杉山寧
日本芸術院会員で、文化勲章受章者の日本画家杉山寧は10月20日午前0時5分、心不全のため東京都文京区の東京日立病院で死去した。享年84。明治42(1909)年10月20日、紙や文具類を売る店を営んでいた杉山卯吉、みちの長男として東京浅草に生まれる。東京府立第三中学校を卒業した翌年の昭和3(1928)年に東京美術学校日本画科に入学。同校在学中の同6年の第12回帝展に「水辺」を初出品して入選する。翌年の第13回帝展にも「磯」が入選し、特選となる。同8年、同校を首席で卒業、在学中に師事した松岡映丘が主宰する研究会「木之華社」の例会に時折出席するようになる。翌年、第14回帝展に出品した「海女」が再び特選となる。この作品は、卓抜した描写力と構成力とともに、清新な感覚で描かれた作品であり、戦前期の画風の特色をよくつたえている。またこの年、松岡映丘門下の有志とともに「瑠爽画社」を結成、翌年同人とともに銀座資生堂ギャラリーにおいて第1回展を開催、同13年の第3回展までつづく。同17年、中国大陸を旅行、ことに雲岡石窟寺院では、約半月にわたり石仏の写生に励んだ。戦後は、同21年の文部省主催日本美術展覧会(日展)が発足し、出品を委嘱されたが応ぜず、同26年の第7回日展に戦後初めての大作であり、ギリシャ神話に取材した「エウロペ」を出品する。以後、日展には、同組織が社団法人となった同33年から会員として、同49年まで出品をつづけ、その間評議員、常務理事、また審査員などをつとめたが、同51年に退会、しかし請われて顧問に就任した。そのほか、同26年に東京美術学校出身の橋本明治、山本丘人、東山魁夷等とともに、画会「未更会」(兼素洞主催)の発足にあたり、会員として加わったのをはじめ、多くの画会に参加、そのつど新作を発表した。また、雑誌「文藝春秋」の表紙絵原画を同31年4月から同57年6月号まで毎号制作する。同32年の第12回日展出品の「孔雀」(東京国立近代美術館蔵)に対して、同13回日本芸術院賞を送られる。この作品は、緊張感のある画面構成ながら、新鮮な華やかさをもった作品で、中期の代表作となった。しかし、同36年の沖縄旅行、翌年のエジプト、ヨーロッパ旅行を契機に、それまでの平明な自然描写にかわって、重厚なマチエールによって自然を抽象化する傾向を強め、また「穹」(同39年、東京国立近代美術館蔵)に代表されるように、エジプトの古代遺跡を題材に象徴的な画面づくりに向かっていった。さらに、同48年頃から、夢幻的な空間の中に裸婦、鳥、動物を配した作品へと展開していった。同53年、56年に中近東に旅行し、トルコのカッパドキアの遺跡や風物など、その折の取材をもとにした作品が生まれた。同49年には、文化勲章を受け、また文化功労者として顕彰された。同57年11月から61年6月まで、日本芸術院の第一部長をつとめた。同62年8月には、東京国立近代美術館において、本画、素描等総点数123点からなる本格的な回顧展として「杉山寧展」が開催され、同年10月にも富山県近代美術館において回顧展が開催された。さらに、平成4(1993)年には、東京美術倶楽部において「杉山寧の世界」展が開催された。(同氏の年譜及び出品歴については、上記の展覧会図録に詳しい。)
出 典:『日本美術年鑑』平成6年版(336頁)登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月26日 (更新履歴)
例)「杉山寧」『日本美術年鑑』平成6年版(336頁)
例)「杉山寧 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10383.html(閲覧日 2024-10-12)
以下のデータベースにも「杉山寧」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1957年02月 恩賜賞日本芸術院賞
- 1970年11月 芸術院新会員決定
- 1974年10月 文化勲賞文化功労者
- 1975年03月 吉田五十八賞新設
- 1981年10月 松岡映丘展とその一門展
- 1987年08月 杉山寧展
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