本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1981/09/09 東京芸術大学名誉教授の版画家、図画教育家の松田義之は、9月9日老衰のため千葉県市川市の自宅で死去した。享年90。号芳雪。1891年(明治24)年11月9日愛知県北設楽郡に生まれ、愛知県師範学校第二部を経て、1917(大正6)年東京美術学校師範科を卒業した。卒業の年から青森県立青森高等女学校、ついで20年から三重県神戸中学校で教鞭をとったのち、21年東京美術学校助教授に就任、40年同校教授となる。戦後、51年新制大学設置により東京芸術大学教授となり、59年定年退官、62年同大学名誉教授の称号を受けた。この間、29年以後文部省中等教員検定試験委員、40年以後文部省教科書編集委員をつとめるなど、戦前から図画教育界で大きな功績を果した。また、エッチングの草分け的存在でもあり、新文展、日本版画協会展などに出品した。銅版画の主要作品に「樹蔭」「ベービルの田舎屋」「橋」「詩人の家」「村の工房」「船大工の家」「花と時計」などがあり、著書に『美術の話』(1950年、広島図書)『手と道具』(1955年 河出書房)などがある。
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没年月日:1981/09/08 染色作家の日本工芸会正会員・理事の鈴田照次は、9月8日肝臓ガンのため佐賀県藤津郡国立嬉野病院で死去した。享年64。1916(大正5)年10月27日佐賀県杵島郡で生まれた。1934(昭和9)年佐賀県立鹿島中学校卒業、1935(昭和10)年東京高等工芸学校工芸図案科(現千葉大学工学部)入学、1938(昭和13)年卒業。富本憲吉、稲垣稔次郎の影響が初期の作品には比較的多く見られる。特に型絵染は稲垣稔次郎に師事して学んだのでその傾向は初期の作品にあるが、鍋島更紗の技法の研究を進めて木版摺更紗の独自のものが出来てからは得異の秀作が年々発表された。制作略年譜西暦 昭和1936 11年 東京高等工芸学校講師鹿島英二氏に蝋染を学ぶ1950 25 新匠展蝋染を出品、冨本憲吉氏と稲垣稔次郎氏を知る、その後稲垣氏に型絵染を学ぶ1953 28 佐賀大学教育学部講師 県美術展審査員1955 30 新匠会会員に推薦さる1958 33 東京高島屋美術部にて個展1959 34 型絵染着物「くれおめ」第6回日本伝統工芸展入選以来没年まで毎年入選1960 55 鍋島更紗秘伝書及見本帖を見、この更紗の解明と復元を期す 型絵染着物「歯朶文」日本伝統工芸展入選1961 36 型絵染着物「竹文」第八回伝統工芸展出品、文化庁蔵1962 37 日本工芸会正会員認定、型絵染着物「松文」第九回日本工芸会長賞受賞、文化庁蔵1963 38 日本伝統工芸展染色部門鑑査員、以降十回餘型絵染壁面装飾「老松」1964 39 社団法人日本工芸会理事に委嘱され没年までつとめる。染織工芸の源流を求めて、インドネシア・セイロン・インドに渡り調査研究。 型絵染着物「草文」「芋葉文」第11回日本伝統工芸展出品、「草文」文化庁蔵1965 40 第12回日本伝統工芸展染色及び人形両部門第1次鑑査員委嘱さる 型絵染着物「草の実」「栗文」同展出品、型絵染着物「葦文」(第2回日本染織展出品)1966 41 日本工芸会西部支部幹事長に就任以来81年没年までつとめる 型絵染着物「麦穂波」「松の花文」(第13回日本伝統工芸展出品)「麦穂波」京都国立近代美術館蔵1967 42 第2回国際芸術見本市アメリカ展招待、型絵染着物「麦穂波」出品 型絵染着物「夜香文」(日本染織展出品)文化庁蔵 型絵染着物「山芹文」「草文」(第14回日本伝統工芸展特待出品)1968 43 型絵染着物「渦文」「草文」(第15回日本伝統工芸展出品)同出品作「渦文」横浜シルクセンター蔵1969 44 著書「染織の旅」芸艸堂より出版、鍋島更紗秘伝書を基に鍋島更紗復元に着手、型絵染着物「もくまお」「華文」(第16回展出品)「雨文」「球文」(第6回日本染織展出品)1970 45 型絵染着物「歯朶文」(第17回展出品)型絵染壁画装飾「春暁譜」「秋惜譜」制作1971 46 型絵染着物「麦穂文」(第18回展出品)1972 47 鍋島更紗の技法に基く木版摺更紗を発表 木版摺更紗着物「松文」(第19回展出品)東京国立近代美術館蔵 型絵染着物「笹文」(第9回日本染織展出品)1973 48 木版摺更紗着物「松文」「草穂文」(第20回日本伝統工芸展特待出品)木版摺更紗着物「郭公花文」(西部工芸展出品)1974 49 木版摺更紗着物「おだまき文」(第21回展特待出品)、木版摺更紗着物「歯朶文」(第9回西部工芸展出品)以上二点東京国立近代美術館蔵1975 50 還暦を記念して歌と随想「梅下集」を発刊 木版摺着物「松竹梅文」(第22回展特待出品)木版摺更紗着物「竹文」(第12回日本染織展出品)東京国立近代美術館蔵1976 51 木版摺更紗着物「とり文」(第23回展出品)1977 52 芸術選奨文部大臣賞受賞(第23回展出品作「とり文」が対称となる) 木版摺更紗着物「麦穂文」(第24回展特待出品)木版摺更紗着物「芹花文」(第14回日本染織展出品)京都国立近代美術館蔵1978 53 紫綬褒章受章 木版摺更紗着物「松の花文」(第25回展出品)木版摺更紗着物「竹文」(第15回日本染織展出品)以上二点佐賀県立博物館蔵1979 54 木版摺更紗着物「花文」(第26回展出品)文化庁蔵 木版摺更紗着物「松葉文」(第16回日本染織展出品)木版摺更紗による襖制作1980 55 ロンドン、ビクトリア・アンド・アルバート美術館「ジャパン・スタイル展」に招待出品1981 56 日本経済新聞社主催作品展(鐘紡東京銀座シグナスホール) 56 9月8日没 (鈴田照次作品集型と版染」-1980年 芸艸堂刊-の年譜参照)
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没年月日:1981/09/05 現代美術家協会常任理事の洋画家米田三男之介は9月5日心不全のため千葉県夷隅郡の大原病院で死去した。享年68。大正2(1913)年2月26日愛媛県上浮穴郡に生まれ、昭和4年日本美術学校洋画科に入学し大久保作次郎に学び、同8年卒業する。同10年第12回白日会展に出品、この年京都で日本画を学び、関西美術院にも出入する。戦前からシュール・レアリスムの流れをくむ作風を示し、戦後は会員として二科展に出品し、同25年九室会にも所属する。同26年、51年協会に参加、同30年には美術文化協会会員となり、以後同展に出品し常任理事をつとめる。同40年、現代美術家協会会員(のち常任理事)となり、死去の年まで同展に制作発表を行う。二科展に「たそがれ」(33回)、「老樹」(34回)、「火炎樹」(35回)、美術文化協会展に「噴花」(15回)「ジュラ紀」(17回)、「月とピエロ」(19回)、「年輪」(23回)、現代美術家協会展に「誘蛾燈」(23回)、「孤独のくじゃく」(25回)、「太陽と森」(33回)、「波」(36回)などの出品作がある。
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没年月日:1981/08/22 美術史家、岡山県文化財保護審議会委員、岡山女子短期大学教授脇田秀太郎は、8月22日午前2時、脳血栓のため岡山市の岡山協立病院で死去した。享年74であった。1906(明治39)年9月9日、和歌山県新宮市に生まれ、第四高等学校(旧制)から東京帝国大学文学部へ進み、1931(昭和6)年、美術史学科を卒業した。その後、京都女子美術学校講師、第六高等学校(旧制)教授を経て岡山大学文学部教授となり、岡山大学を退官後は昭和47年から岡山女子短期大学教授であった。専門は絵画史で、水墨画・文人画に関する研究を中心に日本中世・近世絵画はもとより中国の水墨画や日本のやまと絵に関する論考に至るまで幅の広い研究活動が知られるが、特に文人画の作家研究に優れた業績が集中している。岡山大学、岡山女子短期大学で講義を続ける一方、59年より岡山県文化財保護審議会委員として県内所在文化財の調査研究を行っており、岡山県の文化財に関する著作も多い。多年によたるこれらの活動に対し、76年に第29回岡山県文化賞を受賞し、翌77年秋には勲三等瑞宝章を授与された。主要著述目録単行図書1943年 『日本絵画近世史』 敝文館1950年 『日本美術図説』(共著) 朝日新聞社1974年 『日本美術史概説』 明治書院1975年 『祇園南海・柳沢淇園』(文人画粋編11)(共著) 中央公論社1978年 『浦上玉堂』(日本美術絵画全集20) 集英社定期刊行物所載文献1948年 岡本豊彦伝の研究 国華 6751954年 画僧竈山 大和文化研究 61956年 黒田綾仙碑について 美術史 20溌墨と破墨 岡山大学法文学部紀要 61958年 画の南北 岡山大学法文学部紀要 91963年 つくりゑ拾遺 岡山大学法文学部紀要 161970年 野呂介石の研究 国華 9241978年 吉澤忠著『日本南画論攷』 国華 1008
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没年月日:1981/08/21 春陽会、写実画壇会員の洋画家志村一男は、8月21日午前4時10分心臓衰弱のため、東京武蔵野市の西窪病院で死去した。享年73。1908(明治41)年1月1日長野県諏訪郡に生まれ、27(昭和2)年帝国美術学校(現武蔵野美術大学)に入学した。その後父の死去のため帰郷したが、31年の第9回春陽展に「春光の丘」、第1回独立展に「丘の風景」「富士見駅附近」がそれぞれ初入選し、春陽会研究所で学ぶようになる。この頃1930年協会展や第4回文展(41年)などにも出品しているが、34年の第12回春陽展以後は主に春陽会に出品した。40年、絵に専念する意をかため上京、53年春陽会会員に推挙された。58年には渡欧し、パリのグランド・ショミエールに学び、ヨーロッパ各地を廻っている。72年、写実画壇の結成に発起人の一人として参加し、没年まで出品した。主な作品は「厨房の静物」(48年)「手水鉢」、「河原(夕月)」(73年)など。
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没年月日:1981/08/18 京都市立芸術大学名誉教授の彫刻家辻晉堂は、8月18日食道がんのため京都市東山区の自宅で死去した。享年70。本名為吉。ユニークな陶彫を中心として国際的に活躍した辻は、1910(明治43)年10月28日鳥取県日野郡に生まれた。31年に上京、洋画研究を志し、翌年独立美術研究所へ入り約1年間素描を学ぶが、33年第20回日本美術院展に「千家元麿氏像」を辻汎吉名で初出品し、木彫作家としてデビューした。独立美術研究所では堀内正和を識る。35年、第22回院展出品作「少女裸形」で奨励賞を受賞し院友に推挙され、同年新海竹蔵の推薦で日本美術院研究所に入る。39年第26回院展「婦人像」、41年第28回院展「村の男」で院賞第二賞を受賞、42年第29回展「詩人(大伴家持試作)」で日本美術院賞第一賞を受賞し日本美術院同人となる。また、38年得度して晉堂と改名した。戦後も57年まで院展に出品したが、58年に脱退し二紀会彫刻部委員となる。戦後、セメントや鉄を素材にした抽象彫刻に先鞭をつけ、昭和30年代からは陶彫による抽象作品に独自の世界を拓いた。57年サンパウロ・ビエンナーレ展に「鳥」他、翌年ベニス・ビエンナーレに「沈黙」他を出品し、国際的な評価を得た。また、日本国際美術展には59年の第5回から8回展まで、現代日本美術展には60年の第4回から6回展まで出品した他、堀内正和、山崎脩との「彫刻三人展」(66年西武百貨店)、「八木一夫、辻晉堂展(67年、東京壹番館画廊)などを開催する。この間、49年に京都市立美術専門学校(のち京都市立芸術大学)教授に就任、63年には美術研究の目的で渡欧、66年にもジャパン・ソサエティの招待で欧米へ旅行した。64年頃、会費滞納のため二紀会より除名処分を受け、以後は京展の他、専ら個展で制作発表を行った。抽象的な陶彫作品の制作は、八木一夫らの走泥社に刺激を与え、その後の京都のオブジェ焼が国際的に注目される端緒を開いたが、最晩年は陶彫作品も具象へ帰っていった。76年に京都市立芸術大学を定年退官し、同年同学名誉教授となり、翌年京都市文化功労者となる。78年、『辻晉堂陶彫作品集』(講談社)を刊行した。没後、83年に「現代彫刻の鬼才 辻晉堂展」(8月3日-9月4日)が京都国立近代美術館で開催された。主要出品歴1933 20回院展 「千家元麿像」1934 21回院展 「田中の頭部」1935 22回院展 「首習作」「少女裸形」1936 23回院展 「Y氏像」「腕をくんでゐる女」1937 24回院展 「裸婦習作」「O氏坐像」「少女頭像」1938 25回院展 「首」「福井博士像」1939 26回院展 「出家」「婦人像」1940 27回院展 「黒田氏像」「こども」1941 28回院展 「夏のあした(平櫛先生古稀像)」「村の男」1942 29回院展 「野良の父と子」「村の女」「詩人(大伴家持試作)」1943 30回院展 「野良の父と子」「鶏と女」1946 31回院展 「胸像」1947 32回院展 「光木氏像」「岩澤惟安老師像」1949 34回院展 「槙本氏像」「琵琶を弾く男」1950 35回院展 「坐像」1951 36回院展 「坐像」「立像」1952 37回院展 「坐像」1953 38回院展 「首」1954 39回院展 「詩人」「旅から旅へ」「虚空はこういう風につかむものだ」1955 40回院展 「トルソ」「クハンダ」1956 41回院展 「切株」「時計」「旅行者」1957 42回院展 「へんな服をきた人物」、4回サンパウロビエンナーレ「★々毿々」「時計」「鳥」1958 39回ベニス・ビエンナーレ「沈黙」「馬と人」「山の人」「牡牛」「寒山」「巡礼者」「蛙」、12回二紀展「拾得」「灯」「人間(椅子に座っている人物)」「迷盲」1959 5回日本国際美術展「詩人(これ我かまた我に非ざるか)」1960 4回現代日本美術展「寒山」、14回二紀展「マウラ」「ホラ男爵」「詰込主義教育を受けた子供」「拾得」1961 6回日本国際展「寒山(HAN SHAN)」、15回二紀展「颱風の四角な眼とムカデ」「薄暮の階段の石にすわるシッド」1962 5回現代日本展「東山にて」(二点)、16回二紀展「水の中に」1963 7回日本国際展「巡礼」、7回全国彫刻コンクール(宇部市)「牡牛(牛)」「山の人(山の男)」「呪術者」1964 6回現代日本展「寒山(HAN SHAN)」1965 8回日本国際展「寒拾(KANJYU)」1966 3回国際現代彫刻展(パリ)「歩く壁」1967 9回日本国際展「非化Q」
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没年月日:1981/07/29 国画会会員の洋画家渡辺貞一は、7月29日胃ガンのため東京都練馬区の自宅で死去した。享年64。1917(大正6)年3月30日青森県に生まれ、33年青森師範図画専科に入学したが、35年上京し37年まで川端画学校で学ぶ。41年第16回国画会展に「温室」が初入選し、戦後も同展に出品し、52年国画会会友に推され、翌年国画会若手グループで「三季会」を結成、56年第30回展出品作「日蝕」で会友優作賞を受けた。57年第1回朝日美術団体選抜新人展に「森の話」を出品、翌年国画会会員に推挙された。62年には第36回国画会展出品作「囚われの船」が朝日ジャーナルの表紙に用いられる。64年から翌年にかけてヨーロッパを巡遊する。国展出品とともに、56年12月の村松画廊を最初に、しばしば個展を開催して制作発表を行い、主なものに66年の西武ギャラリー、72年の日仏画廊、79年の現代画廊などがある。没後、82年に青森市民美術展示館で「渡辺貞一遺作展」が開催された。国展への主な出品作に、「冬の教会」(23回)「裸婦」(26回)「屋上の幻想」(28回)「極光2」(43回)「川原の風景」(47回)「羅針儀の風景」(49回)などがある。
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没年月日:1981/07/28 建築家で日本建築協会名誉会長の竹腰健造は、7月28日午前10時54分、老衰のため大阪市福島区の大阪大学病院で死去した。享年93。1888(明治21)年6月25日、福岡県に生まれ、明治の代表的な美術評論家岩村透は兄にあたる。1912(大正元)年東京大学工学部建築学科を卒業し、兄のすすめでイギリスに留学、アーキテクチュラル・アソシエーション・スクールで建築を学んだ。14年にローヤル・インスティチュート・オブ・ブリティッシュ・アーキテクトの建築士資格試験に合格し、同年オースチン建築事務所に勤務する。また、建築を学ぶ一方で、17年にロンドンテクノロジーでフランク・エマニュエルにエッチングを学び、ロイヤル・アカデミーに入選する。同年帰国し住友総本店に入社したが、エッチングは翌18年のロイヤル・アカデミーにも入選している。同18年、明治天皇聖徳記念絵画館の懸賞設計に3等当選、また19年には第1回創作版画協会に滞欧作のエッチング12点を出品し会員となるなど、この頃、建築、版画両面にわたって活躍した。しかしこれ以後は建築家としての仕事が主となる。22年住友合資会社技師となり、住友ビル(現住友銀行本店)等の建設に従事、33年同社を依願退社し、長谷部竹腰事務所を設立して東京手形交換所の設計監理などにあたる。45年住友本社に入社し、長谷部竹腰建築事務所を住友土地工務(株)と合併、翌45年11月には同工務(株)を改組して住友商事の前身である日本建設産業(株)とし、初代社長に就任した。47年に同社を退任するが、46年には日本建築協会会長となり(58年まで)、48年双星社竹腰建築事務所を開設(77年株式会社双星設計と改称)、その後、関西電力本社、新住友ビル、大阪市新市庁舎などの建築顧問をつとめ、また大阪市立中央図書館、武田薬品工業湘南工場などの建築に携わった。この間、57年に黄綬褒章を受章し60年日本建築学会名誉会員となり、62年日本芸術院賞受賞、64年勲四等瑞宝章受章、また65年には全国建築審査会協議会会長(78年まで)、68年には日本建築協会名誉会長、71年勲三等瑞宝章受章と、数々の要職を歴任し、顕彰を受けた。このほか、日本万国博覧会協会参与(66~70年)、阪神高速道路協会理事長(67~70年)などもつとめた。
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没年月日:1981/07/23 カトリック聖母献身宣教会修道士、洋画家の津田季穂は、7月23日肺炎のため神戸市立中央市民病院で死去した。享年81。旧姓神吉。隻眼隻脚の絵を描く修道士として知られた津田は、1899(明治32)年11月23日栃木県日光の内科病院長神吉翕次郎の五男として生まれた。1914(大正3)年、事故で右眼を失い、同年叔母の津田姓を継ぐ。19年第6回院展に「山村」が初入選、以後同展に出品したが22年日本美術院洋画部解散にともない団体展から離れた。24年上海に渡航、26年に帰国後漁師になろうとして和歌山県田辺に住む。40年に稲垣足穂の『山風蠱』の装釘にあたり、以後稲垣、石川淳、辻潤らと交友した。43年7月18日洗礼を受け、受洗後は徳島県鳴門市に住む。45年結核性骨髄炎に罹り右足を切断する。48年には鳴門の画会グループによる「ベニウズ」会に参加、以後毎年出品するとともに、67年福岡フォルム画廊での個展を最初に、大阪日動画廊(71年)、日動サロン(72年)、大阪高宮画廊(73-80年)、ギャルリー・ワタリ(76年)などで個展を開催した。この間、70年、77年、78年の3回欧米等に旅行する。80年には高宮画廊から画集が刊行された。遺作に、「雑木林」「教会の見える風景」「十字架の道行」「自画像」「夜明け前」等がある。
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没年月日:1981/07/22 新世紀美術協会委員、日本山岳画協会名誉会員の洋画家金子保は、7月22日老衰のため神奈川県秦野市の鶴巻温泉病院で死去した。享年90。1891(明治24)年7月6日新潟県三島郡に生まれ、麻布中学を経て東京外国語学校スペイン語科専修科へ進んだが中退し、1915(大正4)年東京美術学校西洋画科を卒業、17年同研究科を修了した。はじめ白馬会研究所に学び白馬会展、及び第1回光風展へも出品したが、19年太平洋画会会員となり、同年第1回帝展に「北国の冬」が入選、以後7回まで連続、及び第10回展にも入選、出品作に「猪苗代湖の冬」(3回)などがある。39(昭和14)年の第3回新文展には「海」を無鑑査出品した。この間、太平洋美術学校で教えた他、31年から武蔵高等学校教授もつとめた。戦後は旺玄会に所属し委員となったが、55年大久保作次郎らの新世紀美術協会結成に参加し、同協会委員となる。旺玄会の出品作に「片瀬海岸」(2回)「江の島の春」(5回)など、新世紀への出品作に「出漁前」(1回)「トラピスト」(6回)「海近し」(16回)などがある。
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没年月日:1981/07/21 日本画家円山応祥は、7月21日午後7時15分、老衰のため京都市右京区の双ヶ丘病院で死去した。享年77。1904(明治37)年11月2日、円山応挙の五代末裔応陽の子として京都に生まれる。本名は国井謙太郎。円山派は、応挙以後多くの画家を輩出したが、宗家は、応瑞、応震、応立と続いたところで絶家、このため応震の妹が国井家に嫁して生んだ国井応文が円山五世となり、応陽、応祥と続いていた。応祥は円山派七世を号している。応祥は父応陽に画を学び、京都市立絵画専門学校を中退、父の没後、一時山元春挙に師事した。田鶴会に所属していたものの個展のほかにあまり発表の機会は多くなかったが、円山派絵画の鑑定者としても知られた。
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没年月日:1981/07/19 国画会会員の洋画家田中道久は、7月19日肝硬変のため東京都清瀬市の結核研究所病院で死去した。享年66。本名武久。1915(大正14)年1月3日新潟県南蒲原郡に生まれ、県立村松中学を経て東京美術学校油画科に入学、小林万吾に師事し39(昭和14)年卒業した。在学中の38年第13回国画会展に「温室」が初入選、以後40年から3年間の兵役期間を除き同展に出品する。43年には松竹映画会社に入り海軍省企画南方宣伝教育映画製作にも従事した。戦後10年間新潟県加茂市に居住、この間、47年第22回国展に「日論」「加茂川」「けし」を出品し国画会賞を受け翌年国画会会友となり、53年国画会会員に推挙される。58年から10年間国画会事務局を担当する。65年にはオランダ、スペイン他にスケッチ旅行を行い、翌年銀座資生堂画廊で個展を開催した。国展出品作に「背面裸婦」(14回)「蓮」(15回)「ほうづき」(18回)「雪の暁」(19回)「つるうめもどき」(21回)「踊子」(38回)「カラコンス」(49回)「メクネスの城塞(モロッコ)」(50回)「ステンドグラス」(51回)「ナザレの漁夫」(53回)等がある
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没年月日:1981/07/18 戦前の前衛絵画に大きな影響を与えた洋画家矢部友衛は、7月18日老衰のため東京都田無市の第一病院で死去した。享年89。1892(明治25)年3月9日、新潟県岩船郡に生まれ、1918(大正7)年東京美術学校日本画科を卒業する。卒業の年アメリカへ渡航、翌19年パリへ渡り、はじめアカデミー・ランソンでモーリス・ドニに学ぶが、その後キュビスムをはじめ当時の新傾向の絵画に影響を受けて22年に帰国。同年の第9回二科展に立体派の画風による裸婦「習作 其一」「習作 其二」を発表するとともに、神原泰、中川紀元、古賀春江ら二科の前衛作家13名によるグループ「アクション」結成に加わった。24年に「アクション」分裂後「三科造型美術協会」創立に参加、翌年同協会解散後は浅野孟府、岡本唐貴らと「造型」(28年、未来派ロマンチシズムを駆遂し、ネオ・リアリズムを旗印とする「造型美術家協会」に再編)を創立した。26年から翌年にかけてモスクワを訪れ、プロレタリア美術を研究するとともに、「新ロシア美術展」(朝日新聞社主催で27年5-6月に東京、大阪で開催)開催に尽力した。29年にはナップ成立に伴い、日本プロレタリア美術家同盟創立(PPのちJAP)に参加し委員長に就任する。40年に再渡米しニューヨークで個展を開催、この時東西文化の全面的交流による綜合リアリズム運動を提唱する。44年神奈川県湯河原に疎開、ここで「農民百態」シリーズ(生前50態余を制作)を計画する。戦後の46年、岡本唐貴との共著『民主主義と綜合リアリズム』を出しその運動を提唱、同年旧JAPのメンバーと「現実会」を結成した。48年には日本共産党に入党、68年には郷里村上に画室を設け「農民百態」の連作をつづけた。80年に米寿記念『画集 矢部友衛』を刊行する。作品は、滞欧中の「裸婦」(1920)をはじめ、三科出品の「私の名はネオ・ロマンチストです」、プロレタリア美術大展覧会出品の「職場帰り」(1928)、「労働葬」(1929)、「音」(1930)、「凱歌」(1931)などがある。
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没年月日:1981/07/08 新制作協会会員、日本水彩画会会員の洋画家、水彩画家岡田正二は、7月8日骨肉しゅのため千葉県我孫子市の自宅で死去した。享年68。1913(大正2)年2月8日東京都京橋区に生まれ、保善商業学校を卒業後、34(昭和9)年蒼原会研究所を経て中西利雄に師事し水彩画を学ぶ。38年新制作協会第2回展に水彩画「滞船」が初入選、日本水彩画会展にも初入選し以後両展に出品を続ける。61年新制作第25回展に「海辺の石」「海辺の岩」各百号の大作を出品、新制作協会絵画部会員となり、その後も大作を出品し注目される。また、63年日本水彩画会賞を受賞し日本水彩画会会員となる。54年国立近代美術館で開催された「日米水彩画展」には自選作品5点を出品、63年には第1回の個展(中央公論画廊)を開催した。64、66年の現代日本美術展に入選し、67年には水彩画「七月の間(海辺)」が国立近代美術館に収蔵された。作品は他に「小屋の見える窓」「夜の都会」「ロードスの月」「遺跡」など。
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没年月日:1981/07/07 染色作家の日本工芸会正会員中儀延は、7月7日脳出血のため金沢市南新保町の石川県立中央病院で死去した。享年86。1895(明治28)年2月6日金沢市に生まれ、石川県立工業学校卒業後は加賀小紋染の修行を積む。1963(昭和38)年の第10回日本伝統工芸展に入選後、1968(昭和43)年には正会員となり、1972(昭和47)年の第19回日本伝統工芸展では会長賞を受賞、金沢文化賞・北国文化賞も受け、1978(昭和53)年には石川県指定無形文化財と加賀小紋保持者認定を受け、加賀小紋染の第一人者として活躍した。
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没年月日:1981/06/29 主体美術協会創立会員の洋画家山田光春は、6月29日午後9時25分、肺ガンのため名古屋市中央区の国立名古屋病院で死去した。享年69。1912(明治45)年3月21日愛知県西加茂郡に生まれ、34(昭和9)年東京美術学校を卒業、宮崎県に中学校教師として赴任し、宮崎美術協会創立に参加したのを契機に、瑛九を識る。その後愛知県に戻り、37年の第1回自由美術家協会展に「門」(ガラス絵)等6点を出品して協会賞を受賞、会友に推挙された。以後同展に毎回出品し、40年第4回美術創作家協会展(自由美術改称)出品作「一人」「二人」により、会員に推挙される。またガラス絵に対する関心も深く、48年日本硝子協会の創立に参加、以後毎年出品している。52年には創造美育協会を創立、また64年に自由美術協会を退会して主体美術協会の創立に参加した。美術教育に於ける尽力が大きく、東海地方の多くの美術文化活動に携わったほか、愛知県立女子大学、大垣女子短期大学などで教鞭をとった。著作に「瑛九の会」の機関誌での連載をまとめた『瑛九』(青龍洞76年)、『藤井達吉の生涯』(風媒社)、『よい絵よくない絵』(黎明書房)などがある。没後勲三等瑞宝章を受章
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没年月日:1981/06/26 染織美術の草分け的存在であった文化功労者で芸術院会員の山鹿清華(本名健吉)は、6月26日急性肺炎のため京都市中京区の高折病院で死去した。享年96。1885(明治18)年3月22日京都市に生れた。軍学者山鹿素行の子孫。西陣織に従事していた四番目の兄の影響で、小学校卒業後、織図案家の西田竹雪の内弟子になり、並行して日本画の勉強もする。10年間の年期奉公があけると、図案家として当時の第一人者であった神坂雪佳に師事し、明治末期から大正にかけて、関西図案会・新工芸院・京都図案家協会などの創立に尽くした。現代のファイバーアートのはしりを行く染織美術作品を、撚糸や染など広く内外の染織技法の研究を続けて独自の手織錦を考案、1925(大正14)年のパリ万国装飾美術工芸博で手織錦「孔雀」がグランプりを受け、以後数多くの優作を発表した。1927(昭和2)年の帝展工芸部で手織錦「オランダ舟」で特選、第7回日展出品の「無心壁掛」及び撚糸染法の新生面開拓によって1951(昭和26)年芸術院賞を受賞した。以後日展などの審査員をつとめ、工芸作家の第一人者といわれるに至った。1957(昭和32)年に芸術院会員に、1969(昭和44)年文化功労者に選ばれた。1974(昭和49)年に勲二等瑞宝章受章。
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没年月日:1981/06/26 前東京国立近代美術館長岡田譲は、6月26日肝臓腫瘍に肺炎を併発し、東京都中央区の国立がんセンターで死去した。享年70。1911(明治44)年1月2日東京の生まれ。34(昭和9)年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、同年11月東京帝室博物館(現東京国立博物館)の研究員となり、38年帝室博物館鑑査官補、47年国立博物館事業課文部技官、55年資料課長、58年普及課長、59年美術課長を経て、65年学芸部長となる。69年文化庁文化財保護部文化財鑑査官、72年東京国立近代美術館長となり、76年1月までつとめた。退官後は、文化財保護審議会専門委員をはじめ諸団体の委員や各博物館・美術館の顧問等のほか、77年から共立女子大学教授を亡くなる迄つとめた。81年勲二等瑞宝章を受ける。専門は工芸史で、特に漆工を中心とした研究論文が多い。また伝統工芸や現代工芸についての美術評論でも活躍している。主著 日本工芸図録(朝日新聞社1952)、日本美術全集工芸編上・下(東京文化出版1954)、調度(至文堂1966)、ガラス(至文堂1969)、南蛮工芸(至文堂1973)、日本の漆工(小学館)、正倉院の漆器(至文堂1978)、東洋漆芸史の研究(中央公論美術出版1978)、美と風土-名品・名匠との出会い(講談社1979、昭和54年度芸術選奨文部大臣賞受賞)等。
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没年月日:1981/06/10 日本芸術院会員、光風会理事長、日展常務理事の洋画家新道繁は、6月10日心筋コウソクのため東京都板橋区の都養育院付属病院で死去した。享年74。昭和30年代以来、「松」一筋に描き続ける画家として知られた新道は、1907(明治40)年3月25日福井県板井郡に生まれ、1924(大正13)年東京府工芸学校を卒業した。在学中から水彩画に親しみ、25年の第6回帝展に水彩画「早春」が初入選しデビューした。翌年の第7回帝展に油彩画「麗園」が連続入選し洋画家の道へ進み、帝・文展へ出品を続け、41年文展無鑑査となった。この間の新文展出品作に「白衣」(2回)「少女」(3回)「西湖雪」(5回)があり、40年の紀元二千六百年奉祝記念展には「白服の女」を出品した。また光風会展へも出品し34年に光風会員に推される。41年から翌年にかけて中支・北支を旅行する。戦後も日展、光風会展を中心に制作発表を行い、58年、社団法人日展発足とともに評議員となり、同年の第1回展出品作「スペインの水売り」で文部大臣賞を受賞、ついで60年には第3回日展出品作「松」で日本芸術院賞を受けた。この頃から松をテーマにとりくみ、「松の作者」として注目され始めた。この間48年には光風会の同志鬼頭鍋三郎、田村一男、森田元子らと青季会を結成し、展覧会を開催した。日展常務理事、光風会理事長も歴任した。日展出品作1946年 第1回 「花の村」1947 3 「紅葉」(招待)1949 5 「室内」(依嘱)1951 7 「唐の微笑」1952 8 「古風な椅子」1953 9 「ふくろ」1954 10 「冬の日」1957 13 「南仏の家」1958 社団法人日展第1回「スペインのみづうり」(評議員)1959 2 「スペインの旅」1960 3 「松」1961 4 「松」1962 5 「修学院林泉」1963 6 「伊豆の松山」1966 9 「松島」1967 10 「松」1968 11 「松」1969 改組第1回日展 「松」(理事)1970 2 「松」1971 3 「松」1972 4 「松」1973 5 「松」 (評議員)1974 6 「松」1975 7 「松」 (理事)1976 8 「松」1977 9 「松」1979 11 「松」1981 13 「松」
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没年月日:1981/06/01 人間国宝の截金師斎田梅亭は、6月1日午後5時45分心筋梗ソクのため、京都市西京区の西京都病院で死去した。享年81。1900(明治33)年4月6日、京都市下京区に、斎田万次郎の五男として生まれる。本名は右五郎。斎田家は、西本願寺専属の截金仏画師で、父万次郎は四代目、長兄晨三郎が五代目である。梅亭は、1920(大正9)年京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、晨三郎について截金技術を学んだ。金・銀箔を細かく切り、本来仏像や仏画を装飾する技法である截金を、工芸品に応用することを研究した梅亭は、36(昭和11)年の改組第1回帝展に「歳寒三友ノ図截金屏風」で初入選し、54年まで、新文展、日展に入選を重ねている。45年3月に兄晨三郎が没したため六代目を継承、家業を継ぐ一方で、截光会を結成し、新しい装飾工芸の開拓に努めた。54年に日本工芸会が創設されてからは同展に出品し、59年の第6回展で「截金飾筥」が奨励賞を受賞、61年には会長賞受賞とともに正会員に選ばれた。また64年第11回展で審査委員をつとめて後、たびたび同委員をつとめている。74年には、東京都港区の赤坂離宮迎賓館の調度品として、代表作のひとつである截金の四曲屏風一双「霞文様」を制作、仏教美術の分野の一技法にとどまっていた截金を、工芸美術の域まで高めた功績が認められ、75年勲四等瑞宝章を受章した。また77年の京都府美術工芸展では大賞を受賞、同年京都府美術工芸功労者に選ばれ、この4月には人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されたばかりだった。屏風や飾筥、茶器などに施された截金の装飾は、繊細で現代的な感覚のもとに見事に甦っている。主要作品は、上記のほか、「截金菜華文飾筥」(61年)、「波頭文飾筥」(67年)「華(小屏風)」(69年)「六万飾筥」(74年)など、
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