本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





阪本勝

没年月日:1975/03/22

兵庫県立美術館館長の阪本勝は、3月22日午後4時3分、食道ガンのため芦屋市の自宅で死去した。享年75歳。阪本勝は、明治32年(1899)10月15日、尼崎市に生まれ、明治45年(1912)大阪府立北野中学校(現・北野高等学校)に入学、のちに洋画家となった佐伯祐三と同級生であった。大正9年3月第二高等学校を卒業、東京帝国大学経済学部にすすみ、大正12年(1923)3月卒業。東大時代には新人会に加入した。大正12年4月~同13年3月まで福島県立福島中学校で英語教師をつとめ、大正13年4月大阪毎日新聞社に入社、学芸部記者となった。大正15年3月新聞社を退職し、昭和2年4月から8月には関西学院大学講師、そのころ麻生久、河上丈太郎らの日本労働党に参加し兵庫県議会議員に立候補した。また、処女作の戯曲『洛陽餓ゆ』(福永書店、昭和2年)を発表し、昭和3年から2年間、ヨーロッパに留学した。帰国後、戯曲『資本論』(日本評論社、昭和6年)を発表、また兵庫県議会議員から、昭和17年4月には衆議院議員となっている。その後尼崎市長(昭和26~29年)、兵庫県知事(昭和29~37年)を経て、昭和45年6月、兵庫県立近代美術館創立と同時に館長に就任した。戯曲、詩歌、書、絵画と多彩な活動をみせたが、美術関係の著作活動では、訳書『裸体芸術社会史』(ハウゼンシュタイン原著)、友人佐伯祐三の評伝『佐伯祐三』(日動出版、昭和45年)がある。

小堀進

没年月日:1975/03/16

水彩画家、日本芸術院会員の小堀進は、3月16日午後零時2分、ガン性胸膜炎のため東京都北区の大蔵省印刷局東京病院で死去した。享年71歳。明治37年1月22日茨城県に生れた。大正11年3月千葉県立佐原中学校を卒業。翌年上京して葵橋洋画研究所に入り晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。中学時代から土地柄の水郷風景などを水彩で描いていたが、昭和7年の第9回白日会展「うすれ日」、第19回日本水彩画会展「画室の一隅」「盛夏の海」などの公募団体展への初入選は共に水彩画で始まっている。以後、終始一貫して水彩画家として大成したことは周知の通りである。昭和9年1月の第11回白日会展では受賞して会友に推せんされ、同年2月の第21回日本水彩展ではキング賞を受けて会員に推挙された。同じく昭和11年第13回白日会展では新会員となった。一方同時期には二科展にも作品を発表し、昭和8年第20回展に「高原」が初入選以来昭和14年第26回展「遊覧船」まで毎年出品した。その間の出品作の画題は、「蒼原」(21回展)、「斜陽」(22回展)、「山麓」(23回展)、「海」(24回展)、「陶業の町」(25回展)である。 昭和15年5月には、洋画界の中に占める水彩画の位置の極めて不安なこと、しかも日本水彩画会のような保守的な行き方に慊らず、故に水彩画の向上発展を期して、荒谷直之介、春日部たすくら同志8名とともに水彩連盟を結成、同年12月、第1回展を東京・銀座三越で開催した。以後第5回展まで東京・大阪の三越で開催。戦後22年2月の第6回展からは一般公募展となし東京者美術館で開催、現在に及んでいるが、彼はその水彩画新開拓運動に挺身してきた中軸的存在であった。戦中の第5回文展(昭和17年)に「初秋水郷」、第6回文展に「水が咲く」が入選した。同19年より郷里へ疎開したが、同22年に再上京、第3回日展に「驟雨」が入選した。日本芸術院・日展運営会の共同主催となった昭和24年第5回日展に無鑑査で「湖畔」を出品、以来死去前年(同49年)の改組第6回日展「晨」にいたるまで1回も休むことなく連続出品、精力的な発表を重ねた。その間、第7回展(26年)・第11回展(30年)・第2回新日展(34年)・第5回展(37年)・第8回展(40年)・第11回展(43年)に審査員を歴任した。同32年には、日展が社団法人と改組されその評議員となり、更に同44年再改組日展理事に就任した。この改組日展第1回展の出品作品「初秋」によって、昭和44年度(第26回)の日本芸術院賞を受賞した。その授賞理由として、「氏は、その表現技法の洗練とともに、内面描写の領域にまで深厚な観照を加え、昭和水彩の一典型ともいうべき新技法の画風を確立して、広く後進に影響を与えてきた。この作品は、その集大成ともいえる独得の賦彩処理と水郷風景の把握にその充実した力量を示した優作であると認める」と発表されたが、殊に戦後の四半世紀をこの画家が、すぐれた現代感覚と創意・工夫を重ねて樹立した独自な作風の特色を正に語り得て妙というべきであろう。昭和49年11月、水彩画家として初めて日本芸術院会員に選ばれたが、その後数ヶ月を経ずして病魔に倒れたことは誠に惜しまれる。他に、同36年に結成された日展水彩作家協会の顧問や、同45年来名古屋芸術大学教授をつとめていた。

西岡楢光

没年月日:1975/03/12

法隆寺大工棟梁西岡楢光は、3月12日老衰のため、奈良県生駒郡の自宅で死去した。享年90歳。昭和9年から20年間かかりで行われた五重塔、金堂など法隆寺の「昭和の大修理」の大工棟梁を務めるなど宮大工一筋に生きた。昭和30年紫綬褒章、同40年には勲四等瑞宝章を受章、昭和49年3月、後継者の長男常一、二男楢二郎とともに「宮大工一家」として吉川英治賞を受賞した。

重森三鈴

没年月日:1975/03/12

日本庭園の研究で知られる重森三鈴は、3月12日心不全のため死去した。享年78歳。昭和29年8月20日岡山県上房郡に生れ、大正9年日本美術学校本科、同11年研究科を卒業、同12年東洋大学に学んだ。昭和2年岡山県に、原始森林公園を創設し、昭和7年京都林泉協会を設立した。昭和14年「日本庭園史図鑑」26巻を完成、そのほか著述も多い。また東福寺本坊方丈庭園ほか築庭の数も多い。京都林泉協会々長。

金剛よしゑ

没年月日:1975/03/08

宮大工金剛組38代目の女棟梁であった金剛よしゑは、3月8日、老衰のため死去した。享年80歳。金剛よしゑは明治27年(1894)5月25日、京都府福知山市に生まれ、明治42年3月京都府天田郡立高等小学校を卒業、大正6年(1917)9月、金剛組37代金剛治一と結婚。昭和7年(1932)9月金剛治一死去後は、38代をついで1000年以上つづいている宮大工金剛組当主となって組を守り、昭和9年(1934)の第1次室戸台風で倒れた大坂四天王寺五重塔再建で話題をよんだ。そのほかにも、四天王寺金堂・西大門を再建、旧水戸藩偕楽園好文亭復元、水戸弘道館修復、旧江戸城田安・清水門復元、永平寺鐘楼復元、大阪奈良の護国神社新築、東本願寺天満院建立、那智山青岸渡寺三重塔建立などの仕事を手がけた。その生涯はテレビ・ドラマ化されたが、晩年は戦没者慰霊のため千巻の写経を完成させた。

氷見晃堂

没年月日:1975/02/28

木工芸家、重要無形文化財保持者の氷見晃堂は、2月28日午後2時5分、胃ガンのため金沢市の石川県立中央病院で死去した。享年68歳。明治39年10月30日金沢市に生まれた。本名与三治。雅号の晃堂は、自分でつけ、昭和18年頃より使用した。大正10年3月金沢市小将町高等小学校の高等科を卒業したが、当時、陸軍の種々ご用達をつとめていた御用商人の祖父や父が商人よりも他人の世話にならぬ手職を身に付けた方がよいという考えにしたがい、近くの指物師北島伊三郎について指物技術を3ヶ年修業した。さらに唐木細工で献上品などを製作していた池田作美に私淑し種々指導を仰ぎ、殊にデザイン面での強い影響をうけた。大正15年石川県工芸奨励会美術工芸展に「三重棚」を出品、準会員に推薦された。この年、江戸時代に途絶えていた砂みがき法を復活するなど、以後ほとんど独学研究によって古くから伝わる加賀指物の技法を再発掘し、現代に生かしてきた。昭和3年には石川県工芸奨励会正会員に推薦された。主として生活調度としての火鉢、棚、莨盆などの製作に長技を発揮して知られたが、中央展出品の活動は、戦後にはじまったといってよい。戦後第2回の日展(昭和21年)に初入選以来、第13回までの日展に11回入選、昭和30年から日本伝統工芸展に出品するようになり、昭和49年の第21回日本伝統工芸展までに18回入選、その間2回奨励賞、1回特別賞(第20回展「大般若理趣分経之箱」20周年記念特別賞)をうけ、審査員を第18回と第21回に、鑑査員を第8回から第13回、第15回から第18回、第20回・第21回までつとめた。昭和44年3月19日には、石川県指定の無形文化財(木工芸)技術保持者となり、翌45年4月25日には国指定の重要無形文化財(木工芸)技術保持者、世にいう人間国宝に認定された。前記したように伝統的な指物技術を守るとともに、それを改良工夫して合理的なものとし、やはり「砂磨き」と同様、江戸時代に絶えていた「木象嵌」の装飾技法を復活させ、殊に晃堂独特の加飾法として金銀の線を木肌に象嵌する「線象嵌」や「縮れ象嵌」の技法を創案し、木工芸に新しい息吹をふき込んだのが有名である。

三橋節子

没年月日:1975/02/24

創画会に出品していた日本画家、三橋節子は、2月24日午前0時40分、転移性肺腫瘍のため京都府立病院で死去した。享年35歳。三橋節子は、昭和14年(1939)3月3日、大阪・パルナバ病院に生まれる。当時から両親の住居は京都市で京都で育っている。父三橋時雄、母珠の2男2女の長女として生まれ、母珠の従兄弟に長谷川海太郎(小説家林不忘、または牧逸馬)、長谷川潾二郎(画家)、長谷川四郎(小説家)などがいた。北白川小学校、近衛中学校をへて昭和29年鴨沂高校を卒業、同年京都市立美術大学日本画科(現・京都市立芸術大学)に入学、主として秋野不矩に師事した。昭和36年(1961)同大学を卒業したが、その前年の35年の新制作春季展に「立裸婦」が入選、同年24回新制作展に「立像」が入選となった。以後、新制作展日本画部(のち創画会展)、京都日本画総合展などに出品し、昭和40、42、44の新制作春季展で受賞、昭和42年末から45年初めにかけて京都美大同窓会美術教育研究会主催の旅行団に参加してインド、カンボジアに旅行し、昭和43年11月、同じ新制作展出品作家で陶芸家の鈴木靖将と結婚し大津市に新居をもった。昭和44年、第33回新制作展に出品した「カルカッタの少年達」「ベナレスの物売り」で新作家賞をうけ、さらに、昭和46年第35回新制作展では「土の香」「炎の樹」で2回目の新作家賞を受賞した。昭和48年(1973)「湖の伝説」を制作したあと鎖骨腫瘍のため京大病院に入院して右腕切断の手術をうけ、以後は左手で制作、昭和49年滋賀県展に出品され「花折峠」で滋賀県芸術祭賞をうけ、同50年京都日本画総合展出品「余呉の天女」(絶筆)は京都府買上げとなった。作品略年譜昭和35年(1960) 「立像」(24回新制作展)。昭和39年 「樹」「白い影」(新制作春季展)、「樹1」(28回新制作展)。昭和40年 「柳桜」(新制作春季展)。昭和41年 「池畔」「池苑」(30回新制作展)。昭和42年 「吾木香」(筍々会3人展)、「疎林の中に立つ」(新制作春季展)、「白い樹」(31回新制作展)。昭和43年 「野草」(京都日本画総合展)、「アネモネ」(新制作春季展)、「インドの子供達」「カンチプラムの路上」(33回新制作展)。昭和44年 「牛頭骨のある静物」(京都日本画総合展)、「土のぬくもり」「乾いた土とサリー」(新制作春季展)、「ベナレスの物売り」「カルカッタの少年達」(33回新制作展)。昭和45年 「とわの土」(京都日本画総合展)、「路上」(新制作春季展)、「カンボジアの子供達」「カンボジアの村」(34回新制作展)、「クサマオとカラスウリ」(京都日本画総合展)。昭和46年 「土の詩」(京都同時代展)、「よだかの星」「おきなの星」(新制作春季展)、「炎の樹」「土の香」(35回新制作展)。昭和47年 「裏山の収穫」(京都日本画総合展)、「土の子」(京都同時代展)、「どこへゆくの」(新制作春季展)・「千団子さん」(新制作研究会展)、「登り窯」(京都百景展)、「鬼子母」「鬼子母神」(36回新制作展)、「インドの少年達」「石の詩」「こがらしの詩」「あめ屋さん」「なずな」「あけびの頃」「いとこたち」(2人展)。昭和48年 「湖の伝説」(京都日本画総合展)、「田鶴来」「三井の晩鐘」(37回新制作展)。昭和49年 「羽衣の伝説」(滋賀県美術協会展)、絵本原画「湖の伝説」13点、「花折峠」「雷獣」(1回創画会展)、「鷺の恩返し」「花折峠」(27回滋賀県展)。昭和50年 「余呉の天女」(京都日本画総合展)。

平野長彦

没年月日:1975/02/13

日本画家平野長彦は、2月13日心臓マヒのため大阪市の自宅で死去した。享年71歳。矢野知道人に師事し、帝展、新文展等に作品を出品し、戦後は日展に発表した。風景や、仏画に独自の南画を描き、昭和30年大阪美術協会が発足してからは、その理事をつとめた。

水澤澄夫

没年月日:1975/02/13

町田市立郷土資料館館長水沢澄夫は、2月13日午前1時45分、心不全のため町田市立中央病院で死去した。享年69歳。明治38年8月14日、栃木県に生れた。昭和2年3月第四高等学校文科乙類を卒業。昭和6年3月京都帝国大学文学部哲学科(美術専攻)を卒業した。その年から1年余は柳宗悦の民芸運動に共鳴して参加し、東京京橋に諸国民芸の店をひらいた。また同7年から9年にかけて美術雑誌「宝雲」の編輯に従事、一方同8年から10年までは東京帝大大学院に在籍し日本美術史(特に絵巻物について)を攻究した。同8年から鉄道省国際観光局に勤務、海外に日本文化紹介のため«ツーリスト・ライブラリー»の編集にあったが、同17年5月より財団法人国際文化振興会に勤務を転じた。同20年3月戦況苛烈に伴い山口県宇部市に疎開、8月終戦を迎えた。戦後は主として美術評論をめざし、その一方、森村学園専攻科、実践女子大等の講師を勤めた。昭和33年には、尾形光琳生誕300年にあたり世界平和評議会の顕彰で光琳がえらばれ、中国で光琳展開催につきその準備に努め、日本代表の一人として訪中。光琳画集出版。翌34年には、エジプト美術展を日本で開催の交渉のためエジプトへおもむき、2ヶ月間滞在した。さらに同37年には再度エジプトへ行き、ヨーロッパ各地をまわった。以後約10年気管支拡張症の悪化と胃潰瘍のためたびたび入院をくりかえし殆んど闘病生活をおくった。昭和48年より創設に関与した町田市立町田郷土資料館(現町田博物館)の初代館長に就いていた。主要著書―鉄斎(1939、アトリエ社・東洋美術文庫)、美術覚書(1941、昭森社)、弘仁彫像考(1947、美術出版社・制作3号)、近代画の歩み(1952、美術出版社・みづゑ文庫)、エジプトの美術(1963、社会思想社)、エジプト美術の旅(1963、雪華社)、浄瑠璃寺(1964、中央公論美術出版)、広隆寺(1965、同前)、秋篠寺(1968、同前)、安田靭彦(1974、講談社・日本の名画)。

末永一夫

没年月日:1975/02/11

二科会会員の洋画家末永一夫は、2月11日午前2時30分、敗血症のため名古屋市の聖霊病院で死去した。享年63歳。末永一夫は、明治44年(1911)7月20日、岐阜市に生まれ、旧姓安岡(昭和16年まで)、昭和7年(1932)岐阜師範学校専攻科を卒業した。昭和16年第28回二科展初入選、翌17年北川民次に師事、以後毎回二科展に出品入選、昭和26年36回展出品の「瀬戸の山」「海」で特待賞をうけた。昭和31年二科会会友に推され、同37年(1962)に会員に推挙されて、同43年二科会員努力賞をうけている。その間、昭和34年丸栄画廊での個展をはじめ、同49年日動画廊名古屋支店、41年丸物画廊、44年日動画廊名古屋支店などで個展を開催した。また、昭和49年(1966)フランスのサロン・ド・コンパレーゾン、42、45年サロン・ドートンヌなどにも出品して昭和44~45年メキシコに写生旅行している。一方、名古屋市立汐路中学校をはじめ教職にあって、戦後の創造美術教育運動に参加し、昭和33~34年にはCBCテレビで児童画についての放映に出演している。二科展出品作品略年譜昭和16年(1941)28回展「工作」、29回展「お掃除」、30回展「待避壕」、昭和21年31回展「水産市場」「靴工場」、32回展「石炭のある風景」「森のある風景」、昭和25年35回展「瀬戸風景」、36回展「瀬戸の山」「海」、37回展「瀬戸風景」、38回展「堀川風景」、39回展「瀬戸の山」、40回展「瀬戸風景」「陶土採掘」、41回展「陶土採掘場」、42回展「陶土採掘場」、43回展「石炭石採掘場A、B」、44回展「石炭岩の山」、45回展「瀬戸の山B」、46回展「団地造成」、48回展「北陸の海A、B」「瀬戸風景」、49回展「団地造成」「崖」、昭和40年50回展「早春の箱根」「丘陵の畑A、B」、51回展「珪砂工場のある風景」「瀬戸風景」、52回展「団地のある丘」「陶土の山」、53回展「みかん山A、B」、54回展「削ずられていく蜜柑山」「樹のある蜜柑山」、55回展「ハカランダの咲く丘(タスコ)」「タスコの丘」、56回展「タスコの丘」、57回展「タスコの丘」、58回展「シャボテンと岩山」、59回展「海」。

石井光楓

没年月日:1975/02/09

春陽会会員の洋画家、石井光楓は、2月9日午後6時30分、心不全のため横浜市の自宅で死去した。享年82歳。石井は、本名を政二、光楓は号である。明治35年(1892)3月10日、千葉県夷隅郡に生まれ、日本美術院研究所に学び、大正4年(1915)第2回院展洋画部に「夏の終り」「木曾の雪」が初入選、大正10年第3回帝展に「牛の蹄を切る」が入選した。大正10年(1921)絵画勉強のためにアメリカへ渡り、カリフォルニア・アート・スクール、ついでシカゴのアート・インスティテュートに学んだ。その間、1922、23、25年(大正11、12、14)ワシントン・アート・エキジビション、1924年ノース・ウェスト・アート・エキジビション、1925年メープル・アート・エキジビションに出品、大正14年(1925)フランスへ渡り、パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。1925、29、31年サロン・デ・ザンデパンダン、1926、27年サロン・デ・ナショナル・デ・ボザール、1927、28、31年サロン・デ・ザルティスト・フランセーズ、1927、28、30年サロン・ドートンヌに出品した。昭和4年(1929)再びアメリカへ渡り、さらに昭和6年(1931)再度フランスへ渡り、昭和11年(1936)11月帰国した。昭和15年までに、陸軍省嘱託として中国の中部南部方面に従軍し、昭和15年(1940)第18回春陽会展から出品し、昭和22年第24回展で春陽会賞をうけて会友、同24年26回展のとき会員に推挙された。昭和26年には千葉県立長生第一高等学校教諭となり、また、駐留米軍の通訳としてもはたらいている。15年間にわたる欧米滞在によって、フランス・ボルドー美術館、ベルギー・ブリュッセル美術館、アメリカではニューヨークのブルックリン美術館、オクラホマ州メッドフォード市カウンテアットニー図書館などに作品が所蔵されている。

寺島紫明

没年月日:1975/01/13

日本画家寺島紫明は、1月13日脳出血のため西宮市の自宅で死去した。享年78歳。本名徳重。明治25年11月18日明石市に生れた。木綿問屋、柿屋を営む父徳松、母としの長男で、6歳と2歳年上の姉の三人姉弟であった。明治32年明石尋常高等小学校に入り、この頃からスケッチを好み、源氏物語など日本文学に親しむ。小学校卒業後はさらに文学への傾倒を深め、寺島玉簾のペンネームで「少年倶楽部」「兄弟姉妹」等の雑誌に応募し、入賞を重ねた。明治42年17歳の時、長姉の嫁ぎ先である大坂の木綿問屋丹波屋、三浦家に見習奉公に入る。この年10月父を失い、翌43年上京した。大正元年8月母にも死別し、この頃から文学を離れ画家を志し、翌大正2年鏑木清方に師事した。翌年「柚子湯」「菖蒲湯」(対幅)が入選し、三等賞となった。昭和2年第8回帝展に「夕なぎ」が初入選し、その後官展への出品を毎年続けた。戦後も、第2回展以来日展出品をつづけ、没する数年前の昭和46年までの出品がみられる。官展以外では、巽画会のほか青衿会、日月社、創造美術(第1回展)、兵庫県選抜展などがある。またそのほか街の展観としては、初期の郷土会をはじめ、昭和になってからは九皐会、清流会、尚美会、綵尚会、明美会等に出品している。美人を対象に描いたいわゆる美人画は、江戸浮世絵以来近代に至って多様な発展を示すに至っている。浮世絵の系統をひく鏑木清方は、江戸から東京を舞台に東京人の好みに投じた粋人柄な女性を描いて独自な美人画を展開した。玄人の粋に堕さず、素人の野暮に偏さないこの洗練された一つの女性像は、東京人における女性の典型であった。 関西に生れた寺島紫明は、上京し鏑木清方に師事した。紫明は、師の描く品よく爽やかな東京女性の理想像に深く共鳴しながらも、彼は全く別の独自の美人画を確立した。紫明の対象とする女性は、概して豊満な女性が多く、画面には官能を含めての女性美が重量感をもって示される。但し、その作品は卑俗な美人画には遠く、肉体を超え、官能を超えた女性讃歌といえよう。ほのぼのと匂やかな色彩と、制作にあたってモデルを用いないというデッサンのよわさが紫明画の特徴ともいえる。主な作品に、戦前の傑作「秋単色」が出色だが、戦後では、「甲南夫人」「舞妓」「夕ぐれ」などがある。寺島紫明作品年譜大正2年 21 長野草風の紹介で鎬木清方に師事す。(1913)大正3年 22 巽画会「柚子湯」「菖蒲湯」(対幅)、3等賞。大正4年 23 6月郷土会発足。大正5年 24 第1回郷土会展「夕立」「夕月」。大正6年 25 郷土会「港の唄」。大正7年 26 長田幹彦の小説「青春の夢」(東京日々新聞連載)さし絵を描く。昭和2年 35 第8回帝展「夕なぎ」初入選。昭和3年 36 第9回帝展「日輪」、パリー日本美術展「姥桜」。昭和5年 38 第11回帝展「爪」。昭和7年 40 第13回帝展「母娘」。昭和8年 41 第14回帝展「うつらうつら」。昭和9年 42 第15回帝展「女」。昭和10年 43 第1回九皐会「くつろぎ」「洗髪」。昭和11年 44 改組帝展第1回「あつさ」(対幅)。新文展「9月」(京都市買上げ)。第2回九皐会「素顔」「朝霧」「2月」。尚美展「昇る月」。昭和12年 45 第1回文展「朝」。第3回九皐会「元朝」(三幅対)。尚美展「晴れた朝」。昭和13年 46 第2回文展「微匂」。第4回九皐会「紅」「おしろい」「花の雨」「鷺娘」。昭和14年 47 第5回九皐会「昼の雪」「老妓」。昭和15年 48 奉祝展「良夜」。清流会結成第1回展「月夜時雨」「朝の空」。第6回九皐会「軒の雨」「紋服」。青衿会第1回「朝風」。昭和16年 49 第4回文展「寸涼」(特選)、綵尚会第3回「夏芸者」、清流会第2回「洗いかみ」「冬靄」「卯辰橋」、仏印巡回日本絵画展「夏」、綵尚会小品展「廊のうちは」。昭和17年 50 第5回文展「秋単衣」(特選)、無鑑査出品(李王家買上げ)、綵尚会第4回「暮春」「初夏」、青衿会第3回「町娘」、清流会第3回「夕星」、関尚美堂展「盛夏」。昭和18年 51 第6回文展「初冬」(招待出品)、綵尚会第5回「中年」「もみ裏」、絅尚会第2回「静心」「祭の月」。昭和19年 52 川西航空、仁川工場に軍令で奉職。昭和20年 53 8月終戦で9月に川西航空を退職。昭和21年 54 第2回日展「彼岸」。昭和22年 55 第3回日展「中年の夫人」(招待出品)。現代総合美術展(朝日新聞社主催)「婦女」。昭和23年 56 第1回創造美術展「芸人」、綵絅会「三十路」、神戸新聞創刊50周年記念、東西大家新作日本画展「女」。昭和24年 57 第5回日展「若婦」(依嘱出品)、現代美術展「女」、兵庫県公募総合美術展の審査員となり29年までその任に当る。昭和25年 58 第6回日展「春秋夕朧」(対幅)(依嘱出品)、兵庫県展「暮春」(賛助出品)。昭和26年 59 第7回日展「上女中」審査員。昭和27年 60 第8回日展「初振袖」(依嘱出品)。昭和28年 61 第9回日展「甲南夫人」、日月社第4回「朝」、銀座松坂屋で(第1回個展)。明治、大正、昭和名作美術展「春来たる」。昭和29年 62 第10回日展「夕ぐれ」(近鉄アベノ)、10月(日本橋三越)。昭和30年 63 第11回日展「成女」、日月社第6回「少女」、綵尚会「花子」。昭和31年 64 第12回日展「新涼」、日月社第7回「若い夫人」。昭和32年 65 第13回日展「黒い髪」、審査員、日月社第8回「婦女」、綵尚会第8回「朝」、尚美展「冬の夫人」。昭和33年 66 新日展第1回「婦女」、綵尚会「舞妓」、紫明門下で明美会結所。明美会第1回「春」「婦女」「朝」(賛助出品(神戸元町、ちぐさや画廊)。昭和34年 67 新日展第2回「仲居」、審査員。綵尚会「若い婦人」「夕」、明美会第2回「梅の頃」(賛助出品)。昭和35年 68 新日展第3回「三人」(政府買上げ)、綵尚会「丸髷」、日月社第11回「朝」、明美会第3回「五月」「少女」(賛助出品)、明美会4人展「黒い羽織」(特別出品)(大坂そごう)。昭和36年 69 新日展第4回「舞妓」文部大臣賞、白木屋展28点、関尚美堂共催。明美会第4回「夏」(賛助出品)。昭和37年 70 新日展第5回「二人の婦人」審査員、明美会第5回「おんな」賛助。昭和38年 71 新日展第6回「昼」、明美会第6回「初夏」(賛助出品)。兵庫県選抜美術展「女将」。15点出品(浜松産業会館)。昭和39年 72 新日展第7回「舞妓」、明美会第7回「少女」(賛助出品)、近代日本美人画名作展「彼岸」(姫路やまとやしき 日本経済新聞社主催)。昭和40年 73 新日展第8回「夏」、孔雀画廊、明美会第8回「初冬」(賛助出品)。昭和41年 74 新日展第9回「宵」、日春展第1回「老妓」日春展委員。昭和42年 75 新日展第10回「ひととき」兵庫県政100年郷土画家名作展「夕ぐれ」「3人」「夏」(神戸大丸)。昭和43年 76 新日展第11回「朝風」、兵庫県日本画青楠会第1回「秋」、日春展第3回「学生」。昭和44年 77 改組第1回日展「舞妓」、審査員。彩壺堂現代作家シリーズ第11回22点出品、青楠会第2回「娘」、日春展第4回「暮春」。昭和46年 78 改組第2回日展「早朝」、改組第1回日展出品作「舞妓」に対し日本芸術院恩賜賞受賞、高島屋白寿会第22回「冬の日」。昭和46年 79 改組第3回日展「遅い朝」、梅田画廊三番街、4月29日勲等旭日小綬章受賞、神戸新聞社兵庫県平和賞(文化部門)受賞。高島屋、白寿会第23回「初冬」、第6回日春展「春日」、明美会「秋」、(賛助出品)(静岡産業会館)、5月22日大坂新歌舞伎座で観劇中倒れる。昭和47年 80 兵庫県立近代美術館美人画名作展(10月)「夏」「新涼」「舞妓」「女」「三人」、高島屋白寿会第24回「舞妓」、明美会「素描」(賛助出品)。昭和48年 81 東京ギャラリーヤエス「芸人」「早朝」「舞妓」等、夏目美術店、八重洲美術店、関尚美堂共催。「舞妓」(賛助出品)、(そごう神戸店)。兵庫県現代芸術名作展、昭和10年作「くつろぎ」出品、神戸大丸店。明美会「舞妓」賛助出品。高島屋白寿会第25回「舞妓」。昭和49年 82 ぎゃらりー神戸画稿「彼岸」「鷺娘」「舞妓」他出品。そごう神戸店「夕月」「彼岸」「中年夫人」「上女中」「成女」他出品、9月に一時危篤状態に落ち入る。昭和50年 82 1月12日午前6時30分脳出血のため西宮市自宅で死去、昭和51年 なんば高島屋。10月、西宮市大谷記念美術館。(寺島紫明回顧展目録より抄録)

田中良

没年月日:1974/12/31

舞台美術の先駆者であった田中良は、12月31日午後11時14分、老衰のため東京・渋谷のセントラル病院で死去した。享年90歳。田中良は、明治19年(1886)10月29日、東京市麹町区に生まれ、明治37年(1904)学習院中等部に在学中、太平洋画会研究所に通い、翌38年4月東京美術学校西洋画科に入学した。同期生には池部釣、九里四郎、近藤浩一路、田辺至、長谷川昇、藤田嗣治、山脇信徳などがいる。明治43年(1910)3月同校を卒業、同年の第4回文展に「牧夫」が入選し、褒状をうけた。翌44年3月に建てられた帝国劇場に、45年から背景部助手として勤め舞台美術にたずさわることになった。その後、大正3年(1914)第8回文展に「銅」を出品し入選して褒状をうけ、翌大正4年第9回文展にも「朝鮮の少女」が入選したが、以後、油彩画の制作を離れて舞台美術の研究に従事し、大正8年(1919)にはアメリカ、イギリス、フランス、イタリアの舞台美術を視察のため6ヶ月旅行し、同年10月歌舞伎座で「隅田川」の舞台装置を担当した。以降、舞台美術に専心、大正12年(1923)には宝塚歌劇団に背景部を新設して指導にあたり、昭和11年(1936)東京宝塚劇場開設とともに同劇場舞台課長に就任した。戦後は、昭和26年から29年まで早稲田大学芸術科の講師をつとめ、同29年には東横ホール顧問に就任、また、文部省芸術祭邦舞部審査員、東京新聞社主催舞踊コンクール邦舞部審査員などをつとめている。昭和33年に日本舞踊協会賞、紫綬褒章をうけ、同38年に毎日新聞特別賞、昭和49年勲三等瑞宝章をうけた。没後の昭和50年東京新聞社舞踊芸術功労賞をうけている。著書に、『舞台美術』(昭和19年)、『歌舞伎定式舞台図集』(昭和33年)、『日本舞踊百姿』(昭和49年)がある。

藤野天光

没年月日:1974/12/30

彫刻家・日展理事の藤野天光は、12月30日午後4時10分、急性心不全のため千葉県市川市のアトリエで急逝した。享年72歳。明治36年11月20日群馬県に生れる。本名隆秋。昭和43年大病を患い声帯摘出の手術をして快気したのを契機に、雅号を天光と改めるまでは舜正と称していた。はじめ後藤良に木彫を習い、のち北村西望に師事し、昭和3年3月東京美術学校彫刻科選科塑造部を卒業した。昭和4年第10回帝展に「時のながれ」が初入選してより、戦後の日展にいたるまで連続作品を発表、官展系の有力作家として重きをなした。その間には、昭和11年、文展鑑査展で「鉄工」が推奨となり、昭和13年第2回文展で「銃後工場の護り」が特選となった。更に戦後は年齢的にも油がのりきって一層の活躍期に入り、昭和24年第5回日展の審査員としての出品作「古橋選手」は、フジヤマのトビウオの頼もしい姿を写して話題作となり、昭和37年三度目の審査員をつとめた第2回新日展では「ああ青春」で文部大臣賞をうけ、40年第8回日展の「光は大空より」は当年度の日本芸術院賞の受賞に輝いた。 始終、人体の解剖学的正確さを基本とする写実主義的作風を堅持しながら、敬愛する北村西望師にも通ずる一種の理想主義を若く逞しい男性像のポーズに托した大作を数多く製作した。なお、昭和6年来、市川市に居住した彼は、昭和13,4年頃より千葉県内の諸芸術文化運動にも関係し、その指導的立場にあって多大な寄与をなし、殊に晩年には県立美術館の建設促進に積極的に献身したことが特筆される。没後、従五位勲三等瑞宝章が贈られた。略年譜明治36年 11月20日、群馬県に生まれる。昭和3年 東京美術学校彫刻科塑造部卒業。「首」(卒業制作)北村西望に師事する。昭和4年 帝展に初入選する。「ときのながれ」(10回帝展)昭和5年 「天華」(11回帝展)昭和6年 「聖女」(12回帝展)昭和7年 「清泉のほとり」(13回帝展)昭和8年 「輝き」(14回帝展)昭和11年 「鉄工」(文展・鑑査展)が推奨となる。昭和12年 「優勝」(1回文展)昭和13年 「銃後工場の護り」(2回文展)が特選となる。昭和14年 ニューヨーク万国博覧会に「銃後工場の護り」を出品する。「大空」(3回文展)昭和15年 「父にまさる」(4回文展)昭和17年 「増産雄姿」(5回文展)昭和19年 「一撃必殺」(臨時特別文展)昭和20年 市川文化会結成、市川交響楽団育成,千葉交響楽団協会常任理事昭和21年 「希望」(2回日展)昭和22年 日本彫刻家連盟の設立に参加する。「古典と平和」(3回日展)昭和23年 千葉県美術会を結成し常任理事となる。「玄潮」(4回日展)昭和24年 日展審査員。「古橋選手の像」(5回日展)昭和25年 27年まで千葉県社会教育委員会。群馬県美術会設立役員。「民主主義者 親鸞聖人」(6回日展)昭和26年 日展依嘱。「新立」(7回日展)昭和27年 日展審査員。「感激」(8回日展) 千葉県文化財専門委員を委嘱され議長となる。昭和28年 日本彫刻家連盟を発展改称し、日本彫塑家倶楽部を創立、創立委員となる。市川美術会委員長。「愛」(9回日展)昭和29年 日展運営会参事。「無心」(10回日展)「ポーズする女」(2回日彫展)昭和30年 「希望」(11回日展)「鼠」(3回日彫展)昭和31年 日展審査員。「冥想」(12回日展)「塊」(4回日彫展)昭和32年 「岩上」(13回日展)「仏光」(5回日彫展)昭和33年 社団法人日展が創立され、評議員となる。「天籟」(1回日展)「ある作家の顔」(6回日彫展)昭和34年 日展審査員。「人生」(2回日展)「顔」(7回日彫展)昭和35年 県立美術館設置準備専門委員を39年までつとめる。文部省文化財保護委員会文化財功労賞を受賞。「人類の祥」(3回日展)昭和36年 この頃、千葉県印西町多聞堂の毘沙門天及び両脇侍3躰を修理する。「心眼」(4回日展)「槍を持つ男」(9回日彫展)昭和37年 日展審査員。「ああ青春」(5回日展)で文部大臣賞を受賞,日本彫塑家倶楽部を日本彫塑会と改称、創立委員となる。「銀裸」(10回日彫展)昭和38年 千葉県印旛村来福寺の薬師坐像1躰を修理する。「神話」(6回日展)「兎」(11回日彫展)昭和39年 「月と語る」(7回日展)「H氏の像」(12回日彫展)社会教育功労者として市川市長感謝状を受ける。昭和40年 「光は大空より」(8回日展)「こころみ」(13回日彫展)千葉県文化功労者・教育功労者として表彰される。千葉県文化財保護協会副会長「光は大空より」で芸術院賞を受賞。昭和41年 千葉県美術会理事長となる。東京家政大学理事兼教授となる。「星和」(9回日展)「和」(14回日彫展)昭和42年 「天啓」(10回日展)「裸婦」(15回日彫展)昭和43年 声帯摘出の手術をする。舜正を天光と改める。群馬県美術会副会長となる。「希望(健康こそ幸である)」(11回日展)「恋知るころ」(16回日彫展)昭和44年 日展が改組され日展理事となる。日展審査員。「若き日のかなしみ」(改組1回日展)「若き日の悲しみ」(17回日彫展)教育功労者として市川市長感謝状を受ける。昭和45年 千葉県美術会会長兼理事長となる。社団法人日本彫塑会の創立に尽力する。日本彫塑会常務理事となる。「清流」(2回日展)「夢」(18回日彫展)昭和46年 日展審査員。「長寿神像」(3回日展)「長寿」(1回日彫展)昭和47年 「すべてを愛す」(4回日展)「夢」(2回日彫展)昭和48年 日展評議員。千葉県で開催された第28回国体のモニュメント「輝く太陽」(男性像高さ約8メートル)及び記念メダル制作。「よくかんがえる」(5回日展)「りんご神像」(3回日彫展)昭和49年 千葉県立美術館協議会委員を委嘱され議長となる。市原市橘禅寺仁王像2躰を修理する。「和」(6回日展)「もの思うころ」(4回日彫展)「天使」(美術館開館記念県展) 12月30日、市川市のアトリエで午後4時10分急性心不全で逝去 享年72歳 御神名 天津光留隆秋比古之命昭和50年 従五位勲三等瑞宝章を授与される。「天使」(7回日展・遺作出品)昭和51年 千葉県立美術館にて「近代房総の美術家たちシリーズ5藤野天光展」を開催(5月18日~6月27日)。

原田淑人

没年月日:1974/11/23

日本学士院会員、日本考古学会々長、高松塚壁画古墳総合学術調査会々長、文学博士原田淑人は、胃潰瘍のため、11月23日東京北里病院で死去した。享年89歳。明治18年4月5日原田由己の三男として東京神田に生まれ、開成中学校、第一高等学校を経て、明治41年東京帝国大学文科大学史学科を卒業した。引続き大学院に於て東洋史学を攻究、大正2年副手、3年に講師となり、10年には考古学研究のため2年間イギリス、フランスへ留学を命じられ、欧亜の各国とアメリカを廻った。10年東京帝国大学助教授、昭和13年教授となり、21年定年退官まで東洋史及び考古学を講じ、後進の育成指導にあたった。傍々京都帝大、東北帝大、立教大学、立正大学の教壇に立ち、5年には北京大学教授として招聘された。21年に聖心女子大学教授、東洋大学教授、27年には早稲田大学大学院講師となり、半世紀余講筵に連った者は多数に及ぶ。調査活動の面では大正7年朝鮮総督府古蹟調査委員となり、慶尚南北両道、楽浪王旴墓、楽浪郡治址の発掘調査を行い、また15年京大の浜田耕作とともに東亜考古学会を創立して、日中両国の考古学者の共同研究の場を設け満州貔子窩先史遺跡、牧羊城漢代遺跡、東京城渤海龍泉府址、内蒙古の元の上都址、大同の北魏平城址、河北邯鄲趙王城址、遼陽漢代壁画古墳、山東曲阜縣城など多くの調査に携り、それらの報告書とともに、東亜考古学の進歩発展に寄与した。一方国内にあっては昭和8年重要美術品等調査委員、10年帝室博物館学芸委員兼鑑査官、14年国宝保存会委員、15年日本学術会議委員をつとめ、13年には文学博士の学位を得、18年帝国学士院会員に推され、22年の講書始儀に漢書の進講をした。22年登呂遺跡調査会顧問、正倉院評議会会員となり、またこの年以来終生日本考古学会会長の任にあった。25年文化財専門審議会委員、29年平城宮址調査委員会委員を経て、47年には高松塚装飾古墳総合学術調査会会長となるなど、一貫して日本考古学界におけるかなめとしての重責を担い、また該博な知識を駆使して東洋史、考古学、東西交流にわたる健筆を縦横に振い、後進を誘掖するところ極めて大であった。 著作目録*自著支那唐代の服飾 東京帝国大学 大9-8西域発見の絵画に見えたる服飾の研究 東洋文庫 大14-6漢六朝の服飾 東洋文庫 昭12-12東亜古文化研究 座右宝刊行会 昭15-11正倉院ガラス容器の研究 座右宝刊行会 昭23-12古代ガラス 国立博物館入門叢書 小山書店 昭24-6東亜古文化論考 吉川弘文館 昭37-4古代人の化粧と装身具 東京創元新社 昭38-4増補漢六朝の服飾 東洋文庫 昭42-9唐代の服飾 東洋文庫 昭45-3考古漫筆 郁文社 昭45-9東亜古文化説苑*編著、共著・解説泉屋清賞 鏡鑑部 解説 住友家 大8考古図譜 第1冊~第10冊 美術工芸会 昭2-11唐宋精華 解説 山中商会 昭3-11支那古器図攷 兵器篇 東邦文化学院 昭7-3周漢遺宝 解説 大塚巧芸社 昭7-7支那古器図攷 舟車馬具篇 東方文化学院 昭11-3日本考古学入門 吉川弘文館 昭25-9中国考古学の旅 朝日新聞社 昭32-10正倉院のガラス 日本経済新聞社 昭40-3*発掘調査報告書朝鮮古蹟調査報告 大正7年度―1 朝鮮総督府 大11-3楽浪五官塚王旴の墳墓(田沢鋙共) 刀江書院 昭5-11楽浪土城址研究(駒井和愛共)朝鮮古蹟研究会 昭11-1楽浪土城址の調査(駒井・高橋共)朝鮮古蹟研究会 昭13-8東京城(駒井共) 東亜考古学会 昭14-3上都(駒井共) 東亜考古学会 昭16-11*論文、序文、書評、随筆等多数(略)

鈴木保徳

没年月日:1974/11/11

独立美術協会の創立会員のひとり、鈴木保徳は胃ガンのため11月11日午後6時、東京世田谷区の自宅で死亡した。享年83歳。鈴木保徳は、明治24年(1891)11月23日、東京蒲田区(現・大田区)に生まれ、大正5年3月、東京美術学校西洋画科を卒業した。在学中は黒田清輝の指導をうけたが、卒業後の一時期は、生来の生物、特に昆虫好きから生物学にむかおうと悩んだりしたが、二科会展の大正10年(1921)第8回展から出品、昭和3年第15回二科展に「接木と花」「青嵐」他3点を出品して二科賞を受賞、会友となった。 昭和5年(1930)11月、三岸好太郎、高畠達四郎らと二科会のなかの同志、林武、児島善三郎、鈴木亜夫らと共に独立美術協会を設立、翌年1月第   1回展を開催、以後、独立展を中心に作品を発表してきた。その間、昭和8年には独立展開催のために台湾に旅行、また昭和11年にはグループ展のために中国東北部(旧満州)に旅行した。昭和29年(1954)には多摩美術大学教授となり同41年(1966)まで後身の指導にあたり、47年(1972)紫綬褒章をうけた。作風は、明暗の対比のつよい人物像、やや抽象化した形体による構成風の作品から、ふとい筆触による雄大な自然風景、線のリズミカルな表現をみせた静物画という展開をとっている。独立展出品作品年譜昭和6年・「幼児を抱く」「赤い花」「婦人肖像」「驢馬と月」「花」同7年・「冬期のバラ園」「老農婦の顔」「農婦1」「農婦2」「無題」「街上」同8年・「コンポジション」「若き農婦」「少女」「女」「納屋の内」「苅女」「二人」同9年・「後向きの母」「民族の夢」同10年・「鉄砲百合とバラ」「田舎娘像」「柿の実を持てる娘」「立てる小供」「静物」同11年・「国都建設(満州)」「狼の檻を見る婦人達(満州)」「公園建設(新京)」「横たはれる満州土人」同12年・「島にて」「鶴を写す人」同13年・「大陸の人々」「鳥影」同16年・「残雪」「水禽の檻」「雁」同17年・「高原初秋」「吹雪の絶間」「雪の前」「高原の秋」同18年・「朝の山」「夕の山」同19年・「花」「巖の影」同22年「雪後の子供」「泥濘の広場」「屋敷町の跡」同23年・「紫陽花」「遠藤氏像」同24年・「冬景色」「晩高の静物」「少女啓子像」「桃と馬鈴薯」同25年・「冬島」同26年・「明るき道」「奥まれる路」「曇れる道」同27年・「八月の丘」同28年・「老婦人像」「手風琴」「化粧」同29年・「梅雨時」「田園近き所」同30年・「漁港入口」」「蔭」「炎暑の日」同31年・「空地」「七面鳥」「群がる家」同32年・「人は棲む」「積藁」同33年・「乾ける土」「藁と人」「とり」同34年・「遠い鳥」「追はれている鳥」「黙する鳥」同35年・「宿令」「炎日」同36年・「人馬の群」「疎林の中の騎馬」同38年「一馬」「奇馬」同39年・「日輪と馬車」「ハイカーの群」同40年・「樹と人間」「土用波」同41年・「一偶」「鳥」同42年・「夜明けのバラ」「群居」同43年・「少児とペット」「笛と草」同44年・「紅バラ」「羽搏く鳥」同45年・「群と遊ぶ」「乾燥花をいたわる女性」同46年・「バラと馬鈴薯」「室内の季節」同47年・「風の中の湖水(支笏湖)「崖下の騎士」

小林和作

没年月日:1974/11/04

尾道市在住の独立美術協会員、小林和作は、11月3日出入りの門下生4名とスケッチ旅行中、車から降りたときにドアに接触して約2メートル下の荒地に転落、広島県三次市の双三中央病院で治療中であったが、11月4日午後9時過ぎ、頭蓋内出血のため死去した。享年86歳であった。 小林和作は、初期の雅号を霞村、後年には燦樹の別号をもっていたが、明治21年(1888)8月16日、山口県吉敷郡に生まれている。父は和市、田畑、塩浜などを有する富裕な地主で、和作は7人兄弟の長男であった。小学校を了えると画家になることを希望し、廃嫡を父に申し出で、なかなか許されなかったが、遂に父もおれて、明治36年和作をつれて上京、日本画家田中頼璋の門に入ったが、入門した翌日から風邪をひいて寝こみ、直に郷里へ帰った。 明治37年(1904)、京都市立美術工芸学校日本画科に入学、同級に田中喜作、川路柳虹、高畠華宵などがあり、1学年上級に村上華岳がいた。幸野楳嶺、菊池芳文門下の川北霞峰の画塾に入り、明治41年、同校を卒業、京都市立絵画専門学校に入学し、竹内栖鳳の指導をうけた。絵専在学中も霞峰画塾に通い、霞村と号し、明治43年第4回文展に椿を描いた作品を出品して入選した。 大正二年(1913)京都市立絵画専門学校を卒業し、この年の第7回文展に「志摩の波切村」が入選、褒状をうけたが、その後出品しても落選し、大正9年(1920)洋画研究を志して鹿子木孟郎の下鴨の画塾に入門して初歩の木炭画から始め、ここで林重義、北脇昇などを識った。 大正11年(1922)春、大正博覧会に上京、偶然紹介された小石川の野島熙正邸を訪ねてその所蔵の洋画コレクションに接し、特に梅原龍三郎、中川一政の作品に感動して洋画への転向と上京を決し、居を東京に移した。中野の前外務大臣伊集院彦吉の邸宅に住い、梅原、中川、それに林武に油彩画の指導をうけ、春陽会展に出品。また、梅原、中川、林らの作品を蒐集した。京都におけるジャン・ポール・ローレンス系のフランス・アカデミスムの画風から、上京後は印象派以後の近代的画風へと転じていったが、大正14、15年とつづけて春陽会賞を受賞し、昭和2年(1927)第5回春陽会展に「上高地の秋」を出品して春陽会会員にあげられた。 昭和3年(1928)1月、林倭衛、林重義、ベルリンへ行く弟と4名でシベリア経由でヨーロッパへ赴き、パリへ行き、さらに山脇信徳と共にイタリア旅行、夏にはイギリスへ旅行した。昭和4年(1929)春には約5ヶ月のあいだエクス・アン・プロヴァンスに滞在した。同年5月、再びシベリア経由で帰国の途についた。昭和6年(1931)、経済恐慌で実家の経済状態が悪化し、財産を整理、その前年に創立された独立美術協会に林重義を通じて参加を勧誘されたがこれを断り資金援助だけをした。 昭和9年(1934)、春陽会を脱会して独立美術協会に会員として参加、また、同年東京から尾道に居を移し、以降、尾道にあって独立展を中心に作品を発表してきた。戦後は、春、秋の二度にわたり長期の写生旅行で日本国内をまわり、その成果を独立展、秀作展、日本国際美術展、現代日本美術展などに発表、昭和28年(1953)には27年度芸術選奨文部大臣賞をうけ、昭和46年(1971)に勲三等旭日中綬章をうけている。なお、80歳を祝って、梅原、中川、小糸源太郎などを加えて八樹会がおこされ、日動画廊で展覧会が毎年開かれていた。後半期は日本の古美術、特に肉筆浮世絵、文人画から富岡鉄斎、村上華岳などと幅広い蒐集でコレクターとしても知られ、また、随筆家としてもよく知られており、随筆集に「風景画と随筆」「春雪秋露」「美しき峯々の姿」「天地豊麗」「春の旅、秋の旅」などの著書があり、そのほか、「浮世絵肉筆名品画集―小林和作家蔵」(画文堂)、「備南洋画秀作集」(求竜堂)などがある。

手島貢

没年月日:1974/10/22

創元会会員の洋画家、手島貢は、10月22日午前8時、閉そく性黄だんのため福岡市で死去した。享年67歳。手島貢は、明治33年(1900)4月11日、福岡県三井郡に生まれ、昭和4年(1929)東京美術学校西洋画科を卒業、同年フランスに渡り4年間パリに滞在した。昭和8年帰国し、第10回帝展に出品した。その後日展に出品し、無鑑査となり、審査員をつとめている。昭和16年(1914)、官展内の同志による創元会の創立に参加、昭和27年(1952)~28年、昭和42(1967)にも外遊し、南フランス、中近東風景に佳作を残している。

宮本三郎

没年月日:1974/10/13

日本芸術院会員、二紀会理事長の洋画家宮本三郎は、10月13日午前10時26分、腸閉そくのため東京本郷の東大病院で死去した。享年69歳であった。宮本三郎は、明治38年(1905)、石川県に生まれ、川端画学校で藤島武二の指導をうけ、のち安井曾太郎に師事し、二科会展に出品した。太平洋戦争中には陸軍報道班員として従軍し、「セレベスの落下傘部隊の激戦図」、「山下・パーシバル両司令官会見図」などの戦争画に卓抜した描写力を示し、戦後は二科会の役割は終わったとして同会を離れ、同志と二紀会を結成、その中心的存在となって会の運営にあたった。昭和33年には社団法人日本美術家連盟の初代理事長に就任、会館建設に尽力し、美術家の社会的権利の擁護のためにも活躍した。晩年には的確な写実のうえに華麗な色彩をもった舞妓、裸婦の連作を制作して注目された。すぐれた素描力をかわれて新聞小説の挿画でも早くから活躍し、獅子文六作『南の風』(朝日新聞連載)、石川達三作『風そよぐ葦』(毎日新聞連載)などの挿画を担当、広く読者に親しまれた。 年譜明治38年(1905) 5月23日、石川県能美郡(現小松市)に父宮本市松、母みさの三男として生まれる。村は戸数23戸の小寒村であった。大正7年 3月能美郡御幸村日末尋常小学校卒業。学業成績抜群につき校長、担任のすすめがあり中学校を受験する。4月8日、石川県立小松中学校に入学。日露戦争中に生まれ、一族中の軍人の影響による軍人志望と、画家志望の二途に迷う。大正9年 陸軍地方幼年学校を受験したが体格検査で失格する。4月21日、小松中学校を中退し画家志望のため上京する。川端画学校洋画部に籍をおく。石膏部を嫌ってはじめから人体部に学ぶ。在学中藤島武二の指導も受ける。大正12年 4月光風会展入選。6月中央美術展入選。1929まで出品。9月関東大震災のため京都に移る。関西美術院で黒田重太郎の指導を受ける。大正13年 友人、橋本徹郎・小松均とともに東山美術研究所を設立する。大正15年 再び上京、川端画学校へ復帰し、前田寛治の指導する湯島写実研究所へも一時通う。昭和2年 9月第14回二科展入選。1944年第30回二科展の解散まで出品。昭和3年 3月、遠藤昇の三女文枝と結婚、目黒区に新居をかまえる。昭和4年 3月4日 長女美音子出生。7月、父市松死去。雑誌「実業之日本」「日本少年」等にカット、表紙デザインの仕事をはじめる。昭和5年 母みさ死去昭和6年 第3回鉦人社展より参加、1936年第8回新美術家協会展(鉦人社改称)まで出品。昭和7年 第19回二科展で二科会会友に推挙される。昭和9年 秋、銀座画廊で素描油絵による初の個展をひらく。朝日新聞紙上で菊池寛の小説「三家庭」の挿画を担当する。昭和10年 7月、現在地世田谷区にアトリエを新築移転する。第22回二科展で推薦賞を受ける。新聞、雑誌の仕事がふえ多忙になる。昭和11年 第23回二科展で二科会会員に推挙される。新美術家協会会員を辞す。日本美術学校、洋画部講師となる。昭和12年 友人、栗原信、田村孝之介の三人で朱玄会を結成、第1回を日本橋三越本店でひらく。第5回朱玄会展まで参加する。昭和13年 過労のため健康を害す。仕事から離れる目的もあって10月に渡仏し、パリでアカデミー・ランソンに籍をおく。昭和14年 1月より3月まで。ルーヴル美術館で模写をする。4月にイタリア、6月にスペイン、8月にはロンドンをおとずれる。9月、第二次ヨーロッパ大戦が始まる。10月、避難船鹿島丸に乗船し英国、米国経由で12月に帰国する。昭和15年 9月、軍の命令で北支方面に従軍し3カ月滞在する。昭和16年 第2回聖戦美術展に献納画「南苑攻撃」を出品。昭和17年 4月、軍の命令で南方戦線に従軍し、陸軍より「香港ニコルソン附近の激戦、海軍よりセレベスの落下傘部隊の激戦図」を命ぜられていた。しかし、シンガポールに待機中同方面軍司令部から、「山下・パーシバル両司令官会見図」の制作を新たに命ぜられた。10月、「香港ニコルソン附近の激戦」と「山下・パーシバル両司令官会見図」完成、第1回大東亜戦争美術展に出品。昭和18年 朝日新聞社より「大本営御親臨の大元帥陛下」の献上画を依嘱され、諸将軍の取材、宮中「一の間」の写生に没頭する。5月に前年発表の「山下・パーシバル両司令官会見図」に対して昭和17年度第2回帝国芸術院賞を授与される。7月、陸軍よりフィリピン方面に従軍を命ぜられる。また前年海軍より命ぜられた「海軍落下傘部隊メナド奇襲」制作のためセレベス方面に従軍。第2回大東亜戦争美術展に「大本営御親臨の大元帥陛下」および「海軍落下傘部隊メナド奇襲」を発表。昭和19年 「海軍落下傘部隊メナド奇襲」に昭和18年度第15回朝日文化賞を授与される。8月、郷里小松市の疎開。盛厚王殿下と成子内親王殿下との御結婚を記念し、砲兵学校から献上の盛厚王殿下の御肖像を制作。12月、戦時特別文展に「シンガポール英軍降服使節」出品。昭和20年 聖戦美術展に献納画「レイテ沖海戦」を出品。8月、「大東亜会議図」未完成のうちに終戦となる昭和21年 金沢市に市立美術工芸専門学校(後の金沢美術工芸大学)が設立され、油画科講師となる。アメリカ駐留軍隊長カール氏より依嘱され、宿舎白雲楼の食堂壁画「日本の四季」を完成する。昭和22年 宮本三郎、熊谷守一、栗原信、黒田重太郎、田村孝之介、中川紀元、鍋井克之、正宗得三郎、横井礼市の九名で二紀会を創立、以後リーダーとして1974年第28回二紀展まで活躍、会の発展のために尽力する。10月、第1回二紀展を都美術館でひらく。昭和23年 第1回金沢文化賞を授与される。2月、金沢美術工芸大学教授となる。昭和24年 この年より新聞社主催などの展覧会への招待出品が多くなる。昭和27年 5月、渡欧、スペイン、イタリア、ギリシャを巡遊し、パリ滞在中近郊写生に専念する。昭和28年 3月、ヨーロッパより帰国、滞欧作を第7回二紀展及び個展で発表。東京都美術館参与。大蔵省外国映画優秀作品選考委員。多摩美術大学教授となる。(昭40.3まで)昭和29年 エジプト国際展に出品、褒章を受ける。長女、美音子結婚。昭和30年 東京教育大学教育学部芸術科非常勤講師となる。(昭39.3まで)昭和38年 ユネスコ日本国内委員会委員に就任する。昭和39年 国立競技場にモザイク壁画装飾を完成。昭和41年 1月、日本芸術院会員となる。昭和42年 4月、二紀会が社団法人となり、初代理事長になる。(逝去まで)昭和43年 郵政審議会専門委員となる。昭和45年 東京都美術館運営審議会委員となる。(任期昭和49まで)国立西洋美術館評議会評議委員となる。昭和46年 財団法人ユネスコ・アジア文化センター評議員となる。金沢市立美術工芸大学名誉教授となる。昭和47年 文化庁優秀映画制作奨励金交付候補作品選考委員となる。東京都上野美術館の改築にあたり、東京都新美術館建設委員となる。昭和48年 文化庁芸術文化専門調査会(万博美術館利用問題調査)委員となる。安井賞審査員(評議員兼任)となる。12月19日、文京区の日立病院へ入院、手術をうける。昭和49年 1月29日、日立病院を退院。8月23日、文京区の東京大学医学部附属病院へ入院、再度手術を受ける。10月13日、東京大学医学部附属病院第一外科にて「腸閉塞による心臓衰弱」のため逝去、享年69歳。同日付けにて天皇陛下より祭粢料を賜わり、従四位に叙せられ勲二等瑞宝章を賜った。10月15日、近親者にて密葬をいとなみ桐ケ谷で荼毘にふす。10月21日、青山葬儀所において二紀会葬が行なわれる。11月30日、七七日忌の法要を世田谷の九品仏浄真寺にてとりおこなう。昭和50年 1月、故人の遺志により、東京国立近代美術館へ作品寄贈。宮本三郎遺作展委員会、朝日新聞社主催、文化庁後援、二紀会協賛で5月13日より25日まで日本橋三越本店七階、6月3日より8日まで大阪三越七階、6月13日より22日まで金沢MROホールで遺作展が開催される。出品点数75点。(西嶋俊親・編)(本年譜は、宮本三郎遺作展目録より転載しました

蔵田蔵

没年月日:1974/10/13

奈良国立博物館長蔵田蔵は心筋こうそくのため、10月13日天理よろず相談所病院で死去した。享年67歳。明治40年8月8日福岡県北九州市に生まれ、広島高等学校を経て昭和7年3月東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、昭和9年3月同大学院を修了、同年11月東京帝室博物館研究員となる。昭和13年11月同博物館鑑査官補、列品課勤務、昭和20年6月高松宮御用掛、昭和21年1月再び東京帝室博物館勤務となり、昭和30年11月東京国立博物館学芸部工芸課長、昭和39年4月東京国立博物館学芸部長、昭和40年4月奈良国立博物館長となった。この間昭和42年3月より文化財専門審議会専門委員となり、傍ら東京芸術大学非常勤講師もつとめた。勲二等瑞宝章、正四位。 美術史学会及び美学会会員。仏教美術・日本金工史研究の第一人者であった。 主要著書金工―日本美術大系4 講談社 昭和36年金工―原色日本の美術20 小学館 昭和44年埋経―仏教考古学講座第六巻 雄山閣 昭和11年釜―茶道美術全集第十巻 淡交社 昭和45年東大寺大仏蓮弁拓本 求龍堂 昭和48年日本の金工 小学館 昭和49年仏具―日本の美術16 至文堂 昭和42年秘宝 熊野「熊野三山の出土遺物」 講談社 昭和43年秘宝 園城寺「園城寺の工芸」 講談社 昭和46年秘宝 法隆寺「法隆寺の工芸」 講談社 昭和45年

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