宇田荻邨

没年月日:1980/01/28
分野:, (日)
読み:ウダ, テキソン*、 Uda, Tekison*

 日本芸術院会員、日展顧問の日本画家宇田荻邨は、1月28日午前3時20分、急性心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年83。1896(明治29)年6月30日三重県松阪市に生まれ、本名は善次郎。初め郷里の画家中村左洲に手ほどきを受け、17歳の時(1913年)四条派の流れを汲む菊池芳文に師事、翌年芳文のすすめで京都市立絵画専門学校に入学した。1917年同校を卒業し、翌18年に師芳文が没したため養嗣子菊池契月につく。19年第1回帝展に「夜の一力」が初入選し、25年第6回帝展「山村」が特選、26年第7回帝展で「淀の水車」が再び特選となり帝国美術院賞を受賞した。27年帝展委員をつとめ、28年には32歳の若さで審査員となり以後17回にわたって審査員をつとめる。29年から49年まで京都市立専門学校(45年京都市立美術専門学校と改称)で教壇に立ち、また35年開設された京都市展(45年京展と改称)にも第1回から出品を続け審査員を重ねている。戦後50年日展参事となり、55年に師契月が没したため翌年画塾白申社を創立して主宰、58年には京都御所小御所の襖絵を完成した。58年社団法人日展の発足とともに評議員に就任、62年から理事をつとめ、73年に顧問となっているが、70年第2回改組日展「高山寺」を最期に日展には出品していない。また、61年に日本芸術院会員となり、67年勲三等瑞宝章を受章、72年松阪市名誉市民の称号を受け、73年「日本画の名匠宇田荻邨回顧展」(京都市美術館)77年「画業60年記念宇田荻邨展-京の四季」(東京三越)と大規模な回顧展が開催された。一貫して京の風物を描き続け、「夜の一力」(19年)「山村」(25年)「淀の水車」(26年)「祇園の雨」(53年)「鴨川の夕立」(54年)「桂離宮笑意軒」(64年)「水神貴船奥宮」(69年)など、四条派の基礎に大和絵の古典的作風を加えつつ、清麗で品格のある画境を繰り広げた。
年譜
1896  6月 30日 現在の三重県松阪市に、父宇田春吉、母たけの長男として生れる。宇田姓は母方のものである。本名、善次郎。
1903        松阪町高等小学校(現在の松阪市立第一小学校)に入学。
1911        同小学校高等科卒業。その後、伊勢二見の画家中村左洲に絵の手ほどきを受け、写生、運筆、模写にはげむ。
1913        同郷の知人西井水花にともなわれて京都に来て菊池芳文につく。荻村(のち荻邨)と号する。
1914  4月 芳文のすすめで、京都市立絵画専門学校別科に入学。教師は芳文、竹内栖鳳、都路華香、木島桜谷西村五雲川村曼舟西山翠嶂菊池契月などであった。
1917  3月 京都市立絵画専門学校別科卒業。同期に徳岡神泉、小林哥白、榊原始更板倉星光ら。在学中から研究会「みつりつ会」に加わり、卒業後も続ける。
1918  1月 師、芳文没。引き続きその養嗣子菊池契月につく。
1919  9月 文展が改組され帝展となる。
         10月 第1回帝展に«夜の一力»を出品し、初入選する。
1920 10月 第2回帝展に«太夫»が入選。
1921 10月 第3回帝展に«港»を出品したが落選。
1922  4月 福村祥雲堂主催の九品会展が祇園・八坂倶楽部で開かれ、これに参加。(同会は菊池契月西山翠嶂らによって選ばれた新進作家、堂本印象福田平八郎山口華楊宇田荻邨など9名によるもの)
         10月 第4回帝展に«木陰»が入選。
                 この年、北野白梅町に移り住む。
1923 11月 大阪毎日、東京日々新聞社主催の日本美術展に«花畑»«南座»を出品。«花畑»は銀牌を受ける。
                 この年、真下飛泉の媒酌で磯田弥栄と結婚する。
                 この頃、土田麦僊と知り合う。
1924 10月 第5回帝展に«巨椋の池»を出品。
                 この年、九名会展に出品。
1925  5月 京都市立美術工芸学校教諭心得となる。
         10月 第6回帝展に«山村»が特選となる。
1926  6月 第2回菊池塾展に«白鷺図»を出品。
         10月 第7回帝展に«淀の水車»が特選となり、帝国美術院賞を受ける。
1927  5月 第3回菊池塾展に«椿小禽»を出品。
         10月 第8回帝展に委員として«溪間»を出品、宮内省買上げとなる。
1928  3月 第4回菊池塾展に«林泉»を出品。
          9月 大礼記念京都大博覧会第4部美術鑑査員をつとめる。
         10月 第9回帝展に審査員として«高雄の女»を出品。
                 この年、国際美術協会第1回展委員をつとめる。
1929  5月 第5回菊池塾展に«吉野山»を出品。
          8月 京都市立美術工芸学校教諭を辞し、京都市立絵画専門学校助教授となる。
1930 10月 第11回帝展に審査員として«流江清夜»を出品。
1931  5月 第7回菊池塾展に«春の池»を出品。
        10月 第12回帝展に«魞»を出品(無鑑査)。
1932  5月 第8回菊池塾展に«溪流»を出品。
        10月 第13回帝展に審査員として«竹生島»を出品。
1933  5月 第9回菊池塾展に«鷹ヶ峰»を出品。
        10月 第14回帝展に審査員として«梁»を出品。
1934  5月 大礼記念京都美術館美術展委員をつとめる。
        10月 第15回帝展に«梅»を出品。
                この年、土田麦僊の住居を譲り受け、北区北野西白梅町に住む。
1935  3月 三越主催により、京都在住作家による春虹会が開かれ、«吉野山»を出品。
          5月 京都市展開設され、同展委員、審査員として«粟»を出品。
1936  1月 京都市立絵画専門学校教授となる。
        10月 帝展が改組され「昭和11年文展」が開かれたが出品せず。
193 7 4月 初めての個展を大阪美術倶楽部、京都美術倶楽部で開催し、『宇田荻邨作画集』を芸艸堂から出版する。
          5月 第2回京都市展に審査員として«芍薬»を出品。
          8月 京都在住の美術家、評論家の親睦団体、京都美術倶楽部が結成され、その理事となる。
        10月 第1回新文展に審査員として«田植»を出品。
1938  3月 井南居主催、日本画家10人による丼丼会の第1回展が東京美術倶楽部で開かれ、これに参加する(会員は、堅山南風小野竹喬山口華楊宇田荻邨ら東西5名ずつの作家)。
          5月 第3回京都市展に審査員として«青麦»を出品。
        10月 第2回新文展に«神鳩»を出品。
1939 10月 第3回新文展に«寒汀宿雁»を出品。
                この年、第4回京都市展の審査員をつとめる。
1940 10月 紀元2600年奉祝美術展に«新秋»を出品。
                この年、商工省紐育万国博覧会に«宿雁»を出品、また、大阪毎日新聞社主催美術展に審査員として«瑞雪»を出品。
1941 10月 第4会新文展に審査員として«林泉»を出品。
                この年、従五位を受ける。また、第6回京都市展に審査員として«八重桜»を出品。
1942  5月 第7回京都市展参与、審査員をつとめ、同展に«鸐雉»を出品。
         10月 第5回新文展に審査員として、«水»を出品。
         11月 東京三越主催の十宜会に参加する(会員は小野竹喬徳岡神泉福田平八郎山口華楊宇田荻邨等)。
1943 10月 第6回新文展に審査員として«秋草»を出品。
                この年、京都霊山護国神社参集殿新築に際し、絵馬«雁»を奉納する。また、第8回京都市展に審査員として«桃鳩»を出品、大阪朝日新聞社主催美術展に«松»を出品。
1944  7月 平安神宮御鎮座五十年・平安遷都1150年奉祝京都市展に審査員として«牡丹»を出品。
        11月 戦時特別文展に«御塩殿»を出品。
                この年、高等官四等待遇、正六位を受ける。
1945 11月 京都市展が改称され京展となり、第一回展に審査員として«栂尾»を出品。
                この年、大礼記念京都美術館評議員となる。大阪市展審査員をつとめる。
1947  6月 第3回京展に審査員として«やまざくら»を出品。
        10月 第3回日展に審査員として、«滝»を出品。
1948  5月 第4回京展に«春蘭»を出品。
        10月 第4回日展に審査員として«しぐれ»を出品。
1949  7月 京都市立絵画専門学校教授を辞任する。
        10月 第5回日展に審査員として«蓮»を出品。
1950  5月 日展運営会参事となる。
        10月 第6回日展に審査員として、«洛北芹生の秋»を出品。
                この年、関西綜合美術展審査員をつとめる。
1951 10月 第7回日展に審査員として、«栂尾の冬»を出品。
1952 10月 第7回日展に«松樹»を出品。
1953  4月 第5回京展審査員をつとめる。
        10月 第9回日展に審査員として、«祇園の雨»を出品。
                この年、伊勢神宮遷宮を記念して«伊勢えび»を献納する。関西綜合美術展審査員をつとめる。
1954  4月 第6回京展に審査員として«滝»を出品。
        10月 第10回記念日展に審査員として«鴨川の夕立»を出品。
1955  4月 第7回京展審査員をつとめる。
          5月 東京三越で個展「荻邨京洛八趣展」が開催され«祇園の雪»«大原女»«舞妓»«御室の桜»«嵐峡の春雪»«淀の鯉»«嵯峨野»«洛北の滝»などを出品。
          9月 9日、師、菊池契月が没する。
        10月 第11回日展に«大原寂光院»を出品。
                この年、宮内庁から京都御所小御所の襖絵を依頼される。
1956  1月 画塾白申社を創立して主宰する。同第1回展を10月から12月にかけて東京三越、大阪三越、京都丸物で開催する。
          4月 第8回京展に審査員として、«篝火»を出品。
        10月 第12回日展に審査員として«夕涼»を出品。
                この年、関西綜合美術展審査員をつとめる。
1957  4月 第9回京展審査員をつとめる。
          6月 東京三越で個展が開催され«祇園祭の宵宮»«稲荷山»«清水寺»などを出品。
        10月 第13回日展に«清水寺»を出品。
        12月から翌年3月にかけて第2回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催する。
1958  4月 第10回記念京展に審査員として«玉鷸»を出品。
        11月 社団法人日展が発足し、第1回新日展に«野々宮»を出品。
                この年、京都御所襖絵が一門の画家によって完成する。荻邨は四面に«富士の山»を描く。
1959  5月 第11回京展に審査員として«石楠花と春蘭»を出品。
        11月から翌年1月にかけて第3回白申社展を東京三越、京都府ギャラリー、大阪三越で開催し、«大原の秋»を出品。
1960  5月 第12回京展審査員をつとめる。
        11月 第3回新日展に«伊勢神宮»を出品。
        12月から翌年2月にかけて第4回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«祇園夜桜»を出品。
1961  6月 日本芸術院会員となる。
        11月 第4回新日展に«雪の嵐山»を出品。
        12月から翌年2月にかけて第5回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«嵐山春雪»を出品。
                この年、第13回京展審査委員をつとめる。
1962  3月 社団法人日展の理事となる。
          4月 第14回京展に審査員として«御室の桜»を出品。
        11月 第5回新日展に«祇園夜桜»を出品。
        12月から翌年1月にかけて第6回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«野々宮竹林»を出品。
                この年、東京銀座松屋画廊で朝日新聞社主催の東西大家デッサン・シリーズ「宇田荻邨素描展」を開催する。
1963  4月 第15回京展の審査員をつとめる。
        11月から翌年3月にかけて第7回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催する。
1964  4月 第16回京展の審査員をつとめる。
        11月 第7回新日展に審査員として«桂離宮笑意軒»を出品。
1965  1月から2月にかけて第8回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«祇園一力»«藤»を出品。
          4月 第17回京展の審査員をつとめる。
        11月 第8回新日展に«飛香舎(藤壷)»を出品。
1966  1月から2月にかけて第9回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«嵐山秋雨»«藤壷»を出品。
          4月 第18回京展審査員をつとめる。同月、『白申社画集』を出す。
        11月 第9回新日展に«杜鵑»を出品。この年、白申社を解散する。
1967  4月 29日、勲三等瑞宝章を受ける。同月、第19回京展審査員をつとめる。
        11月 第10回新日展に«五月雨»を出品。同月、東京三越で個展を開き«藤壷»«祇園夜桜»«舞妓»«平安神宮紅枝垂»«落柿舎»«花背の山道»«清水寺»«水神貴船奥宮»«桂離宮笑意軒»«御室の桜»«鴨川の雪»などを出品し、また『京洛画趣宇田荻邨画集』を出す。
1968 11月 第11回新日展審査員をつとめる。
                この年、京都高島屋新築記念京都在住日本画大家展に«大原女»を出品。
1969  3月 日展が改組され、常任理事となる。
          4月 第21回京展審査員をつとめる。
        11月 第1回改組日展に«水神貴船奥宮»を出品。
1970 11月 第2回改組日展に«高山寺»を出品。以後日展に出品せず。
1971  4月 第23回京展審査員をつとめる(以後昭和52年まで毎年続ける。)
        11月 京都市美術館新収蔵庫竣工を記念して、「京都日本画の精華一竹喬・印象・平八郎・桂華・遥邨・神泉・荻邨・華楊・松篁」が開催され«溪間»«梁»«魞»«新秋»«鴨川の夕立»«清水寺»«桂離宮笑意軒»«嵐山秋雨»«飛香舎(藤壷)»«杜鵑»«五月雨»«水神貴船奥宮»を出品。
1972  2月 1日、松阪市名誉市民の称号を受ける。
1973  3月 日展顧問となる。
          4月 京都府主催による「京の百景展」が開催され、前年制作の«嵐山»を出品。同月、第25回京展に審査員として«大原女»を出品。
1976  5月 京都市主催により、京都市美術館で「日本画の名匠宇田荻邨回顧展」が開催され、本画、素描など約70点が展示される。
                この年、宮内庁の依頼により«冬嵐山»を制作する。
1977  5月 東京三越でサンケイ新聞社主催により「画業60年記念宇田荻邨展-京の四季」が開催され、本画、素描など80余点が展示される。
1978  1月 京都書院より画集『宇田荻邨』を出版する。
        10月 神奈川県立近代美術館で「近代日本画の巨匠展」が開催され、«野々宮»を出品。
1980  1月 28日、入院中であった京都市左京区の日本バプテスト病院にて急性心不全のため死去。法名・積善慶雲荻邨居士。
                (塩川京子編「宇田荻邨年譜」(集英社現代日本画全集5)参照)

「*」の読み、ローマ字表記はWeb NDL Authoritiesを利用
出 典:『日本美術年鑑』昭和56年版(237-240頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2019年06月06日 (更新履歴)
以下のデータベースにも「宇田荻邨」が含まれます。
to page top