今泉篤男

没年月日:1984/01/19
分野:, (評)

 前京都国立近代美術館長で美術評論家の今泉篤男は、1月19日急性心不全のため東京都目黒区の国立東京第二病院で死去した。享年81。戦前から美術評論に従事し、戦後の美術評論界を先駆的に導き美術評論を独自の領域をもつ世界へ高め、また、国立近代美術館の創設に携わり美術行政でも多大の功績のあった今泉は、明治35(1902)年7月7日山形県米沢市に生まれた。山形県立米沢中学校、山形高等学校理科甲類を経て大正12年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、主に大塚保治の指導を受けた。昭和2年卒業後同大学大学院に在籍し、同7年に渡欧、はじめパリ大学、ついでベルリン大学へ転じデッソアー、ニコライ・ハルトマン、オイデベルヒトらの講義を受ける。滞欧中、佐藤敬田中忠雄内田巌小堀四郎森芳雄野口弥太郎、佐分利真等の作家と知り会い同9年に帰国。帰国の年から美術評論の執筆を開始し、新時代洋画展感想」(同9年)、「梅原龍三郎安井曽太郎」(同13年)、『ルノアル』(同)等、展覧会批評、日本現代作家論、西洋美術紹介などに精力的に従事した。また、同10年には「美術批評に就ての疑問」を発表、同13年には土方定一瀧口修造植村鷹千代柳亮らと「美術批評の諸問題を語る座談会」を持つなど、はやくから美術批評の近代的な在り様に対して積極的な発言を行い、この間、同11年には美術批評家協会の創立に参加し会員となった。同10年から17年まで財団法人国際文化振興会に勤務、同15年には文化学院美術部長となる。戦後は、同25年跡見短期大学教授生活芸術科科長となり、翌年国立近代美術館設置準備委員に任命され、翌27年跡見短大を退職し同年創設の国立近代美術館次長に就任した。同26年美術調査研究のため欧米を歴訪。同年毎日新聞社主催のサロン・ド・メ日本展が大きな反響を呼び、翌年日本作家がパリの同展に招待出品されたのを見て、創刊間もない「美術批評」誌上に日本作品に対する率直で鋭い批判を行い論議を呼んだ。同29年美術評論家連盟創立に際し常任委員となり、翌30年には仮称「フランス美術館」設置準備協議会委員(33年まで)となる。国立近代美術館次長としては、「現代美術の実験」展(同36年)を開催し、荒川修作・中西夏之ら若手の作家をとりあげるなど意欲的な企画を主導した。また、日本国際美術展をはじめ各種展覧会に関与しその批評を行ったのをはじめ、浅井忠、梅原、安井、坂本繁二郎熊谷守一から森芳雄山口薫にいたる近代日本作家論の幅を広げていった。同38年国立近代美術館京都分館長となり、同42年同分館が独立し京都国立近代美術館となり初代館長に就任、これを機に工芸の世界へも強い関心を寄せ、以後、富本憲吉河井寛次郎浜田庄司岩田藤七芹沢銈介、志村ふくみらをとりあげ、工芸批評に新機軸をもたらした。同44年京都国立近代美術館長を辞任し、同46年からは跡見学園女子大学美学美術史学科教授として西洋美術史を講じ、同49年に退職。この間、同34年に国立西洋美術館評議員となったほか、国公私立の美術館の運営委員、評議員等を数多く歴任した。評論の中心は日本近代作家論にあり、絵画、版画、彫刻、工芸の各領域に及んだが、当初から従来の美術批評における感覚的な印象評を脱し、かつ美術評論を創造的な独自の領域として自立させるため、評論の言語も芸術作品同様の平明さと鋭さを備えなければならないとの信念をもっており、論理的でありながら、その体験に基づく平明な美文調の文章には定評があった。尨大な著述の主要なものは、『今泉篤男著作集』(全6巻 昭和54年、求龍堂)に収められている。

出 典:『日本美術年鑑』昭和60年版(240頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2015年12月14日 (更新履歴)
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