本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1982/02/24 サロン・ナシオナール・デ・ボザール審査員、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダン会員の洋画家岩田栄吉は、81年9月パリで肺ガン手術を受けた帰国後、療養していたが、2月24日午後5時20分川崎市立井田病院で死去した。享年53。1929(昭和4)年1月27日東京市大森町に生まれる。慶應義塾普通部に入学し中学時代から示現会会員中村新次郎に素描を学び、画家を志す。しかし、父親の意を汲み、慶應大学工学部電気工学科へ進み、51年同科を卒業する。大学在学中も画業は捨てず、寺田春弌、久保守に油絵を学ぶ。51年慶應大学を卒業した年、東京芸術大学油画科に入学、1-2年は小磯良平、3-4年は山口薫、伊藤廉に師事。55年同科を首席で卒業する。卒業制作「ナルシス」はサロン・デ・プランタン賞を受賞。57年同校専攻科伊藤廉教室を修了し、同校油画科副手となる。同年9月、芸大入学と同時に通学し始めたアテネ・フランセを修了し、フランス政府給費留学生として渡仏する。フランスではパリ国立美術学校スーヴェルビー教室に学び、59年同校を修了する。その間エコール・デ・ルーブルにも通う。渡仏後数年間は風景画を描いていたが、60年「グランマニエールの静物」を描いて以後、静物画に転ず。62年サロン・ナシオナル会員となり、63年以降はサロン・コンパレゾン、サロン・テール・ラティーヌに招待出品する。また、この頃よりフランス人画家アンリ・カディウとの親交を通じてパントル・ド・ラ・レアリテのグループに入り、トロンプ・ルイユの方向へ歩み出す。65年サロン・アンデパンダン会員となり、69年サロン・ナシオナルでドロワ賞、75年同ファルマン賞を受賞。日本においては、70年日本橋三越で個展、70、71年国際形象展、71年安井賞候補展、大橋記念展、76年大橋賞展に出品し、77年セントラル絵画館で第2回個展を開く。73年東京芸術大学油画科、創形美術学校で講師をつとめる。芸大在学中から岡鹿之助を尊敬し、渡仏後親交を結び、また、フェルメールの作風に影響されるところが大きい。代表作に「十字架の人形」(1966)、「赤いジャケットの人形」(1968)、「ローソクと地球儀」(1976)がある。
続きを読む »
没年月日:1982/02/24 大調和会創立運営委員の洋画家水谷淳は2月24日午前7時37分、胆管炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年61。茨城県行方郡に1920(大正9)年11月17日に生まれ、工学院大学卒業後、44(昭和19)年、里見勝蔵、武者小路実篤に師事する。61年には、1927(昭和2)年11月に高村光太郎、武者小路実篤らによって設立され翌年10月の第2回展を最後に解散した大調和会を再興すべく創立委員となった。再興大調和会第1回展は翌1962年2月上野公園都美術館において開かれ現在に至っている。66-67年単身ヨーロッパへ写生のため自動車旅行。69年富士短期大学美術部顧問を務めた。71年には群馬県六合村小倉にアトリエを構え制作に没頭し、画風に一転機を画した。73年渡欧、又75-76年香港で制作し、海外の展覧会にも出品している。78年には和光ギャラリーにおいて「画業35年展」が開催された。翌79年、水上勉著作になる新聞小説『椎の木の暦』の挿絵を担当、原画展は81年小田急新宿店に於て開かれた。黒の輪郭線と厚く塗り重ねた原色による明るく輝くような画面には、フォーヴィズム及びルオーを日本に紹介した師里見勝蔵の影響がうかがえる。
続きを読む »
没年月日:1982/02/13 名古屋芸術大学教授のデザイン家畑正夫は、2月13日午前4時20分、急性胆道炎のため東京都新宿区の東京女子医大病院で死去した。享年68。1914(大正3)年1月30日、東京都文京区に生まれ、36年東京美術学校工芸科鋳金部を卒業する。37年8月より商工省工芸指導所(工業技術院製品科学研究所)に勤務。60年より多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造型大学の講師を歴任し、79年4月名古屋芸術大学美術学部デザイン科教授となる。また、60年10月より日本クラフトデザイン協会理事長をつとめる。電々公社によって制定された電話器のデザインなどを手がけ、65年より73年まで日本工業新聞の「今週のデザイン」「デザイン・コーナー」に執筆している。
続きを読む »
没年月日:1982/02/11 行動美術協会会員、武蔵野美術大学教授の洋画家佐藤真一は、2月11日午後3時30分、肺ガンのため、東京都狛江市の慈恵医大付属病院で死去した。享年67。1915(大正4)年12月8日、愛知県瀬戸市に生まれ、40(昭和15)年3月、京都大学経済学部を卒業する。京大在学中、美術部に属し、須田国太郎の指導を受け、37年第24回二科展に「黒衣坐像」で初入選する。同展には40年第27回展まで出品し、後、応召。終戦後、47年第2回展より行動美術協会に参加し、翌48年、同会会友に推挙され、52年、同会会員となる。57年渡仏し、パリを中心として1年あまり滞在する。帰国後、人物を主要モチーフとし、垂直、水平に物を配置する従来の構図をさらに充実させ、人間味あふれる作品を描いて画壇における位置を確かなものとする。74年4月より死去するまで武蔵野美術大学教授として教鞭をとる。76年9月、不慮の交通事故にあい、約2年間、制作活動の中断を余儀なくされ、78年ころから後遺症に苦しみながら制作を再開する。「男たち」(54年)、「浜」(56年第11回行動展出品)など、働き、生きることを見つめ、安定した構図と堅牢なマチエールを持つ作風を示す。
続きを読む »
没年月日:1982/02/09 文化勲章受章者で、昭和23年以来30年間日本芸術院長をつとめた経済学者高橋誠一郎は、2月9日肺炎のため東京都新宿区の慶応病院で死去した。享年97。芸術への造詣が深く、とくに浮世絵の個人コレクターとしては第一人者であり、浮世絵研究家でもあった高橋は、明治17(1884)年5月9日新潟の廻船問屋の一人息子として生まれた。横浜での少年時代から、すでに絵草紙屋で清親や芳年の錦絵を見とれていたという。同41年慶応義塾大学政治科を卒業、英国留学後、大正3年母校の理財科教授に就任、経済学部長などを経て、昭和19年名誉教授となった。戦後間もなく、慶応義塾長事務取扱いとして難局を処理したのち、同22年の第一次吉田内閣の文相に就任、戦後教育の骨格づくりに尽力した。その後、東京国立博物館長(同23-25年)、日本芸術院長(同23-54年)、文化財保護委員会委員長(同25-31年)、映倫管理委員長(同32-53年)、国立劇場会長(同41-52年)など文化・学術面の要職を歴任、また、同37年から没年まで日本浮世絵協会会長もつとめる。同37年文化功労者に選ばれ、同48年勲一等旭日大綬章を受章、同54年には文化勲章を受けた。この間、情熱を注いで収集した浮世絵は、写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」、北斎の「凱風快晴」、歌麿の「高島おひさ」など多くの逸品を含む総計六千三百余点にのぼり、これらは一括して没後慶応大学図書館へ入った。『浮世絵講話』(昭和23)、『浮世絵と経済学』『新修浮世絵二百五十年』(同35)、『浮世絵随想』(同41)などの浮世絵に関する著述があり、また、同50年から52年にかけて、『高橋誠一郎コレクション・浮世絵』(全七巻)を刊行した。
続きを読む »
没年月日:1982/02/07 石橋美術館長、元九州芸術工科大学教授、国際美術評論家連盟会員の美術史家、美術評論家の岸田勉は、2月7日心不全のため福岡県久留米市の自宅で死去した。享年66。大正4(1915)年3月5日久留米市に生まれ、昭和14年九州帝国大学法文学部法科を卒業、同16年同学部文科を卒業する。福岡師範学校教授、佐賀大学教授、九州芸術工科大学教授を歴任し、同53年から石橋美術館館長に就任する。東洋美術史研究から出発し、「李公麟論考」(同30年)、「米元章論」「五代に於ける庶民画の性格とその意義」(同32年)、「田能村竹田の人間的性格」などの論文の他、同37年には文部省在外研究員として欧米に出張し、報告書「ボストン美術館蒐集の日本絵画調査報告」をまとめた。また、はやくから美術評論も手がけ、戦後間もない同20年11月に自ら発起人となり坂本繁二郎を委員長に西部美術協会を創立、翌年春には美術雑誌「西部美術」を創刊、積極的な評論活動を展開した。郷里出身の青木繁、坂本繁二郎をはじめ、日本近代作家研究でも知られ、著書『坂本繁二郎』(昭和49年)などがある。
続きを読む »
没年月日:1982/02/01 古美術研究家、評論家の料治熊太は、2月1日脳血栓のため東京都新宿区の河井病院で死去した。享年82。明治32(1899)年7月10日岡山県都窪郡に生まれ、関西中学卒業後大正8年上京、国学院大学で折口信夫の講義を受講、翌年雑誌記者として研究社に入社し、関東大震災後は博文館の雑誌「太陽」の編集に携わる。昭和3年、博文館退社後著述活動に入り、また、この頃会津八一の門下となり古美術の研究に専念する。同4年から16年まで、版画雑誌「白と黒」、「版芸術」などを手がけ、棟方志功、前川千帆、谷中安規らと親交を深める。戦後は古美術の評論に専念、「茶わん」等の諸雑誌に執筆する。また、民俗雑器の収集家としても知られる。著書に『会津八一の墨戯』『日本の土俗面』『古陶の美』『そば猪口』などがある。
続きを読む »
没年月日:1982/01/30 日本水彩画会会員、パリ、ル・サロン無鑑査の水彩画家三浦巖は、1月30日午後6時、食道ガンのため東京都港区三田の済生会中央病院で死去した。享年65。1917(大正6)年大阪市に生まれ、弘前中学校、第三高等学校を経て、41(昭和16)年、東京大学文学部東洋史学科を卒業。同年同大学院へ進学した。大学院在学中の42年より本郷絵画研究所に学び、49年第37回日本水彩展においてみずゑ賞を受賞し、日本水彩画会会員となった。51-54(昭和26-29)年同会委員を務め、64(昭和39)年渡仏、一年間パリに滞在する。70(昭和45)年「薬師寺の塔」がル・サロンで銀賞を受け、翌71年「パリ風景」が金賞を受賞、以後無鑑査となる。主に風景をモチーフとし、日仏両国で活躍。また、63(昭和38)年以降、文筆にも親しみ、画文集『絵になる時』(63年、七曜社)『大空画室』(68年、美術出版社)『白日夢』(私家版)を著し、77(昭和52)年には『東大石版画集』を刊行、また、技法書として『水彩画法十二ケ月』(80年、渓水社)を出版している。
続きを読む »
没年月日:1982/01/25 元東京国立文化財研究所美術部第一研究室長、元神奈川大学教授の日本書道史研究家伊東卓治は、1月25日急性肺炎のため千葉市の柏戸病院で死去した。享年80。従来、愛好者の恣意的鑑賞にまかせられ、かつ、美術史研究上閑却され勝ちな書道史研究の開拓に多大な学問的貢献をなした伊東は、明治34(1901)年11月12日静岡県浜松市に生まれ、静岡県立浜北中学、第一高等学校を経て、昭和3(1928)年京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業した。引き続き同大学大学院へ進むが、同9年中退し、同年帝室博物館研究員となり東京帝室博物館美術課に所属、同13年帝室博物館鑑査官補、同16年同鑑査官に任じられたが同年退官。同17年中華民国国立北京大学文学院副教授に就任、翌年同教授となる。戦後は同21年帝室博物館へ復帰し、翌同22年から附属美術研究所に勤務、同37年東京国立文化財研究所美術部第一研究室長となった。同38年退官後は、同40年から同50年まで神奈川大学教授として教鞭をとる。この間、永年にわたって、書道史の学術的方法による研究に力を注ぎ、漢字書道の部門において「過去現在因果経絵巻」研究で、従来閑却されていた書の面の性格を明らかにし、また、それまで書道史の材料が美術的制作の観察に傾いていた弊を是正し、紙背文書として存する仮名消息に注目し考察した。さらに、日本書道史の重要遺品の一つである墨蹟について禅僧の書の綜合的観察を試みるとともに、戦後復活された光学的方法による古美術の研究で、書道作品を担当し、技法・筆法の特殊性解明に新機軸を出した。特に、東京国立文化財研究所において京都の醍醐寺五重塔の綜合研究を行った際、創建当初の落書が発見され、これの国語史、文学史上の価値を明らかにし、同塔の文化史的意義の考察に資した功績は大きい。この研究は『醍醐寺五重塔の壁画』と題して刊行され、共同研究者の一人として昭和35年日本学士院恩賜賞を受けた。また、同47年には、勲三等瑞宝章を受章する。
続きを読む »
没年月日:1982/01/16 東京芸術大学名誉教授、文化財保護審議会専門委員、前田泰次は、1月16日午前10時45分急性心不全のため、東京都大田区の自宅で死去した。享年68。1913(大正2)年9月21日東京に、父鋳金家田中後次の次男として生まれ、母方の家を嗣いで前田姓となる。東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科を卒業し、1936(昭和11)年帝室博物館(現東京国立博物館)研究員として勤務し、1938(昭和13)年には大阪市立美術館学芸員として転じ、1944(昭和19)年には東京美術学校助教授となる。ついで同校に併設されていた工芸講習所講師を兼任する。大戦後の学制改革に伴い東京芸術大学に改制され、1949(昭和24)年同大学美術学部助教授となり、1959(昭34)年同教授となる。大学では日本金工史、東洋工芸史、工芸論を講義する。その後同大学附属図書館長、同資料館長、および同大学評議員を併任する。1981(昭和56)年定年退官し名誉教授となる。この間に美術史学会々員、美学会々員、美術評論家連盟会員として活躍し、さらに、日本工芸会の特別会員として、伝統工芸展の審査員をつとめる。文化財保護審議会第1専門調査会工芸品部会、第4専門調査会工芸技術部会の専門委員となり、重要文化財の指定、ならびに工芸技術関係の重要無形文化財の指定ならびに保持者および保持団体の認定や記録作成、また選定保存技術の選定ならびに保持者、保持団体の認定などに力をつくした。さらに通産省の伝統的工芸品産業審議会専門委員、東京都文化財保護委員となり主として工芸品関係の調査保護に関係し、また現代工芸の評論にも活躍した。 主著 日本の工芸(大八州出版 1944)、工芸概論(東京堂 1955)明治の工芸(洋々社 共著1956)、金工・日本美術大系第9巻(講談社 共著1961)、金工・日本の工芸第3巻(淡交社 共著1966)、近代の工芸・原色日本の美術第28巻(小学館 1972)校註工芸志料(平凡社 1974)大仏と大仏殿(岩波書店 1974)現代の工芸(岩波書店 1975)工芸とデザイン(芸艸堂 1978)茶釜の旅(芸艸堂 1979)。
続きを読む »
没年月日:1981/12/26 絵本作家中谷千代子は、12月26日午後9時49分、心不全のため東京都豊島区の癌研究会付属病院で死去した。享年51。1930(昭和5)年1月16日東京高樹町に生まれ、47年東京美術学校に入学して梅原龍三郎等に学ぶ。52年同校油彩科を卒業し、その後グループ展(MY NAK)・国展等に油絵を出品したが、57年頃より絵本の仕事に興味を持ち、研究を始めた。60年初めての絵本「ジオジオのかんむり」を出版し、62年に出版した「かばくん」は翌年サンケイ児童出版文化賞大賞を受賞する。63年より1年間フランスに滞在し、ボナールやアンリ・ルソーの絵に感銘を受けるとともに、フランスの絵本編集者ポール・フォーシェ、スイスのベッティナ・ヒューリマンらと出会ったことが、絵本作家としての道を進む大きな自信となった。65年の「まいごのちろ」「かばくんのふね」は第14回小学館絵画賞を受賞し、66年に出版した「スガンさんのやぎ」は翌年アメリカでも出版され、シカゴトリビューン・ワシントンポスト紙主催の児童図書フェスティバルで最優秀作品に選ばれるなど、動物を主人公とした作品は海外でも知られた。その後も、「まちのねずみといなかのねずみ」(69年、第1回講談社出版文化賞)、「かえってきたきつね」(74年、第21回サンケイ児童出版文化賞大賞)、「かめさんのさんぽ」(79年、第26回サンケイ児童出版文化賞推薦図書)など意欲的な作品を発表し、この間取材のため、73年フランス、76年にはパリ、ベニスを旅行している。81年には各種の童画新人賞の審査員をつとめたが、「しろきちとゆき」が最後の作品となった。
続きを読む »
没年月日:1981/12/18 日展会員の漆芸家河合秀甫(本名豊三)は、12月18日午後7時、心不全のため東京都港区南青山の自宅で死去した。享年91。1890(明治23)年7月4日東京・京橋に生まれ、幼少より父亀太郎に蒔絵技術を学ぶ一方、池上秀畝に師事し日本画を学んだ。1930年の第12回帝展に「高嶺の花文庫」が初入選し、41年の第4回新文展で「薬草文飾筥」が特選となる。戦後は、52年第8回日展より委嘱出品、54年第10回日展では審査員をつとめ、53年に会員になっている。高山植物を好んで蒔絵の題材とし、帝展初入選作をはじめ、「衣笠草蒔絵小屏風」(52年第8回日展)「水芭蕉飾筥」(53年第9回日展)など作例は多い。このほか、日本漆工芸会、日本漆芸会、日本漆工協会、全日本工芸美術家協会などの委員や監事をつとめ、73年には長年の業績を認められ、漆工功労者として表彰されている。
続きを読む »
没年月日:1981/12/14 重要無形文化財輪島塗の技術保存会会長の張間喜一(号禧一)は、12月14日午後3時15分、老衰のため石川県輪島市の自宅で死去した。享年79。1902(明治35)年4月19日石川県輪島市に生まれる。21年3月石川県立工業学校描金科を卒業後、東京美術学校に入学し、26年3月に同校漆工科を卒業した。同年4月から六角紫水研究所助手を半年間勤め、その後石川県商工技手工業試験場に勤務、28(昭和3)年からは石川県立工業学校で教鞭をとった。37年の第1回新文展では「漆器花薊化粧筥」が初入選し、42年第5回新文展では「鷺漆器衝立」が特選となっている。戦後46年から静岡県立工業試験場々長を勤めたが、55年輪島漆器研究所顧問となり、69年同研究所々長となった。翌70年には長年にわたる漆工芸啓蒙指導と後継者の育成を認められ、日本漆工協会から表彰を受けている。76年勲五等双光旭日章を受章。翌77年から重要無形文化財輪島塗技術保存会の会長をつとめたいた。代表作は上記新文展特選受賞作。
続きを読む »
没年月日:1981/12/09 春陽会会員、元京都市立美術大学教授の洋画家川端弥之助は、12月9日肺炎のため京都市左京区の自宅で死去した。享年88。1893(明治26)年12月5日京都市に生まれ、京都府立第一中学校を経て1918(大正7)年慶応義塾大学法律科を卒業する。20年第7回二科展に「桃」が初入選、22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシに入学、シャルル・ゲランに師事し、24年サロン・ドートンヌに入選する。翌25年帰国し同年の第3回春陽会展に「エフエル塔」等滞欧作3点を出品、以後同展に出品を続け32年第10回展に「御陵道」等3点を出品し春陽会賞を受賞、35年春陽会会友となり、37年同会員に推挙される。また、40年の紀元二千六百年奉祝美術展に「琉球ヤンバル船」を出品する。49年京都市立美術専門学校教授に就任、翌年新制大学令により京都市立美術大学となり助教授、56年教授となり、63年定年退官するまで後進の指導にあたった。71年嵯峨美術短期大学教授に就任、79年まで在職する。この間、72年に第1回京都府美術工芸功労賞を、翌73年京都市文化功労賞をそれぞれ受賞した。春陽会展への出品作に、「陽春」(13回)「店頭」(15回)「天主堂」(29回)「疎水」(35回)「坂道」(40回)「白い家」(43回)「木曾御岳」(46回)などがある。
続きを読む »
没年月日:1981/12/06 日展会員の日本画家中野蒼穹(本名二郎)は、12月6日午後1時15分、心筋コウソクのため浦和市の自宅で死去した。享年56。1926(大正15)年3月16日福島県原町市に生まれ、45(昭和20)年日本美術学校を卒業し、中村岳陵に師事する。50年の第6回日展に「小駅風景」が初入選し、以後毎回入選、56年第12回日展で「たそがれ」が特選・白寿賞を受賞し、翌年無鑑査となる。60年第3回新日展で「山野根風景」が再び特選・白寿賞を受賞し、翌年から委嘱出品、64年の第7回新日展では「残雪」で菊華賞を受賞するなど、風景画を得意としていた。70年の第2回改組日展では審査員をつとめ、翌年会員に推挙された。81年11月に福島県展功労賞等を受賞した直後の急逝であったが、その業績に対し、82年3月に紺綬褒章が授章された。主な作品としては、上記の日展各賞受賞作のほか、「翠映」(70年第2回改組日展)「山響」(81年第13回改組日展・絶筆)など。
続きを読む »
没年月日:1981/11/28 染織史研究家の川島織物顧問・文化財保護審議会専門委員太田英蔵は、11月28日心不全のため京都市北区の鞍馬口病院で死去した。享年78。1903(明治36)年2月10日京都府与謝郡に生まれ、1921(大正10)年京都市立第一工業学校機織科を卒業、同年京都西陣の川島織物所に就職し、1957(昭和32)年に川島織物取締役となる。その間、染織史の研究も行い、主として上代裂に関する意見を発表した。京都の精華短大で染織史を講じた。1953(昭和28)年に文化財専門審議会専門委員となる。1973(昭和48)年に勲四等瑞宝章を授与される。
続きを読む »
没年月日:1981/11/07 日本画家の樋口富麻呂は、11月7日午前零時25分、老衰のため京都市左京区の自宅で死去した。享年83。1898(明治31)年3月1日大阪市に生まれ、本名は秀夫。1910年頃より北野恒富に師事し、17歳の時の15(大正4)年第9回文展に「つやさん」が初入選する。その後帝展に19年の第1回から第3回まで入選し、23年(第10回院展「麻雀戯」)からは院展に出品、6回入選している。26年頃遊学のため大阪から京都に出た後、京都市立絵画専門学校に入学し、同時に西山翆嶂に師事、青甲社同人となる。35(昭和10)年に京都市立絵画専門学校選科を卒業し、中村貞以、西山英雄らと親交を結んだ。33年からは再び帝展、新文展、及び戦後は日展に出品し、54年の第10回日展から依嘱出品となっている。58年に師西山翆嶂が没し青甲社が解散した後、団体には所属せず日展のみに出品していたが、69年から院展に移り、小松均にも学んだ。庶民的な風俗を好んで描く一方、仏教美術にも関心を抱き、31年に仏跡を訪れて4ヶ月間インドを旅行(この折カルカッタ美術学校で個展開催)、56年にはインドネシアのバリ島に写生旅行している。晩年は人物や仏教に題材を求めた作品を多く手がけ、62年に高島屋で個展「みほとけ展」、79年には大西良慶・清水寺貫主をテーマに描いた個展「百寿説法展」(高島屋)などを開いている。主な作品は、「つやさん」(15年第9回帝展)「涼庭嬉戯」(26年第13回院展)「往く船」(40年紀元2600年奉祝展)「かぐや姫誕生」(55年第11回日展)「バリ島の祈り」(70年第55回院展)など。
続きを読む »
没年月日:1981/11/04 国画会会員の彫刻家桜井祐一は、11月4日、肝臓ガンのため、東京都板橋区の日本大学付属板橋病院で死去した。享年67。1914(大正3)年8月24日山形県米沢市に生まれ、24年家族と共に上京した。31年から翌年にかけて小林芳聰に彫刻の手ほどきを受け、32年平櫛田中に師事する。34年の第21回院展に木彫「乞ふ人」が初入選し、以後院展を中心として活動するが、39年の第3回文展に「男立像」が初入選しており、戦前は文展にも出品している。40年日本美術院院友となり、戦後は彫塑に転じて、46年第31回院展で日本美術院賞を、49年には日本美術院奨励賞を受賞する。更に51年第36回院展「青年」52年第37回院展「若い男」で日本美術院賞大観賞を続けて受賞し、55年同人に推挙された。61年美術院の彫刻部が解散したため、彫刻家集団S・A・Sの結成を経て、63年10月国画会に合流、彫刻部の創立メンバーとなる。この頃日本国際美術展、現代日本美術展にも出品している。65年には第1回日本現代彫刻展に「あるポーズ」を出品し宇部市賞を受賞、70年に山形美術博物館で桜井祐一展が開催された。また77年第5回長野市野外彫刻賞を受賞し、79年「レダ」により第10回中原悌二郎賞、翌80年には第1回高村光太郎賞の優秀賞を受賞するなど、戦後の具象彫刻の代表的作家ととして活躍した。代表作は「青年」(51年)「ネグリジェの女」(60年)「若い男」(61年)「あるポーズ」(65年)「レダ」(79年)など。略年譜1914 山形県米沢市に生まれる。1924 上京する。1931 小林秀聰に彫刻の手ほどきを受ける。1932 平櫛田中に師事する。1934 第21回再興院展「乞ふ人」初入選1936 第23回再興院展「壺」1938 第25回再興院展「或る男」1939 第26回再興院展「特務兵」、第3回新文展「男立像」1940 第27回院展「支那の女」院友に推挙される。紀元2600年奉祝美術展「若者」1941 第28回院展「女神像」「女の首」、第3回文展「女立像」1942 第29回院展「梳る」1943 第30回院展「菊子像」「濱の女」1946 第31回院展、日本美術院賞1947 第2回美術院小品展「小児坐像」、第32回院展「祐吉像」「少年」1948 第3回美術院小品展「良寛」、第33回院展「支那服の乙女」「山下義廣先生」1949 第34回院展「相馬氏像」「山下義廣先生」日本美術院賞奨励賞1950 第5回美術院小品展「俳人」、第35回院展「小薗井正一氏像」「女座像」1951 第36回院展「青年」日本美術院賞大観賞1952 第7回美術院小品展「女立像」、第37回院展「若い男」日本美術院賞大観賞1953 第8回美術院小品展「亡き友の像」、第38回院展「裸婦立像」1955 第40回院展「沈む地球」同人推挙1956 第11回美術院小品展「首習作」1957 第12回美術院小品展「かがむ女」、第42回院展「怒りと悲しみと」 1958 第13回美術院小品展「女の像」、第43回院展「おんなの坐像」1959 第14回院展春季展「トルソ」、第44回院展「ネグリジェの乙女」1960 第15回院展春季展「裸婦習作」、第45回院展「ネグリジェの女」1961 日本美術院彫刻部解散、彫刻家集団S・A・Sの結成に参加。1963 国画会彫刻部創立、会員となる。第7回日本国際美術展「ネグリジェの女」1964 第38回国展「腰をかけた女」、第6回現代日本美術展「女」「炎る」1965 第39回国展「裸婦」、第1回日本現代彫刻展「あるポーズ」宇部市賞、第8回日本国際美術展「あるポーズ」、秀作美術展「女」1966 第40回国展「あるポーズ2」1967 第41回国展「あるポーズ5」1968 第42回国展「横たわる裸婦」、第8回現代日本美術展「裸婦坐像」1969 第43回国展「若い女」1970 第44回国展「はじらい」、山形美術博物館で「桜井祐一展」開催。1972 第46回国展「もの想ふ人」1973 第47回国展「やすらい」1974 第48回国展「はたちの女」1975 第49回国展「裸婦」1976 第50回国展「レダ」1977 第51回国展「若い女・淑」、第5回長野市野外彫刻賞受賞1978 第52回国展「腰かけた裸婦」1979 第53回国展「ナイテイの女」、「レダ」により第10回中原悌二郎賞受賞1980 第54回国展「金山国次郎氏像」、第1回高村光太郎賞優秀賞受賞1981 第55回国展「五月の女」
続きを読む »
没年月日:1981/10/24 “休雪白”で知られる萩焼の第一人者、人間国宝の三輪休和は、10月24日午後1時5分、老衰のため山口県萩市の河村病院で死去した。享年86。萩市名誉市民でもあった氏の葬儀は、萩市葬として萩市民会館で行われた。1895(明治28)年山口県阿武郡に旧萩藩御用窯三輪家九代雪堂の二男として生まれ、本名は邦広。1908年明倫館の流れを汲む萩中学校に入学し、優秀な成績で2年に進むが、祖父雪山の「職人に学問は要らぬ」という説得により、同校を2年で退学、以後、技術を父の九代雪堂に学び、家業に従事することになる。祖父の雪山は、維新により御用窯としての保護を離れた窯経営の苦難を乗り越えた傑物であったが、この祖父の強い勧めにより、青年期に、江戸千家流の阿部直彦について茶道を学び、また宝生流の渡辺蒿蔵に謡曲を習うなど、諸芸の修業を積んでいる。27年32歳の時、父の九代雪堂が隠居したため、三輪窯十代を継承し休雪と号した。この頃より古萩名品の鑑賞を志し、28年には益田鈍翁、三井守之助、藤原銀次郎、高橋箒庵らを訪ね、34年の大阪藤田男爵家の売立に赴くなど、名品に触れる貴重な体験をしている。42年三重県津市千歳山の川喜田半泥子宅に金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休雪の三人が集まった際「からひね会」を結成したが、これは、戦禍の激しくなる折柄、具体的な芸術活動には到らなかった。44年大阪美術倶楽部で初の個展を開催、また戦後は56年以来日本伝統工芸展に殆んど欠かさず出品し、57年には日本工芸会の正会員となっている。作陶では十代休和襲名の頃から白釉の発色について研究を重ねていたが、やがて萩焼特有の藁灰釉を工夫することで春雪のような温味のある白を完成し、55年前後より「休雪白」の名で呼ばれるようになった。ここに高麗茶碗に和風を調和させ温和な独自の作風を樹立した休和の評価が定着し、57年には「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受ける。67年隠居して休和と号し、以後個展をやめ納得のいく作陶に励む。この間、28年7月から72年8月まで克明に記された『窯日誌』は、作陶の苦心と研究をよく伝えている。67年紫綬褒章を受章、70年には重要無形文化財萩焼保持者(人間国宝)として認定され、また73年には勲四等旭日小授章を受けている。職人芸一筋に徹した生涯は、その作品と共に、多くの人々の共感と尊敬を集めていた。年譜西暦 事項1895 4月 20日、山口県阿武郡に旧萩藩御用窯三輪家9代雪堂の二男として生まれる。本名は邦廣。1908 3月 椿東小学校卒業 4月 山口県萩中学校入学1910 3月 祖父八代雪山のすすめにより萩中学校二年修了で退学し、家業に従事する。1911 2月 阿部直彦に師事して江戸千家流の茶道稽古を始め、また渡辺蒿蔵に師事して宝生流謡曲の稽古を始める。1921 2月 上海、蘇州、杭州、広州を旅行して中国陶磁を見学する。 8月 祖父八代雪山没1922 5月 小島芳子と結婚。1923 「郭子儀置物」1926 5月 「布袋置物」1927 2月 父九代雪堂隠居、三輪窯十代を継承して休雪と号す。1928 7月 「寿老人置物」 9月 古萩名品の鑑賞を志し、益田孝男爵、三井守之助男爵、藤原銀次郎翁、高橋箒庵翁を訪ねて古萩名器を鑑賞する。この頃より萩釉の藁灰による白釉の発色について研究を積む。1929 4月 「桃坊朔(東方朔)置物」 10月 「布袋置物」「玉取獅子置物」 11月 「郭子儀置物」1932 9月 休雪の作品頒布会「雅陶会」が結成される。1933 8月 「玉取獅子置物」1934 1月 朝鮮陶磁研究のため京城の李王家博物館を見学し、さらに南鮮方面を旅行する。この時加藤唐九郎と逢う。 4月 大阪藤田男爵家の売立に際し、名器研究のためその入札下見を参観する。「桃坊朔(東方朔)置物」 5月 須子伴二郎所蔵の「仁清水指」を写し焼く。 10月 商工省主催「輸出工芸品展」に「萩焼菓子器」を出品し、入選。1935 5月 「萩博覧会」に出品。 10月 名古屋・松坂屋「全国12名工作品展」に作品30点を出品。 「玉取獅子置物」「夏・冬茶碗」二個、「高彫唐草文大花瓶」 この年、東京在住の塗師能登又平より漆塗りの指導を受ける。1937 6月 大阪・阪急百貨店「萩焼名匠展」出品1938 1月 『茶の湯会記』を書き始める。 12月 古萩を中心とする年譜を作成する。1941 5月 旧藩御用達熊谷家の高麗茶碗、古萩を鑑賞する。1942 2月 津市千歳山の川喜田半泥子宅に金重陶陽、荒川豊蔵、三輪休雪の三人が集い「からひね会」を結成する。1943 1月 技術保存法指定作品山口県認定委員を命ぜられ、同月技術保存法による指定を受ける。1944 大阪美術倶楽部で初めての個展を開く。1948 3月 萩焼美術陶芸協会副会長に推戴される。 この年、芸術陶磁認定委員に任命される。1951 6月 朝日新聞社主催「現代日本陶芸展」招待出品(以後連続)。195311月 父九代雪堂(録郎)、86歳にて没1955 9月 「全日本産業工芸展」に「抹茶碗」が入選し、会長賞を受ける。 この頃よりシリコンを水止めに使い始める。1956 8月 山口県指定無形文化財萩焼保持者に認定される。 10月 「第三回日本伝統工芸展」に「平茶碗」を初出品入選する。1957 2月 山口県陶芸協会が創設され会長に推戴される。 3月 文化財保護委員会より「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受ける。 4月 東京・三越にて「三輪休雪茶陶展」開催。これを機に岸信介ら在京山口県出身名士の発起により「三輪休雪後援会」(会長岸信介)が設立される。 5月 日本工芸会正会員に推挙される。 10月 「第四回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 この年、アメリカ国際見本市に出品。1958 9月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。 10月 「第五回日本伝統工芸展」に「茶碗」「水指」入選。1959 3月 文化財保護委員会「水指」買上。 5月 国立近代美術館「現代日本の陶芸」に「水指」招待出品。 「九州山口陶磁名品展」に「茶碗」「菓子鉢」招待出品。 6月 名古屋・松坂屋「伝統工芸20展」に「茶碗」招待出品。 10月 「第6回日本伝統工芸展」に「四方鉢」入選。 山口県陶磁協会が萩焼陶芸協会に改組され会長に推戴される。1960 5月 「第9回現代日本陶芸展」に「水指」招待出品。 10月 「第七回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 11月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。 この年、スペイン国立民族博物館より「茶碗」買上。1961 2月 萩焼陶芸協会が萩焼陶芸作家協会に改組され、会長に推戴される。 4月 名古屋・松坂屋にて「休雪・節夫父子陶芸展」開催。 9月 大阪・三越にて「休雪・節夫萩焼逸品展」開催。 「第8回日本伝統工芸展」に「茶碗」2展入選。 11月 中国新聞社より中国文化賞を受ける。1962 5月 大和大神神社中山宮司により三輪神社を勧請する。 11月 東京・三越にて「三輪休雪作陶展」開催。1963 9月 「第10回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 福岡・岩田屋にて「休雪・節夫作陶展」開催。 萩市文化財審議委員を委嘱される。1964 6月 国立近代美術館「現代国際陶芸展」招待出品。 9月 「第11回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。 11月 文化功労者として山口県選奨規則により表彰される。1965 9月 「第12回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 「休雪古稀の会」が開催される。1966 1月 朝永振一郎博士ノーベル賞受賞祝賀贈呈の「花瓶」制作。 10月 「第13回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。 文化財保護委員会「茶碗」買上。1967 3月 文化財保護委員会により三輪休雪の技術記録が作成され、「茶碗」2点、「水指」1点買上。 5月 隠居して休和と号し、11代休雪を弟節夫が襲名する。 三輪神社、伊勢神宮に参拝し、「茶碗」を奉納。 7月 萩市制35周年記念「産業功労者」として表彰される。 11月 紫綬褒章を授けられる。1968 5月 「日本伝統工芸秀作展」に「茶碗」招待出品。 8月 川端康成ノーベル賞受賞祝賀贈呈の「獅子置物」制作。 9月 「第15回日本伝統工芸展」に「茶碗」2点入選。1969 1月 東京三越・陶裳会同となり「第3回陶裳会展」に「茶碗」招待出品(以後連続)。 3月 大丸・彩虹会同人となり同展に「茶碗」出品(以後連続)。 6月 大阪・高島屋「滉瀁会工芸名作展」に「茶碗」招待出品(以後連続)。 9月 「第16回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1970 4月 重要無形文化財萩焼保持者として認定される。毎日新聞社主催「人間国宝新作展」に「井戸茶碗」出品(以後連続)。 7月 「三輪休和先生作品懐古展」を萩市民館にて開催。 9月 京都国立近代美術館「現代陶芸展-ヨーロッパと日本-」に「茶碗」招待出品。 「第17回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 前立腺炎にて山口大学附属病院に入院し、11月治癒退院。1971 6月 毎日新聞社主催「第1回日本陶芸展」招待出品(以後連続)。 9月 「第18回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。 10月 京都国立近代美術館「現代陶芸展-アメリカ・カナダ・メキシコと日本-」に「茶碗」招待出品。1972 4月 大阪・高島屋にて「喜寿記念・三輪休和作陶展」開催。「休和喜寿記念作品集」を花喜多より刊行。 5月 福山・天満屋「藤原啓・三輪休和陶芸二人展」開催。 7月 萩市名誉市民に推挙される。 8月 山口県立山口博物館「三輪休和・藤原啓陶芸二人展」開催。 9月 「第19回日本伝統工芸展」に「水指」入選、文化庁買上。 10月 不眠症となり市内河村病院に入院静養し年を越す。1973 2月 退院して自宅静養する。 4月 勲四等に叙せられ旭日小綬章を授けられる。 9月 「第20回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1974 1月 迎賓館別館茶室「茶碗」買上。 10月 「第21回日本伝統工芸展」に「茶碗」入選。1975 3月 京都・高島屋「一楽二萩三唐津展」(楽吉左衛門・三輪休和・中里無庵)開催。 4月 「伝統の萩焼と高麗茶碗・古萩名品展」実行委員を委嘱される。 6月 東京・三越「現代名作工芸展」に「茶碗」招待出品。 7月 山口県立美術館(設立準備中)に「茶碗」二点寄贈。 9月 「第22回日本伝統工芸展」に「茶碗」「編笠水指」入選。 文化庁「編笠水指」買上。1976 5月 日本経済新聞社・ドレスデン国立美術館・シュベリーン国立美術館主催「日本陶磁名品展」に「白萩釉水指」出品。 9月 「第23回日本伝統工芸展」に「花入」入選。1977 4月 東京・松坂屋「人間国宝展」に「茶碗」出品。 7月 名古屋・丸栄「十和会展」出品。 10月 岡山・天満屋にて「からひね会展」が初めて開催される。1978 4月 東京・松坂屋「人間国宝展」出品。1979 5月 山口市仁保病院に入院。1981 5月 同病院を退院、帰宅。 6月 萩市河村病院に再入院。 10月 24日、老衰のため死去。 (山口県立美術館「三輪休和展」1982図録参照)
続きを読む »
没年月日:1981/10/04 二紀会評議員の洋画家山本直治は、10月4日肝臓ガンのため大阪市北区の大阪中央病院で死去した。享年77。本姓秦井。1904(明治37)年8月30日大阪市に生まれる。24(大正13)年から大阪の信濃橋研究所に入り、小出楢重、鍋井克之に指導を受ける。26年、第13回二科展に「春の雪」「造花等の静物」が初入選、以後同展へ出品を続け35(昭和10)年二科会会友となった。戦後は二紀会に所属、48年二紀会同人、68年同会員に推挙され、73年第27回二紀展に出品した「潮岬」「良夜」で鍋井賞を受賞した。76年二紀会委員、翌年同評議員に挙げられた。この間の二紀会への出品作に「夜の操車場」(7回)「夜の色」(10回)「工場街」(15回)「古き家の窓より」(23回)「夜のプロムナード」(30回)「豊饒」(35回)等がある。
続きを読む »