國領經郎

没年月日:1999/03/13
分野:, (洋)
読み:こくりょうつねろう

 日本芸術院会員、日展常務理事の洋画家國領經郎は、13日午前3時50分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去した。享年79。1919 (大正8)年10月12日、神奈川県横浜市井土ヶ谷に生まれる。26年、横浜市立日枝第二尋常小学校に入学。同校が火災にあったため、横浜市立共進尋常高等小学校に移り、32(昭和7)年同校尋常科を卒業。同年神奈川県立横浜第一中学校(現、希望ヶ丘高校)に入学する。35年父を、翌36年母を亡くし、長兄のもとで生活する。38年、横浜第一中学校を卒業し、川端画学校に通う。39年東京美術学校図画師範科に入学。小林万吾、南薫造伊原宇三郎らに油彩画を、矢沢弦月らに日本画を学ぶ。41年、第二次世界大戦により、同科を繰り上げ卒業。42年1月、新潟県柏崎中学校教諭となるが、同年4月に召集を受け近衛師団に入隊、のちに中国中央部へ渡る。46年に復員し、47年4月、再度柏崎中学へ赴任。同年第3回日展に「女医さん」で初入選する。48年冬、柏崎商工会議所で初の個展を開催。50年、東京都大田区立大森第一中学校教諭となり、川崎市へ転居。51年第37回光風会展に「小憩」が初入選。以後、日展と光風会展に出品を続ける。50年代半ばから点描法を用いるようになり、このころから、55年第41回光風会展に出品して光風会賞を受賞した「飛行場風景」に見られるように、実景をもとにしながら、対象を単純な幾何学的フォルムに還元し、再構成する作風へと移行する。55年の第11回日展に出品した「運河」も同様の作品であり、特選となっている。56年光風会会友、57年同会会員となる。58年日展が社団法人となったのちも、同展に出品。60年前後から画面は再現描写を離れて、構成的要素を強めていく。66年横浜高島屋で個展を開催。68年、東京都職員を辞して横浜国立大学教育学部助教授となり、後進の教育に携わる。この頃から後年の國領のイメージを決定づけた砂のモティーフが画中に現れる。69年第1回改組日展に「砂上の風景」を出品して特選となる。70年代の学園紛争を大学という教育の現場で体験し、集団で行動しながら孤独を抱いている若者たちを砂丘に配する作品を多く描くようになる。82年第14回日展に、車の轍が走る砂丘に二人の女性の後ろ姿を配した「轍」を出品し、第2回宮本三郎賞受賞。翌年第2回宮本三郎賞受賞記念「國領經郎展」が東京日本橋、大阪北浜、横浜の三越で開催される。86年「ある静寂の午後」を日展に出品し、内閣総理大臣賞受賞。91(平成3)年「呼」で1990年度日本芸術院賞受賞。91年日本芸術院会員に選ばれる。高度成長を遂げた後、物質的な豊かさの一方で深い孤独を抱くに至った日本人の精神風景を絵画化した作家として注目される。99年4月から横浜美術館で開かれる個展を前にしての死去であった。年譜、関連文献目録は同展図録に詳しい。

出 典:『日本美術年鑑』平成12年版(253-254頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「國領經郎」『日本美術年鑑』平成12年版(253-254頁)
例)「國領經郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28146.html(閲覧日 2024-03-29)

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