本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数3,120 件)





小田襄

没年月日:2004/01/24

読み:おだじょう  国際的な金属造形家で多摩美術大学教授の小田襄は1月24日午前9時22分、急性胆のう炎のため東京都世田谷区の病院で死去した。享年67。金属素材による斬新な造形で知られた小田は、1936(昭和11)年6月3日、日展会員の彫刻家小田寛一を父に、東京都世田谷に生まれた。54年世田谷区立桜丘中学校を卒業し都立千歳高校に入学。父親が塑像家であったため、このころからすでに粘土や石膏での造形に親しむ。55年同校を卒業して56年東京芸術大学美術部彫刻科に入学。菊池一雄教室に入る。59年第23回新制作協会に「裸」で初入選。60年若林奮、高松次郎らと20代作家集団を結成して作品展を開催し、鉄鋳物とブロンズの作品を出品する。この年、以前から興味を抱いていた木版、銅版、リトグラフ等の版画の制作を始める。版画制作は立体造形と並行して生涯続けられたが、初期の版画はドローイングを主とし、次第に幾何学的形象を持つ明快な色面を構成する作品へと移行した。同年東京芸術大学彫刻科を卒業。卒業制作「儀式」は少しずつ差異を持つ似たような形をならべて全体を構成する「儀式」シリーズの一点で、この頃小田は「数において個と群、あるいは単位が組織化されることで単独で作品が存在する事実に強く捉われていた」(小田襄「私的領域について」『季刊現代彫刻』10)という。この作品によってサロン・ド・プランタン賞を受賞。同年4月同学彫刻専攻科に入学。鉄や真鍮を溶接した作品を制作し始める。同年第24回新制作協会展に鉄による作品「柩車」を出品して新作家賞受賞。61年第25回新制作協会展に「儀式」を出品して前年に引き続き新作家賞受賞。62年東京芸術大学専攻科を卒業。同年第5回現代日本美術展に真鍮を溶接した作品「儀式」を出品。63年神田スルガ台画廊で初個展「閉ざされた金属」を開催。同年第1回全国野外彫刻コンクール展(宇部市野外彫刻美術館)に「儀式-XIV」を出品し、宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。64年第6回現代日本美術展に鉄による大作「箱の人」を出品。同年7月渡欧。ユーゴスラヴィア、フォルマ・ビバ主催の国際彫刻シンポジウム金属部門に招待され、大小や縦横比の様々な方形の金属板で構成した「ラヴネの箱」を制作。この頃から国際的に注目され、同年9月の『ライフ』誌日本特集号に若手彫刻家として紹介される。イタリア、フランス、ドイツ、オランダ、スイス、エジプト、ギリシャなどを巡り、同年10月に帰国。65年第1回現代日本彫刻展(宇部市)にステンレスによる巨大なモビール「一週間」を出品し、宇部市野外彫刻美術館賞を受賞。この頃、鉄やステンレスに着色した抽象的彫刻を制作。66年ポーランド美術連盟の招待によりプアヴィ市における「芸術と科学のシンポジウム」に参加し、金属による「風の鏡」を制作して、優秀賞を受賞。67年3月イタリア政府留学生となり、渡欧準備を始め、8月に北欧に向けて渡航。コペンハーゲンなど北欧諸国の後、チェコスロヴァキア、ドイツを経て、ヴェニス、フィレンツェを巡って10月からローマに居住する。都市の構造に興味を抱き、イタリア各地を巡って写真を撮る。68年7月チェコスロヴァキアのホジツェで開かれた国際彫刻シンポジウムに招待参加し石による作品を制作する。8月、プラハで個展を開催するが8月20日に五カ国の侵入によりウィーンへ脱出する。同年12月帰国の途につき、ヨーロッパを巡遊して帰国する。68年第3回現代日本彫刻展(宇部市)にステンレスによる「計画」を出品して毎日新聞社賞を受賞。73年7月、再度渡欧し、フランス、ドイツ、北欧、スペイン、東欧を巡り、11月末に帰国する。この間に行われた第5回現代日本彫刻展に出品し、神戸須磨離宮公園賞を受賞した「円と方形」にあらわれるように、初期から行われていた単純な幾何学的形態による構成は、方形と円形を基本的構成要素とする制作へと展開した。74年第4回神戸須磨離宮公園現代彫刻展にステンレスによる「風景の領域」を出品し、神戸公園協会賞を受賞。75年第11回現代日本美術展に「円と方形-大地と天空の…」を出品し、佳作賞受賞。同年長野市野外彫刻賞を受賞する。77年第41回新制作展に「円柱と方形の要素」を出品。同年、この作品によって中原悌二郎賞優秀賞を受賞。79年代第1回ヘンリー・ムーア大賞展に「銀界…風景の時間」を出品して優秀賞受賞。80年第7回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「銀界…風景の対話」を出品して国立国際美術館賞を受賞。82年第8回神戸須磨離宮公園現代彫刻展に「銀界…風景の中の風景」を出品して朝日新聞社賞受賞。83年神奈川県立近代美術館で「小田襄展」を開催。84年現代日本彫刻展(神戸須磨離宮公園)で大賞受賞、88年ラヴェンナ国際彫刻ビエンナーレで金メダル受賞、1994(平成6)年ニュージーランド国立サージェントギャラリーにて個展、96年倉吉市博物館で個展を開催した。初期から続けられた版画制作においては、70年の第7回東京国際版画ビエンナーレ、72年の第8回同展、73、74年の現代日本の版画展に出品したほか、個展での発表を行った。83年より90年まで東北工業大学教授、90年より多摩美術大学彫刻科教授をつとめ後進の指導にあたった。また、64年より日本美術家連盟に入り、84年より委員、理事、常任理事等を歴任し、2000年からは連盟理事長をつとめ、美術家の職能と社会的位置の擁護のために尽力した。1960年代初期には幾何学的な形態を組み合わせる構成を様々な素材によって試みたが、1960年代後半から素材は金属に絞られるようになり、鏡面のような表面を用い、周囲の風景や光の変化によって表情を変える作品を制作した。量塊性や、立体としての自立性を求めてきた近代彫刻の流れに対し、作品に色彩や鏡面を導入して立体造型に新たな一面を開いた。

風間完

没年月日:2003/12/27

読み:かざまかん  洋画家で、新聞等の連載小説の挿絵で知られた風間完は、12月27日、がん性腹膜炎のため東京都港区の病院で死去した。享年84。1919(大正8)年1月19日、現在の東京都中央区新富に生まれる。1939(昭和14)年、東京高等工芸学校を卒業。2年間の兵役の後、画家を志し、43年の第8回新制作派協会展に初入選する。以後、猪熊弦一郎、内田巌、荻須高徳等に師事する。49年、第13回新制作派協会展に「堀」、「低地」、「舗道」3点を出品、新作家賞を受賞。はじめ雑誌編集者だった兄の縁で、山本周五郎等の小説の挿絵を描き、53年には、邦枝完二の新聞連載小説「恋あやめ」の挿絵を手がけた。翌年、第18回新制作派協会展に出品後、同協会会員となる。57年から2年間パリに留学、グラン・ショーミエール研究所に学んだ。64年、講談社挿絵賞を受賞。67年に再渡仏、フリード・ランデル工房にて銅版画を制作。69年、週刊誌『週刊現代』に連載された五木寛之の小説「青春の門」の挿絵を担当して注目される。翌年には『毎日新聞』に連載の司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」、他に『週刊文春』に64年から71年まで連載された松本清張の「昭和史発掘」、74年から82年まで『週刊朝日』に連載された池波正太郎の「真田太平記」、81年から翌年まで『日本経済新聞』に連載された瀬戸内晴美(寂聴)の「京まんだら」等など数多くの小説の挿絵を描いた。2002(平成14)年には、長年にわたる文学作品の挿絵制作に対して第50回菊池寛賞を受賞した。著書も多く、『画家の引き出し』(青娥書房、77年)、『エンピツ画のすすめ』(朝日新聞社、87年)、『旅のスケッチ帖』(角川書店、95年)、画集には『青春の門』(講談社、75年)、『風間完自選画集』(朝日新聞社、85年)等がある。鉛筆やパステルを使用した叙情的な風景画や情感豊かな女性像によって人気を得ていた。没後の2004年には、池波正太郎真田太平記館(長野県上田市)において追悼展「風間完が描く『真田太平記』の女たち」が開催された。

守屋多々志

没年月日:2003/12/22

読み:もりやただし  日本画家の守屋多々志は12月22日午後0時45分、心不全のため東京都中央区の病院で死去した。享年91。1912(大正元)年8月10日、岐阜県大垣市の味噌たまり醸造元の家に生まれる。本名正。生後百日目に米屋を営む分家の養子となり、謡曲に堪能な養父と文学好きな養母に育てられる。初め油彩画を描いていたが、雑誌で「平治物語絵巻」の甲冑武者の群像を見て開眼、1930(昭和5)年に旧制大垣中学校(現、大垣北高等学校)を卒業後、上京し歴史画の大家であった前田青邨に書生として入門、写生と並行して「源氏物語絵巻」「餓鬼草紙」「豊明絵草紙」等の絵巻物を模写して研鑽を積む。さらに東京美術学校日本画科へ入学し、36年の卒業制作「白雨」は川端玉章賞を受けた。翌年現役兵として応召し満州、ハルピンに駐屯、41年には海軍軍令部で小説家の吉川英治とともに海軍史編纂に従事、同年海軍記念館に壁画「蒙古襲来」を制作した。また同年の第28回院展に「継信忠信」が初入選。戦後、49年第34回院展出品の「ふるさとの家一~四」が奨励賞を受ける。50年には『週刊朝日』の連載小説、吉川英治「新平家物語」の挿絵原画を担当、また黒沢明監督の映画「羅生門」の衣装をデザインする。54年総理府留学生となりイタリアに2年間滞在、この間ローマやポンペイで壁画を模写し、レッジョ・ディ・カラブリア市やローマでスケッチ展を開催する。60年鎌倉円覚寺金堂天井画「白龍」を制作し、67年には法隆寺金堂壁画の再現模写事業に参加、第10号壁「薬師浄土」を担当する。また72年には文化庁より高松塚古墳壁画模写を委嘱、76年には飛鳥保存財団の依頼による高松塚壁画展示の模写作成に総監督として携わった。この間、院展で70年第55回「砂に還る(楼蘭に想う)」、71年第56回「牡丹燈記」、73年第58回「水灔」がともに奨励賞となり、74年同人に推挙される。さらに77年第62回「駒競べ」が文部大臣賞、78年第63回「平家厳島納経」により翌年芸術選奨文部大臣賞、85年第70回院展「愛縛清浄」は内閣総理大臣賞を受賞。東西交流をテーマとした79年第64回「キオストロの少年使節」、1990(平成2)年第75回「アメリカ留学(津田梅子)」、92年第77回「ウィーンに六段の調(ブラームスと戸田伯爵極子夫人)」等、確かな考証に現代的な解釈を加えた歴史画を次々に発表した。その間、79年高野山金剛峯寺別殿襖絵82面を完成させ、81年ローマ法王ヨハネ・パウロ二世に東京大司教区から献上された「ジェロニモ天草四郎」を制作。85年には本能寺の依頼による「法華宗開祖日降聖人絵巻」を制作する。83年には百人一首の画像研究に打ち込み、「百人一首歌人像」(学研)を制作。84年から86年にかけて『日本経済新聞』の連載小説、黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」の、また85年には『朝日新聞』の連載小説、城山三郎「秀吉と武吉」の挿絵原画を担当。86年神奈川新聞社より第35回神奈川文化賞を授与。88年財団法人仏教伝道協会より第23回仏教伝道文化賞を受賞。89年には御下命により紀宮殿下御成年の御扇子を揮毫。91年東京ステーションギャラリーで開催された「守屋多々志展―源氏物語と歴史を彩った女性たち」に源氏物語をテーマとした新作の扇面画130点を出品。92年には神社本庁の依頼による「平成御大礼絵巻」を完成させる。2001年文化勲章受章。同年大垣市守屋多々志美術館が開館。また66年愛知芸術大学講師、74年同教授(78年まで)となり美術学部長、教育資料館長を歴任した。回顧展は94年に岐阜県美術館で、96年に茨城県近代美術館で開催されている。美術史家の守屋謙二は実兄。

菊地養之助

没年月日:2003/12/15

読み:きくちようのすけ  日本画家で創画会会員の菊地養之助は12月15日午後11時45分、肺炎のため東京都港区の病院で死去した。享年95。 1908(明治41)年1月17日、福島県大沼郡本郷村に生まれる。高等小学校卒業後に上京し、1924(大正13)年より川端画学校で画を、1935(昭和10)年クロッキー研究所でデッサンを学ぶ。47年共産党系前衛作家の主導による前衛美術会結成に参加。48年第2回日本アンデパンダン展に出品。この時期、社会的テーマに惹かれ農民、労働者、庶民といった人間群像を描く。50年第3回創造美術展に「工場裏風景」を出品。翌年同会は新制作派協会と合流、その第15回展に「墨東裏町」「階段の人」を出品。以後、同展日本画部に毎回出品する。56年新制作春季展で春季賞を受賞。以後、62年、63年に同賞を受賞。59年原水爆禁止世界大会記念美術展に出品。62年第26回新制作展日本画部で「鳩のいる家族」「母と子」が新作家賞を受賞。63年、66年にも同賞を受賞する。62年より68年頃まで人間風刺をこめた仮面シリーズに取り組む。その間、64年五人展(東京、スルガ台画廊)に出品。67年新制作協会日本画部の会員となる。74年に新制作協会より日本画部が退会し、創画会が結成された後は同会に会員として毎回出品。89年みずさわ画廊にて回顧小個展を開催した。

西村公朝

没年月日:2003/12/02

読み:にしむらこうちょう  仏像彫刻家で、東京芸術大学名誉教授の西村公朝は、12月2日午前9時55分、心不全のため大阪市立吹田市民病院で死去した。享年88。1915(大正4)年6月4日、大阪府高槻市富田町に生まれた。彫刻家を志し、1935(昭和10)年に東京美術学校に入学、彫刻科の木彫を専攻する。40年に卒業。帰郷して私立大阪工科学校の美術教師となる。日本美術院(第二部)初代院長である新納忠之介の誘いにより、41年1月美術院に入り京都・妙法院(三十三間堂)千手観音像をはじめとする仏像の修理に取り組んだ。42年7月の応召に伴う中国出征中に仏像修理者としての道を改めて誓い、46年1月に復帰。52年、妙法院執事長である坂田公隆の勧めにより京都・青蓮院で得度。公朝の法名を授かったことを機に、戸籍名も利作から公朝に改めた。以後、仏教の研学にも努め、55年には愛宕念仏寺の住職となった。59年に美術院国宝修理所所長となり、68年に美術院の財団法人化を実現して所長を辞職し理事・技術顧問に就任するまでの間、約1300躯にものぼる仏像の修理に携わった。その間、64年に東京芸術大学大学院保存修復技術研究室の非常勤講師、67年に同大助教授、74年に教授となり、83年に退職するまで後進の育成に尽力した。86年から吹田市立博物館建設準備委員会の委員を経て、1992(平成4)年の開館から2003年まで同博物館館長をつとめた。その傍らで、仏像や仏画の制作にも取り組み、仏教の真髄を慈悲と見なしその教えを体現するために、伝統的な図像には必ずしも則らず、むしろそれを昇華し簡略化した親しみやすい仏像表現を追求した。71年以降毎年秋には、グループ展「ほとけの造形展」を開催している。また、あらゆるものに仏性は宿るという「悉有仏性」の仏性観から、粘土、ガラス、石など身近な素材を利用し、形式にとらわれない自由な発想で数多くの仏像を制作した。87年には比叡山延暦寺戒壇院本尊の釈迦如来像、同八部院堂本尊、妙見菩薩像等、91年(平成3)には目の不自由な人が自由に触れることのできる「ふれ愛観音」、2001年には法隆寺聖徳太子1380年御聖諱の大法要にちなんで勝鬘夫人、維摩居士像等の大作も制作し、晩年に至るまで創作意欲は衰えるところがなかった。2003年には吹田市メイシアターで「西村公朝 仏の世界」展、同年11月には京都・清水寺で「西村公朝 生まれてよかった」展、また、2005年には吹田市立博物館で三回忌を期して「西村公朝 祈りの造形」展が開催された。著書は、仏像研究の成果をまとめた『仏像の再発見』(吉川弘文館、1976年)をはじめ多数。75年、紫綬褒章。83年、仏教伝道文化賞。89年、東方文化賞。87年、勲三等瑞宝章。2000年、岐阜県主催第一回円空大賞。2002年、大阪文化賞を受賞。

西村功

没年月日:2003/12/01

読み:にしむらいさお  洋画家の西村功は、12月1日午前3時5分肺炎のため神戸市東灘区の病院で死去した。享年80。1923(大正12)年10月26日、大阪市南森町に生まれる。3歳の時に病気で聴覚を失い、大阪府立聾口話学校に進む。中之島洋画研究所に学んだ後、帝国美術学校を1948(昭和23)年に卒業。50年第4回二紀展に「女学生」が初入選、佳作賞を受賞し、51年に同人、56年には委員に推挙される。50年代はじめに赤帽を題材にしたことを契機に、駅や駅員、時計、乗客、プラットホームなどを描いた。モチーフを大きくとらえた画面は、複雑に塗り重ねられる一方で時に縦横に引掻く線も用いられ、喧噪の中の一瞬を静謐に描き出している。70年に初渡欧の後たびたび渡欧し、パリの街景やメトロ、行き交う人びとにも題材を広げた。65年に「ベンチの人びと」で第9回安井賞を受賞。86年第40回二紀展には「シテ駅界隈」を出品、総理大臣賞を受賞している。82年神戸市文化賞、88年兵庫県文化賞受賞。82年『西村功画集―駅・人生・パリ』(神戸新聞出版センター)、1991(平成3)年『西村功画集1950~1976』(海文堂ギャラリー)、2001年『西村功初期デッサン集』(ギャラリー島田)がそれぞれ出版されている。また、06年4月には西宮市大谷記念美術館で回顧展が開催される予定である。

由木礼

没年月日:2003/11/26

読み:ゆきれい  版画家の由木礼は11月26日12時5分、心筋梗塞のため死去した。享年75。本名上村礼生(うえむら・のりお)。1928(昭和3)年11月7日、東京・芝白金に生まれる。45年3月日本中学を卒業。大学受験を控えた由木を残して家族は福岡県に越していたが、同年4月、父を失ったため由木も福岡に移り住む。47年上京、萩原朔太郎の詩に衝撃を受ける。続いてボードレールやポーに惹かれ、それらを原語で読むためにフランス語と英語を学び、アテネ・フランセに通う。52年同校を卒業、そのまま職員となる。この頃恩地孝四郎や品川工の版画を知り、品川に師事する。53年第21回日本版画協会展に「陽気な風景」「五月の葬式」で初入選。56年、品川が中心となったグラフィック・アート・クラブに参加、グループ展に出品し人的交流を広げ、それを契機に57年サトウ画廊で初個展を開催した。70年第47回春陽展に「デュラの雪」「ホワイトピラミッド」が初入選、76年春陽会会員。ほぼ毎年日本版画協会展と春陽展に作品を発表した。加えて国際木版画展に参加したほか、ニューヨークやトロントなど海外でも個展を開催。81年にフランスのシャロン市立ドゥノン美術館で個展を、翌82年には神奈川県民ホールで土谷武、難波田龍起とともに三人展を開催する。1997(平成9)年、版画集団「版17」を結成、国内外でグループ展を開催した。99年第76回春陽展で岡鹿之助賞を受賞。由木は木版のマティエールを生かし、「時」をよく題材にした。60年代半ばには、その抽象的な形態に地面から立ち上がり長く伸びたゆらめく黒線が現れ、画面は具象と空想が入り混じった空間となった。90年代には色彩豊かなピラミッドをよく描く。そのほか由木は由木式ボールバレンと呼ばれるばれんを開発し、発光する造形作品「カレイドスペクトラ」や絵札「悪魔骨牌」(あくまかるた)も創作している。2005年には『由木礼全版画集』が玲風書房から出版されている。

圓鍔勝三

没年月日:2003/10/31

読み:えんつばかつぞう  多摩美術大学名誉教授で文化勲章受章者の彫刻家圓鍔勝三は、10月31日午後7時45分、うっ血性心不全のため川崎市中原区の病院で死去した。享年97。1905(明治38)年11月30日、広島県御調郡河内町(現、御調町)に生まれる。本名勝二(かつじ)。1921(大正10)年彫刻家を志して京都へ赴き、石割秀光の内弟子となって木彫を学ぶ。26年、京都市立商工専修学校彫刻科・デッサン科に入学。また、同年関西美術院に入り、この時期を通じて徒弟的教育による職人技としての木彫から近代的造形へと歩み始める。1928(昭和3)年上京し、日本美術学校に入学。30年第11回帝展に木彫「星陽」で初入選。翌年も第12回帝展に木彫「みのり」で入選する。32年日本美術学校を卒業し、木彫家澤田政廣に師事し始める。帝展改組後も官展に出品を続け、39年第3回新文展に木彫「初夏」を出品して特選を受賞、40年紀元2600年奉祝展に木彫「庭」を出品する。41年澤田政廣、三木宗策の主導する正統木彫家協会に会員として参加し、その第1回展に「道化師」を出品する。43年北海道の炭鉱推進隊員として中村直人、古賀忠雄、木下繁らと激励彫刻を制作。この後45年まで九州、常盤の各炭鉱をまわって制作する。戦後は46年春の第1回日展に木彫「芸」を出品して官展に参加し、同年秋の第2回日展では木彫「砂浜」で特選を受賞。47年多摩美術学校(現、多摩美術大学)助教授となる。また、同年第3回日展に木彫「しろうさぎ」を招待出品して特選受賞。50年多摩美術短期大学教授となる。同年第6回日展に木彫「土器を持つ女」を出品して特選受賞。51年に設立された日本陶彫会に参加し75年まで出品を続ける。52年日本彫塑会会員となる。53年多摩美術大学教授となる。この頃からブロンズ像も制作し始め、同年第9回日展に出品した木彫「仲間」のブロンズ像を同年東京駅八重洲口に設置、翌年も第10回日展に出品した木彫「むつみ」のブロンズ像を東京駅八重洲口に設置する。55年第11回日展に木彫「古の話」、56年第12回日展に木彫と金属を組み合わせた「かがみ」を出品。57年第13回日展に木彫「幻想」を出品して川合玉堂賞を受賞する。58年第1回社団法人日展に木彫「仏法僧」を出品。同年社団法人日展会員となる。60年本名勝二から勝三と改名。同年第3回日展に「星羅」を出品する。62年東南アジア、中近東、欧米を巡遊。65年第8回日展に「旅情」を出品して文部大臣賞受賞、翌年この作品により日本芸術院賞を受賞。69年日展理事となり、翌年日本芸術院会員となる。75年堅山南風とともにタヒチへスケッチ旅行。78年第10回日展に木彫「夢 夢 夢」を出品し、同年東京池上本門寺の「仁王像」(木彫一対)を完成させる。80年日本彫塑会が日本彫刻会と改名し、その理事長となる。同年神奈川県文化賞受賞。81年日展顧問、82年文化功労者となる。85年「彫刻60年―圓鍔勝三展」を東京の日本橋三越および郷里の広島県立美術館で開催。88年文化勲章を受章。1990(平成2)年「文化勲章受章記念―圓鍔勝三彫刻展」を川崎市市民ミュージアムで開催。93年には伊勢神宮式年遷宮にあたり神宝「神馬」(木彫)を制作。また、同年故郷の広島県御調町に「圓鍔記念公園・記念館」が開館した。初期には木彫を中心に制作したが、戦後はブロンズ、石、テラゾー、陶磁、樹脂等多様な素材を用い、それらを混合した表現も行った。戦後の美術界で抽象表現を取り入れる作家が多い中で、初期から穏健な写実を基礎に簡略化した人体像をモティーフとし、具象彫刻による新たな造形を模索。「幻想」「星羅」「夢 夢 夢」などロマンティックな主題を表象する作風を示した。 著書に『わが人生』(時の美術社 1989年)、『続・わが人生』(時の美術社 1997年)がある。

若林奮

没年月日:2003/10/10

読み:わかばやしいさむ  彫刻家で、多摩美術大学教授の若林奮は、10月10日、胆管がんのため東京都杉並区の病院で死去した。享年67。1936(昭和11)年1月9日、東京府町田町原町田1番地に生まれる。55年4月、東京芸術大学美術学部彫刻科に入学。59年2月、みつぎ画廊(東京)で最初の個展を開催。同年3月同大学を卒業、基礎実技教室の副手となる(61年まで)。60年9月、第45回二科展に初入選。同展には、66年の第51回展まで毎回出品。67年10月、第2回現代日本彫刻展(宇部野外彫刻美術館)に「中に犬・飛び方」出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞。翌年2月、第1回インド・トリエンナーレに「北方金属(2nd Stage)」等を出品。同年10月、第1回現代彫刻展(神戸須磨離宮公園)に「犬から出る水蒸気」を出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞。69年5月、第9回現代日本美術展(東京都美術館)に「不透明・低空」を出品、東京国立近代美術館賞を受賞。70年9月、第2回現代彫刻展(神戸須磨離宮公園)に「多すぎるのか、少なすぎるのか?Ⅰ~Ⅷ」を出品、K氏賞受賞。71年、淀井彩子と結婚、同年吉増剛造の詩集『頭脳の塔』の挿絵を担当する。72年3月、エジプト、ギリシャを旅行。73年7月、神奈川県立近代美術館で「若林奮 デッサン・彫刻展」開催、59年から近作までを出品。同年10月、文化庁芸術家在外研修員としてパリに滞在、翌年11月帰国。75年4月、武蔵野美術大学助教授となる。同年10月、第6回現代日本彫刻展(宇部市)に「地表面の耐久性について」を出品、神奈川県立近代美術館賞を受賞。77年10月、第7回現代日本彫刻展に「スプリング蒐集改」を出品、東京都美術館賞を受賞。同年11月、個展「若林奮 彫刻展」(東京、雅陶堂ギャラリー)を開催。大地の堆積と地表の表面との関連を独自に増幅させた出品作のひとつ「100粒の雨滴」が、翌年の第9回中原悌二郎賞優秀賞を受賞する、また同個展において自然のなかの時間の連続と空間のなかでの存在という不連続な関係を追求した「振動尺試作」(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)を発表した。80年6月、第39回ヴェネツィア・ビエンナーレに「100粒の雨滴 Ⅰ~Ⅲ」等を出品。82年2月、画文集『境川の氾濫』(雅陶ギャラリー発行)を刊行。同年11月、個展「若林奮 大気中の緑色に属するもの」(雅陶ギャラリー竹芝)を開催。84年3月、武蔵野美術大学教授を辞す。同年11月、個展「若林奮 所有・雰囲気・振動」(雅陶ギャラリー竹芝)、翌月にも個展「若林奮 所有・雰囲気・振動―森のはずれ」(東京、アキライケダギャラリー)開催。85年8月、財団法人高輪美術館(軽井沢)の庭園を制作。86年6月、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。87年10月、東京国立近代美術館にて「若林奮」展を開催。70年代中頃からはじめられた「振動尺」のシリーズと近作の「所有・雰囲気・振動」のシリーズによって構成された内容であった(同展は、同年12月から翌年1月まで、京都国立近代美術館に巡回)。88年2月、北九州市立美術館にて「若林奮:1986.10―1988.2」展開催。1990(平成2)年2月、町田市立国際版画美術館にて「若林奮 版画・素描・彫刻展」開催。95年1月、東京国立近代美術館にて同館に作家自身より寄贈された水彩、素描類2627点のうち317点によって構成された「若林奮展―素描という出来事」開催。96年2月、足利市立美術館にて「煙と霧―若林奮展」を開催(同展は、翌年にかけて郡山市立美術館、山形美術館を巡回)。同年、「Daisy Ⅲ―2」によって第27回中原悌二郎賞を受賞。同年から、東京都日の出町につくられるゴミ処理場計画に反対する市民によるトラスト運動に連帯し、建設予定地に作品として「緑の森の一角獣座」を作庭した(同作品は、2000年10月東京都の強制収用により消滅)。97年2月、名古屋市美術館にて「若林奮 1989年以後」展開催(同展は、神奈川県立近代美術館、大原美術館、高知県立美術館を巡回)。同年11月、マンハイム美術館(ドイツ)にて「Isamu Wakabayashi」展開催(同展は、アーヘンのルードヴィヒ・フォーラムを巡回)。02年10月、豊田市美術館にて「若林奮展」開催。同展は、60年代の初期の彫刻、素描から近作までの作品によって構成された初めての、そして本格的な回顧展となり、これが評価され03年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。一方、99年から2003年まで、多摩美術大学教授として後進の指導にあたった。03年9月に開催した「飛葉と振動―2003」(東京、横田茂ギャラリー)が最後の個展となった。創作の初期から、鉄という素材に注目した作家であったが、時流に迎合することなく独特の造形、空間感覚と思想を深めており、その点は30代で神奈川県立近代美術館での個展開催にみられるようにはやくから評価されていた。その後も、単に造形の問題としてではなく、自然、時間等に思考を深め、その結晶が「振動尺」のシリーズであったといえる。さらに、自然の鼓動を見つめ、表現する姿勢は、たとえば晩年の日の出町におけるゴミ処理場建設計画反対への共感として、社会性をおびることにもなったが、その造形思考と思想は一貫して深められていたことをものがたる活動であった(用地の強制収用で未完に終わった作庭制作は、作家自身の死去後も、その遺志を継いだ関係者等によって現在もなおつづけられているという)。時代や社会に鋭く異をとなえつつ、自然を前に豊かな表現を獲得することができた作家として現代彫刻のなかでも独自の地位をしめるにいたったことは、高く評価できる。没後の05年9月に世田谷美術館において「若林奮 版画展―デッサンと彫刻の間」が開催された。

芦原義信

没年月日:2003/09/24

読み:あしはらよしのぶ  建築家で、文化勲章受章者の芦原義信は、大腸がんのため東京都新宿区の病院で死去した。享年85。1918(大正7)年、東京に生まれる。自身の述懐によれば、両親とも軍医の家系ながら、叔父に藤田嗣治、遠縁に小山内薫、兄は後に音楽舞踏評論家となる芦原英了がおり、芸術への関心がはやくからあったという。1942(昭和17)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業、同年、海軍技術士官として入隊。45年、復員後坂倉準三建築事務所、現代建築研究所等に勤務する。52年米国政府留学生として渡米、イエール大学の講習の後、ハーバード大学デザイン学部大学院に入学。53年同大学院を卒業後、ニューヨークのマルセル・ブロイヤー事務所に入所した。54年、帰国後中央公論ビルを設計、同年法政大学工学部講師となる(59年に同大学教授となる)。60年、中央公論ビルの設計に対して昭和34年度日本建築学会賞受賞。65年、駒沢公園(東京都世田谷区)オリンピック体育館及び管制塔の設計に対して、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、同年法政大学を辞任し、武蔵野美術大学教授建築科主任となる。66年、東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなった。68年、モントリオール日本館の設計に対して、昭和42年度芸術選奨文部大臣賞受賞。70年、東京大学教授となる。79年、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行、毎日出版文化賞を受賞。84年、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の設計に対して、日本芸術院賞を受賞。88年、日本芸術院会員となる。日本建築家協会、日本建築学会の会長を歴任。1998(平成10)年、文化勲章受章。モダニズム建築として注目されたが、そればかりではなく単体としての建築ではなく、都市と建築、内部と外部のつながり、そうした関心は、「街並みの美学」として結晶した。それに基づく提言は、日本における町づくり、町の景観への配慮という社会的、行政的な課題としても注目された。

渡邉武夫

没年月日:2003/09/11

読み:わたなべたけお  日本芸術院会員の洋画家渡邉武夫は9月11日午後9時50分、呼吸不全のため東京都青梅市の病院で死去した。享年87。1916(大正5)年7月2日東京市本所区亀沢町(現東京都墨田区)に生まれる。幼少時に浦和に転居し、1929(昭和4)年埼玉県立浦和中学校(旧制)に入学する。同校在学中、美術教師であった福宿光雄に影響を受け、十代半ばで画家を志す。33年黒田清輝に師事した洋画家小林萬吾の主宰する同舟舎洋画研究所に入り、デッサンを学ぶ。34年浦和中学校を卒業し、東京美術学校油画科予科に入学。翌年同校油画科本科に進学し、南薫造教室に学ぶ。また、同年から寺内萬治郎に師事する。東京美術学校在学中の38年第25回光風会展に「長老坐像」「停車場の一隅」「グハルの午後」を出品してF氏賞を受賞。同年第2回新文展に「騎馬像のある部屋」を初出品し入選する。39年第26回光風会展に「本屋の一隅」「男」を出品して船岡賞受賞。同年東京美術学校油画科を卒業する。40年第27回光風会展に「男たち」「神父さんと子供たち」を出品して光風賞を受賞し、同会会友となる。41年第28回光風会展に「S先生の像」を出品して光風特賞を受賞。また、第4回新文展に椅子に座して読書する老紳士をやや俯瞰してとらえ、写実的な画技を示した「老図書館長Tさんの像」を出品して特選受賞。43年第8回新文展に「診察室の宮崎先生」を出品して、二年連続して特選を受賞する。44年光風会会員となる。また、同年寺内萬治郎門下生による「武蔵野会」を結成する。戦後も官展および光風会展に出品を続ける。55年、初めて渡欧し、パリのグラン・ショーミエールで学ぶほか、ヨーロッパ各地を旅行。この留学中、グラン・ショーミエールでの学友に啓発され、それまで人物を主に描いていた作風が風景画中心に変化する。翌年帰国し、58年に留学の成果を東京銀座松屋における「渡邉武夫滞欧作品展」で発表。61年社団法人日展会員、66年日展評議員となる。71年再度渡欧しヨーロッパ各国を巡遊。73年秋、パリ近郊および南フランスに取材旅行。翌年第6回日展に「カアニュ好日」を出品して内閣総理大臣賞を受賞。武蔵野の風景にも取材するが、近代化による景観の変化が少ないフランス風景に次第に傾斜を強めていき、しばしば渡欧して制作するようになる。77年初夏にパリ近郊を、79年1月および5月に南仏を、82年5月および84年7月にはブルターニュを訪れる。85年、日展出品作「シャンパァニュの丘」により第41回日本芸術院賞を受賞。また、同年、社団法人日展理事となる。88年日本芸術院会員、89年社団法人日展常務理事、1990(平成2)年光風会常任理事となる。91年「画業60年渡邉武夫展」(東京銀座、松屋)を開催。97年光風会理事長に就任した。また、美術教育にも従事し、47年から51年まで東京美術学校師範科講師、51年から埼玉大学教育学部美術学科講師、66年から73年まで女子美術大学洋画科講師を勤めた。初期には人物画を、最初の渡仏以降は風景画を中心に描いたが、一貫して堅実な写実に基づき、人々の生活に思いを到らせる画風を示した。没後の2005年埼玉県立近代美術館で「渡邉武夫の世界―武蔵野の風・南仏の光」展が開催された。

柳澤孝

没年月日:2003/09/06

読み:やなぎさわたか  美術史研究者で東京文化財研究所名誉研究員の柳澤孝は、9月6日、急性心不全のため死去した。享年77。葬儀は近親者だけで営まれ、偲ぶ会が同年10月末日に東京文化財研究所で行われた。1926(大正15)年1月16日、長野県上田市上田6500番地に生まれる。1943(昭和18)年3月、長野県立上田高等女学校を卒業。45年9月、日本女子大学国文科を卒業するとともに同大学補修科に進学。46年3月、同大学補修科を修了。そののち日本美術史とくに絵画史の研究のために美術研究所(現在の独立行政法人文化財研究所 東京文化財研究所の前身)において文部技官・秋山光和の指導を受け、同年9月、美術研究所雇となる。59年9月1日、文部技官に任官。72年7月1日に東京国立文化財研究所美術部主任研究官に、82年4月1日、同美術部第一研究室長に昇任。84年4月1日、美術部長に就任。87年3月、定年退職する。研究所在職中から非常勤講師として東京大学文学部、同大学東洋文化研究所、慶應義塾大学文学部、学習院大学、東京藝術大学へも出講し、後進の育成にも心血を注ぐ。斯界で現在活躍する美術史研究者・文化財修復技術者のなかで謦咳に触れた者は数多い。柳澤の学究は永年にわたって日本仏教絵画史研究に携わり、網羅的かつ綿密な作品調査を行ったことで知られ、成果をもとに多くの著書・論文があらわされた。その研究手法はX線透過撮影、赤外線撮影、双眼実体顕微鏡などの光学的・科学的手法を積極的に用い、それまで解明が困難であった絵画の顔料の種類、描法を明らかにして、仏画研究の手法を開拓するとともにその指針を示し、研究そのものを飛躍的に引き上げた。今日の仏画研究の水準は柳澤が提示した成果によっているものが少なくない。ちなみに、成果のひとつである『醍醐寺五重塔の壁画』(高田修編、高田修・上野アキ・宮次男・山﨑一雄・伊藤卓冶と共著、吉川弘文館、1959年)により、1960(昭和35)年に日本学士院恩賜賞を受賞した。ここで主要な著作をあげると以下の通りである。編著書には上述の『醍醐寺五重塔の壁画』のほかに、『高雄曼荼羅』(東京国立文化財研究所美術部編、高田修・秋山光和・神谷栄子と共著、吉川弘文館、1967年)、『仏画(原色日本の美術7)』(高田修と共著、小学館、1969年)、『扇面法華経』(東京国立文化財研究所監修、秋山光和・鈴木敬三と共著、鹿島研究所出版会、1972年)、『仏画(ブック・オブ・ブックス 日本の美術9)』(高田修と共著、小学館、1975年)、『法隆寺 金堂壁画(奈良の寺8)』(岩波書店、1975年)、『日本の仏画』第一期・全十巻(田中一松・亀田孜監修、高崎富士彦・中野玄三・浜田隆と共編、学習研究社、1976年~1977年)、『同』第二期・全十巻(田中一松・亀田孜監修、高崎富士彦・中野玄三・浜田隆と共編、学習研究社、1977年~1978年)、『在外日本の至宝』第一巻・仏教絵画(毎日新聞社、1980年)、『当麻寺(大和の古寺2)』(辻本米三郎・渡辺義雄と共著、岩波書店、1982年)、『紫式部日記絵巻 蜂須賀家旧蔵本 一巻 重要文化財(複刻日本古典文学館 第2期)』(監修、ほるぷ出版、1985年)、『平等院大観』第3巻・絵画(秋山光和編、岩波書店、1992年)があげられる。また、代表的な論文に「藤田美術館の密教両部大経感得図に就いて」(『美術研究』187号、1957年)、「一字金輪曼荼羅図について―その図像学的並びに遺品の美術史的考察―」(『美術研究』208号、1960年)、「青蓮寺旧蔵の立像十二天図について」(『國華』823号、1960年)、「藤原時代普賢菩薩絵像の一遺例」(『美術研究』220号、1962年)、「大和永久寺真言堂障子絵と藤田本密教両部大経感得図―その製作年代と作家―」(『美術研究』224号、1963年)、「転法輪筒とその絵画」(『美術研究』231号、1963年)、「繭山家本 紺紙金字法華経及び開結経―主として観普賢経について―」(『古美術』7号、1965年1月)、「青蓮院伝来の白描金剛界曼荼羅諸尊図様(上・下)」(『美術研究』241、242号、1965年)、「松尾寺所蔵の終南山曼荼羅について―唐本北斗曼荼羅の一異図―」(『美術研究』248号、1966年)、「仁和寺蔵宝珠筥納入の板絵四天王像について」(『美術研究』256号、1967年)、「仁平三年銘の持光寺蔵普賢延命菩薩絵像」(『美術研究』254号、1969年)、「永久寺真言堂障子絵色紙形下より出現の鷹図について」(『美術研究』266号、1969年)、「慈尊院弥勒仏像台座蓮弁の装飾文様」(『美術研究』283号、1972年)、「日野原家本大仏頂曼荼羅について」(『美術研究』285号、1973年)、「真言八祖行状図と廃寺永久寺真言堂障子絵(一~五)」(『美術研究』300、302、304、332、337号、1976年~1987年)、「高松塚古墳壁画に関する二、三の新知見―双眼実体顕微鏡による第二次調査報告―」(『月刊文化財』154号、ぎょうせい、1976年)、「東寺の国宝両界曼荼羅」(『教王護国寺両界曼荼羅』西武美術館、1977年)、「(法華寺)阿弥陀三尊及び童子像」(『大和古寺大観』第五巻 秋篠寺・法華寺・海龍王寺・不退寺 岩波書店、1978年)、「年中行事絵巻と真言院の道場内荘厳」(『新修日本絵巻物全集 月報』22、1979年)、「ボストン美術館蔵の四天王図―新発見の廃寺永久寺真言堂障子絵―」(『在外日本の至宝』第一巻・仏教絵画、毎日新聞社、1980年)、「織成当麻曼陀羅について」(『当麻寺(大和の古寺2)』岩波書店、1982年)、「天平絵画の展開」(『週刊朝日百科 世界の美術』106号、1980年)、「正倉院の絵画」(『週刊朝日百科 世界の美術』107号、1980年)、「鎌倉時代の絵画」「仏教絵画」(『週刊朝日百科 世界の美術』113号、1980年)、「称名寺金堂壁画考」(『三浦古文化』28号、1980年)、「異色ある孔雀明王画像」(『美術研究』322号、1982年)、「文化庁保管 普賢菩薩絵像」(『美術研究』326号、1983年)、「廃寺大和永久寺真言堂伝来の真言八祖行状図―平安後期における説話画の一遺例―」(『国際交流美術史研究会第8回シンポジアム 説話美術』1992年)、「東寺の両界曼荼羅図―甲本(建久本)と西院本―」(東寺宝物館特別展図録『東寺の両界曼荼羅図 連綿たる系譜―甲本と西院本』1994年)があり、欧文の論文として“A Study of the Painting Style of the Ryokai Mandala at the Sai‐in, To‐ji ―With Special Emphasis on their Relationship to Late T’ang Painting,” International Symposium on the Conservation and Restoration of Cultural Property‐Interregional Influences in East Asian Art History ―, Tokyo National Research Institute of Cultural Properties, 1982. “The Paintings of the Four Deva Kings in the Collection of the Museum of Fine Arts, Boston‐Recently Rediscovered Paintings from the Shingon‐do of the Abandoned Temple Eikyu‐ji‐,” Archives of Asian Art XXXUII, the Asia Society Inc., 1984.がある。柳澤の絵画作品に向かう真摯な態度は、後年、右半身不随となるも、リハビリによりこれを克服し杖に頼る身体となっても作品を実見することの情熱を失わなかったことに示されているであろう。晩年に心臓疾患による手術を受けたが、乗り越えて精力的に日本内外の美術館・博物館に出向き、終日、展示作品の前で単眼鏡を覗きながら熟覧に及んだ。また、後学の徒から送られてきた論文抜刷には必ず目を通し、疑問点については執拗なまでに追求する厳しい姿勢を最期まで崩さなかった。その柳澤が心血を注いだ大著「真言八祖行状図と廃寺永久寺真言堂障子絵」が完結をみなかったことは惜しまれるが、周囲には執筆の再開に意欲を示していたのも事実であった。また、晩年の関心は、園城寺からの要請で修理委員を務め、余人を介さずつぶさに実見した園城寺金色不動明王像(いわゆる黄不動)の研究にあった。柳澤は『美術研究』に掲載すべく執筆を行っていることを周囲に漏らしていたが、没後にかなりの完成度をもった原稿が残されていることが確認された。その遺稿「園城寺国宝金色不動明王像(黄不動)に関する新知見―不動明王修理報告―」は故人の遺志を尊重して『美術研究』385号(2005年)に上梓をみた。金色不動明王像の論文とは別に東寺西院曼荼羅の簡単な解説も残されていた。金色不動明王の論考を終えてのち東寺西院両界曼荼羅の研究に再度着手する予定であったようである。ちなみに柳澤の代表論文のうち、年月の経過とともに入手困難が予想される雑誌掲載の論文を集成し『柳澤孝仏教絵画史論集』として2006年春には刊行が予定されている。

松本修自

没年月日:2003/07/02

読み:まつもとしゅうじ  奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復工学研究室長の松本修自は、7月2日、膵臓がんのため死去した。享年52。1951(昭和26)年1月9日、東京都新宿区に生まれる。73年3月、早稲田大学工学部建築学科を卒業、同大学大学院理工学研究科に進み、75年3月、同大学院修士課程修了。同年4月、奈良国立文化財研究所に採用され、平城宮跡発掘調査部遺構調査室に配属される。同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部、埋蔵文化財センター研究指導部測量研究室、平城宮跡発掘調査部遺構調査室に勤務し、79年12月から84年4月まで飛鳥資料館学芸室併任。同資料館では、81年に山田寺金堂の修復模型を設計、製作し、図録『山田寺の伽藍と建築』を編集執筆した。83年には日本古代の小建築論の一環として全国の瓦塔を調査し、『小さな建築―瓦塔の一考察―』を刊行した。84年には、厨子、仏龕、小塔の建築的位置付けを論考した図録『小建築の世界』を編集した。85年11月から翌年6月まで、文化庁から派遣され、イタリアの文化財修復国際センター(イクロム)において歴史的記念物の保存に関する研修を受ける。1993(平成5)年10月、東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力室に主任研究官として異動。95年4月には同研究所修復技術部第二修復技術研究室長となる。97年10月、同研究所国際文化財保存修復協力センター保存計画研究指導室長となる。99年3月から同年8月まで、文部省在外研究員としてギリシャ、イギリス、イタリア、ドイツを歴訪し、ギリシャアクロポリス修復史研究やドイツとの文化遺産保護協力など、国際協力事業の推進に尽力した。2002年4月、奈良文化財研究所埋蔵文化財センター保存修復工学研究室長として異動し、国際的な視野のもとに日本の遺跡・建造物の保存修復理念の再構築に取り組んでいた。没後、同研究所内の有志によって、『松本修自遺稿集―保存修復の昨日から明日へ』が刊行され、業績一覧と代表的な論文11編が収録された。国際的な協力事業に豊かな経験と学識、堪能な語学力が生かされ、飄々とした風貌とユーモアあふれる温厚な性格で、所内でも親しまれていた。

山中雪人

没年月日:2003/06/05

読み:やまなかゆきと  日本画家で日本美術院同人の山中雪人は6月5日午前0時30分、肺がんのため横浜市の病院で死去した。享年83。1920(大正9)年2月12日広島市台屋町(現、京橋町)の浄土真宗寺院の家に生まれる。1937(昭和12)年広島崇徳中学校卒業後、川端画学校に学び、38年東京美術学校日本画科に入学、結城素明、川崎小虎らに指導を受ける。41年には結城素明の主宰する大日美術院第4回展覧会に「花屋」が、翌年の第5回展に「T先生」が入選。42年美術学校を繰り上げ卒業、同年より46年にかけて軍籍にあり、44年中国の漢口(現、湖北省武漢市)の部隊に配属。46年6月に復員し、47年より広島実践女学校の教師として奉職するが、48年上京し横浜市立蒔田中学校に勤務。49年には終戦直後に広島市で開かれたデッサンの勉強会で知り合った日本画家水谷愛子と結婚。この年大智勝観の紹介により中島清之に師事、51年には月岡栄貴の紹介で前田青邨に師事する。56年第41回院展に「海光」が初入選。70年にインドネシアのボロブドゥールで大きな感銘を受けて以後、アジア各地の仏跡を遍歴し、画想の源とする。80年愛知県立芸大非常勤講師となり、法隆寺壁画模写を指導。83年第68回院展に「佛」(奨励賞)、84年第69回院展に「雲岡石佛」(日本美術院賞・大観賞)、85年第70回院展に「佛陀伝想」(同)、86年第71回「雲岡佛」(同)、87年第72回院展に「釋迦三尊」を出品、この間の85年に第4回前田青邨賞を受けている。84年から三年連続院賞受賞という業績によって86年11月4日、日本美術院同人に推挙される。1992(平成4)年第77回院展に「釈迦と弟子」を出品、文部大臣賞を受賞。翌年には新しく開校した広島市立大学芸術学部日本画科主任教授として就任(2000年まで)。97年第82回院展出品の「架檐(十字架を担うキリスト)」で内閣総理大臣賞を受賞。98年第55回中国文化賞(中国新聞社)を、99年第48回横浜文化賞を受賞。鉄線描風のシャープな線描と淡麗なマティエールによって、釈迦やキリストをテーマに尊厳と気品に満ちた宗教画を描き続けた。没後の2005(平成17)年には呉市立美術館にて「山中雪人・水谷愛子二人展」が開催されている。

穴澤一夫

没年月日:2003/05/13

読み:あなざわかずお  美術史家で、東北芸術工科大学名誉教授の穴澤一夫は、5月13日、呼吸不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月12日、東京の麻布に生まれる。1947(昭和22)年、横浜工業専門学校(現、横浜国立大学)建築学科卒業。48年東京大学文学部美術史学科聴講生を経て、50年東北大学文学部美学・美術史学科に入学、村田潔教授のもとでギリシア美術を学び、53年同大学(旧制)を卒業した。56年同大学文学部大学院修了後は、同年9月より国立近代美術館(現、東京国立近代美術館)事業課に勤務、59年5月、開館を目前に控えた国立西洋美術館に移り、68年5月より事業課長、また76年4月には東京国立近代美術館次長となり、82年7月まで同職を勤めた。同年8月筑波大学芸術学系教授に就任し、1989(平成元)年3月に退官後は東北芸術工科大学の開校準備に参画し、92年4月より同大学芸術学部長および芸術学部芸術学科教授に就任、98年3月退任後の4月には同大学名誉教授となった。この間、日本大学芸術学部(1956-73年)などで美術史を教えたほか、61年8月から翌年11月までフランス政府招待技術留学生としてパリ国立近代美術館に研修勤務し、ブランクーシのアトリエの復元設置に携わるかたわら、エコール・デュ・ルーヴルの聴講を修了、また63年7月フランス共和国文芸騎士勲章(Chevalier de l’Ordre des Arts et des Lettres)、81年11月博物館法三十周年記念式典文部大臣賞等を受けた。穴澤の美術展との関わりは、1954(昭和29)年、ルーヴル美術館所蔵品を中心とする戦後初めての大規模な「フランス美術展」(東京国立博物館)に際して、富永惣一の推薦でカタログ編集その他を手伝ったことに始まるが、その後、草創期の国立近代美術館、次いで国立西洋美術館に勤務してからは、西洋美術を中心に多岐にわたる数多くの展覧会を手懸けた。国立西洋美術館在職中は、「ミロのビーナス特別公開」(1964年)、2点の「マハ」像(着衣・脱衣)を含む「ゴヤ展」(1971年)、「モナ・リザ展」(会場:東京国立博物館、1974年)等の国家プロジェクトに参画し、また東京国立近代美術館次長在任中に担当した展覧会のカタログに寄稿した論文、「素朴な画家たち」(「素朴な画家たち」展、1977年)、「ロベール・ドローネーの芸術と芸術論」(「ドローネー展――ロベールとソニア」、1979年)、「マチス」(「マチス展」、1981年)、「ムンクの人と芸術」(「ムンク展」、1981年)、「象徴主義の理解のために」(「ベルギー象徴派展」、1982年)等は、中学時代からギリシアの詩文に親しみ、美術のみならず文学・音楽などすべての芸術をこよなく愛し、哲学への関心や造詣も深かった穴澤の学風をよく伝えている。その他、主な著作(単独著作)や論文として以下がある。『ギリシャ美術』(保育社、1964年)、『ミケランジェロ、ドナテルロ(世界の美術5)』(河出書房新社、1966年)、『ロダン、ブールデル、マイヨール(現代世界美術全集12)』(河出書房新社、1966年)、『ルノワール、ボナール(世界の名画:洋画100選6)』(三一書房、1966年)、『ドーミエ、ミレー、クールベ(世界の名画:洋画100選3)』(三一書房、1967年)、『ボナール(世界の名画13)』(世界文化社、1968年)、『ボナール、マティス、デュフィ(ほるぷ世界の名画6)(ほるぷ出版、1970年)、『ル・コルビュジエ(ART LIBRARY 30)』(鶴書房、1972年)、『ミケランジェロ(ファブリ世界彫刻集2)』(平凡社、1973年)、『ギリシア彫刻(世界彫刻美術全集4)』(小学館、1974年)、『セザンヌ(世界美術全集19)』(小学館、1979年)、「ポリュクレイトス研究」(『美学』15号、1954年)、「1953年発見のブルゴーニュ「VIXの遺宝」について」(『美術史』20号、1956年)、「現代イギリス彫刻とヘップワース」(「バーバラ・ヘップワース展」カタログ、彫刻の森美術館、1970年)、「ブランクーシの世界」(「ブランクーシ」展カタログ、ギャルリー・ところ、1977年)、「マイヨールの彫刻」(「マイヨール展」カタログ、山梨県立美術館ほか、1984年)、「大野さんの芸術と『聖なる対話』」(「大野俶嵩展」カタログ、O美術館、1989年)、「マイヨールと地中海」(「マイヨール展」カタログ、北海道立函館美術館ほか、1994年)。

久保田一竹

没年月日:2003/04/26

読み:くぼたいっちく  染織家久保田一竹は4月26日午後4時50分、多臓器不全のため山梨県の病院で死去した。享年86。 1916(大正5)年10月7日東京の神田に生まれる。小学校の教師に絵の才能を見いだされ、1931(昭和6)年、親元を離れ友禅師小林清に入門した。34年には大橋月皎に人物画を学び、36年には北川春耕に山水と水墨画を学んだ。20歳のとき帝室博物館(現、東京国立博物館)で室町時代に栄え江戸時代に途絶えた幻の染色「辻が花」の小裂に出会い魅了される。太平洋戦争での徴兵、シベリア抑留により一時制作中断を余儀なくされたが、約20年をかけて61年、独自の染色法「一竹辻が花」を完成させた。83年パリ・チェルヌスキ美術館での「一竹辻が花展」を皮切りに海外でも活躍するようになり、88年にはバチカン宮殿にて上演された創作能「イエズスの洗礼」の衣装制作を手がけ、1990(平成2)年フランスよりフランス芸術文化勲章シェヴァリエ章を受章、96年にはワシントンDCスミソニアン国立自然史博物館にて個展を開いた。国内でも、93年に文化庁長官賞を受賞、94年に自作品を展示した久保田一竹美術館を開館し、久保田一竹作品集『一竹辻が花 光の響』(小学館刊)を出版した。95年からは創作能をも手がけるようになり、活動の場は多岐にわたった。化学染料を駆使した、他に類を見ない鮮やかで重厚な色合いで知られた。

松井康成

没年月日:2003/04/11

読み:まついこうせい  陶芸家で、「練上手(ねりあげで)」の技法で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された松井康成は、4月11日午後4時42分、急性呼吸器不全のため死去した。享年75。1927(昭和2)年5月20日、長野県北佐久郡本牧村生まれ。本名宮城美明(みめい)。52年明治大学文学部文学科卒業。同年、茨城県笠間の浄土宗月崇寺(げっそうじ)住職の長女松井秀子と結婚、松井姓となる。57年月崇寺第二十三世住職となる。60年月崇寺境内に窯を築き、古陶磁の研究に基づく倣古作品を制作していたが、陶芸家田村耕一のすすめで、68年頃からは練上手の技法に専念するようになる。69年第9回伝統工芸新作展に「練上手大鉢」が初入選し、奨励賞を受賞。同年、第16回日本伝統工芸展に「練上手壺」を出品し、初入選。70年第10回伝統工芸新作展に「練上手辰砂鉢」を出品し、日本工芸会賞を受賞。71年第18回日本伝統工芸展に「練上線文鉢」を出品し、日本工芸会総裁賞受賞。73年第2回日本陶芸展(公募部門第1部)に「練上線文鉢」を出品し、最優秀作品賞・秩父宮賜杯受賞。74年日本陶磁協会賞を受賞。75年第22回日本伝統工芸展に「練上壺」を出品し、NHK会長賞を受賞。76年「嘯裂(しょうれつ)」と「象裂瓷(しょうれつじ)」をあいついで発表。「嘯裂」とは、器の表面を刷毛や櫛などで荒らし、傷を入れることによって生じるひび割れを模様に見立てたもので、また、「象裂瓷」とは異なる種類の色土を二層、三層に重ね、成形後に深く切込みを入れて下層の色土が見えるようにする技法である。いずれも土そのものの粗く厳しい質感をあらわしたもので、それまでの練上にはない、松井康成独自の作品世界を示すものとして高く評価された。79年から現代工藝展(資生堂ギャラリー)に参加。83年からは「堆瓷(ついじ)」と呼ぶ、彩泥の技法による作品を発表。85年には「破調練上」を発表。86年第2回藤原啓記念賞を受賞。87年には「風白地(ふうはくじ)」と呼ぶ、器の表面に粗い砂を強く吹き付けることによって荒涼とした雰囲気を表現した作品を発表。1990(平成2)年日本工芸会常任理事となる。同年、日本陶磁協会金賞受賞。91年第4回MOA岡田茂吉賞大賞受賞。92年には、釉薬による光沢と鮮やかな色土による華麗な「萃瓷(すいじ)」を発表。93年「練上手」の技法により重要無形文化財保持者に認定される。同年、パリで松井康成展開催(三越エトワール)。同年、茨城新聞社より茨城賞受賞。94年「人間国宝松井康成練上の美」展開催(朝日新聞社主催、日本橋高島屋ほか)。同年、茨城県より特別功績賞受賞。96年「玻璃光(はりこう)」と呼ぶ、焼成後にダイヤモンドの粉末で研磨した、滑らかでしっとりとした光沢を放つ作品を発表。同年、茨城県近代美術館にて「変貌する土――松井康成の世界」展開催。99年平成11年度重要無形文化財「練上手」伝承者養成研修会の講師を勤める(翌年も)。練上手の作品は色の異なる土を組み合わせて成形するため、土の収縮率の違いなどから、焼成の段階で割れる可能性が高いが、松井康成は少量でも発色の良い呈色剤を加えることにより、同じ性質でも色の異なる土を作り出す工夫をし、色彩豊かな練上げ作品を制作した。そして、「嘯裂(しょうれつ)」、「象裂瓷(しょうれつじ)」、「堆瓷(ついじ)」、「風白地(ふうはくじ)」、「萃瓷(すいじ)」、「玻璃光(はりこう)」などの技法を新たに創案し、多彩な作品を制作、練上の技法による表現の可能性を広げ、それまでには見られない独自の作品世界を切り開いていった。作品集に、『松井康成陶瓷作品集』(講談社、1984年)、『松井康成練上作品集1985―1990』(講談社、1990年)。また、著書に『松井康成随想集:無のかたち』(講談社、1980年)、『宇宙性』(講談社、1994年)。

峯孝

没年月日:2003/04/10

読み:みねたかし  自由美術協会会員で、元武蔵野美術大学教授の彫刻家、峯孝は4月10日うっ血性心不全のため死去した。享年89。1913(大正2)年8月5日、京都市中京区麩屋町二条上ルに生まれる。生家が法衣商を営んでいたため、幼少時から寺などをよく訪れ、また、父、伯父共に日本画をよくしたことから、美術に接することの多い環境で育つ。26年私立富有小学校を卒業して京都市立美術工芸学校(現、私立日吉ケ丘高等学校美術工芸課程)の彫刻課に入学。同校在学中に木彫の基礎を習得し、3年次から5年次には塑像による人体彫刻を学ぶ。1931(昭和6)年同校を卒業し、上京して東京美術学校彫刻科に入学するが、体調を崩して京都へ帰り、松田尚之の主宰する東山研究所に通う。33年、フランスでブールデルに師事して帰国した清水多嘉示を知り、以後師事する。36年第11回国画会展に「T氏の妹」「友人像」および油彩画「山梨風景」で初入選。以後同展に出品を続ける。38年第3回京都市美術展に「N君の裸像」を出品して知事賞を受賞。39年建畠大夢の指導する彫刻研究団体、直土会に入る。40年紀元2600年奉祝展に「裸婦」を出品。41年第6回京都市美術展に「若い女」を出品し奨励賞を受賞。同年第1回直土会展に「プリマベーラ」を出品して奨励賞を受賞し、同会会員に推挙される。また、43年第6回新文展に「立像」を初出品。44年陸軍美術展に木下繁との共同制作による「市井に立つ」を出品。また同年、美術推進隊に加入させられ、鶴田吾郎を隊長とする一行とともに北海道に渡る。45年北海道砂川鉱山で「鉱夫の像」を制作。戦後は46年春、第1回日展に古典的写実に基づく「女ノ首」を出品し、以後48年まで官展に出品を続ける。49年に自由美術家協会会員となり、同年の第13回展に「裸婦」を出品する。51年7月新潟県佐渡郡相川および両津で佐渡文化会議主催の「峯孝作品展」を開催し、翌月佐渡郡河原田町公民館で峯孝作品展を開催。53年画家海老原喜之助の推薦により熊本の鶴屋デパートで峯孝彫刻個展を開催。54年博多の大丸デパートで峯孝個展を開催。同年毎日新聞主催の現代日本美術展第1回展に「若い音楽家の首」「青年像(習作)」を出品、以後隔年で行われる同展に64年まで出品を続ける。55年第3回日本国際美術展に「傾斜せるコンポジション」「試作(首)」を出品。58年より61年まで武蔵野美術学校講師を勤める。66年6月に渡欧しエジプト、ギリシャ、イタリア、フランスをめぐって同年末に帰国。滞欧中は主にギリシャとイタリアに滞在し、カララで大理石の「イカロス」を制作する。また、フランスではブールデルの生地を訪ねた。77年秋、日中友好美術訪中団の一員として訪中し、上海、北京、西安などをめぐる一方、洛陽、大同の史跡を見学する。80年4月武蔵野美術大学講師となり同年7月同学教授となる。82年日本美術家連盟理事となる。83年武蔵野美術大学美術資料図書館で「峯孝教授作品展」が開催される。日常生活に取材したブロンズによる人体像を好んで制作し、写実に基づく穏健な作風を示した。

前田竹房斎

没年月日:2003/03/12

読み:まえだちくぼうさい  人間国宝(重要無形文化財保持者)の前田竹房斎は、3月12日午前10時3分、急性心不全のため大阪府堺市内の病院で死去した。享年85。1917(大正6)年7月7日、堺市に生まれる。1935(昭和10)年高級花籃の名匠であった初代竹房斎に師事したが、修業中途に兵役に就き、復員して後にほぼ独学で竹工芸の研鑽に努めた。52年二代竹房斎襲名、翌年には皇太子殿下、56年天皇陛下・皇后陛下への献上品制作の栄誉を得た。47年大阪工芸展、53年関西美術展に初入選して以降に受賞を重ねた。また53年初入選を果たした日展では、68年まで立体造形的な制作で活躍した。59年第6回日本伝統工芸展に初出品、70年以降は毎回出品した。72年第1回伝統工芸木竹展奨励賞、第19回日本伝統工芸展で優秀賞を受賞し、86年第35回展では重要無形文化財保持者選賞を受賞した。同展で鑑査委員をたびたび務め、伝統工芸や大阪府工芸協会等で後進の指導にも熱心にあたった。1995(平成7)年重要無形文化財「竹工芸」保持者の認定を受けた。竹材の選択と素材の特性を高度にいかして現代生活に即した創作性の獲得に専念し、堅実で卓越した編組技法とその自由な表現に徹した。細い丸ひごを並列して透かしと内の重ね編みとを効果的に併用した繊細な制作や独創の重ね網代編みの花籃など、清新で力強い、高雅な格調を築き上げた。また花籃や盛器、茶箱等の煎茶道具にも自由で気品のある創作精神を示した。

奥田元宋

没年月日:2003/02/15

読み:おくだげんそう  日本画家で日本芸術院会員の奥田元宋は2月15日午前0時10分、心不全のため東京都練馬区富士見台の自宅で死去した。享年90。1912(明治45)年6月7日、広島県双三郡八幡村(現、吉舎町大字辻)に奥田義美、ウラの三男として生まれる。本名厳三。小学校の図画教師、山田幾郎の影響で中学時代に油彩画を始める。同郷の洋画家南薫造に憧れ、広島に来た斎藤与里の講習会などに参加して学ぶ。1931(昭和6)年日彰館中学校を卒業後上京し、遠縁にあたる同郷出身の日本画家、児玉希望の内弟子となる。しかし33年に自らの画技に対する懐疑から師邸を出、文学や映画に傾倒、シナリオライターをめざすが、35年師の許しを得て再び希望に師事し、画業に励む。36年新文展鑑査展に「三人の女性」が初入選、翌年より児玉塾展に発表。この頃師より成珠の雅号を与えられるが、中国宋元絵画への憧れと本名に因んで自ら元宋と名乗るようになる。38年第2回新文展で谷崎潤一郎の『春琴抄』に想を得た「盲女と花」が特選を受賞、また42年頃より同郷出身の洋画家靉光と親交を結ぶ。44年郷里に疎開し53年まで留まり、美しい自然の中でそれまでの人物画から一転して風景画に新境地を開く。この間、49年第5回日展で「待月」が特選を受賞。翌50年官学派への対抗意識のもと児玉塾、伊東深水の青衿会といった私塾関係の作家を糾合した日月社の結成に参加し、61年の解散まで連年出品した。50年代後半にはボナールに傾倒するも、そこに富岡鉄斎に通じる東洋的な気韻生動の趣を見出し、実景を基としながらも一種の心象風景を追求するようになる。58年新日展発足とともに会員となり、62年第5回日展で「磐梯」が文部大臣賞を受賞、さらに翌年同作品により日本芸術院賞を受賞し、73年日本芸術院会員となった。この間62年日展評議員、69年日展改組に際し理事、74年常務理事に就任、77年より79年まで理事長をつとめる。一方、67年頃より歌人生方たつゑに師事して短歌、74年頃より太刀掛呂山と益田愛隣に漢詩を学び、81年宮中の歌会始の召人に選ばれている。75年第7回日展出品の「秋嶽紅樹」を原点として“元宋の赤”と称される鮮烈な赤を主調に描いた風景画を制作するようになり、76年第8回日展の「秋嶽晩照」、77年同第9回展の「秋巒真如」など幽趣をただよわせる作風を展開。81年真言宗大聖院本堂天井画「龍」を制作。同年文化功労者として顕彰され、84年文化勲章を受章。1996(平成8)年京都銀閣寺の庫裏・大玄関、および弄清亭の障壁画を完成。2000年3月1日から31日まで『日本経済新聞』に「私の履歴書」を連載、翌年刊行の『奥田元宋自伝 山燃ゆる』(日本経済新聞社)に再録される。回顧展は97年に広島県立美術館で開催、また2002年から03年にかけて練馬区立美術館、松坂屋美術館、茨城県近代美術館、富山県立近代美術館を巡回して催されている。

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