藤本能道

没年月日:1992/05/16
分野:, (工)

人間国宝の陶芸家で東京芸術大学学長もつとめた藤本能道は5月16日午後4時39分、呼吸不全のため東京都葛飾区の慈恵医大青戸病院で死去した。享年73。大正8(1919)年1月10日、東京大久保に大蔵省書記官藤本有隣の次男として生まれる。同12年、関東大震災により生家の郷里高知市へ移り住み、小学4年まで高知市ですごす。昭和3(1928)年上京。麹町尋常小学校を経て同6年東京府立第一中学校に入り、東京美術学校図案部に入学し同16年同部を卒業。同年4月文部省工芸技術講習所第一部に入学し、翌年より同講習所講師であった加藤土師萌に陶芸を学ぶ。同17年第29回光風会展に図案「貝殻の構成」「抽象構成」で初入選。同年の東京府工芸展には陶器を出品している。同18年同講習所を卒業し、ひき続き同所嘱託となった。同19年6月から同講習所教授となった富本憲吉に師事して同年8月より助手をつとめた。同年第31回光風会展に「赤絵花瓶」「黒釉木ノ葉皿」「黒釉上絵花瓶」を招待出品して光風工芸賞受賞。同20年勤務先の講習所が岐阜県高山へ疎開したため教授であった富本に同行した。同21年第20回国画会展に油絵「海樹」で初入選。また、同年の同展に「五染附色絵小壷(かれい)」「色絵小壷(梅)」等全7点を出品するが、同年富本憲吉が国画会展を退会するに伴い同会工芸部が解散したため、同展への出品はこれのみとなった。また、同年第1回日展に「色絵花瓶」を出品する。同年5月、富本が文部省工芸技術講習所を退くと、これに従って講習所助手を辞任。翌月から京都松風研究所に勤務し、同所顧問富本憲吉から再び指導を受けた。同22年より富本を中心に設立された新匠工芸会に参加。翌23年同会会友、同24年同会員となった。同25年鹿児島県及び市商工課嘱託となって県内窯業指導に当たる。同31年京都市立美術大学専任講師となり、また同年日本陶磁協会賞を受けた。同32年新匠工芸会を退いて走泥社に参加。同年モダンアート協会展に初出品し、同33年に同協会会員となった。この頃から実用を離れたオブジェ等前衛的な試みに取り組んでいる。同37年京都市立美術大学を退いて東京芸術大学助教授となる。同38年、伝統を重視する作風に転換してモダンアート協会、走泥社を退会。その後日本伝統工芸展を中心に作品を発表したほか、同45年フランスのバロリス国際陶芸展、同51年国際交流基金主催、ニュージーランド、オーストラリア巡回「現代日本陶芸展」、同58年米国のジャパニーズセラミックストゥディ展等、国際的にも活躍した。伝統的な色絵に絵画的写実を導入し、「釉描加彩磁器」の新技法、新たな作風を開拓して、昭和61年重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。同60年から4年間、工芸家では初めて東京芸術大学の学長をつとめるなど、工芸界に指針を示すとともに教育にも尽力した。著者に『やきもの絵付十二ケ月』(同59年 溪水社)、『藤本能道作品集』(同60年 講談社)等がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成5年版(318頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「藤本能道」『日本美術年鑑』平成5年版(318頁)
例)「藤本能道 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10300.html(閲覧日 2024-04-19)

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