンでモデル前田美波里を起用し、「太陽のように愛されよう」というコピーがヒットし社会現象となる。70年「モナリザ百微笑展」(銀座一番館ギャラリー)で福田繁雄と50点ずつの作品を展示、翌年から「ジャポン・ジョコンダ」展としてパリ装飾美術館で開催、その後アメリカをはじめ十数カ国に巡回される。76年第6回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレで「資生堂ネイルアート・資生堂フラッシュアイズ」が商業部門で金賞受賞。資生堂では宣伝部デザイン課長(1962年から)、宣伝部制作室長(1969年から)、宣伝部長兼制作室長(1977年から)、役員待遇宣伝部長(1979年から)、役員待遇宣伝制作部長(1982年から)、常勤顧問(1987年から)を務める。資生堂を離れた後はフリーのグラフィックデザイナーとなり、自然やエコロジーをテーマにした作品を多く発表した。93年紫綬褒章受章。それまでの山名文夫らによって作られた繊細なイラストレーションによる資生堂のイメージを刷新、時代を先導するブランドイメージを確立し、戦後の日本広告界やグラフィックデザイン界を牽引してきたアートディレクターとして位置づけられる。 作品集に『富嶽三十六景・江戸小紋と北斎』(凸版印刷、1972年)、『紀信と玉三郎』(凸版印刷、1973年)、『中村誠の仕事―アートディレクションとデザイン』(講談社、1988年)がある。観光文化交流センター「プラザおでって」開館にあわせて、全作品193点とコレクション200点を盛岡市に寄贈、2000年に同館の柿落としとして「中村誠ポスター展」を開催。2008年7月に萬鉄五郎記念美術館で回顧展を開催。国際グラフィック連盟(AGI)会員、東京ADC委員、JAGDA理事を歴任。「日本のポスター100年」展(銀座松屋、1968年)、グラフィックイメージ72(東京セントラル美術館、1972年)、グラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74(東京セントラル美術館ほか、1974年)などの企画展で作品が展観された。

片山利弘

没年月日:2013/01/09

読み:かたやまとしひろ  グラフィックデザイナーの片山利弘は1月9日(現地時間)、食道がんのため、米ボストン郊外の自宅で死去した。享年84。 1928(昭和3)年7月17日、画家片山弘峰の次男として大阪府に生まれる。53年永井一正、木村恒久、田中一光とデザインの研究会「Aクラブ」を結成。同年からフリーランスのデザイナーとして活動、日本宣伝美術会会員となる。このころ第2回記録映画の会「忘れられた人々と安部公房特別研究報告」(大阪・大手前会館)の告知ポスターのデザインをきっかけにして、幾何学的な基本形態(エレメント)とその規則的な変形・配置(システム)による制作手法に取り組む。50年代後半、亀倉雄策らが主催する「21の会」に参加。60年日本デザインセンターに入社、東京に転居。このころ桑沢デザイン研究所講師を勤める。63年から3年間、スイス・ガイギー製薬会社の招待を受け、バーゼルに滞在、同社でデザインを担当。65年にバーゼル、ハーマン・ミラーで個展を開催し「Visual Construction」シリーズを発表、ヴィンタートゥール、ベルン、ジュネーブへ巡回。同年、ペルソナ展(銀座松屋)に参加。スイス滞在中に、現地のデザイン雑誌『GRAPHIS』114号(1964年)に小特集で取り上げられ、また同誌124号(1966年)では表紙を飾る。66年バーバード大学カーペンター視覚芸術センターの招聘を受け、アメリカのボストンへ移住、同センターで教育とデザインを担当、以後およそ30年にわたって同大学デザイン研究科の学生を指導。68年アメリカ・グラフィック・アート協会の招待による個展をニューヨークで開催、同年ボストン、カナダ・トロントでも個展を開催。70年東京プラザ・ディックで個展「Square + Movement」を開催、マグネット付きのエレメントを金属パネルの支持体に配置することでイメージを多様に変化させる観客参加型の作品を発表。75年ボストン市の地下鉄のための環境デザインを担当、地下鉄駅に4×13.5mの壁画を制作。同年、ボストン市のArt Asia ギャラリーで個展を開催、「Topology」シリーズを発表。77年オーストリアのウィーンで芸術家協会主催による個展を開催。80年代以降、日本国内の建築家らとのコミッションワークを数多く取り組み、赤坂プリンスホテル「Homage to the crystal(大宴会場の壁面彫刻)」(1983年、建築設計は丹下健三・都市・建築設計研究所)、大原美術館新館ホール「レリーフ彫刻+石壁」(1991年、建築設計は浦辺設計、石の仕事は和泉正敏)、松下電器産業・情報通信システムセンター「ロビーのランドスケープデザインと彫刻」(1992年、建築設計は日建設計、石の仕事は和泉正敏)、JT本社ビル「銅版によるレリーフ/ホワイエ壁面、回廊壁面」(1995年、建築設計は日建設計)などを手掛けた。1990(平成2)年からはハーバード大学カーペンター視覚芸術センターのディレクターを務め、95年に退官。 作品集に『片山利弘作品集』(鹿島出版会、1981年)、著書に『ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教室:4-8カ月間のグラフィックデザイン演習』(武蔵野美術大学出版部、1993年)、『Graphic design―ハーバード大学視覚芸術センター片山利弘教授グラフィック・デザイン教室』(京都造形芸術大学、2009年)、共著に『12人のグラフィックデザイナー』第3集(美術出版社、1969年)、メキシコの詩人オクタビオ・パスとの詩画集『3 notations/rotations』(ハーバード大学カーペンター視覚芸術センター、1974年)などがある。またグラフィックイメージ’73(東京セントラル美術館ほか、1973年)、グラフィックイメージ’74ワード+イメージ(東京セントラル美術館ほか、1974年)、1976年現代ポスターの展望展(池袋・西武美術館)などの企画展で作品が展観された。

渡辺力

没年月日:2013/01/08

読み:わたなべりき  インダストリアル・デザイナーの渡辺力は、1月8日心不全のため死去した。享年101。 1911(明治44)年7月17日、東京に生まれる。1936(昭和11)年、東京高等工芸学校(現、千葉大学工学部)木材工芸科卒業。卒業後、群馬県工芸所にて勤務し、当時同所に招聘されていたブルーノ・タウトのアシスタントを務める。40年、母校・東京高等工芸学校嘱託となり、設計製図を講義。その間、「整理棚」(1942年)等を制作し、木工家具のデザインを手がける。43年、東京帝国大学(現、東京大学)農学部林学科選科(森林利用学)修了、同大学助手となり、航空研究所へ出向。45年3月に徴兵を受け、横須賀で入隊。同年5月末、山形県に移り、神町海軍航空隊近くの駐屯地で終戦を迎えた。49年、渡辺力デザイン事務所を設立し、独立。戦前から建築雑誌の編集部に出入りしていた関係で、建築家との交友があり、デザイナーとして独立後は清家清設計「うさぎ幼稚園」(1949年、現存せず)や「宮城教授の家」(1953年、東京)などの家具を担当している。傍ら、新制作協会展(東京都美術館)で「挟み材による家具」(1951年、新建築賞受賞)、新日本工業デザイン展(毎日新聞社主催)で「ヒモイス」(1952年)、第11回ミラノ・トリエンナーレで「テーブルとスツール(通称トリイ・スツール)」(1957年、金賞受賞)など、自身のデザインを精力的に発表していく。「ヒモイス」は、当時規格材として輸出されていたナラ材を用いて、座面と背もたれにはひもを組み、構造的にも、素材・仕上げの点からも簡素に無駄なくまとめられ、大量にかつ安価に生産できるデザインとして注目された。籐家具の山川ラタン製作の「スツール」は、夏の家具というイメージが強かった籐を一年中使えるものとした。渡辺の椅子のデザインは、日本の伝統的な建築や道具に見られる形を想起させ、これにより渡辺は、戦後の国際的なデザインシーンにおいて、日本を代表するデザイナーの一人に数え上げられるようになる。52年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)発足にともない、理事に就任。53年、国際デザインコミッティー(現、日本デザインコミッティー)の設立に参画。56年には、工業デザイン視察団として渡米し、ヨーロッパを経由して帰国。インダストリアル・デザインが日本に根づき、発展する過程で重要な役割を担った。56年、松村勝男、渡辺優とともにQデザイナーズを設立(Qは「良質の仕事(Qualitatsarbeit)」を念願してつけられた)。59年、加藤達美、菱田安彦、勝見勝らと財団法人クラフトセンタージャパンを創立。66年、東京造形大学室内建築科の開講に尽力、開講後は教授に就任し、後進の育成にも意を注いでいる。産業が成熟してくる1970年代以降は、服部セイコーのクロックシリーズ「小さな壁時計」(1970年)といった身の周りの製品から、第一生命ビル(現、DNタワー21、日比谷)の「ポール時計」(1972年)にみる公共空間、企業の役員室や、軽井沢プリンスホテル南館(1982年)をはじめとする、大規模なホテルの室内インテリアもデザインした。76年、紫綬褒章受章。1991(平成3)年、第19回国井喜太郎産業工芸賞受賞。2000年以降は、セイコーウオッチから腕時計の新作を発表するなど、60年余り第一線で活動した。学究肌で、デザイン活動の傍ら、家具、インテリア、建築に関する執筆も多数。著作には、『素描』(建築家会館、1995年)、『ハーマンミラー物語:イームズはここから生まれた』(平凡社、2003年)がある。 渡辺のデザイン思想は機能主義に貫かれており、徹底して産業の立場から「工芸」を考えてきた。その思想の具現化にあたって基本となっているのは、室内に点在する椅子であり、家具である。機能的で健康な生活を実現するための家具を空間のなかに配し、室内を起点として、建築へと創造空間を拡げていくその手法によって、装飾を極力省きつつ、格調を備えた時計やインテリアで、日本の生活空間に合ったデザインを幅広く手がけ、独自の地歩を築いた。

石岡瑛子

没年月日:2012/01/21

読み:いしおかえいこ  デザイナー、アートディレクターとして国内、ならびにアメリカを中心に多彩な活動をした石岡瑛子は、1月21日膵臓がんのため東京都内の病院で死去した。享年73。 1938(昭和13)年7月12日、東京都に生まれる。61年3月、東京藝術大学美術学部工芸科図案部卒業。資生堂に入社後、同社サマーキャンペーン「太陽に愛されよう」(1966年)等、担当したポスターがつぎつぎと注目を集め、65年には日本宣伝美術会(略称:JACC、通称:日宣美)主催の第15回公募展にて、「シンポジウム:現代の発見」ポスター3点により「日宣美賞」受賞。70年に石岡瑛子デザイン事務所を設立、フリーランスのデザイナーとして活動の幅を広げた。PARCOや角川書店の広告等を担当し、75年にPARCOの一連の広告デザインにより第21回毎日デザイン賞受賞。79年に制作された「西洋は東洋を着こなせるか」(PARCO)などのコピーとともに、無国籍的な鮮烈なイメージのポスターは、メッセージとともに高度成長期の日本において社会的な注目をあつめた。80年代以降、活動の場をアメリカ等の海外にひろげ、85年アメリカ等で公開されたポール・シュレーダー監督の映画「MISHIMA」の美術監督をつとめ、これによって同年第38回カンヌ国際映画祭芸術貢献賞受賞。87年、マイルス・デービスのアルバム『TUTU』のアート・ワークでグラミー賞受賞。88年、ブロードウェイのミュージカル『M.バタフライ』の舞台セットと衣装の部門で、トミー賞にノミネートされた。写真集『ヌバ』を契機に、第二次世界大戦をはさんでドイツの女優、映画監督、写真家として活動していたレニー・リーフェンシュタールに直接取材をかさね、プロデューサーとして企画構成にあたり、1991(平成3)年12月にレニー・リーフェンシュタール展(Bunkamura ザ・ミュージアム)を開催。92年に公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督の映画「ドラキュラ」では、監督からの要望でコスチュームデザインを担当、これによって第65回アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。その後も、映画、ミュージカル、オペラ、ミュージック・ビデオ等において舞台美術、コスチュームデザインなどを担当して多岐にわたり効果的で斬新な視覚表現に取り組んだ。2002年、紫綬褒章受章。05年6月、東京藝術大学美術学部先端芸術表現科の教授として後進の教育にあたった(翌年3月まで)。08年、北京オリンピックの開会式では衣装デザインを担当した。 グラフィックデザインからはじめた石岡の仕事は、つねに時代の先端を意識しながら、近未来的な志向と東西両洋にわたる時間と空間の間を縦横に横断する柔軟な感性に裏づけられたもので、その感性からうまれたアイデアを卓抜した企画構成力によって実現してきたからこそ、国を越えて多くの人に新鮮な驚きと共感を呼び、世界的にも高く評価された。なお作品集には、国内において『石岡瑛子 風姿花伝』(求龍堂、1983年)、『EIKO ISHIOKA』(世界のグラフィックデザイン68、公益財団法人DNP文化振興財団、2005年)等があり、またそれぞれの大きなプロジェクトにあたっての回想的な文集に、『私デザイン』(講談社、2005年)がある。

柳宗理

没年月日:2011/12/25

読み:やなぎそうり  工業デザイナーで、文化功労者の柳宗理は、12月25日、肺炎のため死去した。享年96。 1915(大正4)年6月29日、民芸運動の創始者の柳宗悦と声楽家の兼子の第一子として東京市原宿に生まれた。本名は宗理(むねみち)。1935(昭和10)年東京美術学校洋画科に入学、南薫造教室に所属するが、バウハウスで学んだ水谷武彦の講義を聞き、また、ル・コルビュジエの思想に感銘を受けデザイナーを志す。40年社団法人日本輸出工芸連合会(商工省の外郭団体)の嘱託となる。商工省貿易局の招聘により、日本の輸出工芸の指導のために来日したフランス人デザイナーのシャルロット・ペリアンのアシスタントとして日本各地の地場産業の視察に同行、その後のデザインへの取り組みに影響を受ける。42年坂倉準三建築研究所研究員となる(~1945年)。43年陸軍報道部宣伝班員としてフィリピンに渡る。 46年フィリピンから帰国し、工業デザインに着手。48年松村硬質陶器のために手がけたテーブルウェア「硬質陶器シリーズ」が工業デザイナーとしてデビューとなる。50年柳インダストリアルデザイン研究所を設立。52年第1回新日本工業デザインコンクール(毎日新聞社主催)で「レコードプレーヤー」(日本コロンビア)が第一席となる。同年、日本インダストリアルデザイナー協会(JIDA)設立に参加。53年女子美術大学講師となる(~1967年)。同年4月財団法人柳工業デザイン研究会設立。同年10月国際デザインコミッティー(現在の日本デザインコミッティー)が発足し会員となる。54年ポリエステルの「スタッキング・スツール(エレファント・スツール)」(コトブキ)をデザイン。55年金沢美術工芸大学産業美術学科教授となる(1967年からは嘱託、1997年からは特別客員教授)。56年6月第1回柳工業デザイン研究会展(銀座松屋)開催、成形合板による「バタフライ・スツール」(天童木工)を発表する。同年6月第6回アスペン国際デザイン会議(アメリカ・コロラド州)に参加。57年7月第11回ミラノ・トリエンナーレに「バタフライ・スツール」、「白磁土瓶」などを出品し、インダストリアル・デザイン金賞を受賞。60年5月世界デザイン会議が東京で開催され実行委員となる。同年、「柳宗理陶器のデザイン展」(銀座松屋)開催。61年西ドイツのカッセル・デザイン専門学校教授として招聘され、62年まで滞在。64年東京オリンピックの「トーチホルダー」などをデザイン。65年「デザイナーのタッチしないデザイン ANONYMOUS DESIGN」展(銀座松屋)を企画。66年世界デザイン会議(フィンランド)に日本代表として参加。68年「柳宗理歩道橋計画案展」(銀座松屋)開催。72年札幌オリンピックの「聖火台」、「トーチホルダー」などをデザイン。75年「柳宗理のデザイン展」(銀座松屋)、「ストリートファニチャー展」(銀座松屋)開催。77年12月日本民藝館館長となり、翌78年1月には日本民藝協会会長となる。80年6月「柳宗理:デザイナー・作品・1950-80」展(ミラノ市近代美術館、イタリア)開催。83年6月、「柳宗理デザイン展 1950‐1983」(イタリア文化会館、東京)開催。88年8月、「柳宗理Sori Yanagi’s Works and Philosophy」展(有楽町西武クリエイターズ・ギャラリー、東京)開催。1998(平成10)年4月、「柳宗理 戦後デザインのパイオニア」展(セゾン美術館、東京)開催。2002年11月、文化功労者となる。03年8月「柳宗理デザイン展・金沢 うまれるかたち」(金沢市民芸術村)開催。07年1月「柳宗理 生活のなかのデザイン」展(東京国立近代美術館)開催。08年英国王立芸術協会より、ロイヤルデザイナー・フォー・インダストリー(Hon RDI)の称号を授与される。 戦後日本の工業デザインの基礎を作った工業デザイナーの草分け的存在であり、テーブルウェアや台所用品などの生活用具から、家具、ベンチなどのストリートファニチャー、歩道橋、高速道路の防音壁、さらには、札幌オリンピックの聖火台など、幅広い領域で活動した。代表作「バタフライ・スツール」に見られるように、日本の伝統的な造形感覚とモダンデザインの合理性とを結びつけ、無駄なデザインを省いた純粋な形の中に、手仕事のぬくもりや日本の風土性を感じさせるデザインは国内外で高く評価された。「デザインの至上目的は人類の用途の為にということである」「本当の美は生まれるもので、つくり出すものではない」という言葉からもうかがえるように健全な人間社会のあるべき姿というものを追求する思想性を備えた工業デザイナーだった。デザインに関する文章も多く、著書に『デザイン 柳宗理の作品と考え』(用美社、1983年)、『柳宗理 エッセイ』(平凡社、2003年)などがある。

青葉益輝

没年月日:2011/07/09

読み:あおばますてる  グラフィックデザイナーの青葉益輝は、7月9日午後11時、食道がんのため東京都内の自宅で死去した。享年71。 1939(昭和14)年7月18日東京に生まれる。62年桑沢デザイン研究所を卒業後、オリコミ(広告代理店)に入社、主に東京都のポスターを担当する。69年A&A青葉益輝広告制作室を設立。72年東京アートディレクタースクラブADC賞受賞。80年日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の理事となる(~2011年)。82年個展「平和ポスター展」(松屋銀座)開催。同年、ブルノ国際グラフィック・ビエンナーレ(チェコスロバキア)にてグランプリ受賞。83年ソ連平和ポスター展にて奨励賞受賞。同年、世界平和大会(旧ユーゴスラビア)の公式ポスターを制作。86年交通万国博覧会(バンクーバー)日本政府館のグラフィックを担当。87年個展「Graphically」(ギンザグラフィックギャラリー、東京)開催。同年、ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレにて金賞受賞。1992(平成4)年個展「青葉益輝環境ポスター展」(ショーモン、フランス)開催。同年、ニューヨークADC国際展金賞受賞。94年「自然との共生」をテーマに長野オリンピック(1998年)の第1号公式ポスターを制作。95年日本宣伝賞山名賞受賞。2006年紫綬褒章受章。07年個展「AOBA SHOW」(ギンザグラフィックギャラリー、東京)開催。11年、個展「青葉益輝・平和ポスター展」(調布市文化会館たづくり、東京)開催。 商業広告の仕事の一方で、東京都の美化運動のための公共ポスター「灰皿ではありません」(1971年)など環境保護をテーマとするポスターや、「THE END」(1981年)など平和をテーマとする社会性の強いポスターの自主制作に取り組んだ。 著書に『アートディレクター』(浅葉克己、長友啓典との共著、東洋経済新聞社、1987年)、『青葉益輝』(ggg Books、1995年)、『心に「エコ」の木を植えよう』(求龍堂、2008年)などがある。

粟津潔

没年月日:2009/04/28

読み:あわづきよし  幅広いジャンルで独自の創作活動を展開したグラフィックデザイナー粟津潔は、4月28日午後2時44分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。享年80。1929(昭和4)年2月19日、東京都生まれ。逓信省の技師だった父恵昭は、粟津が生まれた翌年踏切事故に遭い30歳で亡くなっている。小学校を終えると町工場や建具組合の事務所で働きながら、夜間商業学校に学び、戦争激化のために繰り上げ卒業となった45年法政大学産業経営学科専門部に入学するが翌年中退。国鉄に勤めながら独学で絵を描き始め、48年退職すると、映画プログラムや看板などを制作する日本作画会に就職。その後日本アニメーション、独立映画宣伝部と職を変えながら挿絵やポスターを描き、55年キャンペーン・ポスター«海を返せ»で日本宣伝美術会賞を受賞。翌56年にも日宣美奨励賞を受賞し同会員となる。58年3年間嘱託で勤めた日活宣伝部を退社。60年世界デザイン会議に参加。黒川紀章ら建築家による、新陳代謝する都市建築を提唱した「メタボリズム」の運動に共鳴し彼らのグループに加わると、菊竹清訓設計の出雲大社宝物殿の鉄扉デザイン、逓信博物館のパネル、レリーフ等、建築デザインを多く手がける。また62年勅使河原宏監督の映画『おとし穴』のポスター、タイトルバックを担当して以降、『怪談』、『砂の女』(共に1964年)などのタイトルバックや、篠田正浩監督『心中天網島』(1969年)の映画美術などを手がけるかたわら、自身も実験映画を製作し、74年にはそれら10本を渋谷パルコにてまとめて公開する「粟津潔映像個展」を開催。70年第3回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレで「心中天網島」、「ANTI WAR」のポスターが銀賞および特別賞を受賞。また64年には武蔵野美術大学造形学部デザイン科助教授となり70年まで勤める。65年福田繁雄、田中一光ら気鋭のデザイナー11人によるグループ展「ペルソナ」を開催。70年の日本万国博覧会ではシンボルゾーンのテーマ館基本構想計画設計を担当。以後、85年「科学万博つくば’85」政府テーマ館プロデュースほか、公式イヴェントや公共デザインの仕事を多数手がける。主なものに75年国立民族学博物館中央パティオのデザイン、1992(平成4)年江戸東京博物館のプラザタイル計画デザイン、展示設計総合アート、96年寺山修司記念館の統合計画・建築設計、展示プロデュースがある。また88年川崎市市民ミュージアム建設委員会委員として同館の開館に尽力し、2000年には設立準備段階から携わっていた印刷博物館初代館長に就任。同年度の毎日デザイン賞、特別賞を受賞する。「トータルデザイン」の理論を提唱するなど、知的好奇心の旺盛さは広範な学問研究へと向かい、タイポグラフィーを文字の起源から研究するために漢字学者白川静に傾倒。また民俗学研究を経て、地図や指紋、判子など土俗的な題材を反復させながら用いる独特のデザインの世界を生み出した。こうして作り出されたカラフルなポスターや書籍装丁などの印刷物は、情報伝達手段としてのグラフィックデザインの機能性を具えるだけでなく、時代の雰囲気や感性とマッチすることで多くの人々から支持を集めた。晩年はアメリカの先住民のロックアートや象形文字などにも関心を寄せるなど、生涯を通して建築、音楽、文学、映像と、多彩なジャンルを横断する創作活動を展開した。主な著書に『デザインの発見』(1966年)、『粟津潔 デザインする言葉』(2005年)、『不思議を眼玉に入れて:粟津潔横断的デザインの原点』(2006年)、など。最晩年となった2007年には、金沢21世紀美術館で大回顧展「粟津潔 荒野のグラフィズム」が開催されている。90年紫綬褒章、2000年勲四等旭日小綬章を受章。

早川良雄

没年月日:2009/03/28

読み:はやかわよしお  グラフィックデザイナーとして、長らく現役で活躍した早川良雄は、3月28日午前11時33分、肺炎のため死去した。享年92。1917(大正6)年2月13日、大阪市福島区生まれ。両親に姉、弟、妹という家族構成であったが、母親は早川がまだ少年時代に39歳の若さで亡くなっている。小学生の頃より絵が得意であったことから、担任教師の勧めで1931(昭和6)年、開校間もない大阪市立工芸学校工芸図案科に入学。同校教師で当時新しかったバウハウスの教育理論を実践した画家山口正城から影響を受ける。デザインに対する関心はこの時期より芽生え、いくつかの公募展で受賞を重ねる。卒業翌年の37年、三越百貨店大阪支店の装飾部に入社。ウィンドウ・ディスプレイの仕事などを担当し、舞台装置やインテリア・デザインといった空間デザインの仕事を覚える。しかし翌38年に召集され日中戦争に従軍。京城(現在のソウル)で終戦を迎える。同年秋に帰国後、大阪市役所勤務を経て、48年親友であったデザイナー山城隆一の推薦により近鉄百貨店宣伝部に入社。ここで制作した「秀彩会」ポスターが、デザイン専門誌『プレスアルト』で紹介されるなど評判となる。49年関西を代表するデザイナーであった今竹七郎のアシスタントとして働いていた千畑梅と結婚。50年来阪した亀倉雄策と出会う。亀倉は早川のポスターの斬新なデザイン感覚に驚き、これが契機となって51年、亀倉や原弘、河野鷹思らが結成した日本宣伝美術会、通称日宣美に、関西の若手デザイナーたちとともに参加。また同年大阪で画家瑛九を中心にデモクラート美術家協会が結成されると山城らと参加。泉茂、吉原英雄らジャンルを超えた芸術家たちとの交流を深めた。52年近鉄を退社しフリーランスとなると、54年には大阪心斎橋に早川良雄デザイン事務所を立ち上げる。事務所は知己であったカロン洋裁研究所校長国松恵美子から洋裁学校の一室を提供されたもので、その縁から、この時期同研究所の生徒募集ポスターを多数制作。早川の代名詞となった「カストリ明朝」と呼ばれる独特の書体が多く用いられた。52年には神戸三宮のセンター街にできた喫茶店「G線」のインテリアや什器をコーディネイトするなど多方面に仕事を展開。55年国際グラフィックデザイナー連盟(AGI)会員、58年第8回日宣美展会員賞受賞など、次第にデザイナーとしての評価も高まり、「グラフィック’55」や60年世界デザイン会議への参加を通して、その存在が広く知られるようになると、61年に東京事務所を銀座に開設。以後東京での活動を本格化させていく。その後も66年ブルーノ・グラフィックアート・ビエンナーレ展(チェコ)二等賞、67年日本サインデザイン協会第2回SDA賞金賞ならびに銀賞、78年第13回造本装幀コンクール通産大臣賞、84年日本宣伝賞第5回山名賞など、多くのコンクール等で受賞を重ね、一方では70年日本万国博覧会の色彩基本計画への参画、87年「世界デザイン博覧会’89名古屋」のためのポスター制作をはじめとする多くのイヴェントや、京阪百貨店、伊奈製陶(INAX)などの企業ポスター、ロゴマークの制作、さらに『文学界』、『日経デザイン』など雑誌の表紙デザインも手がけるなど、広範に活動を展開する。また、個性的なイラストは画家としての活動へと広がり、68年から始まる「顔たち」と「形状」の両シリーズにおいて優れた色彩感覚と構成力を発揮し、30年以上続くシリーズとなった。2002(平成14)年には大阪市立近代美術館(仮称)コレクションによる大規模な回顧展が開催された他、歿後となる10年には東京国立近代美術館、11年には国立国際美術館にて相次いで回顧展が開催された。82年紫綬褒章受章、88年勲四等旭日小綬章受章。60年以上を第一線のデザイナーとして活躍した早川は、また多くの後進デザイナーたちに影響を与え慕われた存在であった。

福田繁雄

没年月日:2009/01/11

読み:ふくだしげお  日本グラフィックデザイナー協会会長で、グラフィックデザイナーとして国際的に活躍した福田繁雄は、1月11日午後10時30分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。享年76。1932(昭和7)年2月4日、東京生まれ。田中国民学校卒業後、台東区今戸高等小学校に入学するが、太平洋戦争の激化により44年母親の実家のある岩手県二戸市福岡町に疎開。戦後51年同地の県立福岡高等学校卒業後、帰京すると53年東京藝術大学美術学部図案科に入学。在学中より日本宣伝美術会展や日本童画会展をはじめ、幾つものコンクールで受賞を重ねる。またこの頃亀倉雄策に見出され、松屋デパートのポスターを手掛ける。56年に卒業後は味の素株式会社広告部制作室に入社するが、日宣美会員に推挙された58年退社。河野鷹思を中心とする株式会社デスカの設立に参加した後、59年フリーのデザイナーとなる。60年世界デザイン会議でイタリア人デザイナー、ブルーノ・ムナーリと出会うと、彼の「遊び」のデザインに影響を受け、61年ミラノにあるムナーリのアトリエを訪問。62年にはこの時の旅行を図形表現した『わたしと国々』を朝日出版から出版。以降、大学時代から行っていた絵本制作に本格的に取り組み、『Romeo and Juliet』、『こぶとり日本昔話』などを相次いで自費出版する。また同じ頃にエッシャーの絵画と出会い、後の視覚トリックによるデザインの出発点となる。65年「グラフィックデザイン展ペルソナ」に出品。新しい世代のデザイナーとして注目を集めると、66年第2回ブルノ国際グラフィックデザイン・ビエンナーレ展奨励賞を皮切りに、以後国内外の公募展や企画展への出品が相次ぐ。また、69年日本万国博覧会サイン計画への参加や71年札幌冬季オリンピック参加メダル、ピクトグラム、公式ガイドブックの制作など国家的イヴェントへの参画も増えていく。一方、63年の長女誕生をきっかけに始まった玩具制作は、60年代後半からは彫刻へと展開し、67年ニューヨークIBMギャラリーでの個展「Toys and Things」や、73年第5回現代日本彫刻展(宇部市)入選というかたちで結実する。福田の立体作品の代名詞といえるのが「二つの形をもった一つの形」シリーズで、見る角度によってまったく異なる形がシルエットとなって現れるトリッキーな仕掛けは、同時代の難解な現代美術にはないユーモア精神に溢れたものであった。これらの立体作品は全国各地にパブリック・アートとしても設置され、福田の創作活動を従来のグラフィック・アートから大きく飛躍させた。ユニバーサル・デザインを標榜する福田の海外での活動は目覚ましく、その評価も日本のデザイナーの中でも突出している。1995(平成7)年ポーランド、ビラヌフ・ポスター美術館での個展に代表される展覧会の開催を始め、72年第4回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ金賞、75年第21回オリンピック・モントリオール大会記念銀貨デザイン国際コンペ最高賞、95年ユネスコ国際ポスター展グランプリ、サヴィニャック賞(パリ)といった受賞歴の他、86年英国王室芸術協会(R.D.I.)会員、87年ニューヨークADC殿堂入り、91年ポーランド国立ポスター美術財団名誉会長などの要職にも就いている。国内でも81~86年に東京藝術大学デザイン科助教授を務めたのを始め、98年社団法人日本サインデザイン協会顧問、2000年日本グラフィックデザイナー協会会長などを歴任。その間、78年第12回SDA賞最優秀賞、80年第11回「講談社出版文化賞」ブックデザイン賞、87年日本宣伝賞第8回山名賞、93年ECOPLAGAT:環境と自然保護国際ポスターコンクール、グランプリ、97年通商産業大臣デザイン功労者表彰、2001年岩手県勢功労者表彰を受け、99年には岩手県二戸市に福田繁雄デザイン館をオープンさせた。76年文部省芸術選奨美術部門文部大臣賞新人賞、97年紫綬褒章。歿後2011~12年には、三重県立美術館を始め全国6美術館を巡回する大回顧展が開催されるなど、従来のグラフィックデザイナーの枠を超えた独創的な創作活動は、その遊び心と親しみやすさから広く人々を魅了し続けている。

木村恒久

没年月日:2008/12/27

読み:きむらつねひさ  グラフィックデザイナーの木村恒久は12月27日、肺がんのため自宅で死去した。享年80。  1928(昭和3)年5月30日、大阪府に生まれる。45年大阪市立工芸学校(現、市立工芸高等学校)図案科を卒業、海軍の予科練に入隊してすぐ終戦となり、しばらくはヤミ市の片隅で看板の制作を手がけて家計を支える。その後、沢村徹に弟子入りしてデザインの現場を体験。毎日新聞商業デザインコンクールの52年第20回ポスターの部「ペニシリン昭和鼻薬」で技能賞、翌第21回第2部(ポスター)「エナルモンB帝国臓器」で日宣美会員賞、翌第22回第1部(新聞広告)「大和銀行/大和定期」で通産大臣賞を受賞。同コンクール入賞者の懇親会から52年に「Aクラブ」というデザイン研究会が発足、その中心メンバーだった永井一正、片山利弘、田中一光らと「若手四天王」と呼ばれ、精力的にデザイン制作、批評活動を行う。55年よりユアサ電池株式会社に招かれ嘱託となるが、60年に上京し、亀倉雄策らが設立したデザイナー集団の日本デザインセンターに参加。62年日本建築家協会主催「モデュール展」で原弘と共同制作を行い、ADC銅賞を受賞。64年に独立。66年、宇野亜喜良、永井一正、和田誠らグラッフィク・デザイナーが集まり前年に開催した展覧会「ペルソナ」で毎日産業デザイン賞を受賞。68年東京造形大学助教授となる。同年チェコ・グラフィック・ビエンナーレでチェコ建築家協会賞を受賞。70年頃から複数の写真を精巧に組み合わせて全く異なるイメージを生み出すフォト・モンタージュの手法で、現代社会を鋭く風刺した。77年『季刊ビックリハウスSUPER』で「木村恒久のヴィジュアル・スキャンダル」の連載を開始、その原画展を渋谷パルコで開催し、話題を呼ぶ。79年、作品集『キムラカメラ』を刊行。80年に毎日デザイン賞を受賞。1993(平成5)年に東京造形大学客員教授となる。96年ポンピドゥー・センターと東京都現代美術館の共催による「近代都市と芸術展」に招待出品。また99年にギンザ・グラフィック・ギャラリー第154回企画展「木村恒久展what?」、2000年には川崎市市民ミュージアムで「木村恒久原画展」が開催される。没する直前の08年11月にうらわ美術館で始まった「氾濫するイメージ―反芸術以後の印刷メディアと美術1960’―70’」展では、赤瀬川原平や横尾忠則ら印刷メディアを通して活動を展開した8名の作家の一人として、70年代のフォト・モンタージュ作品が展観された(八王子市夢美術館、足利市立美術館を巡回)。

田中一光

没年月日:2002/01/10

読み:たなかいっこう  グラフィックデザイナーでアートディレクターの田中一光は、1月10日午後10時過ぎに港区南青山の路上で倒れているのが発見され病院に運ばれたが、11時53分に死亡が確認された。急性心不全だった。享年71。1930(昭和5)年1月13日奈良県奈良市に生まれる。奈良県立奈良商業学校を経て、50年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)図案科を卒業。鐘紡紡績に入社し、意匠課で染織デザインを担当。52年産経新聞大阪本社に転じ、やがてグラフィックデザインを手がける。京都市立美術専門学校時代から演劇サークルに参加していたが、このころ、自らの描いたポスターを契機に吉原治良の舞台美術の助手をつとめる。53年、同世代の作家たちと「Aクラブ」を結成、早川良雄や山城隆一らを講師に招き、勉強会を催した。51年に結成された日本宣伝美術会、通称日宣美には53年から70年まで会員として参加した。53年のタンゴ「オルケスタ ティピカ カナーロ」のポスターデザインは、その鮮やかな色彩と微妙に歪めた線を生かした造型感覚が衝撃をもって迎えられた初期の代表作である。54年からは産経観世能のポスターデザインを手がけ、それらは田中が持つ日本の伝統芸術への関心をうかがわせた。57年ライト・パブリシティ社に請われ、活動の拠点を東京に移す。60年株式会社日本デザインセンター創立に参画、主にトヨタ自動車販売の広告宣伝を担当する。同年、初めて東京で開かれた世界デザイン会議では広報デザインを担当。60年、アメリカのデザイン事情視察のため初渡米。63年フリーとなって東京青山に田中一光デザイン室(76年株式会社田中一光デザイン室)を開き、竹中工務店のPR誌をはじめアートディレクションを手がけた。70年の大阪万博では日本政府館一号館の展示デザインを担当。84年にはモスクワで開かれた日本デザイン展の展示を担当し、85年つくば科学万博ではシンボルマークを制作。73年、西武劇場(現PARCO劇場)のグラフィックデザインを担当したことを皮切りに、西武美術館、西武百貨店をはじめとするセゾングループ全般に、文化事業にとどまらないクリエィティブディレクターとして関わり、無印良品の企画・監修にも携わる。70年代後半から、プロデューサーとしての仕事は企業にとどまらず、ギンザ・グラフィック・ギャラリーやギャラリー・間などの企画・運営にまでわたった。その一方で多くのタイポグラフィを創り、エディトリアルデザインにも秀で、土門拳『文楽』(駸々堂出版 1972年)や“JAPANESE COLORING”(Japan Day Preparation Committee 1981)など多数の作品がある。田中が構成した『人間と文字』(平凡社 1995年)は、この方面における集大成ともいえる仕事である。田中は、大胆で明快な構成と色彩、強い平面性を特色とし、40年以上にわたってグラフィックデザイン界を牽引、戦後デザインの方向性を確立した。80年のエッセイ集『デザインの周辺』(白水社)をはじめ、2001(平成13)年には「田中一光自伝 われらデザインの時代」(白水社)を上梓。ミラノ近代美術館やベルリンのバウハウス・アーカイブ・デザイン・ミュージアムを含む国内外で個展を開催。03年には東京都現代美術館で「田中一光回顧展 われらデザインの時代」が開かれている。54年に日宣美会員部門賞を受賞したことに始まり、毎日産業デザイン賞、芸術選奨文部大臣新人賞、朝日賞などのほか受賞多数、83年には第4回山名賞、99年第1回亀倉雄策賞を受賞している。94年紫綬褒章受章、00年には文化功労者。国際グラフィックデザイナー(AGI)連盟会員。ニューヨークADCの殿堂入りを果たす。日本グラフィックデザイナー協会理事。

内山昭太郎

没年月日:2000/12/14

読み:うちやましょうたろう  デザイナーで、広島市立大学大学院教授、東京芸術大学名誉教授の内山昭太郎は、12月14日死去した。享年69。1931(昭和6)年4月17日に生まれ、56年、東京芸術大学美術学部工芸科図案部を卒業、日本テレビ放送網株式会社に入社。73年、同社を退社し、多摩美術大学美術学部デザイン科講師となる。同大学には、87年まで教授としてつとめ、同年から東京芸術大学美術学部デザイン科教授となる。1999(平成11)年に同大学を退官し、同年から広島市立大学大学院芸術学研究科教授となる。主として電波媒体を中心にしたアートデザインから、マルチメディアによるデザイン教育研究をおこなった。著書に『コングラのすべて』(共著、誠分堂新光社 82年)、『パーソナル・グラフィックス』(共著、誠分堂新光社 82年)がある。また、展覧会には、94年に「電脳魚類図鑑」(天王洲オフィスアートギャラリー)、98年に「退官記念展“電視芸上”」(東京芸術大学陳列館)、2000年に「電脳遊園地」(東京銀座、松屋ギャラリー)などがある。

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