田中一光

没年月日:2002/01/10
分野:, (デ)
読み:たなかいっこう

 グラフィックデザイナーでアートディレクターの田中一光は、1月10日午後10時過ぎに港区南青山の路上で倒れているのが発見され病院に運ばれたが、11時53分に死亡が確認された。急性心不全だった。享年71。1930(昭和5)年1月13日奈良県奈良市に生まれる。奈良県立奈良商業学校を経て、50年京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)図案科を卒業。鐘紡紡績に入社し、意匠課で染織デザインを担当。52年産経新聞大阪本社に転じ、やがてグラフィックデザインを手がける。京都市立美術専門学校時代から演劇サークルに参加していたが、このころ、自らの描いたポスターを契機に吉原治良の舞台美術の助手をつとめる。53年、同世代の作家たちと「Aクラブ」を結成、早川良雄や山城隆一らを講師に招き、勉強会を催した。51年に結成された日本宣伝美術会、通称日宣美には53年から70年まで会員として参加した。53年のタンゴ「オルケスタ ティピカ カナーロ」のポスターデザインは、その鮮やかな色彩と微妙に歪めた線を生かした造型感覚が衝撃をもって迎えられた初期の代表作である。54年からは産経観世能のポスターデザインを手がけ、それらは田中が持つ日本の伝統芸術への関心をうかがわせた。57年ライト・パブリシティ社に請われ、活動の拠点を東京に移す。60年株式会社日本デザインセンター創立に参画、主にトヨタ自動車販売の広告宣伝を担当する。同年、初めて東京で開かれた世界デザイン会議では広報デザインを担当。60年、アメリカのデザイン事情視察のため初渡米。63年フリーとなって東京青山に田中一光デザイン室(76年株式会社田中一光デザイン室)を開き、竹中工務店のPR誌をはじめアートディレクションを手がけた。70年の大阪万博では日本政府館一号館の展示デザインを担当。84年にはモスクワで開かれた日本デザイン展の展示を担当し、85年つくば科学万博ではシンボルマークを制作。73年、西武劇場(現PARCO劇場)のグラフィックデザインを担当したことを皮切りに、西武美術館、西武百貨店をはじめとするセゾングループ全般に、文化事業にとどまらないクリエィティブディレクターとして関わり、無印良品の企画・監修にも携わる。70年代後半から、プロデューサーとしての仕事は企業にとどまらず、ギンザ・グラフィック・ギャラリーやギャラリー・間などの企画・運営にまでわたった。その一方で多くのタイポグラフィを創り、エディトリアルデザインにも秀で、土門拳『文楽』(駸々堂出版 1972年)や“JAPANESE COLORING”(Japan Day Preparation Committee 1981)など多数の作品がある。田中が構成した『人間と文字』(平凡社 1995年)は、この方面における集大成ともいえる仕事である。田中は、大胆で明快な構成と色彩、強い平面性を特色とし、40年以上にわたってグラフィックデザイン界を牽引、戦後デザインの方向性を確立した。80年のエッセイ集『デザインの周辺』(白水社)をはじめ、2001(平成13)年には「田中一光自伝 われらデザインの時代」(白水社)を上梓。ミラノ近代美術館やベルリンのバウハウス・アーカイブ・デザイン・ミュージアムを含む国内外で個展を開催。03年には東京都現代美術館で「田中一光回顧展 われらデザインの時代」が開かれている。54年に日宣美会員部門賞を受賞したことに始まり、毎日産業デザイン賞、芸術選奨文部大臣新人賞、朝日賞などのほか受賞多数、83年には第4回山名賞、99年第1回亀倉雄策賞を受賞している。94年紫綬褒章受章、00年には文化功労者。国際グラフィックデザイナー(AGI)連盟会員。ニューヨークADCの殿堂入りを果たす。日本グラフィックデザイナー協会理事。

出 典:『日本美術年鑑』平成15年版(239頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「田中一光」『日本美術年鑑』平成15年版(239頁)
例)「田中一光 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28247.html(閲覧日 2024-03-29)

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