本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





三木淳

没年月日:1992/02/22

読み:みきじゅん  日本写真家協会会長、日本写真作家協会会長などをつとめた報道写真家三木淳は2月22日午前0時47分、急性心不全のため東京都港区の慈恵医大病院で死去した。享年72。大正8(1919)年9月14日岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市)に生まれる。岡山県立岡山第一中学校を卒業して慶応大学経済学部に入学。在学中から写真家を志し木村伊兵衛、土門拳らを知り、昭和16(1941)年土門に弟子入りして文楽人形の撮影などの助手をつとめた。同18年慶応大学を卒業して野村貿易に入社。除隊後、同22年サンニュース・フォトス社に、翌年INP通信社に入社。同24年、ライフ誌に掲載されたシベリア抑留帰還旧日本兵の写真が世界的に注目されて、同年タイムライフ社に入社した。同社には同32年まで勤務し、この間、サンフランシスコ講和条約締結に出かける「吉田首相の顔」や「マッカーサー元帥、東京を去る」等をライフ誌に発表。また、同29年には国連軍報道班員として朝鮮戦争の撮影を行った。一方、同25年集団フォトを、同27年ニッコールクラブを設立。同32年タイムライフ社を退社してフリーランスとなり、世界各国に取材して「インカとブラジリア」「メキシコ写真展」「ニューヨーク五番街物語」「サンバ・サンバ・ブラジル」「私のニューヨーク」「ビートルズのリバプール」等の展覧会を開催。写真集に『写真メキシコ-遺跡の中の青春』(教養文庫)、『サンバ・サンバ・ブラジル』(研光社)、『写真創価学会』(河出書房)、『慶応義塾』(美術出版社)、『LIFEのカメラアイ』(小学館)等があり、その足跡は『昭和写真全仕事7 三木淳』(朝日新聞社)に詳しい。同49年ニッコールクラブ会長、同56年日本写真家協会会長となり、平成元年には日本写真作家協会を設立して同協会会長となった。また、昭和52年日本大学芸術学部教授となり、以後写真教育にもつとめ、同58年師土門拳の記念館が設立されると同館の初代館長となった。世界的に認められた日本の報道写真家としては先駆的存在であり、日本写真界の指導者的役割を果たした。

児玉幸雄

没年月日:1992/02/20

西欧の広場を描いた作品で知られる洋画家児玉幸雄は2月20日午後9時5分、心不全のため東京都港区の前田外科病院で死去した。享年75。大正5(1916)年8月9日、大阪市に生まれる。関西学院大学の美術部弦月会に参加し田村孝之介に師事。昭和11(1936)年全関西洋画展に初入選し、翌12年第24回二科展に「赤い背景の人形」で初入選。その後二科展には連年入選。同14年関西学院大学経済学部を卒業したのち入隊。同15年紀元2600年奉祝展には二科会から推薦されて「戦線風景」を出品した。戦後は同22年に創立された二紀会に第1回展から参加し、同年同会同人となる。同25年第4回二紀展に「家族」「夏の庭」を出品して同人賞を、同27年第6回同展に「黒い上衣」「画室の親子」「働く家族」を出品して同人優賞を受賞。同年同会委員となる。同31年東京に転居。同32年渡欧し、同34年日本橋三越、大阪阪急百貨店で渡欧作品展を開いた。その後、同40年に欧州、アメリカ、メキシコを巡遊したほか、同44年に渡欧。同46年以降は平成3年まで毎年渡欧して、欧州各地、特にフランスの広場、市場の情景を主に描き、二紀会のほかに日動画廊、梅田画廊等での個展で制作を発表して人気を博した。同51年病をえて二紀会を退会。その後は個展を中心に作品を発表していた。初期には人形や着衣の婦人像を多く描いたが、渡欧後は異国の人々の生活感と活力がみなぎる広場を主なモティーフとし、堅牢なマチエルとさざめくような色面による画面構成で、具象画界の実力派として認められていた。著書に石版画集『フランスの四季』『パリーの街角』(昭和56年)、石版画集『素顔のパリー』(同58年)等がある。

赤星亮衛

没年月日:1992/02/20

読み:あかぼしりょうえ  行動美術協会会員の洋画家で、絵本作家としても知られた赤星亮衛は、2月20日午前5時5分、心不全のため千葉県松戸市の東葛クリニックで死去した。享年70。大正10(1921)年11月22日、熊本県玉名市高瀬に生まれる。本名亮一。郷里の先輩である海老原喜之助に師事し、昭和27(1952)年第16回自由美術展に「裸婦」で初入選。あかね書房刊「ふしぎなランプ」で初めて挿絵を担当し、同41年サンケイ児童文化賞を受けた。同43年「森のメルヘン」で第23回行動美術展に初入選。同47年27回同展に「涅槃の時」「悟の時」を出品して行動美術奨励賞を受け、同48年同会会友となる。同60年第40回同展に「トレモスの謝肉祭」を出品して柏原記念賞を受賞。同64年同会会員となった。こうした油絵は、社会への風刺を潜めながらも明るく童画風である。その画風をいかし、「三びきのおばけ」「ぷっぷみみずく」などの絵本、「緑の電車は飛んだ」などの童話等、約500冊の本に挿絵を描いて好評を博した。

三谷十糸子

没年月日:1992/02/11

読み:みたにとしこ  女子美術大学学長もつとめた代表的な女流日本画家の一人三谷十糸子は、2月11日午前6時31分、ジン不全のため東京都杉並区の河北病院で死去した。享年87。明治36(1903)年7月28日兵庫県加古郡(現高砂市)に生まれ、本名敏子。大正11年兵庫県立第一高等女学校を卒業し、女子美術専門学校(現女子美術大学)に入学する。同14年同校を首席で卒業後、京都に移り、西山翠嶂の青甲社に入塾。昭和3年第9回帝展に「少女」が初入選し、翌年同第10回「露店」、5年第11回「独楽」、6年第12回「おとめ達」と出品した。7年第13回帝展で「女」が特選となり、それまでの暗い色調から澄んだ色調へと移行。翌8年第14回帝展で「朝」が再び特選を受賞し、9年同第15回展出品作「夕」は政府買上げとなった。戦後、昭和26年東京に移り、翌27年から母校女子美術大学で教授として教え、46年から50年まで学長をつとめる。この間、33年日展会員となり、39年第7回新日展で「若人の朝」が文部大臣賞を受賞、44年には前年の第11回新日展出品作「高原の朝」によって日本芸術院賞を受賞した。裕福な医者の家に一人っ子として育ち、少女時代に文学と詩にあこがれた三谷の作品は、モチーフに好んで少女を描き、厚く柔らかな色彩によるモダンで詩的な世界を展開した。40年日展評議員、48年理事、52年参事となり、日展のみならず女流日本画家の代表的作家の一人として活躍した。長女の三谷青子(日展会員)、さらにその長女の曽田朋子も、日本画家として活躍している。帝展・新文展・日展出品歴昭和3年第9回帝展「少女」、4年10回「露店」、5年11回「獨楽」、6年12回「おとめ達」、7年13回「女」(特選)、8年14回「朝」(特選・無鑑査)、9年15回「夕」(推薦)、12年第1回新文展「朝」(無鑑査)、13年2回「蟻」(無)、14年3回「月の暈」(無)、15年紀元2600年奉祝展「山家の雨」、17年第5回「風車咲く朝」、19年戦時特別展「豆の秋」、22年第3回日展「蓮」、23年4回「湯屋」(依嘱)、24年5回「草原」(依)、25年6回「花と娘」(依)、26年7回「鱒」(依)、27年8回「杜」(審査員)、29年10回「月の小徑」(依)、30年11回「私の夢」(依)、31年12回「三人の裸婦」(依)、32年13回「夜の海」(依)、33年第1回新日展「池畔有情」(会員となる)、34年2回「蝶」(審査員)、35年3回「少女と森」、36年4回「少女と森」、37年5回「野の花」、38年6回「秋の流れ」、39年7回「若人の朝」(審査員、文部大臣賞)、40年8回「若人の夏」、41年9回「小さな花束」、42年10回「夕」、43年11回「高原の朝」、44年第1回改組日展「夕」、45年2回「白い鳩笛」、46年3回「花野の朝」、47年4回「青い実」(審査員)、48年5回「爽やかな朝」、49年6回「朝野」、50年7回「夕」、51年8回「野」(審査員)、52年9回「野」、53年10回「棕櫚草の小径」、54年11回「林の朝」(審査員)、55年12回「山の花咲く」、56年13回「夕」、57年14回「月の出を待つ」、58年15回「笛の音」、59年16回「暮れ行く」、61年18回「暮れ行く」

殿敷侃

没年月日:1992/02/11

読み:とのしきただし  廃材を用いた作品で近年注目されていた造形作家殿敷侃は2月11日午後10時25分、肝臓がんのため島根県益田市の日赤益田病院で死去した。享年50。昭和17(1942)年1月22日、広島市に生まれる。3才の時に広島への原爆投下で父をなくし、間もなく母も失う。被爆当日は疎開先にいたが、2日後に広島市に帰ったため後に健康を害する。広島大学を中退し、同53年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作する。同56年第1回西武美術館版画大賞展でシルクスクリーン「作品2」が日版商買上賞を受賞。同50年代後半からインスタレーションを試み、古タイヤを野性の木々の枝にかけたり、捨てられたテレビ数十台で田を囲む等、廃材を利用した環境芸術を制作。近年の地球環境問題の高まりと並行して注目されるようになった。平成2年春、それまでの7年間の活動をまとめた『逆流する現実』を刊行。同年ヨーロッパを巡遊した。晩年は山口県長門市北浦に住んで制作していた。

明石朴景

没年月日:1992/02/10

読み:あかしぼっけい  日展、現代工芸展などで活躍した漆芸家明石朴景は2月10日午前6時50分、急性心不全のため高松市の自宅で死去した。享年80。明治44(1911)年10月1日、香川県高松市に生まれる。本名聖一。昭和9(1934)年東京美術学校図案科を卒業。和歌山県漆器試験場勤務を経て、同17年高松工芸学校教諭となる。戦後の同21年秋第2回日展に「華紋蒟醤色紙筥」で初入選。以後同展に出品し、同33年第1回新日展に「夜を聞くレコードキャビネット」を出品して特選受賞。同39年より日展依嘱となり、同41年日展審査員をつとめた。同43年日展会員となる。同52年第19回社団法人日展に「薫風婉然」を出品して会員賞を受けた。戦後、一時京都市立美術大学助教授、高松市立美術館学芸員をつとめた後、同44年より高松短期大学教授となった。朴景とも号し、花、魚等の自然の形をもとに大胆に図案化を加え、幾何学文様と組みあわせ、黒や朱の漆の地色を生かした斬新なデザイン感覚を示す作品を制作した。平成4年3月13日より郷里高松市立美術館で「明石朴景展」が開かれ、その業績が本格的に回顧された。

岸澤武雄

没年月日:1992/02/06

日展評議員の鋳金家岸澤武雄は2月6日午後0時25分、肺炎のため埼玉県川口市の済生会川口総合病院で死去した。享年80。明治45(1912)年2月2日、埼玉県川口市に生まれる。昭和13(1938)年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業。同年第3回実在工芸展に入選するが、この年に入隊する。同22年川口市立南中学校教師となり、同年第3回日展に「瑞鳥香爐」で初入選。同24年第5回日展に「金工銀錯花紋青銅壷」に入選して以後連年日展に出品する。同28年第9回日展出品作「汀(花器)」で特選朝倉賞受賞。同38年日展会員となり、同年同評議員となった。また、同29年高村豊周の主宰する同人「対象」に参加。同36年現代工芸美術家協会の設立に参加し、同38年同会常任委員、同40年同会理事となった。同25年より27年までは川口市立西中学校、同27年から45年までは埼玉県立川口高校で教員をつとめつつ、制作を発表。初期の作品は壷、花瓶といった容器の形態をとったが、昭和40年代には直接実用とは結びつかない装飾板の制作が多くなり、花、鳥、星等をモチーフに明快な色彩で童画的作風を示した。戸田市役所の平和像なども制作している。

阿部広司

没年月日:1992/02/03

水彩画家で日本水彩画会理事、示現会理事の阿部広司は、2月3日心不全のため東京都港区の病院で死去した。享年81。明治43(1910)年3月28日、現在の福島県いわき市に生まれ、福島県立磐城中学校、東京府青山師範学校を経て、昭和9年東京高等師範学校図画手工専修科を卒業した。卒業後、群馬県立高崎中学校、東京女子高等師範学校などで教え、戦後は東京都教育委員会に奉職、公立中学校校長などを経て、同45年からは日本女子体育短期大学教授をつとめた。この間、はやくから水彩画を専門とし、戦後の同24年に日本水彩画会会員、翌年には示現会会員となって制作発表を行った。また、同23年から日展にも連続入選し、同28年の日展出品作「東京駅八重洲口」は「週刊朝日」の表紙を飾った。作品は他に「大島の秋色」(同37年)、同49-52年間の連作「漁港」などがある。

山川輝夫

没年月日:1992/01/20

洋画家で東京芸術大学助教授の山川輝夫は、1月20日胆管閉塞のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年51。昭和15年東京に生まれる。同39年東京芸術大学油画科を卒業、卒業制作は「無いものねだり」で、大橋賞を受賞した。同41年同大学大学院を修了。同44年から49年まで女子美術短期大学非常勤講師をつとめたのち、同56年東京芸術大学助教授に就任した。同61年から翌年にかけて、文部省在外研究員としてイギリスで研修を行った。国際形象展、十騎会展、黎の会展、杜の会展などのグループ展と個展で制作発表を行い、平成4年にはみゆき画廊で瀧徹との二人展を開催した。没後、平成4年4月に東京芸術大学芸術資料館で、山川輝夫遺作展が開催され、卒業制作から近作のシリーズに至る30余点が出品された。

入江泰吉

没年月日:1992/01/16

写真家の入江泰吉は、1月16日脳こうそくのため奈良市の国立奈良病院で死去した。享年86。大和路の社寺や仏像、風物を撮り続けた入江は、明治38(1905)年11月5日奈良市に生まれた。大正12年、奈良女子師範付属高等小学校高等科を卒業、同15年写真技術修得のため大阪へ出、昭和8年大阪市南区鰻谷仲之町15に独立し写真技術一般の営業を始め、また、写真家としての活動も開始した。同12年、アマチュア写真研究会「光藝倶楽部」を創立主宰する。同16年、日本報道写真協会に加入。同19年に戦災に遇い奈良市水門町49に転居、以後、奈良風物の撮影に当り、とくに終戦直後の混乱期に古都の文化財が破壊されるのを恐れ、大和路の社寺などの撮影に専念するに至った。同23年、東京で「仏像写真展」を開催したのをはじめ、同33年には写真集『大和路』を出し写真家として本格的にデビューした。この間、国画会写真部会員として、同展に制作発表も行う。“滅びの美しさ”を主情的に表現する作風で知られ、風景撮影では古代のイメージを重んじ、自動車や電柱を徹底的に排除した。同51年、「古色大和路」「萬葉大和路」「花大和」の三部作で、写真家としては土門拳についで二人目の菊池寛賞(第24回)を受賞した。同56年、我が国では初の写真個人全集『入江泰吉写真全集』全8巻(集英社)を出版する。この他、伝教伝導文化賞、日本写真協会功労賞など受賞も多く、出版物は共著も含めて百冊を越える。没後の平成3年5月、入江泰吉の全作品8万点余を収めた奈良市写真美術館が開館した。

竹島卓一

没年月日:1992/01/14

読み:たけしまたくいち  名古屋工業大学名誉教授の建築史家竹島卓一は、1月14日午前11時46分、心不全のため東京都北区の自宅で死去した。享年90。東洋建築史の研究で知られ、日本学士院賞恩賜賞を受けた竹島は、明治34(1901)年4月29日、三重県上野市大字大野木に生まれた。昭和2(1927)年東京帝国大学工学部建築科を卒業。同4年東方文化学院が設立されると同時に入所し、関野貞らと共に中国各地を調査、中国の建築、陵墓の研究に従事する。同8年東京帝国大学大学院修了。同12年8月より14年8月まで召集により北支・中支に赴く。同17年名古屋高等工業学校教授となり、同24年同校が名古屋工業大学となって後も同校で教鞭をとった。戦前完成していた学位論文「営造法式の研究」は、同20年3月の空襲により焼失したが、戦後再度著し、同25年東京大学から博士号の称号を受けた。この研究は同45年『営造法式の研究(一)(二)(三)』(中央公論美術出版)として刊行され、こうした一連の「営造法式の研究」に対し、同48年日本学士院賞・恩賜賞が贈られた。同40年名古屋工業大学を停年退官し同年より47年まで神奈川大学工学部、同47年から同51年まで国士館大学工学部で教授をつとめた。他の著書に『遼金時代の建築と其仏像』(龍文書局 昭和19年)、『中国の建築』(中央公論美術出版同45年)、『建築技法から見た法隆寺金堂の諸問題』(同、同50年)などがある。一方、古建築の解体修理、復元にも従事し、昭和25年から31年まで法隆寺国宝保存工事事務所長として同寺五重塔、金堂等の解体修理にあたり、同45年日本万国博覧会古河館の東寺七重塔模造設計、同52年法輪寺三重塔の設計等を手がけた。伝統的建築技術を深く理解し、さらに科学的知識、洞察を加えて、近代の保存修復に一指針を示した。

児玉博

没年月日:1992/01/01

「伊勢型紙」の縞彫りで国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の児玉博は、1月1日午後10時58分、尿管腫ようのため三重県鈴鹿市の中勢総合病院で死去した。享年82。明治42(1909)年10月13日、三重県白子町に生まれる。父房吉に幼少時から伊勢型紙の技術指導を受けた。大正13(1924)年白子町立工業学校を卒業。翌年父の死去により上京し、浅草の伊藤宗三郎に入門して同家の職人となり、縞彫を中心に修業を重ねた。昭和4(1929)年独立して日本橋に開業。同8年、型付師小宮康助の型紙を彫り、以後康助、康孝父子の江戸小紋染に欠かせぬ存在となった。同17年戦火を避けて郷里へ帰った。戦後は縞小紋が不人気でもあり、同23年より同39年に停年退職するまで百五銀行本店に勤務しつつ、型紙の制作を続けた。日本伝統工芸展にも出品。曲一寸(約3センチ)幅に30本もの縞筋を引く精致な技で知られる。同52年津市の石水会館で「児玉博作品展」が開かれ、同61年三重県民功労賞を受賞した。

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