「日本の彫刻」毎日出版文化賞を受ける
1952年10月一九五二年度、第六回の毎日出版文化賞が決定し、二九日発表された。美術書関係では、岡鹿之助、今泉篤男、滝口修造編、美術出版社発行の「日本の彫刻」が選ばれた。一一月一二日毎日新聞社において授賞式が行われた。
一九五二年度、第六回の毎日出版文化賞が決定し、二九日発表された。美術書関係では、岡鹿之助、今泉篤男、滝口修造編、美術出版社発行の「日本の彫刻」が選ばれた。一一月一二日毎日新聞社において授賞式が行われた。
東京国立博物館では「美の殿堂」「上代彫刻」と美術映画を作製して来たが、その第三作として「桃山美術」が完成した。二巻で、製作三井芸術プロダクション、脚本近藤市太郎、演出水木荘也、撮影川村清衛、音楽松平頼則である。
文化財保護委員会では岩手県教育委員会と合同で岩手県南磐井郡平泉村の無量光院跡を発掘調査することになつた。二〇日から三一日まで、考古学、建築史、庭園等各方面から調査した。
昭和二七年度、第一一回目の文化勲章受賞者が決定し二一日発表された。美術関係者では梅原竜三郎と安井曽太郎がこの栄誉をうけた。一一月三日文化の日に授賞式が皇居で行われた。
来年アメリカの五都市で開かれる予定の日本古美術展の出品については八月以来日米合同選択委員会々議を重ね、九月五日文化財専門審議会を開いて第一次公式案を作成し、更に修正を重ねて一〇月九、一〇両日の専門審議会で可決した目録が一一日文化財保護委員会から発表された。高山寺の鳥獣戯画や神護寺の源頼朝像などが含まれている。
薬師寺東塔の相輪屋根など修理工事を行つていたが、工程を完了し一一日落慶式法要が行われた。
海外各地にある大使館、公使館、領事館等から美術品を送つてほしいという要望が多いので、外務省では優秀作品を買上げて送ることになつた。装飾用とするとともに日本美術を紹介する意味で日本的な特色の濃い絵画、版画、工芸品を選ぶ方針である。
明治四年九月文部省に博物局を置き、湯島聖堂大成殿を博物館として一〇月一日より一〇日間博覧会を開いたが、これが今日の東京国立博物館のもとになつており、今年で満八〇年を迎えた。博物館では二日記念式典を行い、また記念特別展として一日から三〇日まで館の収蔵品だけで普段陳列されない日用品までを含めた広範囲な展観を行つた。記念出版としては博物館所蔵品の総目録を刊行する。
東京文化財研究所美術部長に田中一松が決定し、一日発令された。
福田新生、野崎利喜男など一水会々員の有志により「新しい内容と様式によるレアリズムの研究・創作・発表」を目標としてレアル美術会が結成された。
九月二〇日から一〇月二六日まで東京国立博物館表慶館においてブラック展が開催された。東京国立博物館、読売新聞社の主催、フランス大使館の協賛で、絵画・彫刻・版画等一九五二年に至る代表的作品をブラック自身選択したものである。
ヴェニスの第二六回ビェンナーレ国際美術館のコンクール審査員として渡欧した梅原竜三郎は一二日帰国した。
毎日新聞社では産業の興隆と輸出の促進に寄与するために新日本工業デザインの懸賞を設定したが、一五日入賞者を決定発表した。推薦に柳宗理、入選奨励賞に福田真知子のほか入選五、佳作八が発表された。
九月一六日から二一日まで日本橋三越においてベルギー現代美術展が開催された。ティトガット・デルボーをはじめ現代ベルギー画壇を代表する七作家の作品八二点を展観した。
大仏開眼一二〇〇年を記念して、東大寺名宝展が、東大寺、大仏奉賛会、朝日新聞社の主催、文化財保護委員会、東京国立博物館の後援によつて二日から二四日まで日本橋の高島屋において開催された。
昨年サンフランシスコで開催された日本古美術展の好評によつて、アメリカでは更にワシントン、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、シャトルで日本古美術展を開催することを希望し、その折衝に前ハーバート大学教授ウォーナー、メトロポリタン博物館東洋美術部長アラン・プリースト、ワシントンフリーヤー美術館長ウェンレイが来日した。文化財保護委員会との第一回会合を一二日東京国立博物館で開催した。
東京国立博物館奈良分館の名称は文化財保護法の一部改正により八月一日から奈良国立博物館となつた。
奈良薬師寺の国宝月光菩薩は七月一八日の吉野地震で首にひびが入つたので、これを修理することとなり、文化財保護委員会から担当技官が赴いたが、八月四日首と胴をつないでいた鉄の心棒を切断した。文化財保護委員会の内部でもこの措置が問題となり、一二月新たに修理委員会が設けられた。
日本の商業デザインが外国の商業美術雑誌に相次いで掲載された。ドイツのゲブラウス・グラフィツク誌の七月号は伊藤憲治の作品を八ページにわたつて紹介した。これは日本の商業デザイナーとして最初のことで、引きつづき各種のデザインが紹介された。