本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





林良一

没年月日:1992/10/02

筑波大学名誉教授の美術史家林良一は10月2日午前10時30分、肺炎による呼吸不全のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年74。大正7(1918)年4月24日、東京都港区に生まれる。昭和27(1952)年3月、東京大学文学部美学美術史学科を卒業。同32年3月東大大学院特別研究生を修了し、同年9月より多摩美術大学講師、同33年4月より日本大学芸術学部講師となった。同42年3月まで日大で教鞭をとる一方、同35年には東京教育大学講師、同38年には明治大学講師をつとめた。東西美術交渉史を専門とし、同37年8月に美術出版社から「シルクロード」を刊行、同書は翌38年に日本エッセイスト・クラブ賞を受けた。同42年東京教育大学講師となり、以後同大で教鞭をとり続けた。文様史、正倉院の研究でも知られ、『シルクロードと正倉院』(平凡社)をも著している。

児玉輝彦

没年月日:1992/09/27

読み:こだまてるひこ  日本国画院会長の日本画家児玉輝彦は、9月27日午前0時12分心不全のため千葉県船橋市海神の船橋中央病院で死去した。享年94。明治31(1898)年4月3日新潟県十日町市に生まれる。大正6年歴史人物画で知られた津端道彦に師事し、内弟子として学ぶ。昭和2年第8回帝展に「祇王」が入選、同7年日本美術協会会員となった。日本美術協会展では、銀賞を2回、銅賞を3回受賞し、委員や審査員をつとめている。戦後、昭和40年には神代植物園で「秋之野草」が昭和天皇・皇后の供覧にふされた。55年学研の水上勉「平家物語」、57年NHKテキスト古文にそれぞれ作品が掲載され、61年には船橋市滝不動金蔵寺に格天井画と仏画を奉納した。また書でも、43年の泰東書道院展で大阪毎日・東京日日新聞社賞を受賞している。歴史画を得意とし、日本国画院会長をつとめたほか、新潟県中魚沼郡川西町から名誉町民の称号を贈られた。代表作「祇王」も、現在同町の所蔵となっている。

富成忠夫

没年月日:1992/09/25

読み:とみなりただお  画家として活動する一方で植物を被写体とした写真を撮り続け、「植物写真」の分野を確立した富成忠夫は、9月25日午後0時15分、東京都千代田区の三井記念病院で死去した。享年73。大正8(1919)年8月17日、山口県下関市に生まれる。昭和17年東京美術学校油画科を卒業し、同22年自由美術家協会会員となった。同展には「アイロンをかける女」(同25年第14回)、「室内」(同26年第15回)、「黒い屍」(同27年第16回)、「ジャズ」(同28年第17回)、「崩壊」(同30年第19回)等を出品したが、同32年第21回展に「老いたユニコーン」を出品後同会を退く。同33年からは美術グループ「同時代」の活動に同45年まで参加。その後は写真の仕事に傾き、植物写真家として活躍した。代表作に写真集『森の中の展覧会』があり著書に『日本の花木』『野草ハンドブック』等がある。「週刊朝日百科・世界の植物」の編集委員をもつとめた。

大川逞一

没年月日:1992/09/18

古仏の模刻、補修などを行なった仏像彫刻家大川逞一は9月18日午後10時35分、心不全のため千葉県八日市場市の守病院で死去した。享年93。明治32(1899)年5月17日、千葉県匝瑳郡に生まれる。昭和2(1927)年東京美術学校彫刻科を卒業。高村光雲らに師事。同校研究科に進学し、3年間在籍した。同7年第19回二科展に「女の首」「坂本先生」「Yの首」で初入選する。同展には数回入選したが、それ以後は団体に属さず、日本彫刻史を独自に研究しつつ、法隆寺慈恩大師像、奈良薬師寺の玄奘三蔵法師像等を制作し、日光輪王寺の薬師如来像などの補修にも当たった。胤真、白湾とも号し、俳句をもよくした。

辻光典

没年月日:1992/09/17

漆工芸家で日展参事の辻光典は、9月17日東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年76。大正4(1915)年11月11日旧満州(中国東北部)ハルピン市で生まれる。青山学院を経て、昭和14年東京美術学校工芸科漆工部を卒業。在学中の同13年、春台美術展に「文庫」で、光風会展に「花器」でそれぞれ初入選した。翌年、実在工芸展に出品、また工芸団体経緯工芸を組織し新工芸運動に入った。同15年、東京都工芸展に「蛾の踊り」で知事賞を受賞、同18年には光風会会員となる。戦後は、同23年工芸団体型々工芸を、同25年には洋和会を主宰し建築物と結びついた壁面装飾に漆工家としての新しい方向を求めようとした。また、日展では同27年に「太陽連作の一、風神雷神」で特選・朝倉賞を、同31年にも「太陽連作の五、エリオス」で特選を受けた。同33年、新日展評議員となり、同年から「雲連作」を発表する。同35年、日展工芸部門作家による団体円心を帖佐美行らと結成、翌年には円心を母体にした現代工芸美術家協会の結成に参加した。同36年、第4回新日展に「雲連作の四、蜃気楼」で文部大臣賞を受賞、同39年には前年の日展出品作「装飾画、雲連作の六、『クノサス』」で日本芸術院賞を受賞した。さらに、翌年からは「人間の連作」シリーズを手がけ、伝統的漆技法を自在に駆使しつつ独自の着想による象徴的な表現を深め、漆芸界に新しい方向を提示した。作品は他に、「人間の連作30、羽化する時」などがある。

伊藤勉黄

没年月日:1992/08/20

国画会、日本版画協会の会員であった版画家伊藤勉黄は8月20日午前2時10分、肺炎のため静岡市の病院で死去した。享年75。大正6(1917)年1月5日、静岡県志太郡に生まれる。本名勉。国学院大学に学ぶ一方、版画を独習し、昭和10(1935)年第6回童士社創作版画展に出品する。同14年上海に渡り、同21年帰国。この間、玄黄展、全上海展に出品を続けた。同21年静岡県版画協会を結成。同24年、第17回日本版画協会展に初出品し根市賞を受賞。同25年第24回国画会展に初出品し褒状を受賞。同26年日本版画協会会員となる。同28年第27回国画会展に「窓」「蝶」を出品して国画奨励賞を受け同30年会友に推される。同31年第30回同展に「積み上げた町」「DIMANCHE」「露天商」を、翌年第31回同展に「圏外の夜」「十代」「祈りの時間」を出品して2年連続して会友優作賞を受賞。同34年同会会員となる。また、同32年アメリカ・シカゴ現代日本版画選抜展、同33年ボストン・プリントメーカーズ展、グレンヘン国際版画トリエンナーレ、同34年ポーランド・クラコウ・ビエンナーレ、同36年アメリカ・プリント・ソサエティ主催全米版画展等、国際展にも数多く出品した。同43年、木版と亜鉛版を併用する新技法により我自の画風を打ち出す。同52年『伊藤勉黄版画集』を出版。同56年池田20世紀美術館で柳沢紀子と版画2人展を開催した。郷里静岡の美術振興に尽力し、同51年同県美術家連盟副会長に選任され、同55年同県芸術文化功労者として知事表彰を、同57年には文部大臣表彰を受けた。

朝比奈文雄

没年月日:1992/08/13

洋画家で日展評議員の朝比奈文雄は、8月13日肺炎と心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。大正3(1914)年10月20日東京都新宿区に生まれる。昭和7年から小絲源太郎に師事し油絵を学び、光風会展に出品した。戦後は光風会展、日展を中心に制作発表を行い、同24年の第5回日展に「画室静物」で特選、同年の光風会展に「お茶時」で岡田賞、同26年の光風会展に「永代橋」で南賞をそれぞれ受けた。同32年、最初の個展を東京・銀座求龍堂で開催する。同35年改組第1回日展に「黒い門」を出品し、第1回菊花賞を受賞。同37年第5回日展に審査員をつとめ、翌年から同39年にかけて渡欧。同39年日展会員となる。のち、日展評議員。

小坂圭二

没年月日:1992/08/11

新制作協会会員でキリスト教関係の作品で知られる彫刻家小坂圭二は、8月11日午前1時25分、急性肺炎のため東京都世田谷区の有隣病院で死去した。享年74。大正7(1918)年4月8日、青森県上北郡に生まれる。野辺地中学校在学中に阿部合成に師事するが、同13年より16年まで中国で兵役につき、一時制作から離れる。同17年東京美術学校彫刻科に入学して柳原義達に師事。同18年より21年までラバウルで兵役についた。同21年東京芸術大学に復学し、菊池一雄教室に学ぶ。同25年同校を卒業。同年から菊池一雄教室の助手をつとめた。また、同年の第14回新制作協会展出品作によって新作家賞、同27年第16回同展では「裸婦」で同賞受賞。同27年より翌年まで、東北十和田湖畔の「乙女の像」を制作中の高村光太郎の助手をつとめた。兵役の体験からキリスト教に興味を抱き38才で洗礼を受ける。以後キリスト教関係の主題を多くとりあげて制作。同34年新制作協会彫刻部会員となる。同35年渡仏し、フランス国立美術学校に入学。ヤンセスに師事し、エジプト、ギリシャ、ヨーロッパ各国を旅して、同37年帰国した。同45年大阪万国博覧会Expo’70のキリスト教館に「世界の破れを担うキリスト」を出品。同48年「断絶の中の調和」がバチカン現代宗教美術館買上げとなり、翌49年東京カテドラル大聖堂に「太平洋の壷」が納入された。同55年第1回高村光太郎大賞展に「人間1980」を出品して優秀賞受賞。同57年第2回同展には「漁る人」を出品して再び優秀賞を受けた。十字架の造型に興味を抱き、「ザ・クロス」(昭和42年)、「連立の十字架」(同42年、青山学院初等部礼拝堂)等、幾何学的形態に象徴性を持たせる作品を制作する一方で、「新渡戸稲造」立像等、肖像彫刻も多く手がけた。

小池岩太郎

没年月日:1992/07/21

東京芸術大学名誉教授で、日本のインダストリアル・デザインの草分けとして知られた小池岩太郎は、7月21日午前1時25分、心不全のため、東京都新宿区の自宅で死去した。享年79。大正2(1913)年2月22日、東京芝に生まれる。同14年香川県立高松工芸学校を卒業。昭和5(1930)年、東京美術学校工芸科図案部に入学。同10年5月、同校を卒業して福岡県商工課技手となり、同14年12月、商工省工芸指導所(福岡)技手となる。同15年10月、沖縄漆工芸組合紅房工場長となるが、同17年母校東京美術学校図案部嘱託となり、同24年同校美術学部助教授となった。同28年GKデザイングループ発足にかかわる。同32年日本インダストリアルデザイナー協会理事長となり、同36年カウフマン国際デザイン賞審査員および日本万国博覧会デザイン顧問をつとめた。同40年東京芸術大学教授、同54年同美術学部長となり、同55年退官して同大名誉教授となった。この間、同41年デザイン奨励審議会委員、教育課程審議会専門調査委員、同48年デザインイヤー常任委員をつとめ、同56年「公共の色彩を考える会」を結成。同60年第12回国井喜太郎産業工芸賞を受け、平成3(1991)年には通産大臣よりデザイン功労者として表彰された。ヤマハのプレーヤー、日本酒「大関」の揺れるボトル等、家庭用品を中心にデザインする一方、多くのコンクールの審査、デザイン関係団体の運営にたずさわり、日本のインダストリアル・デザインの振興に寄与した。著書に『基礎デザイン』(昭和31年、美術出版社)、『デザインの話』(同49年、同社)等がある。

油井一二

没年月日:1992/07/21

読み:ゆいいちじ  美術年鑑社社長で美術品蒐集家でもあった油井一二は、7月21日午後7月18分、肝不全のため東京都渋谷区の東海大学病院で死去した。享年82。明治42(1909)年10月30日、長野県北佐久郡に生まれる。大正13(1924)年三井尋常小学校高等科を卒業し、家業の自作農を継ぐが、昭和3(1928)年肋膜炎を患い、療養中に上京を決意。同年5月に上京して神東電業社を経営する義兄のもとで働きつつ、電気学校の夜間部で学んだ。同6年末、東亜美術協会に絵画の出張販売員として入社。同7年釜山、京城などに出張するが、同年4月、仕事に行き詰りを感じて東亜美術協会を退社する。その後、証券会社等へ転職を試みたのち、同8年1月、東洋美術協会に外交員として入社し再び絵画販売に従事する。同9年6月、荒井辰之助、清水栄一郎と共同出資し、日東美術協会を創立。以後、中国東北部、朝鮮半島、台湾等まで販路を広めた。同12年より14年まで、日中戦争に従軍し、同14年10月、日東美術協会を独力で再開。同16年11月、東京・上野広小路に美術店を開いた。戦後、同22年、肖像画の制作依頼を業務の一環として始めた。同23年、山田正道から「美術年鑑」復刊の相談を受け出資。同25年鉄販売、同28年人造米製造などを試みるが、同29年武者小路実篤の助言を得て再び絵画販売を始め、現代日本画を中心に販路を開いて成功をおさめた。同40年「美術年鑑」の権利を創刊者山田正道から買いとり、同年株式会社美術年鑑社を設立してその代表取締役社長となった。同46年「新美術新聞」を創刊。出版、絵画販売の一方で蒐集した作品の一部は郷里佐久市に寄贈し、同58年に開館した佐久市立近代美術館は、約780点の油井コレクションを母体としている。同館には平成2年に油井一二記念館が併設され、没後の同5年7月、同館で「開館10周年記念展「近代日本美術の流れと油井コレクション」が開催された。著書に『美の宝庫』(昭和51年、美術年鑑社)、自伝『風呂敷画商一代記』(同63年)、続風呂敷画商一代記『片目の達磨』(平成2年)等がある。

布施悌次郎

没年月日:1992/07/14

洋画家で元太平洋美術会会長の布施悌次郎は、7月14日脳こうそくのため東京都豊島区の長汐病院で死去した。享年90。明治34(1901)年10月1日宮城県仙台市に生まれ、大正14年仙台東亜学院専門部英文学部を卒業、上京後翌年太平洋画会研究所へ通う。太平洋画会展へ出品を続け、昭和3年太平洋画会賞を受け会員に推挙され、同6年には太平洋画会委員となった。戦後の同32年、太平洋画会が太平洋美術会と改称され同会委員、翌年から太平洋美術学校教授をつとめる。のち、太平洋美術会会長。

別府貫一郎

没年月日:1992/07/13

洋画家で新世紀美術協会委員の別府貫一郎は、7月13日東京都青梅市の青梅慶友病院で死去した。享年92。戦後間もなく日本美術会委員長もつとめた別府は、明治33(1900)年6月19日佐賀県藤津郡に生まれた。大正7年台北第一中学校を第四学年で中退、上京後同10年から2年間川端画学校に通い藤島武二の指導を受けた。同15年第4回春陽会展に「淡水」等5点を出品し春陽会賞を受賞する。昭和4年から同8年までイタリアに滞在し、帰国の年の第11回春陽会展に「ヴィルラ・ノォヴァの眺め」等23点の滞欧作が特別陳列され、昭和洋画奨励賞を受けた。同年、春陽会会員に推挙されたが翌9年退会する。同10年から翌年にかけ再渡欧、帰国後滞欧作「フィレンツェ」等10点が特陳され国画会会員となる。同年、文展招待展に出品し、以後新文展にも無鑑査出品した。同15年国画会を退会する。戦後は、同21、22年の日展委員、同25、26年の読売新聞社主催アンデパンダン展委員をつとめたのをはじめ、同26年10月には日本美術会委員長に選出され同28年までつとめた。その後、一線美術会、新世紀美術協会に所属した。

佛子泰夫

没年月日:1992/06/26

読み:ぶっしやすお  日展会員の彫刻家佛子泰夫は6月26日午後1時30分、急性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。享年75。大正5(1916)年12月15日、東京都港区に生まれる。昭和15(1940)年東京美術学校彫刻科を卒業。東京都港区虎ノ門の俊朝寺住職をつぐ一方、同18年第6回新文展に「裸婦立像」で初入選。戦前の官展への入選はこれのみで、戦後の同22年第3回日展に「女の首」を出品して以降、同展に出品を続け、同26年第7回日展出品作「秋の女」で特選・朝倉賞を受賞した。日本彫刻家協会にも出品。写実をもとに理想化を加えた裸婦像により、「月光」「寂光」など自然の趣を象徴する穏やかな作風を示した。

太田熊雄

没年月日:1992/06/24

民陶小石原焼の第一人者として知られる陶工太田熊雄は、6月24日午前8時41分、肝臓障害のため福岡県東区の九州大学病院で死去した。享年80。明治45(1912)年6月12日、福岡県朝倉郡に生まれる。昭和元(1926)年、小石原尋常小学校を卒業。同年より父や兄に小石原焼を習う。一時人形師を志したが難聴のため断念。以後本格的に小石原焼にとりくみ、同13年分家独立した。同16年第1回日本民芸協会九州沖縄民窯展に「壷」を出品して日本民芸協会賞受賞。同21年第1回九州民芸展では「茶壷」で最優秀夕刊フクニチ賞一等賞、「どびん」で九州民芸協会賞一等賞を受賞。同26年、柳宗悦が九州の民芸振興に訪れた際に知遇を得、自らの道に指針を得た。さらに同29年陶芸家バーナード・リーチに出会い、洋風の器物製作などに一知見を得た。同32年日本・ソ連外交関係復活記念現代日本工芸美術展入選作「壷」がソ連政府買上となる。同34年ベルギー万国博覧会に「かめ」「虚無僧蓋壷」「一斗入雲助」を出品し、グランプリ賞ならび日本貿易振興会理事長賞を受け、「民芸」を世界に紹介する契機をつくった。また同年、それまで小石原皿山の慣習であった窯元組織に従って共同窯をまわって制作していたのをやめて個人窯を開き、小石原焼の旧習に新風を送りこんだ。同36年第2回日本民芸展で日本工芸館賞受賞。同38年の同展では「虚無僧蓋壷」で日本民芸館大賞を受賞。その後も日本民芸展、西部工芸展等に出品して受賞を続ける。同55年伝統工芸士に認定され、同年より伝統工芸士会会長をつとめた。同63年には国際芸術文化功労賞を受賞。生活の中に生きる民芸の本質を実用性に認め、実用性が長い歴史の中で練り上げてきた単純で大らかな形の器に釉薬をたらす素朴な味わいのある作風を示した。同43年より福岡県工芸部会参与、翌44年より45年まで日本民芸館展審査員、同59年には福岡県陶芸作家協会顧問をつとめ、九州の伝統工芸、民芸の振興に寄与するとともに、同39年より41年まで小石原区長をつとめるなど、郷里の発展につくした。昭和47年に『根性の窯』が刊行されているほか、没後に長男孝宏、孫光廣の作品と共に遺作の展観された「三代の炎展」(太田熊雄窯主催、平成5年6月)の際、『太田熊雄窯三代の炎展』(太田熊雄製陶所発行)が刊行されている。

増田正三郎

没年月日:1992/06/22

行動美術協会会員の洋画家増田正三郎は6月22日午前2時43分、肝不全のため兵庫県三田市の平島病院で死去した。享年54。昭和13(1938)年1月15日、兵庫県西宮市に生まれる。兵庫県立鳴尾高校を卒業、河野通紀に師事し、同33年第13回行動展に「建物」で初入選。以後同展に出品を続け、同41年第21回展に「作品う」「作品あ」を出品して奨励賞を受け、会友に推挙される。同50年シェル美術賞展に入選。同53年第33回行動展に「青い画用紙」を出品して会友賞受賞。同54年安井賞展に出品。翌55年第35回行動展に「五つの立方体」を出品してF記念賞を受け、会員に推挙された。同年渡欧。同63年インドへ、翌64年中国へ旅する。同50年代中葉までは、破れた布、紙などをモティーフに写実と空想を織りまぜた画風を示したが、50年代後半から幾何学的構成へと傾斜し、青い色面による「青の世界」のシリーズ等を制作した。平成2(1990)年個展「青の世界」(画廊ぶらんしゅ)を開催。没する同4年には西宮市鳴尾会館に陶板壁画を制作している。西宮美術協会会員で、同会副代表もつとめ、西美芸術文化協会会員でもあった。

増田正和

没年月日:1992/06/20

彫刻家で浪速短期大学教授の増田正和は、6月20日縦隔しゅようのため神戸市中央区の神戸労災病院で死去した。享年61。増田は昭和6年4月24日兵庫県に生まれ、京都市立美術大学西洋画科を卒業した。はやくから石彫に進み、昭和35年に朝日新人展(大阪)に出品したのをはじめ、同36、37年には集団現代彫刻展に出品、また、行動美術協会に所属し同41年彫刻部会員に推挙されたが、間もなく同協会を離れた。同43年、小豆島石彫シンポジウムに企画参加し、制作グループ「環境造形Q」を結成(同63年解散)した。同49年、第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に出品、翌年の第6回現代日本彫刻展(宇部)では「二つ折りの座」で京都国立近代美術館賞を、同51年第5回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「寄り添う座」で宇部市野外彫刻美術館賞をそれぞれ受賞するなど、石彫作家として活躍した。同56年、第9回現代日本彫刻展に「碑のトルソ」で大賞を受賞、また、翌年の第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展では神戸市公園緑地協会賞を受けた。同63年、大阪中之島緑道彫刻コンペでは優秀賞。この間、同61年に塚本英世記念国際海外研修員としてイタリアへ赴いた。八王子市彫刻シンポジウム(同59年)、関ケ原石彫シンポジウム(平成3年)等にも参加した。作品は他に、「箱の中」「関ケ原」などをはじめ、環境造形Qとしての作品20店がある。

杉本亀久雄

没年月日:1992/06/12

洋画家でモダンアート協会創立会員の杉本亀久雄は、6月12日敗血症のため大阪市住吉区の大阪府立病院で死去した。享年71。大正9(1920)年6月19日奈良市で生まれる。大阪府立住吉中学校を経て昭和19年関西学院大学を卒業する。卒業後毎日新聞社に入社、同41年まで在職し、大阪本社学芸部美術記者をつとめたが、同年9月画業に専念するため同社を退社した。この間、はじめ自由美術家協会展に出品し、同24年自由美術家協会会員となったが、翌25年、同協会の村井正誠ら抽象系作家が分離独立して結成したモダンアート協会に創立会員として参加、以後同展への出品を続けた。また、同41年には第1回目の個展を東京・日動サロンで開催、翌年には大阪・梅田画廊で個展を開き、その後隔年おきに日動画廊本・支店で個展を続けた。モダンアート協会展への出品作に「アッシジ遠望」(第15回)、「砂漠」などがある。なお、夫人は作家の山崎豊子。

森京介

没年月日:1992/06/10

茨城県歴史館等の建築設計を手がけた建築家森京介は6月10日午後5時38分、肺炎のため東京都新宿区の慶応大学病院で死去した。享年66。大正14(1925)年7月3日、東京都新宿区で生まれる。外交官であった父新一の任地仏領インドシナの幼年時代を過ごし、昭和18(1943)年東京市立第一中学校を卒業。同22年旧制水戸高等学校を卒業し、同24年には旧制成城高等学校を卒業した。その後東京工業大学に入り建築学科に学んで同28年に卒業。同年山田守建築事務所に入る。同31年同社を退社し、翌32年に森京介建築設計事務所を設立。同年東京荻窪東宝劇場等の建築設計にあたり、同36年後楽園箱根ロッジ、同38年東京オリンピック軽井沢総合馬術競技場の建築に従事した。同38年森京介建築設計事務所を株式会社森京介建築事務所に改める。同40年熱海後楽園、同46年茨城県歴史館、同54年栃木厚生年金休暇センター、琉球大学教養学部、同55年持田製薬名古屋支店、同60年清川カントリークラブ、61年札幌勤労者職業福祉センター、平成2年西那須野町庁舎、同3年KKR HOTEL OSAKA等を手がけ、昭和57年長年の功績に対し日本建築士会会長賞を贈られた。晩年、洋画家伊藤清永と出会ったのが契機となり、少年期に志しながら遠ざかっていた洋画家への夢を捨てがたく、洋画を描き始め、昭和60年第61回白日会展に「花のある空間」で初入選、同62年第63回展に「光の中の娘」を出品して会友に推され、平成2年第66回展に「花萌」を出品して白日会準会員に推挙された。日本消防会館、和三紫ビル、吉備高原カントリークラブの壁画も制作。著書に『商業建築企画設計資料集』『ホテル業の現状と将来』などがある。

森義利

没年月日:1992/05/29

合羽摺の第一人者として知られた版画界の長老森義利は、5月29日午前2時38分、肝不全のため東京都港区の六本木病院で死去した。享年93。明治31(1898)年10月31日、東京日本橋船町の魚問屋「西源」の六代目として生まれる。同36年家業が倒産。日本橋浜町尋常小学校を経て同43年日本橋高等小学校に入学するが、翌44年に同校を中退して、おもちゃ問屋、質店、洋紙店などで奉公する。洋紙店では過酷な労働の中にも絵を描く楽しみを知り、やがて実母の家へ戻って大正4(1915)年から山川秀峰に入門。秀峰の父霽峰に文様、染色の指導を受けた。翌5年、秀峰に従って鏑木清方門下の新年会に列席し、浮世絵風人物画家を志すようになる。同7年入隊して朝鮮半島に赴任。同9年除隊となり、同10年より桜木油絵具製造工場に勤める一方、中村不折の指導する太平洋画会研究所に学ぶ。また五島耕畝につけたて運筆を学んだ。同12年太平洋画会研究所から川端画学校へ移るが、同年9月の震災によって家計を担わなくてはならなくなり、画業を断念。文様・染織の道に進み、同14年に独立した。昭和13(1938)年、日本民芸館を訪ね、柳宗悦の講義に感銘を受けて、翌14年染色研究団体である「萠黄会」を結成。芹沢銈介にも指導を仰いだ。戦中は奢侈禁止令により友禅文様等が当局の弾圧にあい、文様連盟日本橋・京橋・深川地区理事長として文様制作の保護に尽力した。戦後は、同21年第1回日展工芸部に「藍染 野菜の丸の図」を出品。同年第1回日本美術及工芸交易振興展に「浅草寺風物の図振袖」で3等賞を受賞した。同24年第23回国画会展に「愛染明王染軸」で初入選、同29年日本板画院展に初入選し、両展に出品を続け、同56年国画会工芸部会員、日本板画院会員となった。同32年東京国際版画ビエンナーレ展に「暮の市1、2」を出品して注目されて以後、版画家として国際的にも認められ、アメリカ、オーストリア、スペイン、南米等で作品を展観するようになった。同37年、工芸と美術をめぐっての意見の相違から国画会工芸部を退く。また、同40年には日本板画院をも退いた。その後も同44年第1回国際版画展で受賞するなど国際的に活躍し、同45年初めて渡欧、同47年にはアメリカをも訪れた。江戸時代に浮世絵にも用いられた合羽摺は、薄い和紙を数枚張り合わせた「合羽紙」に図柄を描き、それを彫って型紙をつくり、手摺りを行なう技法で、森は染色文様を生業とした経験を生かして、これを近代版画によみがえらせた。下町の風俗、職人づくし、祭礼が多く題材とされ、晩年には「平家物語」「源氏物語」等の古典文学や歌舞伎の主題もとりあげられた。溌刺たるフォルム、輪郭をなす黒をアクセントとする明快な色彩を用いた生命感ある画風が特色である。没後、作家の遺志により遺族から中央区に遺作200点が寄贈された。

藤本能道

没年月日:1992/05/16

人間国宝の陶芸家で東京芸術大学学長もつとめた藤本能道は5月16日午後4時39分、呼吸不全のため東京都葛飾区の慈恵医大青戸病院で死去した。享年73。大正8(1919)年1月10日、東京大久保に大蔵省書記官藤本有隣の次男として生まれる。同12年、関東大震災により生家の郷里高知市へ移り住み、小学4年まで高知市ですごす。昭和3(1928)年上京。麹町尋常小学校を経て同6年東京府立第一中学校に入り、東京美術学校図案部に入学し同16年同部を卒業。同年4月文部省工芸技術講習所第一部に入学し、翌年より同講習所講師であった加藤土師萌に陶芸を学ぶ。同17年第29回光風会展に図案「貝殻の構成」「抽象構成」で初入選。同年の東京府工芸展には陶器を出品している。同18年同講習所を卒業し、ひき続き同所嘱託となった。同19年6月から同講習所教授となった富本憲吉に師事して同年8月より助手をつとめた。同年第31回光風会展に「赤絵花瓶」「黒釉木ノ葉皿」「黒釉上絵花瓶」を招待出品して光風工芸賞受賞。同20年勤務先の講習所が岐阜県高山へ疎開したため教授であった富本に同行した。同21年第20回国画会展に油絵「海樹」で初入選。また、同年の同展に「五染附色絵小壷(かれい)」「色絵小壷(梅)」等全7点を出品するが、同年富本憲吉が国画会展を退会するに伴い同会工芸部が解散したため、同展への出品はこれのみとなった。また、同年第1回日展に「色絵花瓶」を出品する。同年5月、富本が文部省工芸技術講習所を退くと、これに従って講習所助手を辞任。翌月から京都松風研究所に勤務し、同所顧問富本憲吉から再び指導を受けた。同22年より富本を中心に設立された新匠工芸会に参加。翌23年同会会友、同24年同会員となった。同25年鹿児島県及び市商工課嘱託となって県内窯業指導に当たる。同31年京都市立美術大学専任講師となり、また同年日本陶磁協会賞を受けた。同32年新匠工芸会を退いて走泥社に参加。同年モダンアート協会展に初出品し、同33年に同協会会員となった。この頃から実用を離れたオブジェ等前衛的な試みに取り組んでいる。同37年京都市立美術大学を退いて東京芸術大学助教授となる。同38年、伝統を重視する作風に転換してモダンアート協会、走泥社を退会。その後日本伝統工芸展を中心に作品を発表したほか、同45年フランスのバロリス国際陶芸展、同51年国際交流基金主催、ニュージーランド、オーストラリア巡回「現代日本陶芸展」、同58年米国のジャパニーズセラミックストゥディ展等、国際的にも活躍した。伝統的な色絵に絵画的写実を導入し、「釉描加彩磁器」の新技法、新たな作風を開拓して、昭和61年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。同60年から4年間、工芸家では初めて東京芸術大学の学長をつとめるなど、工芸界に指針を示すとともに教育にも尽力した。著者に『やきもの絵付十二ケ月』(同59年 溪水社)、『藤本能道作品集』(同60年 講談社)等がある。

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