本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





池島勘治郎

没年月日:1980/05/24

独立美術協会会員の洋画家池島勘治郎は、5月24日脳出血のため大阪市天王寺区の大阪警察病院で死去した。享年82。号超軒。1897(明治30)年11月12日大阪市東区に生まれ、1912年大阪府立市岡中学を卒業。独学で洋画を始め、33年第3回独立展に「手袋と鉢」で初入選、以後同展へ出品を続ける。34年に関西水彩画会を結成する。44年第14回独立展に「救護訓練」「土と闘ふ」を出品して独立賞を受賞、47年第15回独立展に「西横堀」「復興の街」を出品し準会員、翌年の第16回展に「曇日」を出品し会員にそれぞれ挙げられる。また、67年、第35回展に「ががく・けんじゃらく」「ががく・えんぎらく」を出品し、G賞を受賞する。この頃から舞楽などをモチーフに、東洋的な幽玄な世界を抽象的水彩画で表現する特異な画風を展開した。

渡瀬凌雲

没年月日:1980/05/17

日本画家で日本南画院副理事長の渡瀬凌雲は、5月17日午後7時20分脳イッ血のため、京都市東山区の京都第一日赤病院で死去した。享年75。1904年7月9日長野県下伊那郡に生まれ、本名幸成。6歳の時に大平小洲に南画の手ほどきを受け、10歳で山本梅荘に師事、根羽尋常小学校高等科を卒業後上京し、福田浩湖塾に入門した。錦城中学・正則英語学校に通いながら那智左典に漢学を学び、25年には京都の福田静処翁に和漢文学・詩書を学ぶ。30年菁莪会研究所に入り、33年第14回帝展に「河口」が初入選したが、以後は日本南画院を中心に出品する。37年京都市美術展「南紀佐野村」で京都市長賞を受賞、39年中国へ写生旅行している。46年同志と南画院(日本南画院は40年大東南宗院となる)を結成し、同展や日本南画壇展に出品を続けた。58年から59年にかけてアメリカを写生旅行しながら各地で個展を開催、帰国後の60年、社団法人日本南画院を結成し理事に就任した。62年「残照グランド・キャニオン」が桂月賞を受賞し、常務理事、審査員となり、73年から副理事長をつとめていた。主な作品は、上記のほか「新秋」(36年)「雲龍図」(天龍寺山内慈済院開山堂天井画、59年)「吉野熊野山海図巻」(79年)など。 略年譜1904 7月 9日、長野県下伊那郡に生まれる。1910 大平小洲(渡辺小華門)に南畫の指教を受け、雅号を凌雲とする。1914 山本梅莊の門に入る。1919 根羽尋常高等小学校卒業、東京に出て福田浩湖塾に入る。漢学を那智左典氏に学び、錦城中学校及び正則英語学校に通う。1920 日本南宗畫會に「松籟泉韻」を出品。1925 京都の古道人福田静処翁に和漢文学、詩書を学ぶ。1930 菁我会研究所に入る。1932 日本南畫院に「暮」出品。1933 帝国美術院「河口」初入選、日本南畫院「漁磯」出品。1934 日本南畫院「古座峡」出品。大禮記念、京都市美術館記念展に「宿雨收」招待出品。1935 帝国美術院「那智瀑」、日本南畫院「鬼橋」、京都市美術展「秋渉」出品。1936 文展「新秋」。1937 京都市美術展「南紀佐野村」京都市長賞。東北地方、北海道写生旅行。1938 日本新興南畫院同人として「南紀鹿島」出品(此年より文展不出品)。1939 中国を写生旅行。1940 日本南畫院解編大東南宗院となる。1945年迄戦時美術展等出品。1943 朱陽會を組織。1946 京都市展「新宮河口」出品。同志と南畫院結成、東京都美術館に第1回展開催「磨崖」出品。1947 第2回南畫院展を東京、京都に開催「那智春望」出品。1948 第3回南畫院展「三尾秋色」出品。1949 現代美術展「滴翠」、第4回南畫院展「日吉三橋」出品。1950 シカゴ美術館東洋部に水墨作品3点納入。1951 第6回南畫院展「鷹ケ峯夜雪」出品。1953 第9回日展に「秋立つ春日野」出品。1954 第8回南畫院展「春日神苑」出品。1955 第9回南畫院展「越中五箇山風景」出品。1956 南畫院創立10周年記念展「寒巌夕照」出品。1957 第3回日本南畫壇展「湖國」出品。1958 第4回日本南畫壇展「曹源池」「龍頭溪」出品。11月渡米、ロスアンゼルス市にて個人展を開催。1959 米国各地で個展開催、9月帰国。天龍寺山内慈済院開山堂天井に「雲龍図」を画く。1960 第6回日本南畫壇展「ナイアガラ瀑布」出品。社団法人日本南畫院結成、理事に就任。1961 第1回日本南畫院展「瀞峡」奨励賞。1962 第2回日本南畫院展「残照グランド・キャニオン」桂月賞。常務理事、審査員に就任。第1回国際墨画展「晃山雨霽」出品。1963 第3回日本南畫院展「那智瀑底」。戸隠、妙義山、黒姫山等写生旅行。1964 第4回日本南畫院展「妙義晩照」。1965 第5回日本南畫院展「春林」。東北、關東、伊勢等写生旅行。1966 第6回日本南畫院展「飛瀑朝宗」(文部大臣賞)「雲煙戸隠」。雲林社を主宰。1967 南林社を結成。第7回日本南畫院展「潮岬」。1968 第8回日本南畫院展「宿雨收」、併催の日本水墨画展を第二部と改称し、本展を第一部とする。九州写生旅行。1969 第9回日本南畫院展「普陀洛迦」。金沢、白山方面写生旅行。1970 第10回日本南畫院展「古都春雪」。岡山等写生旅行。1971 第11回日本南畫院展「豪溪春深」。四国写生旅行。1972 第12回日本南畫院展「吉野」。1973 第13回日本南畫院展「大台ケ原」 副理事長、審査員に就任。和歌山県文化功労賞を受賞。北陸を写生旅行。1974 第14回日本南畫院展「フォロ・ロマーノ(羅馬遺跡)」。山陰を写生旅行。1975 第15回日本南畫院展「仙境熊野」。1976 第16回日本南畫院展「雪原(ミシシッピー源流)」。木曾川方面写生旅行。1977 第17回日本南畫院展「楓林朝陽」。欧州写生旅行。1978 第18回日本南畫院展「晨映」。1979 第19回日本南畫院展「吉野熊野山海図巻 其一」。養命寺に障壁画「牡丹と唐獅子」を寄進。中國写生旅行。1980 第20回日本南畫院展「黄山玉屏峰」。5月17日永眠。第14回南林社展に「唐陶一彩」を出品。(渡瀬道子編略年譜参照)

鈴木新夫

没年月日:1980/05/10

新制作協会会員の洋画家鈴木新夫は、5月10日喉頭ガンのため東京都板橋区の日大板橋病院で死去した。享年65。1915(大正4)年3月17日、福島県平市に生まれ、福島県立磐城中学を経て、東京美術学校に入学し南薫造に師事、36年同校図画師範科を卒業する。翌年第2回新制作協会展に「標本のある静物」を出品、以後同展に出品を続け、44年新制作協会協友となる。47年、第11回新制作展に「機関車」「筏のある風景」「河岸」を出品し、新制作協会賞を受賞、同年、第1回美術団体連合展に出品する。48年、新制作協会新人選抜七人展に出品、同年鳥井敏文らと研究団体ユマニテを結成する。55年、新制作協会会員に推挙される。58年、現代写実百人展に出品、67年、具象画家40名による新具象研究会の結成に参加、71年まで研究会誌「画家」(季刊)を16号まで発行する。71年からは三月会展に第5回展まで出品する。この間、49年以来しばしば個展を開催、75年の第1回以来、新制作精鋭選抜展にも出品を続ける。また、74年には、第33回新制作展出品作「働く人」が福島県美術博物館に収められる。新制作展への出品作に、「赤い鉄骨」(19回)、「狭い家」(29回)、「誕生」(39回)、「うずくまる人」(41回)などがある。

志村立美

没年月日:1980/05/04

挿絵画家として活躍した志村立美は、5月4日急性肝炎のため東京新宿区の目白病院で死去した。享年73。群馬県に生まれ、神奈川県立工業図案科修業後、美人画家山川秀峰に師事した。大正時代末期から講談社などの雑誌のさし絵で活躍、ながいまつ毛、うるんだ瞳の麗人像などに特色を示し戦前の一時期流行児として人気があった。鏑木清方門の伊東深水、山川秀峰などの塾展である青衿会や、戦後の美人画団体日月社展等に美人画を出品していた。出版美術家連盟会長、元日本作家クラブ副理事長。

中村博

没年月日:1980/04/01

国画会会員の洋画家中村博は、4月1日急性心不全のため高知市の自宅で死去した。享年75。1904(明治37)年11月28日、高知市に生まれ、20年高知県立第一中学校を4年で中退し上京、太平洋画会研究所、川端画学校で学ぶ。29年に渡欧し、仏、伊、ベルギー、スペイン、オランダ等を歴訪し研究を重ね、32年に帰国する。33年。第8回国画会展に「登り坂」等3点を出品し国画会会友となり、以後同展に出品を続け、37年同人(のち会員)となる。44年、高知県洋画家協会を設立、47年には山脇信徳と高知県展を創設するなど郷里の美術振興にもつとめ、56年高知県文化賞を受賞する。55年、高知県美術振興会の設立委員に加わる。国展への出品作に、「ポン・クロア」(9回)、「静物」(12回)、「庭」(22回)、「花A」(30回)、「城山」(46回)、「山頂日輪」(47回)などがある。

梶喜一

没年月日:1980/02/15

日本画家梶喜一は、2月15日胃腫瘍のため京都市左京区の根本外科病院で死去した。享年75。1904(明治37)年京都に生まれ、16歳で都路華香に師事して日本画を学ぶ一方、関西美術院洋画研究所にも通った。1924年京都絵画専門学校に入学し、27年に卒業、その後同校研究科に在籍し、35年に修了した。翌36年都路華香が没したため、西村五雲の画塾晨鳥社に移るが、37年の支那事変勃発とともに応召し、北支を転戦した。39年に帰還し、前年に没した五雲にかわって山口華楊がひきついだ晨鳥社に復帰する。40年の紀元二千六百年奉祝美術展覧会に「賀茂の堤」を出品し、41年には中国黄河決壊治水の状況を描いた大作「濁流を征く」を描いた。以後、文展・日展に出品を続け、53年第9回日展には「鯉」で白寿賞を受賞し、63年第6回日展「牡牛」で特選、67年第10回日展では「游影」を出品し再び特選・白寿賞を受けた。鯉の画をよくしたことで知られ、53年・67年の受賞はいずれも鯉を描いている。68年からは日展委嘱となり、78年に審査員をつとめた。79年には東京・京都の高島屋で個展を開いている。

猪原大華

没年月日:1980/02/05

日本画家で日展参与の猪原大華は、2月5日午前零時15分、胃ガンのため京都市中京区の丸太町病院で死去した。享年82。本名は寿、1897(明治30)年2月17日広島県深安郡に生まれた。1918年京都市立絵画専門学校に入学し、在学中の21年、第3回帝展に「群鶏」を出品し初入選する。23年卒業とともに同校研究科に進み、29年に退学、同校の嘱託教員となった。翌年3月福田平八郎、山口華楊に同道して1ヶ月間中支へ旅行し、8月に京都市立美術工芸学校へ嘱託教員として転勤している。37年正教諭となったが50年に依願退職し、翌年京都市立美術大学の専任講師、58年には助教授、63年教授となった。その後69年に広島私立比治山短大教授となり、74年からは京都嵯峨美術短大教授をつとめていた。絵は初め土田麦僊に学び、麦僊没後西村五雲の晨鳥社に移り、38年五雲が没すると、山口華楊とともに塾の指導にあたった。帝展・文展・日展を中心に活躍し、54年と57年に特選・白寿賞を受賞し、60年会員となった。審査員を4度つとめ、68年からは評議員、74年から参与となっている。この間、64年に紺綬褒賞を受章し、72年第4回日展の「浄池」で総理大臣賞、74年には芸術院恩賜賞を受け、勲三等瑞宝章を受章した。また京都市文化功労賞、京都府美術工芸功労賞なども受け、その功績を認められている。京都派の流れを汲み花鳥花木図を得意としたが、装飾的画題を荒いタッチで処理した独特の画風を展開した。出品歴1921年 第3回帝展 「郡鶏」1922年 第4回帝展 「七面鳥」1925年 第5回国画創作協会展 「干鰈」1926年 第6回国画創作協会展 「果樹」1927年 第8回帝展 「若桐」1928年 第9回帝展 「残る夏」1930年 第11回帝展 「桃」1931年 第12回帝展 「牡丹花」            -土田麦僊研究所、山南塾となる-1932年 第13回帝展 「春苑」1933年 第14回帝展 「秋初むる小鳥」            京都市美術館記念展 「鉄剪花」1934年 第15回帝展 「水禽図」            第1回京都市展 「後庭浅春」 緑賞1936年 文展鑑査展 「秋趣」            -6月10日麦僊死去、塾閉校-1937年 -西村五雲塾晨鳥社入塾-1938年 第2回新文展 「閑日(農具と鶏)」            9月5日 五雲死去            -塾閉校、9月再興晨鳥社入塾-1940年 2600年大毎展 「棕梠」            秋 紀元2600年奉祝美術展覧会 「首夏」            第6回京都市展 「鶏頭」1941年 第7回京都市展 「椿」1942年 第8回京都市展 「鶏」 緑賞1943年 第6回新文展 「鶏舎」1946年 第2回日展 「鶏」            第1回京都市展 京展と改称1947年 第3回日展 「牡丹」            朝日新聞社主催総合現代展(招待)1948年 第4回日展 「蓮池」            第2回 朝日現代展(招待)            京都新聞社現代展(招待)1950年 第1回全関西総合展 「静物」 佳作賞1951年 第7回日展 「河骨の咲く池」1952年 第8回日展 「池と材木」            京展再出発 「池畔」 紅賞1953年 第9回日展 「樹間」1954年 第10回日展 「池」 特選 白寿賞            3月 日本画賞 美術評論社1955年 第11回日展 「池」 無鑑査1956年 第12回日展 「月」1957年 第13回日展 「梅」 特選 白寿賞1958年 第1回新日展 「竹」 委嘱1959年 第2回新日展 「篁」 審査員            滋賀県展 審査員1960年 第3回新日展 「水」 会員1961年 第4回新日展 「池」            京展 審査員1962年 第5回新日展 「樹」            大阪関西総合展 審査員1963年 第6回新日展 「池」            京展 審査員            東京朝日主催選抜秀作展 「樹」(招待出品)            (東京三越)1964年 第7回新日展 「白梅」            第2回朝日秀作展 「水草の池」(招待)            東日大毎国際展(招待)            紺綬褒賞受章1965年 第8回新日展 「暖」            東日大毎展(現代)(招待)1966年 第9回新日展 「河骨」 審査員            京展 審査員            大毎主催国際展(招待)1967年 第10回新日展 「庭の椿」            大毎現代展(招待)            東京高島屋にて第1回個展1968年 第11回新日展 「梅花」 評議員            京都府主催 素描展1969年 第1回改組日展 「黄葉」 評議員            京展 審査員1970年 第2回改組日展 「秋の陽」 評議員1971年 第3回改組日展 「老梅」 審査員 評議員            京展 審査員1972年 第4回改組日展 「浄池」 総理大臣賞、評議員1973年 第5回改組日展 「清明」 (芸術院恩賜賞を受賞)評議員1974年 第6回改組日展 「若い松」 参与            勲三等瑞宝章を受章            富山県展 審査員1975年 第7回改組日展 「松」 参与            京都市文化功労者賞            滋賀県展 審査員1976年 第8回改組日展 「慈光」 参与1977年 第9回改組日展 「鯉」 参与            京都府美術工芸功労者賞を受賞            京都朝日画廊にて個展1978年 第10回改組日展 「悠泳」 参与            京都美術館評議員となる。1980年 2月5日死去82歳

宇田荻邨

没年月日:1980/01/28

日本芸術院会員、日展顧問の日本画家宇田荻邨は、1月28日午前3時20分、急性心不全のため京都市左京区の日本バプテスト病院で死去した。享年83。1896(明治29)年6月30日三重県松阪市に生まれ、本名は善次郎。初め郷里の画家中村左洲に手ほどきを受け、17歳の時(1913年)四条派の流れを汲む菊池芳文に師事、翌年芳文のすすめで京都市立絵画専門学校に入学した。1917年同校を卒業し、翌18年に師芳文が没したため養嗣子菊池契月につく。19年第1回帝展に「夜の一力」が初入選し、25年第6回帝展「山村」が特選、26年第7回帝展で「淀の水車」が再び特選となり帝国美術院賞を受賞した。27年帝展委員をつとめ、28年には32歳の若さで審査員となり以後17回にわたって審査員をつとめる。29年から49年まで京都市立専門学校(45年京都市立美術専門学校と改称)で教壇に立ち、また35年開設された京都市展(45年京展と改称)にも第1回から出品を続け審査員を重ねている。戦後50年日展参事となり、55年に師契月が没したため翌年画塾白申社を創立して主宰、58年には京都御所小御所の襖絵を完成した。58年社団法人日展の発足とともに評議員に就任、62年から理事をつとめ、73年に顧問となっているが、70年第2回改組日展「高山寺」を最期に日展には出品していない。また、61年に日本芸術院会員となり、67年勲三等瑞宝章を受章、72年松阪市名誉市民の称号を受け、73年「日本画の名匠宇田荻邨回顧展」(京都市美術館)77年「画業60年記念宇田荻邨展-京の四季」(東京三越)と大規模な回顧展が開催された。一貫して京の風物を描き続け、「夜の一力」(19年)「山村」(25年)「淀の水車」(26年)「祇園の雨」(53年)「鴨川の夕立」(54年)「桂離宮笑意軒」(64年)「水神貴船奥宮」(69年)など、四条派の基礎に大和絵の古典的作風を加えつつ、清麗で品格のある画境を繰り広げた。年譜1896  6月 30日 現在の三重県松阪市に、父宇田春吉、母たけの長男として生れる。宇田姓は母方のものである。本名、善次郎。1903        松阪町高等小学校(現在の松阪市立第一小学校)に入学。1911        同小学校高等科卒業。その後、伊勢二見の画家中村左洲に絵の手ほどきを受け、写生、運筆、模写にはげむ。1913        同郷の知人西井水花にともなわれて京都に来て菊池芳文につく。荻村(のち荻邨)と号する。1914  4月 芳文のすすめで、京都市立絵画専門学校別科に入学。教師は芳文、竹内栖鳳、都路華香、木島桜谷、西村五雲、川村曼舟、西山翠嶂、菊池契月などであった。1917  3月 京都市立絵画専門学校別科卒業。同期に徳岡神泉、小林哥白、榊原始更、板倉星光ら。在学中から研究会「みつりつ会」に加わり、卒業後も続ける。1918  1月 師、芳文没。引き続きその養嗣子菊池契月につく。1919  9月 文展が改組され帝展となる。         10月 第1回帝展に«夜の一力»を出品し、初入選する。1920 10月 第2回帝展に«太夫»が入選。1921 10月 第3回帝展に«港»を出品したが落選。1922  4月 福村祥雲堂主催の九品会展が祇園・八坂倶楽部で開かれ、これに参加。(同会は菊池契月、西山翠嶂らによって選ばれた新進作家、堂本印象、福田平八郎、山口華楊、宇田荻邨など9名によるもの)         10月 第4回帝展に«木陰»が入選。                 この年、北野白梅町に移り住む。1923 11月 大阪毎日、東京日々新聞社主催の日本美術展に«花畑»«南座»を出品。«花畑»は銀牌を受ける。                 この年、真下飛泉の媒酌で磯田弥栄と結婚する。                 この頃、土田麦僊と知り合う。1924 10月 第5回帝展に«巨椋の池»を出品。                 この年、九名会展に出品。1925  5月 京都市立美術工芸学校教諭心得となる。         10月 第6回帝展に«山村»が特選となる。1926  6月 第2回菊池塾展に«白鷺図»を出品。         10月 第7回帝展に«淀の水車»が特選となり、帝国美術院賞を受ける。1927  5月 第3回菊池塾展に«椿小禽»を出品。         10月 第8回帝展に委員として«溪間»を出品、宮内省買上げとなる。1928  3月 第4回菊池塾展に«林泉»を出品。          9月 大礼記念京都大博覧会第4部美術鑑査員をつとめる。         10月 第9回帝展に審査員として«高雄の女»を出品。                 この年、国際美術協会第1回展委員をつとめる。1929  5月 第5回菊池塾展に«吉野山»を出品。          8月 京都市立美術工芸学校教諭を辞し、京都市立絵画専門学校助教授となる。1930 10月 第11回帝展に審査員として«流江清夜»を出品。1931  5月 第7回菊池塾展に«春の池»を出品。        10月 第12回帝展に«魞»を出品(無鑑査)。1932  5月 第8回菊池塾展に«溪流»を出品。        10月 第13回帝展に審査員として«竹生島»を出品。1933  5月 第9回菊池塾展に«鷹ヶ峰»を出品。        10月 第14回帝展に審査員として«梁»を出品。1934  5月 大礼記念京都美術館美術展委員をつとめる。        10月 第15回帝展に«梅»を出品。                この年、土田麦僊の住居を譲り受け、北区北野西白梅町に住む。1935  3月 三越主催により、京都在住作家による春虹会が開かれ、«吉野山»を出品。          5月 京都市展開設され、同展委員、審査員として«粟»を出品。1936  1月 京都市立絵画専門学校教授となる。        10月 帝展が改組され「昭和11年文展」が開かれたが出品せず。193 7 4月 初めての個展を大阪美術倶楽部、京都美術倶楽部で開催し、『宇田荻邨作画集』を芸艸堂から出版する。          5月 第2回京都市展に審査員として«芍薬»を出品。          8月 京都在住の美術家、評論家の親睦団体、京都美術倶楽部が結成され、その理事となる。        10月 第1回新文展に審査員として«田植»を出品。1938  3月 井南居主催、日本画家10人による丼丼会の第1回展が東京美術倶楽部で開かれ、これに参加する(会員は、堅山南風、小野竹喬、山口華楊、宇田荻邨ら東西5名ずつの作家)。          5月 第3回京都市展に審査員として«青麦»を出品。        10月 第2回新文展に«神鳩»を出品。1939 10月 第3回新文展に«寒汀宿雁»を出品。                この年、第4回京都市展の審査員をつとめる。1940 10月 紀元2600年奉祝美術展に«新秋»を出品。                この年、商工省紐育万国博覧会に«宿雁»を出品、また、大阪毎日新聞社主催美術展に審査員として«瑞雪»を出品。1941 10月 第4会新文展に審査員として«林泉»を出品。                この年、従五位を受ける。また、第6回京都市展に審査員として«八重桜»を出品。1942  5月 第7回京都市展参与、審査員をつとめ、同展に«鸐雉»を出品。         10月 第5回新文展に審査員として、«水»を出品。         11月 東京三越主催の十宜会に参加する(会員は小野竹喬、徳岡神泉、福田平八郎、山口華楊、宇田荻邨等)。1943 10月 第6回新文展に審査員として«秋草»を出品。                この年、京都霊山護国神社参集殿新築に際し、絵馬«雁»を奉納する。また、第8回京都市展に審査員として«桃鳩»を出品、大阪朝日新聞社主催美術展に«松»を出品。1944  7月 平安神宮御鎮座五十年・平安遷都1150年奉祝京都市展に審査員として«牡丹»を出品。        11月 戦時特別文展に«御塩殿»を出品。                この年、高等官四等待遇、正六位を受ける。1945 11月 京都市展が改称され京展となり、第一回展に審査員として«栂尾»を出品。                この年、大礼記念京都美術館評議員となる。大阪市展審査員をつとめる。1947  6月 第3回京展に審査員として«やまざくら»を出品。        10月 第3回日展に審査員として、«滝»を出品。1948  5月 第4回京展に«春蘭»を出品。        10月 第4回日展に審査員として«しぐれ»を出品。1949  7月 京都市立絵画専門学校教授を辞任する。        10月 第5回日展に審査員として«蓮»を出品。1950  5月 日展運営会参事となる。        10月 第6回日展に審査員として、«洛北芹生の秋»を出品。                この年、関西綜合美術展審査員をつとめる。1951 10月 第7回日展に審査員として、«栂尾の冬»を出品。1952 10月 第7回日展に«松樹»を出品。1953  4月 第5回京展審査員をつとめる。        10月 第9回日展に審査員として、«祇園の雨»を出品。                この年、伊勢神宮遷宮を記念して«伊勢えび»を献納する。関西綜合美術展審査員をつとめる。1954  4月 第6回京展に審査員として«滝»を出品。        10月 第10回記念日展に審査員として«鴨川の夕立»を出品。1955  4月 第7回京展審査員をつとめる。          5月 東京三越で個展「荻邨京洛八趣展」が開催され«祇園の雪»«大原女»«舞妓»«御室の桜»«嵐峡の春雪»«淀の鯉»«嵯峨野»«洛北の滝»などを出品。          9月 9日、師、菊池契月が没する。        10月 第11回日展に«大原寂光院»を出品。                この年、宮内庁から京都御所小御所の襖絵を依頼される。1956  1月 画塾白申社を創立して主宰する。同第1回展を10月から12月にかけて東京三越、大阪三越、京都丸物で開催する。          4月 第8回京展に審査員として、«篝火»を出品。        10月 第12回日展に審査員として«夕涼»を出品。                この年、関西綜合美術展審査員をつとめる。1957  4月 第9回京展審査員をつとめる。          6月 東京三越で個展が開催され«祇園祭の宵宮»«稲荷山»«清水寺»などを出品。        10月 第13回日展に«清水寺»を出品。        12月から翌年3月にかけて第2回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催する。1958  4月 第10回記念京展に審査員として«玉鷸»を出品。        11月 社団法人日展が発足し、第1回新日展に«野々宮»を出品。                この年、京都御所襖絵が一門の画家によって完成する。荻邨は四面に«富士の山»を描く。1959  5月 第11回京展に審査員として«石楠花と春蘭»を出品。        11月から翌年1月にかけて第3回白申社展を東京三越、京都府ギャラリー、大阪三越で開催し、«大原の秋»を出品。1960  5月 第12回京展審査員をつとめる。        11月 第3回新日展に«伊勢神宮»を出品。        12月から翌年2月にかけて第4回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«祇園夜桜»を出品。1961  6月 日本芸術院会員となる。        11月 第4回新日展に«雪の嵐山»を出品。        12月から翌年2月にかけて第5回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«嵐山春雪»を出品。                この年、第13回京展審査委員をつとめる。1962  3月 社団法人日展の理事となる。          4月 第14回京展に審査員として«御室の桜»を出品。        11月 第5回新日展に«祇園夜桜»を出品。        12月から翌年1月にかけて第6回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«野々宮竹林»を出品。                この年、東京銀座松屋画廊で朝日新聞社主催の東西大家デッサン・シリーズ「宇田荻邨素描展」を開催する。1963  4月 第15回京展の審査員をつとめる。        11月から翌年3月にかけて第7回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催する。1964  4月 第16回京展の審査員をつとめる。        11月 第7回新日展に審査員として«桂離宮笑意軒»を出品。1965  1月から2月にかけて第8回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«祇園一力»«藤»を出品。          4月 第17回京展の審査員をつとめる。        11月 第8回新日展に«飛香舎(藤壷)»を出品。1966  1月から2月にかけて第9回白申社展を東京三越、大阪三越、京都府ギャラリーで開催し、«嵐山秋雨»«藤壷»を出品。          4月 第18回京展審査員をつとめる。同月、『白申社画集』を出す。        11月 第9回新日展に«杜鵑»を出品。この年、白申社を解散する。1967  4月 29日、勲三等瑞宝章を受ける。同月、第19回京展審査員をつとめる。        11月 第10回新日展に«五月雨»を出品。同月、東京三越で個展を開き«藤壷»«祇園夜桜»«舞妓»«平安神宮紅枝垂»«落柿舎»«花背の山道»«清水寺»«水神貴船奥宮»«桂離宮笑意軒»«御室の桜»«鴨川の雪»などを出品し、また『京洛画趣宇田荻邨画集』を出す。1968 11月 第11回新日展審査員をつとめる。                この年、京都高島屋新築記念京都在住日本画大家展に«大原女»を出品。1969  3月 日展が改組され、常任理事となる。          4月 第21回京展審査員をつとめる。        11月 第1回改組日展に«水神貴船奥宮»を出品。1970 11月 第2回改組日展に«高山寺»を出品。以後日展に出品せず。1971  4月 第23回京展審査員をつとめる(以後昭和52年まで毎年続ける。)        11月 京都市美術館新収蔵庫竣工を記念して、「京都日本画の精華一竹喬・印象・平八郎・桂華・遥邨・神泉・荻邨・華楊・松篁」が開催され«溪間»«梁»«魞»«新秋»«鴨川の夕立»«清水寺»«桂離宮笑意軒»«嵐山秋雨»«飛香舎(藤壷)»«杜鵑»«五月雨»«水神貴船奥宮»を出品。1972  2月 1日、松阪市名誉市民の称号を受ける。1973  3月 日展顧問となる。          4月 京都府主催による「京の百景展」が開催され、前年制作の«嵐山»を出品。同月、第25回京展に審査員として«大原女»を出品。1976  5月 京都市主催により、京都市美術館で「日本画の名匠宇田荻邨回顧展」が開催され、本画、素描など約70点が展示される。                この年、宮内庁の依頼により«冬嵐山»を制作する。1977  5月 東京三越でサンケイ新聞社主催により「画業60年記念宇田荻邨展-京の四季」が開催され、本画、素描など80余点が展示される。1978  1月 京都書院より画集『宇田荻邨』を出版する。        10月 神奈川県立近代美術館で「近代日本画の巨匠展」が開催され、«野々宮»を出品。1980  1月 28日、入院中であった京都市左京区の日本バプテスト病院にて急性心不全のため死去。法名・積善慶雲荻邨居士。                (塩川京子編「宇田荻邨年譜」(集英社現代日本画全集5)参照)

井上覺造

没年月日:1980/01/21

二科会常務理事の洋画家井上覺造は、1月21日食道狭さく症のため兵庫県尼崎市の関西労災病院で死去した。享年75。1905(明治38)年1月13日、大阪市南区に生まれ、天王寺中学を経て1928年神戸商科大学を卒業。信濃橋洋画研究所で小出楢重に師事し、30年第17回二科展に「海浜風景」が初入選し、以後同展へ出品を続け、39年第26回展に「作品A」など3点を出品し特待となり、九室会に所属する。41年に二科会会友に推挙され、翌年第29回展に「立華」を出品し二科賞を受賞。戦後の45年二科会再組織と同時に二科会会員となり、51年第36回展に「詩人A」「詩人B」で会員努力賞を受賞、55年には二科会理事となる。また、57年にはインド・ビエンナーレ、60年コンパレゾン展、61年にはメキシコ・オーデトリオ・ナショナルに出品する。72年第57回二科展出品作「猟人日記」で青児賞を、77年第62回展出品作「文明批判序説」で総理大臣賞をそれぞれ受賞し、78年から二科会常任理事をつとめる。この間、52年以来20数回にわたって欧米諸國を巡遊した他、高島屋、梅田画廊、フジヰ画廊等でしばしば個展を開催する。

海老名正夫

没年月日:1980/01/04

日本画家の海老名正夫は、1月4日肝硬変のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年66。1913(大正2)年6月21日、やはり画家であった海老名長紅を父に、京都に生まれた。京都市立美術工芸学校を33年に卒業したのち、京都市立絵画専門学校に入学し、35年卒業、同校研究科に進む一方、菊池契月に師事した。40年に研究科を卒業し、その間37年の第1回新文展に「爽(さわやか)」で初入選している。55年に契月が没したのち宇田荻邨に師事し、白申社の結成にも参加した。主に日展・京展に出品し、日展では53年に白寿賞、56・70年にそれぞれ特選・白寿賞を受け、72年から委嘱出品となった。また58年には京都御所の小御所襖絵を揮毫し、前後して紫宸殿額を復元している。女性を描き続け、日展の特選となった「水田」「田植の女」が示す存在感ある素朴な女性像から、近年は華やかな舞妓姿へと対象を変えているが、一貫して平明で温かな人間性をたたえている。

鎌田糸平

没年月日:1980/01/01

水墨画家鎌田糸平は、1月1日肝臓ガンのため神戸市の神戸労災病院で死去した。享年64。静岡県引佐郡に生まれ、水墨画家水越松南に師事した。1975年フランス芸術国際フェスティバルでグランプリを受賞し、1976年8月山田無文老師とパリで作品展を開いた。画業の一方神戸三宮でしにせのウナギ店「糸平」も経営した

野間仁根

没年月日:1979/12/30

一陽会創立会員の洋画家野間仁根は、12月30日肺炎のため東京港区の慈恵医大付属病院で死去した。享年78。1901(明治34)年2月5日愛媛県越智郡に生まれ、1914年今治中学校に入学、19年母と共に上京し、翌年2月川端画学校に入り、4月東京美術学校西洋画科に入学、25年卒業する。在学中の22年に久遠社、翌年伊東廉らと童顔社を結社、24年には第11回二科展に「静物」が初入選する。28年第15回二科展に「夜の床」など3点を出品し樗牛賞を受け、同年拓榴社に入会、29年第16回二科展に「ぜ・ふうるむうん」(The Full Moon)「友達」を出品し二科賞を授賞、30年二科会々友、33年二科会々員に推挙される。また、31年佐藤春夫作『むさしの少女』の挿絵を描いたのをはじめ、坪田譲治作『風の中の子供』(36年)井伏鱒二作『花の街』(42年)などの新聞連載小説の挿絵にも戦後まで腕をふるった。この間、38年から翌年にかけて臨時召集され中国で兵役につく。戦後も二科に出品を続けたが、55年6月鈴木信太郎らと同会を退会し、7月鈴木、高岡徳太郎ら同志と一陽会を結成し、以後同会の主要作家として没年まで制作発表を続ける。きらびやかな色彩と骨太な筆触でユーモラスで幻想的な画風を築いた。画壇きっての釣り師としても有名で、『香馬先生釣日記』などの著書もある。 年譜1901 2月5日、愛媛県越智郡に、父野間五恵、母ダイの長男として生まれる。1907 津倉尋常小学校に入学。1913 津倉尋常小学校卒業。今治第二高等尋常小学校入学。今治市、伊藤ヨウ方に寄宿。1914 今治中学校入学。1915 今中寄宿舎に入る。1918 今治市中浜町、松の屋旅館に下宿。1919 12月25日、母と共に上京、下谷区、三村方に寄宿。1920 2月、本郷春日町、川端画学校に入校。4月、東京美術学校入学。本郷区台町、三国館に下宿。夏季休暇利用し諏訪、甲州に旅行。9月、本郷区に移る。1921 10月、塩原温泉に写生旅行。「秋山景色」を描く。1922 久遠社を結成し美校倶楽部にて第1回展開催。1923 童顔社を結成、伊東廉、中谷健次、一原五常、山本雅彦(彫刻)、斉藤瑞唆(木彫)後、沢健太郎、水野清入社。「娘と人形」を描く。10月、大阪に移住1ヶ月。1924 巣鴨、室谷に下宿。本郷区浅嘉町松井鉄之助方に下宿。「静物」新光洋画展出品。「静物」中央美術展出品。「庭」光風会展出品。第1回個展開催。童顔社、展覧会開催。9月、「静物」第11回二科展出品、初入選。10月、神田竹見屋にて個展開催、約30点出品。谷中天王寺三村に寄宿後、下谷区金杉町192、片岡方借家に移住。1925 東京美術学校卒業。卒業制作百号「裸婦」。「静物」第6回中央美術展出品。9月、二科展落選。10月、片岡方より下谷区、三村方借家に移住。11月、童顔社展覧会、30点出品。12月、香川県善通寺町山隊隊に山砲兵として入隊。1926 11月、山砲兵第11連帯現役満期。9月、「静物」第13回二科展出品。童顔社展、約20点出品。1927 下谷区谷中天王寺町34に住む。9月、「娘と人形」「摘草」など5点、第14回二科展出品。9月、童顔社解散。1928 下谷区谷中三崎町18に移る。1月、拓榴社に入会する。6月、日本橋丸善にて拓榴社展を開催。9月、「夜の床」など3点第15回二科展出品、第15回樗牛賞授賞。作品「壺の中のダリヤ」。1929 1月、紀伊國屋にて展覧会。拓榴社同人となる。「操り人形四種」「玩具の会話」第10回中央美術展出品。9月、「ぜ・ふうるむうん」「友達」第16回二科展出品、二科賞受賞。11月、銀座資生堂の漣洋画展に出品。11月、拓榴社展に出品。作品「アルルカン」「柿」。1930 9月、「龍桜」「濤声」「冬夜の歌」第17回二科展出品。二科会友となる。1931 佐藤春夫作「むさしの少女」に挿絵を描く。9月「La Promenade de l’artiste」「鴎」第18回二科展出品。アンデパンダン展出品。1932 9月、「夏の夜の戯れ」「小鳥は楽しく鳴いている」第19回二科展出品。9月、千駄木、福原平一借家に移住。12月、津倉にて岡山市都窪郡帯江村、長瀬又七長女、志那子と結婚。1933 9月、「画室」「睡れる旅人」第20回二科展出品。二科会々員となる。本郷区駒込千駄木町に移る。作品「麦畑と子供」。1934 1月、長女佳子生まれる。下谷区に移る。銀座画廊にて個展開催。9月、「魔法の森」第21回二科展出品。作品「かぶと虫と話す牛」「ライオンとかぶと虫」。1935 長男伝治生まれる。新宿紀伊國屋画廊にて個展開催。9月、「晩夏交響楽」「海辺」(2点)第22回二科展出品。作品「家族」。1936 本郷駒込坂下町に移る。9月、「花園の友人」「鮒と麦の花」など5点第23回二科展出品。9月、坪田壤治『風の中の子供』(東京朝日新聞夕刊)の挿画連載を始める。作品「夜々の星」「壁」。1937 二男雅二郎生まれる。銀座日動画廊、銀座ラテン画廊にて個展開催。坪田壌治作「三平チャンと善太君」(大阪朝日新聞夕刊)にて挿絵を書く。9月「夏の淡水魚」第24回二科展出品。1938 2月、銀座日動画廊にて熊谷守一と共に個展開催。8月、臨時召集により山砲兵第11連帯に応召、中国へ渡る。9月、「夏園」「田園」第25回二科展出品。作品「薔薇と雀」1939 5月、召集解除。日動画廊にて個展開催。約20点出品。銀座三越にて第1回新水彩展開催。「看護婦の散歩」「花と水鳥」「檳榔樹の並木」第26回二科展出品。1940 1月から千葉県安房郡太海へ、8月伊豆、10月茨城県龍ヶ崎町など写生旅行。第2回新水彩展、第5回京都市美術展、無涯社第1回展などへ出品。「春の海」「朝陽」春季二科展出品(高島屋)。「花実と白鷺」第27回二科展出品。5月、日動画廊で個展開催30点余を出品。『童話集』(小川未明著)『童心の花』(坪田壌治著)『愛児煩悩』(舟橋聖一著)の装幀を行う。1941 4月、妙義山写生旅行。5月、長野県初谷砿泉に写生旅行。5月、三男利根生まれる。6月、日動画廊にて新作油絵展開催。20点余を出品。7月、大阪三角堂で個展開催。仏印巡回絵画展、洋画10作家新作発表展に出品。10月、文化奉公会出征画家展に「広東の回想」出品。台東区桜木町に移る。作品「虫と猫」。『井伏鱒二随筆集』の装幀と表紙、扉画、『ドン氏の行列』(太田博也著)の装幀と表紙と扉画を行う。1942 2月、嵯峨嵯温泉写生旅行。第2回出征美術家展に出品、火野葦平作「ハタノウタ」に挿絵を書く。8月、井伏鱒二の小説『花の街』(東京日々新聞朝刊)の挿画連載を始める。9月、二科展に「越後毛渡沢渓流」「子供勤労」「葛飾の子供」を出品。1944 1月、愛媛県に疎開。二科展解散。1945 再建二科会入会。秋の審査に上京。作品「迷宮物語」。三男博生まれる。1946 9月、「夜釣」「滞船」など6点第31回二科展出品。1948 9月、「銀河」「夜々の星」など4点第32回二科展出品。作品「魚」1948 作品「風景」「瀬戸内の海」1949 作品「田舎の家族」「受胎告知」「処女宮」。9月、「かっぱと花」「壺の花」など6点第34回二科展出品。1950 9月「すばる星と金牛宮」「夜曲夜釣」など4点第35回二科展出品。1951 9月、「魚歌水心」「魚譜」など4点第36回二科展出品。作品「星座」「海」。1952 日展改組に審査員として出席、7月上京。9月、「海の花苑」「川口」など4点第37回二科展出品。「瀬戸内海・南浦風景」芸大文庫買上げ。毎日新聞連載、石川達三作「青色革命」に挿絵を書く。作品「漁火」1953 2月頃家族上京。9月、「漁火」「子供と昆虫」「谷中の森」第38回二科展出品。作品「漁介」「兄弟と昆虫」「春潮」「嵯峨沢渓流」「房州太海海岸」。1954 東京の自宅を回収。作品「牡丹」「浜離宮」、「5月の花」国際新美術展出品。9月、「昆虫」。「街の散歩」など5点第39回二科展出品。1955 6月、鈴木信太郎らと二科会退会。7月、鈴木、高岡徳太郎らと一陽会結成。9月、日本橋高島屋で第1回展開催、「星座・アンドロメダ」「貝殻」「生物B」「双魚」出品。1956 日動画廊にて近作展開催。8月、「森のニンフ」第2回一陽会出品。「メバル」1957 8月、「渦潮」「裸婦七人」第3回一陽会出品。1958 野間仁根個展開催。9月、「水浴」「水辺の物語」第4回一陽会出品。「外房州天面海辺」。1959 9月「鳥の会話」第5回一陽会出品、「魚と釣師」。1960 第1回谺会出品。野間仁根新作油絵展。秀作デッサン展。9月、「ダリア」「疚太風景」第6回一陽展出品。作品「河童の酒宴」「メバルとヨメガサ」。1961 野間仁根油絵個展を松坂屋で開催。9月、「聖人文壺のダリア」など3点第7回一陽展出品。作品「蜂」1962 野間仁根新作油絵展、野間仁根油絵小品展開催。9月、「浜木綿」など3点第8回一陽展出品。1963 9月、「漁村の岩山」など3点第9回一陽会出品作品「浜木綿」「星座・琴の二重星」。1964 9月、「天河」「薔薇」第10回一陽会出品。「春の星座」。1965 9月、「未来水道」「魚の散歩」第11回一陽会出品。1966 9月、「吉浦漁村」「天面漁村」第12回一陽会出品。1967 千代田画廊にて、田崎広助、鈴木信太郎らと「三人展」開催。9月、「来島水道仲度島付近」「能島水道」第13回一陽会出品。1968 9月、「瀬戸内海・早川」「瀬戸内海・能島鯛崎」第14回一陽会出品。1969 9月、「瀬戸内海石槌山遠望」「瀬戸内海早川の景」第15回一陽会出品。1970 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第16回一陽会出品。1971 9月、「瀬戸内海・仲度島付近」「瀬戸内海漁港」第17回一陽会出品。作品「メバル」「瀬戸内海・釣魚」「神々の集い」。1972 9月、「瀬戸内海伯方島遠望」「瀬戸内海南浦の朝」第18回一陽会出品。作品「露草とカマキリ」「露草とカタツムリ」「山彦」。1973 9月、「常石の眺望」「森の人々」第19回一陽会出品。「アネモネ」1974 9月、「天ノ河」「森の友達」「旧作森の物語」第20回一陽会出品。「蟹」。1975 9月、「森の友達」「虫の演奏会」第21回一陽会出品。「沼の河童」。1976 9月、「森の猿」「森の妖精」第22回一陽会出品。「水辺の鳥」「森の人々」。1977 9月、「蛙と猿」「ニンフの午睡」第23回一陽会出品。「外房州天面」。1978 9月、「マリオネットの散歩」「森のヒッピイ」第24回一陽会出品。「泊港滞船」。1979 9月「芸術の散歩」「森の楽人」第25回一陽会出品。「富嶽」絶筆「森の鳥たち」。12月30日逝去。78歳。[本年譜は『野間仁根画集』(昭和55年、三彩新社)所載の「野間仁根年譜」に添削を加えたものである。]

萩谷巌

没年月日:1979/12/24

サロン・ドートンヌ会員の洋画家萩谷巌は、12月24日心筋硬ソクのため東京豊島区の敬愛病院で死去した。享年88。1891(明治24)年12月17日、福岡県朝倉郡に生まれ、1908年福岡県立小倉師範学校に入学したが、画家を志望して家出し翌年上京、長尾一平の磯谷商店に書生として住み込み、白馬会葵橋洋画研究所の夜学部に通って石膏デッサンから始める。11年磯谷をやめ新派の喜多村緑郎一座に、翌年大阪で川上貞奴一座に加わり背景画の仕事に携わる。19年第7回光風会展に「筑後川」、翌年の第8回展に「梅林」が入選する。22年渡仏しパリでアカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室に通い、この頃からキスリング、ドランらと親交を始める。24年サロン・ドートンヌに「モンマルトル風景」が入選、以後同展やアンデパンダン展、サロン・ナショナル・デ・ボザール展などに出品し、26年サロン・ドートンヌ会員に推挙される。27年帰国し帰朝洋画展(日本橋三越)を開き、翌年から33年まで再渡仏する。帰国後、団体展に所属せずもっぱら個展で制作発表を行う。戦後も三回渡仏し、帰国後滞欧作展を開く。バラの絵が得意で“バラの荻谷”といわれた。79年、米寿社会の回顧展が東京、福岡で開催され、『荻谷巌画集』(日動出版)が刊行された。 略年譜1891 12月17日、福岡県朝倉郡に生まれる。芳吉、アキ長男。父祖代々、秋月藩候に茶道をもって仕えた家柄であった。1898 荷原尋常小学校に入学。幼少の頃から絵を描くことが好きで、小学生時代、習字や算術の時間に絵を描いてよく教師に叱られた。1902 荷原尋常小学校卒業。金川高等小学校に入学。高等小学校の頃、家にあった田能村直入、木下逸雲などの軸ものを模写している。1906 金川高等小学校を卒業。福岡市の予備校、予修館に入学する。画家になりたくて、父に懇願したが許されず、やむなく師範学校に進学することにした。1908福岡県立小倉師範学校に入学。画家になることをどうしても許してもらえなかったので、夏休みを機に家出して、静岡の大叔父萩谷澄人のもとに身を寄せる。静岡に滞在中、静岡出身の額縁製造の草分け磯谷商店の店主長尾健吉の子息一平(当時実家で療養していた)と知り合い、同家に出入りする画家のことや住み込み店員として働きながら世に出た画家の話などを聞き、磯谷商店へのとりなしを長尾一平に頼み込み、ひそかに機をうかがった。静岡の大叔父は、画家志望には理解を示したが、油絵をやりたい本人に日本画の竹内栖鳳に弟子入りすることをすすめたりして、意見が合わなかった。1909 1月、大叔父に無断で上京し、東京市芝区新桜田町19、磯谷商店に住み込みの書生として雇われる。かねて前記の長尾一平と打合わせて決行したことであった。磯谷での仕事は、店の掃除、額縁の配達、集金などで、時に、竹之台陳列館でひらかれる展覧会の搬出入や陳列の手伝いもやらされた。夜は、白馬会葵橋洋画研究所(赤坂区溜池町3番地にあった)の夜学部に通うことが許され、石膏デッサンから絵の勉強を始める。黒田清輝は滅多に姿を見せず、和田三造が主任で時折教えた。同じ時期に研究所に来ていた岸田劉生とは同年だったこともあって直ぐに親しくなり、銀座2丁目の劉生の家(精錡水本舗)に遊びに行ったりした。11月、市川左団治による自由劇場第1回試演(有楽座)の折り、岡田三郎助の下で背景制作の手伝いをする。1910 秋、白馬会会員を中心とする展覧会に日比谷公園のつつじを描いた水彩画が入選する。1911 この年三月に開場した帝国劇場には、パリのオペラ座を模した天井画と壁画が描かれているが、これは和田英作が主任となり、東京美術学校出身の藤田嗣治、近藤浩一路らを助手にして制作したものである。制作中、磯谷からの指示で手伝いに行き、絵具を練ったり、高い所へ運んだり、たまに空の部分を塗らせて貰ったりした。この頃、磯谷商店をやめ、新派の喜多村緑郎一座に加わり、背景主任として各地の巡業について回る。1912 後藤良介一座に加わって朝鮮の釜山にわたったが、明治天皇崩御(7月30日)に際し、一座は解散し、しばらく釜山で同地の名士の肖像画を描いて糊口をしのぐ。帰国後、大阪で川上貞奴一座のために背景を描く仕事をする。1913 大叔父萩谷季雄が校長をしていた大阪府北河内郡南郷小学校で個展をひらき、生駒山で描いた四号の作品四十余点を出陳する。同村出身の代議士西村氏の斡旋による。この時、近藤浩一路が大阪から駆けつけ、似顔絵の席画をして応援してくれた。1914 大正4年にかけて岡山市の親戚中島次郎吉の世話になり、主に県内の名士の肖像画を描いて生活する。後に、井原市西江原町の医師大山恒宅に寄寓する。1917 この頃、福岡に帰る。1919 三月、光風会第7回展に『筑後川』が入選する。1920 五月、光風会第8回展に『梅林』が入選する。1921 三月、大原孫三郎収集の現代フランス名画展(岡山県、倉敷小学校)を見に行き、シャルル・ゲランの赤いスカーフの少女像(「手鼓を持つイタリアの少女」)の暖かい色彩のハーモニーに魅了される。フランスに留学する時にはゲランに師事しようと決めていたと言う。福岡で、松永安佐衛門、弁護士日下部政徳、玄洋社々町進藤喜平太、和田三造の四人が発起人となり、渡欧後援会が組織される。1922 この頃、門司市に移り、三井銀行支店長役宅にて作画に専念する。三井物産支店長島田勝之助、巴組社長中野金次郎、日本製粉支店長八尋俊介、三井銀行支店長大島弥太郎、アサヒセメント支店長宮川総一郎らによって第二次の渡欧後援会が設けられ、留学費を調える。十一月、門司港から日本郵船箱崎丸に乗船し、渡仏の途に就く。パリではカンパーニュ・プルミエール街九番地にアトリエを借りて住む。1923 アカデミー・コラロッシュのシャルル・ゲランの教室にはいる。ゲラン門下に、早く1920年に渡仏した小山敬三があり、通訳の労をとってくれた。ゲランの教室には一年半通い、その後も絵を見て貰って、絵のつくり方ということについて厳しく教えを受けた。キスリングとはアトリエが近かったこともあってよく往き来し、またドランとも親しく交わった。1924 サロン・ドートンヌに『モンマルトル風景』が入選する。1925 初夏の頃、大阪毎日新聞門司支局において、サロン・ドートンヌ入選を記念する個展が開催され、後援会の人たちも面目が立った。この年、アンデパンダン展に『静物』が入選、サロン・ナショナル・デ・ボザール展にも入選する。1926 3月、第31回アンデパンダン展に『魚のある静物』ほか一点が入選する。5月、サロン・ナショナル・デ・ボザールに風景2点が入選する。9月、日本橋、三越呉服店において個展をひらき、『モンマルトル風景』『リュ・ベロニー』『セーヌ河畔』『魚のある静物』『パンテオンを望む』『田舎娘』など滞欧作約50点を発表する。10月、サロン・ドートンヌに『静物』『風景』が入選する。10月21日、サロン・ドートンヌ会員に推挙される。この年、ロンドン日本人クラブで個展をひらき、出品作40点を売約する。1927 8月、帰国する。9月、日本橋、三越呉服店において萩谷巌帰朝洋画展が開催される。滞欧作69点、帰国後の作品2点を出陳。11月、大阪朝日新聞社楼上において滞欧作を主とする個展をひらく。1928 この年、日本工業倶楽部で個展を開く。7月、シベリア経由で再度渡仏、リュ・クルヴールのアトリエに落ち着く。1929 ベルギーのブリュッセルにおいて、パリ在住の日本人画家の展覧会が開催されるに当り、柳亮と共に代表者として現地に赴く。同展覧会に出品した薔薇の絵がベルギー王室に買い上げられた。1930 パリで開催された日本人画家展に出品、『南仏風景』がフランス政府に買い上げられる。1933 サロン・ドートンヌ審査員となる。ロンドンの日本人クラブで個展をひらく。1934 4月、帰国する。1936 11月、福岡、岩田屋において個展をひらく。1938 6月、神戸、大丸百貨店において個展をひらく。1939 5月、日本橋、三越において近作個展をひらき、『松間の富士』『静かなる朝』『呉須鉢と支那壺』『東京風景』などに数点の滞欧作を加えた40余点を発表する。9月、大阪、三越において個展をひらく。1940 3月、日本橋、三越において、萩谷巌、林倭衛、木下孝則洋画展が開催される。この年、麹町2番丁に転居し、別に麹町1番丁にアトリエを構える。1942 3月、数寄屋橋、日動画廊において個展をひらく。1945 5月25日、アトリエと住居が同時に戦災に会い総てのものを失った。8月、秋田県大曲町に疎開し、以後4カ年余をここに過ごす。この間、秋田市、大館、能代、船川等で個展をひらく。1950 この年、豊島区千早町1の45に転居する。1952 8月、渡仏する。アメリカのコロンビア美術館で個展をひらき、出品作『花のいろいろ』が同館に買い上げられる。1953 3月から5月にかけて、北アフリカ写生旅行に赴く。6月、パリのテデスコ画廊で個展をひらき、アルジェ、モロッコでの制作のほか静物などをまじえた21点を発表する。10月、帰国する。12月、日動画廊において滞欧作展をひらく。1954 6月、丸の内、日本工業倶楽部において個展をひらく。1955 8月、大阪、梅田画廊において滞欧作品展をひらき、滞欧作品18点、帰国後の作品15点を発表する。出品作品次の通り。『アルゼリー港』『小市場』『コンコールドの広場』『ブルバール・ド・モンパルナス』『アルゼリー風景』『フェーズの寺(モロッコ)』『セーヌ河岸』『街の角(モンマルトル)』『ラ・フネートル(アルゼリー)』『カズバ(アルゼリー)』『モロッコの村落』『パリーの古い街』『チューレリー公園』『モンマルトル風景』『廃屋(アルゼリー』『ポンヌフ(パリー)』『スタチセの花等』(以上滞欧作)『白桃』『ばら(李朝の壺』『豊果』『菊の花』『果物』『ばら(カットグラス)』『あざみ(青磁)』『黄ばら(ペルシャ壺)』『カトレア』『ばら(李朝の壺)』『カーネーション』『ばら(フランスの壺)』『ばら(宗の壺)』『壺と皿』『黄菊白菊』(以上帰国後の作品)1956 1月、日動画廊においてて「静物」油絵展をひらき、『アネモネ』『黄ばら』『菊の花』『黄菊白菊』など花と壺を主とした静物ばかり十九点を発表する。12月、日動画廊において油絵展をひらく。1957 3月、造形ギャラリーにおいて個展をひらき、近作の小品20点を発表する。1695 6月、アラスカの日本商社アラスカ・パルプの依嘱を受け、太平洋岸のシトカやヘインズの町を訪れて風物を写す。帰途、カナダに立ち寄り、ケベック、モントリオールなどで画襄を肥やした後、パリを経て12月に帰国する。1966 6月、日動サロンにおいて近作展をひらき、前年にわたる旅行の収穫(アラスカの部12点、カナダの部10点、パリの部11点、花の部6点)を発表する。1967 11月、名古屋日動画廊において個展をひらく。1968 2月、福岡玉屋において近作展をひらき、さきのアラスカ、カナダ、ヨーロッパの旅の収穫に花卉などをまじえた約50点を発表する。10月、大阪、カワスミ画廊において新作展をひらき、花を主題にした作品に『関門風景』などの風景画を加えた約20数点を発表する。1969 10月、京都、祇園画廊において個展をひらき、『壺に花』などの新作20数点を発表する。1970 7月、大和新潟店において海外風景展をひらき、『広告塔のある風景』など新作油絵20点を発表する。8月、日動サロンにおいて個展をひらき、薔薇を主にした花ばかりの新作32点を発表する。9月、名古屋日動画廊において個展をひらく。1971 4月18日、パリへ出発する。戦後3度目、通産5度目である。パリのまんなかのサンルイ島に宿をとり、制作三昧の日を過ごす。80歳を迎えて、やはりパリに行ってみようという気持ちになった。80歳を超えてなお多くの優作を遺した富岡鉄斎にあやかりたい心境も覚えた。1972 9月、帰国する。1年5ヶ月に及ぶパリ滞在中80点の作品を制作した。10月、大和新潟店において滞欧作品展をひらく。1973 3月、銀座、ギンキョウ画廊において巴里風景展をひらき、『朝のポンマリー』『早朝のセーヌ河畔』『朝のコンコルド』『4区の古い家屋』『巴里の朝(サンポール持院)』『秋のサンポール寺院』『マロニエの咲く頃』『モンマルトル公園』など約40点を発表する。1974 6月、福岡玉屋において個展-花と巴里風景-をひらき、巴里風景17点、花25点を発表する。1975 この年、秋月郷土美術館(秋月郷土館に併設、10月開館)のために『秋月風景』を制作する。1976 1月、日動サロンにおいて近作小品展をひらき、『洋らん有田焼』『李朝ばら』『ばらとミモザ』『ノートルダム(サン・ルイ島より)』『街角のレストラン』『ポン・サンミシェル』など静物とパリ風景ほか富士を描いた作品をふくむ40点を発表する。3月、名古屋日動画廊において個展をひらく。5月、大阪、カワスミ画廊において花と風景の個展を開く。1979 米寿記念回顧展(東京・福岡)が開催される。11月、『萩谷巌画集』(日動出版)が刊行される。(本年譜は、『萩谷巌画集』(’79年、日動出版)所載の「萩谷巌略年譜」を転載したものである。)

坪内節太郎

没年月日:1979/12/04

洋画家坪内節太郎は、12月4日大腸クローン氏病のため、岐阜市民病院で死去した。享年74。雅号壺人。1905(明38)年9月28日岐阜県稲葉郡那加町に生れ、大阪商業大学を経て天彩画塾で洋画を学んだ。国画会、独立美術協会、春陽会等に出品し、独立展は1932年第2回展「製材所」より連年入選した。1938年独立展に「海」「馬」を出品し美術協会賞となり、同40年協会会友、43年準会員となった。戦後46年行動美術協会第1回展で行動美術賞を受け、同時に会員推挙となった。展覧会作品のほか新聞、雑誌に挿絵、随筆を多く書き、また随想集「絵画人情」(1953、東住吟社)、「歌舞伎画帖」(1963、中日出版局)、「文楽画帖」(東京新聞出版局)、「絵画人情」「水墨画入門」などの著書があり、演劇評論家としても知られる。

橋浦泰雄

没年月日:1979/11/21

民族学の研究家でもとプロレタリア美術運動の画家、橋浦泰雄は、11月21日午前3時、老衰のため東京杉並区の西荻窪診療所で死去した。享年90。橋浦泰雄は、1888(明治21)年11月30日、鳥取県岩美郡の地主の4男に生まれ、1902(明治35)年岩井高等小学校を卒業、家業(桑畑の耕作)を手伝う。1904年「平民新聞」の購読者となり、社会主義思想の影響をうける一方、「明星」の読者で文学に関心をよせた。1908年鳥取歩兵40連帯に入隊し満州遼陽村に駐屯、在役中に弟時雄が孝徳秋水事件に関連して逮捕投獄された。11年満州から帰郷、養蚕、養鶏に従事、白井喬二らの白日会(のち水脈文芸会)の同人となる。1912年『水脈』創刊、また水脈主催美術展を開催する。詩、戯曲、小説などを発表また投稿したが、14年坂田家養子となり上京し、16年有島武郎、秋田雨雀、藤森成吉、足助素一などを知る。1918年養家の妻死去し、このとき画家になることを決意し、1920(大正9)年4月牛込築土八幡停留所前の骨董店で開かれ黒耀会第1回展に参加出品した。黒耀会は、橋浦のほか、望月桂、林倭衛などのほか大杉栄、馬場狐蝶、久板卯之助、荒畑寒村などアナーキスト、サンディカリストらの参加が多く、社会革命と芸術革命の一致を主張した、最初のプロレタリア美術展であった。同年11月京橋星製薬階上で第2回展、翌21年の第3回展を開き、官憲による撤収命令などがあり第4回展のとき解散命令がだされている。橋浦は1920年第2回帝展に出品、落選している。1926(大正15)年11月日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)が結成され、その美術部に所属、28年無産者芸術連盟(ナップ)結成、中央委員となり、11月東京府美術館で第1回プロレタリア美術大展覧会開催され、「早く行っといで」出品。1929年日本プロレタリア美術家同盟(AR、1934年解散)が再組織され中央委員長に選ばれた。橋浦は1925年柳田国男を知り、柳田に導かれて民俗調差に従うようになり1934年以降は民俗学に関する報告、著書を多く刊行しているが、画家としては個展を中心に活動している。1922年7月牛込矢来倶楽部で第1回展を開いたあと、同年11月鳥取市仁風閣、1924年4月札幌豊平館において、25年札幌と函館において、29年長野県松本公会堂、30年鳥取商工奨励館などでそれぞれ個展を開催。戦後は日本美術会、平和美術展などに出品、1960年にはソビエト共産党の招待により訪ソ、71年第4回全日本水墨画協会「黒い海」「高原の湿国」を出品、76年第3回日象展に「大根で道を教える」「牡丹日」「故郷は海日」を出品、79年5月鳥取市福祉文化会館で回顧展を開催した。

荻原孝一

没年月日:1979/11/20

一水会会員の洋画家荻原孝一は、11月20日動脈栓症のため死去した。享年70。1909(明治42)年8月23日長野県佐久市に生まれ、野沢中学校卒業後上京し川端画学校に学び、1929年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事し34年卒業する。38年から54年まで野沢中学校、姫路高等女学校、野沢北高校の教壇に立つ。48年第4回日展に「池畔の子供」が初入選。この年小山敬三、有島生馬の賛助を得て佐久美術展を結成する。51年から一水会に出品、同54年一水会々員となる。62年上野松坂屋で最初の個展を開催、64年渡欧する。68年から佐久市民美術展運営委員をつとめる。73年と77年に紺綬褒章を受ける。作品は他に「読書」(49年)「真昼」(52年)「グランドキャニオン」(67年)など。

青地秀太郎

没年月日:1979/11/10

洋画家青地秀太郎は、数年来胃、食道等の癌疾により療養中であったが、11月10日死去した。享年64。1915(大4)年岡山市大供表町4-26に生れ、1933年上京し川端画学校で学び、岡田三郎助に師事した。また郷里に帰り小林喜一郎に師事した。1940年紀元2600年奉祝美術展に「夕餉まへ」が初入選し、ついで同42年第7回文展に「冬日」が入選した。戦後は日展に出品し、第2回「夏」、3回「溪間」、4回「城山にて」、5回「秋暮色」などがある。6回「解剖学教室」では特選となった。この年創元会に所属し会員となった。1951年日展無鑑査となり、翌年以後依嘱出品となった。この年創元会では努力賞となり、委員となった。54年中国に渡り、北京に滞在して制作をつづけた。62年日展を離脱し、また創元会も退会して以後無所属として活動した。69年には渡欧し、滞留して制作したが、晩年は上高地の山小屋生活による制作が殆どであった。代表作は上記のほか「上高地」連作がある。

安泰

没年月日:1979/10/31

童画家安泰は、10月31日心不全のため東京豊島区の敬愛病院で死去した。享年76。1903(明治36)年10月4日茨城県久慈郡に生まれ、1927年日本美術学校日本画家を卒業、日本画制作のかたわら「コドモノクニ」などに童画を描き始め、31年新ニッポン童画会を設立する。52年第1回小学館児童文化賞を受賞、64年には童画ぐるーぷ「車」を結成、74年日本児童文芸家協会から児童文化功労者として表彰される。わが国童画会の草分けの一人で、特に動物の絵を得意とした。戦前の作品に「オサルノコヅツミ」(東京社)「太陽と花園」(フタバ書店)、戦後に「おやまのくまちゃん」「どこからきたの」(童心社)、「白鳥の国」(新日本出版社)、「スイッチョねこ」(フレーベル社)、「ねこ画集」(童心社)など。

川上尉平

没年月日:1979/10/04

春陽会会員の洋画家、川上尉平は、10月4日午前11時55分、脂肪肉しゅによる呼吸不全のため、東京板橋区の都立養育院付属病院で死去した。享年62。川上尉平は、1917(大正6)年2月26日、熊本県飽託郡に生まれ、1931年河内尋常小学校高等科を卒業、河内郵便局勤務をへて1935年熊本市の千徳デパート宣伝部に入社、39年上京、翌40(昭和15)年日本電建に入社した。幼時から絵を好み、熊本在住の洋画家寺尾洸二に師事、小学校時代に九州美術展に入選、上京後は勤務のかたわら独学し、1940年第5回独立美術協会展に出品して初入選となった。戦後は1947年第24回春陽会展に出品入選し、春陽会賞を授賞、翌年準会員(会友)、1953年春陽会会員に推挙された。以後、毎回春陽会展に出品すると同時に、1953年銀座ヤナセ画廊で最初の個展を開催し、1960年には八幡市立美術工芸館、65年熊本市鶴屋デパート、65年東京大丸百貨店で個展、同年から76年までには昭和画廊において8回個展を開催し、その間、1974年熊本日動画廊、76年吉祥寺東急美術サロンでも個展を開いている。また、1966年の立秀会第2回展から第12回展まで参加出品、1969年麗日会第1回展に出品し以後第10回展まで出品、1972年に結成された写実画壇(里見勝蔵、中村善策など)には翌年第1回展から没年まで出品した。1973年12月背部腫瘍を手術、78年再発して右手の自由を失ったあとは左手で描いていた。1979年6月肉腫が肺に転移入院、10月4日没。台東区谷中一乗寺に葬られた。

鶴岡政男

没年月日:1979/09/27

自由美術協会会員の洋画家鶴岡政男は、9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区の下谷病院で死去した。享年72。鶴岡は、1907(明治40)年群馬県高崎市に生まれ、少年時代から東京で生活し、大正末期から昭和初期にかけて太平洋画会研究所で学び、靉光、井上長三郎らと交友、洪原会、ノバ美術協会などのグループに属して作品を発表、また左翼活動にも参加した。1937年、日中戦争に応召され、騎兵として中支に赴いたが、1940年兵役解除となり帰国、1943~44年、松本竣介、麻生三郎、靉光らと新人画会を結成して三回展覧会を開催したが、終戦の直前に再度応召され、国内で敗戦をむかえた。戦後は、新人画会のメンバーらとともに自由美術協会に所属し、自由美術展、日本国際美術展らに出品、1953年には第2回サンパウロ・ビエンナーレ展にも出品した。戦前派さまざまな職業に従事しながら「髯の連作」(デッサン)のような諷刺的作品を発表、また新人画会はファシズム、戦時下の暗黒の時代に抵抗した例として評価されているが、戦前の作品はほとんど焼失した。戦後は、「夜の群像」「重い手」などの作品が、敗戦後の現実に対する鋭い批判と諷刺をもち、さらに「人間気化」「落下する人体」と混迷する社会と人間の姿を形象化した作品を描きつづけて注目された。その後、「青いカーテン」「視点B」など、ユーモアを秘めた現実諷刺の作品がつづいている。鶴岡は、終始、ヒューマニズムに立ち、さめた眼で現実を把えて鋭く造形化した作品を発表して、戦後の現代絵画の中で重要な地位を占めていた。 略年譜1907年(明治40年) 2月16日、高崎市に、建築金物製造業、木ノ内峯吉・はつの長男(ひとり子)として生まれる。1913年 6歳 4月、高崎市立南小学校入学。1914年 7歳 母は、鶴岡勇吉と再婚。母に連れられ、兵庫県東尻池村に約1年間住み、浜山小学校に通う。(2年生)1915年 8歳 一家で上京し、台東区池の端七軒町に住む。政夫は下谷忍ヶ岡小学校に入る。(3年生)1年後、高崎に引き取られ、南小学校に通ったが、さらに1年後上京。父が、文京区駒込神明町に鉄工所を始めたため、ここから再び忍ヶ岡小学校に通う。(5、6年生)1918年 11歳 鶴岡勇吉の養女として君子(2歳)が入籍。1921年 14歳 3月、文京区本郷高等小学校卒業。このころ読んだゲーテの叙事詩「ヘルマンとドロテア」に感銘を受ける。これが内なるものと芸術との最初の出合いとなり、絵の道に入る契機となる。その後、8、9年の間、絵画制作のかたわら、鏡花、犀星、朔太郎、足穂に傾倒、自らも詩作する。1922年 15歳 太平洋画会研究所に入る。ここにやがて井上長三郎、靉光が入り、交友が始まる。1924年 17歳 大阪新興美術院に油彩画「静物」を出品。1928年 21歳 第3回1930年協会展に入選。井上長三郎ら約20名とともに、保守的な研究所当局に反発し、除名処分となる。翌年これらの者が洪原会(こうげんかい)をつくる。1929年 22歳 2月、洪原会第1回会合(神田・大同洋行)。会員は鶴岡のほか、大竹久一、関川譲、岩倉具方ら19名。7月、第1回洪原展開催。「裸婦A」~「裸婦F」、「自動車練習場」の計7点を出品。1930年 23歳 7月、第2回洪原展に「女A」~「女D」の4点を出品。11月、NOVA(ノバ)美術協会発会式(神田、カフェーブラジル)。洪原展会員岩倉具方のフランス遊学を機に同会は解散。同会中心メンバーにより、ノバ美術協会が設立される。会員は鶴岡のほかに井沢秋雄、山田直一郎、岩倉具方、大竹久一、関川譲など10名。1931年 24歳 1月、第1回ノバ美術協会展(東京府美術館)に「カジノフォリー」、「海」、「楽屋裏」を出品。7月、雑誌「モダン日本」に漫画執筆。この頃から父の仕事がうまくいかなくなり、応召までの7年間、様々な仕事に手を染める。すなわち、機械工具店勤め、図案社(印刷の版下)、鏡野面取工、漫画、焼鳥屋、メリヤス会社の意匠など。1932年 25歳 1月、第2回ノバ展に「布良」、「風景B」、「風景C」、「風景D」、「水道橋」、「物置場」などを出品。この頃左翼活動に参加。しかしやがてこの運動に失望し、離れていく。1933年 26歳 1月、第3回ノバ展に「煙草を呑むO君」、「へうたん」、「ブドウと花とテーブル」、「夜の女」、「肉屋」、「踊り」、「紙と花」、「鏡の中の顔」の8点を出品。1934年 27歳 1月、第4回ノバ展に「金の卵を持っている(彼は金の卵を生む鳥を持つ)」、「習作(直線による)」、「あなたをうつ」の3点を出品。1935年 28歳 1月、第5回ノバ展に「移転」、「偶像」、「リズミカル・オルガニゼーション(リズム)」を出品。5月、個展(団子坂・リリオム)6月、個展(新宿・ノバ喫茶店二階)「髯の連作」(デッサン)を出品。1936年 29歳 1月、第6回ノバ展に「西方の聖」、「髯の連作」など10点を出品。4月、アバンギャルド芸術クラブに参加。1937年 30歳 1月、第7回ノバ展に「母性」、「轟く砲音(広瀬中佐銅像)」その他旧作を出品。特高警察の干渉が強くなり、ノバ展はこの回で解散。3月、工藤もとと結婚。9月、応召して兵役に服す。支那事変により中支へ騎兵として出征したが、ヒューマニスティックなものと戦争との矛盾に絶えず悩まされ、暗澹たる日々を送る。絵をかくためにではなく、自分の拠りどころとして、水彩絵の具を常に身につけていた。1938年 31歳 1月、長女ひろ子誕生1940年 33歳 兵役解除、以後終戦まで徴用で工場に通い、警備召集にもつく。1941年 34歳 4月、第2回美術文化協会展に「春風のドンキホーテ」、「りんご」を出品。9月、第28回二科展に「窓より」を出品。1943年 36歳 新人画会結成に参加。会員は靉光、麻生三郎、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明、松本竣介の8名。4月、第1回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に「中国人」、「盧山と果実」など5点出品。11月、第2回新人画会展(銀座・日本楽器画廊)に出品。1944年 37歳 4月、次女美直子誕生。9月、第3回新人画会展(銀座・資生堂画廊)に出品。1945年 38歳 3月、東京大空襲により、ほとんど全作品を焼失。6月、再度応召。湘南より松代大本営に至る電話ケーブルを地下に敷設する作業に従事。群馬県の安中町で終戦を迎え、召集解除。1947年 40歳 新人画会のメンバーは自由美術家協会に合流、会員となる。6月、第1回美術団体連合展に、「顔(1)」、「顔(2)」、「友よ手をあげろ」を出品。7月、第11回自由美術展に出品。1948年 41歳 2月、自由美術新作展(銀座・三越)に「5つの像」を出品。5月、第2回美術団体連合会展に「二人は唄う」、「若い男」、「咆える獣」、「おしゃべりな鳥」、「喰いつくもの」、「水底」を出品。10月、第12回自由美術展に「死の静物」、「獲物」、「幼時と乳」を出品。11月、第2回日本美術会アンデパンダン展に「馬」を出品。1949年 42歳 1月、個展(日本橋・北荘画廊)、「風景」、「男と女」、「ガラス鉢の金魚」、「二人」、「窓による女」、「パイプの男」、「神々のアクロバット(アクロバット)」、「怒れる家畜」など油彩画20点、素描ほか32点を出品。5月、第3回美術団体連合展に「涙と月」、「泣いている女」を出品。6月、三女真知子誕生。10月、第13回自由美術展に「夜の群像」、「青い裸婦」、彫刻「作品(1)」~「作品(5)」を出品。1950年 43歳 3月、第1回秀作美術展(朝日新聞社主催)に「夜の群像」が出品される。5月、第4回美術団体連合展に「魚と玉網」を出品。7月、個展(日本橋・北荘画廊)、「重い手」「物乞う人」など出品。8月、自由美術家協会分裂、退会派はモダンアート協会を結成。10月、第14回自由美術展に、「外国の女」、「街の女」などのデッサン、「芽」、「首」などの彫刻計11点を出品。1951年 44歳 1月、第2回秀作美術展に「めばえ」(芽)が出品される。5月、第5回美術団体連合展に彫刻「セラミック」などを出品。8月、自由美術札幌講習会(札幌市西高校)に講師として参加。10月、第15回自由美術展に「マリオネットのドンキホーテ(ドンキホーテ)」「凶兆」を出品。12月、個展(高崎、珍竹林画廊)。12月、アトリエを新宿余丁町林檎園に移す。1952年 45歳 1月、第3回秀作美術展に「凶兆」を出品。5月、第1回日本国際美術展に「黒い行列」を出品。7月、個展(札幌・藤井大丸)。10月、第16回自由美術展に、「はじまり」、「鳩」(彫刻)を出品。11月、第3回群馬県美術展に「作品」を出品。12月、東京国立近代美術館第1回展=日本における近代絵画の回顧と展望=に「黒い行列」(1952)を出品。1953年 46歳 1月、第4回秀作美術展に「はじまり」が出品される。5月、第2回インド国際現代美術展に「凶兆」(1951)などが出品される。(3月、同展国内展示)5月、第2回日本国際美術展に「港町」、「夜」を出品。7月、自由美術7月展に「白い港町」を出品。10月、第17回自由美術展に「人間気化」を出品。10月、鶴岡政男デッサン展(タケミヤ画廊)「男B」、「対話」、「生物」、「刺す」、「街の聖」などのデッサン18点、ガラス絵数点出品。12月、第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に「夜の群像」(1949)、「天使」(1951)、「重い手」(1950)が出品される。(7月、同展国内展示-銀座・松屋)12月、抽象と幻想展-非写実絵画をどう理解するか-(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「芽」(彫刻、1951)が出品される。1954年 47歳 2月、「事ではなく、物を描く」姿勢の表明をする(「美術批評」1954.2月号掲載)。3月、具象と抽象展(養清堂画廊)に出品。5月、第1回現代日本美術展に「落下する人体」(佳作賞受賞)、「死と雲と人」を出品。8月、水彩と素描展(東京国立近代美術館)に「踊り」(1953)、「おかしな生理」(1948)が出品される。6月、ZERO展(タケミヤ画廊)に「ジャンプ」を出品。10月、第18回自由美術展に「雨」、「喰う」を出品。1955年 48歳 1月、第6回秀作美術展に「落下する人体」が出品される。2月、19人の作家=戦後の絵画・彫刻=(東京国立近代美術館)に「アクロバット」(1949)、「喰」(1954)、「馬」(1953)、「死と雲と人」(1954)、「落下する人体」(1954)が出品される。3月、個展(なびす画廊)。デッサンを出品。3月、個展(日本橋・白木屋)戦後作品の回顧。4月、自由美術春季展に「ねむる人」を出品。5月、第3回日本国際美術展に「形態A」、「形態B」を出品。11月、第6回群馬県美術展「たたかい」を出品。1956年 49歳 5月、第2回現代日本美術展に「死者を運ぶ」、「二人」を出品。10月、第20回自由美術展に「釣舟と魚」を出品。11月、第7回群馬県美術展に「眠る人」を出品。11月、日本の風刺絵画展(東京国立近代美術館)に「雨」(1954)が出品される。1957年 50歳 3月、転居(世田谷区)5月、第4回日本国際美術展に「射的」を出品。7月、現代美術10年の傑作展(渋谷・東横)に「落下する人体」(1954)が出品される。10月、第21回自由美術展に「恐怖する人」を出品。1958年 51歳 4月、転居(世田谷区太子堂)5月、第3回現代日本美術展に「海のあやかし」を出品。10月、第22回自由美術展に「銀座をゆく4人の画家」を出品。1959年 52歳 1月、戦後の秀作展(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。2月、グルッペ・ナーベル展に「男と女」、「黒い天使」、「とんがり頭と丸頭」などの彫刻を出品。5月、第5回日本国際美術展に「雨の夜」を出品。10月、第23回自由美術展に「台風」を出品。1960年 4月、超現実絵画の展開(東京国立近代美術館)に「天使」(1954)が出品される。5月、第4回現代日本美術展に「物体」を出品。10月、第24回自由美術展に「人(1)」、「人(2)」を出品。1961年 54歳 1月、第12回秀作美術展に「人(1)」が出品される。4月、鶴岡政男代表作品展(回顧展)(日本橋・白木屋)。「アクロバット」(1949)、「重い手」(1950)など28点出品。5月、第6回日本国際美術展に「刺客」を出品。7月、東京テレビ「美術サロン-心の深層を探る・幻想による美術実験」(構成・江原順、指導・島崎敏樹)に出演。LSDの注射を受け、わきあがる幻想を100号のカンバスいっぱいに黒、グレー、赤、青などで表現した。10月、第25回自由美術展に「突(つく)」を出品。1962年 55歳 5月、第5回現代日本美術展に「作品U1」「作品U2」を出品。6月、近代日本の造形(東京国立近代美術館)に「落下する人体」(1954)が出品される。9月、個展(東京・大丸)。テーマ(パステル展)。「紫の光線」、「香り」、「食卓の人」、「宇宙飛行士」などを出品。10月、第26回自由美術展に「微笑」、「母子」を出品。1963年 56歳 1月、第14回秀作美術展に「紫の光線」が出品される。2月、個展(ロンドン・モントル画廊、飯田画廊主催)パステル画を出品。5月、個展(飯田画廊)。ポコシリーズ、「忙しいポコ」、「ポコブルー」、「やけどしたポコ」、「妖精の棲むポコの巣」など出品。5月、今日の画家たち展(フォルム画廊)に出品。5月、第7回日本国際美術展に「夜の祭典」を出品し、優秀賞を受賞。10月、第27回自由美術展に「妄執」を出品。12月、昭和初期洋画展(神奈川県立近代美術館)に「母性」(1937・1962復元)が出品される。1964年 57歳 1月、第15回秀作美術展に「獣と女」が出品される。1月、個展(飯田画廊)パステル「鳥の帽子の女」、「花の表情」、「猫」、「ドンキホーテ」など出品。4月、第6回現代日本美術展の審査委員をつとめる。5月、第6回現代日本美術展に「仮面のおどり」、「水泳ターン」を出品。7月、山下菊二、前田常作、田口武雄と恐山へ旅行。9月、個展(飯田画廊)恐山シリーズ「光る湖」、「赤い家のある風景」、「深い眠り」、「祭の女」、「祭のオブジェ」、「湖のオブジェ」など20点出品。10月、第28回自由美術展に「うそをつかないという人」を出品。自由美術協会分裂、森芳雄ら38人が新たに主体美術協会をつくる。鶴岡政男、井上長三郎らは残る。1965年 58歳 1月、第16回秀作美術展に「仮面のおどり」が出品される。5月、第8回日本国際美術展に「青いカーテン」を出品し、東京国立近代美術館賞を受賞。5月、近代日本の裸体画(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)が出品される。10月、第29回自由美術館に「出口はどこ」を出品。1966年 59歳 1月、第17回秀作美術展に「青いカーテン」が出品される。1月、個展(村松画廊)。油彩画「船をなめる幽霊」、「めがね」、「夜の運び屋」、「柄的人間」など大作10点を出品。1月、個展(飯田画廊)。パステル画「微笑」、「夜の幻想」などを出品。3月、アトリエ転居(目黒区上目黒)5月、第7回現代日本美術展に「視点A」、「視点B」を出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。10月、東京国際美術展に「柄的人間」(1966)、「青いカーテン」(1965)を出品。10月、第30回自由美術展に「ゴルフ」を出品。1967年 60歳 4月、むさい展(ときわ画廊)に「ねじ」、「しめる」を出品。5月、第9回日本国際美術展に「MEDO」を出品。5月、個展(京都・あづまギャラリー)。油彩、パステル画を出品。6月、個展(広島県福山市・バンカム)。パステル画「顕現」、「夜の散歩者」など出品。7月、近代日本の水彩と素描画展(東京国立近代美術館)に「とうもろこしの人」(1951)が出品される。10月、第31回自由美術展に「クラゲ」を出品。11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。1968年 61歳 3月、転居(杉並区善福寺)。3月、個展(日本橋・日本画廊)。副題「風景」、「標識と指」、「逆づり」、「引っ張る」、「ライフルマン金(ライフルマン)」など8点出品。3月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル小品展「二人の顔」、「石になった二人」、「青い人」、「求心」、「映像」、「黒いめがね」、「桃」、「ネオンバード」などを出品。5月、第8回現代日本美術展に「涙する人」を出品。7月、むさい展(ときわ画廊)に「ふたりは唄う」を出品。10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。11月、個展(大阪・南天子画廊)。パステル画を出品。1969年 62歳 個展(新宿・カドー画廊)。パステル画を出品。4月、転居(大田区大森山王)個展(盛岡)。パステル画を出品。6月、個展(高崎・ファウンデーションギャラリー)。パステル画、油彩画を出品。7月、アトリエ転居(葉山一色)。8月、個展(京橋・南天子画廊)。パステル画を出品。10月、第33回自由美術展に「エジキ」を出品。1970年 63歳 4月、個展(渋谷・画廊代々木の森)。パステル画「ひとつ星」など36点を出品。1971年 64歳 4月、戦後美術のクロニクル展(神奈川県立近代美術館)に「青いカーテン」(1965)が出品される。5月、第10回現代日本美術展に「地表」を出品。1972年 65歳 2月、戦後美術の展開・具象表現の変貌展(東京国立近代美術館)に「重い手」(1950)、「人間気化」(1953)、「青いカーテン」(1965)が出品される。1973年 66歳 5月、現代日本美術展-現代美術20年の展望-に「射的」(1957)、「青いカーテン」(1965)、「涙」(1968)が出品される。1975年 68歳 9月、パステル展(ドイツ・ミュンヘン、K.MORI GMBH主催)。1976年 69歳 1月、4人展(鶴岡政男、藤沢匠、溝田コトエ、山口長男)(港区・愛宕山画廊)に「帰りみち」、「眠る人」、「春の野」、「街灯」、「夜のみち」を出品。5月、戦前の前衛展(東京都美術館)に「リズム」(1935・1949復元)「髯」(1935)が出品される。9月、個展(渋谷・キッドアイラック コレクシオン ギャルリ)に「夜あけ」などのほかデッサンを出品。9月、腹膜炎手術で入院(35日間)。1977年 70歳 3月、肺真菌症のため東大医科学研究所病院に入院。5月、群馬秀作美術展(群馬県立近代美術館)に「夜の群像」(1949)など6点が出品される。6月、現代美術のパイオニア展(東京セントラル美術館)に「リズム」(1935)、「髯」(1935)が出品される。12月、戦後美術の出発展(東京都美術館)に「重い手」(1950)、「二人」(1949)、「夜の群像」(1949)、「化石」、「凶兆」(1951)、「ドンキホーテ」(1951)、「天使」(1951)、「はじまり」(1951)、「黒い行列」(1952)が出品される。1978年 71歳 8月、パステル展(フマギャラリー)。1960年代のパステル画、約30点が出品される。1979年 72歳 7月、パステル展(フマギャラリー)。8月11日~9月24日、群馬県立近代美術館において、鶴岡政男の全貌展開催され、油彩、水彩、パステル、ガラス絵など172点、参考資料6点が出品展示された。9月27日午前7時5分、肺ガンのため東京都台東区下谷病院において死去。

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