本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





浅野清

没年月日:1991/08/19

法隆寺昭和大修理に参加したことで知られ、元興寺文化財研究所長をつとめた建築学者浅野清は、8月19日午前10時55分、多臓器不全のため、愛知県瀬戸市陶生病院で死去した。享年86。明治38(1905)年、名古屋市に生まれ、大正15(1926)年名古屋高等工業学校建築科を卒業。昭和9(1934)年、法隆寺国宝保存工事事務所技手となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。同20年、同事務所所長、同23年国立博物館奈良分館勤務となり、同27年より奈良学芸大学助教授と奈良国立文化財研究所研究員を併任した。同28年奈良学芸大学教授、同31年大阪市立大学教授、同43年大阪工業大学教授、同48年愛知工業大学教授として、古建築の復原調査・研究を後進に指導。同57年元興寺文化財研究所所長兼副理事長、平成2(1990)年同理事長兼所長となった。この間、昭和26年に「上代建築の復原的研究」で日本建築学会賞受賞、同27年「奈良時代を中心とする日本建築遺構の復原的研究」で京都大学より工学博士の学位を受ける。また、同60年には「建築遺構ならびに遺跡にたいする実証的研究方法の確立と復原研究による日本建築史学および関連史学への貢献」で日本建築学会大賞を受賞。社寺建築のみならず、民家研究でも知られ、著書に『奈良時代建築の研究』(中央公論美術出版、昭和44年)、『法隆寺の建築』(同、同59年)、『大阪府の民家』1~3(大阪府文化財調査報告、大阪府教育委員会)などがある。その業績、著作については「建築史学」18号(平成2年3月)、『浅野清著作目録作品集』(近畿大学理工学部建築学科建築史研究室・愛知工業大学建築学科建築意匠研究室編 昭和60年)、『協会通信 特集号 浅野先生を偲ぶ』(財団法人文化財建造物保存技術協会 平成3年10月)に詳しい。

遠藤典太

没年月日:1991/08/08

春陽会会員の洋画家遠藤典太は8月8日午前2時10分、心不全のため横浜市中区の横浜市立港湾病院で死去した。享年88。明治36(1903)年1月10日福岡県大牟田市に生まれる。三井三池工業学校応用化学科に学ぶが大正7(1918)年2年次で退学。三井鉱山会社三池事務所に勤め、同13年画家を志して上京。本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事。同15年第4回春陽会展に東京大学構内の三四郎池を描いた「池」で初入選。以後同会に出品し、また、昭和4(1929)年春陽会研究所が設立されるとここに学び、小杉放菴、山本鼎、森田恒友、石井鶴三、中川一政らの指導を受けた。同6年第9回春陽会展で春陽会賞受賞。同9年同会会友となり、戦後の同22年同会会員に推挙された。同52年第54回春陽会展に「栢槙」を出品して第54回展賞を受賞。風景画を得意とし、身近な題材をとらえ、鮮やかな色を激しい筆触で用いてその筆触によって画面に動きを生み出す画風を示した。 春陽会展出品略歴第4回(大正15年)「池」(初入選)、5回(昭和2年)不出品、10回(同7年)「子供の顔」「三池風景」「天草風景(二)」「天草風景(一)」、15回(同12年)「雨後」「池畔」「山ふところ」、20回(同17年)「シクラメン」「磯辺」「山家」、30回(同28年)「教会堂」「街角の家」「港」、35回(同33年)「運河の舟」「運河」「山手の破家」、40回(同38年)「古いバラック」「木立」、45回(同43年)「神ノ木台部落」「神ノ木台風景」、50回(同48年)「丘の部落(2)」「丘の部落(1)」、55回(同53年)「栢槙」、60回(同58年)「さるすべりの木」、65回(同63年)「諸磯風景(その二)」

吉田光邦

没年月日:1991/07/30

京都大学名誉教授で京都府京都文化博物館長であった東洋科学技術史家吉田光邦は、7月30日午前1時33分、急性心不全のため、京都市左京区の京都大学医学部付属病院で死去した。享年70。大正10(1921)年5月1日、愛知県西春日井郡に生まれる。愛知一中、第八高等学校を経て、京都大学理学部に入学。昭和20(1945)年、同大理学部宇宙物理学科を卒業し、龍谷大学予科教授となる。同21年、東方文化研究所嘱託となり、同24年京都大学人文科学研究所に助手として入所。同33年同所講師、同35年同助教授、同52年同教授となった。この間、同31年京大学生イラン調査隊長として海外調査し、同34年、39年には京大イラン、アフガニスタン、パキスタン学術調査隊に隊員として参加。東南アジア諸民族の物質文化を調査した。人の技術として産業、芸術をとらえ、同30年『日本科学史』、同35年『砂の十字路』、同38年『錬金術』、同41年『やきもの-技術・生活・美学』、同45年『明清時代の科学技術史』(藪内清と共著)、同47年『中国科学技術史論集』などを刊行。同44年に京都大学より文学博士号を受けた。同40年後半から19世紀の日本を研究対象とするようになり、同53年京都人文科学研究所共同研究班「一九世紀日本の情報と社会変動」を主宰。特に万国博覧会を19世紀の特色ある事象ととらえ、同60年『万国博覧会』、同61『万国博覧会の研究』を刊行した。同59年京都大学人文科学研究所所長に就任。また、同年日本産業技術史学会を設立して同学会会長となった。同61年京都大学を退官し同大名誉教授の称号を受ける。平成2年京都府京都文化博物館長、同3年京都造形大学教授に就任。朝日陶芸展審査員のほか、京都府文化財保護審議会委員、文化庁文化財保護審議会専門委員、国立歴史民俗博物館評議員などもつとめた。著作には、他に『吉田光邦評論集1~3』(昭和59年)、『日本と中国-技術と近代化』などがある。

田中稔

没年月日:1991/07/30

国立歴史民俗博物館情報資料部長の田中稔は7月30日午後7時、肺がんのため東京都港区の病院で死去した。享年63。昭和3(1928)年2月18日、愛知県知多郡に生まれる。同27年3月、東京大学文学部国史学科を卒業。同年文化財保護委員会事務局美術工芸課に勤務し、同28年7月、奈良国立文化財研究所歴史研究室へと転じた。同39年4月平城宮跡発掘調査部史料調査室長となり、同52年埋蔵文化財センター長に就任した。同56年国立歴史民俗博物館設立準備室に加わり、運営協議員をつとめ、平成元(1989)年からは運営協議会会長となった。また、たびたび館長事務を代行し、昭和58年3月から4月同館開館前後には井上光貞初代館長の急逝により実質上の副館長として館の運営を指導した。同館開館とともに歴史研究部教授となり、同59年7月情報資料研究部教授となって情報資料研究部長を併任した。同館の展示には準備段階から参企し、展示計画の中心にあり、特に「王朝文化」「印刷文化」の常設展示はその構成になる。橘女子大学、東京女子大学、早稲田大学、法政大学で講師を歴任し平成2年11月から嵯峨美術短期大学でも教鞭をとった。

豊口克平

没年月日:1991/07/18

日本の工業デザイン界の重鎮、豊口克平は、7月18日午後3時48分、肺性心のため神奈川県鎌倉市の清川病院で死去した。享年85。明治38(1905)年11月16日、秋田県に生まれ、同県立秋田工業学校を卒業して大正14(1925)年に東京高等工芸学校工芸図案科に入学。昭和3(1928)年に同校を卒業。同4年、研究団体形而工房を結成。同8年、商工省(現通産省)産業工芸試験所に入り、輪出工芸品や家具のデザインに新機軸を打ち出し、同34年に退職するまで工業デザイン界の近代化に貢献した。その後、同34年より武蔵野美術大学教授として教鞭をとったほか、同35年、豊口デザイン研究所を設立。35年第1回モスクワ日本産業見本市会場デザイン、36年より41年まで日本巡航見本市船さくら丸展示設計、44年大阪万国博覧会協会ディスプレイデザイン顧問などを担当。また、同29年より48年まで日本インダストリアルデザイナー協会理事、同33年より日本インテリアデザイナー協会理事となり、それらの理事長を歴任。同49年、双方の名誉理事となった。同52年、武蔵野美術大学名誉教授となり、平成2(1990)年には通産省デザイン功労賞の第1回受賞者に選ばれた。著書に『標準家具』『デザイン戦術』などがある。

瀬戸團治

没年月日:1991/07/01

日展参与の彫刻家瀬戸團治は7月1日午後5時45分、心不全のため長野県岡谷市の病院で死去した。享年85。明治38(1905)年9月13日、長野県辰野町に生まれる。大正11(1922)年同県上伊那郡伊北農商学校農科を卒業。同13年上京して鶴田吾郎に洋画を学び、翌年曽宮一念に学ぶ。昭和2(1927)年頃より太平洋画会研究所に入り、中村不折、中村彝、中川紀元らに師事。同4年郷里に帰り小学校教員となり、以後11年間在職する。この間の同8年、構造社の斎藤素巌に彫刻を学び、翌年構造社展に初入選、以後出品を続ける。また、同11年文展鑑査展に「女の首」で初入選。13年第2回新文展にも「K子胸像」で入選。同19年帰郷し、農業を営みながら制作を続ける。戦後も日展に出品を続け、同25年第6回日展出品作「たか子さん」、翌26年第7回同展出品作「静姿」で2年連続特選受賞。同33年日展会員となり、同57年同参与となった。人物像、肖像を得意とし、写実を重視した堅実な作風を示した。動きの少ない静的なポーズを好み、モデルの存在への敬意を漂わせる。 新文展、日展出品歴昭和11年鑑査展「女の首」、第2回新文展(同13年)「K子胸像」、4回「立女」、5回「立つ」、6回「男」、日展第1回(同21年春)「裸婦」、2回「男の胸像」、3回「裸婦座像」、4回「裸婦」、5回「女の首」、6回「たか子さん」(特選)、7回「静姿」(特選、朝倉賞)、8回「信濃の娘」、9回「五三年夏の作」、10回(同29年)「静立」、11回「立女」、12回「直立」、13回「立女」、社団法人日展第1回(同33年)「黒塚(市川猿之助氏)」、2回「山によせて」、3回「坦路」、4回「立像」、5回「月光」、6回「静」、7回「静立」、8回「静夜」、9回「香」、10回「裸の塔」、11回「三面」、改組第1回(同44年)「裸像」、2回「一九七〇年作」、3回「裸身仏心」、4回「二柤一如」、5回「龍膽」、6回「静寂」、7回「晨」、8回「如人」、9回「土器を持つ」、10回(同53年)「寂」、11回「山びこ」、12回「首」、13回「女の首」、14回「男の首・D」、15回「画人N先生」、16回から21回(平成1年)不出品

土本悠子

没年月日:1991/06/25

人形劇団『ピッコロ』に所属し、舞台美術、人形の制作を担当した土本悠子は、6月25日午後11時42分、がん性腹膜炎のため東京都板橋区の東京都老人医療センターで死去した。享年58。昭和7(1932)年9月30日、神奈川県国府津に、映画脚本家山崎謙太の長女として生まれる。都立神代女子高校を経て、同31年、早稲田大学文学部史学科を卒業。同大入学とともに八田演劇研究所研究生となり、同37年頃より人形劇団『ピッコロ』に所属して人形つかいと人形制作に従事。人形劇団『プーク』の主宰者川尻泰司に師事、同45年より50年代を通じて人形作家として活躍した。代表作に同58年NHKに連続人形劇『ひげよさらば』の人形がある。

菅野矢一

没年月日:1991/06/15

読み:すがのやいち  日本芸術院会員の洋画家菅野矢一は、6月15日午後零時12分、間質性肺炎のため東京都大田区の中島病院で死去した。享年84。明治40(1907)年1月19日、山形市に生まれる。本名彌一。山形商業学校を中退し、小学校代用教員、会社員を経て、画家を志して上京。川端絵画研究所に学び、昭和11(1936)年文展鑑査展に「黒牛」で初入選。同14年より安井曽太郎に師事する。翌15年第5回一水会展に初入選。以後同展に出品を続ける。戦後の同21年同展会員となる。同28年渡欧し、パリのグラン・ショーミエールに学び、ゴエルグ、クラヴェに師事して翌29年帰国。同年第16回一水会展に「赤いコート」など滞欧作を出品して同会会員優賞受賞。同30年第11回日展に「裸婦」を出品して特選、同35年第3回新日展に「海のみえる丘」を出品して再び特選となる。また、同37年第5回日展に「岬の夕」を出品して同展菊華賞を受け、同41年日展会員となった。同46年北極圏に取材旅行。同54年にはスペインへ赴き、同年第11回改組日展に「白い太陽」を出品して同展文部大臣賞受賞。同55年中国雲南省奥地を訪れる。同56年第13回改組日展への出品作「くるゝ蔵王」により同年度日本芸術院賞を受け、同61年日本芸術院会員となった。初期には人物画も描いたが、後に風景画を中心に制作するようになり、海や山など広大な自然を明快な色面でとらえた清新な画風を示した。晩年は「奥の細道」シリーズを手がけ、同60年及び平成元年に日本橋三越での個展で発表している。 日展出品歴第1回(昭和21年春)「雪国」、2回(同年秋)「M子立つ」、4回(同23年)「雨の町」、6回(同25年)「婦人像」、7回「婦人像」、11回(同30年)「裸婦」(特選)、12回「赤いブラウス」、13回「冬山」、社団法人日展第1回(同33年)「夏山」、2回「山脈秋意」、3回「海のみへる丘」(特選)、4回「北国にて」、5回「岬の夕」(菊華賞)、6回「富士」、7回「雲と富士」、8回「樽前の野にて」、9回「教会の丘」、10回「蔵王残照」、11回(同43年)「大雪山」、改組第1回(同44年)「男鹿にて」、2回「石狩の野」、3回「白夜」、4回「蒼い岬」、5回「眺望」、6回「松島」、7回「平原にて」、8回「陽は昇る」、9回「陽はまた昇る」、10回(同53年)「平原」、11回「白い太陽」、12回「霧の岬」、13回「くるゝ蔵王」、14回「濕原にて」、15回「蔵王」、16回「雷鳴の浜」、17回「島の夕」、18回「月と山と」、19回「平原」、20回(同63年)「霧の峰」、21回「山峡の灯」

岡崎勇次

没年月日:1991/05/30

日展および光風会の会員で広島修道大学教授をつとめた洋画家岡崎勇次は5月30日午後8時11分、肝不全のため広島市中区の病院で死去した。享年66。大正13(1924)年9月25日、広島市因島市に生まれる。昭和19年9月、大阪青年師範学校を卒業。同26年第7回日展に「波止場付近」で初入選後、同展に出品を続けたほか光風会展にも出品し、同30年第41回光風会展では「帰船」「やぐら船」でA氏賞、翌31年第42回同展では「赤い船A」「赤い船B」で光風特賞を受け、同年同会会友、同35年同会会員となった。また、同34年第2回新日展では「白い船」で特選受賞。同35年渡仏し、パリのグラン・ショーミエールに通うなどして1年間滞在する。海の風景に多く題材をとり、白を基調色として少ない色数で画面をまとめる。対象の形を明瞭にあらわさず、色面で処理する画風を示す。著作もよくし、著書に『色彩の造形美学』『黒から白へ 生命をみつめる岡崎勇次』がある。同58年中京新聞社・因島市の主催で「岡崎勇次」展が開かれた。

山崎隆夫

没年月日:1991/05/25

国画会会員の洋画家山崎隆夫は、5月25日午後9時50分、心不全のため、神奈川県藤沢市の病院で死去した。享年85。明治38(1905)年7月13日、大阪市東区に生まれる。昭和5(1930)年神戸大学経済学部を卒業。三和銀行に勤務する一方、小出楢重、林重義に洋画を学び、同7年第2回独立展に「新聞紙の擴がれる卓上」で初入選。同会には同12年第7回展まで出品し、翌13年には国画会展に「住吉川風景」「西洋蘭」「花と影の静物」「静物」「海の見える風景」で初入選し国画奨学賞を受賞。翌14年の同展には「千日紅」「梅花」「三輪車、提灯」「庭」を出品して二年連続して国画奨学賞を受け、同15年同会同人となる。また、官展にも出品し、同13年第2回新文展に「阪神水害地風景」で初入選。第6回展まで連年同展に出品した。戦後は国画会展を中心に発表。同30年前後から画風は著しく再現的写実を離れて抽象化したが、晩年は具象画の中で、対象を幾何学的形態と純化した色彩でとらえる画風へと展開した。

富岡益太郎

没年月日:1991/05/20

明治期の日本画家富岡鉄斎の孫で、鉄斎美術館の初代館長をつとめた富岡益太郎は、5月20日午後2時25分、肺炎のため、京都市北区の自宅で死去した。享年83。明治40(1907)年9月17日、京都市上京区に生まれる。健康上の理由から中学校を中退し、源豊宗、梅原末治に美術史を、本田陰軒に漢文を学ぶ。昭和2(1927)年より同8年まで源豊宗らと共に仏教美術の雑誌を刊行。鉄斎研究家として知られ、昭和50年に兵庫県宝塚市に設立された鉄斎美術館の初代館長として、同61年まで在職した。

清宮質文

没年月日:1991/05/11

読み:せいみやなおぶみ  詩的な心象世界を版画で謳う元春陽会会員の版画家清宮質文は、5月11日午後4時54分、心筋こうそくのため東京都杉並区の山中病院で死去した。享年73。大正6(1917)年6月26日、洋画家清宮彬の長男として、東京府豊多摩郡に生まれる。四谷区第五小学校を経て、昭和10(1935)年麻布中学校を卒業。同年夏、同舟舎絵画研究所に入り、駒井哲郎と出会う。同12年東京美術学校油画科に入学。藤島武二に師事し、四年からは田辺至教室に学んで、同17年3月同校を卒業。在学中、版画教室で銅版画を試みる。東美校卒業の年の6月、長野県上田中学校の美術教師となるが翌年3月辞任。同年9月に上京し、翌19年慶応義塾工業学校の美術教師となる。同年応召。同20年慶応義塾工業学校に復職し、同24年に同校を辞して商業デザインに従事。同26年より27年まで商業デザイン会社に勤務するが、同28年8月、東美校の同級生による「ゲフ(䲜)の会」の結成に参加し、これをきっかけに制作に専念するとともに、木版画を始める。同29年第31回春陽会展に「巫女」で初入選。以後同展に出品を続け、同31年同会準会員、同32年同会会員となった。同33年11月、東京のサヱグサ画廊で初個展開催。同35年12月、東京の南天子画廊で個展を開いて以降、同画廊を作品発表の場とする。同37年第3回東京国際版画ビエンナーレ展に「枯葉」「蝶(ある空間)」を招待出品。同48年第10回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに木版画10点よりなる画集「暗い夕日」を出品。同49年第51回春陽会展に「告別」を出品したのを最後に同会へは出品せず、同52年同会を退会して無所属となる。同61年南天子画廊より『清宮質文作品集』(現代版画工房編)を刊行。版画の可能性を複製性よりも造形的特色に認めてモノタイプを中心に制作し、深い思索を背景に、静謐で詩的な独自の画風を示した。没後の平成3年7月、南天子画廊で追悼展が行なわれている。なお、年譜は『日本現代版画 清宮質文』(玲風書房 平成4年12月)に詳しい。

末永雅雄

没年月日:1991/05/07

高松塚古墳の発掘を指導するなど、日本の考古学界に多大な貢献をした文化勲章受章者、橿原考古学研究所初代所長の末永雅雄は、5月7日午後2時30分、心不全のため大阪府大阪狭山市の自宅で死去した。享年93。明治30(1898)年6月23日、大阪府大阪狭山市に生まれる。小学校を卒業後、水戸学の系統をひく史学を学び、のち考古学と有職故実の個人指導を受けた。大正15(1926)年より京都帝国大学文学部考古学教室で「日本考古学の父」とされる浜田耕作の指導を受け、昭和9(1934)年『日本上代の甲冑』を上梓して同11年に帝国学士院東宮御成婚記念賞受賞。同著と同16年刊行の『日本上代の武器』により、東アジア文化史の視点に立ち、出土品の実証的研究にもとづく独自の方法論を確立した。一方、奈良県の嘱託として石舞台古墳、橿原遺跡などの調査に当たり、同13年橿原考古学研究所を設立。自由な私塾的雰囲気の中で多くの優れた研究者を育て、同26年より同所所長をつとめた。また、後進を率いて桜井茶臼山古墳、和泉黄金塚、新沢千塚古墳群などを調査し、同47年高松塚古墳の発掘を指導したことで広く知られた。また、同25年より関西大学で教鞭をとり、同27年より同43年まで同大教授をつとめ、同大名誉教授となったほか、大谷大学、龍谷大学、大阪市立大学、大阪学芸大学、大阪経済大学などでも教鞭をとった。同55年文化功労者に選ばれたのを機会にすべての役職から退いたが、その後も『古墳の航空写真集』を自費出版するなど、その実証的方法論にもとづく研究、著作をつづけ、同63年、考古学界で初めての文化勲章受章者となった。

久米宏一

没年月日:1991/05/01

絵本や児童図書の挿絵で活躍した童画家久米宏一は、5月1日午後9時43分、腹部大動脈りゅう破裂のため、東京都文京区の東京医科歯科大学付属病院で死去した。享年73。大正7(1918)年11月18日、東京都小石川区に生まれる。昭和16(1941)年太平洋美術学校夜間部を修業。同21年井上長三郎らが中心となって設立した日本美術会に参加し、同会会員となったほか、日本童画会にも参加し委員をつとめた。同51年木版画の絵本「やまんば」で第25回小学館絵画賞を受賞。他に「黒潮三郎」「出かせぎカラス」等の代表作がある。

林沐雨

没年月日:1991/04/29

清水焼の伝統的作風を守りつつ、海外でも通用する陶磁器を目指し、団体に属さずに制作を続けた陶工林沐雨は、4月29日午前3時10分、肺炎のため京都市の病院で死去した。享年90。明治34(1901)年4月5日、清水焼の陶工林祥山を父に、京都市東山区に生まれる。本名義一。京都市立六原小学校に学び、大正5(1916)年より父に陶業を学ぶ。同8年、父祥山死去。同10年より宮内省御用品製造所・娯情堂で磁器製造を修得するが、関東大震災により同製造所が閉鎖されたため、同14年より独立。林家伝来の作風である仁清・乾山様式に学んだ作品を製作。昭和3(1928)年、低火度の赤火色透明釉を新たにつくり出し、交趾釉や和絵具として用いた作品を製作して輸出にも供した。その後一時病気のため休業。同7年5世清水六兵衛に入門し、同11年まで師事。同年独立して沐雨と号し自らの作風を追求し、京都府工芸美術展などに入選する。同13年ハワイの商社の依頼によってハイビスカスの置物の製造を始め、これ以後海外向けの作品を中心に制作するようになる。第二次世界大戦中は海外への輸出は途絶えたが、同24年、輸出装飾品の製造を依嘱され、海外向けのデザイン、製形などを案出。ハワイの商社を通じロスアンゼルス、シカゴ、ニューヨークなどに進出し、各地の食器店内に個別の一区画ができるほどの人気を博した。同45年西ドイツのフランクフルト市で開催された国際見本市に出品したほか、ジェトロ主催のロンドン・ギフトアイテム特別展示会にも出品し、ヨーロッパでも高い評価を得ることとなった。清水焼の伝統を保ちつつ、モダンな感覚を取り入れた作風を追い求めて広く親しまれた。戦後間もない同23年、京都府により伝統工芸技術保持者に認定されている。

河口楽土

没年月日:1991/04/27

日本南画院会長、日本自由画壇理事長の日本画家河口楽土は、4月27日午前2時半、心不全のため東京都狛江市の自宅で死去した。享年92。明治31(1898)年8月12日徳島県池田町で生まれ、本名喜代市。38年、住んでいた香川県多度津から一家で神戸に転居、神戸貿易商業、神戸英清高等英語科に学ぶ。初め洋画を志し、神戸から大阪の天彩学舎に通い松原三五郎に手ほどきを受けるが、大正元年富岡鉄斎の知遇を得てその薫陶も受けた。同10年大阪美術学校を卒業し、さらに日本大学で皇学を学ぶ。11年香川県立丸亀中学校に勤務、図画を教えるが、翌12年四国を遊歴中の橋本関雪に会い、関雪に師事、虚船と号し、日本画に専心する。昭和6年大阪松蔭女子大学の美術講師となり、翌7年矢野橋村、小松均らと乾坤社を結成する。この間、同5年第11回帝展に「雪眺」(号中門)が初入選し、この頃から日本南画院、新興南画院、墨人会(小杉放庵主宰)などにも出品。11年文展鑑査展にも「箕面溪流」(号虚船)が入選している。15年上京し、翌年小室翠雲が結成した大東南宗院に参加、審査員をつとめる。戦後、昭和35年河野秋邨らとともに日本南画院を再興、50年には日本自由画壇を結成し、平成3年から日本南画院会長、日本自由画壇理事長を兼任した。代表作に「老梅」(高野山霊宝館)、「三笑図」(本間美術館)、「幽谷」(東京都美術館)、「群猿・老梅」(妙智会)、高野山常喜院本堂格天井画161面などがある。またNHK文化センターで特別講師をつとめ、日本放送協会から『河口楽土墨彩の世界』を刊行している。

金田民夫

没年月日:1991/04/23

同志社大学名誉教授で意匠学会長をつとめた美学者金田民夫は、4月23日午後11時51分、肝ガンのため、京都市東山区の病院で死去した。享年71。大正8(1919)年5月26日、広島市に生まれ、昭和15(1940)年、広島高等学校を卒業。同18年京都大学文学部哲学科美学美術史専攻を卒業して同部副手となる。戦後の同22年、京都大学大学院特別研究生となって研究を続け、同25年、市立美術専門学校助教授となった。同27年、同志社大学文学部助教授となり、同30年同教授となった。同45年、京都大学より文学博士の学位を授与される。同57年より同59年まで同志社大学文学部長、文学研究科長をつとめ、平成2(1990)年、同大名誉教授となった。ドイツ美学を根幹にすえつつ、意匠学会、フェノロサ学会などにも参加するなど我国の近代美学に関しても広い視野から考証を加えた。著書に『シラーの芸術論』(理想社 昭和43年)、『美学における自然と現実』(創文社 同45年)、『日本近代美学序説』(法律文化社 平成2年)などがある。

藤江孝

没年月日:1991/04/22

1965年に渡仏し、長くフランスにあって彫刻制作に清苦した藤江孝は、4月22日午前7時57分、胃がんのため東京都大田区の大田病院で死去した。享年64。大正15(1926)年7月31日、京都に生まれる。昭和18年、神奈川県立湘南中学校を4年で修了し、慶応大学に入学。同23年同大工学部電気工学科を卒業。在学中から彫刻、映画に関心を持ち、卒業後は定職につかずに自活しながらそれらを独学。同27年、岩波映画製作所の嘱託となり、羽仁進、竹内信次、柳沢寿男らの助監督をつとめる。一方、彫刻家の団体である「造形研究会」に加わり、佐藤忠良に師事する。同29年、岩波映画とフリーとして契約し、今井正らによる「愛すればこそ」の製作にも参加したが、その後、記録映画に興味を注ぐ。同36年より39年まで黒木和雄、東陽一らと映画研究を目的とする「青の会」を結成し、その主要メンバーとなる。しかし、同38年、「ある化学プラントの記録」を最後に映画制作から離れ、同40年、渡仏して彫刻活動に専念。同42年、ラ・ジューヌ・スクリュチュールに初入選。以後同58年まで同展に出品したほか、同47年より58年までサロンド・メ、同47、52、53年にはレアリテ・ヌーヴュール、同49、53年にはサロン・コンパレゾン、同49~59年にはグラン・エ・ジューヌ・ド・オージュルデュイ、同53、56年にはトリエンナーレ・ユーロペアンヌ・スクリュテュールに出品した。初期には石を素材としたが、次第に木を主に用いるようになり、角材や板を構築的に組み上げたり、並べたりすることにより、人と親和する簡素な造形を展開。同59年4月、ニューヨークのニッポンクラブギャラリーで個展を開き、同年11月東京新宿三井ビル・ロビーで「藤江孝の木遊展」を開催。同60年、東京渋谷の西武百貨店で「藤江孝の木遊展 PART2」を開き、全階でディスプレイ・デザイン風に展示して、美術展という閉じられた会場芸術の枠を超える試みを行なった。この間、同55年、フランス・アルゴン・フィルムの寺山修司作品「上海異人娼館」の演出協力、友人小澤征爾の指揮によるヘネシー・オペラ「マノン・レスコー」の美術コーディネーターなど、求められて映画・舞台美術も手がけた。没後1周年を記して作品集「木遊-藤江孝追悼」(藤江三千発行)が刊行されている。

猪木匡四郎

没年月日:1991/04/17

武蔵野美術大学名誉教授の日本画家猪木匡四郎は、4月17日午前4時30分、前立腺がんのため千葉県市川市の国立精神神経センター国府台病院で死去した。享年73。大正6(1917)年香川県高松市に生まれる。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業し、戦後、昭和24年第5回日展に「慕情」が初入選。以後日展に出品し、東山魁夷の指導も受けた。また日本画院にも出品し、幹事をつとめている。10数回にわたって個展、グループ展を開催し、風景画を得意とした。この間、昭和31年5月武蔵野美術学校(37年武蔵野美術大学となる)日本画科講師、45年5月同大学美術学科日本画専攻助教授、51年4月造形学部日本画学科教授となり、後進の指導と育成にあたった。63年3月停年退職し、同年6月、同大学名誉教授となった。 日展出品歴昭和24年第5回「慕情」、25年6回「木立」、26年7回「曇り日の沼」、27年8回「連山遠望」、28年9回「藪のある風景」、29年10回「熱国の浜」、30年11回「黄昏」、31年12回「夕映え」、32年13回「裏街」、33年第1回新日展「風渡る」、36年同4回「水郷」、37年5回「古利根風景」、39年7回「夕紅」、41年9回「山湖」、42年10回「朝明け」、43年11回「静峡」

平通武男

没年月日:1991/03/28

日展参与で元岡山大学教授の洋画家平通武男は3月28日午前6時10分、心不全のため大阪府箕面市のガラシア病院で死去した。享年83。明治40(1907)年11月18日、大阪府豊能郡に生まれる。大正15(1926)年3月、奈良の天理中学校を卒業。のち上京して川端画学校を終了後、熊岡絵画道場で熊岡美彦に師事する、昭和7(1932)年第1回東光会展に初入選。同8年第14回帝展に「樹蔭」で初入選。翌9年第15回帝展にも「初夏窓邊」で入選する。同10年第3回東光会展には「ミシンと女」「蹄鉄作業」「或るスタンドバー」「室内」を出品して東光賞受賞。同11年文展鑑査展に「洗濯屋」を出品して選奨となる。同12年東光会会員に推される。戦後は同21年第2回日展に「黄衣」を出品して以降、同展に出品を続け、翌22年第3回日展では「潮風」で特選受賞。同33年日展が社団法人となって再出発する年に日展会員となる。同36年8月より約6カ月間フランスを中心に欧州遊学。同37年岡山大学教育学部美術科助教授となり、翌38年同教授に就任。また、同年日展評議員に推される。同48年岡山大学を停年退官。同55年東光会が社団法人となるに際し、副理事長となった。同61年大阪梅田近代美術館で画業60年記念展を開き、同年画集も刊行。同63年日展参与に推挙された。人物画を得意とし、情趣ある一瞬をとらえて絵画化する。古典的な形態把握と堅牢なマチエールを示す。没後の平成4年2月、大阪梅田ナビオ美術館で遺作展が開かれた。 帝展・新文展・日展出品歴第14回帝展(昭和8年)「樹蔭」、第15回同展「初夏窓邊」、文展鑑査展(同11年)「洗濯屋」(選奨)、紀元2600年奉祝展(同15年)「婦人座像」、第4回新文展(同16年)「湖南の春」、第6回同展「ジャワの市場」、第2回日展(同21年秋)「黄衣」、第3回(同22年)「潮風」(特選)、第4回「バラ咲く」、第5回「鏡の前」、第6回「湖畔」、第7回「午睡」、第8回「稽古前」、第9回「砂丘」、第10回(同29年)「踊り子」、第11回「踊り子」、第12回「浴後」、同13回「耳輪をつけたモデル」、第1回社団法人日展(同33年)「海女」、2回「晩夏」、3回「フイアさんの像」、4回「ジャワの街角」、5回「スペインの思出」、6回「黄色いパラソル」、7回「午後のひととき」、8回「ノートルダム」、9回「母子像」、10回(同42年)「赤いサリー」、11回「梳る女」、第1回改組日展(同44年)「トレド風景」、2回「雪のアッシジ」、3回不出品、4回「踊子たち」、5回「くつろぐエリザベト」、6回「ピアノの憩い」、7回「海女」、8回「青衣」、9回「憩うミシェル」、10回(同53年)「午后のひととき」、11回「レッスン」、12回「オンフルール港」、13回「浄光(アッシジにて)」、14回「大洗の海」、15回「アクロポリスの丘」、16回「A夫人の像」、17回「バイオリニストN子さん」、18回「青いタブリエ」、19回「アベマリア」、20回(同63年)「赤いサリー」、21回「ピンクのサリー」、22回「チゴイネルワイゼン」

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