本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1981/05/27 新制作協会会員の洋画家坂井範一は、5月27日気管支炎のため岐阜県の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年2月14日岐阜県加茂郡に生まれ、1922(大正11)年岐阜県師範学校卒業後、翌年東京美術学校図画師範科へ進み26年卒業する。卒業と同時に岐阜県女子師範学校に奉職、同年の第7回帝展に「憩へる女」が初入選。1931(昭和6)年再上京し東京美術学校研究科に入り藤島武二に師事、35年の第二部会に「青い静物」が入選、翌36年新制作派協会第1回展に「浴後」「裸婦」を出品し新作家賞、37年の第2回展には「海辺」等で新制作派協会賞、39年第4回展でも新作家賞をそれぞれ受賞し、40年新制作派協会会員に推挙された。また、同40年の紀元二千六百年奉祝展には「船の制作場」を出品する。45年に岐阜市に疎開し、戦後は同地に定住、49年岐阜大学学芸学部芸術科の教授に就任す。新制作協会展に作品を発表する側ら地域の美術教育に積極的に関与し、52年には岐阜県造形教育連盟を組織し初代委員長に就任した。この間、51年にイサム・ノグチが岐阜を訪れ、坂井家を拠点に堤燈のデザインを行ったのに影響され、現代デザインにも関心を示すようになる。62年、岐阜大学を定年退官後も、愛知女子短期大学、東海女子短期大学に教えた。また、71年に岐阜日日賞を受け、81年には紺綬褒章を受章する。新制作への出品は他に、「洲の暁」(6回)、「渓流」(24回)、「船A」(29回)、「古い物語A」(34回)などがある。
続きを読む »
没年月日:1981/05/19 元国画会会員の洋画家井上三綱は、5月19日老衰のため神奈川県小田原市の自宅で死去した。享年82。1899(明治32)年1月15日、福岡県八女郡に生まれ、1916(大正5)年福岡県小倉師範学校に入学、在学中に画家を志し卒業後上京、本郷絵画研究所に学んだのち、23年から同郷の先輩坂本繁二郎に師事する。1926(大正15)年第7回帝展に「牛」が初入選、以後7回帝展・新文展に出品、30年には牧雅雄について彫刻も学び、日本美術院展に彫刻作品を2度(第15、16回)出品した。43年、造形芸術社から『万葉画集』を刊行、45年には「古事記屏風」を制作、翌年から箱根早雲寺に参禅した。50年にイサム・ノグチの訪問を受け、またエリーゼ・グリリー女史を知り制作上の自信を得、同年の第24回展から国画会展に出品、翌年の25回展に「たいくつした牛」「水辺の馬」を出品し国画会会員に推挙された。55年、ニューヨーク、ブルックリン展に前年作の「裸婦群像」「浴後」を出品、57年にはサンパウロ・ビエンナーレ展に「しゃがみかけた牛」(50年作)「驚」(51年作)を出品、またニューヨーク近代美術館における国際水彩展にも出品した。この間、53年の第2回日本国際美術展に「農」他1点、翌54年の第1回日本現代美術展に「第一の日」「牛小屋」を出品、国際展は59年の第5回、現代展は60年の第4回展までそれぞれ出品した。59年、美術出版社から『画集 井上三綱』を刊行する。61年、国画会を退会し、以後無所属となる。74年には、セントラル美術館で屏風絵による個展を開催した。国展への出品作に「海辺の牛」(26回)、「まるまげの女」(30回)、「はたおり」(31回)、「働く女」(34回)などがある。
続きを読む »
没年月日:1981/05/13 国画会会員の洋画家里見勝蔵は、5月13日心筋こうそくのため鎌倉市の自宅で死去した。享年85。大正から昭和にかけてフォーヴィスムを紹介し、当時の画壇に大きな影響を及ぼした里見は、1895(明治28)年6月9日、京都市四条に生まれた。生地は現在の大丸百貨店敷地内にあたり、かつて近隣に松村呉春、円山応挙も住み、当時は安井曽太郎、梅原龍三郎の家とも四、五丁程度離れた場所であった。京都府立第二中時代は音楽家を志したこともあるが、後に音楽評論家となった野村光一等と東京美術学校日本画科出身の鈴川信一(のち東京美術学校教授)に図画を学び、1913(大正2)年卒業後関西美術院に入り鹿子木孟郎の指導を受けた。翌14年東京美術学校西洋画科に入学、長原孝太郎に素描を、小林万吾、藤島武二、黒田清輝に油絵を学び、19年に同校を卒業する。渡欧前の池袋時時代では、美校三年生の頃知った安井曽太郎を最も尊敬し、セザンヌにも傾倒、また在学中の17年には鍋井克之の勧めで第4回二科展に「職工」を出品し初入選、同年の第4回院展にも「下濱風景」が入選する。21年にフランスへ留学、マチス、ドラン、ブラック、ブラマンクらフォーヴィズム隆盛期のパリ画壇にあって、ブラマンクに師事しその薫陶を受けた。渡仏中、前田寛治、小島善太郎らと交友、佐伯祐三をプラマンクに紹介したことでも知られ、また、24年には「巴里の展覧会-ルオーの展覧会を観る-」を「中央美術」(105号)に投稿、これがわが国における最も早いルオー紹介となった。25年に帰国後京都に居住、同年の第12回二科展に滞欧作「マリーヌの記念」など7点を出品し樗牛賞を、27年の第14回展には「裸女の化粧」など6点を出品し二科賞をそれぞれ受賞、28年二科会会友、30年同会員に推挙される。一方、26年に渡仏中交友のあった前田、小島、木下孝則、佐伯祐三と5名で里見の命名による一九三〇年協会を設立、同年5月に日本橋区北槙町の日米信託ビル階上に第1回展を開催し、滞欧作40点を出品した。同展は所期の目的である1930年の第5回展まで続けられて解散し、里見は二科会会員も辞し同年11月児島善三郎、林武、三岸好太郎らと独立美術協会を創立、翌31年の第1回展に「女(独立記念)」など8点を出品、以後第7回展まで出品を続けた。この間、29年に上京し井荻にアトリエを新築し移住する。54年、独立美術協会を退会し、以後美術団体に所属せず井荻で制作を続けたが、戦後の54年国画会に会員として加わり、同年4月に再渡仏、ブラマンクをはじめガシェ、ザッキンらに再会し、58年に帰国した。翌59年第33回国画会展に滞欧作「ルイユの家」など8点を出品、以後81年の第55回展まで毎年出品する。62年には井荻から鎌倉山に移転、67年に「里見勝蔵近作展」を東京日本橋三越で開催、68年には「里見勝蔵第一回自選展」(10月22日-27日)を同三越で開催した。晩年まで一貫してフォーヴの画風を展開、強烈な色彩と奔放な筆触による独自な画境を拓いた。著書に『ブラマンク』『異端者の奇蹟』『赤と緑』『画魂』など。主要出品目録1917年 4回二科展 「職工」(初入選)1918年 5回二科展 「静物」1919年 6回二科展 「静物」1921年 8回二科展 「肖像」1925年 12回二科展 「マリーヌの記念」「渓谷の春」「静物B」「雪景」「静物C」「プロヴァンス風景」「肖像」(樗牛賞)1926年 13回二科展 「友人の肖像」「静物」「静物」1927年 14回二科展 「軍人の肖像」「横はる女」「静物」「裸女の化粧」「南方の男」「裸女」(二科賞)1928年 15回二科展 「娘の化粧」「「シャボテンと石膏像」「女(一)」「静物」「女(二)」1929年 16回二科展 「女」「静物」「女」「肖像」「肖像」1930年 17回二科展 「女」「女」「女二人」「静物」「女と花」1931年 1回独立展 「マネキンの静物」「静物」「肖像」「男の首」「女(独立記念)」「家族」「静物」「女の顔」1932年 2回独立展 「静物」「画室にて」「女児」「女」1933年 3回独立展 「女」「女」「姉妹」「あじさゐ」「黄衣女」1934年 4回独立展 「少女像」「静物」「女」「水蓮と緋鯉」「少女像」1935年 5回独立展 「題未定」(三点、博覧会目録による)1936年 6回独立展 「肖像」「富士・桜」「荒磯」「女」1937年 7回独立展 「女」「チューリップ」「仏像」「少女」「富士」1959年 33回国展 「ルイユの家」「パンの静物」「赤毛の女」「イビザの岩石」「花束」「老友像」「曠野」「雪山」1960年 34回国展 「グラナダの郊外」「少女像」「マリーヌの早春」1961年 35回国展 「峡谷」「高原」1962年 36回国展 「イビザの田野」「橄欖」1963年 37回国展 「IBIZAの海岸」「イル・ド・フランス」1964年 38回国展 「ヴァルモンドア」1965年 39回国展 「道」「花」1966年 40回国展 「ラ・トゥルイエール」1967年 41回国展 「ペール・ギランの家」1968年 42回国展 「オーベルの農家」1969年 43回国展 「ノルマンディ風景」1970年 44回国展 「農家」1971年 45回国展 「ベアトリス」1972年 46回国展 「女の顔」1973年 47回国展 「アコ」1974年 48回国展 「イビザの山野」1975年 49回国展 「千」1976年 50回国展 「婦人像」1979年 53回国展 「顔」1980年 54回国展 「顔」1981年 55回国展 「風景」
続きを読む »
没年月日:1981/05/05 日本芸術院会員、文化功労者の彫刻家清水多嘉示は、文化功労者に選ばれた記念展(5月5-10日、三越)開催初日の5月5日心不全のため東京大田区の東邦医大付属大森病院で死去した。享年83。戦後の具象彫刻をリードした一人である清水は、1897(明治30)年7月27日長野県諏訪郡に生まれ、最初洋画から出発し、1920(大正9)年第6回二科展に「風景」「カルタ」が初入選し、同展に第9回展まで出品した。23年に美術研究のため渡仏しブルデルに師事、その建築的構造性を重んじる彫刻を学んだ。28年までの渡仏中、サロン・ドートンヌに絵画及び彫刻を毎年出品、また、サロン・デ・チューレリー、サロン・デ・ザンデパンダンの各会員に推された。28年に帰国後、院展、国展、春陽会展等に出品したのち、文展へ出品し、43年第6回文展ではじめて審査員をつとめ「植樹」を出品する。戦後は日展を中心に活躍し、53年第8回日展出品作「すこやか」で芸術選奨文部大臣賞、54年第9回日展「青年像」で日本芸術院賞をそれぞれ受賞した。また、51年には上野公園内設置の彫刻コンクールに応募した「みどりのリズム」が一位入選、翌52年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品。54年ヴェニスで開催された国際造形芸術会議に日本首席代表として出席し、国際造形芸術連盟設立とともに、その執行委員に選任された。64年、ジュネーヴの国際電気通信連合(ITU)創立百年記念事業としてのモニュマンのための「国際彫刻コンクール」の審査員にザッキン、マリニらとともに挙げられ、翌年審査に携わる。65年に日本芸術院会員、80年文化功労者に選任されたほか、日展顧問、日彫会名誉副会長などを歴任、また武蔵野美術大学名誉教授でもあった。著作に『ドナテルロ』(1940年)『ブルデル』(1956年)などがある。日展出品歴1946年 第1回 「母子像」1946年 第2回 「婦人の頭」1947年 第3回 「海」1948年 第4回 「裸婦」1949年 第5回 「村上翁像」(依嘱)1950年 第6回 「La Meditation」(参事)1951年 第7回 「フラートン少佐」1952年 第8回 「裸婦」1953年 第9回 「青年像」1954年 第10回 「F子の頭」1955年 第11回 「マドモアゼル・カリーン」1956年 第12回 「裸婦」1957年 第13回 「裸婦」1958年 社団法人日展第1回 「青年」(評議員)1959年 第2回 「裸婦」1960年 第3回 「裸婦」1961年 第4回 「裸婦」1962年 第5回 「響」1963年 第6回 「浩」1964年 第7回 「爽」1966年 第9回 「裸婦}(理事)1967年 第10回 「裸婦」1968年 第11回 「裸婦」1969年 改組第1回 「裸婦」1970年 第2回 「裸婦」1971年 第3回 「純」1972年 第4回 「裸婦」1973年 第5回 「裸婦」1974年 第6回 「母子」(顧問)1975年 第7回 「裸婦」1976年 第8回 「躍動」1977年 第9回 「陽光」1978年 第10回 「躍動」1979年 第11回 「飛躍」1980年 第12回 「飛躍」1981年 第12回 「瞑想」
続きを読む »
没年月日:1981/05/05 日展会友の日本画家奥田正治郎(雅号・正治良)は、5月5日午前4時15分、心筋コウソクのため、京都府宇治市の曽根病院で死去した。享年79。1901(明治34)年8月15日三重県宇治山田市に生まれ、京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に入学、1930(昭和5)年に同校研究科を修了した。また、都路華香、西村五雲らに師事し、38年に五雲が没した後は、山口華揚が引継いだ晨鳥社に所属した。26年の第7回帝展に「花園養蜂」が初入選し、以後帝展・日展に24回入選している。このほか京都市展にも出品した。代表作は、日展出品作の「蒼」「青柿」など
続きを読む »
没年月日:1981/05/04 元九州芸術工科大学長、元千葉大学教授の小池新二は、5月4日急性呼吸不全のため東京都三鷹市の杏林大付属病院で死去した。享年79。造形理論及び造形史を専門にし、とくに工業意匠の分野で幅広い活動をした小池は、1901(明治34)年11月23日東京に生まれ、東京府立一中、松本高等学校を経て、27(昭和2)年東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業、同年の帝国美術学校創設に関わりのち教授をつとめる。戦前は建築運動に積極的に関与し、建築博物館設立を提唱した他、36年には戦後の建築運動の思想的架橋ともなった日本工作文化連盟結成に加わり理事をつとめ、42年にはアルス社から『汎美計画』を刊行した。また、この間「建築世界」「建築時潮」の編集執筆に携わり、商工省工芸指導所専任技師をつとめる。戦後の48年から翌年にかけて「工芸ニュース」海外新刊紹介欄を担当、マンフォード『人間の条件』、ギーディオン『機械化の支配』などを紹介、また日本貿易博覧会渉外部嘱託、同協会企画専門委員として、横浜博、神戸博等の企画に参与する。50年千葉大学教授に就任し、翌年同大工学部工業意匠学科創設に携わった。54年には『世界の現代建築』『世界の現代住宅』(彰国社)の企画並びに出版に対して日本建築学会賞を受賞する。その後、56年に日本生産性本部第1回米国工業デザイン視察団団長として渡米したのをはじめ、ジャパン・デザイン・ハウス運営委員会委員(59年)、第12回ミラノ・トリエンナーレ展示会現地日本事務局長及び欧州デザイン事情視察日本代表(60年)、通産省工業技術院産業工芸試験所技術顧問などを歴任し、64年文部省産業芸術大学(仮称)設置に関する調査委員となる。67年、千葉大学を退官し、九州芸術工科大学創設準備室長に就任、翌年九州芸術工科大学初代学長となり74年まで在職した。75年からは、79年に開館した福岡市立美術館の設立専門委員となり、同館開館展となったアジア展実行委員会第一部会長もつとめた。この間、65年に『デザイン』を出版、72年に勲二等瑞宝章を受け、また、78年から会津若松市国立大学設置準備委員会専門委員となった。
続きを読む »
没年月日:1981/04/23 元日本建築家協会会長の建築家松田軍平は、4月23日心不全のため神奈川県藤沢市の岩淵内科医院で死去した。享年86。1894(明治27)年10月8日福岡県に生まれ、名古屋高等工業学校建築科卒業後に渡米、コーネル大学建築学科を卒業する。ニューヨーク市、トローブリッヂ・エンド・リビングストン設計事務所に勤務し、バンク・オブ・アメリカ等の設計に従事したが、三井本館工事監理副主任として帰国する。1931(昭和6)年平田重雄と松田建築事務所(42年松田・平田設計事務所、66年株式会社松田平田坂本設計事務所と改称)を創設した。48年から1年間日本建築士会会長に就任、50年から57年まで日本建築学会理事をつとめ、56年及び68年から各3年間、社団法人日本建築家協会会長の要職にあった。71年には財団法人文化財建造物保存技術協会監事となり、75年から80年まで日本建築設計監理協会連合会会長をつとめたほか、建設省建築審議会委員なども歴任した。この間、使いやすい実質的な設計を基本理念として、代表作に日本長期信用銀行本店(61年)、三井生命本社ビル(同)、羽田・東京国際空港ターミナルビル(64年)、日本銀行本店(73年)などがある。58年、フィリピン建築家協会名誉会員、米国建築家協会名誉会員に推された。
続きを読む »
没年月日:1981/04/22 二科会会員の洋画家中村直人は、4月22日敗血症のため東京港区の東京船員保険病院で死去した。享年75。本名直人。1905(明治38)年5月19日、長野県小県郡に生まれ、神川尋常小学校時代に山本鼎の農民美術研究所(同小学校内)で美術に触れ、山本の紹介で1920(大正9)年日本美術院同人吉田白嶺の内弟子となり木彫を学ぶ。24年第13回日本美術院展に木彫「清韻」が初入選、以後同展へ彫刻作品を出品し、29(昭和4)年第16回院展に「少女立像」を出品、日本美術院院友となり、翌年の第17回展では「道化役者」で日本美術院賞を受賞、36年第23回院展に「鈿女命」を出品し美術院同人に推挙された。37年北支戦線に従軍、翌年春銀座松屋で「北支従軍スケッチ展」を開催、39年聖戦美術展に「工兵」を出品し受賞、42年海軍報道班として従軍、同年岩田豊雄の朝日新聞連載小説『海軍』の挿絵を担当した。戦後の1952年12月にパリへ留学、13年間の滞在中に油絵を学び個展も開催して注目を集め、64年に帰国、同年銀座松屋で絵画作品による「中村直人滞仏絵画展」(10月30日-11月4日)を開催27点を出品した。70年、二科会絵画部会員として迎へられ、「裸婦」「おびえた子供」「巴里の女」を初出品、72年第52回展には「憩」「荒天」を出品し会員努力賞を受け、80年第65回展出品作「会合」で総理大臣賞を受賞した。彫刻から絵画へ転向した異色作家で、多彩でエキゾチックな女性像を得意とした。二科展への出品は他に「呼びこみ」(51回)、「裸婦横臥」(53回)、「裸婦」(56回、青児賞)、「朝」(59回)、「ピエロの一家」(61回)などがある。
続きを読む »
没年月日:1981/04/13 三軌会代表、洋画家で挿絵でも活躍した御正伸は、4月13日心筋コウソクのため東京都西日暮里の関川総合病院で死去した。享年66。1914(大正3)年12月10日、東京・日本橋に商家の長男として生まれ、31(昭和6)年東京市立京橋商業学校を卒業した。37年から川端画学校、鈴木千久馬絵画研究所に学び、39年劇団「青陽会」を結成、美術監修、舞台装置にもあたり、翌年は築地小劇場での『じゃがたらお春』の舞台装置を担当する。戦後、47年の第33回光風会展に「厨房にて」が初入選、53年光風展会友、57年同会員となる。また、50年第6回日展に「裸婦」が初入選、70年まで同展にも出品する。一方、52年日本経済新聞連載の中山義秀作『朝雲暮雲』の挿絵を担当、以後、富田常作『真昼の人』(54年、東京新聞)、柴田錬三郎『剣は知っていた』(55年、東京新聞)、石坂洋次郎『陽のあたる坂道』(57年、読売新聞)、円地文子『愛情の系譜』(60年、朝日新聞)、舟橋聖一『寝顔』(62年、読売新聞)等、毎年新聞連載小説の挿絵を描き、66年講談社挿画賞を受賞、挿絵画の第一人者となった。その後の挿絵には、舟橋聖一『太閤秀吉』(70年、読売新聞)、有吉佐和子『複合汚染』(74年、朝日新聞)等がある。71年に光風会を退会し、翌年三軌会の会員となり第24回展に「庭」を出品、74年第26回三軌会展出品作「太宰府抄」で文部大臣奨励賞を受け、77年からは三軌会代表となった。子供の頃から芝居に親しんだこともあり、早くから古典舞踊、歌舞伎に深い関心を寄せ、それらを題材にした作品が多く、53年頃からは本格的に歌舞伎の連作に入った。80年に日動サロンで「御正伸展」(6月5日-12日)を開催。三軌会展への出品作に、「連獅子抄」(25回)、「安宅」(28回)、「散華」(29回)、「白鷺抄(A)」「同(B)」(30回)、「道成寺抄」(32回)などがある
続きを読む »
没年月日:1981/04/04 宝石や装飾品などのジュエリーデザイナーとして国際的に知られた武蔵野美術大学教授の菱田安彦は、4月4日午後7時10分、肝不全のため東京都品川区の昭和医大付属病院で死去した。享年53。1927(昭和2)年8月23日岐阜県に生まれ、その後金沢、東京などに移る。44年陸軍予科士官学校に入学し翌年陸軍航空士官学校に進んだところで終戦を迎え、東京美術学校工芸科彫金部に編入、53年に卒業した。この間49年の第5回日展「金工オルゴールの小筥」以来52年の第8回展まで日展に出品し入選している。54年イタリア国立ローマ工芸学校に留学し、ヨーロッパ各地をまわって翌年帰国する。56年に国際工芸美術協会、USアクセサリー協会、クラフト・センター・ジャパンの設立に参加、翌57年には日本ジュウリーデザイナー協会設立に参加し初代理事長に就任している。その後ミュンヘン国際工芸展をはじめ、国際ジュウリー・アート展ほか数多くの国際展に出品し、71、72年にはデビアス・ダイヤモンド・インターナショナル・コンテストの審査員をつとめるなど、国際的に知られていた。また、武蔵野美術大学教授、日本ジュウリー・デザイナー協会常任理事、社団法人日本クラフトデザイン協会会員、財団法人日伊協会理事などもつとめた。著書・訳書には、「美について」「アクセサリー」「宝石の魅力」「世界の宝石美術館」「アートジュウリー」「彫金」他がある。
続きを読む »
没年月日:1981/03/23 振りや衣裳に重点を置いた「衣裳人形」の現代化に取り組んだ人間国宝平田郷陽は、3月23日午後1時10分、脳血せんのため東京都文京区の都立駒込病院で死去した。享年77。1903(明治26)年11月25日、伝統的な「活き人形」(等身大の似顔人形)の名工として知られた初代平田郷陽(恒次郎)の長男として、東京浅草に生まれる。本名は恒雄。田原町小学校を卒業後、父に人形制作を学び、父が没した24(大正13)年に二代目郷陽を襲名した。その後、等身大のマネキン人形を作るかたわら、雛人形などの制作に従事したが、28年、久保佐四郎、岡本玉水ら創作人形制作への意欲を持った同志と白沢会を結成、同会の展覧会に「島原の太夫」「髪」(共に33年)など徹底的な写実に基づく作品を発表した。35(昭和10)年には白沢会を解散して新たに日本人形社を創立、商品としての人形から、人形の芸術的発展を目指した活動を展開する。こうした世上の動きを反映して、人形の出品が認められた36年の改組第1回帝展に、「桜梅の少将」が初入選し、以後、文展、日本人形社展に出品する。この間、38年童人舎人形塾を開設して門下生の指導・育成をはじめ、また、37年には岡本玉水と京城へ旅行して朝鮮の風俗などを調査し、40年に京城で作品展を開いている。41年日本人形社を解散して新たに人形美術院を創立、また、戦後48年に創立された日本人形作家協会では代表委員に就任した。この頃より、「沢辺の雪」(48年、第4回日展)や、第6回日展で特選となった「茶」(50年)、第9回日展(53年)で北斗賞を受賞した「秋韻」など、作風は戦前の徹底した写実から、単純化されたフォルムと浮世絵の人物を思わせるほのぼのとした情感をたたえるものに変っていく。そして53年に無形文化財に選定され、54年第10回日展審査員を勤め、55年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。57年に日展を退会して以後は、日本伝統工芸展と、彼の門下生らによる陽門会に出品を続け、作風に円熟味と完成度が加わる。「遊楽」「冬麗」(58年)「萠芽」(60年)「清泉」(61年)「遊戯」(63年)「櫛名田姫衣装像」(73年)「天のうずめの命」(74年)など、母や子供を題材に、振りや衣裳に意を凝らした愛くるしい作品を次々に発表した。65年に創作四十年記念展(三越)、75年人形芸五十年平田郷陽展(三越)をそれぞれ開催し、68年紫綬褒章、74年勲四等瑞宝章を受賞、また、日本工芸会理事、日本伝統工芸会鑑査委員などもつとめ、人形芸術の発展に尽力した。
続きを読む »
没年月日:1981/02/21 日本芸術院会員の彫刻家大内青圃(本名正)は、2月21日午前10時28分、肺炎のため東京・本郷の東大医学部付属病院で死去した。享年82。1898(明治31)年12月12日東京市麻布区に仏教運動家大内青巒の五男として生まれる。幼時から父に仏教及び篆刻を学び、兄青坡から絵画・素描を学んだ。1922(大正11)年東京美術学校彫刻科木彫部を卒業したが、高村光雲に師事して木彫を学び、水谷鉄也に塑造を学んでいる。24年第11回院展(再興)に「羅刹婆」が初入選、27(昭和2)年第14回院展出品作「魔王女染欲」により同人となる。戦後58年に、日本美術院の財団法人化に伴い評議員となり、60年の第45回院展出品作「龍女献珠」が文部大臣賞を受賞する。一方、院展を活動の中心としながら新文展・日展にも出品しており、36年の改組第1回帝展に「牧神クリシュナの扉・夕」が初入選、同年の第1回新文展から無監査となる。43、47年に招待出品し、48年第4回日展では審査員をつとめ、翌年から委嘱出品となったが、58年に日展が社団法人となって以降は出品していない。また、院展も61年2月に彫刻部が解散したため、以後は個展を作品発表の場とした。父青巒からの影響もあり、一貫して信仰を背景とした仏教彫刻を彫り続けたが、63年には、前年の個展出品作「多羅菩薩」と一連の仏教彫刻により、日本芸術院賞を受賞、69年に日本芸術院会員となった。71年勲三等瑞宝章を受賞、77年には10年をかけて制作した永平寺東京別院長谷寺の本尊「十一面観音像」が完成した。同像はクスノキの一木彫としては世界一のものであったが、これが最後の大作となった。代表作品は、上記の「魔王女染欲」「龍女献珠」「多羅菩薩」「十一面観音」のほか、「金剛力士二尊」(51年、北海道旭川市真久寺)「薬師瑠璃光如来及十二神将」(54年、長野県野沢村薬師堂)など。略年譜1898 東京市麻布区に生まれる。1922 東京美術学校彫刻科木彫部を卒業。高村光雲に木彫、水谷鉄也に塑造を学ぶ。1924 第11回再興院展「羅刹婆」1925 第12回再興院展「龍女」1926 第13回再興院展「習作(頭部)」1927 第14回再興院展「魔王女染欲」「瞿曇沙彌」、美術院同人となる。1928 第15回院展「夢の花採む」「眠れる蛾」「青巒先生像」「地より湧出せるもの」1929 第16回院展「女」「山口氏像」「持水像」1930 第17回院展「持国天」「生」「老」「来迎佛」「病」「死」「誕生佛」「観音像」1931 第18回院展「香炉」「婦人団体」「無量寿佛印顆」「大慈観世音菩薩」「舎利瓶」1932 第19回院展「菊」「牧女献糜」「白鳥」1933 第20回院展「クリシュナの扉、朝・夕」「濕婆」1934 第21回院展「大弁才天女」「大吉祥天女」1935 第22回院展「婦人裸像」「月神」「日神」。新宿中村屋印度間「釈尊傳」浮彫制作1936 第23回院展「佛母摩耶婦人」「アモ」「富士選手像習作」。改組第1回帝展「牧神クリシュナの扉、夕」1937 第24回院展「施無畏者」「クリシュナの扉部分、朝の一・二、夕の一・二」「阿修羅鬼王面」「クロド」第1回文展「トリムルチー東方阿★佛」(無鑑査)1938 第25回院展「狗頭」「無量寿佛」「少女像」。第2回文展「施無畏者」(無鑑査)1939 第26回院展「舞踏王涅濕婆」。第3回文展「食堂二天(大弁才天女、大吉祥天女)」(無鑑査)1940 第27回院展「飛行天女」1941 第28回院展「大自在天」「木花開耶姫」。第4回文展「日月(神器・禊祓)」(無鑑査)1942 第29回院展「聖観自在尊」「観音菩薩」「不生居士像」1943 第30回院展「勝鬘夫人」「十三佛塔」。第6回文展「大気津比賣神」(招待)1944 戦時特別文展「東方ノ扉ノ内神遊」1946 第31回院展「聖観自在菩薩」「大地神女」「開蓮」。第1回日展「摩尼宝珠」。第2回日展「不死鳥フェニックス」1947 第32回院展「天皇像」「信貴英蔵氏像」「即現婦女身像」「観自在菩薩像」。第3回日展「佛母摩耶」(招待)1948 第33回院展「安達潮花師壽像」「大吉祥天女像」「春妖」。第4回日展「吉祥天女面」(文部省買上げ)、審査員をつとめる。1949 第34回院展「阿彌陀佛三尊」「観自在菩薩」。第5回日展「花の観音(テラコッタ)」(依嘱)1950 第35回院展「月神」「村昌院開山頂相」「毘蘆遮那佛試作」。第6回日展「餓鬼と観音」(依嘱)1951 第36回院展「那羅延金剛力士像」「密迹金剛力士像」。第7回日展「婦人」(依嘱)。北海道旭川市真久寺仁王門の「金剛力士」二尊像制作。1952 第37回院展「摩利支天」「不動明王」。第8回日展「詞梨帝母」(依嘱)1953 第38回院展「大弁財天女像」「紫紅園主人像」。第9回日展「孔雀」(依嘱)1954 第39回院展「薬師瑠璃光如来像」「月光菩薩像」「日光菩薩像」。第10回日展「光明女像」(依嘱)。長野県野沢温泉村薬師堂本尊「薬師瑠璃光如来像」及び「十二神将像」完成。1955 第40回院展「佛母子像」「薬叉神薬叉女」。第11回日展「花鬘菩提像」(依嘱)1956 第41回院展「釈尊成道」「持戒二尊」。第12回日展「牧女献糜」(依嘱)1957 第42回院展「勝鬘夫人幻想」。第13回日展「大地神女像」(依嘱)1958 第43回院展「法音輪菩薩像」評議員となる。1959 第44回院展「摩耶夫人像」1960 第45回院展「龍女献珠」文部大臣賞受賞。1961 日本美術院彫刻部解散、院展を離れる。1963 前年度個展出品作品「多羅菩薩」により、日本芸術院賞を受賞。1965 埼玉県熊谷市報恩禅寺「釈迦牟尼仏、摩阿迦葉、阿難」三尊及び「鬼王焔摩天」を制作する。1967 東京・駒沢学園「釈迦牟尼仏三尊」を制作する。1968 永平寺東京別院長谷寺「十一面観音像」制作に着手。1969 日本芸術院会員となる。1971 勲三等瑞宝章を受ける。1977 永平寺東京別院長谷寺「十一面観音像」完成。
続きを読む »
没年月日:1981/02/09 歌舞伎絵作家の穂束信勝は、2月9日午後5時50分・気管支肺炎のため大阪市の自宅で死去した。享年74。1907(明治40)年6月26日松山市に生まれ、16歳の時大阪に出て劇画の石川観風に師事した。23歳で独立し、以後、戦前は浪花座や中座(大阪)の絵看板を描く。戦後、50(昭和25)年の南座(京都)顔見世興行より歌舞伎絵も描くようになり、歌舞伎座、中座、南座、御園座(名古屋)などの歌舞伎絵看板を描いた。また新派や新国劇、新喜劇などの絵看板も制作し、関西の芝居劇場の絵看板を一手に引受けた絵看板の第一人者だった。代表的作品は、前述の京都・南座顔見世看板ほか。
続きを読む »
没年月日:1981/02/03 画壇から離れ、詩情豊かな作品を描いた孤高の画家池田淑人は、2月3日午後3時57分、老衰のため東京・西荻中央病院で死去した。享年94。前半生を音楽家として活動し、画家としてもほとんど美術団体に所属せず自由な制作を続けた異色の作家であった。1886(明治19)年6月12日秋田市に生まれ、1904年18歳の時に県立横手中学校を3年で中退、英語教師チャンプリンに伴われ渡米する。数年をチャンプリンの故郷ペトロマの学校で過ごした後、1909年サンフランシスコに赴き、詩人オーキン・ミラーの山荘に止宿、ここで同門の野口米次郎、菅野衣川らと共に、ミラーに詩を学ぶ。同時に、サンフランシスコ音楽学校でチェロを、同地のパプキン美術学校で絵画を学んだ。23(大正12)年に帰国し、郷里秋田の各地でチェロ演奏会を開いた後、東京、京都へと移り、演奏活動及びチェロと英語の教授を専らとした。また家が近かった須田国太郎との交遊も、25年頃より始まっている。26(昭和元)年指を痛め、楽器の演奏が出来ないため油絵を制作し、翌年初の個展を開催、絵画のほか英詩8篇を出品している。また28年には須田国太郎のすすめで関西美術院展に出品した。29年上京し、新宿・紀伊国屋画廊で「原人の絵原人の詩」と題した個展を開催したが、中川紀元が芳名録に「非原人」と記帳し話題になったのはこの時である。ここでも油絵のほか英詩10篇を出品している。このほか、後にヘッセらの絶賛を受けた英詩集『流浪のうた』(1952年)も発表するなど、豊かな文学的素養は絵にも大きく影響する。「自画像」や「妻の像」「燃える砂漠」(いずれも27年頃)など、初期の作品は強烈な色彩と強い筆致のフォーヴ的な画風を示すものの、次第に単純化されたフォルムの神秘的な画風へと移り「馬鈴薯」(40~42年)「古代馬」(44年)「双馬」(64年)「黄昏の春」(65年)「天地一体」(65年)「夜明の花」(65年)「ペガサス」(65年)などが描かれる。一方、戦後の48年に自由美術協会会員に推され、以後毎年出品したが、63年に脱退、ヨシトの名をもじって「ヨステ」或いは「鯢山人」と名のり、自宅で個展を開いたり、ほぼ毎年1回のペースで画廊で個展を行なうなど自由な制作を続けていた。79年に新宿・小田急で、80年に高岡市立美術館でそれぞれ「池田淑人展」が行われ、81年没後に遺作展が秋田市文化会館で開催された。
続きを読む »
没年月日:1981/01/23 子供を主人公とし、郷愁をさそう独特の画風で親しまれた童画家谷内六郎は、1月23日午前7時30分、心不全のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年59。1921(大正10)年12月2日東京・恵比寿に生まれ、6、7歳の頃から喘息に悩まされて病床で過ごすことが多かった。早くから絵が得意で、35(昭和10)年小学校を卒業後、町工場や雑誌社で見習いをしながら漫画やカット等を投稿、16歳の時に報知新聞に半ページの漫画を発表した。しかし持病のため勤めを転々とし、38年には千葉県御宿で転地療養生活を送ったが、ここでの漁港や海辺のスケッチが後年の作品の素地となった。独特の画風で既に一部の人には知られていた彼の童画が注目されるようになったのは、55年3月の文芸春秋漫画読本に「行ってしまった子」10点を発表し、第1回文芸春秋漫画賞を受賞してからである。同年『谷内六郎画集』(文芸春秋新社)を刊行し、翌56年、週刊誌ブームのきっかけをつくった「週間新潮」が発刊されると、その表紙絵を創刊号から担当、彼の絵は広く知られるようになり、子供を主人公にほのぼのとした叙情的な絵は、深く人々の心を捉えた。没するまで25年間一号も欠かさず描き続けた同誌の表紙絵は、1289号に達し、既に描き終えて没後発表されたものも含めると1303号の多きにのぼった。また彼自身虚弱な幼児期を送った体験から、福祉活動や障害児に対して終始温かい眼を持ち続け、「ねむの木学園」(静岡県浜松町)では77年から子供たちの絵の指導を続けていた。一方、幼児期の郷愁に根ざした作詞や随筆でもすぐれた作品を残し、芸術祭作詩賞を受賞している。56年に初の個展(東京・大丸)を開催し75年にはヨーロッパをスケッチ旅行、また児童出版美術連盟、漫画家協会の会員として、児童画展の開催などにも力を注いだが、その活動は一貫してヒューマニズムに支えられていた。画集・著作に『谷内六郎画集』(文芸春秋新社)『谷内六郎随筆』(修道社)『染色工芸』(主婦の友社)『幼な心の歌』『遠い日の絵本』『ねむの木』『旅の絵本』などがある。
続きを読む »
没年月日:1981/01/14 日本画院同人の画家根上富治は、1月14日午後6時20分、胃ガンのため東京都渋谷区の井上病院で死去した。享年86。1895(明治28)年1月5日山形県酒田市に生まれ、東京美術学校で日本画を学ぶ。師は結城素明であった。在学中の1921(大正10)年、第2回帝展に、「雨後群鶏の図」が初入選し、美術学校を卒業した22年の第4回帝展では「飼鷹」が特選を受賞、翌年から無鑑査で出品している。この後も帝展、新文展と出品を続けているが、一方、38(昭和13)年の日本画院創立に際しては、川崎小虎、望月春江、野田九浦、町田曲江らと共に創立同人として名を連ねた。また37年頃より終戦頃まで、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)で教鞭をとっている。戦後も、日展、日本画院に出品し、日展では49年の第5回展より依嘱出品となったが、ここ10年ほどは、日展・日本画院展にもほとんど出品していなかった。
続きを読む »
没年月日:1981/01/14 戦前・戦後を通じ美術評論の分野で活躍した江川和彦は、1月14日、ガン性胃潰瘍のため東京・五反田の松井病院において死去した。享年84歳であった。本名を銀蔵といい、1896(明治29)年7月6日、東京の麻布に生まれた。1920(大正9)年に早稲田大学文学部哲学科を卒業してのち、数年にして早くも美術雑誌に美術評論を発表して評論活動を始め、以後約50年の間、美術展評を中心に作家論、現代美術の紹介など毎年数多くの論考を執筆した。美術評論活動の一方で、40(昭和15)年には美術問題研究会の会員となり、戦後には49年の美術評論家組合の創立に加わり、50年の改組と51年の美術評論家クラブへの改称後も幹事として活躍した。次いで54年の美術評論家連盟の結成当初からその会員となり55年から5年間は常任委員をつとめた。さらに52年からは武蔵野美術学校の講師となり、62年武蔵野美術大学設置とともにその教授に就任した。67年に定年退職して後も晩年まで非常勤講師として教鞭をとった。常に現代美術の動向を注視し、新宿・風月堂画廊では新人紹介の企画を10年余り続け、美術雑誌に執筆した展覧会評は約480に達する。主要著述目録1926年 民族文化史雑話 美之国 1-51937年 ピカソの芸術(サルバドル・ダリ)(訳) アトリエ 14-61938年 原始ネグロ芸術の現代への関心 美之国 14-9 ローゼンベルクの美術革新論 美之国 15-171939年 デッサンの近代的発展とピサネロのデッサン みづゑ 4171940年 ギリシャ壺瓶絵画の諸要素とその発達 みづゑ 424 ポリグノートス以降のギリシャ絵画 みづゑ 4281941年 バビロニアのテラコッタ アトリエ 18-5 クラナッハの周囲 アトリエ 18-5 芸術文化の建設と美術批評の問題 アトリエ 18-61942年 芸術に於ける亜細亜的性格の一考察1 生活美術 2-111943年 同上2、3 生活美術 3-3、41949年 近代絵画の要素しての光と影 アトリエ 2731950年 海外前衛絵画の動向(アメリカ) アトリエ 277 コンスタン・ブランキュジュ アトリエ 2801951年 抽象絵画小史 アトリエ 2951952年 近代画家達の自画像 美術手帖 56 グロメールの見たニューヨーク アトリエ 3051953年 新しい空間の造型 美術手帖 79 抽象絵画は何故描くのか 萠春 2-9 近代絵画の造形要素としてのフォルム アトリエ 328 具象と抽象 アトリエ 3321956年 抽象芸術の考えと技法 アトリエ 380 抽象美術文献抄 現代の眼 441964年 現代芸術の中のオリエント1~5 三彩 175、177~1801965年 「美術新報」の足跡 本の手帖 1-71966年 ジョージ・ケペッシュの芸術論 三彩 1971975年 日本のシュルレアリスム絵画を基礎づけた戦前の動き 現代の眼 251
続きを読む »
没年月日:1981/01/13 萩焼の陶芸家坂高麗左衛門は、1月13日午後11時40分脳出血のため、山口県萩市の玉木病院で死去した。享年68。1912(大正元)年4月26日下関市に生まれ、本名は信夫。帝国美術学校(現武蔵野美術大学)を卒業したのち、48(昭和23)年に旧萩藩御用窯の宗家坂高麗左衛門家の婿養子となる。萩焼は、17世紀初頭に朝鮮の陶工李勺光、李敬兄弟によって創始されたもので、茶の湯では「一楽、二萩、三唐津」として代表的な和物茶碗のひとつに数えられる。李兄弟は松本中之倉に松本窯を開窯し、その後弟李敬が寛永2(1625)年坂高麗左衛門の和名を藩主から受けて坂家の初代高麗左衛門となったが、兄李勺光の一族が後に深川三之瀬に移り深川窯を開いたため、以後、坂家が松本窯の総都合役を踏襲するようになる。その坂家の11代高麗左衛門を58年に襲名し、また66年の第13回日本伝統工芸展に「萩焼茶碗」が初入選、その後入選を重ね71年に日本工芸会正会員となった。朝鮮の井戸茶碗ふうのものや、胎土に荒砂や礫を混入した鬼萩手など豪快でたくましい作風を得意とし、73年山口県芸術文化振興奨励賞を受賞、75年に山口県無形文化財の指定を受けた。80年には日本工芸会の理事となり、山口県支部の幹事長などもつとめた。この間、78年には、他の萩焼作家と共に中国を旅行している。主な作品は、「井戸茶碗」(75年)「魚紋花瓶」(77年)他がある。
続きを読む »
没年月日:1980/12/31 文化財保護審議会専門委員田山信郎(号方南)は、12月31日、急逝心不全のため、旅行中京都の知人宅で死去した。享年77。1903(明治36)年10月6日三重県阿山郡の万像寺住職川合松吟の長男として生まれた。21年三重県立上野中学校卒業後、上野市の田山八十吉の養嗣子となる。25年第四高等学校卒業、東京帝国大学文学部国史学科入学、28年大学卒業、29年8月文部省宗教局国宝鑑査官補となり、国宝の調査指定に従事、45年国史編修官兼国宝鑑査官、終戦後は、国立博物館調査課、文化財保護委員会美術工芸課に属し、文化財調査官(書跡部門)から主任文化財調査官をつとめ、65年定年退職するまで古文書・典籍・古写経・墨蹟等書跡関係の指定調査に力をつくした。退官後は文化財専門審議会委員、次いで文化庁の文化財保護審議会所属第一専門調査会書跡部会長、神奈川県小田原市の財団法人松永記念館館長、財団法人博物館明治村理事等をつとめた。 専門とする禪林墨蹟研究については、著書としてまとめられているが、その他陽明文庫・大東急記念文庫等をはじめとするコレクションの分類整理にあたり、執筆した解題等は少くない。また寺院関係古文書・聖教・一切経等の調査の仕事も膨大な量に及び、我国における書跡・典籍・古文書類の保存に関する功績はきわめて大きい。73年勲三等瑞宝章、80年従四位を叙せられた。主著 禅林墨蹟(聚楽社1955年)・続禅林墨蹟(聚楽社1965年)・禅林墨蹟拾遺(禅林墨蹟刊行会)
続きを読む »
没年月日:1980/12/30 日本画壇の長老で芸術院会員の堅山南風は、12月30日午後3時39分、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去した。享年93。同月24日の停電で暖房が切れ、この時ひいた風邪をこじらせたものであったが、寝込む直前まで絵筆をとっていた。南風は、1887(明治20)年9月12日父武次郎、母シゲの三男として熊本市に生まれ、本名熊次。早く父母を亡くし祖父のもとで育ち、土地の画家福島峰雲に師事、1909年上京し同郷の高橋広湖の門に入った。翌年巽画会に絵巻物「風の往来」を出品して褒状を受けるが、文展には4年連続して落選、13年の第7回文展出品作「霜月頃」はそれまでの歴史画から一転し、紫紅らが押し進めた色彩美を重んずる新感覚的画風への接近を示す作品で、大観の強い推薦により二等賞となった。しかし審査をめぐる意見の食違いから大観は文展審査員を辞し日本美術院を再興、南風もまた美術院に走り、大観を師として仰ぐ、美術院に入った当初スランプに陥り、古径や青邨・靫彦らの陰に隠れた感があったが、写生の基本に戻り次第に花鳥画に活路を見出すようになる。22年第9回院展「桃と柘榴」あたりから作品は充実の度を加え、24年には同人、以後「魚楽図連作」(26年)「夏題十趣」(27年)「銷夏帖連作」(29年)「射翠帖連作」(34年)などを発表し、気負いのない「知足安分」の画境を展開した。戦後45年、日展への参加要請を日本美術院が受諾したこともあり、46年より審査員を度々つとめ55年に参事となっている。戦後の南風芸術を特色づけるものは肖像画であり、54年第39回院展「O氏像」を皮切りに、「武者小路先生」(55年)「横山大観先生」(57年)「静子夫人」(60年)「K先生」(64年)「新涼の客」(69年)など、純粋素朴な南風の人柄そのままに、明るい色彩と大らかな画風の作品を描いた。またこの間、64年より3年をかけて日光東照宮本地堂の天井画「鳴竜」(狩野安信筆、36年焼失)を復元している。米寿の75年にはタヒチへ写生旅行をして色彩は一層鮮明になり、最期まで若々しさを失わなかった。58年芸術院会員、63年文化功労者、68年文化勲章を受章、69年には熊本市名誉市民となっている年譜1887 9月 12日、熊本市で、父武次郎、母シゲの3男として生まれる。本名熊次。1888 8月 1日、母シゲ落雷のため不慮の死をとげる。享年27。1893 5月 21日、父武次郎病没。享年40。以後祖父に養育される。1894 4月、熊本市立壷川小学校に入学する。1898 3月、壷川小学校を卒業、4月、高木高等小学校に入学する。高等小学校では、自由画に才能を発揮、1年の時写生した「ざくろ」が図画教師に激賞される。1900 この頃「鯉の画人」として有名な地元の雲林院蘇山の絵に傾倒する。1903 熊本市物産館で開催された橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら20数人出品の日本美術院巡回展を見、朦朧派の新しい画風に心酔する。1904 破産し、代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓する。9月、祖父武八没、享年82。1905 この頃、月に1、2度、図書館へ行き、『日本美術』『国華』などの木版印刷の口絵を模写したり、梶田半古、鏑木清方の挿絵を写す。1906 この頃より地元杉谷雪樵系の画家福島峰雲に師事する。1909 5月 3日、同郷の先輩山中神風に連れられて上京。車中で『十八史略・尭舜篇』の「南風之詩」より「南風」の号を自ら選ぶ。神風の紹介で、熊本山鹿出身の歴史画家高橋広湖の門に入る。秋、「燈火」を第三回文展に初出品するが落選。1910 3月 第11回巽画会に「往来」を出品し三等褒賞を受ける。秋、第4回文展に源義家の故事を題材にした「義家観飛雁行」(現在は「飛雁行を見る」と改題)を出品、落選する。1911 生活の窮状を見かねた師広湖が、『報知新聞』連載小説「徳川栄華物語」の挿絵を代筆させ、月30円の手当てを与える。巽画会に甲冑棚を題材にした「弓矢神」を出品して三等銅牌を受賞する。秋、「七媛」第5回文展に出品したが落選。1912 6月 2日、師高橋広湖急逝。巽画会出品の「路辺」一等褒状を受賞。第6回文展に六曲半双の「木曾義仲」を出品したが、落選する。1913 スランプに陥り、巽画会に出品の「遅日」が二等褒賞になったほか、勧業展、日本画会展と落選する。「霜月頃」が第7回文展に初入選、最高の二等賞となり、横山大観の激賞を受ける。「霜月頃」は旧藩主細川護立侯に買い上げられ、以後、細川侯の庇護を受ける。1914 横山大観に師事。夏、熊本に帰省。日本美術院が再興されると文展出品をやめ、「日和つづき」を第1回院展に出品、入選する。1915 3月、佐藤光(のち、三栄と改名)と結婚。第2回院展に労働者の群像を描いた「作業」を出品し、入選したが、大観から「題材の品が悪い」と叱られる。1916 11月 25日、沈滞ぎみの画境を打開するため、荒井寛方のインド旅行に便乗して海路カルカッタに向かう。約2カ月間、市内や郊外に出かけ、風景、人物のほか、博物館の仏像を写生する。1917 2月、ブッタガヤ、デリーを旅し、高原の都市シムラ、ダージリンでヒマラヤ連峯やその周辺の写生をする。帰途ボンベイに立ち寄り、エレファンタ石窟の仏教彫刻に感銘、15日間写生に費やす。4月、帰国。9月、第4回院展に、インドでの印象を八曲屏風に描いた「熱国の夕べ」を出品したが、赤や緑の強い色彩を使ったため、「南風、色盲となる」と酷評される。1918 この頃より健康をそこね、極度のスランプに陥る。1919 9月、第6回院展に出品した「ダリヤ」が落選。1920 健康恢復と気分転換を図るため、弓道を始める。この頃より花鳥画の制作のため東京近郊、山梨あたりまで写生族行する。1921 雪中の美人を描いた六曲一双屏風「雪の朝」を制作。10月、織田観潮、鴨下晃湖らと絵画研究会翡翠会を結成する。1922 第9回院展に3年振りに出品した2曲1双の「桃と柘榴」が横山大観に好評され、スランプから脱却し始める。1923 第10回院展に2曲1双の「粟と浦島草」を出品。9月 1日、院展開催日に大震災起こる。1924 3月、日本美術院同人に推挙される。9月 第11回院展に「霜旦」「残照」の双幅を出品。1925 春、帰郷する。第12回院展「梅花遊禽」(6曲1双)。この年、「大震災絵巻」3巻を制作。1926 東京府美術院評議員に任命される。5月、聖徳太子記念奉讃美術展に「讃春舞」を出品。第13回院展に5連作「魚楽図」を出品。12月、巣鴨より小石川区の細川邸の一画に移転する。1927 6月、東京会名家新作展に「淵」を出品。第14回院展に「驟雨」「日ざかり」など夏の風物10種を装飾的、写実的にとり上げた「夏題10趣」を制作する。この頃から民謡踊りに熱中し、写生を兼ねて日本各地を民謡を求めて歩く。1928 3月、第13回美術院試作展に「暮雪」を出品。夏 熊本に帰郷し、兄文八の借金返済のため画会を行う。第15回院展に「暁露」「微風」の双幅を出品する。1929 3月、第14回美術院試作展に「浅春」「水温」「晴嵐」を出品。9月 第16回院展に「巣籠」「朝顔」「細雨」「日明」「秋草」の5連作の「銷夏帖」を出品。秋、横山大観の推薦で、新築した日光東照宮朝陽閣の障壁画揮毫のため、中村岳陵、荒井寛方と日光へ行き、12月30日まで滞在して制作する。1930 3月、第2回聖徳太子記念奉讃美術展に「鱗光閃々」を出品。4月、ローマ日本美術展に「水温」「朝顔」「巣籠」の3点が選ばれ、出品される。1931 第18回院展「争魚」。『美術新論』 10月号に「苦難時代を語る」を執筆。10月中旬、病気保養のため長岡市に赴く。1932 3月 東京・日本橋三越の満州派遣軍慰問展に「うごひ」を出品。3月、第16回美術院試作展に「うごひ」「けし」を出品。第19回院展に「あげ汐」「日午」を出品。1933 第20回院展に「花繚乱」を出品。4月、第6回茨城美術展に「雨後」を賛助出品する。10月、院同人新作画展に「上げ汐」を出品。12月、皇太子誕生を祝して美術院同人一同謹作の画帳を制作、翌9年2月22日、画帳『旭光帖』乾・坤二帳を献上する。1934 2月、美術院同人新作展に「淵」を出品。3月、第18回美術院試作展に「雨霽」「麗」の2点を出品。第21回院展に、小動物、小魚、鳥を水墨、淡彩、設色の様式で10点連作形式にまとめた「射翠帖」を出品。9月中旬より一週間、福島地方へ写生旅行をする。1935 3月、東京府美術館10周年記念現代総合美術展に「鱗光閃々」が選ばれ、展示される。第19回美術院試作展に「日午」を出品。9月、帝展の西沢笛畝、松本姿水、院展の酒井三良の4名で研究会「伸々会」を結成する。1936 2月、新帝展に「ぼら網」を出品、李王家買い上げとなる。第23回院展「白雨」。10月、府下砧に転居。同月中旬、越後湯沢より秘境清津峡谷へ写生旅行をする。この頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入る。1937 9月、第24回院展「朔風」出品。大観の激賞を受く。1938 3月、東京の広島晃甫、奥村土牛ら、京都側より小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉と丼丼会を結成、第1回展に「白雨」「斜陽」「水温む」の3点を出品。9月、第2回文展審査員。第25回院展に「残照」(六曲一双)を出品。10月、第2回文展に「雨後」を出品。1939 1月中旬より胃腸病の療養のため、甲府市外の油村温泉で10日間滞在する。2月、「惜春」を制作する。9月、第26回院展に「千里壮心」(六曲一双)。1940 4月、前年度院展出品作「千里壮心」が福岡日々新聞社が紀元2600年を記念して創設した第1回西日本文化賞に選ばれる。春、『現代名家自選素描第三輯堅山南風魚類篇』(芸艸堂)刊行。7月、はじめての個展を開催(東京佐藤梅軒画廊)。主宰する南風塾を翠風塾と改称する。この年、『堅山南風』(美術春秋社)が刊行される。1941 9月、国際文化振興会主催の仏印巡回日本画展内示会(日本橋三越)に「泉水」が展示される。9月、第28回院展に「新涼」(六曲一双)を出品。1942 2月、美術院同人軍用機献納作品展に「爛漫」を出品する。日本画家報国会軍用機献納作品展に「春瀬」を出品する。1943 1月、全日本画家献納画展に「薫風」を出品。1944 6月、千葉県安房郡清澄寺の杉戸十面に揮毫する。11月、文部省戦時特別美術展に「赤絵皿の鯉」を出品。1945 6月、横山大観と一緒に山梨県山中湖畔に疎開する。9月 帰郷。11月、美術院小品展に「栗」を出品。帝国芸術院より文部省の主催する日本美術展への参加要請を日本美術院が受諾する。1946 3月、文部省主催第1回日展に「薫風颯々」を出品。9月、第31回院展に「八朔」を出品。10月、第2回日展に「潮」を出品。審査員。1947 第32回院展に「朝凪」「片影」「淙流」の3点を出品する。第3回日展「犬」、審査員。この頃より聴力衰え、補聴器を使用する。1948 第33回院展に「新涼」を出品。1949 第34回院展3点連作「蔬果図」を出品する。1950 6月、第6回日展審査員。秋の第35回院展に「新涼雅品」を出品。1951 5都連合新作展第1回展に「祝い日」を出品する。日展運営会参事、第7回日展審査員となる。第36回院展に「白雨」出品。外務省より外国公館装飾用の日本画の依頼を受け、「曙色」を制作する。1952 3月、「白雨」が文部省買い上げ美術品となる。第8回日展に「新涼」を出品。1953 外務省は4月の皇太子殿下のイギリス女王戴冠式列席を期して、欧米各国大使館の装飾用として30数点の日本画を配置したが、「曙色」はサンフランシスコ総領事館に掲額される。6月、創刊された日本画美術誌『萠春』に「大観、玉堂先生の近業」を執筆する。第38回院展に「向日葵」「睡蓮」の2点を出品。第9回日展に「燦日」を出品。審査員。1954 7月、奥村土牛、酒井三良らと箱根に旅行する。9月、第39回院展に「O氏像」(モデル奥村土牛)出品。第10回日展に水墨淡彩の「雨霽」を出品。11月、三越50周年記念東西大家日本画展に「春流」を出品する。1955 3月、日本美術院創立60周年記念日本美術院回顧展に「霜月の頃」「白雨」が展示される。横山大観企画の水墨小品展玄皎会第1回展に「晴暉」「暁色」の2点を出品する。第40回院展に「M先生」出品(モデル武者小路実篤)。第11回日展に、参事として「花更紗」を出品。1956 3月、堅山南風、郷倉千靭門の合同塾展旦生会が結成され、その第1回展に「青麦」を賛助出品する。第41回院展に「虹鱒」「鯉」の2点を出品。第12回日展「朝暉」(昭和50年「日午」と改題)を出品。審査員。この年、熊本県文化功労者に推挙される。1957 春の美術院小品展にスケッチ2点「養魚池」「浅間晴日」を出品。3月、堅山・郷倉合同塾展第2回旦生会展に「鳩」を賛助出品する。第42回院展に「横山大観先生」を出品する。日展参事として第13回日展に「画室にて」を出品、これが日展出品作としては最後の作品となる。1958 1月、東京・深川富岡八幡宮に「鯉」の大額を奉納する。2月 26日、横山大観没。4月、伊東深水とともに日本芸術院会員に推挙される。5月、日本美術院が財団法人組織となり監事に就任、同年理事となる。外務省・東京国立近代美術館主催のオーストラリア・ニュージーランド巡回の「日本現代美術展」に「白雨」が選ばれる。美術雑誌『造形』10月号に堅山南風特集が掲載される。1959 3月、伊東深水との二人展に「立葵」ほか2点を出品する。4月下旬、熊本に帰省の折肺炎となり、熊本大学附属病院に3ヶ月入院。1960 随想「故郷に病みて」を美術雑誌『萠春』75号に執筆する。6月、堅山南風素描展(銀座松屋)に素描60点を出品する。第45回院展に「静子夫人」(大観夫人)を出品する。1961 4月、仙台、石巻海岸にスケッチ旅行、ついで5月、房州和田浦に滞在。深水2人展に寺内萬治郎、長谷川昇を加えて交晴会と改称する。第46回院展に「凪」出品。1962 アメリカの週刊誌『タイム』の依嘱により制作した「松下幸之助像」が同誌2月23日号の表紙となる。7月、秋田県を旅行。この年、邦画会より『巨匠画家シリーズ第1輯堅山南風画集』が発刊される。第47回院展に「知秋」出品。1963 第48回院展「K先生」(モデル金山平三)と「肥後椿」を出品する。10月、文化功労者に推挙される。1964 4月、妻および養女久彩子ととも帰郷。5月、奈良、大阪方面を旅行、葛井寺(藤井寺市)の国宝千手観音像をスケッチし、第49回院展に「慈眼」と題して出品。東京国立近代美術館に「応接間の人」「K先生」を寄贈する。勲三等旭日中綬章を受ける。11月、先年焼失した日光輪王寺本地堂の天井画「鳴龍」の復元依頼を受ける。1965 4月から6月にかけて京都、奈良の寺社にある龍の絵を見学、11月末、下絵完成する。1966 4月 3日、「鳴龍」の本描きを始め、7月27日完成。12月、東京浅草待乳山聖天本龍院から依嘱の本堂天井画、内陣の大杉戸「朝暾」「夕月」の2面を完成する。この年、難波専太郎著『堅山南風』が美術探求社より刊行される。1967 11月、中禅寺(立木観音)五大堂外陣の大天井画「瑞龍」が完成する。この年、熊本市民開館緞帳の下絵を制作。1968 11月 文化勲章を受章する。1969 1月 11日付『東京新聞』夕刊に「横山大観先生と私」を執筆する。第54回院展に「新涼の客」(モデル同郷の俳人中村汀女)を出品する。この年、熊本名誉市民となる。6月、奥日光、金精神社本殿の天井画「龍」を制作する。7月、日光中禅寺五大堂の杉戸絵「牡丹」「唐獅子」四面を完成する。1970 『鳴龍完成記念図録』を大塚巧芸社より自費出版する。第55回院展に「雅日」出品。1971 2月、盲腸炎の手術をし、2週間入院する。9月、第56回院展に「更紗の中から」「小坂氏の肖像」の2点を出品する。9月、菊地芳一郎著『堅山南風』(時の美術社)が出版される。10月 9日、妻三栄、脳血栓のため死去。1972 9月、静岡県韮山町に山荘を求める。第57回院展に「黄昏」を出品する。この年、熊本市蘇峰記念館のため、「徳富先生」を制作する。1973 1月、日本画の系譜-先生と弟子展に新作「古代壷の花」を出品する。4月、韮山町の山荘手狭のため、静岡県田方郡に山荘を建築する。以後当地に滞在することが多くなる。第58回院展に「野に呼ぶ」出品。1974 佐賀県基山町中山真語正宗滝光徳寺より依頼の「弘法大師像」「教祖像」の2点を完成する。春、飛騨高山、下呂温泉に旅行。第59回院展に「春の雪」を出品する。1975 3月、米寿を記念して松尾敏男とともにタヒチへスケッチ旅行をする。5月~6月、米寿記念堅山南風花・富士展を東京、大阪の両高島屋で開催し、「日本の春」など13点を出品する。第60回院展に「ボラボラ島にて」「椰子と踊り子」を出品。10月、熊本で堅山南風米寿記念展が開催され、「霜月頃」以下50点が出品される。1976 4月、銀座北辰画廊でタヒチの風物を描いたタヒチの旅から-堅山南風近作展を開催し、「薄暮」など11点の絵と30数点のスケッチを出品する。第61回院展に「夕べの唄」を出品。1977 前年暮れより正月にかけて沖縄に旅行する。第32回春の院展に「装える人」を出品する。9月、川崎市川崎大師平間寺より依嘱されていた「龍」が完成。10月、村瀬雅夫著『庶民の画家 南風』が南風記念館から発行される。1978 1月 4日より『読売新聞』紙上に自伝抄「思い出のままに」を連載。3月、日本放送出版協会より『現代日本画家素描集4 堅山南風インド・タヒチの旅から』が出版される。同月、日本橋高島屋で素描集出版記念堅山南風素描展が開催され、インド・タヒチのスケッチ60数点が展示される。6月、神奈川葉山町の横浜孝道教団本仏殿の大壁画、「大雪山施身聞法」「永劫の光」「聖晨」「聖苑追慕」「歓喜のとき」天井画「瑞気一天」の6点が完成する。10月より11月にかけて、東京、大阪、熊本で、堅山南風自選展を開催。11月、日本放送出版協会より『堅山南風素描「花」』を出版する。1979 3月、第34回春の院展に「花瓶と花」を出品する。6月、朝日新聞社より『堅山南風画集』が刊行される。(『堅山南風画集』朝日新聞社 昭和54年 所載年譜参照)
続きを読む »