本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。 (記事総数 3,120 件)





仲村一男

没年月日:1982/09/22

独立美術協会会員の洋画家仲村一男は、9月22日午後4時、心不全のため、大阪府岸和田市の自宅で死去した。享年71。1911(明治44)年3月31日、大阪府岸和田市に生まれる。30(昭和5)年頃、大阪信濃橋洋画研究所に入り、小出楢重に師事する。38年第25回二科展に「志摩風景」が初入選し、翌年同展に「風景」を出品する。このころから45年まで18年間、朝日新聞社大阪本社に勤務。47年、毎日新聞団体連合展に出品するとともに、第15回独立展に「柿の静物」が初入選し、以後独立展への出品を続ける。49年「大漁風景」「山の駅」を第17回展に出品し、独立賞を受賞、56年同会会員となる。またこの頃に中間冊夫、高橋忠弥、斎藤長三ら10名と「鷹の会」を結成し数年にわたり活動する。67年ヨーロッパを取材旅行し以来、ヨーロッパ風景を多く描き、73年、75年にも西欧、中近東へ取材の旅に出ている。ジォットの作風を深く慕い、画家は独自の作風を生み出す為に独自のメチエを持たなくてはならない、という主張のもとに、砂をまぜたあざやかな色彩の絵の具で、明快な作風を持つ絵を描き続ける。没後の83年4月、大阪市立天王寺美術館で独立美術主催の「仲村一男遺作展」が開催された。

大貫松三

没年月日:1982/08/31

立軌会創立会員の洋画家大貫松三は、8月31日午前1時9分、胃ガンのため、川崎市宮前区の聖マリアンナ医科大学病院で死去した。享年76。1906(明治38)年10月3日、神奈川県愛甲郡に生まれる。25年東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作に師事する。同校3年生在学中の28年、第9回帝展に「女と静物」を出品し、初入選する。31年、同校を卒業。同窓生であった須田寿とは以後も交友を続ける。帝展、文展に出品を続け、37年第1回文展に「子供達」(現在京都市美術館蔵)を、翌年第2回文展に「O先生と孫」を出品し、2年連続して特選となる。しかし、41年、阿以田治修らによって創立された創元会に第1回展から出品して官展と袂を分かつ。同会には49年まで参加するが、同年須田寿、牛島憲之らと共に退会し、立軌会を創立する。また、翌50年、六窓会を創立し、同会会員となる。立軌会には15年ほど在籍した後退会し、以後団体に属さず、個展等を作品発表の場とする。人物、静物を描いた作品が多い。

三雲祥之助

没年月日:1982/08/19

武蔵野美術大学名誉教授、春陽会会員の洋画家三雲祥之助は、8月19日午前11時28分、すい腫瘍のため、東京都杉並区の東京衛生病院で死去した。享年80。1902(明治35)年7月19日、京都市に生まれる。23年京都帝国大学文学部史学科を中退。翌24年、中学時代同級であった批評家田近憲三に誘われ渡仏し、仏文学者小松清を知り、油絵を描き始める。同年10月よりアカデミー・コラロッシに通いシャルル・ゲランに師事。26年サロン・ドオトンヌに初入選する。滞仏中、スペイン、イギリス、スイス、イタリア等を旅行。35年帰国し、春陽会へマヂョルカ島風景を描いた作品を出品するが、36年には第11回国画展に「風景」を出品し褒状を受け、翌年も国展に出品する。39年北京を訪れる。同年より1年間「文芸」に連載された高見順の小説『いかなる星の下に』の挿絵を担当。41年バリ、ジャワなどを訪れ、42年青樹社での個展にその成果を発表する。43年春陽会に「婦人像」を出品して会員に推され、以後同会への出品を続ける。57年日本国際美術展に「パリスの審判」を出品し佳作賞を受賞。72年より82年まで国際形象展にも出品しているほか、美術団体連合展、現代日本美術展にも出品している。美術教育の方面では、38年日本大学芸術科で講師をつとめた他、51年より武蔵野美術大学教授となり、74年退官し名誉教授となるまで長きに渡り後進を指導する。73年には武蔵野美術学園長となった。渡欧中は印象派を目標としたが、戦後は形体を思いきってデフォルメした斬新な画風を展開し、活発な言論活動による理論的影響力もあいまって画界のリーダー格に位置した。晩年はパスキン風の裸婦を多く描いている。『美の秩序』『ピカソ』など著作も多い。春陽展主要出品作1935年 第13回 「マヂョルカの海」「マヂョルカ島デヤの谿」「マヂョルカ島パルマ港の夕暮」1944年 第21回 「ジャハバリーの舞踏諸姿」1948年 第25回 「りんごかご」「アトリエの一隅」「制作」「ぶどう」「静物」1953年 第30回 「婦人座像」「制作」「彫刻家」1958年 第35回 「婦人像」「バラのある静物」「家造り」1963年 第40回 「おお季節よ城よ」「ヴィナスと侍女」1968年 第45回 「オーバード(朝の曲)」1973年 第50回 「手鏡」1978年 第55回 「まどろみ」1982年 第59回 「砂丘と女」

霜鳥之彦

没年月日:1982/08/03

京都洋画壇の最長老で、浅井忠門下の唯一の生存者であった霜鳥之彦は、8月3日老衰のため京都市左京区の自宅で死去した。享年98。本名正三郎。明治17(1884)年3月2日東京市神田区に生まれ、東京府立第一中学校を卒業、この頃すでに浅井忠の図画教科書によって水彩画を独習しており、同35年京都高等工芸学校設立と浅井の教授就任を新聞で知り、京都に移って同校に入学、同38年同校図案科の第一期卒業生となる。在学中から水彩画をよくし同期の間部時雄と併称された。翌39年牧野克次について渡米、翌年にかけてNew York School of Fine and Applied Artsで油彩画と図案を学ぶ。同42年から大正9年までニューヨークのアメリカ自然史博物館に、海洋動物標本模型制作のための写生と色彩に関する技術員として就職。この間、National Academy of Designで夜間デッサンを学び、ニューヨーク水彩画クラブ及びアメリカ水彩画協会展に出品もする。大正9年帰国後京都高等工芸学校講師となり、翌年同校教授に就任、同年文部省留学生として絵画、図案学研究の目的で渡欧し、パリのグラン・ショミエールへ通い、同12年からシャルル・ゲランに師事する。帰国後、同19年に母校の教授を退官、戦後は同27年から33年まで京都学芸大学教授として教鞭をとった。京都府美術工芸功労者であり、同49年には勲三等瑞宝章を受けた。渡米前の水彩画として「出雲路橋」「農村風景(ハネツルベ)」(ともに明治38年)などがあるほか、渡米直後の油彩画に「ハドソン河畔」がある。他に「ロシアの女」(大正12年)、「魚売り」(昭和2年)など。

岡田謙三

没年月日:1982/07/25

東洋的なユーゲニズム(幽玄主義)の画風で国際的評価を得た洋画家岡田謙三は、7月25日午前10時25分、心臓障害のため東京都目黒区の自宅で倒れ、近くの日扇会第一病院で意識不明のまま死去した。享年79。1902(明治35)年9月28日神奈川県横浜市に、貿易商の父嘉蔵、母やすの3男として生まれる。22年東京美術学校西洋画科に入学、同期生に小磯良平、牛島憲之、山口長男、猪熊弦一郎らがおり、そのグループ「上杜会」は現在も続く。在学中の24年渡仏、半年間アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールでデッサンを学び、27年サロン・ドートンヌに「ボートのある海浜風景」が入選、同年秋帰国する。29年第16回二科展に「女の部屋」「夏休み」が初入選、以後戦前は主に二科に出品し、33年特待、34年無鑑査、35年会友、36年推奨、37年会員となり、戦後47年第1回会員努力賞を受賞、洗練された叙情的な作風で注目される。39年昭和洋画奨励賞を受賞し、同年日本大学芸術科講師に招かれた。50年48歳にして渡米、ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、フランツ・クラインらが抽象表現主義を激しく展開していたニューヨークに住む。ここで瀟洒な色彩と日本人独特の感性を反映させた独自の抽象絵画を創作、有力な画商ベティ・パーソンズに認められ、53年ベティ・パーソンズ画廊で第1回個展を開催、大きな反響を呼ぶ。大和絵や料紙装飾の美意識を感じさせる色調とマチエールは、ユーゲニズム(幽玄主義)の名でもてはやされ、アメリカの激しい抽象表現主義最盛期の中で静的画家として一躍脚光を浴びる。更に55年サンパウロ・ビエンナーレ出品、ピッツバーグ国際美術展ガーデン・クラブ賞受賞(「軟材」)、また同年コーコラン美術館でイサム・ノグチとの2人展開催、57年コロンビア絵画ビエンナーレ1等賞、58年ベネチア・ビエンナーレで日本人として初めてアストーレ・マイエル賞、ユネスコ絵画コンテスト最高賞をそれぞれ受賞、59年以降ホイットニー美術館の現代アメリカ絵画展出品、60年フォード財団美術賞受賞と、各種の国際展に出品し世界的評価を得るに至る。殊に戦後美術の中心のニューヨークでイサム・ノグチに続く日本人画家として活躍し、海外で活動しながら精神的日本回帰を果たした稀有の画家とされる。67年「渡米後の回顧展」により第8回毎日芸術賞を受賞、69年病気のため帰国して以後は、東京とニューヨークを往復、82年春、東京・福岡で大回顧展が開かれた。代表作品に「シルク」(47年)「決」(56年)「矢」(56年)「元禄」(58年)「夕顔」(62年)「井筒」(66年)などがある。また作品はホイットニー美術館、ボストン美術館、コロンビアミュージアムほか全米各地、及び日本各地の美術館に収蔵されている。若い頃より心臓が弱かったが、82年3月前立セン肥大手術のため東京・築地の国立がんセンターに入院、退院後自宅で療養していた。年譜1902 9月 28日、神奈川県横浜市に生まれる。父嘉蔵、母やす。5男3女の三男である。父は貿易商であった。1908 この年、東京市外品川町に転居する。1915 3月 森村学園初等部を卒業する。4月 明治学院中等部に入学する。1921 3月 明治学院中等部を卒業する。1922 4月 東京美術学校西洋画科に入学する。1924 1月 3日、横浜出帆の箱根丸で渡仏の途に就く。半年ほど、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールでデッサンを学ぶ。1927 この年、サロン・ドートンヌに「ボートのある海浜風景」が入選する。秋、パリから帰国する。1928 5月 日本橋三越において個展をひらき、「傘」など67点を発表する。この年、帝展に出品したが落選する。1929 9月 第16回二科美術展に「女の部屋」「夏休み」が初入選する。1930 4月 日本橋三越において個展をひらく。9月 第17回二科展に「白衣の女」が入選する。1931 9月 第18回二科展に「婦人像」「婦人像」「花売」が入選する。1932 9月 第19回二科展に「バルコン」「舞」「アコーデオン」が入選する。「人物」1933 9月 第20回二科展に「舞台」「朝」「少女」が入選し、特待に挙げられる。1934 9月 第21回二科展に「野辺」「海と馬」「假装」を出品(無鑑査)する。1935 4月 東京府美術館開館10周年記念現代綜合美術展覧会に「舞」(1932)を出品する。9月 第22回二科展に「野外習作」「おはなし」「ブランコ」を出品、会友に推薦される。1936 9月 第23回二科展に「室内」「時」「二人」を出品、推奨に挙げられる。12月 日動画廊において第1回個展をひらき、「花売」「窓」「パリー裏街」「パリーセーヌ河」「子供」「少女」「黄色の帽子」「ノートルダム」「花売」「読書」「巖」「セーヌ河」「静物」「少女」「女」「腕環」「ノートルダム」「夏の裏街」「帽子」「果実」「花」「雨のノートルダム」「海浜」「岬」「顔」「顔」「顔」「花売」「高原」「花売」「花売」「冬」「河」「山」「嵐」「岬」「入江」「白い帽子」「花」「花」「湖」「花」「首飾」「バラ」「青の着物」(以上小品45点)を発表する。1937 4月 明治、大正、昭和三聖代名作美術展覧会(大阪市立美術館)に「馬」(1934)を出品する。5月 上杜会第10回展(東京府美術館)に「花を持てる少女」を出品する。9月 第24回二科展に「つどひ」「海辺」「裸婦」を出品、会員に推挙される。12月 日動画廊において第2回新作発表展をひらき、「山中の村」「二人」「路地」「マスク」「花売」「都会」「湖」「薔薇」「灯」「巴里セーヌ河」「パリの裏街」「秋」「街の夜」「花束を持てる少女」「河流」「夕暮」「柵にもたれる少女」「肘をつける女」「話」「森」「田園風景」など30点を出品する。1938 9月 第25回二科展に「野外裸婦」「練習」「幕合」を出品する。12月 日動画廊において第3回新作発表展をひらき、「花売」「巴里風景」「鏡」「湖畔の城」「騎馬」「曲芸」「橋のある風景」「裏街」「山中の村」「山道」「湖水」「果実を運べる女」「海」「花園」「風」など46点を出品する。1939 2月 20日、昭和13年度昭和洋画奨励賞を受賞する。9月 第26回二科展に「母と子」「高原」「二人の女」を出品する。12月 日動画廊において第4回新作発表展をひらき、「花瓶」「山」「馬」「橋のある風景」「花売(其一)」「港」「花束」「花売(其二)」「海」「花売(其三)」「花売(其四)」「二人」「庭」「二人の女」「花売(其五)」「帽子」など24点を出品する。この年、日本大学芸術科の講師に招かれる。1940 8月 第27回二科展に「小屋」「ぶらんこ」を出品する。10月 紀元二千六百年奉祝美術展に「花売」を出品する。12月 日動画廊において第5回新作発表展をひらき、「花売」「並木」「二人」「籠」「噴水」「装」「山」「収穫」など26点を出品する。1941 春、熱河を中心にハルピン、奉天に写生旅行をする。9月 第28回二科展に「森」「曲芸師」「小供」を出品する。11月 仏印巡回日本油絵展に「果実を持てる女」を出品する。12月 日動画廊において第6回新作発表展をひらき、「街(承徳)」「夕のラマ廟」「街の広場(承徳)」「屋根(承徳)」「ラマ廟」「裸婦」「白衣」「ツンガリ河附近(ハルピン)」「土塀(承徳)」「城内附近(奉天)」「ラマ廟附近」「ラマ廟と人家」「丘(承徳)」「黄色い壁の家(ハルピン)」「丘と道(承徳)」など31点を出品する。1942 春、きみ夫人と一緒に渡満し、奉天、新京、大連に旅行し、写生する。9月 第29回二科展に「北市場」「北市場」「門口」を出品する。1943 9月 第30回二科展に「群像習作」を出品する。10月 第6回文部省美術展覧会に「風影」を出品する。1946 9月 第31回二科展に「楽屋の一隅」「紅色の上衣」を出品する。1947 9月 第32回二科展に「シルク」「春」を出品、第1回会員努力賞を受賞する。12月 北荘画廊において個展をひらく。1948 3月 二科春季展に「二人裸婦」を出品する。9月 第33回二科展に「ノクターン」「詩人」を出品する。12月 北荘画廊において第2回個展をひらく。1949 1月 読売新聞社主催ベスト・スリー洋画展(銀座、松坂屋)に出品する。2月 読売新聞社主催第1回日本アンデパンダン展(東京都美術館)に「アトリエ」を出品する。9月 第34回二科展に「五人」を出品する。1950 1月 現代美術自選代表作十五人展(読売新聞社主催)に「花売」(1931)「野外裸婦」(1938)「ラマ寺」(1941)「紅色の上衣」(1946)「春」(1947)「シルク」(1947)「窓辺」(1948)を出品する。2月 北荘画廊において個展をひらく。3月 1949年度選抜秀作美術展に(朝日新聞社主催)「アトリエ」を出品する。8月 11日パリ時代の旧友ソール・シャーリーの保証で、きみ夫人と共に横浜から渡米、ニューヨークのシャーリーの家に滞在する。以後ニューヨークに住む。1952 「竹」1953 11月 ニューヨークのベティ・パーソンズ画廊で第1回個展をひらき、「ナンバー3」「アブストラクション ナンバー7」「ナンバー19」など14点を発表する。1954 5月 グッゲンハイム美術館の『ヤンガー・アメリカン・ペインターズ』展に選ばれて「至」を出品する。「足跡」1955 5月 第3回日本国際美術展(毎日新聞社主催)に「水彩NO.1」を出品する。7月 第3回サンパウロ・ビエンナーレに出品する。ピッツバーグ国際美術展に「軟材」を出品、ガーデン・クラブ賞を受賞する。この年、ベティ・パーソンズ画廊で第2回の個展をひらき、また、ワシントンのコーコラン美術館でイサム・ノグチとの2人展をひらく。「横断」、「時」、「銀」、「ディセンディングブルー」、「黒と象牙色」1956 秋、ベティ・パーソンズ画廊で第3回個展をひらく。「浮遊」、「矢」、「世紀」、「素」、「主張」、「決」、「リターニング ライフ」、「竹」1957 3月 コロンビア絵画ビエンナーレ(サウス・カロライナ州、コロンビア美術館)で1等賞を受賞する。5月 アメリカン・アカデミー・オブ・アーツ・アンド・レターズとナショナル・インスティチュート・オブ・アーツ・アンド・レターズ主催の展覧会に「生地」「夜の絵巻」「天使」を出品する。6月 ミネアポリス・インスティチュート・オブ・アーツの『アメリカ絵画-1945~1957年』展に出品する。11月 世界の中の日本抽象美術展(朝日新聞社主催)に「作品」を出品する。「杵 ナンバー1」「記憶」1958 1月 7日、7年ぶりに帰国する。5月 第3回現代日本美術展(毎日新聞社主催)に「元禄」を出品、国立近代美術館賞を受賞する。6月 『抽象絵画の展開』展(国立近代美術館)に「菱」(1958)を出品する。第29回ベネチア・ビエンナーレに8点を出品、アストーレ・マイエル賞を受賞する。また、ユネスコ絵画コンテストの最高賞も獲得した。同月、日本橋高島屋において個展をひらき、28点を発表する。9月 5日、プレジデント・フーバー号で横浜出帆、アメリカへ向う。12月 ピッツバーグ国際美術展に「洞穴への入口」を出品し、主催者のカーネギー財団に買い上げられる。この年、二科会を退会する。「湧」、「間隔」、「交叉」、「還」、「花」、「緑と白」1959 4月 アメリカ抽象6人展(ギャラリー・キムラ)に「明け方NO.2」を出品する。11月 ベティ・パーソンズ画廊において第4回個展をひらき、「断崖」「波」「青」「夜の湖」「呼吸」など15点を発表する。12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1959年度展』に出品する。「英雄」「雨」1960 1月 フォード財団が全米の優秀な芸術家を選んで授与する美術賞の受賞者6人の1人に選ばれ、1万ドルを贈られる。この年、アメリカ合衆国の市民権を獲得する。1961 5月 第6回日本国際美術展に「扇」を出品する。10月 ピッツバーグ国際美術展の審査員となり、「白と金」を出品する。10月 20日、東京に帰る。12月 彌生画廊において個展をひらき、「聞く」など9点を発表する。1962 この年、ベティ・パーソンズ画廊で第5回個展をひらき、「点」、「夕顔」、「コンポジション」、「セット」、「側」、「結」、「斜」、「支」、「夢」、「帰」、「時」、「自身」などを発表する。「朱」1963 9月 フレデリクトン(カナダ)のビーバーブルック美術館で開催されたダン現代絵画国際展(サー・ジェームズ・ダン財団主催)に「子孫」(1959)を出品、ダン国際賞を受賞する。(同展覧会は、11月に、ロンドンのテート・ギャラリーでも開催された。)12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1963年度展』に「夕顔」を出品する。「赤と青」1964 1月 ベティ・パーソンズ画廊で第6回個展をひらき、「垂直」「白の間」「緑」「三つの白」「交」「聞く」「滝」「白と黒」「方向」「オレンジ」「側」「最初から」「時」「軌道」(以上14点)を発表する。6月 ホイットニー美術館の『アメリカ美術の25年-1939~1964年』展に「記憶」(1957)を出品する。この年、ホテル・ニューオータニのために、壁画「季」を制作する。「垂直」1965 1月 第16回秀作美術展に「季」を出品する。6月 二科50周年回顧展(新宿ステーションビル)に「バルコン」(1932)「少女」(1933)を出品する。10月 『在外日本作家展-ヨーロッパとアメリカ』(東京国立近代美術館)に「最初から」(1964)を出品する。アルブライト・ノックス美術館において回顧展をひらき、1931年から1965年にいたる出品54点を展示する。12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1965年度展』に「オープン」を出品する。「隅田川」、「夜の向日葵」、「銀と金」、「梅」、「銀」、「重」1966 5月 日本橋高島屋において、『岡田謙三展-1952年から1965年まで-』(朝日新聞社主催)が開催される。「静物」(1952)「予想」(1953)「ナンバー19」(1953)「野2」(1953)「アブストラクションNO.7」(1953)「アブストラクションNO.12」(1953)「早春」(1954)「ナンバー36」(1954)「飛1」(1955)「池」(1955)「矢」(1956)「決」(1956)「世紀」(1956)「生地」(1956)「夜の絵巻」(1956)「素」(1956)「杵NO.1」(1956-57)「エニグマ」(1958)「洞穴への入口」(1958)「門」(1959)「英雄」(1959)「夜の湖」(1959)「明」(1959)「夢」(1962)「返る」(1962)「夕顔」(1962)「三つの白」(1963)「羽衣」(1964)「木の精」(1964)「垂直」(1964)「重」(1965)「梅」(1965)「銀と金」(1965)(以上34点)を展示する。この展覧会は、6月に国立近代美術館京都分館で、8月から9月にかけてハワイのホノルル・アカデミー・オブ・アーツで、10月から12月にかけてサンフランシスコのM・H・デ・ヤング記念美術館で、翌1967年の1月から2月にかけてテキサス大学美術館で開催された。6月 近代日本洋画の150年展(神奈川県立近代美術館)に「翳」(1961)を出品する。9月 28日、ニューヨークへ帰る。「黒と白」、「井筒」、「黒と銀」1967 1月 16日、「渡米後の回顧展」の成果に対して第8回(1966年度)毎日芸術賞を贈られる。3月 ベティ・パーソンズ画廊で第7回個展をひらき、「物語」「井筒」「青とオレンジ」「三本の白線」「含」「高山寺」「黒と白」「雲と子供」「朝の梅」「雨後」「二つの輪」など14点を発表する。5月 第9回日本国際美術展に「雲と子供」を出品する。12月 ホイットニー美術館の『現代アメリカ絵画1967年度展』に出品する。1968 「帆掛舟」1969 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第8回個展をひらき、「松風」「月」「帆掛航」「赤とオレンジ」「能」「梅」「草」「小屋」「青い四角形」「赤と緑」「雲」「島」「桔梗」「地平」「夜明けの光」(以上15点)を発表する。5月 第9回現代日本美術展の『現代美術20年の代表作』に「元禄」(1958)を出品する。同月、東京に帰る。11月 ニューヨークに帰る。以後、毎年ニューヨークと東京を往復する。「風」1970 「紫」、「赤」、「グレーと線」、「松」、「三つの四角形」1971 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第9回個展をひらき、「機」「波」「橋掛」「松」「赤」「青」「グレー」「三つの四角形」「桔梗」「葉」「竹」「岩」「繁み」「風景」などを発表する。1972 9月 『現代の眼-近代日本の美術から』展(東京国立近代美術館開館20年記念)に「季」(1964)を出品する。「子供と雲」、「緑 ナンバー2」、「時期」、「ピンク」、「朝顔」1973 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第10回個展をひらき、「朝顔」「秋」「ピンク」「菖蒲」「流れ」「芽」「宿り」「青と黄」「若竹」「島」「昇」「内」など15点を発表する。5月 『現代日本美術展-現代美術20年の展望』に「聞く」(1961)を出品する。6月 『戦後日本美術の展開-抽象表現の多様化』展(東京国立近代美術館)に「元禄」(1958)「聞く」(1961)を出品する。「入江」、「オレンジ」、「枯野」1974 1月 『アメリカの日本作家』展(東京国立近代美術館)に「入江」(1973)「オレンジ」(1973)「金と銀」(1973)を出品する。1976 3月 ベティ・パーソンズ画廊で第11回個展をひらき、「青と緑」「赤より」「オレンジと黄」「浮」「現在と過去」「池」「ボート」「梅」など15点を発表する。「オレンジ ナンバー2」1978 10月 ベティ・パーソンズ画廊で第12回個展をひらき、「二双舟」「木立」「秋」「朝」「昼」「夕」「オレンジ」「暗緑色」「垣根の朝顔」など16点を発表する。「流れ」、「菖蒲」、「夜明け」1979 2月 ギャルリームカイにおいて個展をひらき、「枯野」「流れ」「白と茶」「島」「朝」「竹」「対照」「朝顔」「葉」「朝顔」「草」「影」「音」「喜び」「雁皮」「池」「萩」「動」「かきつばた」「緑と紫」「互い」「青」「ほたる草」「すみれ」「黄」(以上25点)を発表する。「春風」1980 「流れ」、「ソフトネス」などを制作する。1981 2月 ギャルリームカイにおいて第2回の個展をひらき、「青」「緑」「オレンジ」「音」「ターニング・ライト」「交」「和」「調和」「緑と濃金」「夕日」「凧」「依」「雪の朝」「実」「浸」「簡」「柔」「昔と今」「香」「平安」「銀と金」「青と緑」「銀河」「ドオビー(ニューメキシコ)」「ニューメキシコ」「玉虫」「秋」(以上27点)を発表する。(「岡田謙三展」(82年)図録、土屋悦郎編年譜より)

三木弘

没年月日:1982/07/17

元自由美術協会会員の洋画家三木弘は7月17日午前6時40分、老衰のため、京都市左京区の自宅で死去した。享年82。1900(明治33)年5月8日和歌山県那賀郡に生まれ、京城龍山小学校を経て、和歌山県立農林学校を卒業する。20(大正9)年太平洋画研究所に入り、中村不折、岡精一に師事する。22年本郷洋画会研究所に移り、岡田三郎助に師事する。26年韓国よりフランスに渡り、アカデミー・ランソンでビッシェール・ロッシュの指導を受ける。28(昭和3)年第15回二科展に「巴里風景」を出品し初入選する。29年より京城に住す。38年第26回展まで二科展に出品。戦後は自由美術協会に参加し、同会には61年第25回展まで出品を続ける。同会在籍中、協会誌「自由美術」において活発な言論活動を行なっていたが、戦後、京都で「都教聞」の文化部・美術記者となり、後に月刊美術誌「汎美術」を発刊。54年資生堂で個展を開いた他、66年クリーブランド、67年東京において個展を開催。戦後、欧米から押しよせる物質文明の中で画家が浅薄なモダニズムへ向かうことに警鐘を鳴らし続けた。

鬼頭鍋三郎

没年月日:1982/06/14

日本芸術院会員、日展顧問、光風会名誉会員の洋画家鬼頭鍋三郎は、6月14日胃ガンのため名古屋市の名大付属病院で死去した。享年82。具象一筋に、戦後の「バレリーナ」シリーズや、昭和40年代以降の舞子シリーズで知られる鬼頭は、明治32(1899)年6月18日愛知県愛知郡の地主の家に生まれた。名古屋商業学校在学中から油絵に親しみ、大正5年同校卒業後明治銀行へ入行するが同10年に退職。同12年上京し第10回光風会展に初入選、この頃友人富沢有為男の親戚にあたる岡田三郎助に師事するに至る。翌13年第5回帝展に「騎兵調練図」が初入選、この頃から辻永に師事する。昭和2年第14回光風会展で光風会賞を受賞、同6年光風会会員となり、同9年第15回帝展に「手をかざす女」で特選、同18年の第6回新文展の審査員をつとめた。同19年陸軍美術展に「小休止」で陸軍大臣賞を受賞、同年陸軍版画部派遣画家として南支に従軍する。戦後は同20年から名古屋市に居住し、光風会展、日展を中心に制作発表を行い、とくに、同26年から始まる「バレリーナ」シリーズで飛躍の転機をつかみ、同31年、前年の第11回日展出品作「アトリエにて」で日本芸術院賞を受賞、同38年日本芸術院会員となる。同43年愛知県立芸術大学教授となり、同48年定年退職後は客員教授をつとめる。この間、同41年の第9回日展に「舞妓」を出品、以後、鬼頭芸術の集大成ともいうべき舞子シリーズを展開する。また、同45年勲三等瑞宝章を受け、同年光風会理事長(-同55年まで)に就任、同50年日展顧問となる。同55年、「画業六十年記念鬼頭鍋三郎回顧展」(朝日新聞社主催)が、東京銀座松坂屋他で開催される。主要出品歴1924年 第5回帝展 「騎兵調練図」(初入選)1926年 第7回帝展 「夏花」1928年 第9回帝展 「窓際の静物」1929年 第10回帝展 「裸体」1930年 第11回帝展 「背向きの裸婦」1931年 第12回帝展 「赤子」1933年 第14回帝展 「画室の女」1934年 第15回帝展 「手をかざす女」(特選)1935年 第二部会展 「午後」1936年 文展招待展 「室内」1937年 1回新文展 「海辺」(無鑑査)1938年 2回新文展 「午後」1939年 3回新文展 「裁縫」1940年 紀元二千六百年奉祝美術展「黒帽子の女」1941年 4回新文展 「マンドリンを持つ女」1943年 6回新文展 「縫物」1944年 陸軍美術展 「小休止」(陸軍大臣賞)1947年 3回日展 「椅子による」(招待)1948年 4回日展 「裸婦」(依嘱)1949年 5回日展 「仲秋」1950年 6回日展 「踊子」1951年 7回日展 「バレリーナ」1952年 8回日展 「二人のバレリーナ」(参事)1953年 9回日展 「鏡の前」1955年 11回日展 「アトリエにて」1956年 12回日展 「マドモアーゼルL」1957年 13回日展 「室内」1958年 1回新日展 「前庭にて」(評議員)1959年 2回新日展 「室内少女」1960年 3回新日展 「立秋」1961年 4回新日展 「夏休み」1962年 5回新日展 「棚の前」1963年 6回新日展 「紫葳花」(理事)1964年 7回新日展 「夏草の庭」1965年 8回新日展 「春装譜」1966年 9回新日展 「舞妓」1967年 10回新日展 「舞妓」1968年 11回新日展 「舞妓」1969年 1回改組日展 「芦刈」(常任理事)1970年 2回改組日展 「舞」1971年 3回改組日展 「舞」1972年 4回改組日展 「舞」1973年 5回改組日展 「皷」1974年 6回改組日展 「宵山に」1975年 7回改組日展 「皷」(顧問)1976年 8回改組日展 「屏風の前」1977年 9回改組日展 「宵山車」1978年 10回改組日展 「正月」1979年 11回改組日展 「舞姿」1981年 13回改組日展 「屏風祭」

田中阿喜良

没年月日:1982/06/10

行動美術協会会員、サロン・ドートンヌ会員の洋画家田中阿喜良は、心筋こうそくのため、6月10日パリの病院で死去した。享年63。本名中島阿喜良。1918(大正7)年8月20日大阪府枚岡市に生まれ、37年大阪府立高津中学校を卒業。38年姫路高等学校に入学するが、40年同校を中退し京都高等工芸学校図案科に入学、43年同校を卒業する。画家を志しながら応召し、3年間のブランクを経た後、47年第2回行動美術展に「庭」を初出品する。55年同展に「棺」「枷」「母子」を出品し、同会会員となる。垂直線、水平線を強調した構図、簡略化した形体把握、輪郭線の使用、色の限定など、この時期の作品には、渡仏後完成され、「土のついたジャガイモのようだ」と評された田中の作風に通ずる点が既に見られる。56年神奈川県立近代美術館で開かれた「今日の新人展」に招待出品、翌57年同館主催のシェル美術賞展に「杭」「父子」を出品し一等賞を得る。また、同年の行動展出品作「層」は行動美術賞を受け、いわゆる戦中派世代の旗手と目される。58年春、戦後再開された外国美術紹介が活発となったこと等に触発され、渡仏。59年、サロン・ドートンヌに出品するとともに、グラン・エ・ジューヌ・オージュルディ展に招待出品する。また、同年フランス・ビルヌーブ1等賞を受賞。60年モナコ国際展絵画部グランプリ、仏国ポンタヴァン賞を受賞、61年サロン・ドートンヌ会員となる。荒目カンバスとビニール系の水性塗料を用いた素朴なマチエルを持つ白い下地に、パリの庶民を描き出す独特の作風は63年頃に定着をみる。62年、パリ・ジャン・カステル画廊と契約、翌年エルベ画廊と契約する。日本においては、朝日国際具象展、同秀作美術展、毎日現代美術展、同国際美術展に招待出品する他、67、69、71年には東京、名古屋で個展を開いている。75年には神奈川県立近代美術館で「田中阿喜良展」が開催される。行動展出品目録1947 第2回 「庭の朝」1948 第3回 「戸口にて」1949 第4回 「静物」1950 第5回 「裸婦」1953 第8回 「浜」1955 第10回 「棺」「枷」「母子」1956 第11回 「トロイの馬」「ふだ」1957 第12回 「層」1958 第13回 「寓話」「すきま」1963 第18回 「カルタ」「露天商人」「馬鈴薯を売る人」1967 第22回 「市場」「語り」1968 第23回 「闘牛を見る人」1970 第25回 「アプレミディ」1972 第27回 「マッソン」1977 第32回 「魚」1978 第33回 「ろば」1979 第34回 「メトロのプラットホーム」1980 第35回 「壷」「手」1981 第36回 「トルッフを売る」

池田洛中

没年月日:1982/05/27

日本画家池田洛中は、5月27日午後4時25分、老衰のため京都市伏見区の自宅で死去した。享年78。1903(明治36)年8月31日京都市中京区に生まれ、本名彦太郎。22年京都市立絵画専門学校に入学、卒業後同校研究科に進み、34年修了する。この間、26年の第1回聖徳太子奉讃美術展に「公園」が入選、33年第14回帝展「公園夏日」、36年文展鑑査展「白鷺城」が入選する。また、33年、堂本印象の画塾東丘社に入塾するが、方針の相違から41年6月に退塾、同年8月川端龍子の青龍社に入る。青龍社展にはほぼ毎年出品し、二曲屏風「獅子」(41年)や「洛北印象」(44年)等、また戦後は入賞作「千体仏」(59年)「列天」(同年)「蘭」(61年)のほか「東福寺山門」などを発表する。風景・花鳥画を得意とし、36年青龍社社人に推挙、66年川端龍子の死による青龍社解散後は個展を中心に活動、東京、京都、大阪等で個展を開催している。

菊池隆志

没年月日:1982/05/16

創画会会員の日本画家菊池隆志は、5月16日午後1時16分、肺ガンのため東京都清瀬市の結核研究所付属病院で死去した。享年71。1911(明治44)年2月26日、日本画家菊池契月の次男として京都に生まれ、彫刻家菊池一雄は兄にあたる。28年第9回帝展に「初夏遊園」が初入選し、以後連続入選、34年第15回帝展「室内」が特選を受賞する。新文展にも39年第3回展より入選し、翌41年第4回文展に「母子像」を無鑑査出品、この間、36年猪原大華らと共に京都市立美術工芸学校教員となっている。戦後に至り、初め日展に出品していたが、48年山本丘人、上村松篁、福田豊四郎らと共に創造美術を結成、創立会員となる。その後51年新制作派協会と合流し新制作協会日本画部となるが、日本画部は74年新制作を離脱し創画会を結成した。人物、風景画を得意とし、新制作での作品に「雲」(51年)「裸婦」(52年)「姉弟」(53年)「氷雪の壁」(61年)ほか、創画会では「死海の遺跡QUMRAN」(74年)や壮大なロマンチシズムを感じさせる代表作「交響詩画、嵐の海」(第1章・76年、第2章・78年)等を発表している。

菅創吉

没年月日:1982/04/29

生涯団体に属さず、自由な制作態度で独自の足跡を残した洋画家、菅創吉は、4月29日午後2時57分胃ガンのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年77。1905(明治38)年5月6日、兵庫県姫路市に旧高知藩士彼末亀太郎の四男として生まれる。本名、彼末己之助。12年飾磨尋常小学校に入学。20(大正9)年姫路市男子高等小学校を卒業する。父の影響により幼い時から画家を志し、秋吉蘇月に師事する。25年上京し、講談社等の図版カット、政治漫画などを描く。38(昭和13)年、満州鉄道牡丹江鉄道局に勤務し、付近を旅行し制作する。45年広島県豊田郡瀬戸田に引上げ、翌46年より神戸進駐軍に勤務。50年神戸市の家屋が失火により全焼し、東京に居を移す。この時、多くの作品を失っている。上京後2年半程毎日新聞等に挿絵を描いていたが、59年なびす画廊(東京)で個展を開き、その際出品された「夢」がその後の方向を決定する転期となり、以後ほとんど毎年、油絵を中心とする個展を画廊で開催する。63年ワールド・ビジョン総裁ピアスの招きにより渡米。ロスアンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークのギャラリーで個展を開き、71年にはブルックリン美術館に出品する。この間、66年アメリカ永住権を獲得する。滞米中、カナダ、メキシコを訪れ、72年ヨーロッパをまわって帰国。帰国後第一回目の個展を中井三成堂画廊(姫路)で開いた後、個展等を通じて積極的に作品を発表。76年兵庫県立近代美術館で開催された「兵庫の美術家・県内洋画壇回顧展」に「乾坤」「回生」が招待出品され、82年には静岡県伊東市池田20世紀美術館で「菅創吉の世界」展が開かれた。画家の死はこの会期中のことであった。滞米中から手がけたコラージュ、アッサンブラージュは晩年にオブジェ、彫刻を製作するまでに展開し、画材、形式ともに枠にとらわれない制作態度を貫いた。簡略化されたユーモラスな形と渋い色彩による画面の中に、物や行為についての認識の再検討を促す鋭い洞察がこめられている。

宮内義雄

没年月日:1982/04/27

立軌会同人の洋画家宮内義雄は、4月27日心不全のため千葉県銚子市の自宅で死去した。享年55。大正15(1926)年7月1日千葉県銚子市に生まれ、昭和25年東京教育大学芸術科を卒業した。同41年東京・風月堂で最初の個展を開催、翌年立軌会に参加し、以後毎年同展に出品する。同43年安井賞候補展に出品した他、三月会展(同46-56年)、新鋭選抜展(同46年)、太陽展(同52-53年)、国際形象展(同54-56年)などに招待出品する。一連の漁港シリーズで知られ、たびたび個展での制作発表を行い、同56年には東京・銀座、資生堂ギャラリーで個展を開催した。この間、死去の年まで、千葉県立銚子高等学校で教えた。

網谷義郎

没年月日:1982/04/06

新制作協会会員の洋画家網谷義郎は、4月6日午前3時30分、神戸市の神戸大学付属病院で死去した。享年59。1923(大正12)年10月21日兵庫県武庫郡に生まれる。48(昭和23)年京都大学法学部を卒業。在学中の47年、法学を学ぶことに疑問を抱き、新制作協会会員桑田道夫を訪れ絵を学び始める。48年第1回関西新制作派展に出品、受賞、また第12回新制作展に「七階の窓から」で初入選する。以後新制作展に出品を続け55年第19回展では「座る」「立つ」で新作家賞を、59年同第24回展では新制作協会賞を受け、60年同会会員となる。また、57年第1回安井賞候補展に出品、以後7回出品を続ける。68年イタリアを、71年、76年フランスを訪れる。61年以降毎年関西において個展を開催し、79年には水彩画集(フランス、ロマネスクの聖堂)を刊行する。初期には風景を描いたが53年頃より人物を主なモチーフとし、キリスト教を思想的背景として人の存在を見つめた作品を描き続けた。最晩年には画題そのものをキリスト教に求めた作品を残している。

藤田尚志

没年月日:1982/03/14

日本画家藤田尚志は、3月14日午前3時45分、老衰のため京都市右京区の自宅で死去した。享年84。1897(明治30)年12月10日岡山県倉敷市に生まれ、本名隆。文展・帝展で華々しい活躍をしていた田中頼章に1921年師事するが、23年関東大震災を機に東京を離れ、京都で西村五雲に入門する。また京都市立絵画専門学校に学び、29年卒業、研究科に進み35年同科を修了する。この間31年師五雲の画塾が晨鳥社となるに及び、初めよりこれに参加している。36年第1回新文展に「蕭池清韻」が初入選し、翌37年第2回文展にも「晨潭霧深」が入選、戦後も日展を中心に出品し、50年第6回日展「白椿」、53年第9回日展「向日葵」、55年「池」などを発表、花鳥画を得意とした。京展などにも出品したが、晩年、70年頃より病気がちのため大作は残していない。

中村貞以

没年月日:1982/03/12

院展の美人画家中村貞以は、3月12日午後11時40分腎不全と敗血症のため、大阪市阿倍野区の大阪市立大学付属病院で死去した。享年81。1900(明治33)年7月23日大阪・船場で鼻緒問屋を営む中村清助の第四子として生まれ、本名清貞。幼時期両手に大やけどを負い、指の自由を失ったため、以後絵筆を両手ではさんで描くことになる。1909年浮世絵師長谷川貞信に絵の手ほどきを受け、19年日本美術院同人の美人画家北野恒富に入門する。翌20年第6回大阪美術展で「微笑」が初入選、デビュー作となり、22年の同展で「お玉」が第一席となる。院展では23年第9回試作展に「仙女」が初入選、第一席を受賞し、この折、手の不自由なことへの大観の励ましに感じ、以後大観に深い尊敬の念を抱き続ける。翌24年院友推挙、32年第19回院展で「朝」が日本美術院賞第一賞を受賞、引続き「待つ宵」(33年第20回院展)「朧」(34年第21回院展)等現代風俗を扱った清新な作品を発表し、36年同人となる。恒富が主宰する白燿社にも出品し、34年には自ら画塾春泥会を結成、主宰者となった。戦前の作品には、上記のほか「夏趣二題」(39年第26回院展)「帯」(40年第27回院展)「秋の色種」(同年紀元2600年奉祝展)などがあり、また40年、42年朝鮮に旅行し風物を写生している。戦後に至り画境は充実の度を加え、院展出品作の「螢」(46年)「夏姿」(47年)「爽凉」(56年)「露」(62年)、「香を聞く」(68年)や「浄春」(47年現代美術展)「猫」(48年第4回日展)「雪」「黒髪」(共に57年)など、典麗清雅な趣をたたえる美人画を次々に発表した。58年より日本美術院評議員をつとめ、60年第45回院展「双婉」が文部大臣賞受賞、また65年第50回院展「シャム猫と青衣の女」は翌年第22回日本芸術院賞を受賞、美人画の第一人者としての地位を確かなものとする。この間51年檀一雄の連載小説『真説石川五右衛門』(新大阪新聞)の挿絵を担当、55年インドを旅行し古代仏教美術やインド風俗を見聞、70年には真宗大谷派難波別院本堂余間の襖絵「春・得度の図、秋・往生の図」を描いている。51年大阪府芸術賞、60年大阪市民文化賞、72年勲四等旭日小綬章受章、77年横山大観記念館理事、国立国際美術館評議員、78年より日本美術院理事をつとめていた。年譜1900 7月23日、大阪、船場に生れる。本名清貞。父清助。母貞の第4子で家業は先代から始められた鼻緒問屋を営んでいた。母貞は大垣藩々士の娘1909 浮世絵師として知られた長谷川貞信(旧名小信)に手ほどきを受ける。1911 大阪市南区大宝寺小学校卒業。1916 3月、私立大阪経理学校語学部(英語科)中退。1919 2月、日本美術院同人北野恒富に師事。1920 第6回大阪美術展«微笑»初入選。1922 第8回大阪美術展«お玉»第1席受賞。1923 第10回日本美術展«春»、第9回日本美術院試作展«仙女»初入選、第1席受賞。第9回大阪美術展«少女嬉戯»(双幅)、第2回白燿社展«少女座像»1924 第11回院展«大原女»院友に推挙。第3回白燿社展«朝»高島屋賞受賞。第10回大阪美術展«焚火»«凉相撲»、第1回大阪市美術協会展«梅妃»1925 母貞逝去。第11回院試作展«夢»、聖徳太子奉賛展«拳を打つ»(双幅)、第2回大阪市美術協会展«春»、第4回白燿社展«娘»1926 第12回院試作展«加賀の千代»、第5回白燿社展«月»1928 島成園門下の高橋千代子と結婚、第13回院試作展«婦女の図»、第6回白燿社展«文鳥»1929 第16回院展«立女»、第7回白燿社展«少女舞戯»1930 長女青子誕生。第17回院展«昼»1932 第19回院展«朝»(二曲一双)日本美術院賞第1賞受賞。第16回院試作展«追い羽根»1933 第20回院展«待つ宵»、第17回院試作展«蛇皮線»1934 画塾春泥会を結成。京都、私立長岡美術専門学校講師となる(昭和18年まで)。第21回院展«朧»(二曲一双)、第18回院試作展«口紅»1936 改組第1回帝国美術院展«五月雨»4月、日本美術院同人推挙される。第23回院展«海女»、第2回春泥会«伊勢物語»«緑雨»1937 第24回院展«ゆうべ»1938 第25回院展«浴後»(焼失)、第22回院試作展«二少女»(二曲一隻)、第5回院同人作品展«少女»1939 父清助逝去。大阪市帝塚山に転居。第26回院展«夏趣二題»、第6回院同人作品展«花菖蒲»、第5回春泥会«夜なが»(二曲一双)1940 第1回朝鮮旅行。第27回院展«帯»、紀元2600年奉祝展«秋の色種»奉祝展買上げ。春泥会小品展«少女(お手玉)»、第5回青松会«霽間»、第6回春泥会«黒髪»1941 第28回院展«吉野»、第7回春泥会«妓生三姿»、第1回朝陽美術展«さみだれ»、仏印巡回展«夜長»1942 第2回朝鮮旅行。第29回院展«酸漿»、日本画家報国会軍用機献納展«花»、日本美術院同人軍用機献納展«月»1943 文部省戦時特別展«大空へ»、関西邦画展«芸能譜»、日本歴史画展«袈裟»、昭華会新作展«春信»1945 院小品展«黒髪»1946 第31回院展«螢»1947 第32回院展«夏姿»、第2回院小品展«清坦»、現代美術展«浄春»文部省買上げ。5月、師北野恒富急逝。1948 第4回日展審査員となる。«猫»出品。第33回院展«立秋»、日本現代美術展«三味線»1949 第34回院展«双頬»、第4回院小品展«芳春»1950 第35回院展«髪»、第5回院小品展«春あらた»、第9回春泥会«髪»1951 第36回院展«立秋»、第6回院小品展«一紫»、第10回春泥会«初夏»。この年、新大阪新聞に連載小説檀一雄作『真説石川五右衛門』の挿絵を担当。秋に大阪府芸術賞を受賞。1952 第37回院展«華清之浴»、第7回院小品展«浴後»、第11回春泥会«露»(素描)1953 第38回院展«蒼炎»、第8回院小品展«春»、在エジプト日本大使館«鏡獅子»、第12回春泥会«やよい»1954 1月 約2か月間インドに旅行しネール首相に«黒髪»献呈。第39回院展«浄韻»。第13回春泥会«花»«インド婦人»(スケッチ)1955 第40回院展«遥拝»、第10回院小品展«印度婦人»、第14回春泥会«夕べ»、在ペルー日本公使館«娘道成寺»1956 第41回院展«爽凉»、第11回院小品展«草色の帯»1957 第42回院展«粉粧»、第1回個展(大阪高麗橋・東京日本橋、三越)«雪»«月»«花»«春(舞妓図)»«夏(浴後)»«秋(黄秋)»«黒髪»、第16回春泥会«黒髪»(草稿)1958 第43回院展«春抄»。この年より日本美術院評議員となる。第17回春泥会«惜春»1959 第44回院展«踊り»、院同人展«夕顔»1960 第45回院展«双婉»文部大臣賞受賞。11月、大阪市民文化賞受賞。1961 第46回院展«首夏»、第16回院春季展«春宵»1962 第47回院展«露»、第17回院春季展«春日»、院同人展«婦人»1963 第48回院展«黒いレースの女»、第18回院春季展«鉄漿»1964 第49回院展«清韻は響く»、第19回院春季展«舞妓可代»、丁亥会«薊»«松韻»1965 第50回院展«シャム猫と青衣の女»日本芸術院買上げ。1966 4月、前年院展出品作«シャム猫と青衣の女»および多年の業績に対して日本芸術院賞受賞。7月、画集『粉粧』出版。第51回院展«螢»、五都展«首夏»1967 第52回院展«白と赤の朝»、第18回春泥会«初夏»(草稿)1968 第53回院展«香を聞く»文化庁買上げとなる。第23回院春季展«少女と犬»、第19回春泥会«浄心»1969 第54回院展«白い口紅»、第20回春泥会«舞妓加寿子»1970 5月、真宗大谷派難波別院本堂余間の襖絵«春-得度の図・秋-往生の図»を完成、南御堂に納められた。7月、天皇、皇后両陛下住吉大社御参拝に際し、«御田植神事田舞の図»献上。第55回院展«牛»、第25回春の院展«舞妓»、第21回春泥会«縞衣の女»1971 第56回院展«簪»、第26回春の院展«初姿»1972 沖縄に旅行。3月、勲四等旭日小綬章受賞、第57回院展«砂丘に倚れる»、第27回春の院展«おんな»、第23回春泥会«南国の女»1973 第58回院展«占う»、第2回個展東京・大阪三越«海碧し»«舞妓»«白磁»«点心»«地唄舞(菊の露)»«春一枝»«春»、第28回春の院展«舞»、第24回春泥会«首夏»1974 第59回院展«白鳥の詩»、第29回春の院展«雪»、小倉遊亀・寺島紫明・中村貞以自選三人展「おんな」(神戸そごう・朝日新聞社主催)開催、第25回春泥会«近松の女»1975 第60回院展«湯浴みして»、第30回春の院展«春近し»、第26回春泥会«K婦人»1976 第61回院展«鵜飼をみる»、第31回春の院展«水温む»、第27回春泥会«初夏»1977 横山大観記念館理事、大阪・国立国際美術館評議員となる。第62回院展«ある婦人»、第16回錦装会日本画展«秋立つ頃»、第28回春泥会«祇園の女»1978 3月、台湾に旅行。日本美術院理事となる。第33回春の院展«台北小姐»(関千代『中村貞以』現代日本人画全集6 集英社より)

田原輝

没年月日:1982/03/06

日展会員、東京教育大学名誉教授の洋画家田原輝は、3月6日心不全のため東京の板橋区医師会病院で死去した。享年81。本名輝夫。明治33(1900)年3月15日佐賀県佐賀郡に生まれ、大正11年東京高等師範学校図画手工専修科を卒業。大正14年第7回帝展に初入選、以後、帝・文展に出品し、昭和16年新文展無鑑査となる。また、同14年第3回海洋美術展に「出漁の前」で海軍大臣賞を受賞、同17年東京高等師範学校教授(同24年東京教育大学教授)に就任。戦後は日展に依嘱出品し、同28年第9回展に「吽」で特選、朝倉賞、同30年「寂光」で特選を受け、同34年日展会員となる。その後、主に仏像をモチーフに連作を発表、とくに臼杵の石仏に取材した作品で知られる。日展出品作に「天燈鬼」(同34年)、「臼杵の佛」(同46年)、「大日山石仏」(同52年)などがある。同38年退官後、東京教育大学名誉教授となり、同46年には勲三等瑞宝章を受章する。

岩田栄吉

没年月日:1982/02/24

サロン・ナシオナール・デ・ボザール審査員、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダン会員の洋画家岩田栄吉は、81年9月パリで肺ガン手術を受けた帰国後、療養していたが、2月24日午後5時20分川崎市立井田病院で死去した。享年53。1929(昭和4)年1月27日東京市大森町に生まれる。慶應義塾普通部に入学し中学時代から示現会会員中村新次郎に素描を学び、画家を志す。しかし、父親の意を汲み、慶應大学工学部電気工学科へ進み、51年同科を卒業する。大学在学中も画業は捨てず、寺田春弌、久保守に油絵を学ぶ。51年慶應大学を卒業した年、東京芸術大学油画科に入学、1-2年は小磯良平、3-4年は山口薫、伊藤廉に師事。55年同科を首席で卒業する。卒業制作「ナルシス」はサロン・デ・プランタン賞を受賞。57年同校専攻科伊藤廉教室を修了し、同校油画科副手となる。同年9月、芸大入学と同時に通学し始めたアテネ・フランセを修了し、フランス政府給費留学生として渡仏する。フランスではパリ国立美術学校スーヴェルビー教室に学び、59年同校を修了する。その間エコール・デ・ルーブルにも通う。渡仏後数年間は風景画を描いていたが、60年「グランマニエールの静物」を描いて以後、静物画に転ず。62年サロン・ナシオナル会員となり、63年以降はサロン・コンパレゾン、サロン・テール・ラティーヌに招待出品する。また、この頃よりフランス人画家アンリ・カディウとの親交を通じてパントル・ド・ラ・レアリテのグループに入り、トロンプ・ルイユの方向へ歩み出す。65年サロン・アンデパンダン会員となり、69年サロン・ナシオナルでドロワ賞、75年同ファルマン賞を受賞。日本においては、70年日本橋三越で個展、70、71年国際形象展、71年安井賞候補展、大橋記念展、76年大橋賞展に出品し、77年セントラル絵画館で第2回個展を開く。73年東京芸術大学油画科、創形美術学校で講師をつとめる。芸大在学中から岡鹿之助を尊敬し、渡仏後親交を結び、また、フェルメールの作風に影響されるところが大きい。代表作に「十字架の人形」(1966)、「赤いジャケットの人形」(1968)、「ローソクと地球儀」(1976)がある。

水谷淳

没年月日:1982/02/24

大調和会創立運営委員の洋画家水谷淳は2月24日午前7時37分、胆管炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年61。茨城県行方郡に1920(大正9)年11月17日に生まれ、工学院大学卒業後、44(昭和19)年、里見勝蔵、武者小路実篤に師事する。61年には、1927(昭和2)年11月に高村光太郎、武者小路実篤らによって設立され翌年10月の第2回展を最後に解散した大調和会を再興すべく創立委員となった。再興大調和会第1回展は翌1962年2月上野公園都美術館において開かれ現在に至っている。66-67年単身ヨーロッパへ写生のため自動車旅行。69年富士短期大学美術部顧問を務めた。71年には群馬県六合村小倉にアトリエを構え制作に没頭し、画風に一転機を画した。73年渡欧、又75-76年香港で制作し、海外の展覧会にも出品している。78年には和光ギャラリーにおいて「画業35年展」が開催された。翌79年、水上勉著作になる新聞小説『椎の木の暦』の挿絵を担当、原画展は81年小田急新宿店に於て開かれた。黒の輪郭線と厚く塗り重ねた原色による明るく輝くような画面には、フォーヴィズム及びルオーを日本に紹介した師里見勝蔵の影響がうかがえる。

佐藤真一

没年月日:1982/02/11

行動美術協会会員、武蔵野美術大学教授の洋画家佐藤真一は、2月11日午後3時30分、肺ガンのため、東京都狛江市の慈恵医大付属病院で死去した。享年67。1915(大正4)年12月8日、愛知県瀬戸市に生まれ、40(昭和15)年3月、京都大学経済学部を卒業する。京大在学中、美術部に属し、須田国太郎の指導を受け、37年第24回二科展に「黒衣坐像」で初入選する。同展には40年第27回展まで出品し、後、応召。終戦後、47年第2回展より行動美術協会に参加し、翌48年、同会会友に推挙され、52年、同会会員となる。57年渡仏し、パリを中心として1年あまり滞在する。帰国後、人物を主要モチーフとし、垂直、水平に物を配置する従来の構図をさらに充実させ、人間味あふれる作品を描いて画壇における位置を確かなものとする。74年4月より死去するまで武蔵野美術大学教授として教鞭をとる。76年9月、不慮の交通事故にあい、約2年間、制作活動の中断を余儀なくされ、78年ころから後遺症に苦しみながら制作を再開する。「男たち」(54年)、「浜」(56年第11回行動展出品)など、働き、生きることを見つめ、安定した構図と堅牢なマチエールを持つ作風を示す。

三浦巖

没年月日:1982/01/30

日本水彩画会会員、パリ、ル・サロン無鑑査の水彩画家三浦巖は、1月30日午後6時、食道ガンのため東京都港区三田の済生会中央病院で死去した。享年65。1917(大正6)年大阪市に生まれ、弘前中学校、第三高等学校を経て、41(昭和16)年、東京大学文学部東洋史学科を卒業。同年同大学院へ進学した。大学院在学中の42年より本郷絵画研究所に学び、49年第37回日本水彩展においてみずゑ賞を受賞し、日本水彩画会会員となった。51-54(昭和26-29)年同会委員を務め、64(昭和39)年渡仏、一年間パリに滞在する。70(昭和45)年「薬師寺の塔」がル・サロンで銀賞を受け、翌71年「パリ風景」が金賞を受賞、以後無鑑査となる。主に風景をモチーフとし、日仏両国で活躍。また、63(昭和38)年以降、文筆にも親しみ、画文集『絵になる時』(63年、七曜社)『大空画室』(68年、美術出版社)『白日夢』(私家版)を著し、77(昭和52)年には『東大石版画集』を刊行、また、技法書として『水彩画法十二ケ月』(80年、渓水社)を出版している。

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