毛利武士郎

没年月日:2004/07/18
分野:, (彫)
読み:もうりぶしろう

 彫刻家の毛利武士郎は、7月18日、内臓疾患で死去した。享年81。1923(大正12)年1月14日、当時の東京市荒川区日暮里渡辺町に、彫刻家毛利教武の次男として生まれる。1940(昭和15)年4月、東京美術学校彫刻科塑像部に入学。43年に同学校を卒業、翌年2月に応召、北満州の独立歩兵部隊、後に対戦車砲部隊に配属され、その後沖縄宮古島にて被弾負傷する。45年、終戦を同島の野戦病院で迎える。戦後は、51年2月の第3回読売アンデパンダン展に「小さな夜」を初出品。54年2月、第6回読売アンデパンダン展に「シーラカンス」、「抵抗」を出品。57年6月、サトウ画廊にて個展を開催し、針金と鉛板による抽象彫刻を出品する。59年9月、向井良吉小野忠弘とともに第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年9月、第1回集団現代彫刻展に「鳩の巣NO.2」、「作品」を出品。61年7月、第1回宇部市野外彫刻展に「鳩の巣」を出品。この頃から、すでに抽象彫刻の作品は、高く評価されていたが、60年代半ばから新作の発表を絶った。その間、73年6月、東京国立近代美術館の「戦後日本美術の展開・抽象彫刻の多様化展」、81年の神奈川県立近代美術館の「日本近代彫刻の展開―開館30周年記念展第Ⅱ部」、同年9月の東京都美術館の「現代美術の動向Ⅰ―1950年代-その暗黒と光芒」など、戦後美術の回顧展にその作品が出品されていた。83年11月、富山県立近代美術館の「現代日本美術の展望―立体造形」展に、およそ20年ぶりにレリーフ状の新作「哭Mr.阿の誕生」を出品。作家の長期間にわたる沈黙の意味を問うものとして注目された。1992(平成4)年5月に東京から富山県黒部市にアトリエ兼住居を移転。99年5月には、富山県立近代美術館にて「毛利武士郎展」を開催、111点からなる本格的な回顧展となった。とりわけ、金属の鋳塊をコンピューターと連動した工作機械で精密に加工した新作は、この作家の独自の表現として話題となった。戦後の日本の抽象彫刻を代表する作家のひとりとして評価されているが、長い沈黙後の晩年である富山県に移住後の制作は、現代彫刻をめぐる技術と造形思考をめぐる独自の哲学に裏付けられた先鋭的な問題を深めた点で、発表時から美術界に少なからず衝撃をあたえ、今後も議論されるべき作品を残したことは高く評価される。

出 典:『日本美術年鑑』平成17年版(352-353頁)
登録日:2014年10月27日
更新日:2023年09月13日 (更新履歴)

引用の際は、クレジットを明記ください。
例)「毛利武士郎」『日本美術年鑑』平成17年版(352-353頁)
例)「毛利武士郎 日本美術年鑑所載物故者記事」(東京文化財研究所)https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28300.html(閲覧日 2024-04-17)

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