清水卯一
陶芸家で鉄釉陶器の重要無形文化財保持者の清水卯一は、2月18日午後11時、大腸がんのため滋賀県滋賀郡志賀町(現、大津市)八屋町の自宅で死去した。享年77。1926(大正15)年3月5日、京都市東山区五条橋に、京焼陶磁器卸問屋を営む父清水卯之助、母モトの長男として生まれる。11歳のときに父が病死し、1938(昭和13)年に家業を継ぐため立命館商業学校へ入学するが、作陶に興味を抱き、近隣の轆轤師宮本鉄太郎らを知る。40年には同校を2年修了とともに中退し、14歳で石黒宗麿に師事し、通い弟子となる。しかし戦時体制の強化に伴い、数ヶ月で五条坂から八瀬への通い弟子を中断し、自宅に轆轤場を設けて作陶を始める。翌年、伏見の国立陶磁器試験場に伝習生として入所し、日根野作三、水町和三郎らの指導を受ける。43年には京都市立工業試験場窯業部の助手となるが、終戦を機に辞職し、自宅を工房にして作陶を再開。47年、前衛的な陶芸家集団「四耕会」の結成に参加。また49年には、「緑陶会」「京都陶芸家クラブ」などの結成にも参加する。51年には第7回日展に初入選し、以後、55年の第11回展まで出品。同年、第2回日本伝統工芸展に石黒の推薦を受けて出品し、以後、活動の場とし、57年には日本工芸会正会員となる。翌年の第5回展の奨励賞をはじめ、第7回展では日本工芸会総裁賞、第9回展では優秀賞朝日新聞社賞を受賞するなど、若手の実力派としてふさわしい創作性豊かな作品を発表し評価を得る。またこの間、55年には日本陶磁協会が新設した第1回日本陶磁協会賞を受賞。海外展においても、59年のブリュッセル万国博覧会でグランプリ受賞をはじめ、62年のプラハでの国際陶芸展で金賞、63年のワシントン国際陶磁器展で最高賞、67年イスタンブール国際陶芸展でグランプリを受賞するなど、めざましい活躍をみせる。この頃の作品は主に、鉄釉や柿釉、天目などの鉄釉系技法に基づくもので、轆轤挽きによる端正なフォルムと融合させて独自の世界をつくり上げた。70年には、滋賀県志賀町の蓬莱山麓へ工房を移転し、念願であった登窯を築窯。またガス窯も設けて蓬莱窯と名付け、さまざまな作品を制作する場とする。この移転が転機となり、自宅周辺で採集した陶磁器に適した土や釉薬を新たな素材として加え、さらに作域を広げる。73年の第20回日本伝統工芸展では、蓬莱の地土を使った「青瓷大鉢」の評価と、これまでのすぐれた制作の展開に対する評価によって20周年記念特別賞を受賞。その後も土と釉薬の研究に情熱を傾け、青瓷、鉄耀、蓬莱耀、蓬莱磁など、伝統的な技術と豊かな創造力による意欲的な作品を次々に発表し高い評価を受ける。85年には石黒宗麿に続いて二人目となる、「鉄釉技法」で重要無形文化財保持者に認定される。1989(平成元)年、ポーラ伝統文化振興財団が記録映画「伝統工芸の名匠シリーズ・清水卯一のわざ-土と炎と人と」を制作。92年には京都市文化功労者表彰を受ける。99年、1940年から1998年までの作品147点を滋賀県立近代美術館に寄贈。とくに認定後は、日ごろの仕事の積み重ねを大切にする姿勢を説きながら、若手陶芸家の指導に蓬莱窯を開放するなどして、積極的に後進の育成にも尽力した。
出 典:『日本美術年鑑』平成17年版(344-345頁)登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)
例)「清水卯一」『日本美術年鑑』平成17年版(344-345頁)
例)「清水卯一 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28289.html(閲覧日 2024-12-04)
以下のデータベースにも「清水卯一」が含まれます。
- ■美術界年史(彙報)
- 1955年04月 日本陶磁協会新進作家を表彰
- 1957年11月 仮宮殿の装飾品を依嘱
- 1985年03月 人間国宝認定