粟津潔
幅広いジャンルで独自の創作活動を展開したグラフィックデザイナー粟津潔は、4月28日午後2時44分、肺炎のため川崎市内の病院で死去した。享年80。1929(昭和4)年2月19日、東京都生まれ。逓信省の技師だった父恵昭は、粟津が生まれた翌年踏切事故に遭い30歳で亡くなっている。小学校を終えると町工場や建具組合の事務所で働きながら、夜間商業学校に学び、戦争激化のために繰り上げ卒業となった45年法政大学産業経営学科専門部に入学するが翌年中退。国鉄に勤めながら独学で絵を描き始め、48年退職すると、映画プログラムや看板などを制作する日本作画会に就職。その後日本アニメーション、独立映画宣伝部と職を変えながら挿絵やポスターを描き、55年キャンペーン・ポスター«海を返せ»で日本宣伝美術会賞を受賞。翌56年にも日宣美奨励賞を受賞し同会員となる。58年3年間嘱託で勤めた日活宣伝部を退社。60年世界デザイン会議に参加。黒川紀章ら建築家による、新陳代謝する都市建築を提唱した「メタボリズム」の運動に共鳴し彼らのグループに加わると、菊竹清訓設計の出雲大社宝物殿の鉄扉デザイン、逓信博物館のパネル、レリーフ等、建築デザインを多く手がける。また62年勅使河原宏監督の映画『おとし穴』のポスター、タイトルバックを担当して以降、『怪談』、『砂の女』(共に1964年)などのタイトルバックや、篠田正浩監督『心中天網島』(1969年)の映画美術などを手がけるかたわら、自身も実験映画を製作し、74年にはそれら10本を渋谷パルコにてまとめて公開する「粟津潔映像個展」を開催。70年第3回ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレで「心中天網島」、「ANTI WAR」のポスターが銀賞および特別賞を受賞。また64年には武蔵野美術大学造形学部デザイン科助教授となり70年まで勤める。65年福田繁雄、田中一光ら気鋭のデザイナー11人によるグループ展「ペルソナ」を開催。70年の日本万国博覧会ではシンボルゾーンのテーマ館基本構想計画設計を担当。以後、85年「科学万博つくば’85」政府テーマ館プロデュースほか、公式イヴェントや公共デザインの仕事を多数手がける。主なものに75年国立民族学博物館中央パティオのデザイン、1992(平成4)年江戸東京博物館のプラザタイル計画デザイン、展示設計総合アート、96年寺山修司記念館の統合計画・建築設計、展示プロデュースがある。また88年川崎市市民ミュージアム建設委員会委員として同館の開館に尽力し、2000年には設立準備段階から携わっていた印刷博物館初代館長に就任。同年度の毎日デザイン賞、特別賞を受賞する。「トータルデザイン」の理論を提唱するなど、知的好奇心の旺盛さは広範な学問研究へと向かい、タイポグラフィーを文字の起源から研究するために漢字学者白川静に傾倒。また民俗学研究を経て、地図や指紋、判子など土俗的な題材を反復させながら用いる独特のデザインの世界を生み出した。こうして作り出されたカラフルなポスターや書籍装丁などの印刷物は、情報伝達手段としてのグラフィックデザインの機能性を具えるだけでなく、時代の雰囲気や感性とマッチすることで多くの人々から支持を集めた。晩年はアメリカの先住民のロックアートや象形文字などにも関心を寄せるなど、生涯を通して建築、音楽、文学、映像と、多彩なジャンルを横断する創作活動を展開した。主な著書に『デザインの発見』(1966年)、『粟津潔 デザインする言葉』(2005年)、『不思議を眼玉に入れて:粟津潔横断的デザインの原点』(2006年)、など。最晩年となった2007年には、金沢21世紀美術館で大回顧展「粟津潔 荒野のグラフィズム」が開催されている。90年紫綬褒章、2000年勲四等旭日小綬章を受章。
出 典:『日本美術年鑑』平成22年版(466頁)登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「粟津潔」『日本美術年鑑』平成22年版(466頁)
例)「粟津潔 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28454.html(閲覧日 2024-10-10)
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