下村良之介

没年月日:1998/12/30
分野:, (日)
読み:しもむらりょうのすけ

 日本画家の下村良之介は12月30日午前11時8分、肺気腫のため京都市上京区の病院で死去した。享年75。大正12(1923)年10月15日、大阪市の能楽師の家に生まれる。本名良之助。5歳より謡・仕舞の稽古のために桃谷の能楽堂に通う。昭和10(1935)年12歳の時に京都に移り、翌年京都市立美術工芸学校に入学。同16年からは京都市立絵画専門学校に学び、同18年学徒動員のため繰り上げで同校を卒業。同年、卒業制作の「暖日」を第8回市展に出品するが、落選する。満州・台湾に赴いた後、同21年復員。同23年3月には新たな芸術活動を目指して山崎隆・三上誠・星野眞吾ら京都の若手日本画家を中心にパンリアルが結成されるが、同年10月星野眞吾の推薦により下村も大野秀隆(俶崇)とともに入会。翌年第1回パンリアル展を京都藤井大丸で開催、日本画の革新を唱えるパンリアル美術協会が公にスタートする。下村は「祭」「作品」「デッサン」を出品し、以後晩年に至るまでパンリアル展を発表の中心にすえることになるが、昭和20年代から30年代前半にかけてはキュビスム的な群像表現から次第に鳥にテーマを集中させ、建築用の墨つぼを使用した鋭い線描による画面へと移行していく。同33年カーネギー財団主催のピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、同35年中南米巡回日本現代絵画展に出品するなど海外展にも発表するようになるが、この頃から紙粘土を画面に盛り上げてレリーフ状にし、あたかも化石のような鳥の形象を表現するという、独自の質感を持った強靱な作風を完成させていく。同36年第1回丸善石油芸術奨励賞(留学賞)を受賞し、翌年より一年間ヨーロッパ、中近東、東南アジア等を遊学。同41年大谷大学幼児教育科助教授に就任(同46年同大学教授に就任)。同44年関西歌劇団公演の歌劇「椿姫」(大阪厚生年金会館大ホール)以後、舞台美術の仕事も多く手がけ、また“やけもの”と称する陶器や宮尾登美子「序の舞」(同56~57年『朝日新聞』連載)等の挿絵も試みるなど多彩な表現活動を行った。同57年に美術文化振興協会賞を、同62年には第5回京都府文化賞功労賞を受賞。平成元(1989)年にO美術館で回顧展を開催。作品集に『反骨の画人・下村良之介作品集』(京都書院 平成元年)、著書に『題名に困った本』(私家版 昭和58年)、『単眼複眼』(東方出版 平成5年)がある。

出 典:『日本美術年鑑』平成11年版(428頁)
登録日:2014年04月14日
更新日:2023年09月25日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「下村良之介」『日本美術年鑑』平成11年版(428頁)
例)「下村良之介 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10593.html(閲覧日 2024-10-12)

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