本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





橋本明治

没年月日:1991/03/25

文化勲章受章者で日本芸術院会員の日本画家橋本明治は、3月25日午前3時、急性肺炎のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年86。明治37(1904)年8月5日島根県浜田町に、橋本太一郎、トメの長男として生まれる。本名同じ。絵や俳諧の趣味を持つ祖父市太郎の強い感化を受けて育った。大正6年浜田町立松原尋常小学校を卒業して高等科に進み、同9年島根県立浜田中学校に入学。同学4年の大正12年、妹をモデルに描いた「ガラシャ婦人像」が、島根県展に入選する。しかしこの間、大正4年に母、11年に父、また13年に祖父母を失い、妹2人との3人になる。14年浜田中学校を卒業し、翌年1月上京。川端画学校予備校に学んだのち、4月東京美術学校日本画科に入学した。同期に東山魁夷、加藤栄三らがいた。松岡映丘に学び、在学中の昭和4年第10回帝展に「花野」が初入選、翌年の第11回帝展にも「かぐわしき花のかずかず」が入選する。同6年日本画科を首席で卒業、同研究科に進み、この年から12年まで郷里の医師浜田温の援助を受けた。12年第1回新文展「浄心」、翌13年同第2回「夕和雲」がともに特選を受賞、将来を嘱望される。この間、帝室博物館の依嘱により、11年「粉河寺縁起絵巻」、12年高山寺「仏眼仏母像」を模写。15年から始まった法隆寺壁画模写では、36歳の若さで、中村岳陵、荒井寛方、入江波光とならんで主任となり、8、9、11号壁を担当。24年金堂焼失で頓挫したが、25年に終了した。また23年創造美術の結成に参加、25年同会を退会したのち、翌26年から日展に出品する。26年第7回日展に出品した「赤い椅子」により、翌年芸能選奨文部大臣賞、29年第10回日展「まり千代像」により30年日本芸術院賞を受賞。肉太の線描による独特の画風を確立する。その後も、30年第11回日展「六世歌右衛門」、34年第2回新日展「月庭」、42年同第10回「女優」(モデル司葉子)、48年第5回改組日展「関取」(モデル貴ノ花)、51年同第8回「球」(三笠宮寛仁)、52年第9回「砕」、53年第10回「想」(松下幸之助)など、著名人をモデルにした話題作を数多く発表した。また42年から翌年にかけての法隆寺金堂壁画模写では、同じく8、9、11号壁を担当。43年の皇居新宮殿正殿の障壁画「龍」、47年出雲大社庁舎壁画「龍」は、画業の集大成ともいうべき大作であった。49年文化勲章を受章、郷里浜田市の名誉市民に推された。59年、60年、62年島根県立博物館に自作を寄贈、62年同博物館に橋本明治記念室がオープンした。52年10月から11月まで、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載している。 帝展・新文展・日展・創造美術出品歴昭和4年第10回帝展「花野」、5年同11回「かぐわしき花のかずかず」、6年12回「水鏡」、7年13回「薫苑雙嬌」、9年15回「荘園」、11年文展鑑査展「蓮を聴く」、12年第1回新文展「浄心」(特選)、13年同2回「夕和雲」(特選)、14年3回「三人の女」、21年第2回日展「鏡の前」、22年同3回「天舞」、23年第1回創造美術展「鏡と裸婦」、24年同2回「裸婦像」、25年3回「髪をふく女」、26年第7回日展「赤い椅子」、27年同8回「浴室」、28年9回「演奏」、29年10回「まり千代像」、30年11回「六世歌右衛門」、32年13回「燦湖」、33年第1回新日展「大谷竹二郎像」、34回同2回「月庭」、35年3回「微笑」、36年4回「石橋」、37年5回「神話」、38年6回「丘」、39年7回「回想」、40年8回「舞」、41年9回「鏡」、42年10回「女優」、43年11回「陵王」、44年第1回改組日展「鶴と遊ぶ」(理事就任)、45年同2回「燦舞」、46年3回「ある神話」、47年日展常務理事就任、48年5回「関取」、49年6回「憩」、50年7回「想う」、51年8回「球」、52年9回「酔」、53年10回「想」、54年11回「紅」、56年13回「釧路の自画像」

佐善明

没年月日:1991/03/23

新制作協会会員で千葉大学教授の洋画家佐善明は、3月23日午前1時45分、心不全のため千葉市亥鼻の千葉大学病院で死去した。享年54。昭和11(1936)年4月3日、新潟県新潟市に生まれる。同35年新潟大学教育学部芸能科絵画科卒業。在学中の同30年第19回新制作協会展に初入選。以後同展に出品を続け、同44年、45年、2年連続して同展新作家賞を受賞する。同46年第5回現代美術選抜展に招待出品。同48年新制作協会会員となる。同51年10月文化庁芸術家在外研修員として渡米し、1年間滞在。University of California at Los Angeles及びMassatusetts Institute of Technologyの客員研究員として研修。滞米中の同52年1月、日本画壇の全貌展に招待出品し、以後57年まで毎年同展に出品を続ける。同54年第22回安井賞展に「小さな訪問者」を、翌55年第23回同展に「シーサイドアベニュー」を出品。同58年第26回同展及び同59年第27回同展にも出品した。同60年10月、文部省派遣長期在外研究者として再び渡米し、UCLA芸術学部美術学科客員教授として滞在した。明快な色彩で描いた都市風景に、映像化された断片的人間像あるいは巨大な鳥の像を配し、自らの手でつくり上げた文明に疎外される人間や、人工物のために生きにくくなった小動物に対するヒューマンな視線を印象づける作風を示した。千葉大学工学部工業意匠科教授として教鞭をとり、日本美術家連盟、日本デザイン学会にも参加した。

矢口洋

没年月日:1991/03/01

光風会会員、日展会友で宇都宮大学名誉教授の洋画家矢口洋は、3月1日午後3時35分、急性肺炎のため宇都宮市の自宅で死去した。享年74。大正5(1916)年6月4日、宇都宮市に生まれる。昭和11(1936)年栃木県師範学校本科を卒業。同年より同15年まで小学校訓導をつとめ、同16年4月東京美術学校師範科に入学。寺内萬治郎に師事し、同19年9月、戦時中のため同校を繰り上げ卒業する。同23年第34回光風会展に「古きラムプ」で初入選。同年第4回日展にも「降りみ降らずみの雨」で初入選する。両展に出品を続ける一方、同25年宇都宮大学教育学部美術科助教授となった。同27年12月から約2年間文部省フランス留学生及び在外研究員として滞仏。この間の同28年、光風会会友となる。同31年第42回光風会展に「女の児のいる群像」「犬のいる群像」を出品して同展岡田賞を受けるとともに、同会会員に推される。また、同年第12回日展に「ポスターのある絵」を出品して日展岡田賞受賞。同43年12月、宇都宮大学教授となり、同55年停年退官して同大名誉教授となった。在職中、同47年より50年まで宇都宮大学付属小学校校長、同53年日本教育大学協会第2美術部門委員長、大学美術教育学会理事長をつとめた。58年渡仏し、病を得て帰国した後は、光風会のみに出品を続けた。人物を多くモチーフとし、堅実な生活をうかがわせる場面を好んで描いた。同63年、宇都宮上野百貨店で自選展を開催している。

藤岡了一

没年月日:1991/02/16

元大阪芸術大学教授の東洋陶磁史研究者藤岡了一は、2月16日午後5時20分、胆管ガンのため、大阪市中央区の大手前病院で死去した。享年81。明治42(1909)年11月15日、大阪市東区に生まれる。大谷大学で東洋史を専攻し、昭和7(1932)年同校を卒業。同9年11月、東京帝室博物館研究員となり、同13年同館鑑査官補となる。同18年南方博物館要員となり、同年4月よりマレー軍政監部文教科事務嘱託、同19年2月より同軍ペラ州政庁勤務、タイピン博物館駐在員となる。戦後の同22年2月、京都市立恩賜京都博物館に入り工芸を担当。同27年京都国立博物館学芸課工芸室に移り、同室長、同学芸課長を歴任。同46年に停年退官するまで長く同博物館で活躍し、翌47年より同館調査員を嘱託された。また、同47年7月より文化財保護審議会専門委員、同48年より奈良国立博物館調査員となり、同61年より泉屋博古館嘱託となったほか、藤田美術館、白鶴美術館、逸翁美術館などの理事をもつとめた。東洋陶磁史全般を見渡す広い視野を持ち、中国、日本の彩釉を中心に大系的な研究を進めた。著作には以下のようなものがある。「越州窯の壷」(「陶磁」12-1 昭和15年)「浄明寺址出土越州窯青磁水注」(「美術史」1 同25年)「漢緑褐釉鴟鶚尊」(「美術史」6 同27年)『古陶の美-中国陶磁史の概要』(毎日新聞社 同29年)『世界陶磁全集』宋代の天目、他(共著、河出書房 同30、31年)「西周の施釉陶」(「Museum」115 同35年)『陶器全集11 元・明初の染付』(平凡社 同35年)『陶器全集27 明の赤絵』(平凡社 同35年)「茶碗 5』(共著、平凡社、同43年)「蓼冷汁天目」「Museum」212 同43年)「大安寺址出土の唐三彩」(「日本美術工芸」400、401、同47年)「色絵磁器」(『日本の美術29 色絵陶器』 小学館 同48年)「明初の磁器」(『世界陶磁全集 14』 小学館、同51年)『日本の美術22 茶道具』(至文堂 昭和43年)『日本の美術51 志野と織部』(至文堂 昭和45年)『日本の美術128 正倉院の陶器』(至文堂 昭和52年)他

桂ゆき

没年月日:1991/02/05

既製の枠組にとらわれず、自由な制作を求め、戦前から前衛美術運動の中心的画家の一人として活躍した洋画家桂ゆきは、平成2年5月からがんのため入院、療養中であったが、2月5日午後2時30分、心不全のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年77。大正2(1913)年10月10日、東京都文京区に生まれる。本名雪子。父弁三は東京帝国大学教授をつとめる冶金学者。文京区誠之小学校を経て昭和元(1926)年東京府立第五高等女学校に入学し、この年から両親の勧めで池上秀畝に日本画を学ぶ。しかし、もとから油絵修学を希望していたため2年程で日本画修学をやめ、同6年第五高女卒業の年、洋画家中村研一に学び始める。同7年中村の紹介で岡田三郎助にも師事。同8年第20回光風会展に「庭」「海岸風景」「冬」を出品して初入選。この頃アカデミックな絵画に不満を持ち、同年、アヴァンギャルド洋画研究所に通い始める。同22年5月、海老原喜之助の勧めにより、銀座・近代画廊で当時まだ日本で紹介されていなかったコラージュによる個展を開く。同年第22回二科展に「祭」で初入選。同13年吉原治良、山口長男とともに、前衛・抽象画を目指す九室会を創立。翌14年第1回九室会展に「行進」「冠」を出品し、同年の第26回二科展には「源氏」「帆船」「郷土」を出品して特待となる。戦後は、同21年女流画家協会設立に参加し、同24年第3回同展に「静物1」「静物2」を出品して同協会賞を受賞。同25年二科会会員となる。同28年第2回日本国際美術展に、翌29年第1回現代日本美術展に出品。同30年第40回二科展に「おざしきの人達」「傘と靴」「鬼とゆかた」「おしゃれなゲジゲジ」を出品して会員努力賞を受ける。同31年渡仏し、6年にわたってフランス、アメリカに滞在。この間、同33年アフリカに渡り猛獣狩りなどを体験する。欧米滞在中、パリのポンピドゥー・センターで行なわれたインターナショナル・ウォアマンアート展、米国アリゾナ大学アート・ギャラリーでのインターナショナル・コンテンポラリィ・ペインティング展、ミラノのプレミオ・リソーネ展、米国第27回コーコラン・ビエンナーレ等に出品したほか、パリのイルス・ワレール・ギャラリーで個展を、米国ワシントンのグレス・ギャラリーで岡田謙三、川端実らとグループ展を開催。同36年帰国し、同年の第6回日本国際美術展に「異邦人」を出品し優秀賞を受賞。同年二科展を退く。同37年アメリカ、アフリカでの体験をつづった『女ひとり原始部落に入る』を出版。翌年この著作で毎日出版文化賞を受ける。同41年第7回現代日本美術展に「ゴンベとカラス」「よくばりばあさん」を出品し最優秀賞を受賞。翌年オーストラリア、ニュージーランドを旅する。その後も女流五人展、新樹会展などに出品。同55年山口県立美術館で「桂ゆき展」を開催。同60年東京INAXギャラリーで「紅絹のかたち」を題する個展を開く。戦前からコルク、新聞紙、レース等のコラージュによる前衛的な作品を発表し、戦後には痛烈な社会風刺とユーモアを含む制作を展開。昭和50年代には再びコルクを素材とし、コルクを巻紙状に細く棒状に巻いたものをコラージュして画面を構成する試みを行なった。同60年のINAXギャラリーでの作品は紅絹で人物大の釜、三角形や円などの単純な形の組み合わせによる狐やタヌキを制作。通常の「美術」の枠組にとらわれない自由な発想にもとづく作品は、常に既成概念を踏み破る革新性に満ちていた。平成3年、下関市立美術館で回顧展が開催された。

中川一政

没年月日:1991/02/05

日本洋画界の最長老で文化勲章受章者中川一政は、2月5日午前8時3分心肺不全のため神奈川県足柄下郡の湯河原厚生年金病院で死去した。享年97。70余年に及ぶながい画業をとおし、ひたすら独自の作風を追求し現代の文人画家とも称された中川一政は、明治26(1893)年2月14日東京市本郷区に警視庁巡査中川政朝の長男として生まれた。同45年錦城中学校を卒業、翌大正2年から1年半兵庫県芦屋市に滞在、この間、雑誌『白樺』を愛読し聖書に親しんだ。また、芦屋滞在中の同3年8月頃から独学で油絵を描き始め、同年10月に帰京後、巽画会第14回展に「酒倉」を出品し入選した。これは、審査員であった岸田劉生の推賞によったという。翌4年早々に代々木時代の劉生を初めて訪ね、3月の巽画会第15回展には「監獄の横」他2点を出品し椿貞雄とともに最高賞にあたる二等銀牌を受賞、10月の第2回二科展には「幼児」他を出品、また、草土社の第1回展となった現代の美術社主催第1回美術展覧会に「自画像」他を出品し、同じく出品した劉生や木村荘八らと草土社を組織し同人となった。草土社展へは、同11年第9回展で終了するまで出品を続けた。草土社結成前後から劉生との交渉が深まり、劉生を通し武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎らを知った。ただし、画風は当初から劉生の影響の強いいわゆる草土社風ではなく、独自の抒情性をたたえたものであった。同10年、第8回二科展に「静物(薬瓶の静物)」などで二科賞を受賞、同年有島武郎の推薦で詩集『見なれざる人』を叢文閣から出版した。翌11年、小杉放庵、梅原龍三郎らによる春陽会結成に際し、劉生、木村荘八らとともに同会客員として招かれ、翌年の第1回展から出品を続けた。この間、一時ゴッホに傾倒し同14年訳書『ゴオホ』を出した。昭和2年、小杉放庵の肝入りによる老荘会に加わり、以後中国の古典に親しむ。同6年には麹町倉橋邸で最初の水墨画展を開いた。また、同3年に片岡鉄兵『生ける人形』(朝日新聞連載)の挿絵を担当したのをはじめ、同8年には尾崎士郎『人生劇場青春篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆、一方、『武蔵野日記』(同9年)『庭の眺め』(同11年)などの随筆集を刊行しすぐれた文才も示した。戦前は、同13年から18年の間、第5回展をのぞき新文展の審査員を依嘱される。戦後は春陽会展の他、美術団体連合展、秀作美術展などで新作発表を行う。同23年には武者小路らとともに生成会同人に加わり、雑誌『心』を創刊した。同28年ニューヨークを経てブラジルへ赴き、翌年ヨーロッパを巡遊して帰国した。また、同33年、39年には中国を訪れる。同33年、ピッツバーグ現代絵画彫刻展に「イチゴと赤絵の鉢」を出品、同42年には『中川一政画集』(朝日新聞記)を刊行した。同50年文化勲章を受章する。初期の日本的フォーヴィスムの画風から、次第に時流を超えた自己の絵画世界を展開し、簡潔明快で清朗な独自の作風をうちたてた。油彩具のほか岩彩もしばしば試み、また、書や陶芸も手がけた。戦後の作品に「マリアの国」(昭和34年)、「尾道展望」(同37年)などがあり、歌集に『向う山』、随筆集に『香炉峰の雪』他がある。 年譜明治26年2月14日 東京市本郷区中川政朝の長男に生れる。父母とも金沢の人で、政朝は上京後、警視庁巡査となる。明治36年東京府下巣鴨村字向原に転居。巣鴨監獄の近くであった。明治40年3月 本郷区誠之高等小学校を卒業。明治45年3月 錦城中学校を卒業。大正2年この年兵庫県芦屋市斎田家の客となり、滞在一年半に及ぶ。『白樺』を愛読し、また熱心なキリスト教信者であった斎田家の人々の影響で聖書に親しむ。大正3年8月 この頃から油絵をかき始める。10月 東京に帰り、巽画会第14回展に「酒倉」を出品、入選する。「酒倉」は審査員岸田劉生が推して入選したことを後に知った。大正4年1月 「霜の融ける道」を描く。この頃画家への志望を強め、はじめて代々木時代の岸田劉生を訪ねる。3月 巽画会第15回展に「監獄の横」「霜の融ける道」「少女肖像」を出品、このときの最高賞である二等賞銀牌を受賞した。10月 第2回二科美術展覧会(三越呉服店旧館3階)に「幼児」「弟に与ふる自画像」「春光」を出品、現代の美術社主催第1回美術展覧会(銀座、読売新聞社楼上)に「秋の丘の道」「自画像」「デッサン(鉛筆)」「監獄の横」を出品。このとき出品した岸田劉生、木村荘八らと草土社を組織して同人に加わり、この展覧会を草土社の第一回展とした。劉生との交渉次第に深くなり、また劉生を介して武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎らを知る。大正5年4月 草土社第2回美術展覧会(銀座、玉木美術店楼上)に「監獄の横(1)」「監獄の横(2)」を出品。11月 草土社第3回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「酒倉」(1914年作)「監獄の横(1)」(同)「霜の融ける道」(1915年作)「習作」(同)「春光」(同)「監獄の横(2)」(同)「山の麦畑(未成品)」(1916年作)「自画像」(同)「うすく曇った日の風景」(同)「素描風景」(同)を出品。大正6年2月 岸田劉生鵠沼に転地する。劉生の鵠沼時代は大正12年9月の大震災まで続き、この間しばしば劉生を訪ね、時には1カ月ぐらい泊りがけで遊びに行った。4月 第4回草土社展覧会(京橋橋際、玉木商会楼上)に「風景」(1916年作)「素画-けぶれる冬」「けぶれる冬」「監獄之横(1)」「静物(1)」「静物(2)」「監獄之横(2)」「静物(3)」「横堀肖像」「素画-久保君の顔」「素画-原野の道」「素画」を出品。9月 第4回二科美術展覧会に「風景」を出品。12月 第5回草土社展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「うすく曇った日の風景」(1916年作)「風景」(同)「監獄之横(1)」(1917年作)「監獄之横(2)」(同)「夕日落つる踏切」(同)「風景(鵠沼)」(同)「野娘(エチュード)」(同)「少女」(同水彩)を出品。大正7年9月 第5回二科美術展覧会に「冬」「夏」を出品。12月 草土社第6回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「冬」(旧作)「静物」「暮春の景色」「練兵場となりし城跡」「スケッチ(1)」「スケッチ(2)」を出品。大正8年3月 同人雑誌『貧しき者』を創刊する。発行所は中川方「貧しき者社」である。武者小路実篤や千家元麿らも寄稿し、月刊で10号ぐらい続いた。9月 第6回二科美術展覧会に「暮春の景色」「下板橋の川辺(冬)」「監獄裏の日没」を出品。12月 第7回草土社美術展覧会には出品を中止した。大正9年4月1日-15日 神田裏神保町6、兜屋画堂において個人展覧会を開催、このとき会場を訪れた石井鶴三を知る。9月 第7回二科美術展覧会に「静物(1)」「静物(2)」「自画像」「草枯れし監獄の横」を出品。12月 草土社第8回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「肖像断片」「冬の路傍」「自画像」「監獄の横(1)」「監獄の横(2)」「静物(1)」「静物(2)」「静物(3)」「初冬の道」「池袋の麦畑」「男の肖像」を出品。大正10年2月 詩集『見なれざる人』を叢文閣から出版する。有島武郎の推薦と叢文閣主人の好意で実現した。9月 第8回二科美術展覧会に「静物」「静物」「静物小品」を出品し、二科賞を受賞する。この年画室を新築する。大正11年1月14日をもって春陽会成立し、木村荘八、岸田劉生、椿貞雄、万鉄五郎、斎藤与里らと招かれて客員となる。大正13年第2回展のとき客員制を廃した。11月 草土社第9回美術展覧会(赤坂溜池、三会堂)に「静物」「初夏川畔」「初夏川畔」「厨房静物」「厨房静物」(以上油絵5点)、「白描居留地図(画箋)」「白描居留地図(画箋)」「赭墨小品」(画箋)」(以上日本画三点)を出品。草土社は第9回展で終る。大正12年4月 『白樺』第14年4月号に詩八篇を発表。5月 春陽会第1回美術展覧会(上野公園、竹の台陳列館)に「椿花」「静物小品(其1)」「静物小品(其2)」「静物(其1)」「春暖」「居留地図」「厨房静物」「村の景色」「隅田川」「静物(其2)」を出品。10月28日 伊藤暢子と結婚する。暢子の兄に舞踊家ミチオ・イトウ、舞台装置の伊藤熹朔があり、俳優千田是也は弟である。仲人は野上豊一郎、弥生子夫妻であった。大正13年第2回春陽会展(三越呉服店)「村娘」「村娘(クロッキー)」「中禅寺湖」「二月」「風景」「修善寺温泉」「薄日さす景色」「素描(中禅寺湖)」「素描(行人坂)」「素描(湖畔)」大正14年4月 中川一政訳『ゴオホ』アルスから出版される。ひところゴッホに傾倒しその影響をうけた。9月 巣鴨の画室を引払い東京市外和田堀之内村永福寺隣に移る。第3回春陽会展「静物(其4)」「静物小品(其1)」「野娘」「肖像(其2)」「肖像(其1)」「中禅寺」「静物(其1)」「静物(其2)」「静物(其3)」「静物小品(其2)」「湯ケ原」大正15年4月 『中川一政画集』をアトリヱ社から出版。5月 第1回聖徳太子奉讃美術展覧会に「上水べり」「春の川辺」を出品。上野公園に新築された東京府美術館の落成を記念して開催された。第4回春陽会展「静物小品」「晩春新緑」「初夏水流」「静物」「うすれ日」「野川」「夏景」昭和2年9月 小杉放庵の肝入りで「老荘会」という集りができ、週1回田端の放庵邸で漢学者公田連太郎翁に中国古典の講議を聞く。荘子からはじめて、詩経、文選、易経の大半を、昭和20年爆撃をうけるまで続けた。石井鶴三、木村荘八、岡本一平、かの子夫妻、岸浪百草居、美術記者の外狩素心庵、田沢田軒、金井紫雲などが常連であった。翁の漢字に対する深い学殖とすぐれた労作に第32回(昭和36年度)朝日文化賞が贈られた。第5回春陽会展(東京府美術館)「花(3)」「同上(4)」「うすれ日」「チューリップ」「浅春」「花(1)」「花(2)」昭和3年6月 7月にかけて片岡鉄兵原作『生ける人形』(朝日新聞連載)の挿絵を執筆する。第6回春陽会展「信濃川岸」「冬山」「上水べりA」「同B」「山村早春」「山間早春」「山」昭和4年9月 春陽会洋画研究所麹町区内幸町幸ビルディング4階に開設される。第7回春陽会展 「山村春」「生ける人形挿絵」(6点)「歳晩帖(忙中閑人、旅の宿、川国境を為す、仲秋初月、修善寺桂川、山間春浅、独異郷に在り、漁村雨後、山村春宵、窓前他国山、山田猟人来る、黒部渓谷鐘釣)」「郊外」「静物小品」昭和5年6月 『美術の眺め』をアトリヱ社から出版。第8回春陽会展 「朝の道」「冬山の眺め」「枯山」「煙霞帖(煙霞如是好、山中春望、時春雨寒、偶海村月、我愛日本国、海村春望、春自遠方来、能解閑行有幾人、山間日永、漁樵同時)」昭和6年5月 麹町、倉橋藤治郎邸において最初の水墨画個展を開催。9月 佐藤春夫とともに文芸雑誌『古東多方』の編集に携わる。第9回春陽会展「煙霞帖追補 前山薇也肥」「煙霞帖追補 二月入斧之時」「煙霞帖追補 波浮港」「山家花」「城山」「山裏春(鉛筆淡彩)」「葉桜(岸田国士さしゑ)」「屋上庭園(同)」「頼母しき求緑(同)」昭和7年8月 『原色版セザンヌ大画集第3巻静物』(中川一政編輯解説)アトリヱ社から出版される。第10回春陽会展 「閑行帖(夜半春雨過、誰知山中春、扇面漁樵、身賎知農事、山従人面起、秋風何処至、円窓秋山、能解閑行有幾人)」「夜久野」「日坂」「川奈」「山の刈田」昭和8年2月 『美術方寸』を第一書房から出版。3月 7月にかけて尾崎士郎原作『人生劇場春青篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆。9月 二科会第20回展を記念する回顧作品陳列室に「静物」(1921年作)を出品。第11回春陽会展 「冬田之畔(遠州菊川)」「信濃之道」「白い壁」「山家秋(水墨)」「人生劇場挿画」(10点)昭和9年10月 『武蔵野日記』を竹村書房から出版。第12回春陽会展 「春浅」「霜の山」「山川呼応」昭和10年2月 六潮会第4回展(日本橋、三越)に招かれて「春眺秋望冊」を特別出品。六潮会は日本画家中村岳陵、山口蓬春、福田平八郎と、洋画家中川紀元、牧野虎雄、木村荘八に批評家外狩素心庵、横川毅一郎を同人とする研究団体であった。3月 東京府美術館10周年記念現代綜合美術展覧会に「冬田之畔(遠州菊川)」(1933年作)を出品。第13回春陽会展 「芭蕉屏風」昭和11年5月 『庭の眺め』を竹村書房から出版。第14回春陽会展 「白百合花」「富士川」「富士川べり」「山川冬晴」「冬川」「早梅」「覉魂」「身辺屏風」「人生劇場挿画」(11枚)昭和12年2月 小川芋銭、小杉放庵、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと墨人会倶楽部を結成。4月 大阪朝日新聞社主催明治大正昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館)に「山川呼応」(1934年作)を出品。6月 墨人会第1回展(大阪、朝日会館)に「金魚」「水辺蛙」などを出品。8月 春陽会講習会のため1カ月間台湾へ行く。11月 春陽会洋画研究所閉鎖される。12月 尚美堂主催第1回春陽会日本画展(銀座、三越)に「一茶屏風(二曲一双)」「雪中梅」「我が家に鯉のゐるぞ嬉しき」その他を出品。第15回春陽会展 「鷲津山」「一茶小屏風」昭和13年4月 9月にかけて尾崎士郎原作『石田三成』(都新聞連載)の挿絵を執筆。6月 墨人会第2回展(上野、日本美術協会)に「俳諧屏風」を出品。9月 『顔を洗ふ』を中央公論社から出版、第2回文部省美術展覧会(新文展)第2部審査員を依嘱される。第16回春陽会展 「三月海」「入江(2)」「入江(1)」昭和14年3月 満州、北支に旅行する。5月 12月にかけて尾崎士郎原作『人生劇場風雲篇』(都新聞連載)の挿絵を執筆。9月 第3回新文展第2部審査員を依嘱される。10月 第3回新文展に「樹の下の子供」を出品。11月 石原求龍堂主催中川一政扇面画展(銀座、三昧堂)に、扇面画20点を出品。第17回春陽会展 「春曇」「牧の郷」「窓外山川」「石田三成挿画(1-6)」昭和15年8月 紀元二千六百年奉祝美術展覧会委員を依嘱される。10月 紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「樹の上の少年」を出品。12月 藤田嗣治、石井柏亭、小杉放庵、石井鶴三、木村荘八、鍋井克之、津田青楓らと「邦画一如会」を結成。第18回春陽会展 「安良里(1)」「安良里(2)」昭和16年3月 邦画一如会第1回展(日本橋、三越)に「万葉屏風(二曲半双)」を出品。8月 第4回新文展審査員を依嘱される。10月 大札記念京都美術館秋季特別陳列に「風景」を出品、第4回新文展に「新劇女優」を出品。第19回春陽会展 「安良里」「椅子の女」「九州の春」昭和17年2月 銀座、資生堂において第2回水墨展を開催。9月 11月にかけて中山義秀原作『征婦の詩』(中部日本新聞連載)の挿絵を執筆。10月 『美しい季節』を桜井書店から出版。12月 『一月桜』を大阪、錦城出版社から出版。第20回春陽会展 「徒然の女」「うらの山」、特別室「静物」昭和18年6月 第6回新文展審査員を依嘱される。6月 詩集『野の娘』を昭南書房から出版。9月 銀座、資生堂において第3回水墨展を開催。10月 第6回新文展に「田園五月」を出品、歌集『向ふ山』を昭南書房から出版。11月 京都、南禅寺無隣庵において石井鶴三、中川一政水墨展開催される。11月 春陽会教場設立され、委員長となる。第21回春陽会展 「晩春風景」、水墨 「雪晩」「沢」「川蟹」「山桜頬白」「菜畑」「万葉屏風」昭和19年7月 本郷、大勝画廊において新作展を開催。11月 銀座、資生堂において水墨展を開催。第22回春陽会展(東京都美術館) 「雪(1)」「雪(2)」「寒椿」「雪景」昭和20年8月 疎開先の宮城県宮床村で終戦を迎える。昭和21年11月 大阪、高島屋において新作発表会を開催。第23回春陽会展(三越) 「花」昭和22年4月 日本橋、三越において中川一政展を開催し、「梨と柿」ほかを出品。5月 倉敷、大原美術館において講演を行う。7月 『我思古人』を靖文社から出版。11月 大阪、高島屋において新作発表会を開催。12月 『篋中デッサン』を建設社から出版。第24回春陽会展 「椿桃」「蛙」「柿柘榴」「椿」「林檎」昭和23年6月 日本橋、高島屋において石井鶴三、小杉放庵、木村荘八と第1回春陽四人展を開催。7月 武者小路実篤、長与善郎らとともに「生成会」同人に加わり、雑誌『心』を創刊。10月 たくみ工芸店において中川一政、浜田庄司新作展開催される。春陽会25周年記念展 「三島手扁壷」「少年夏帽子」「壷の花」「椿静物(1)」「椿静物(3)」「風和日暖」「鰯」「椿静物(2)」昭和24年4月 大阪、高島屋において近作発表会を開催。5月 神奈川県足柄下郡真鶴町1575に画室を持つ。5月 第3回美術団体連合展(毎日新聞社主催)に「静物椿の花」を出品、日本橋、三越において第2回中川一政新作展を開催。第26回春陽会展 「少年像」昭和25年3月 第1回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「花」を出品。5月 第4回美術団体連合展に「晩春新緑」を出品。7月 『香炉峰の雪』を創元社から出版。第27回春陽会展 「静物水墨」「夏草の花」「マジョリカ壷」「夏花図」昭和26年10月 壷中居において中川一政新作展を開催し、「福浦」ほかを出品、大阪、高島屋において中川一政新作展を開催。第28回春陽会展 「かながしら、かさご」「椿 林檎」「かながしら、貝」「沖のかさご、土瓶」「金目鯛 鯵」「万暦螺細文庫」「煎茶」「柿、みかん」「少年像」「村の夕」「村の眺め」昭和27年1月 第3回秀作美術展に「少年像」を出品。10月 大阪、高島屋、岡山、金剛荘において中川一政新作展を開催。第29回春陽会展 「漁舟帰る時」「漁村図」「風炉先屏風(春)金目鯛」「風炉先屏風(冬)雪中児童」昭和28年1月 第4回秀作美術展に「漁舟帰る時」を出品。5月 大阪、高島屋において中川一政紙本小品展を開催。7月 一政花十題展(兼素洞)に「椿静物」、水墨画9点(うち扇面6点)を出品。10月 龍三郎、一政新作展(兼素洞)に「百合と枇杷」「三島手扁壷」「ダリヤと果物(水墨画)」「福浦」を出品。11月25日 羽田発、アラスカ、ニューヨークを経てブラジルに渡り、第2回サンパウロ・ビエンナーレを見る。12月22日 フランス船ラボアジール号でリオデジャネーロを出港、ルアーブルへ向う。第30回春陽会展 「入江」「福浦港」昭和29年1月 第5回秀作美術展に「福浦港」を出品、『見えない世界』を筑摩書房から出版。1月 ルアーブル着、パリ、ローマほかイタリアの諸都市、ロンドンを見学。4月16日 帰国。5月 『大正期の画家』展(国立近代美術館)に「春光」(1915年作)を出品。8月 『水彩と素描』展(国立近代美術館)に「信濃川岸村(鉛筆)」を出品。昭和30年1月 『モンマルトルの空の月』を筑摩書房から出版。4月 サエグサ画廊において中川一政滞欧スケッチ展を開催、日本橋、高島屋において中川一政新作展を開催。9月10日 国立近代美術館主催『晩期の鉄斎』展に際し、同館講堂において「鉄斎の芸術」と題し講演を行う。昭和31年1月 第7回秀作美術展に「ダリヤの静物」を出品。5月 名古屋、松坂屋において中川一政新作展を開催。7月 『日本の風景』展(国立近代美術館)に「福浦港(突堤)」「福浦港(波打際)」を出品、雨晴会第1回展(兼素洞)に「波打際」「ダリヤと枇杷(岩彩)」を出品。昭和32年2月 画集『鉄斎』筑摩書房から出版される。武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄と監修に当り、『鉄斎の仕事』を執筆。3月 雨晴会第2回展に「マリア園の眺め」「大浦天主堂の眺め」を出品。7月 毎日新聞社主催現代美術十年の傑作展(渋谷、東横)に「福浦港(突堤)」(1956年作)を出品。10月 漁樵会(小杉放庵、中川一政二人展)(ギャラリー創苑)に「魚」ほか扇面8点を出品。昭和33年1月 第9回秀作美術展に「マリア園の眺め」選抜される。3月 日本橋、高島屋において中川一政新作展を開催し、油彩19点、墨彩20点を出品、雨晴会第3回展に「長崎風景(1)」「長崎風景(2)」を出品。6月 『正午牡丹』を筑摩書房から出版。10月 光琳生誕三百年記念展覧会が北京で開催されるのを機会に中国を訪問し、北京、大同、西安等を巡遊する。行を共にしたのは団長中川一政、副団長千田是也、石井鶴三、谷信一、水沢澄夫であった。12月 ピッツバーグ現代絵画彫刻国際展に「イチゴと赤絵の鉢」(1957年作)を出品。第35回春陽会展 「パンジー(1)」「静物」「チューリップ」「椿」「パンジー(2)」昭和34年1月 第10回秀作美術展に「マリア園」を出品、『戦後の秀作』展(国立近代美術館)に「マリア園」を出品。3月 『近代日本の静物画』展(国立近代美術館)に「万暦螺細文庫」「李朝三島手扁壷」「春花図」を出品、雨晴会第4回展に「天主堂」「港の雪(1)」「港の雪(2)」を出品。7月 中川一政、熊谷守一二人展(ギャレリー・ポワン)に「信州の新緑」「長崎小品」、ほかに「ダリア(金地墨彩)」など墨彩3点を出品。10月 朝日新聞社、東京国立博物館主催明治大正昭和三代名画展(第2会場銀座、松坂屋)に「薬瓶のある静物」を出品。12月 『道芝の記』を実業之日本社から出版。第36回春陽展 「バラ、リンゴ(水墨)」「椿、ネルソン壷(水墨)」「アマリリス、マジョリカ壷(水墨)」「長崎の夕暮」昭和35年1月 第11回秀作美術展に「長崎の夕暮」を出品。1月 長与善郎、中川一政、武者小路実篤、梅原龍三郎四人展(日本橋、三越)に出品、『近代日本の素描』展(国立近代美術館)に「アイリスと金盞花」「芙蓉静物」を出品。3月 雨晴会第5回展に「佐世保」「平戸」を出品。5月 「漁村凱風」全国知事会から東宮御所に献納される。12月 歌会始めの召人に選ばれる。第37回春陽展 「チューリップ(水墨)」「磯浜」「椿(水墨)」昭和36年1月 第12回秀作美術展に「磯浜」を出品。1月12日 歌会始めの儀皇居内仮宮殿の西の間でとり行われ、下記の召歌を詠進した。御題「若」。若き日は馬上に過きぬ残る世を楽しまむと言ひし伊達の政宗あはれ3月 雨晴会第6回展に「薔薇」「椿」を出品。11月 弥生画廊主催中川一政近作展(文藝春秋画廊)に墨彩14点、油彩22点を出品。第38回春陽展 「チューリップ」「椿」「長崎風景」「椿、林檎」昭和37年1月 第13回秀作美術展に「尾道展望」を出品。2月 国立近代美術館主催『現代絵画の展望』展(日本橋、三越)に「マリア園」を出品。5月 雨晴会第7回展に「椿」を出品。6月 『近代日本の造形 油絵と彫刻』展(国立近代美術館)に「尾道展望」を出品。6月30日 ミュンヘンのバイエルン独日協会の招待をうけ渡欧の途に就く。途中印度、イラン、イラク、エルサレム、エジプト、ギリシャを経て南仏、スペインを見学する。10月24日 ミュンヘン市立博物館において現代日本美術に関する講演を行う。11月2日 帰国する。第39回春陽展 「舟着き場」「マジョリカ壷の百合の花」昭和38年1月 第14回秀作美術展に「舟着き場」を出品。3月 雨晴会第8回展に「ペルシャ壷の薔薇」を出品。6月 朝日新聞社主催中川一政スケッチ展(銀座、松屋)に『人生劇場』挿絵7点、『厭世立志伝』挿絵29点のほか、「アシジの町(淡彩)」など風景スケッチ4点、「男子裸体」、芭蕉句扇面屏風2点を出品。6月26日 朝日新聞社と日中文化交流協会主催の日本現代油絵展が中国で開催されるに当って、画家代表団が中国人民対外文化協会の招待で訪問することとなり、その団長として北京に向う。展覧会は7月に北京と上海で開催され、「福浦港」を出品。7月23日 羽田着帰国。9月 『近代日本美術における1914年』展(国立近代美術館)に「春光」(1915年作)を出品、会期中10月5日同館講堂において「草土社の人々」と題し講演を行う。11月 日本橋、高島屋において中川一政近作展を開催し、「トレド風景」「カーニュ」など油彩、墨彩あわせて22点を出品。12月 昭和初期洋画展(鎌倉近代美術館)に「樹の下の子供」(1939年作)を出品、『うちには猛犬がゐる』を筑摩書房から出版。第40回春陽展 「椿」「福浦港」昭和39年1月 第15回秀作美術展に「マリア園」を出品。3月 雨晴会第9回展に「ピカソ壷の薔薇」を出品。7月 山形県酒田市、本間美術館主催中川一政作品展観に自選の油彩11点、水墨4点、厭世立志伝挿画(着彩)28点、人生劇場挿画(墨)6点を出品。9月28日 中国人民対外文化協会の招きをうけ、日中文化交流協会代表団の1人として空路北京に到着、10月1日北京で挙行された中華人民共和国建国15周年を祝う国慶節式典に参列。10月19日 帰国。第41回春陽展 「湯ケ原の山と海」昭和40年3月 雨晴会第10回展に「薔薇」を出品。4月 『近代における文人画とその影響』展(国立近代美術館)に「アイリスと金盞花」「鉄線花静物」を出品。4月26日 ソ連定期客船バイカル号で横浜を出帆、ソ連文化省の招待で同国の美術演劇事情を視察した後、イギリス、フランス、イタリアなど9ケ国をまわる。7月9日 羽田着帰国。6月 二科会50周年記念回顧展(新宿ステーションビルディング)に「静物」(1921年作)を出品。8月 忘れえ得ぬ作品展(吉井画廊)に「静物」(1922年作)を出品。第42回春陽展 「椿とピカソの絵」「海と村落」昭和41年1月 中川一政近作展を開催し、吉井画廊の会場に「湯ケ原の山と福浦」など14点、弥生画廊の会場に「薔薇」など9点を出品。3月 雨晴会第11回展に「ばら」を出品。6月 近代日本洋画の150年展(鎌倉近代美術館15周年記念)に「下板橋の川辺」(1919年作)「静物」(1921年作)を出品、大阪、梅田画廊において中川一政、小林和作作品展開催。7月 京王梅田画廊、東京梅田画廊において中川一政、小林和作作品展開催。9月 資生堂ギャラリーにおいて『中川一政のアトリエ』展開催。12月 中川一政、小林秀雄監修『鉄斎扇面』筑摩書房から出版。第43回春陽展 「福浦港」「薔薇ペルシャ壷」昭和42年1月 「朝日新聞」に連載の大佛次郎『天皇の世紀』の装画を同46年12月にわたり、34回、204点執筆。2月 中川一政回顧展(朝日新聞社主催)が銀座松屋で開催。『遠くの顔』を中央公論美術出版から出版。『中川一政画集』を朝日新聞社から出版。3月 第12回雨晴会展に「瀬戸内海」「薔薇」を出品。『近くの顔』を中央公論美術出版から出版。10月 中川一政展を銀座吉井画廊で開催。12月 中川一政書展を銀座松屋で開催し、屏風、条幅、額、約170点を出品。会期中ブリヂストン美術館ホールで「書について」と題し講演を行う。『中川一政書蹟』を中央公論美術出版から出版。第44回春陽展 「春曇(福浦)」昭和43年10月 中川一政展を吉井画廊にて開催。第45回春陽展 「福浦」昭和44年6月 「守一・実篤・一政三人展」が吉井画廊で開催される。昭和45年1月 紅梅白梅会(瀧井孝作、中川一政、武者小路実篤、梅原龍三郎、熊谷守一)が吉井画廊で開催される。5月13日 羽田発、フランスへ出発、パリに滞在後、月末からコンカルノへ移り制作に励む。7月 妻暢子、肝硬変のため入院、帰国する。10月18日 暢子死去する。昭和46年5月 「朝日新聞」連載の大佛次郎「天皇の世紀」挿画展を吉井画廊で開催。『中川一政挿画』(「天皇の世紀」)を中央公論美術出版から出版。9月 『さしゑ人生劇場』を求龍堂から出版。10月 さしゑ人生劇場展を吉井画廊新館で開催。昭和47年2月 私家版『中川印譜』を寒山会から上梓する。3月 『中川一政画集1972』を筑摩書房から出版。昭和48年10月 水墨岩彩画集『門前小僧』を求龍堂から出版。第50回春陽展 「箱根駒ケ岳」昭和49年1月 『書の本』を求龍堂から出版。2月 中川一政書展を吉井画廊にて開催。『一政印譜』を求龍堂から出版。4月 中川一政展をパリ吉井画廊にて開催し、油彩、水墨岩彩15点を出品。4月から5月までフランスに滞在する。昭和50年『中川一政文集』(全5巻)第1巻が筑摩書房から刊行。昭和51年1月、完結。日本経済新聞に「私の履歴書」が掲載される。6月10日 中国文化交流使節日本美術家代表団名誉団長として中国に赴き、北京、西安、上海、無錫などを巡遊。一行は宮川寅雄(団長)、脇田和、中根寛、高山辰雄、吉田善彦、加山又造、平山郁夫。同月27日帰国。10月 『腹の虫』を日本経済新聞社から出版。11月 文化功労者となる。文化勲章を受章する。第52回春陽展 「箱根駒ケ岳」昭和51年2月 中川一政書展を吉井画廊で開催。『中川一政装釘』を中央公論美術出版から出版。10月 『中川一政画集1976』を筑摩書房から出版。昭和52年3月 壮心会書展(平櫛田中、奥村土牛、中川一政)が京都高島屋で開催される。昭和53年10月 中川一政近作展(高島屋美術部創設70年)を東京高島屋、大阪高島屋にて開催。『私は木偶である』を車木工房から出版。昭和54年2月 中川一政近作展を彌生画廊で開催。歌集『雨過天晴』を求龍堂から出版。10月 水墨岩彩画集『花下忘帰』を求龍堂から出版。昭和55年2月 随筆『88』を講談社から出版。詩集『野の娘』を創樹社から出版。3月 NHK教育テレビ日曜美術館「アトリエ訪問・中川一政」が防映される。6月3日 成田発スペイン、イタリア、フランスを旅行、17日成田着帰国。『書と印譜』を出版(発行・求龍堂、制作・車木工房)。昭和56年2月 米寿記念『中川一政画集88』を講談社から出版。9月 朝日新聞社主催「中川一政展-私の遍歴」が東京高島屋にて開催される。昭和57年2月 中川一政近作展を彌生画廊で開催。5月 アメリカへ旅行し、ニューヨーク、ワシントン、ボストン、フィラデルフィア等の美術館を見学。6月 真鶴に新アトリエが完成。9月 中川一政展(秋田)を秋田市美術館で開催。10月 中国文学芸術界連合会の招聘により中国を訪問、北京、南京、杭州、紹興、上海を巡遊する。一行は、中川一政(顧問)、宮川寅雄(団長)滝沢修、朝吹登水子、林屋晴三。金沢市の菩堤寺「久昌禅寺」の寺標を揮毫、建立される。昭和58年3月 中川一政展(沖縄)を沖縄三越で開催。5月 中川一政展(酒田)を本間美術館で開催。昭和59年2月 随筆集『画にもかけない』を講談社から出版。3月 大阪なんば高島屋で中川一政新作展(4月、東京・日本橋高島屋)を開催。4月 『中川一政ブックワーク』が形象社から出版される。10月 東京都名誉都民の称号を受ける。昭和60年1月 日華美術展(春陽会、中華民国台陽美術協会合同)が台湾国立歴史博物館(台北市)にて開催される。10月 随筆集『つりおとした魚の寸法』を講談社から出版。11月 NHKテレビ(1)にて「中川一政・描く日々『92歳、多彩な創作活動』」が放映される。第62回春陽展 「向日葵」昭和61年1月 梅原龍三郎追悼(1月16日死去)「梅原の世界」を「朝日新聞」に執筆。6月 『墨蹟一休宗純』を編纂、中央公論社から出版。7月 NHK教育テレビ(3)「ビッグ対談」に「独創をめざし独走す・一休禅師の魅力を通し日本的、東洋的発想の可能性を探る」と題され、柳田聖山と対談。8月 『陶芸中川一政作品集』が万葉洞から出版。10月10日 松任市立中川一政記念美術館が開館。同日、松任市名誉市民の称号を受ける。神奈川県真鶴市においても、真鶴町立中川一政美術館が建設されることになり着工される。11月 『中川一政全文集』(全10巻)を中央公論社から出版、第1回配本第8巻が発行される。以下各巻は毎月20日に刊行、昭和62年8月完結。昭和62年10月 松任市立中川一政記念美術館一周年に当り、新館が開設され、中川一政の周辺特別展が行われる。エッチングと装釘原画を、野上弥生子、岸田劉生、梅原龍三郎、石井鶴三、長与善郎、志賀直哉、武者小路実篤、高村光太郎、富本憲吉、バーナード・リーチ、小杉放庵らの作品、書簡、原稿などともに展示する。金沢市石川近代文学館で同館新装開館一周年記念中川一政特別展が開催(10月25日から昭和63年1月31日まで)され、著書、印譜、挿画、装釘原画、装釘書・誌、原稿など文業に関する作品を展示。昭和63年1月 第1回春寿会展(日動画廊)に「薔薇」2点を出品。東京・彌生画廊新館で中川一政墨彩展を開催。北国新聞に「独行道」(「卒寿をこえて」)を連載。3月 『裸の字』特別限定版、限定版、普及版を中央公論社から出版。5月 東京・日本橋高島屋で中川一政新作展を開催。第65回春陽展 「薔薇」昭和64 平成元年2月 東京・彌生画廊新館で中川一政新作展を開催。平成3年2月5日午前8時3分、心肺不全のため神奈川県足柄下郡の湯河原厚生年金病院で死去。97歳。同7日東京都杉並区の自宅で密葬が、同23日東京都港区の青山葬儀所で葬儀が執り行われた。〔本年譜は、『中川一政画集』(昭和42年、朝日新聞社)所収の「中川一政年譜」、並びに「中川一政1988新作展」図録(同63年、高島屋)所収の「略年譜」を基に作成したものである。〕

山田茂人

没年月日:1991/02/03

日展会員、光風会評議員の洋画家山田茂人は2月3日午前1時22分、肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年62。昭和4(1929)年1月6日、愛媛県八幡浜市に生まれる。同30年多摩美術大学洋画科を卒業。同年第41回光風展に「木組み」で、第11回日展に「足場」で初入選。同32年第43回光風展では「入江の街」で船岡賞を受け、翌33年同会会友、同36年同会会員となる。同41年第52回光風展に「浜波太」を出品して中沢賞、同年第9回社団法人日展に「浜波太」を出品して特選受賞。同46年第57回光風展に「漁村」を出品して再度中沢賞、同47年第4回改組日展に「凪」を出品して70回特別記念賞、同62年第73回同展に「浜辺に」を出品して再度特選を受賞した。同48年渡欧。同59年第70回光風展に「浜の人」を出品して辻永記念賞を受けた。また同60年日展会員となっている。海に生きる人々の質実な生活に共感をよせ、白、茶、黒などを基調とする渋い色彩で、量感ある人物を描いた。

松風栄一

没年月日:1991/02/02

読み:しょうふうえいいち  日展評議員、光風会理事の陶芸家松風栄一は、2月2日午後4時47分、食道がんのため京都市山科区の愛生会病院で死去した。享年75。大正4(1915)年6月22日、京都に生まれる。昭和15(1940)年、東京美術学校工芸部図案科を卒業。同18年第6回新文展に「鋳銅貝文花瓶」で初入選、同25年第6回新日展に「陶器葉鶏頭花瓶」を出品して以降、日展に出品を続け、同28年第9回展では「鶏頭花瓶」で北斗賞受賞。同年より光風会に出品し、「梅皿」で光風工芸賞を受けた。翌29年光風会会員となる。同38年第6回社団法人日展に「映える」を出品して菊華賞受賞。同41年日展会員、同42年光風会評議員となる。同52年第63回光風会に「追憶」を出品して、辻永記念賞受賞。翌53年日展評議員となる。同56年日本新工芸展に「染付盒椿の里」を出品して同展文部大臣賞を受け、翌57年日本新工芸家連盟理事となったが、同61年同会を退いた。白地に藍で簡素な染付文様を描くのを得意とし、清潔で淡白な作風を示した。初期には半楕球型の壷に絵付けをしていたが、晩年は額やオブジェへと新しい試みを行なっていた。没後の平成4年7月、オーストラリア・キャンベラ美術大学で、翌8月にはフィンランド・タンペレ美術館で回顧展が開催された。 日展出品歴新文展第6回(昭和18年)「鋳銅貝文花瓶」、日展第6回(同25年)「陶器葉鶏頭花瓶」、7回「染付木立花瓶」、8回「染付花瓶(橘もどき)」、9回「鶏頭花瓶」(北斗賞)、10回(同29年)「染付葦花瓶」、11回「染付生垣花瓶」、12回「染付花瓶(けいと)」、13回「染付花瓶(虞美人草)」、社団法人日展第1回(同33年)「染付花器(緑間)」、2回「色絵花器 晩秋」、3回「染付花瓶 松」、4回「緑間」、5回「ホールの為の壁面装飾(木の精)」、6回「映える」(菊華賞)、7回「曙光」、8回「白い壷」、9回「朝の歌」、10回(同42年)「白い朝」、11回「烈風」、改組日展第1回(同44年)「潮風」、2回「風韻」、3回「野辺の語り」、4回「ひかりの中に」、5回「白日」、6回「風薫」、7回「爽陽」、8回「緑蔭」、9回「讃歌」、10回(同53年)「黎明」、11回「静韻」、12回「杜若」、13回「旅情」、14回「BANFF」、15回「残雪」、16回「麗日」、17回「遠い日」、18回「夜空の宴」、19回「月明かり」、20回(同63年)「釧路湿原」、21回(平成元年)「早春の旅より」、22回「凍る朝」

谷信一

没年月日:1991/01/21

元東京芸術大学教授、神戸大学教授、共立女子大学教授の谷信一(通称しんいち)は1月21日午前7時15分、肺炎のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年85。明治38年5月8日、三重県安濃郡に生れた。昭和5年3月東京帝国大学文学部美術史学科を卒業、同年4月東京帝国大学文学部副手、7年7月東京帝国大学史料編纂所嘱託を経て、昭和17年3月京城帝国大学助教授に任官したが、21年8月同大学の廃止により退官した。昭和24年5月東京芸術大学美術学部講師、27年神戸大学文理学部教授になり、同年より33年まで東京芸術大学教授を併任、昭和41年3月神戸大学を停年退官し、同年4月から昭和50年3月まで共立女子大学文芸学部教授を勤めた。その間、昭和22年から日本歴史学会編集委員となり、のち評議員を勤めた。また昭和27年からブリヂストン美術館運営委員、同28年から同41年まで東京都美術館参与、同58年石橋財団理事を勤めた。その研究領域は広範にわたり、仏教美術から絵巻物、大和絵、室町水墨画、肖像画、狩野派、土佐派、宗達・光琳派、南画にまで及んでいるが、史料編纂所時代に読破した資料にもとづいて、我国中世における中国絵画受容のあり方を明らかにした一連の論は「室町時代美術史論」(東京堂 昭和17年刊)に収載されている。他の主な著作は「近世日本絵画史論」(道統社 昭和16年刊)「日本美術史概説」(東京堂 昭和23年刊)「御物集成-東山御物・柳営御物」(共編 淡交社 昭和47年刊)など。

菊川多賀

没年月日:1991/01/15

日本美術院の同人で評議員の日本画家菊川多賀は、1月15日午前11時2分、心筋コウソクのため、埼玉県新座市の新座病院で死去した。享年80。明治43(1910)年11月16日、北海道札幌市に土木建築業を営む父菊川竹次郎、母トリの次女として生まれる。本名孝子。大正12年豊水小学校尋常科を卒業し、北海女学校に入学したが、翌13年一家が東京の渋谷区幡ケ谷に移転したため、麹町女学校の2年に転入する。しかし間もなく、眼病により失明状態となり、治療に専念するため学業を断念。昭和4年父の友人だった清原斎に入門し、日本画を学び始めるが、12年頃から再び病状が悪化、以後10年間ほど療養生活をしいられた。戦後22年、堅山南風に師事し、翌23年の第33回院展に「閑日」が初入選する。以後、連年院展に出品し、27年第37回院展「朝」、30年第40回「市場」、31年第41回「群像」、34年第44回「荷葉童心」が奨励賞、33年第43回「海女」が佳作となり、36年第46回「祈」、37年第47回「森」、38年第48回「舞妓」は3年連続して日本美術院賞を受賞した。この間、25年日本美術院院友、36年特待となり、39年には同人に推挙された。昭和20年代には少女や母子を多く描いていたが、30年代には裸体群像、40年代には文楽や歌舞伎に画題を求めた作品を多く制作した。みずからも、師南風が33年第43回院展に出品した「応接間の人」のモデルとなっている。47年第57回院展「鳴神想」は文部大臣賞、57年第67回院展「遥」は内閣総理大臣賞を受賞。日本美術院では51年から評議員をつとめた。八晃会、旦生会、生々会などにも出品。昭和63年北海道立近代美術館で「生命の群像-菊川多賀展」が開催された。 院展出品歴昭和23年33回「閑日」、24年34回「少女」、25年35回「母子」、26年36回「初秋」、27年37回「朝」(奨励賞)、28年38回「帰路」、29年39回「収獲」、30年40回「市場」(奨励賞)、31年41回「群像」(奨励賞)、33年43回「海女」(佳作)、34年44回「荷葉童心」(奨励賞)、36年46回「祈」(日本美術院賞)、37年47回「森」(日本美術院賞)、38年48回「舞妓」(日本美術院賞)、40年50回「女人讃歌」、41年51回「文楽人形」、42年52回「スペインの踊子」、43年53回「訶利帝母」、45年55回「懐郷」、46年56回「衆生」、47年57回「鳴神想」(文部大臣賞)、48年第58回「転生」、49年59回「婦図」、50年60回「文楽」、51年61回「小宰相」、52年62回「ひとつの記録」、53年63回「歌舞伎印象」、54年64回「無量華1」、55年65回「無量華2」、56年66回「無量華3」、57年67回「遥」、58年68回「文楽人形(江戸時代)」、59年69回「道標」、60年70回「刻」、61年71回「幻」、62年72回「還生譜」、63年73回「転生2」、平成元年74回「華」、同2年75回「帰路」

奥山藤一

没年月日:1991/01/10

一水会会員の洋画家奥山藤一は1月10日午後6時18分、肺炎のため京都市の社会保険京都病院で死去した。享年79。明治44(1911)年10月1日、京都市上京区に生まれる。三重県で中学校を卒業後、昭和5(1930)年関西美術院に入学。同年より鹿子木孟郎の画塾にも入門し、鹿子木の没する昭和16年までその指導を受ける。この間、同10年渡欧し、スペインのマドリッドでベラスケスを研究し、オランダへ渡ってレンブラントについて研究、模写を行った。同13年、ヨーロッパでの戦況激化により帰国。鹿子木の没後その遺志を継いで京都日仏学館で後進の指導に当たった。戦後は健康を害して長らく療養生活を強いられ、同30年代後半に画壇に復帰し一水会展に出品を始め、同41年第9回日展に「法界寺阿弥陀如来」で入選する。同45年第32回一水会展に「三十三間堂開扉」を出品して一水会賞を受賞。翌46年同会会員となり、翌47年第34回同展出品作「開扉」は同会会員優賞を受けた。また、同年の第4回改組日展には「開扉」を出品して特選となる。この後、再び渡仏しロマネスク、ゴシックの寺院にひかれ、同49年第6回改組日展に「薔薇の窓」を出品したのち数年間、西欧中世の建築をモチーフとしたが、そのほかは一貫して仏像や仏教建築を題材として描き続けた。

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