本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)
- 分類は、『日本美術年鑑』掲載時のものを元に、本データベース用に新たに分類したものです。
- なお『日本美術年鑑』掲載時の分類も、個々の記事中に括弧書きで掲載しました。
- 登録日と更新日が異なっている場合、更新履歴にて修正内容をご確認いただけます。誤字、脱字等、内容に関わらない修正の場合、個別の修正内容は記載しておりませんが、内容に関わる修正については、修正内容を記載しております。
- 毎年秋頃に一年分の記事を追加します。
没年月日:1985/02/24 無所属の洋画家で安井賞受賞作家有元利夫は、2月24日肝がんのため東京都文京区の日本医科大学病院で死去した。享年38。将来を大いに嘱望されながら38歳の若さで急逝した有元は、昭和21(1946)年9月23日疎開先の岡山県津山市に生まれたが、生後間もなく一家が東京都台東区の実家へ戻ったため、以後没年までのほとんどを谷中で生活した。小学校低学年の頃からゴッホに強い興味を抱いたとされ、都立駒込高等学校在学中同校で教えていた中林忠良の指導を受け東京芸術大学進学を決意する。同44年東京芸術大学美術学部デザイン科に入学、在学中の同46年ヨーロッパを旅行し、とくにイタリアでフレスコ画に接して深い感銘を受けた。この体験は帰国後、日本の古画、仏画へと目を向けさせることにもなり、また、フレスコ画と同質の質感をもとめて岩絵具を用い始めることにもなった。同48年芸大を卒業、卒業制作「私にとってのピエロ・デラ・フランチェスカ」は芸大買上げとなった。同年電通に入社しデザインの仕事に携わる側ら制作し、翌年にはみゆき画廊で二人展、同50年には同画廊で個展を開催した。翌51年大阪フォルム画廊東京店で「有元利夫展-バロック音楽によせて-」を開催、同年電通を退社し東京芸術大学非常勤講師をつとめながら画業に専念するに至った。美術団体に所属せず、明日への具象展、具象現代展等に出品したが、同55年からは彌生画廊での個展で専ら制作発表した。この間、同53年21回安井賞展に「花降る日」「古典」を出品し、この年のみの特別賞となった安井賞選考委員会賞を受賞し注目され、同56年には安井賞展に出品した「室内楽」「厳格なカノン」の前者の作品で第24回安井賞を受賞した。同58年2回美術文化振興協会賞受賞。版画、彫刻、陶芸にも独自の才能を発揮し、同53年最初の銅版画集『7つの音楽』を刊行したのをはじめ、『一千一秒物語』(同59年)に至るまで幾つかの銅版画集を出した。また、バロック音楽を愛し、自らもリコーダを吹いた。岩絵具、箔、金泥などを用いた独特の油彩技法と、素朴な画情をたたえた作風は、洋画界に新領域を拓くものとして期待されていた。画文集に『有元利夫 女神たち』(同56年)、『もうひとつの空』(同61年)がある。
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没年月日:1985/02/15 造形作家の伊藤隆康は2月15日肝がんのため東京都港区の慈恵医大附属病院で死去した。享年50。昭和9(1934)年8月31日兵庫県明石市に生まれ、同33年東京芸術大学美術学部油画科を卒業する。在学中は小磯良平教室に属し、同期に高松次郎、中西夏之、工藤哲巳らがいた。卒業後、東横百貨店宣伝部に就職、ディスプレイ・デザインの仕事に従事する側ら、制作活動を行う。当初から石膏などの素材を用いた造形作品をめざし、同34年村松画廊で初の個展を開催、同年の3回シェル美術賞展で第一席を受賞する。同36年2回パリ青年ビエンナーレ展に出品、同年のいとう画廊での個展ではじめて「無限空間」シリーズの作品を発表する。その後わが国におけるライト・アートの先駆をなした「負の球」シリーズ、さらに「同時に存在する」シリーズを展開、この間、個展の他、5回現代日本美術展(同37年)、15回読売アンデパンダン展(同38年)、現代美術の動向展(同39、42年)、現代美術の新世代展(同41)などに出品し、石膏や土管による無限空間作品やオブジェを発表する。また、同39年の秋山画廊での個展では、家庭用土管を一週間展示した。同44年、国際サイテック・アート展「エレクトロマジカ」を山口勝弘らと開催、翌45年には大阪万国博覧会テーマ館の企画、デザインに参加した。同47年スペースデザイン事務所サムシンクを設立、環境・空間デザインを本格的に手がける。同53年、商空間デザイン賞特別賞を受賞。同59年、作品集『無限空間-The Infinite』を刊行する。没後、同60年に渋谷区立松涛美術館で伊藤隆康展が開催された。
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没年月日:1985/02/07 古代オリエント美術・考古学の権威で、文学博士、東京大学東洋文化研究所教授、元同研究所長の深井晋司は、2月7日午後5時21分、外出先の東京都中央区の路上で心筋こうそくのため倒れ、救急車で日本橋兜町の中島病院に運ばれたが死去した。享年60。大正13(1924)年9月19日、広島県安芸郡に生まれ、昭和17(1942)年3月に東京府立第一中学校を卒業した。19年9月、第一高等学校文科甲類を卒業し、同年10月、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学したが、20年3月から21年5月まで兵役のため休学し、24年3月に同学科を卒業。続いて同年4月から同大学大学院に進み、28年4月からは同大学文学部助手。さらに31年4月には東京大学東洋文化研究所助手となり、37年5月から同研究所講師、36年1月には同研究所助教授、45年4月からは同研究所教授となり、53年4月から2年間は同研究所の所長をつとめた。専門とした研究領域は、古代オリエントを中心とした西アジア美術史であったが、特に古代ペルシアのガラス器研究に関しては、正倉院伝来の瑠璃碗がペルシア起源をもちシルクロードを経由して伝来したことを証明するなど世界的権威であった。東洋文化研究所においても西アジア研究を担当し、31-32年、江上波夫教授(現在、名誉教授)を団長とする東京大学イラク・イラン遺跡調査団(第1期第1次)の美術史班として参加したのを初めとして、34年(第2次)、35年(第3次)、39年(第4次)、40-41年(第5次)のすべてに加わった。第1期調査に関する報告書の刊行を50年に完了した後、51年からは調査団を改組した東京大学イラン・イラク学術調査の中心となり、51年(第2期第1次)、53年(同第2次)に現地調査を実施した。現地における発掘調査等による最新の資料に基づき、古代ガラス器研究においては、日本における西アジア美術史研究を世界の水準に追いつかせた功績が高く評価されている。43年2月にはペルシア古美術研究の業績により、東京大学より文学博士の学位を得、54年7月には紺綬褒章を授与されている。なお、没後、3月1日付で正四位勲三等旭日中綬章に叙位叙勲された。著書としては、『ペルシアの芸術』(東京創元社、昭和31年)、『ペルシア古美術研究・ガラス器・金属器』(吉川弘文館、昭和43年)、『PERSIAN GLASS』(Weatherhill,New York,1977)、『ペルシア古美術研究』第2巻(吉川弘文館、昭和55年)、『CERAMICS OF ANCIENT PERSIA』(Weatherhill,New York,1981)、『ペルシアのガラス』オリエント選書12(東京新聞社、昭和58年)などがある。著作活動は概説、調査報告、共同執筆になる発掘報告・論文と多数あるが、ここでは定期刊行物所載の邦文の研究論文のみを発表順に記す。シャミー神殿出土の青銅貴人像とパルティアの美術(美術史12、昭和29年3月)ハトラ出土の遺物とパルティア美術(東洋文化研究所紀要16、33年12月)正倉院宝物白瑠璃碗考(国華812、34年11月)沖ノ島出土瑠璃碗断片考(東洋文化研究所紀要27、37年3月)ギラーン州出土銀製八曲長坏に関する一考察(国華842、37年5月)ギラーン州出土切子装飾瑠璃壷に関する試論(東洋文化研究所紀要29、38年1月)アナーヒター女神装飾八曲長坏に関する一考察(国華859、38年10月)ハッサニ・マハレ出土の突起装飾瑠璃碗に関する一考察(東洋文化研究所紀要36、40年3月)アナーヒター女神装飾の銀製把手付水瓶に関する一考察(国華878、40年5月)デーラマン地方出土帝王狩猟図銀製皿に関する一考察(国華892、41年7月)三花馬・五花馬の起源について(東洋文化研究所紀要43、42年3月)ギラーン州出土の二重円形切子装飾瑠璃碗に関する一考察-京都上賀茂出土の瑠璃碗断片に対する私見-(東洋文化研究所紀要45、43年3月)アゼルバイジャン地方出土獅子形把手付土製壷について(国華918、43年9月)アゼルバイジャン出土の鐺の押型について(東洋文化研究所紀要49、44年3月)パルティア期における馬の造形表現(東洋文化研究所紀要50、45年3月)パルティア期における青銅製小動物像について(東洋文化研究所紀要53、46年2月)デーラマン地方のコア・グラス(東洋文化研究所紀要56、47年3月)ササン朝ペルシア銀製馬像に見られる馬印について(東洋文化研究所紀要62、49年2月)イラン高原出土緑釉六曲把手付坏に関する一考察(東洋文化研究所紀要80、55年2月)最近我国に将来されたイスラーム時代初期の陶磁器二点について(東洋文化研究所紀要81、55年3月)イラン高原出土の唾壷とその源流について-正倉院宝蔵紺瑠璃壷に関連して-(正倉院年報2、55年3月)最近我国に将来されたエラムの古代ガラス二点について(東洋文化研究所紀要87、56年11月)伝ギラーン州出土円形切子装飾台付坏に関する一考察(東洋文化研究所紀要97、60年3月)東西交渉史研究における諸問題-所謂イラン高原出土の円形切子装飾瑠璃碗の研究を中心に-(美術史論叢1、60年5月)なお、62年2月に『深井晋司博士追悼・シルクロード美術論集』(吉川弘文館)が刊行された。
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没年月日:1985/02/05 春陽会会員の洋画家宮脇晴は2月5日午後11時14分、前立せん肥大に肺炎を併発し、名古屋市の名古屋大学附属病院で死去した。享年82。明治35(1902)年2月23日名古屋市に生まれ、大正9(1920)年名古屋市立工芸学校図案科を卒業。春陽会会員の洋画家大沢鉦一郎に師事し、同9年第2回帝展に謹直な写実をみせる「自画像」で初入選。昭和2(1927)年より大調和美術展に木彫の能面を出品。同7年第13回帝展に「孫を抱ける老母の像」で再び入選する。翌8年第11回春陽展に「少女立像」で初入選し以後同展に出品を続ける。同17年第5回新文展に「子供達と母」で入選。翌年の同展では「子等遊ぶ谿」で特選となる。戦後の同22年春陽会会友、同28年同会員に推される。子供を描くことを好み、初々しく溌刺たる生命感を明るい色調で表わした。 春陽展出品略歴-第11回(昭和8年)「少女立像」、15回(同12年)「樹上姉弟図」「瀧に遊ぶ」「朝の海を見る」、20回(同17年)「モンペを穿く女」、30回(同28年)「黄衣由美」「ミルクを飲む幼児」、35回(同33年)「T」「S」「C」、40回(同38年)「ポニーと少女」「鳥笛」、45回(同43年)「たき火」「月と薄」、50回(同48年)「挽く」「藍の中の座像」、55回(同53年)「横たわる裸婦」、60回(同58年)「今年竹」、62回(同60年)遺作「犬をひく自画像」「夜の自画像」「ミス・ホディス」
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没年月日:1985/01/15 村松梢風作「近世名勝負物語」の挿絵などで知られる挿絵画家富永謙太郎は、1月15日午前4時51分、心筋梗塞のため東京都杉並区の河北総合病院で死去した。享年80。明治37(1904)年2月12日静岡県に生まれる。高等小学校卒業後上京、絵看板屋などで働きながら絵を学ぶ。昭和2年独立し友人と商業美術工芸社を設立、絵看板を描く。6年島田啓三を知り、ポケット講談社で子供雑誌の挿絵を描き始める。7年『ポケット講談』に書いていた作家藤森順三の紹介で菊池寛の知遇を得、認められて『日の出』に菊池寛の短編「妻は見たり」の挿絵を描く。翌8年には読売新聞に載った菊池寛「結婚街道」の挿絵を描き、また江戸川乱歩「地獄の花嫁」など現代小説や探偵小説の挿絵を多く手がける。竹田敏彦、長田幹彦、久米正雄、横溝正史、富田常雄らとの仕事も多く、写実的な美男美女の挿絵を得意とした。代表作に、菊池寛の少女小説第一作「心の王冠」、読売新聞で28年から8年間続いた村松梢風「近世名勝負物語」、江戸川乱歩「地獄の道化師」などがある。作家クラブ名誉会員で岩田専太郎、志村立美とともに挿絵界の三巨匠として知られた。
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没年月日:1985/01/14 挿絵画家寺本忠雄は、1月14日午前零時21分脳梗塞のため、東京都練馬区の練馬総合病院で死去した。享年83。明治34(1901)年2月15日東京市深川区に生まれる。独学で絵を学び、大正8年『少年倶楽部』『武侠少年』などの少年雑誌でデビュー。のち『オール読物』『講談倶楽部』『富士』『サンデー毎日』ほか、大衆雑誌、婦人雑誌の現代小説に挿絵を描く。大正13年より新聞小説も手がけ、朝日新聞、読売新聞、報知新聞、国民新聞などに挿絵を描いた。この間、大正10年荒木十畝に師事、日本画を学び、読画会に入る。菊池寛、久米正雄、直木三十五らとのコンビによる小説挿絵を多く担当し、代表作に昭和7年菊池寛作「妖麗」(『講談倶楽部』)、同年中村武羅夫作「薔薇色の道」(『富士』)、同10年小島政二郎作「感情山脈」(朝日新聞)の挿絵がある。写実的な美人画をよくしたが、戦後、時代小説に転向、江戸川柳を絵画に描くなど、独自の境地を拓いた。『夫婦草紙』『夫婦絵草紙』など3冊の著書を残している。
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没年月日:1985/01/10 洋学家で安井曽太郎記念会理事の小野末は、1月10日脳血栓のため東京都千代田区の東京警察病院で死去した。享年74。明治43(1910)年4月10日新潟市に生まれる。本名末吉。昭和9年新潟師範学校卒業後上京、安井曽太郎に師事しその内弟子となった。同13年2回一水会展に初入選、同18年7月一水会展で「早春」などで一水会賞を受賞する。戦後の同21年一水会会員となる。同23年10回一水会展に「華街展望」で一水会優賞を受賞。また、同24年一燈園新人賞、同25年第1回アトリエ新人賞を受けた。同26年一水会委員となるが、同47年には一水会を退会した。この間、一水会展、個展の他、現代日本美術展などに出品、同34年には国際具象派協会創立に参画した。同35-38年の間渡欧、同40年には東南アジア、エジプト、ギリシャ、同47、49、50年の三度にわたりメキシコを訪れた。また、同31年に設置された安井曽太郎記念会の運営に携わり、安井賞の評議員、運営委員もつとめた。同53年東京セントラル美術館と梅田近代美術館で回顧展を開催する。同56年、東京、大阪の高島屋で個展「砂漠の歌」を開催、「乾いた湖」「カボルカの砂丘」など大作15点を発表し、翌年この個展により昭和56年度芸術選奨文部大臣賞を受賞した。安井写実主義から出発し、一時フォンタナなどの抽象絵画にもひかれたが再び写実に徹し、自然の厳しい凝視から生まれた緊迫感のある画面をつくりあげた。作品は他に、「闘牛」「岩山」などがある。
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没年月日:1985/01/05 唐津焼の国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の中里無庵(12代中里太郎右衛門)は、1月5日急性肺炎のため佐賀県唐津市の済生会唐津病院で死去した。享年89。明治から大正にかけて疲弊した唐津焼の中興の祖とも目された中里は、明治28(1895)年4月11日唐津市に、旧唐津藩御用窯の窯の伝統を持つ「御茶盌窯」窯元11代中里太郎右衛門(天祐)の次男として生まれた。幼名重雄。大正3年佐賀県立有田工業学校を卒業後、父天祐について学び、同13年父の死去を受けて昭和2年12代中里太郎右衛門を襲名する。同4年から佐賀・長崎両県下の古唐津窯跡発掘調査に着手し、唐津焼特有の「タタキの技法」を研究、古唐津焼の復興に努めるとともに、自らの作陶にも研究の成果を生かし、同6年「刷毛目鉢」を商工省主催18回工芸美術展に発表した。この間、大正11年に材木商無呂津忠七の養嗣子となっていたが、昭和27年には無呂津重雄から中里太郎右衛門に改名した。同30年文部省文化財保護委員会から唐津焼の無形文化財に選択される。翌31年3回日本伝統工芸展に初入選、翌年の4回展出品作「叩き壷」あたりから、独自の「タタキ技法」を軸にした作風を築いていった。以後、伝統工芸展に連続出品し、「叩き青唐津水指」(5回、文化財保護委員会買上)、「叩き黄唐津壷」(13回、文化庁買上)などを発表した。また、同40年には韓国各地を訪問し、同年、岸岳飯洞甕下窯を参考にし御茶盌窯の一隅に割竹式登窯を築窯した。同41年紫綬褒章を受章する。同44年京都紫野大徳寺本山で得度し、法名洞翁宗白、号無庵を受け、同年長男忠夫に13代中里太郎右衛門を襲名させた。同48年韓国ソウル市国立近代美術館で父子展を開催したのをはじめ、同54年には西ドイツ、スイス、オランダ巡回の「唐津展」に出品するなどしばしば海外でも作品を発表した。同51年国の重要無形文化財保持者として認定された。同55年、読売新聞社主催で「人間国宝中里無庵展」を開催、同59年には、東京大阪他で「御茶盌窯開窯二五〇年」を記念して父子展を開催する。
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没年月日:1984/12/25 日中文化交流協会理事長、和光大学教授、宮川寅雄(号・杜良)は、12月25日午後10時45分、脳こうそくのため東京都新宿区の東京女子医大付属病院で死去した。享年76。1908(明治41)年10月10日、宮城県仙台市に生れる。1927(昭和2)年、早稲田第二高等学院に入学、会津八一の知遇を受け、以後その逝去にいたるまで師事する。1930(昭和5)年、早稲田大学政治経済学部経済学科入学、在学中、社会運動に参加、1931年、同大学中退、反軍国主義の闘いに参加し、検挙される。1940(昭和15)年、出獄。1951(昭和26)年、北海道より東京にもどり、日本近代史研究会、文化史懇談会などの活動に参加、1956(昭和31)年、日中文化交流協会の創立に参画、1973(昭和48)年、同協会副理事長、1979(昭和54)年、理事長に就任した。この間、1966(昭和41)年に創立した和光大学人文学部芸術学科長を歴任する。日中文化交流協会の活動を通じて、長期にわたり日中友好と日中文化交流のため尽力し、1962(昭和37)年2月以来、1983(昭和58)年10月まで、計28回にわたり中国を訪問、中国の文物や美術など各種展観の日本開催や、日本と中国の文化各分野の代表団の交流には常に中心となって尽力した。その学問と文芸の領域は広く、日中の古今の文化や美術に眼をむけ、また会津八一に師事して和歌や書をよくし、特に1970(昭和45)年代以後は、書・画を熱心にやり、作陶にもたずさわって個展もしばしば開催した。その主な著書は、『岡倉天心』(東京大学出版会 1956)、『近代美術とその思想』(理論社 1966)、『会津八一』(紀伊國屋書店 1969、1980)、『近代美術の軌跡』(中央公論社 1972)、『会津八一の文学』(講談社 1972)、『中国美術紀行』(講談社 1975)、『会津八一の世界』(文一総合出版 1978)、『秋艸道人随聞』(中央公論社 1982)、『歳月の碑』(中央公論美術出版 1984)、『風琴-宮川寅雄歌集』(短歌新聞社 1985)、『美術史散策』(恒文社 1987)他多数あるほか、『会津八一全集』(中央公論社)の編輯に尽力した。
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没年月日:1984/12/18 雁皮を用いた出雲民芸紙の創作者で人間国宝の安部栄四郎は、12月18日午前11時54分、クモ膜下出血のため島根県松江市の松江市立病院で死去した。享年82。明治35(1902)年1月14日島根県八束郡に製紙業家の二男として生まれる。9歳より手漉き和紙作りを手伝い始め、出雲国製紙伝習所で修業を積む。雁皮紙は雁皮の繊維を原料とし、その特質を生かした緊密でなめらかな紙質のもので、変色や虫害に強く永久保存などの記録用紙として適しており、和紙の王様とも言われる。昭和6年松江市を訪れた民芸運動の提唱者柳宗悦に出会い推賞されたことが契機となり、雁皮紙による出雲民芸紙の創作を始める。民芸運動を通してバーナード・リーチ、浜田庄司、河井寛次郎、棟方志功らとも親交を深めた。9年紙漉きとしては初めて東京の資生堂で個展を開催する。35年より3年間宮内庁の依頼により正倉院宝物紙を調査、同年島根県無形文化財の認定を受ける。42年日本民芸館賞を受賞、翌43年「雁皮紙製作技術保持者」として国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された。49年パリ、51年ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルスで個展を開催し、和紙の文化を海外に紹介、また55年北京で行なわれた展覧会では「中国は紙漉きの先輩」と展示品348点すべてを中国側に寄贈した。58年10月自宅横に、70余年にわたり漉き上げた和紙のほか棟方志功の襖絵、河井寛次郎の陶器など約1500点を収蔵・展示する「安部栄四郎記念館」を開館、また紙漉きの技術を伝えるため60年秋の完成予定に向けて伝承所建設の計画も進行中だった。著書に『和紙三昧』『紙すき五十年』などがある。
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没年月日:1984/12/18 陶芸界の重鎮として活躍した文化勲章受章者、日本芸術院会員の楠部彌弌は、12月18日午後7時、慢性ジン不全のため京都市中京区の大沢病院で死去した。享年87。明治30(1897)年9月10日京都市東山区に、楠部貿易陶器工場を経営する父千之助の四男として生まれる。本名彌一。父はかつて幸野楳嶺に日本画を学び僊山と号した。明治45年京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入所、同期生に八木一艸がいた。大正4年卒業、家業を継がせたい父の意志に反し、東山の粟田山にアトリエを構え創作陶芸を始める。7年粟田口の古窯元跡の工房に移り本格的に陶芸を始めると共に河井寛次郎、黒田辰秋、川上拙以、池田遥邨、向井潤吉らと交流を深める。国画創作協会の活動にも刺激され、9年八木一艸、河村己多良(喜多郎)ら5人と「赤土」を結成、陶芸を生活工芸から芸術へ高めるべく運動を始める。第1回展を大阪で開催し4回まで続けるが、12年同会は自然消滅。13年パリ万博に「百仏飾壷」を出品し受賞、一方木喰の展覧会準備を通じて柳宗悦を知り、「劃華兎文小皿」(13年)「鉄絵牡丹花瓶」(14年)など民芸運動の影響を示す作品を作る。しかしまもなくこの運動からも離れ、昭和2年八木一艸らと新たに「耀々会」を結成、また同年工芸部が新設された第8回帝展に「葡萄文花瓶」が入選する。8年第14回帝展で「青華甜瓜文繍文菱花式龍耳花瓶」が特選を受賞しこの年彌一を彌弌と改名。翌年帝展無鑑査となり、この頃朝鮮の古陶磁や仁清などの研究に没頭する。12年パリ万博で「色絵飾壷」が受賞、この年の第1回新文展に後年楠部芸術を特色づける「彩埏」の技法を用いた「黄磁堆埏群鹿花瓶」を出品する。彩埏は釉薬を磁土に混ぜ何度も塗り重ねることで独特の深い色あいを生むものである。戦後一時日展改革要求が容れられず京都工芸作家団体連合展を組織(23年)、日展をボイコットしたことがあったが、26年第7回日展「白磁四方花瓶」が芸術選奨文部大臣賞を受賞した。28年京都の若手陶芸家達を中心に青陶会を結成し指導にあたると共に伊東陶山らと搏埴会を結成する。同年の第9回日展出品作「慶夏花瓶」により翌29年日本芸術院賞を受賞、37年日本芸術院会員となる。また中国古来の彩色法を研究しながら早蕨釉、蒼釉(碧玉釉)などの発色法を考案し、「早蕨釉花瓶」(37年第1回現代工芸美術家協会展)「萼花瓶」(44年第1回改組日展)などを発表する。27年日展参事となって以後33年評議員、37年理事、44年常務理事、48年顧問、また54年日本新工芸家連盟を結成した。44年京都市文化功労者、47年毎日芸術賞、文化功労者、50年京都市名誉市民、53年文化勲章を受章。晩年は彩埏に一層の洗練を加え、52年パリ装飾美術館で「日本の美・彩埏の至芸楠部彌弌展」が開催された。『楠部彌弌作品集』(43年中央公論美術出版)『楠部彌弌展』(46年毎日新聞社)『楠部彌弌展』(52年講談社)『楠部彌弌』(56年集英社)などがある。なお、詳しい年譜は「楠部彌弌遺作展」(京都市美術館、同61年)等を参照。
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没年月日:1984/12/12 日展参与の彫刻家黒田嘉治は、12月12日脳血栓のため東京都世田谷区の自宅で死去した。享年76。明治41(1908)年3月29日東京市浅草区に生まれ、東京中学校を経て昭和6年東京美術学校彫刻科塑造部を卒業。在学中の同4年第10回帝展に「立女」で初入選し、第12回「習作」、第15回「習作」で特選を受け、同8年帝展無鑑査となる。その後も官展に出品するとともに、同15年から戦後の同38年まで大須賀力と彫刻二人展を18回開催する。戦後は日展に出品した他、国立近代美術館主催「近代の彫刻展」(同28年)をはじめ、日本国際美術展(同32、34、38、40、42年)、現代日本美術展(同33、39、41、43年)、秀作美術展等にも出品。同33年日展評議員となり、翌34年改組第2回日展出品作「立つ女」で文部大臣賞を受賞した。同54年日展参与となる。主要作品は他に「靴下をはく女」(同36年改組第4回日展)、「立つ女」(同42年日本国際美術展)など。
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没年月日:1984/12/11 奈良一刀彫りの第一人者竹林薫風は、12月11日午前6時8分、脳出血のため奈良市内の県立奈良病院で死去した。享年81。明治36(1903)年7月10日、奈良市に生まれる。本名薫。大正14(1925)年、東京美術学校鋳金科教授であった沼田一雅(勇次郎)、および木彫家吉田芳明(芳造)に師事する。昭和3(1928)年第9回帝展に「禿鷹」を出品して初入選、以後新文展、戦後は日展に出品を続ける。動物を得意とし、写実的で均整のとれた形体と切れ味の良いのみ跡をいかした仕上げを特色とする。同43年皇居新宮殿の宮内庁雅楽部舞楽用大太鼓の鼓縁に鳳凰、竜を彫刻、同48年には大阪石切神社の八道将軍像を制作した。『奈良の一刀彫』(同53年刊)を著したほか、奈良工芸協会理事長、奈良木彫家協会会長をつとめ、古くからの伝統を持つ奈良一刀彫りの保存と発展につくした。 出品歴 帝展第9回「禿鷹」、10回(昭和4年)「駄鳥」、11回「鹿」、12回「鹿」、13回「軍鶏」、文展昭和11年「満州白鹿」、同第5回(同17年)「大東亜の指導者」、日展第3回(同22年)「暁」、4回「飛火野」、6回「若兎」、7回「飛ぶ鹿」、11回「軍鶏」、改組日展第2回(同34年)「朝日ケ丘」
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没年月日:1984/12/09 「柳女人形」で知られる人間国宝の人形作家堀柳女は、12月9日午前7時40分肺炎のため東京都目黒区の厚生中央病院で死去した。享年87。明治30(1897)年8月25日東京都港区に生まれ、本名山田松枝。幼くして父を失ない、後運送業を営む堀家の養女となる。養父の事業の失敗、淡路島での女学校入学後まもなくの養父の死、大阪での家業復興と波乱に富む少女時代を送る。22歳の頃より荒井紫雨に日本画を学び、次いで少女雑誌に絵を応募したことから竹久夢二を知り、書生としてそのアトリエに出入りする。ここで夢二を中心に集まるグループの芸術思潮に影響を受け、しんこ細工に想を発した人形作りを始めた。これを土台に本格的な技法を取り入れ、仲間10数人と結成した「どんたく社」の昭和5年第1回人形展(銀座資生堂)に「袖」「幌馬車」を出品、8年銀座三越で第1回個展を開く。翌9年鹿児島寿蔵、野口光彦らと甲戌会を結成し、11年工芸部門に初めて人形が加えられた改組第1回帝展に「文殻」が入選した。13年第6回甲戌会「宇治の川舟」「鳥追舟」や同年第2回文展「怒る濤和む波」などで人形作家としての評価を確立、12年より18年まで人形塾を経営する。戦後22年、エキゾチックな雰囲気を漂わせる「後宮」を発表、24年第5回日展「静思」が特選を受賞し、翌年日展初の女性審査員となる。更に27年第8回日展「彩雲」は北斗賞を受賞、30年衣裳人形の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、また29年以降日本伝統工芸展に出品、審査員をつとめた。この頃より作風は円熟期に入り、異国的情緒の「木花開耶姫」(28年第9回日展)「瀞」(32年)「古鏡」(38年第10回日本伝統工芸展)、大胆なフォルムを見せる「鉦鼓」(37年第9回日本伝統工芸展)「黄泉比良坂」(39年第6回全日本女流人形展)「太陽に遊ぶ」(55年傘寿記念作品展)、ほのぼのとした愛らしさの「竹取物語」(38年)「縁日」(42年第1回棟会展)「うつらうつら」(43年)などの作品を発表する。また蝸牛会、細螺会を主宰し、42年紫綬褒章、48年勲四等瑞宝章を受章、58年ナンシー米大統領夫人来日に際し迎賓館で創作人形作りを披露した。著書に『人形に心あり』『堀柳女人形』(44年講談社)がある。
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没年月日:1984/12/08 日展参与の鋳金家丸谷端堂は、12月8日午後7時50分、心不全のため東京武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去した。享年84。明治33(1900)年5月26日、東京市浅草区に生まれる。本名修造。明治45年府立第三中学校へ入学するが中退。大正2(1913)年、絵画塾へ入るが父の勧めにより中退。翌年山本純民に師事し金工を学ぶ。同8年より山本安曇に師事。同13年より安曇の紹介により香取秀真に師事し公募展出品に志す。同15年東京府工芸展に「莨セット」を出品して三等賞、同年の鋳工展では「杵型花生」で褒賞を受賞。以後、昭和2(1927)年には東京府工芸展「喫煙具」一等賞、鋳金展「インクスタンド」銅賞、同3年には商工省工芸展「莨セット」銅賞、鋳金展「虞美人草花生」「一輪挿し」褒賞、同4年には日本美術協会展「電気スタンド」銅賞、鋳金展「魚鳥文花生」銀賞、同5年には日本美術協会展「香炉」銅賞、鋳金展「輪違い文花生」銅賞、商工省工芸展「電気スタンド」褒賞、同6年には日本美術協会展「寸筒文花生」銀賞、東京府工芸展「インクスタンド」三等賞、同7年には商工省工芸展二等賞、日本美術工芸展「水盤」銅賞、鋳金展「バンド金具」銅賞、同8年には日本美術協会展銅賞、商工省工芸展「魚文耳付花生」三等賞、同9年には日本美術協会展「瓶かけ」銀賞、商工省工芸展二等賞、同11年には東京府工芸展「胡銅花生」一等賞、鋳金展「青銅花生」銀賞、同12年には商工省工芸展「青銅花生」三等賞、同13年には東京府工芸展「七幅香炉」三等賞、日本美術協会展「花蝶文花生」銅賞、同14年には商工省工芸展「手取群蝶文花器」三等賞、日本美術協会展「虫文水盤」銀賞、東京府工芸展「竜耳付花生」一等賞と受賞を重ねる。同15年より帝展に出品し、同17年より同展無鑑査、以後も官展に出品を続け、戦後の日展では同24、30、34、39、48年の5回、審査員をつとめ、同50年日展参与となる。また、同年より東京デザイン専門学校顧問となる。同54年より腎不全を患う。花生や置物を得意とし、伝統を踏まえながらそれに縛られることなく、用の美を追求した。明快で整った形態と安定感を持つ、斬新なデザインの作品をつくりあげた。
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没年月日:1984/12/07 小島善太郎の死後、独立美術協会創立会員の最後の一人となった鈴木亜夫は、12月7日午前7時30分、老衰のため、東京都調布の自宅で死去した。享年90。明治27(1894)年3月26日、工学博士鈴木幾弥太の次男として大阪に生まれる。同45年、東京の芝中学に入学、葵橋洋画研究所に学び東京美術学校西洋画科に入る。同校在学中の大正5(1916)年第3回二科展に「ターンテーブル」で初入選。以後、同会に出品を続ける。同10年、東美校を卒業し、同研究科に進み、藤島武二に師事する。万鉄五郎を中心とする円鳥会、および中央美術展に参加し、「葡萄と女」で中央美術賞を受賞する。昭和4(1929)年、一九三〇年協会に参加。同5年、里見勝蔵らの同志と独立美術協会を創立。フォービスム的色彩と自由な筆使いをとり入れつつ、日本的油絵を追求する。同19年、陸軍省の依嘱によりビルマに赴き記録画「ラングーンの防空とビルマ人の協力」を制作。戦後も独立美術協会に出品。同41年渡欧し翌年日動画廊で個展を開いてその成果を発表する。同57年には銀座、ギャラリーミキモトで米寿記念回顧展を開く。風景、静物のほか、人物をモチーフにとり入れた象徴的作品などを描き、詩情ある画風を築いた。 二科展出品歴 第3回(大正5年)「ターンテーブル」、4~6回出品せず、7回「花篭」、8回(同10年)出品せず、9回「赤日傘の女」「肩を拭く女」、10回「静物」、11回「花と少女」「風車のある丘」、12回出品せず、13回(同15年)「黒い船」「裸婦立像」「裸婦臥像」「硝子戸の中の少女」「花を生ける女」、14回(昭和2年)「樹蔭読書」「裸婦座像」「夏」「碇泊」、15回「バルコン」「編物するM子」、16回「露臺母子」「樹蔭午睡」「日傘さす婦人」「読書する少女」「グロキシニヤ」「龍洞院の百日紅」、17回(同5年)「母性」「池畔緑陰」「支那服の少女」「蕃布を配せる静物」「Y楽長補の像」 独立展出品歴 第1回(昭和6年)「鴨」「ヴァリエテ」「サーカスの娘達」「卓上静物」「女の顔」、2回「巌」「子供の顔」「二人の曲芸師」「少年と軍楽手」「女の顔」「渓流」「テレジーナの踊り」「伊豆下田風景」「オランダ人形」、3回「白馬」「牛に騎る女」「夏の少女」「舗道」「雨」「豹」「馬ト野獣」、4回「裸婦立像」「薔薇」「狩獵」「幼年像」「月と白馬」「薔薇」「人形を造る」、5回(同10年)「撮影」「馬と噴火口」「牡丹」、6回「猿と踊り子」「牡丹」「麦秋」「乗馬」「人形」、7回「草上画作」「競馬」「樵夫」、8回「TUBA」「丘の上」「桜」、9回「闘ひの譜」、10回(同15年)「渚」、11回「山湖秋色」「海濱の午後」「駒ケ岳新雪」「峠路」、12回「穂高初秋」「二人のアンコ」「朝岳」「上高地初秋」、15回(同22年)「海のアンダンテ」、16回「街の楽団」、18回(同25年)「お茶時」「裸婦習作」、20回「廃船」「志賀島風景」、21回「老婦人像」「手風琴」「化粧」、22回「室内婦人」「日傘」、23回(同30年)「朝顔A」「芋」「朝顔B」、24回「水をやる」「ばらの花」、25回「夏の午後」「夏の日」、26回「赤い牛舎」「ミサイル」「猩々の舞い」、27回「北海山湖(摩周湖)」「アイヌの長老」「地球岬」、28回(同35年)「廃船」「船のある静物」「船のある静物(桜島)」、29回「土器」「土偶」、31回「無人灯台」「人魚のいる風景」、32回「湖騒の村」「獅子」、33回(同40年)「能登の寒冷前線」「静物」、34回「メニール・モンタンの坂道」「巴里の壁」、35回「トレドの驢馬」「籘椅子に寄る」、36回「マルケン島の女」「石の馬(無力の抵抗)」、37回「槍」「新聞を読む人」、38回(同45年)「妖雲」「巴里の花屋」、39回「シャルトルへ行く」「実りの行進」、40回「暁雲白馬」「みどりの庭」、41回「亜夫山荘遠望(会津芦の牧温泉)」「ムウムウの満里子」、43回(同50年)「石狩川赤陽」「楽譜持てる少年」、44回「風紋」「室内」、45回「あじさい」「牡丹」、46回「桜島赤照」「薔薇図」、47回「五島大瀬崎の灯台」「砂丘」、48回(同55年)「紫陽花」、「葡萄実る頃」、49回「紫陽花の庭」「紫陽花」、50回「葡萄の秋」、51回「椅子に依るK夫人」、52回「甲斐駒ケ岳」
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没年月日:1984/12/05 二科会監事の洋画家、堀越隆次は、12月5日午前6時50分、貧血病のため愛知県瀬戸市の陶生病院で死去した。享年68。大正5(1916)年6月26日、茨城県土浦市に生まれる。土浦中学を経て、昭和14(1939)年東京高等工芸学校(現千葉大学)を卒業。同年名古屋市日本陶器(現ノリタケ)に入る。服部正一郎に師事。同15年東満州に於て兵役に服し、同18年帰国。同年第30回二科展に満州風景「氷河」で初入選する。以後、ノリタケ・カンパニーに勤務する一方で同展に出品を続け、同26年第36回二科展「母と子と」(A)、(B)、(C)、三部作を出品して二科賞を受け、翌年同会会友となる。同30年第40回二科展には「罰」「母と子」を出品し会友賞を受賞。同39年二科会員となる。同41年第51回二科展に「とりとひと-B」を出品して会員努力賞を受賞。同54年同会評議員、同59年同会監事となる。同46年より53年まで中部国際形象展、同54年から56年まで中日展にも出品。社会の矛盾に耐えて生きる人々の生活に深いまなざしを注ぎ、プリミティブな味わいのある画風を示した。 二科展出品歴–30回(昭和18年)「氷河」、31回「筑波遠望」「水郷」、32回「家路」、34回「家族」、35回(同25年)「風の吹く日に」、36回「母と子と」(A)、同(B)、同(C)、37回「家族B」、同C、38回「路傍A」、同B、同C、39回「よる」「こまった」、40回(同30年)「母と子」「罰」、41回「母子A」、同B、42回「工場の母子」、43回「家族A」、同B、44回「枷B」、45回(同35年)「ささえるA」、同C、46回「傷ついた人(A)」、48回「母子」、49回「ぎせい」「白いみち」、50回(同40年)「鳥と人」、51回「とりとひと-B」、52回「鳥と人とA」、53回「はれた日」、54回「ある家族」、55回(同45年)「ある家族A」、56回「ある家族」、57回「ピエロ……たち」、58回「こわれた人形」、59回「家族」、60回(同50年)「どこへ」、61回「ささえる」、62回「廃船」、63回「回想」、64回「集積」、65回(同55年)「余★」、66回「サン・ミゲルの母子」、67回「ふたりと二人」、68回「聖家族」
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没年月日:1984/11/26 日本芸術院会員、日本建築家協会終身会員、日本建築学会名誉会員の建築家村野藤吾は、11月26日心筋こうそくのため兵庫県宝塚市の自宅で死去した。享年93。本名藤吉。建築界の重鎮で文化勲章受章者の村野は、明治24(1891)年5月15日佐賀県唐津市で生まれ、その後福岡県八幡市で育った。大正7(1918)年早稲田大学理工学部建築科を卒業し、同年大阪の渡辺節建築事務所に入りアメリカ風の建築実務を仕込まれ、大阪商船神戸支店、大阪ビルディング本店などの設計に参加した。昭和4年独立し村野建築事務所(同24年村野、森建築事務所と改称)を開設、大阪・そごう百貨店、宇部市民会館などを設計し戦前から既に建築界に不動の地位を築いていた。戦後は同28年の広島・世界平和記念聖堂で注目され、名古屋・丸栄百貨店(同29年)、日本生命日比谷ビル(同38年)で建築学会賞を受賞した。また、同28年には日本芸術院賞を受け、同30年日本芸術院会員となり、同42年文化勲章を受章する。その後も箱根樹木園休息所(同47年、建築学会建築大賞)、迎賓館改装(同49年)、日本興業銀行本店(同50年、第16回BCS賞)、小山敬三美術館(同52年、毎日芸術賞)ほか創造力豊かな建築を次々に手がけ、同57年に完成した新高輪プリンスホテルは生涯の総決算的な仕事となった。戦前の折衷主義から近代主義、ポスト・モダンへと旺盛で意欲的な作風は止まるところを知らなかつたが、一貫して現実主義者の姿勢を貫ぬき、その名声は晩年に至って一層高まった感があった。同48年早稲田大学より名誉博士の称号を授与されたのをはじめ、米国建築家協会、英国王立建築学会の各名誉会員でもあった。
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没年月日:1984/11/22 洋画家で挿絵画家として著名な生沢朗は、11月22日心筋こうそくのため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。本名正一。明治39(1906)年9月12日兵庫県に生まれる。昭和3年日本美術学校を卒業後、台湾で壁画の模写に従事したのち報知新聞社に入社し、政治漫画を執筆する側ら帝展へ出品。同11年には第23回二科展に「ラグビー」が入選する。戦後は、同21年行動美術協会結成に際し会友となり、同23年第3回展に「埠頭付近」「河畔」他を出品し会員に推挙された。行動展への出品作には「競馬場風景A」(4回)、「鳩を囲む裸婦」(9回)などがあり、フォーヴィスム的な作風を示した。一方、同26年の「週間朝日」「月刊読売」に表紙絵を描くなど挿絵画家としても活躍し、同33年行動美術協会退会後は新聞、雑誌等の挿絵に腕をふるった。同44年立原正秋『冬の旅』(読売新聞)、同45年大岡昇平『愛について』(毎日新聞)をはじめ、井上靖『氷壁』『化石』『星と祭』(朝日新聞)など新聞連載小説の挿絵を担当、都会的でかつ陰影にとむ独特の持ち味で一躍流行児となった。同46年には井上靖らとシルクロード、ヒマラヤを訪れ、そのスケッチを中心に『生沢朗画集-ヒマラヤ&シルクロード』を同48年に刊行した。スポーツマンとしても知られ、晩年は水墨画に親しんでいたという。『氷壁画集』(同32年)、『生沢朗さし絵集』(同49年)などがある。
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没年月日:1984/11/02 二科会理事、日本水彩画会理事の洋画家山本不二夫は、11月2日午前0時10分、脳血栓のため、千葉県八千代市の新八千代病院で死去した。享年79。明治38(1905)年2月1日、千葉県佐原に生まれる。千葉県立佐原中学校を経て、大正15(1926)年東京商科大学(現一橋大学)専門部を卒業後、昭和7年まで旅館、運送業を自営する。のち、同13年まで内務省土木部に務め、大戦中は海軍省の嘱託となる。この間、同9年に二科展、日本水彩展に初入選。以後同展への出品を続け、同14年日本水彩展に「佐原風景」「高楼聴蝉」を出品してキング賞を受賞、同16年同会会員、および二科会会友となる。戦後、本格的に制作に専念し、再編された同二団体に参加。同25年、再編後の新制度下の二科展で再び会友に推挙され、同30年同会会員となる。同36年、フランスのサロン・コンパレゾンと二科展の交流のため渡欧し、5カ月間美術品を視察。同38年二科展に「樹から生れた女」「ねんりん」を出品して会員努力賞を受け、同40年二科会50周年記念展では「あしたの女達」で総理大臣賞を受賞、同44年の同展には「山の湖で」を出品し青児賞を受ける。同45年ポルトガル、モロッコ及びヨーロッパを訪れる。水平線、垂直線を基調とする構図に女性の単身像あるいは群像を配し、抒情的作風を示した。二科展出品歴-21回(昭和9年)「佐原風景」、22回(同10年)「水辺(水彩)」、23回「監督船就航」、24回「佐原河港」、25回「総領息子」、26回「静か」、27回(同15年)「外堀線」「美しき佐原河港」、28回「陽気な女車掌」「佐原の跳橋」、29回「元気なエンヂさん」、31回(同21年)「夕陽の佐原」「十六島の娘」、32回「R夫人像」、34回「横臥裸婦」「帳りの中の裸婦」「二人のニンフ」、35回(同25年)「いこひ」、36回「森」「花と裸女」、37回「花をくわえた女」「二人」、38回「暗い海岸」「目覚めたる女」、39回「崩れゆく夢」、40回(同30年)「野のなやみ」「断想」「山のいのち」、41回「麦愁」「青い気圧」「岩の芽」、42回「静かなる谷間」「鳥と語れば」、43回「腰かける裸婦」「二人の裸婦」「立てる裸婦」、44回「朝粧」「花をもてる妖女達」「花にくちづけす」、45回(同35年)「土麗都」「楼夢」、46回「積寥」「組寂」、47回「黒い気流」、48回「樹から生れた女」「ねんりん」、49回「樹層」「巌の華」、50回(同40年)「あしたの女達」、51回「あじさいの咲く頃」、52回「三人の舞妓」、53回「霧は流れる」、54回「山の湖で」、55回(同45年)「あるつどい」、56回「赫い道」、57回「残雪の消える頃」、58回「猫を飼ふ女」、59回「髪」、60回(同50年)「梳づる女」、61回「鳥と戯れる」、62回「海の見える丘」、63回「紫陽花を愛す」、64回「月光のある部屋」、65回(同55年)「めざめ」、66回「集り」、67回「静かなる」、68回「砂の床」、69回「花をかざす」
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